🏹68〕─2─日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか。~No.218 

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 日本民族は、国際言語である中国語を学んだが民族言語である日本語にこだわり中国語を拒否した。
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 日本と朝鮮は違っていた。
 日本は世界から孤立の道を選んだ。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
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 2024年4月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか
 松岡 正剛
 日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか
 © 現代ビジネス 提供
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 漢に学び、漢から離れる
 ここでは、いくつもの日本のコンセプトが「和漢の境」をまたぐことによって成立してきたという顛末を話したいと思います。
 和漢の境をまたぐとは、中国(漢)と日本(和)の交流が融合しつつ、しだいに日本独自の表現様式や認知様式や、さらには中世や近世で独特の価値観をつくっていったということです。
 これはおおざっぱには、次のようなことを意味しています。アジア社会では長らく中国が発するものをグローバルスタンダードとしての規範にしてきたのですが、そのグローバルスタンダードに学んだ日本が、奈良朝の『古事記』や『万葉集』の表記や表現において、一挙にローカルな趣向を打ち出し、ついに「仮名」の出現によって、まさにまったく新たな「グローカルな文化様式」や「クレオールな文化様式」を誕生させたということです。しかも、その後はこれを徹底して磨いていった。何を磨いたかというとクレオールな「和漢の境」を磨いていったのです。
 なぜ、このようなことをしたのか。なぜそんなことが可能になったのか。たんに知恵に富んでいたわけではないのです。
 二、三の例で説明します。
 たとえば禅宗は中国からやってきたもので、鎌倉時代には栄西道元はじっさいに中国に行って修行もしています。しかし、日本に入って各地に禅寺が造営されるようになると、その一角に「枯山水」という岩組みや白砂の庭が出現します。竜安寺大徳寺が有名ですが、このような庭は中国にはないものです。
 中国の庭園(園林と総称します)は植物も石もわんさとあります。日本の禅庭は最小限の石と植栽だけでつくられ、枯山水にいたっては水を使わずに石だけで水の流れを表現します。つまり引き算がおこっているのです。
 お茶も中国からやってきたものでした。栄西が『喫茶養生記』でその由来を綴っている。しかし日本では、最初こそ中国の喫茶習慣をまねていたのですが、やがて「草庵の茶」という侘び茶の風味や所作に転化していきました。
 またそのための茶室を独特の風情でつくりあげた。身ひとつが出入りできるだけの小さな躙口を設け、最小のサイズの床の間をしつらえた。部屋の大きさも広間から四畳半へ、三帖台目へ、さらには二帖台目というふうになっていく。こんなことも中国の喫茶にはありません。ここにも引き算がおこっているのです。
 侘び茶や草庵の茶に傾いた村田珠光は、短いながらもとても重要な『心の文』という覚え書のなかで、そうした心を「和漢の境をまぎらかす」と述べました。たいへん画期的なテーゼでした。
 古来、日本には中国からさまざまな建具が入ってきました。衝立や板戸です。たいていは頑丈な木でできているのですが、日本はそこから軽い「襖」や「障子」を工夫した。桟を残して和紙をあてがったのです。これらは1970年代以降の日本の技術シーンで流行した「軽薄短小」のハシリです。
 このように、日本は「漢」に学んで漢を離れ、「和」を仕込んで和漢の境に遊ぶようになったのです。
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 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
 関連するビデオ: 初の日米比首脳会議 中国の行動に「深刻な懸念」 連携強化へ (テレ朝news)
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 2024年4月12日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「日本の文明」に圧倒的な衝撃を与えた「3つ目の黒船」の正体…史上「最初で最大」の文明的事件
 松岡 正剛
 © 現代ビジネス 提供
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 史上最初で最大の文明的事件
 日本という国を理解するためには、この国が地震や火山噴火に見舞われやすい列島であることを意識しておく必要があります。いつどんな自然災害に見舞われるかわからない。近代日本の最初のユニークな科学者となった寺田寅彦が真っ先に地震学にとりくんだのも、そのせいでした。日本はフラジャイル(壊れやすい)・アイランドなのです。
しかも木と紙でできあがった日本の家屋は、火事になりやすい。燃えればあっというまに灰燼に帰します。すべては「仮の世」だという認識さえ生まれました。けれども、それゆえに再生可能でもあるのです。こうして復原することは日本にとっては大事な創造行為になったのです。熊本城の破損や首里城の炎上は心を痛める出来事でしたが、その復原こそは多くの人々の願いとなった。そのため「写し」をつくるという美意識が発達します。
 ひるがえって、日本列島は2000万年前まではユーラシア大陸の一部でした。それが地質学でいうところのプレートテクトニクスなどの地殻変動によって、アジア大陸の縁の部分が東西に離れ、そこに海水が浸入することで日本海ができて大陸と分断され、日本列島ができあがったと考えられています。
 このような成り立ちをもつゆえに、日本列島が縄文時代の終わり頃まで長らく大陸と孤絶していたという事実には、きわめて重いものがあります。日本海が大陸と日本を隔てていたということが、和漢をまたいだ日本の成り立ちにとって、きわめて大きいのです。
 その孤立した島に、遅くとも約3000年前の縄文時代後期までには稲作が、紀元前4~前3世紀には鉄が、4世紀後半には漢字が、いずれも日本海を越えて大陸からもたらされることになったという話を、『日本文化の核心』第1講でしておきました。「稲・鉄・漢字」という黒船の到来です。
 とりわけ最後にやってきた漢字のインパクトは絶大でした。日本人が最初に漢字と遭遇したのは、筑前国(現在の福岡県北西部)の志賀島から出土した、あの「漢委奴国王」という金印であり、銅鏡に刻印された呪文のような漢字群でした。
 これを初めて見た日本人(倭人)たちはそれが何を意味しているかなどまったくわからなかったにちがいありません。しかし中国は当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので(このグローバルスタンダードを「華夷秩序」といいます)、日本人はすなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。
 ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、途中から変わってきた。日本人はその当時ですでに1万〜2万種類もあった漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、縄文時代からずっと喋っていた自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、それをかぶせるように読み下してしまったのです。
 私はこれは日本史上、最初で最大の文化事件だったと思っています。日本文明という見方をするなら、最も大きな文明的事件だったでしょう。ただ輸入したのではなく、日本人はこれを劇的な方法で編集した。
 中国語学習ムーブメント
 漢字の束を最初に日本(倭国)に持ってきたのは、百済からの使者たちでした。
 応神天皇の時代だから4世紀末か5世紀初頭でしょう。阿直岐が数冊の経典を持ってきた。当時の日本は百済と同盟関係になるほどに親交を深めていました。
 阿直岐の来朝からまもなく、天皇の皇子だった菟道稚郎子がこの漢字に関心をもち、阿直岐を師と仰いで読み書きを習いはじめました。これを見た応神天皇が、宮廷で交わしている言葉を文字であらわすことに重大な将来的意義があると感じて、阿直岐に「あなたに勝る博士はおられるか」と尋ねたところ、「王仁という秀れた者がいる」と言います。さっそく使者を百済に遣わしてみると、王仁が辰孫王とともにやってきた。
 このとき『論語』『千字文』あわせて11巻の書物を持ってきた。この『千字文』というのは、たいへんよくできた漢字の読み書きの学習テキストです。私も父に教えられて書の手習いがてら、いろいろ学びました。
 王仁は「書首」の始祖となります。その後も継体天皇7年のときに来朝した五経博士の段楊爾、継体10年のときの漢高安茂、欽明15年のときの王柳貴というふうに、何人もの王仁の後継者が日本に来ました。
 このことは、見慣れない「文字」とともに「中国儒教の言葉」がやってきたことを意味します。そうして朝廷に中国語の読み書きができる人材がいよいよ出現してきたのです。
 それなら、こうした外国語学習ムーブメントが日本の中に少しずつ広まって、みんなが英会話を習いたくなるように、やがて中国語に堪能な日本人(倭人)がふえていくはずです。
 実際、たしかにそういうリテラシーの持ち主はふえたのですが(貴族階級や僧侶に)、だとすれば今日の日本人が英会話をし、英語そのままの読み書きができるのと同じように、多くの日本人が中国語の会話をするようになって当然だったのですが、そうはならなかった。
 中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだしたりした。まさに文明的な転換がおこったのです。
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 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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