🏹23〕─3・D─何故モンゴル帝国は日本を侵略したのか。蒙古襲来と日露戦争の幾つかの類似点。~No.75 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 大陸世界では、現代日本人が信じている「大国の良心」や「大陸の矜持」など存在しない。
 それは、中国共産党やロシアを観れば一目瞭然である。
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 世界的侵略植民地帝国の元(モンゴル)とロシアは、辺境の小国日本との戦争ではなく日本との友好的交易を望んでいた。
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 江崎道朗「戦没学徒からの宿題
 左派系への違和感
 世界における国家、民族の興亡の歴史を学べば分かることだが、自由と独立を勝ち取ろうと奮闘した国家と民族は生き残り、その努力を怠った国家と民族は滅んだ。
 日本が現在の独立を保ち、自由と繁栄を享受できるのは、先人たちの無数の奮闘の歴史があったからだ。そんな自明の、しかし意外と誰も意識しない冷厳な事実を私が意識できるようになったのは家庭環境の影響が大きかった。
 ……」(令和6年4月号『月刊 正論』)
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 2024年4月4日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「蒙古襲来750年:モンゴル帝国はなぜ極東の島国・日本を攻めてきたのか
 持田 譲二(ニッポンドットコム)
 現在の中国から東ヨーロッパまで、ユーラシア大陸にまたがる版図を誇ったモンゴル帝国。13世紀にチンギス・ハンが創始者となった巨大帝国は、5代皇帝フビライ・ハンの治世になると、海を越え極東の島国・日本に攻め込んできた。今から750年前、日本は史上初めて海外から本格的な侵攻を受けたのである。
 南下を迫られたフビライ
 元の皇帝フビライ國立故宮博物院所蔵)と北条時宗像(円覚寺所蔵)
 1206年、チンギス・ハンは武力でモンゴルの諸部族を統一。中央アジアの草原に大帝国がこつぜんと姿を現わした。2代皇帝オゴタイ以降も領土の拡大意欲は、とどまるところを知らず、最強の騎馬軍団が万里の長城を越えて華北の金を滅ぼした。さらに、ヨーロッパに手を伸ばしロシア諸侯国を支配下に入れたほか、41年には「ワールシュタットの戦い」でドイツ・ポーランド連合軍を撃破。間近に迫られた西欧キリスト教社会は大きな衝撃を受けた。
 モンゴル帝国の版図と南下政策
 領土の広がりを今に伝えるのが、長崎県北部の鷹島(たかしま)沖海底で見つかった直径13センチほどのずしりと重いモンゴル軍の投石弾だ。回回砲(かいかいほう)と呼ばれるアーム式の投石機で飛ばす仕組み。この兵器は、フビライモンゴル帝国西部のペルシャから技術者を招いて作らせたと言われ、後の対日攻撃にも持ち込まれた。その威力は南宋攻撃の際、城壁に穴をあけるほど強力だったという。
 投石弾の実物(左)と回回砲の模型(右)。重りの力でアームが跳ね上がり、石弾を飛ばす。地元の高校生が実験したところ、44メートル飛んだという=いずれも長崎県松浦市埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
 帝国の領土はユーラシア大陸ほぼいっぱいに広がったため、やがてチンギスの血族の間で、東西に分割統治された。東のアジア大陸を治めたのが孫のフビライだ。兄である先帝の死去に伴う後継者争いで、フビライはライバル候補を追い落とすため、領土のさらなる拡大という戦功を挙げる必要に迫られた。中国大陸を南進して漢民族国家の南宋と対峙したのである。
 日宋の同盟関係にくさび
 てつはう=松浦市埋蔵文化財センター所蔵(筆者撮影)
 後継争いに勝ち、5代皇帝に就いたフビライは1271年、国号を「元」に改めた。朝鮮半島の高麗を制圧するとともに、南宋を支配すべく南下政策を取った。その際、元にとって目障りだったのが、南宋と文物交流が盛んな日本の存在だった。元は「日宋の同盟関係にくさびを打ち込みたかったのではないか」と、蒙古襲来の研究で知られる元九州大学大学院教授の服部英雄氏は話す。
 服部氏によると、中でも元が神経を尖らせていたのは、日宋貿易だ。火山国の日本は火薬の原料となる硫黄の産出量が多かった。南宋はこれを輸入し、火器を装備して元と闘っていた。元としては軍事上の観点から日宋貿易を遮断する必要に迫られたし、自らも日本との交易を望んでいた。
 元は「てつはう」という火器を作り出している。直径13センチ程度の陶器製の球体に、硫黄を使った火薬が詰められ、さく裂する仕組みだ。
 また、「黄金の国・ジパング」観が日本に触手を伸ばした理由との説もある。13世紀に生まれたベネチアの商人マルコ・ポーロはアジアに進出し、『東方見聞録』を著わしたことで知られる。マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。
 広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。
 親交か侵攻か
 蒙古国牒状写本(国立公文書館所蔵)
 元を中心とした東アジアの国際情勢に当時の日本は巻き込まれようとしていた。鎌倉幕府や朝廷は、思いもよらなかったのではないか。
 1268年にはフビライ名で日本に国書「蒙古国牒状」が届いた。
 「天帝の慈しみを受ける大蒙古国皇帝(フビライ)が、書簡を日本国王に差し上げる。私の考えでは、昔から小国の君主は、国境を接していれば、ひきつづき意志を通じて友好につとめてきた。(中略)高麗は私の東の属国である。日本は高麗に近接し、国の初め以来、時には中国とも通交してきた。だが、私の治世には一度も使いを派遣してよしみを結んだことはない。(中略)今後は互いに訪問することで友好を結び、親睦を深めることを願うものである。また、聖人(皇帝)は世界全体を一つの家とするものである。互いによしみを通じなくては、どうして一つの家だといえよう。軍事力を用いようとは、だれが好んでするだろうか。(『詳説 日本史史料集』=山川出版=より抜粋)」
 この国書は、元には日本と友好関係を結びたい意思があるようにも読める。その半面、元が朝鮮半島の高麗を攻めて属国化したことをさりげなく伝えるとともに、求めに応じなければ日本へ武力行使も辞さない構えを示している。
 元の使者から国書を受け取った幕府は判断を朝廷に託したが、朝議の結果、返書は出さないこととなり、使者も引き返させた。服部氏は「日本の主な海外情報源は南宋から渡ってくる禅僧だ。彼らは(侵略者の)元について、よくは言わなかったのだろう。日本としても南宋と手を組んでいるつもりだった」とみる。
 一方、アジア史の専門家の間では、元の国書にしては「実に穏やかな文面である。一種の挨拶状に近い」(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下)』、講談社現代新書)と受け止められている。国書を無視した態度は「普通の外交ならば、向こう(元)は面白くないはず。執権の北条時宗が使者を出していたら、事態はどうなったかは分からない」と服部氏は言う。幕府は、元の硬軟織り交ぜた姿勢の意図を慎重に探るところまで考えが及ばなかったようだ。
 ひょっとしたら戦争は起きずに済んだかもしれないが、「外交」経験のない幕府には限界があった。元は計6回も国書や使者を送ってきたのに対し、幕府は一度たりとも返答をしなかった。そして、1271年には日本侵攻の最後通告が送られてきたのである。
 内憂外患
 戦闘前夜の日本と元の動き
 日本の外交権限は当時、一義的には朝廷にあるとされていたが、幕府の関与なしに対処方針は決められなかったはずだ。ところが、北条支配の鎌倉幕府は内部に問題を抱え、思わぬ「外敵」の登場に十分な対応ができなかったとみられる。
 北条氏は唯一のライバル、三浦氏を滅ぼし、絶頂期を迎えたのも束(つか)の間、内紛が起きてしまう。5代執権の北条時頼には時輔(ときすけ)という長男がいた。だが、側室の子という理由から、正室の子である弟の時宗が執権(※1)の座を引き継ぎ、「ねじれ」が生じた。元から国書が届いたのと同じ1268年のことだった。
 その後は元との緊張関係が一挙に高まった重要な時期だったにもかかわらず、時宗は異母兄の時輔が恨みを抱いていると警戒。72年には時輔を討ち、北条家内の反時宗派も一掃した。「いろいろな勢力がひしめき合っていた幕府も、これ以降は時宗得宗(北条家の直系)の権力が強化された」(鎌倉歴史文化交流館の大澤泉学芸員)。幕府は迫り来る元の脅威にようやく態勢を整え始めた。異国警固番役を設け、九州に所領を持つ御家人らに九州北部の警戒に当たらせたのである。
 一方のフビライはそのころ、属国の高麗に対し、軍船の建造を命じていた。戦いは間近に迫っていた。(第2回に続く)
 (※1) 時宗は幼少だったため、時頼の後は中継ぎとして長時(6代)、政村(7代)が執権に就き、これを経て時宗は8代執権となった。
●道案内
・鎌倉歴史文化交流館:JR横須賀線鎌倉駅西口から徒歩10分。毎週木曜には、学芸員が午前10時から展示解説のギャラリートークをしている。日曜・祝休日は休館。観覧料は一般400円、小・中学生150円。
円覚寺:JR横須賀線北鎌倉駅そば。1282年、執権・北条時宗が無学祖元禅師を招いて開山した禅寺。敵味方に関係なく、蒙古襲来の殉死者を弔う目的があった。「鎌倉五山」の第二位に当たる。
 【Profile】
 持田 譲二(ニッポンドットコム)
 ニッポンドットコム編集部。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量、ラーメン食べ歩き。
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 何時の時代でも、如何なる地域でも、大国が小国に求める友好と平和とは、同じ権利を持った対等関係ではなく服従・従属の上下関係である、その為に外交交渉は武力と戦争をチラつかせた脅迫的交渉になる。
 小国にとって、軍事力で恫喝する大国の思惑(戦争をせずに降伏させる)など知った事ではない、進撃してくる大軍を侵略軍として母国と同胞を守り助ける為に戦争を仕掛けていた。
 大国は、小国との戦争における犠牲者を少なくする為に、抵抗する一つの都市を攻略すると住民を皆殺しにし、掠奪をおこない、放火して灰燼に帰し、人が住めないように廃墟にした。
 小国は、大国の残虐行為に恐怖し、国民の命を救う為に、抵抗する事を諦め無条件降伏して属国となるか領土の一部となるかった。
 高麗は、生き残る為に、名誉も面子も捨て、恥も外聞も捨て臣下の道を選んだ。
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 蒙古(中国)・高麗(朝鮮)連合軍は、対馬壱岐・北九州で日本人を虐殺し女性や子供を戦利品として乱取りしていた。
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 日本人は、旧宋国人(揚子江流域中国人)は助け、死亡すれば懇ろに葬ったが、高麗人(朝鮮人)は惨殺し死体は捨てた。
 日本人の高麗人(朝鮮人)への偏見・差別の本質は、敵意・憎悪である。
 前期倭寇は、日本人の高麗人(朝鮮人)への復讐と報復であった。
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 日本は、古代から朝鮮や中国の侵略を受けていた。
 刀伊の入寇応永の外寇
 歴史的事実として、日本にとって隣国の中国、朝鮮、ロシアは「敵」であった。
 専守防衛とは、消極的自衛戦争であった。
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 日本にとって、蒙古襲来は侵略軍を日本本土に引き入れて日本人に犠牲者を出しながら戦う消極的自衛戦争であり、日露戦争は日本人に犠牲者を出さない為に日本国外で侵略者と戦う積極的自衛戦争であった。
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 蒙古軍の戦略は、友好と交易を望まない国を征服する為に、侵略軍を派遣して敵国の一つの都市を攻略し女子供に関係なく住民を皆殺しにして、敵国と敵国人に恐怖を与えて無条件降伏させる事であった。
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 高麗(朝鮮)の生き残り戦略とは、大陸の中華帝国と小国日本と間に存在する緩衝国としてモンゴルの忠誠を誓う事であった。その為には日本が中華帝国に征服されては困るのである。
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2018-06-02
🎵26:─1─アムール川大虐殺事件。ジョン・へイ宣言。シベリヤ鉄道敷設と朝鮮国内対日軍事基地建設。大津事件。1899年~No.61No.62・ @ 
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 日露戦争の端緒となった、江戸時代後期の日露関係。
 日清戦争韓国併合は、日本の対露戦略から日本が仕掛けていた積極的自衛戦争であった。
 NHK 英雄たちの選択 日本の運命を決めた「選択」に迫る!
 「検証!200年前のロシア危機〜露寇事件  松平定信3つの意見書」
 江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷地各地を襲撃する事件が起きた。通商を要求してのことだった。このとき意見を求められた前老中首座・松平定信の3つの献策から幕府の選択に迫る
 文化4年(1807)夏、江戸幕府が震撼した。蝦夷地各地にあった幕府の出先がロシア船に襲撃されたのだ。ロシア使節レザノフの通商要求を幕府が無下に拒絶したことがきっかけだった。幕府守備隊は反撃もできずに敗北、無力ぶりをさらす。通商に応じなければ更なる攻撃を行うと予告もあった。このとき意見を求められたのが前老中首座の松平定信。残された3つの献策からは、事件が幕府の対外政策をいかに変えたかが浮かび上がる。
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 日露戦争における勝利の条件は、沖縄の琉球人と北海道のアイヌ人であった。
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 元寇における勝利の条件は、反天皇と反鎌倉幕府の日本人・武士団であった。
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 2014年6月 産経新聞「関西歴史事件簿
 元寇文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為
 (上)朝鮮人が日本で“殺戮”…から続く
 九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。
 侵略される町々
 文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。
 最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。
 前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。
 ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。
 一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢に立たされる。
 日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜(おきのはま)まで攻め込まれるなど、やりたい放題に暴れられる。
 この戦いで箱崎(筥崎)神社が焼失する。博多の中心部でも元や高麗の兵による殺害や略奪、放火などが横行したことで地は血に染まり、空は炎で真っ赤に染まったともいわれている。
 相次ぐ残虐行為
 このような行為は博多の前の戦場だった対馬壱岐でも同様で、高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。
 日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。
 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述は残酷で生々しい。
 奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとにした記述のため、異論も出ている。
 ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした残虐な話は数知れず。
 壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったともいわれている。
 さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。
 突然に消えた敵
 戦いは元・高麗連合軍が優位のまま夜に入った。ここで双方とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を設けることなく、全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまったのだ。
 しかも、一夜明けるとあれだけ湾内を埋め尽くしていた船がすべて姿を消していた。まるで忍術を使ったように影も形もなくバッと消えていたのだ。
 当然、今日も戦いが続くと思っていた日本の御家人らは、キツネにつままれたようにあっけにとられたことだろう。
 元の記録には戦ったことだけが記述されているが、高麗の記録にはこのときのいきさつが多少なりとも書かれている。
 それによると、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン▽副司令官、ホン・タグ▽高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について意見を交わしたとされている。
 キムが「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張したが、クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めたという。
 その決断の裏には、少弐景資の矢で負傷した元の副司令官の存在や、武器・食料の補給の問題もあっただろう。
 でも、気象や潮の流れなどの条件が重ならないと船を動かすことはできず、しかも渡航に1カ月かかった時代である。900隻の大船団が遠くの沖合にいるならまだしも、すべてが忽然(こつぜん)と海上から消えたのはミステリーとしかいいようがない。
 これを神風、つまり台風を原因と見る向きもあるが、どうやら、それだけではなかったようである。
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 2021年7月21日 YAHOO!JAPANニュース モンゴルマガジン「モンゴル帝国はなぜ残酷行為をしていたのか、そこには知られざる理由があった?
 モンゴル帝国は世界最強の遊牧民族であったと言われています。
 中国は長い歴史の間、何度も遊牧民族による征服を受け、それに苦心していました。
 しかし、どれだけ善戦していても、雪が深くなってくると撤退したり、他国と戦争中でも部族間で衝突したりと、まとまりの無い民族でした。
 ところが、例外と言って良い国家が中世、モンゴル高原に存在しました。
 皆様ご存知のモンゴル帝国です。
 モンゴル帝国はそれまで、中華大陸を支配しきれなかった慣習を打ち破るだけに留まらず、世界の20パーセントもの面積を支配しました。
 中世の全世界を震え上がらせたモンゴル帝国。その理由は彼らの残酷さにあるかもしれません。
 本記事では、モンゴル帝国の残酷さや行われた虐殺について解説していきます。
 地上最強のモンゴル帝国がなぜ成立したか
 モンゴルが中世において、世界中を支配することができた要因は様々です。
 まず、兵隊の練度が全然違いました。
 騎兵と言うと、当時の中華や欧州においては特権階級のみが扱える兵科であり、平民からの徴収兵は徒歩が原則でした。
 これは、身分の上下によってわけられていたとも言えますが、そもそも騎馬というのは非常に難しく、特権階級のように、騎馬訓練に時間がさけられた人間しかできなかったとも言えます。
 しかし、モンゴル民族をはじめとする、遊牧民は違いました。
 生活と戦闘、生活と騎馬というのが密接な関係になっているため、欧州や中華の騎兵に比べても並外れた練度を持っていたのです。
 また、動員可能数にもその要因があります。
 モンゴル高原は決して人口の多い地域ではありません。作物が育ちにくく、定住化が進まない地域では大勢の人間を養えるだけのカロリーが生産できなかったのです。
 そのため、動員できた兵力も少ないのでは?と思われがちですが、そうではありません。
 定住化の進んだ農耕民族国家では、全人口に対し、5パーセント以上の動員は難しいと考えられています。
 農耕民族国家は戦争中でも国力を維持し、前線に補給できるだけの物資を生産しなければならなかったからです。
 しかし、遊牧民族は違います。
 彼らは移動することを則ち生活といているため、女子どもでも容赦なく根こそぎ動員することができました。
 これらの理由が地上最強のモンゴル帝国を作ったと言えるでしょう。
 テムジンの過酷な生い立ち
 そんなモンゴル帝国が世界中を震え上がらせるほど残酷になったの理由は何なのでしょうか。
 その理由はもしかすると、モンゴルを統一したテムジン(チンギス=ハン)の生い立ちや統一過程を見ていけばわかるかもしれません。
 統一以前のモンゴル
 テムジンがモンゴルを統一する前、モンゴル高原は正に群雄が割拠する修羅の時代でした。
 部族間が互いに争い、領地を奪ったり奪われたり。彼らの間に国境はもちろんなく、部族間衝突が絶えない地域だったのです。
 その戦闘の渦はもちろん、テムジンも巻き込まれることになりました。
 テムジンの生まれ育ち
 テムジンは、近隣で有名な戦士「エスゲイ」の息子としてその生を受けました。
 父親が有力な戦士だっただけに、将来を期待されたテムジンでしたが、幼少の頃、父親が謀略をもって殺害されたのです。
 部族はこれを機に、エスゲイの未亡人と当時9歳だったテムジンを含むエスゲイ一家を平原へ追放しました。
 元々エスゲイは部族長の地位を脅かすほど有力になっていたので、部族長からすると好機だったのかもしれません。
 そこからは、長く過酷な荒野での生活が続くことになりました。
 しかし、同時に彼らを強靭に鍛えたのです。
 テムジンはこの頃、大自然の厳しさと部族への恨みを以って、より無慈悲になっていったのかもしれません。
 その後、親の旧友であるケレイト部族のトグリルと同盟を結び、再び有力者としての地位を築いていくことになります。
 テムジンの受難は続く
 しかし、テムジンはまだまだ困難に立ち向かわなければなりませんでした。
 テムジンが有力者になっていく一方で、盟友であったジャムカと呼ばれる人物はそれを良く思いませんでした。
 結局、両者は盟友の誓いを破棄して衝突。
 最後はテムジンが勝利するのですが、その過程において、テムジンは部下70名をジャムカによって釜茹で(油や湯で人間を煮殺す処刑方法)に処されました。
 モンゴルが行った大虐殺
 このように、過酷な運命を巡ってきたテムジンだからこそ、モンゴル高原統一後はより一層残酷さが増したとも言えます。
 抵抗する勢力には徹底した破壊活動を命じ、それが世界中で悪評を生むことになってしまったのです。
 さて、ここからは実際にモンゴル帝国が行った大虐殺と戦いについてお話していきたいと思います。
 ワールシュタットの戦い
 モンゴル帝国を建国したチンギス=ハンの跡を継いだのが3男のオゴダイでした。
 オゴダイはチンギス=ハンの征服思想を受け継ぐ形でロシアや東ヨーロッパへの野望を告示します。
 甥のバトゥを征西の大将とし、進撃を命じました。
 この遠征軍には、土地を持たない王族もいたことから、この武功を以って土地を得たいという思いと重なり、士気が非常に高かったと言われています。
 ロシアを打ち破ったモンゴル軍はついに東ヨーロッパのポーランド終結
 ポーランド・ドイツ連合軍と対峙します。
 しかし、結果は圧倒的でした。
 射程の長い弓で前線を切り開き、ほぼ無傷で重騎兵を切り込ませます。ここからはほとんど虐殺に近かったと伝わります。
 総大将であったヘンリク2世を討たれ、部隊は包囲されます。
 モンゴル帝国軍はその包囲の環を少しずつ縮めていく形で蹂躙。結局、生き残りはほとんどいませんでした。
 その後、モンゴル帝国軍はヘンリク2世の首を槍に突き刺して進軍。これは他ヨーロッパ諸国の士気を下げるのに役立ちました。
 ちなみにワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」という意味であり、この戦いの残酷さがわかるのではないでしょうか。
 バグダートの戦い
 モンゴル帝国軍の残酷さを語る上で、バグダートの戦いは外せないでしょう。
 バグダートは現在のイラクに位置しており、当時はアッバース朝が支配していました。
 当時、アッバース朝のバグダートには100万人を超える居住者と6万人の軍隊がいたと知られています。
 しかし、1200年代半ばになるとその力はどんどん衰えていきます。
 その時期に現れたのはチンギス=ハンの孫モンケ=ハン率いるモンゴル帝国だったのです。
 モンケは弟のフレグを先鋒として、アッバース朝を攻めました。
 怒涛の快進撃の末、1257年11月にバグダートの包囲が完了。その時、アッバース朝皇帝であったムスタアスィムは降伏を拒否。
 ここに、バグダートの滅亡が決定づけられました。
 軍備を怠っていたこともあり、バグダートはすぐにモンゴル軍によって奪われたのです。
 その結果、1週間にわたって市井を含めた住民がモンゴル帝国軍の虐殺と略奪を受け続けることになりました。
 当時のイスラム教国家を伝える書物は全て燃え、優雅を誇った都市はたった1週間で滅亡してしまったのです。
 皇帝のムスタアスィムはフレグに捕らえられ、敷物にまかれた上に軍馬に踏み殺されました。
 これは、モンゴル伝統の「貴人の死」と呼ばれる処刑方法でした。
 ンダス河畔の戦い
 インダス河畔の戦いは1221年に現在のパキスタンで行われた戦いです。
 戦いが行われる前、モンゴル帝国はホラズム帝国を攻めていました。各地でホラズム帝国軍を討ち破り、追い込んでいた途中に起きた戦です。
 ホラズム帝国スルタン、ジャラールッディーンは兵士と数千人の避難民と一緒にインドに逃げている真っ最中でした。
 猛追するモンゴル帝国軍に追いつかれてしまい、避難民を助けるために迎撃を開始。
 しかし、すぐにモンゴル帝国に蹂躙されてしまいます。避難民もことごとく虐殺されました。
 結果、インダス川を渡って生き残ることができたのは、極わずかな避難民だけでした。
 2019年、ロシアでモンゴル大虐殺の跡が見つかった?
 モンゴル帝国虐殺は紹介できないほど各地で行われていました。
 現在でも、虐殺があった、なかったという議論は分かれますが、最近になって、ロシアのヤラスロヴリにおいて、虐殺を示す遺構が見つかったのです。
 共同墓地に打ち捨てられた多数の白骨死体
 見つかったのは、白骨死体でした。
 炭素分析の結果、モンゴル帝国がロシアに攻め入った時期にマッチします。
 残念ながら、身元自体はわかっておらず、それが平民の骨なのか、貴族の骨だったのかはわかりません。
 しかし、白骨死体は女性・子どもも含まれており、全てを合わせると300体以上の遺体が葬られていました。
 ヤラスロヴリで何が起きたのか?
 元々、ヤラスロヴリではモンゴルによる虐殺があったかどうかについては議論の分かれるところでした。
 しかし、この遺構と遺体の発掘によって、モンゴル帝国軍による略奪と虐殺が確実視されるようになったのです。
 比較的裕福な家庭を狙ったというのは遺体の歯からもわかっています。
 歯には虫歯がかなり進行していたため、日常的に佐藤やハチミツといったような高級品を食べていたということがわかっているからです。
 モンゴル帝国は本当に残酷だったのか?
 ここまでで紹介できたのは、ごく一部の虐殺例に過ぎません。
 調べてみると、まだまだモンゴルの虐殺事例はあります。
 しかし、本当にモンゴル帝国は残酷であったのでしょうか。
 チンギス=ハンが残した言葉
 チンギス=ハンが残した有名な言葉をご紹介します。
 チンギス=ハンは晩年に将軍たちを集めて宴会を開きました。酔いが回ってきたころ、チンギス=ハンは将軍たちに尋ねます。
 「人生最大の幸せは何だと思う。」
 将軍たちは生粋の遊牧民族であったため、「草原で家族に囲まれながらのんびりと暮らすことだ。」と口々に言いました。
 しかし、チンギス=ハンはこう言います。
 「人生最大の幸福は敵を撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘をわが物とし、その悲しむ顔を見ることだ。」と言うのです。
 これは、モンゴル軍の残酷さを決定づけた言葉だったのでしょう。
 言葉の裏側は・・・?
 しかし、その言葉をそのまま受け取ってはダメです。
 そもそも、略奪や虐殺というのは兵站の概念が薄かった中世においては常々行われてきたことです。
 そして、チンギス=ハンの言葉はまだ遊牧民族のままボケている将軍たちを一喝したとも捉えられます。
 逆に、自分達が敗北してしまうと、そういう目に合ってしまうということを暗に示唆したのかもしれません。
 虐殺が行われなかった地域もあった
 モンゴル帝国は逆らう地域や国に対しては徹底的に虐殺を行いましたが、早い段階で降伏した国には格別の慈悲があったそうです。
 この事実から、徹底的に残酷さに振り切っていたのはある意味対外的に「従わないとこうなるぞ。」というアピールをしていたのかもしれません。
 また、降伏した国の貴族や民族、宗教をしっかりと重んじる方向にあったらしく、あれだけ徹底して虐殺を行ったイスラム教でさえ保護の対象であったほどなのです。
 パクスモンゴリカによる花開いた文明
 モンゴルの世界征服によって、良い影響も少なからずありました。
 それが交易の自由化です。
 それまで、ユーラシア大陸は小競り合いが頻発しており、とてもではありませんが商人が陸路で行き来するのは危険でした。
 しかし、ヨーロッパから東アジアまでを結ぶ大国が成立したことにより、シルクロードの安全性が確保されたのです。
 これによって、帝国領土内の様々な人種が自由に行き交う時代が到来しました。
 パクスモンゴリカはわずか百年ほどで瓦解することになりましたが、その影響は大きく、モンゴル帝国の庇護の元、諸地域では経済活動の発展が促されたのです。
 まとめ
 モンゴルより残酷だった日本の鎌倉武士
 いかがでしたでしょうか。
 モンゴル帝国の残酷さを歴史的事実と共に紹介していきましたが、モンゴル帝国が日本を攻めた「元寇」ではどのような残虐行為が行われたのでしょうか。
 元寇はそれまで、日本側が苦戦の末退けたという認識が強かったですが、昨今の研究ではいい勝負であったという説が広まっています。
 事実、元朝側の資料では、このような記述があります。
・やつらは自分で自分の国の町を焼き払う。(焦土作戦
・やつらは船の中に糞尿を打ち込んでくる。
・捕虜を盾にして進撃しても、捕虜ごと弓矢を撃ってくる。
・武士の弓矢はモンゴルの弓矢より長大な射程があり、威力もすさまじい。
 モンゴル帝国が残酷であったのはわかりましたが、もしかすると、当時の日本はモンゴル軍を恐れさせるほど残虐だったのかもしれませんね。
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 ウィキペディア
 バグダードの戦い(英:Battle of Baghdad سقوط بغداد)、あるいは「バグダッド包囲戦」(英:Siege of Baghdad)は、1258年にチンギス・ハーンの孫にあたるフレグ率いるモンゴル軍がアッバース朝バグダードを包囲した戦いである。モンゴル軍によって攻略されたバグダードは徹底的に破壊され、市内に存在していた知恵の館や数々の図書館に収蔵されていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によって燃やされるか、または、川に捨てられた。これによってイスラム文明が築いた多くの文化遺産が地上から消失した。
 背景
 現在のイラクの首都にあたるバグダードは、当時アッバース朝第37代カリフのムスタアスィムが統治するアッバース朝の首都であった。最盛期のこの町は東西交易の中心地として繁栄を極め、産業革命以前の世界最大の都市となり、100万を超える居住者と6万の精強な軍隊を誇った。しかし、1200年代なかば頃にはその力と影響力は衰えていた。
 そうした時期、1253年頃より、チンギス・カンの孫にして、時のカアン・モンケの弟であったフレグを先鋒とするモンゴル帝国の大規模な西征が始まることとなる。
 攻囲軍の構成
フレグと郭侃が率いるモンゴル軍は1257年11月にバグダードを攻囲した。フレグはモンゴル軍史上最大規模の軍隊を率いていたとされる。モンケの命令に基づき、全モンゴル軍の10分の1の兵士がフレグの軍に編成された。攻撃部隊には大規模なキリスト教徒の派遣団がいた。主なキリスト教徒軍はグルジア人だったようで、彼らは破壊活動に従事した。フランスの歴史家アラン・ドゥマルジェによると、アンティオキア公国からのフランク人部隊も参戦していた。中国人の銃の専門家1000名[3]も加わっていた。 
 包囲攻撃
 フレグはムスタアスィムに降伏を要求したが、ムスタアスィムは「バグダードを攻撃すればアラーの復讐を受けることになろう」と警告して降伏を拒否した。にもかかわらず、ムスタアスィムは軍隊の増強やバグダードの城壁の強化をしていなかった。イギリスの中東戦史家デビッド・ニコルは次のように述べている。「ムスタアスィムは戦争の準備を怠っただけでなく、フレグの要求に従わなかったことでバグダードの破滅を決定付けてしまった。もしムスタアスィムがモンゴルのハーンの権威を認めていたならば、モンケはムスタアスィムの命を取りはしなかっただろう」。
 14世紀のペルシャで描かれたフレグ軍による攻囲の様子
 バグダード包囲攻撃の前、イラン高原の山岳地域を根拠地としていたニザール派の教主フルシャーが帰順したことによって、多くの山城が開城もしくはモンゴル軍の包囲攻撃によって陥落し、難攻不落をうたわれていた中心的拠点のアラムート城塞もモンゴル軍に引き渡されたことでほぼ無力化されてしまっていた。アラムートが陥落し、次いでアッバース朝の攻略に取り掛かったフレグはハマダン経由でバグダードへ西進、諸将に命じて道中のザグロス山脈周辺の諸勢力の攻略も併せて行った。
 フレグはチグリス川の付近で軍を東西に分割した。アッバース朝軍は西岸から攻撃するモンゴル軍は撃退したが、東岸からの攻撃に耐えられなかった。モンゴル軍はアッバース朝軍の後方の堤防を破壊し、水攻めを行い、アッバース朝軍の多くはなすすべなく虐殺されるか溺死した。
 郭侃の命令でモンゴル軍の中国人部隊が柵と溝を建築し、攻城兵器とカタパルトでバグダードを包囲した。攻撃は1月29日に開始された。モンゴル軍の攻撃は包囲攻撃の理論通りに迅速に行われ、2月5日、バグダードの城壁はモンゴル軍に破られた。ムスタアスィムはフレグと交渉しようと試みたが、時既に遅く、拒絶された。
 かつてバグダードにはマンスールが築いた難航不落の「円城」があった。しかし、サマラに遷都したときに放棄され、サマラからバグダードへ再度遷都した頃には荒廃していた。そこでアッバース朝チグリス川の東岸に新たにカリフの宮殿と市街地の城壁を造り直した。しかしこれによって、チグリス川東岸から襲来する勢力からの圧力を直に受けやすくなり、カリフ権力の弱体化に拍車をかけ、また、バグダードが容易に攻略された原因になったと言われている。
 2月10日、ついにアッバース朝は降伏。モンゴル軍は2月13日にバグダードに流れ込み、それから1週間にわたって虐殺、強姦、略奪、破壊を繰り広げた。
 破壊と殺戮
 “モンゴル軍は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った。黄金づくりの宝石で覆われたベッドやクッションはナイフで破壊され、断片さえも粉砕された。ハーレムのベールに隠れる者は路地に引きずられ、陵辱された。一方的な殺戮によって市民は死に絶えた。”
―――ワッサーフ(歴史家のベルトルト・シュプーラーによる引用)
多くの歴史的記述がモンゴル軍の残虐行為を詳述している。バグダードの市民は逃げようとしたがモンゴル軍に捕らえられ、女は幼児から老婆に至るまで徹底的に強姦され、子供から老人に至るまでことごとく虐殺された。14世紀の歴史家ワッサーフは「死者は数十万人であった」と記述している。ニューヨーカー誌のイアン・フレイザーは「20万人から100万人に及ぶ死者を計上した」と記している。20万から80万人、また200万人とするものもある。
 15世紀のフランスで描かれた幽閉されるムスタアスィムの様子
 モンゴル軍は市街を蹂躙し、モスク、宮殿、図書館、病院を略奪、破壊し尽くし、何世代にもわたって保たれていた壮大な建築物は消失した。薬学から天文学にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していたバグダードの知恵の館は破壊された。「モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。
 ムスタアスィムは郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺と財宝の略奪の様子を見せつけられた。その後ムスタアスィムは敷物に巻かれ、モンゴル軍の軍馬に踏み殺された。これは貴人に死を賜るときのモンゴル流の礼儀であった。モンゴル軍はムスタアスィムの子供たちも殺害、『集史』によれば、唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。
 モンゴル軍が陣地をわざわざバグダードの風上に移動するほど、大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。モンゴル軍は降伏を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊したが、降伏した都市は破壊しなかった。これはモンゴル軍の戦術だった。
 “1258年当時のイラクは現在のイラクとは違う。農業は都市の運河によって数千年守られ、バグダードは世界一輝かしい知の中心地だった。モンゴル軍によるバクダードの破壊はイスラム教に回復不可能な心理的な痛手を負わせた。既にイスラム教は保守的になっていたが、このバグダードの蹂躙によって、イスラム教の知的開花は潰えてしまった。アリストテレスペリクレスのいるアテネ核兵器により消滅する様を想像してほしい。モンゴル軍がどれだけ残酷であったか理解いただけよう。モンゴル軍は灌漑運河を徹底的に破壊した。これと殺戮による過疎化とによってイラクはもはや再起不能の状態に陥り、衰退の一途を辿ることとなった。”
―――スティーブン・ダッチ(ウィスコンシン=グリーンベイ大学)
 その後、モンゴル軍はシリアに侵攻するが、ムスタアスィムの叔父をカリフとして擁立したエジプトのマムルーク朝を相手に1260年のアイン・ジャールートの戦いで大敗。そのまま中東から撤退した。
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