🏹23〕─3・D─何故モンゴル帝国は日本を侵略したのか。蒙古襲来と日露戦争の幾つかの類似点。~No.75 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 大陸世界では、現代日本人が信じている「大国の良心」や「大陸の矜持」など存在しない。
 それは、中国共産党やロシアを観れば一目瞭然である。
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 世界的侵略植民地帝国の元(モンゴル)とロシアは、辺境の小国日本との戦争ではなく日本との友好的交易を望んでいた。
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 江崎道朗「戦没学徒からの宿題
 左派系への違和感
 世界における国家、民族の興亡の歴史を学べば分かることだが、自由と独立を勝ち取ろうと奮闘した国家と民族は生き残り、その努力を怠った国家と民族は滅んだ。
 日本が現在の独立を保ち、自由と繁栄を享受できるのは、先人たちの無数の奮闘の歴史があったからだ。そんな自明の、しかし意外と誰も意識しない冷厳な事実を私が意識できるようになったのは家庭環境の影響が大きかった。
 ……」(令和6年4月号『月刊 正論』)
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 2024年4月4日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「蒙古襲来750年:モンゴル帝国はなぜ極東の島国・日本を攻めてきたのか
 持田 譲二(ニッポンドットコム)
 現在の中国から東ヨーロッパまで、ユーラシア大陸にまたがる版図を誇ったモンゴル帝国。13世紀にチンギス・ハンが創始者となった巨大帝国は、5代皇帝フビライ・ハンの治世になると、海を越え極東の島国・日本に攻め込んできた。今から750年前、日本は史上初めて海外から本格的な侵攻を受けたのである。
 南下を迫られたフビライ
 元の皇帝フビライ國立故宮博物院所蔵)と北条時宗像(円覚寺所蔵)
 1206年、チンギス・ハンは武力でモンゴルの諸部族を統一。中央アジアの草原に大帝国がこつぜんと姿を現わした。2代皇帝オゴタイ以降も領土の拡大意欲は、とどまるところを知らず、最強の騎馬軍団が万里の長城を越えて華北の金を滅ぼした。さらに、ヨーロッパに手を伸ばしロシア諸侯国を支配下に入れたほか、41年には「ワールシュタットの戦い」でドイツ・ポーランド連合軍を撃破。間近に迫られた西欧キリスト教社会は大きな衝撃を受けた。
 モンゴル帝国の版図と南下政策
 領土の広がりを今に伝えるのが、長崎県北部の鷹島(たかしま)沖海底で見つかった直径13センチほどのずしりと重いモンゴル軍の投石弾だ。回回砲(かいかいほう)と呼ばれるアーム式の投石機で飛ばす仕組み。この兵器は、フビライモンゴル帝国西部のペルシャから技術者を招いて作らせたと言われ、後の対日攻撃にも持ち込まれた。その威力は南宋攻撃の際、城壁に穴をあけるほど強力だったという。
 投石弾の実物(左)と回回砲の模型(右)。重りの力でアームが跳ね上がり、石弾を飛ばす。地元の高校生が実験したところ、44メートル飛んだという=いずれも長崎県松浦市埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
 帝国の領土はユーラシア大陸ほぼいっぱいに広がったため、やがてチンギスの血族の間で、東西に分割統治された。東のアジア大陸を治めたのが孫のフビライだ。兄である先帝の死去に伴う後継者争いで、フビライはライバル候補を追い落とすため、領土のさらなる拡大という戦功を挙げる必要に迫られた。中国大陸を南進して漢民族国家の南宋と対峙したのである。
 日宋の同盟関係にくさび
 てつはう=松浦市埋蔵文化財センター所蔵(筆者撮影)
 後継争いに勝ち、5代皇帝に就いたフビライは1271年、国号を「元」に改めた。朝鮮半島の高麗を制圧するとともに、南宋を支配すべく南下政策を取った。その際、元にとって目障りだったのが、南宋と文物交流が盛んな日本の存在だった。元は「日宋の同盟関係にくさびを打ち込みたかったのではないか」と、蒙古襲来の研究で知られる元九州大学大学院教授の服部英雄氏は話す。
 服部氏によると、中でも元が神経を尖らせていたのは、日宋貿易だ。火山国の日本は火薬の原料となる硫黄の産出量が多かった。南宋はこれを輸入し、火器を装備して元と闘っていた。元としては軍事上の観点から日宋貿易を遮断する必要に迫られたし、自らも日本との交易を望んでいた。
 元は「てつはう」という火器を作り出している。直径13センチ程度の陶器製の球体に、硫黄を使った火薬が詰められ、さく裂する仕組みだ。
 また、「黄金の国・ジパング」観が日本に触手を伸ばした理由との説もある。13世紀に生まれたベネチアの商人マルコ・ポーロはアジアに進出し、『東方見聞録』を著わしたことで知られる。マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。
 広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。
 親交か侵攻か
 蒙古国牒状写本(国立公文書館所蔵)
 元を中心とした東アジアの国際情勢に当時の日本は巻き込まれようとしていた。鎌倉幕府や朝廷は、思いもよらなかったのではないか。
 1268年にはフビライ名で日本に国書「蒙古国牒状」が届いた。
 「天帝の慈しみを受ける大蒙古国皇帝(フビライ)が、書簡を日本国王に差し上げる。私の考えでは、昔から小国の君主は、国境を接していれば、ひきつづき意志を通じて友好につとめてきた。(中略)高麗は私の東の属国である。日本は高麗に近接し、国の初め以来、時には中国とも通交してきた。だが、私の治世には一度も使いを派遣してよしみを結んだことはない。(中略)今後は互いに訪問することで友好を結び、親睦を深めることを願うものである。また、聖人(皇帝)は世界全体を一つの家とするものである。互いによしみを通じなくては、どうして一つの家だといえよう。軍事力を用いようとは、だれが好んでするだろうか。(『詳説 日本史史料集』=山川出版=より抜粋)」
 この国書は、元には日本と友好関係を結びたい意思があるようにも読める。その半面、元が朝鮮半島の高麗を攻めて属国化したことをさりげなく伝えるとともに、求めに応じなければ日本へ武力行使も辞さない構えを示している。
 元の使者から国書を受け取った幕府は判断を朝廷に託したが、朝議の結果、返書は出さないこととなり、使者も引き返させた。服部氏は「日本の主な海外情報源は南宋から渡ってくる禅僧だ。彼らは(侵略者の)元について、よくは言わなかったのだろう。日本としても南宋と手を組んでいるつもりだった」とみる。
 一方、アジア史の専門家の間では、元の国書にしては「実に穏やかな文面である。一種の挨拶状に近い」(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下)』、講談社現代新書)と受け止められている。国書を無視した態度は「普通の外交ならば、向こう(元)は面白くないはず。執権の北条時宗が使者を出していたら、事態はどうなったかは分からない」と服部氏は言う。幕府は、元の硬軟織り交ぜた姿勢の意図を慎重に探るところまで考えが及ばなかったようだ。
 ひょっとしたら戦争は起きずに済んだかもしれないが、「外交」経験のない幕府には限界があった。元は計6回も国書や使者を送ってきたのに対し、幕府は一度たりとも返答をしなかった。そして、1271年には日本侵攻の最後通告が送られてきたのである。
 内憂外患
 戦闘前夜の日本と元の動き
 日本の外交権限は当時、一義的には朝廷にあるとされていたが、幕府の関与なしに対処方針は決められなかったはずだ。ところが、北条支配の鎌倉幕府は内部に問題を抱え、思わぬ「外敵」の登場に十分な対応ができなかったとみられる。
 北条氏は唯一のライバル、三浦氏を滅ぼし、絶頂期を迎えたのも束(つか)の間、内紛が起きてしまう。5代執権の北条時頼には時輔(ときすけ)という長男がいた。だが、側室の子という理由から、正室の子である弟の時宗が執権(※1)の座を引き継ぎ、「ねじれ」が生じた。元から国書が届いたのと同じ1268年のことだった。
 その後は元との緊張関係が一挙に高まった重要な時期だったにもかかわらず、時宗は異母兄の時輔が恨みを抱いていると警戒。72年には時輔を討ち、北条家内の反時宗派も一掃した。「いろいろな勢力がひしめき合っていた幕府も、これ以降は時宗得宗(北条家の直系)の権力が強化された」(鎌倉歴史文化交流館の大澤泉学芸員)。幕府は迫り来る元の脅威にようやく態勢を整え始めた。異国警固番役を設け、九州に所領を持つ御家人らに九州北部の警戒に当たらせたのである。
 一方のフビライはそのころ、属国の高麗に対し、軍船の建造を命じていた。戦いは間近に迫っていた。(第2回に続く)
 (※1) 時宗は幼少だったため、時頼の後は中継ぎとして長時(6代)、政村(7代)が執権に就き、これを経て時宗は8代執権となった。
●道案内
・鎌倉歴史文化交流館:JR横須賀線鎌倉駅西口から徒歩10分。毎週木曜には、学芸員が午前10時から展示解説のギャラリートークをしている。日曜・祝休日は休館。観覧料は一般400円、小・中学生150円。
円覚寺:JR横須賀線北鎌倉駅そば。1282年、執権・北条時宗が無学祖元禅師を招いて開山した禅寺。敵味方に関係なく、蒙古襲来の殉死者を弔う目的があった。「鎌倉五山」の第二位に当たる。
 【Profile】
 持田 譲二(ニッポンドットコム)
 ニッポンドットコム編集部。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量、ラーメン食べ歩き。
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 何時の時代でも、如何なる地域でも、大国が小国に求める友好と平和とは、同じ権利を持った対等関係ではなく服従・従属の上下関係である、その為に外交交渉は武力と戦争をチラつかせた脅迫的交渉になる。
 小国にとって、軍事力で恫喝する大国の思惑(戦争をせずに降伏させる)など知った事ではない、進撃してくる大軍を侵略軍として母国と同胞を守り助ける為に戦争を仕掛けていた。
 大国は、小国との戦争における犠牲者を少なくする為に、抵抗する一つの都市を攻略すると住民を皆殺しにし、掠奪をおこない、放火して灰燼に帰し、人が住めないように廃墟にした。
 小国は、大国の残虐行為に恐怖し、国民の命を救う為に、抵抗する事を諦め無条件降伏して属国となるか領土の一部となるかった。
 高麗は、生き残る為に、名誉も面子も捨て、恥も外聞も捨て臣下の道を選んだ。
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 蒙古(中国)・高麗(朝鮮)連合軍は、対馬壱岐・北九州で日本人を虐殺し女性や子供を戦利品として乱取りしていた。
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 日本人は、旧宋国人(揚子江流域中国人)は助け、死亡すれば懇ろに葬ったが、高麗人(朝鮮人)は惨殺し死体は捨てた。
 日本人の高麗人(朝鮮人)への偏見・差別の本質は、敵意・憎悪である。
 前期倭寇は、日本人の高麗人(朝鮮人)への復讐と報復であった。
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 日本は、古代から朝鮮や中国の侵略を受けていた。
 刀伊の入寇応永の外寇
 歴史的事実として、日本にとって隣国の中国、朝鮮、ロシアは「敵」であった。
 専守防衛とは、消極的自衛戦争であった。
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 日本にとって、蒙古襲来は侵略軍を日本本土に引き入れて日本人に犠牲者を出しながら戦う消極的自衛戦争であり、日露戦争は日本人に犠牲者を出さない為に日本国外で侵略者と戦う積極的自衛戦争であった。
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 蒙古軍の戦略は、友好と交易を望まない国を征服する為に、侵略軍を派遣して敵国の一つの都市を攻略し女子供に関係なく住民を皆殺しにして、敵国と敵国人に恐怖を与えて無条件降伏させる事であった。
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 高麗(朝鮮)の生き残り戦略とは、大陸の中華帝国と小国日本と間に存在する緩衝国としてモンゴルの忠誠を誓う事であった。その為には日本が中華帝国に征服されては困るのである。
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2018-06-02
🎵26:─1─アムール川大虐殺事件。ジョン・へイ宣言。シベリヤ鉄道敷設と朝鮮国内対日軍事基地建設。大津事件。1899年~No.61No.62・ @ 
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 日露戦争の端緒となった、江戸時代後期の日露関係。
 日清戦争韓国併合は、日本の対露戦略から日本が仕掛けていた積極的自衛戦争であった。
 NHK 英雄たちの選択 日本の運命を決めた「選択」に迫る!
 「検証!200年前のロシア危機〜露寇事件  松平定信3つの意見書」
 江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷地各地を襲撃する事件が起きた。通商を要求してのことだった。このとき意見を求められた前老中首座・松平定信の3つの献策から幕府の選択に迫る
 文化4年(1807)夏、江戸幕府が震撼した。蝦夷地各地にあった幕府の出先がロシア船に襲撃されたのだ。ロシア使節レザノフの通商要求を幕府が無下に拒絶したことがきっかけだった。幕府守備隊は反撃もできずに敗北、無力ぶりをさらす。通商に応じなければ更なる攻撃を行うと予告もあった。このとき意見を求められたのが前老中首座の松平定信。残された3つの献策からは、事件が幕府の対外政策をいかに変えたかが浮かび上がる。
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 日露戦争における勝利の条件は、沖縄の琉球人と北海道のアイヌ人であった。
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 元寇における勝利の条件は、反天皇と反鎌倉幕府の日本人・武士団であった。
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 2014年6月 産経新聞「関西歴史事件簿
 元寇文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為
 (上)朝鮮人が日本で“殺戮”…から続く
 九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。
 侵略される町々
 文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。
 最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。
 前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。
 ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。
 一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢に立たされる。
 日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜(おきのはま)まで攻め込まれるなど、やりたい放題に暴れられる。
 この戦いで箱崎(筥崎)神社が焼失する。博多の中心部でも元や高麗の兵による殺害や略奪、放火などが横行したことで地は血に染まり、空は炎で真っ赤に染まったともいわれている。
 相次ぐ残虐行為
 このような行為は博多の前の戦場だった対馬壱岐でも同様で、高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。
 日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。
 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述は残酷で生々しい。
 奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとにした記述のため、異論も出ている。
 ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした残虐な話は数知れず。
 壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったともいわれている。
 さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。
 突然に消えた敵
 戦いは元・高麗連合軍が優位のまま夜に入った。ここで双方とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を設けることなく、全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまったのだ。
 しかも、一夜明けるとあれだけ湾内を埋め尽くしていた船がすべて姿を消していた。まるで忍術を使ったように影も形もなくバッと消えていたのだ。
 当然、今日も戦いが続くと思っていた日本の御家人らは、キツネにつままれたようにあっけにとられたことだろう。
 元の記録には戦ったことだけが記述されているが、高麗の記録にはこのときのいきさつが多少なりとも書かれている。
 それによると、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン▽副司令官、ホン・タグ▽高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について意見を交わしたとされている。
 キムが「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張したが、クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めたという。
 その決断の裏には、少弐景資の矢で負傷した元の副司令官の存在や、武器・食料の補給の問題もあっただろう。
 でも、気象や潮の流れなどの条件が重ならないと船を動かすことはできず、しかも渡航に1カ月かかった時代である。900隻の大船団が遠くの沖合にいるならまだしも、すべてが忽然(こつぜん)と海上から消えたのはミステリーとしかいいようがない。
 これを神風、つまり台風を原因と見る向きもあるが、どうやら、それだけではなかったようである。
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 2021年7月21日 YAHOO!JAPANニュース モンゴルマガジン「モンゴル帝国はなぜ残酷行為をしていたのか、そこには知られざる理由があった?
 モンゴル帝国は世界最強の遊牧民族であったと言われています。
 中国は長い歴史の間、何度も遊牧民族による征服を受け、それに苦心していました。
 しかし、どれだけ善戦していても、雪が深くなってくると撤退したり、他国と戦争中でも部族間で衝突したりと、まとまりの無い民族でした。
 ところが、例外と言って良い国家が中世、モンゴル高原に存在しました。
 皆様ご存知のモンゴル帝国です。
 モンゴル帝国はそれまで、中華大陸を支配しきれなかった慣習を打ち破るだけに留まらず、世界の20パーセントもの面積を支配しました。
 中世の全世界を震え上がらせたモンゴル帝国。その理由は彼らの残酷さにあるかもしれません。
 本記事では、モンゴル帝国の残酷さや行われた虐殺について解説していきます。
 地上最強のモンゴル帝国がなぜ成立したか
 モンゴルが中世において、世界中を支配することができた要因は様々です。
 まず、兵隊の練度が全然違いました。
 騎兵と言うと、当時の中華や欧州においては特権階級のみが扱える兵科であり、平民からの徴収兵は徒歩が原則でした。
 これは、身分の上下によってわけられていたとも言えますが、そもそも騎馬というのは非常に難しく、特権階級のように、騎馬訓練に時間がさけられた人間しかできなかったとも言えます。
 しかし、モンゴル民族をはじめとする、遊牧民は違いました。
 生活と戦闘、生活と騎馬というのが密接な関係になっているため、欧州や中華の騎兵に比べても並外れた練度を持っていたのです。
 また、動員可能数にもその要因があります。
 モンゴル高原は決して人口の多い地域ではありません。作物が育ちにくく、定住化が進まない地域では大勢の人間を養えるだけのカロリーが生産できなかったのです。
 そのため、動員できた兵力も少ないのでは?と思われがちですが、そうではありません。
 定住化の進んだ農耕民族国家では、全人口に対し、5パーセント以上の動員は難しいと考えられています。
 農耕民族国家は戦争中でも国力を維持し、前線に補給できるだけの物資を生産しなければならなかったからです。
 しかし、遊牧民族は違います。
 彼らは移動することを則ち生活といているため、女子どもでも容赦なく根こそぎ動員することができました。
 これらの理由が地上最強のモンゴル帝国を作ったと言えるでしょう。
 テムジンの過酷な生い立ち
 そんなモンゴル帝国が世界中を震え上がらせるほど残酷になったの理由は何なのでしょうか。
 その理由はもしかすると、モンゴルを統一したテムジン(チンギス=ハン)の生い立ちや統一過程を見ていけばわかるかもしれません。
 統一以前のモンゴル
 テムジンがモンゴルを統一する前、モンゴル高原は正に群雄が割拠する修羅の時代でした。
 部族間が互いに争い、領地を奪ったり奪われたり。彼らの間に国境はもちろんなく、部族間衝突が絶えない地域だったのです。
 その戦闘の渦はもちろん、テムジンも巻き込まれることになりました。
 テムジンの生まれ育ち
 テムジンは、近隣で有名な戦士「エスゲイ」の息子としてその生を受けました。
 父親が有力な戦士だっただけに、将来を期待されたテムジンでしたが、幼少の頃、父親が謀略をもって殺害されたのです。
 部族はこれを機に、エスゲイの未亡人と当時9歳だったテムジンを含むエスゲイ一家を平原へ追放しました。
 元々エスゲイは部族長の地位を脅かすほど有力になっていたので、部族長からすると好機だったのかもしれません。
 そこからは、長く過酷な荒野での生活が続くことになりました。
 しかし、同時に彼らを強靭に鍛えたのです。
 テムジンはこの頃、大自然の厳しさと部族への恨みを以って、より無慈悲になっていったのかもしれません。
 その後、親の旧友であるケレイト部族のトグリルと同盟を結び、再び有力者としての地位を築いていくことになります。
 テムジンの受難は続く
 しかし、テムジンはまだまだ困難に立ち向かわなければなりませんでした。
 テムジンが有力者になっていく一方で、盟友であったジャムカと呼ばれる人物はそれを良く思いませんでした。
 結局、両者は盟友の誓いを破棄して衝突。
 最後はテムジンが勝利するのですが、その過程において、テムジンは部下70名をジャムカによって釜茹で(油や湯で人間を煮殺す処刑方法)に処されました。
 モンゴルが行った大虐殺
 このように、過酷な運命を巡ってきたテムジンだからこそ、モンゴル高原統一後はより一層残酷さが増したとも言えます。
 抵抗する勢力には徹底した破壊活動を命じ、それが世界中で悪評を生むことになってしまったのです。
 さて、ここからは実際にモンゴル帝国が行った大虐殺と戦いについてお話していきたいと思います。
 ワールシュタットの戦い
 モンゴル帝国を建国したチンギス=ハンの跡を継いだのが3男のオゴダイでした。
 オゴダイはチンギス=ハンの征服思想を受け継ぐ形でロシアや東ヨーロッパへの野望を告示します。
 甥のバトゥを征西の大将とし、進撃を命じました。
 この遠征軍には、土地を持たない王族もいたことから、この武功を以って土地を得たいという思いと重なり、士気が非常に高かったと言われています。
 ロシアを打ち破ったモンゴル軍はついに東ヨーロッパのポーランド終結
 ポーランド・ドイツ連合軍と対峙します。
 しかし、結果は圧倒的でした。
 射程の長い弓で前線を切り開き、ほぼ無傷で重騎兵を切り込ませます。ここからはほとんど虐殺に近かったと伝わります。
 総大将であったヘンリク2世を討たれ、部隊は包囲されます。
 モンゴル帝国軍はその包囲の環を少しずつ縮めていく形で蹂躙。結局、生き残りはほとんどいませんでした。
 その後、モンゴル帝国軍はヘンリク2世の首を槍に突き刺して進軍。これは他ヨーロッパ諸国の士気を下げるのに役立ちました。
 ちなみにワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」という意味であり、この戦いの残酷さがわかるのではないでしょうか。
 バグダートの戦い
 モンゴル帝国軍の残酷さを語る上で、バグダートの戦いは外せないでしょう。
 バグダートは現在のイラクに位置しており、当時はアッバース朝が支配していました。
 当時、アッバース朝のバグダートには100万人を超える居住者と6万人の軍隊がいたと知られています。
 しかし、1200年代半ばになるとその力はどんどん衰えていきます。
 その時期に現れたのはチンギス=ハンの孫モンケ=ハン率いるモンゴル帝国だったのです。
 モンケは弟のフレグを先鋒として、アッバース朝を攻めました。
 怒涛の快進撃の末、1257年11月にバグダートの包囲が完了。その時、アッバース朝皇帝であったムスタアスィムは降伏を拒否。
 ここに、バグダートの滅亡が決定づけられました。
 軍備を怠っていたこともあり、バグダートはすぐにモンゴル軍によって奪われたのです。
 その結果、1週間にわたって市井を含めた住民がモンゴル帝国軍の虐殺と略奪を受け続けることになりました。
 当時のイスラム教国家を伝える書物は全て燃え、優雅を誇った都市はたった1週間で滅亡してしまったのです。
 皇帝のムスタアスィムはフレグに捕らえられ、敷物にまかれた上に軍馬に踏み殺されました。
 これは、モンゴル伝統の「貴人の死」と呼ばれる処刑方法でした。
 ンダス河畔の戦い
 インダス河畔の戦いは1221年に現在のパキスタンで行われた戦いです。
 戦いが行われる前、モンゴル帝国はホラズム帝国を攻めていました。各地でホラズム帝国軍を討ち破り、追い込んでいた途中に起きた戦です。
 ホラズム帝国スルタン、ジャラールッディーンは兵士と数千人の避難民と一緒にインドに逃げている真っ最中でした。
 猛追するモンゴル帝国軍に追いつかれてしまい、避難民を助けるために迎撃を開始。
 しかし、すぐにモンゴル帝国に蹂躙されてしまいます。避難民もことごとく虐殺されました。
 結果、インダス川を渡って生き残ることができたのは、極わずかな避難民だけでした。
 2019年、ロシアでモンゴル大虐殺の跡が見つかった?
 モンゴル帝国虐殺は紹介できないほど各地で行われていました。
 現在でも、虐殺があった、なかったという議論は分かれますが、最近になって、ロシアのヤラスロヴリにおいて、虐殺を示す遺構が見つかったのです。
 共同墓地に打ち捨てられた多数の白骨死体
 見つかったのは、白骨死体でした。
 炭素分析の結果、モンゴル帝国がロシアに攻め入った時期にマッチします。
 残念ながら、身元自体はわかっておらず、それが平民の骨なのか、貴族の骨だったのかはわかりません。
 しかし、白骨死体は女性・子どもも含まれており、全てを合わせると300体以上の遺体が葬られていました。
 ヤラスロヴリで何が起きたのか?
 元々、ヤラスロヴリではモンゴルによる虐殺があったかどうかについては議論の分かれるところでした。
 しかし、この遺構と遺体の発掘によって、モンゴル帝国軍による略奪と虐殺が確実視されるようになったのです。
 比較的裕福な家庭を狙ったというのは遺体の歯からもわかっています。
 歯には虫歯がかなり進行していたため、日常的に佐藤やハチミツといったような高級品を食べていたということがわかっているからです。
 モンゴル帝国は本当に残酷だったのか?
 ここまでで紹介できたのは、ごく一部の虐殺例に過ぎません。
 調べてみると、まだまだモンゴルの虐殺事例はあります。
 しかし、本当にモンゴル帝国は残酷であったのでしょうか。
 チンギス=ハンが残した言葉
 チンギス=ハンが残した有名な言葉をご紹介します。
 チンギス=ハンは晩年に将軍たちを集めて宴会を開きました。酔いが回ってきたころ、チンギス=ハンは将軍たちに尋ねます。
 「人生最大の幸せは何だと思う。」
 将軍たちは生粋の遊牧民族であったため、「草原で家族に囲まれながらのんびりと暮らすことだ。」と口々に言いました。
 しかし、チンギス=ハンはこう言います。
 「人生最大の幸福は敵を撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘をわが物とし、その悲しむ顔を見ることだ。」と言うのです。
 これは、モンゴル軍の残酷さを決定づけた言葉だったのでしょう。
 言葉の裏側は・・・?
 しかし、その言葉をそのまま受け取ってはダメです。
 そもそも、略奪や虐殺というのは兵站の概念が薄かった中世においては常々行われてきたことです。
 そして、チンギス=ハンの言葉はまだ遊牧民族のままボケている将軍たちを一喝したとも捉えられます。
 逆に、自分達が敗北してしまうと、そういう目に合ってしまうということを暗に示唆したのかもしれません。
 虐殺が行われなかった地域もあった
 モンゴル帝国は逆らう地域や国に対しては徹底的に虐殺を行いましたが、早い段階で降伏した国には格別の慈悲があったそうです。
 この事実から、徹底的に残酷さに振り切っていたのはある意味対外的に「従わないとこうなるぞ。」というアピールをしていたのかもしれません。
 また、降伏した国の貴族や民族、宗教をしっかりと重んじる方向にあったらしく、あれだけ徹底して虐殺を行ったイスラム教でさえ保護の対象であったほどなのです。
 パクスモンゴリカによる花開いた文明
 モンゴルの世界征服によって、良い影響も少なからずありました。
 それが交易の自由化です。
 それまで、ユーラシア大陸は小競り合いが頻発しており、とてもではありませんが商人が陸路で行き来するのは危険でした。
 しかし、ヨーロッパから東アジアまでを結ぶ大国が成立したことにより、シルクロードの安全性が確保されたのです。
 これによって、帝国領土内の様々な人種が自由に行き交う時代が到来しました。
 パクスモンゴリカはわずか百年ほどで瓦解することになりましたが、その影響は大きく、モンゴル帝国の庇護の元、諸地域では経済活動の発展が促されたのです。
 まとめ
 モンゴルより残酷だった日本の鎌倉武士
 いかがでしたでしょうか。
 モンゴル帝国の残酷さを歴史的事実と共に紹介していきましたが、モンゴル帝国が日本を攻めた「元寇」ではどのような残虐行為が行われたのでしょうか。
 元寇はそれまで、日本側が苦戦の末退けたという認識が強かったですが、昨今の研究ではいい勝負であったという説が広まっています。
 事実、元朝側の資料では、このような記述があります。
・やつらは自分で自分の国の町を焼き払う。(焦土作戦
・やつらは船の中に糞尿を打ち込んでくる。
・捕虜を盾にして進撃しても、捕虜ごと弓矢を撃ってくる。
・武士の弓矢はモンゴルの弓矢より長大な射程があり、威力もすさまじい。
 モンゴル帝国が残酷であったのはわかりましたが、もしかすると、当時の日本はモンゴル軍を恐れさせるほど残虐だったのかもしれませんね。
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 ウィキペディア
 バグダードの戦い(英:Battle of Baghdad سقوط بغداد)、あるいは「バグダッド包囲戦」(英:Siege of Baghdad)は、1258年にチンギス・ハーンの孫にあたるフレグ率いるモンゴル軍がアッバース朝バグダードを包囲した戦いである。モンゴル軍によって攻略されたバグダードは徹底的に破壊され、市内に存在していた知恵の館や数々の図書館に収蔵されていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によって燃やされるか、または、川に捨てられた。これによってイスラム文明が築いた多くの文化遺産が地上から消失した。
 背景
 現在のイラクの首都にあたるバグダードは、当時アッバース朝第37代カリフのムスタアスィムが統治するアッバース朝の首都であった。最盛期のこの町は東西交易の中心地として繁栄を極め、産業革命以前の世界最大の都市となり、100万を超える居住者と6万の精強な軍隊を誇った。しかし、1200年代なかば頃にはその力と影響力は衰えていた。
 そうした時期、1253年頃より、チンギス・カンの孫にして、時のカアン・モンケの弟であったフレグを先鋒とするモンゴル帝国の大規模な西征が始まることとなる。
 攻囲軍の構成
フレグと郭侃が率いるモンゴル軍は1257年11月にバグダードを攻囲した。フレグはモンゴル軍史上最大規模の軍隊を率いていたとされる。モンケの命令に基づき、全モンゴル軍の10分の1の兵士がフレグの軍に編成された。攻撃部隊には大規模なキリスト教徒の派遣団がいた。主なキリスト教徒軍はグルジア人だったようで、彼らは破壊活動に従事した。フランスの歴史家アラン・ドゥマルジェによると、アンティオキア公国からのフランク人部隊も参戦していた。中国人の銃の専門家1000名[3]も加わっていた。 
 包囲攻撃
 フレグはムスタアスィムに降伏を要求したが、ムスタアスィムは「バグダードを攻撃すればアラーの復讐を受けることになろう」と警告して降伏を拒否した。にもかかわらず、ムスタアスィムは軍隊の増強やバグダードの城壁の強化をしていなかった。イギリスの中東戦史家デビッド・ニコルは次のように述べている。「ムスタアスィムは戦争の準備を怠っただけでなく、フレグの要求に従わなかったことでバグダードの破滅を決定付けてしまった。もしムスタアスィムがモンゴルのハーンの権威を認めていたならば、モンケはムスタアスィムの命を取りはしなかっただろう」。
 14世紀のペルシャで描かれたフレグ軍による攻囲の様子
 バグダード包囲攻撃の前、イラン高原の山岳地域を根拠地としていたニザール派の教主フルシャーが帰順したことによって、多くの山城が開城もしくはモンゴル軍の包囲攻撃によって陥落し、難攻不落をうたわれていた中心的拠点のアラムート城塞もモンゴル軍に引き渡されたことでほぼ無力化されてしまっていた。アラムートが陥落し、次いでアッバース朝の攻略に取り掛かったフレグはハマダン経由でバグダードへ西進、諸将に命じて道中のザグロス山脈周辺の諸勢力の攻略も併せて行った。
 フレグはチグリス川の付近で軍を東西に分割した。アッバース朝軍は西岸から攻撃するモンゴル軍は撃退したが、東岸からの攻撃に耐えられなかった。モンゴル軍はアッバース朝軍の後方の堤防を破壊し、水攻めを行い、アッバース朝軍の多くはなすすべなく虐殺されるか溺死した。
 郭侃の命令でモンゴル軍の中国人部隊が柵と溝を建築し、攻城兵器とカタパルトでバグダードを包囲した。攻撃は1月29日に開始された。モンゴル軍の攻撃は包囲攻撃の理論通りに迅速に行われ、2月5日、バグダードの城壁はモンゴル軍に破られた。ムスタアスィムはフレグと交渉しようと試みたが、時既に遅く、拒絶された。
 かつてバグダードにはマンスールが築いた難航不落の「円城」があった。しかし、サマラに遷都したときに放棄され、サマラからバグダードへ再度遷都した頃には荒廃していた。そこでアッバース朝チグリス川の東岸に新たにカリフの宮殿と市街地の城壁を造り直した。しかしこれによって、チグリス川東岸から襲来する勢力からの圧力を直に受けやすくなり、カリフ権力の弱体化に拍車をかけ、また、バグダードが容易に攻略された原因になったと言われている。
 2月10日、ついにアッバース朝は降伏。モンゴル軍は2月13日にバグダードに流れ込み、それから1週間にわたって虐殺、強姦、略奪、破壊を繰り広げた。
 破壊と殺戮
 “モンゴル軍は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った。黄金づくりの宝石で覆われたベッドやクッションはナイフで破壊され、断片さえも粉砕された。ハーレムのベールに隠れる者は路地に引きずられ、陵辱された。一方的な殺戮によって市民は死に絶えた。”
―――ワッサーフ(歴史家のベルトルト・シュプーラーによる引用)
多くの歴史的記述がモンゴル軍の残虐行為を詳述している。バグダードの市民は逃げようとしたがモンゴル軍に捕らえられ、女は幼児から老婆に至るまで徹底的に強姦され、子供から老人に至るまでことごとく虐殺された。14世紀の歴史家ワッサーフは「死者は数十万人であった」と記述している。ニューヨーカー誌のイアン・フレイザーは「20万人から100万人に及ぶ死者を計上した」と記している。20万から80万人、また200万人とするものもある。
 15世紀のフランスで描かれた幽閉されるムスタアスィムの様子
 モンゴル軍は市街を蹂躙し、モスク、宮殿、図書館、病院を略奪、破壊し尽くし、何世代にもわたって保たれていた壮大な建築物は消失した。薬学から天文学にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していたバグダードの知恵の館は破壊された。「モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。
 ムスタアスィムは郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺と財宝の略奪の様子を見せつけられた。その後ムスタアスィムは敷物に巻かれ、モンゴル軍の軍馬に踏み殺された。これは貴人に死を賜るときのモンゴル流の礼儀であった。モンゴル軍はムスタアスィムの子供たちも殺害、『集史』によれば、唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。
 モンゴル軍が陣地をわざわざバグダードの風上に移動するほど、大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。モンゴル軍は降伏を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊したが、降伏した都市は破壊しなかった。これはモンゴル軍の戦術だった。
 “1258年当時のイラクは現在のイラクとは違う。農業は都市の運河によって数千年守られ、バグダードは世界一輝かしい知の中心地だった。モンゴル軍によるバクダードの破壊はイスラム教に回復不可能な心理的な痛手を負わせた。既にイスラム教は保守的になっていたが、このバグダードの蹂躙によって、イスラム教の知的開花は潰えてしまった。アリストテレスペリクレスのいるアテネ核兵器により消滅する様を想像してほしい。モンゴル軍がどれだけ残酷であったか理解いただけよう。モンゴル軍は灌漑運河を徹底的に破壊した。これと殺戮による過疎化とによってイラクはもはや再起不能の状態に陥り、衰退の一途を辿ることとなった。”
―――スティーブン・ダッチ(ウィスコンシン=グリーンベイ大学)
 その後、モンゴル軍はシリアに侵攻するが、ムスタアスィムの叔父をカリフとして擁立したエジプトのマムルーク朝を相手に1260年のアイン・ジャールートの戦いで大敗。そのまま中東から撤退した。
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☳29〕─2─済州の韓国人は生きる為に日本に密航していた。済州4・3事件。~No.103 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 古代から、朝鮮半島を逃げ出した難民にとって日本列島は逃亡地であった。
 百済は日本より豊かだったが、統一新羅・高麗・李氏朝鮮は日本より貧しかった。
 日韓併合後、貧し朝鮮人は豊かな日本への民族大移動が始まった。
   ・   ・   ・   
 古代から、朝鮮半島や中国大陸から日本列島へ逃亡・避難・亡命した中国人や朝鮮人は数多くいた。
 明治時代まで、日本列島から朝鮮半島や中国大陸へ逃亡・避難・亡命した日本人はいなかった。
 大正時代からは、日本人のマルクス主義者・共産主義者は日本を逃げ出して中国やソ連に亡命していた。
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 2024年4月3日 YAHOO!JAPANニュース ハンギョレ新聞「生きるために済州を離れたのに、海が墓場になった…済州4・3、密航の実態
 密航を試みて取り締まりで摘発された事例も 「4・3の時期、1万人余りが日本に渡ったもよう」
 連合国最高司令官総司令部GHQ)が作成した韓国から日本への密航ルート。1949年1~6月に密航した韓国人は1327人(282隻)で、このうち済州道民は69人(3隻)となっている。同地図は、米国立公文書記録保管局(NARA)所蔵のGHQの文書を合成したもの
 済州(チェジュ)4・3抗争は済州の人々の人生を根本から覆した。生と死の境に立たされた済州の人々は死を逃れて島を脱出した。親や兄弟を失い、頼れるところもなく、失意と絶望の日々を送っていた人々も島を離れた。命がけで密航船に身を預けた人たちが行き着いたのは、日本の大阪だった。日本国内の4・3遺族は確認されているだけで850人あまり。およそ1千人を超えるものと推定される。慣れない土地で自らを鍛えながら根を下ろした人々は、今も4・3の記憶を胸に抱いて故郷に想いを馳せながら、「在日」として生きている。
 「済州を発って日本に向かっていた密航船が、日本の対馬近くに来て荒波に遭って破船し、乗客約40人のうち20人あまりが死亡したという悲報が届いた」
 4・3抗争当時、済州で発行された「済州新報」(1947年5月24日)は、対馬付近で海難事故に遭い、済州道民20人あまりが死亡した事実をこのように1段の記事で報じた。「密航船遭難で約20人が犠牲」という見出しの記事によると、密航船は5月15日に咸徳(ハムドク)浦口を出港し日本に向かう途中の20日頃、対馬近海で暴風雨により船が壊れ、惨事が起きた。死と貧困から逃れるために旅立った道が、二度と戻ることのできない道となった。
 以前ハンギョレのインタビューに応じたHさん(97、東京在住)は、1947年の3・1事件直後、警察から逃れて隠れ続け、密航船に乗った。ある日の夜、親戚の家に隠れていたHさんを母親が訪ねて来た。「私について来なさい。ここにいたら死ぬ。お前の兄さんが日本にいるから、食べてはいけるだろう」。母親は真夜中、息子を咸徳浦口から密航船に乗せた。それが親子の最後だった。Hさんの兄と甥は4・3抗争の時に犠牲になった。Hさんが密航した時期は、対馬付近で密航船が沈没し、約20人の済州島民が死亡した時期に近い。4・3抗争当時、生と死の狭間に立たされた彼らは、子の命を守るために財産を処分した親の手に引かれ、真夜中に小さな船の船倉に身を預けた。
 日本で暮らし植民地解放前後に韓国に戻った人々は、再び日本に渡った。社会的混乱の中で経済難が深刻な時期だった。米軍政は1945年12月から南海岸の多くの港で頻繁に行われる密航の取り締まりに乗り出し、翌年2月には5トン以上の船舶は全て米軍政に登録するようにしたが、密航を防ぐことはできなかった。
 「解放と独立は言葉だけで、希望はおろかどうやって暮らしていくかも漠然としており、食べ物もなく、職を求めてもままならず、再び祖国を離れ永別した倭国(日本)に戻ろうとする悲劇の現象」(釜山新聞、1946年8月22日付)が後を絶たなかった。「密航で再び日本に渡る同胞が毎日20~30人以上」(朝鮮日報、1946年1月30日付)もいた。
 しかし、密航を試みた多くの人々が取り締まりによって摘発された。日本政府の発表によると、1946年4月から1947年3月の間に、日本に密航して逮捕され送還された韓国人だけで2万6415人(独立新報、1947年4月24日付)にのぼり、逮捕を免れた数はこれよりはるかに多い。
 しかし、生きるための密航は死の道に繋がっていた。密航途中にも溺死者、餓死者が続出し、密航に成功しても取り締まりに摘発され、収容所に入れられた後、コレラなどで死亡した人もいた。朝鮮戦争直前の1950年3月、釜山市の影島(ヨンド)を出港した15人が乗った3トンの密航船が日本に向かう途中、対馬付近の海岸で暴風に遭い沈没し、済州道民など4人が死亡、11人が救助された。1953年3月には済州出身のCさん所有の春光号(47トン)が、1人当り1万6千円を受け取り密航者45人(男15人、女30人)を乗せて釜山港を出港したが、陸軍諜報隊に捕まったことあった。当時、逮捕された人たちの半分は高校生だった。
 連合国最高司令官総司令部GHQ)の文書によると、日本の警察は1949年の1年間に日本に到着した密航者数を、検挙者6630人、未検挙者2807人とし、密航船は520隻だと集計を出した。しかし、知られていない密航者の数を含めると、数はこれよりはるかに多いものと推定される。当時、日本の対馬警察の報告書には「韓国内の政治および思想の影響」、「経済的困窮」、「日本に居住する家族および親戚と一緒に暮らすため」、「密輸で金を稼ぐため」などの理由で韓国人の密航が増えているとの分析が記載された。対馬警察はまた、最近韓国内の密航斡旋(あっせん)業者の助けを借りて団体で密航が行われており、密航に1人当り5千~1万円を払っていると報告した。
 立命館大学のムン・ギョンス名誉教授は「在日韓国人の中には、韓国の国家暴力や戦争の現場を逃れて来た人がかなりいた。4・3の時期にも済州の人々が死と迫害を逃れて日本に渡ってきたが、その数は1万人余りと推定される」と語った。
 ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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☶57〕─3─岸田首相が焦り「訪朝計画」の危うさ。~No.463No.464No.465 

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 新保守の安倍晋三元総理は外交能力は世界レベルであったが、エセ保守やリベラル左派の外交能力は稚拙で世界に通用しない。
 つまり、安倍晋三元総理亡き現代日本の外交能力は敗戦後の日本に近い。
 「日本は外圧に弱い」は、日本民族の歴史、戦前までの日本ではなく、敗戦後の日本、現代の日本の事である。
 外国語を饒舌に話せる事が外交能力ではなかった、問題は国家像、志であった。
 それこそ、江戸時代後期から明治にかけての日本人の方が、数段と優れていた。
 中国・韓国・北朝鮮に対する外交姿勢を見れば一目瞭然である。
 エセ保守やリベラル左派は、反米的な親中派媚中派、親韓国派、親北朝鮮派である。
 メディアや教育もそうと言える、そのわけは靖国神社問題、第二回南京事件問題、従軍慰安婦・徴用工問題、関東大震災などにおける発言を見れば明らかである。
 彼らの主張は、日本の国益や名誉・体面を守る事のない、両国の友好、ウインウインの関係である。
 譲歩外交。軟弱外交。お飾りのサイレント日本人。
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 2024年4月2日17:00 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「岸田首相が焦り「訪朝計画」の危うさ 北朝鮮、打診暴露は会談への〝奇策〟拉致問題、政治的窮地で「下手に動く」恐れ
 岸田首相は、金正恩総書記(下、朝鮮中央通信=共同)と会談に臨み、全拉致被害者を奪還できるのか。
 【ニュースの核心】
 岸田文雄首相は28日、2024年度予算成立を受けて官邸で記者会見を開いた。北朝鮮金正恩キム・ジョンウン)総書記との会談について、「引き続き、私直轄のハイレベルでの対応を行っていきたい。拉致問題をはじめとする諸懸案解決に向けて動かしたい」と語った。拉致被害者や被害者家族が高齢化するなか、日朝首脳会談による「全被害者の即時一括帰国」が期待される。ただ、北朝鮮側は「拉致問題は解決済み」という主張を取り下げていない。外交は機を逃してはならないが、成果を焦って急いては事を仕損じる。ジャーナリスト、長谷川幸洋氏が、岸田首相が模索する訪朝計画の危うさに迫った。
 【グラフィックで見る】政府が認定した日本人拉致被害者(未帰国)
 北朝鮮金正恩総書記の妹、金与正(キム・ヨジョン)労働党副部長が岸田首相のを一方的に暴露したかと思えば、翌日には一転して「交渉を拒否する」と発表した。この展開をどうみるか。
 与正氏は25日、談話で「岸田首相から『できるだけ早い時期に直接、会いたい』という打診があった」と発表した。与正氏は「(日本が)拉致問題に没頭するなら、首相の(訪朝)構想は人気取りに過ぎない。これ以上、解決することはない」と牽制(けんせい)している。
 これに対して、林芳正官房長官が「まったく受け入れられない」と反論すると、与正氏は翌日、「日本側とのいかなる接触も交渉も無視し、拒否する」と応じた。以上が、これまでの経過である。
 なぜ、与正氏は、岸田首相の訪朝打診を暴露したのか。
 実は、彼女は1カ月前の2月15日にも、日朝関係について前向きに語っている。「あくまで個人的な見解」と断りながら、「拉致問題を障害物としなければ、首相が平壌を訪問する日が来ることもあり得る」と表明していた。
 「キューバと韓国」国交樹立に反応
 岸田首相は2月9日、衆院予算委員会で日朝関係の現状を変える必要性を語っていた。そこから、「北朝鮮は首相発言に反応した」という見方も出たが、それは甘い。
 そうではなく、私は「北朝鮮は2月14日に発表された、キューバと韓国の国交樹立に反応した」とみる。
 北朝鮮にとって、キューバは数少ない友好国、兄弟国だ。それが仇敵の韓国と国交を結ぶとは、大ショックだったに違いない。反米の同志であるキューバが韓国に接近したとなれば、自分も日本との関係改善に活路を見いだそうとしても不思議ではない。
 今回、与正氏が日本にボールを投げてきたのは、それほど日本との関係改善を切望している証拠とみるべきだ。
 メロドラマ風に言えば、「私が『会ってもいい』というサインを送ったのに、あなたはいつまで放っておくのか。『会いたい』と最初に言ったのは、あなたでしょう」という話である。
 つまり、待ち切れなくなって、ラブレター公開という奇策に打って出たのだ。
 そうだとすれば、与正氏が自ら暴露した会談を拒否して、強気を装ったとしても、岸田首相が慌てる必要はない。むしろ、下手に動けば、相手の術中にはまるだけだ。
 私は「岸田首相が下手に動いてしまう事態」を心配している。いま政治的窮地に陥っているのは、首相の側であるからだ。「政治とカネ」の問題はもちろん、最近では、政府の有識者会合(内閣府のタスクフォース)に中国国営企業のロゴが入った資料が提出されていた事件も起きた。
 そんななかで、起死回生の一発逆転を狙って「訪朝で成果を上げよう」と焦れば、逆につまずく展開になりかねない。例えば、数人の拉致被害者の生存が確認できたら、それで食料支援するのか。残りの日本人はどうなるのか。
 北朝鮮は、岸田首相が政治的に瀕死(ひんし)状態であるのは、織り込み済みだ。だからこそ、危ない。拉致問題の解決は「時間との戦い」になっている。だからといって、岸田首相の政治的延命のために拉致問題を利用してはならない。
長谷川幸洋(はせがわ・ゆきひろ) ジャーナリスト。1953年、千葉県生まれ。慶大経済卒、ジョンズホプキンス大学大学院(SAIS)修了。政治や経済、外交・安全保障の問題について、独自情報に基づく解説に定評がある。政府の規制改革会議委員などの公職も務めた。著書『日本国の正体 政治家・官僚・メディア―本当の権力者は誰か』(講談社)で山本七平賞受賞。ユーチューブで「長谷川幸洋高橋洋一のNEWSチャンネル」配信中。
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 4月2日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「北朝鮮鬼姫・金与正「日朝交渉拒絶」談話に狼狽えるな…何せ相手は「3日後に何が起こるか分からない国」だから
 サッカー日本代表の入国拒否
 いまから35年も前、私がまだ駆け出しだった頃、ソウルで著名な北朝鮮専門家から、こう諭されたことがあった。
 【写真】こんな北朝鮮、見たことない…!写真家が29年撮り続けた“未知の国”の日常
 「わが国(韓国)は、3年後に何が起こるか分からない国だ。だが北韓(北朝鮮)は、3日後に何が起こるか分からない国だ。それには吉事も凶事もあるが、とにかく一寸先も読めないのが、北韓という国なのだ。だからあの国を見る時は、いつも心の片隅に諦念を持ちながらも、あくせくしないことだ」
 先週の日本と北朝鮮の様々な「応酬」を見ていて、まさにこの箴言を思い起こした。まずは日本にとって「吉事」から述べよう。
 3月23日に若い宮本恒靖会長(47歳)体制に代わった日本サッカー協会が、30日、「FIFA規律委員会の決定について」と題した発表を行った。
 〈 3月26日に開催予定だったFIFAワールドカップ26アジア2次予選 兼 AFCアジアカップサウジアラビア2027予選 朝鮮民主主義人民共和国代表対SAMURAI BLUE(日本代表)の試合中止を受けて、3月30日、FIFA規律委員会よりこの試合は0-3で朝鮮民主主義人民共和国代表の敗戦として没収するとの決定が通知されました 〉
 朝鮮民主主義人民共和国とは、北朝鮮のことだ。予選はホーム&アウェイ方式で行われるが、3月21日に東京・国立競技場で行われたホーム戦は、周知のようにMF田中碧(デュッセルドルフ)が前半2分に決めた得点(実に考え抜いた鮮やかなシュートだった! )を、日本が守り切って、1-0で勝利した。
 次のアウェイ戦は、26日に平壌金日成(キム・イルソン)スタジアムで行われる予定だったが、北朝鮮側が日本代表の入国を、突然拒否。第三国での開催を模索していたが、調整がつかなかった。
 拒否した理由は、東京で起こっている感染症を恐れたという説が有力だ。『東京新聞』(3月22日付)はこう報じている。
 〈 東京都内で今年、極めて致死率が高い「劇症型溶血性レンサ球菌感染症(STSS)」の患者数が、過去最多だった昨年を大きく上回る勢いで増加している。都は手足の痛みや発熱などの症状がある場合、すみやかに医療機関を受診するよう呼びかけている。
 22日の都感染症対策連絡会議で報告があった。2024年の患者は17日時点で88人。141人だった23年と比べ3倍のペースで感染が確認されている。23年は約3割の42人が死亡した(以下略) 〉
 日本では小林製薬問題一色でスルーされているが、韓国ではこのニュースを大々的に報じた。それに北朝鮮が、「すわ、コロナ禍が再現されたら大変だ」と過剰に反応した。でも、他の理由もあったのかもしれない。
 ともかく、就任したばかりの宮本会長は、北朝鮮の突然の言動に当惑しながらも、3月30日にこう述べた。
 「3月26日に平壤で試合が行われなかったことについて、日本時間の本日(30日)未明にFIFA規律委員会の決定内容を受け取りました。この試合の取り扱いに関するステイタスが更新されたことは良かったと思います。
 ワールドカップ予選突破に向けて、森保監督やスタッフ、選手たちには引き続き良い準備をして試合に臨んで欲しいですし、JFAとしてもしっかりとサポートをしていきます」
 つまり、FIFAの裁定により、2試合合わせて日本が3-0で勝利したことにされたのだ。
 ここまでが「吉事」で、ここからは「凶事」である――。
 朝鮮中央通信「金与正談話」が意味するもの
 日本の一部関係者の間で「鬼姫」という隠語で呼ばれている金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党副部長が、3月25日に朝鮮中央通信を通して談話を発表した。
 金与正副部長は、言わずと知れた北朝鮮の独裁者、金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の唯一の妹で、事実上のナンバー2だ。彼女が日本に向けて談話を発表したのは、2月15日以来のことだった。
 朝鮮中央通信の「朝日首脳会談は日本首脳の政治的勇断が必要」と題した「金与正談話」の全文は、以下の通りだ。
 〈 先月、私は日本の岸田首相が国会で、朝日首脳会談の問題に意欲を示したことに対して、個人的な所見を明らかにしたことがあった。
 最近にも岸田首相はまた別の経路を通して、可能な早い時期に、朝鮮民主主義人民共和国国務委員長と直接、会いたいという意向を、われわれに伝えてきた。以前にも述べたように、朝日関係改善の新たな出路を切り拓くのに重要なことは、日本の実際的な政治的決断なのだ。
 単純に首脳会談に臨もうという心持ちだけでは、不信と誤解で満ち溢れた両国の関係を解きほぐすことができないのは、これまでの朝日関係の歴史が与えた教訓である。
 日本がいまのようにわれわれの主権的権利の行使に干渉しようとして、もはや解決済みで知る由もない拉致問題に依然として固執するならば、首相の構想が人気取りに過ぎないという評判を避けられないことになる。
 明白なのは、日本が朝鮮民主主義人民共和国を、常に敵対視し、主権的権利を侵害する時には、われわれの敵とみなされ、夜のとばりが下りてしまう。そしてそこから抜け出すことはできないということだ。
 心から日本が両国の関係を解きほぐし、近い隣人になり、地域の平和と安定を保障するのに寄与したいのであれば、自国の全般的な利益に符合する戦略的な選択を行う政治的英断を下す必要がある。
 公正で対等な姿勢で、われわれの主権的な権利と安全利益を尊重するのならば、朝鮮民主主義人民共和国の自衛力強化は、どんな場合にも日本に安保上の脅威を与えないことであろう。
 (岸田)首相は、わが政府の明白な立場を知って言動を行わねばならない。自分が望むから、決心したからと言って、わが国家の指導部と会うことができるとか、会ってやるとかいうのではないことを、(岸田)首相は分からねばならない。
 主体113(2024)年3月25日 平壌(完) 〉
 以上である。この中で気になるのは、「最近にも岸田首相はまた別の経路を通じて」という語句である。
 最近の日朝関係については、2月20日アップした本コラムで詳述した通りだ。

                  • -

 参照)「日朝首脳会談」実現に向けて整った「4つの好条件」…北朝鮮からの“異例のサイン”に岸田首相はどう応えるのか? ----------
 岸田首相は現在、何らかのルートを通じて、北朝鮮とのパイプを築いている。そのことは、下記の自身の発言から明らかだ。
 「日朝平壌宣言に基づき、北朝鮮との諸問題を解決するためにも、金正恩委員長との首脳会談を実現すべく、私直轄のハイレベルでの協議を進めてまいります」(1月30日の施政方針演説での発言)
 「私が自ら必要な判断を行います。具体的にさまざまな働きかけを行っております。そういった現状であります。昨今の日朝関係の現状に照らし、大胆に現状を変えなければならない必要性を強く感じています。私自身が主体的に動いて、トップ同士の関係を構築して参ります」(衆院予算委員会での答弁)
 ところが金与正副部長は、「最近にも岸田首相はまた別の経路を通じて」と述べている。これは一体、何を意味するのか? 
 「もう一つの代表メンバー」が来日していた?
 最近あった「日朝関係」と言えば、思い当たるのは、冒頭で記したサッカーの「FIFAワールドカップ26アジア2次予選 兼 AFCアジアカップサウジアラビア2027予選」しかない。
 3月21日に国立競技場で行われたゲームには、日本中が釘付けになったが、その裏で北朝鮮から来日した「もう一つの代表メンバー」が、岸田政権と「交渉」していた可能性がある。
 さらに、26日に平壌で行われる予定だった試合のため、日本から当然、「先遣隊」が現地入りしているはずだから、そこに「交渉チーム」も加わっていた可能性がある。
 サッカーの試合は中止となったが、日朝交渉は「開催」された。そうしたことを「与正メッセージ」は示唆しているのかもしれない。
 ともあれ、この「鬼姫談話」は、日本で大きな反響を呼んだ。談話が発表された3月25日午後の林芳正官房長官の記者会見では、異例なことに延べ5人もの記者が、北朝鮮問題について次々に質問。林官房長官の回答は、それぞれ以下の通りだった。
 (金与正談話について)「金与正副部長が再度、談話を発出したことは承知しております。岸田総理はこれまでも、北朝鮮との間の諸懸案の解決に向け、金正恩委員長との間で首脳会談を実現すべく、総理直轄のハイレベルで協議を進めていきたいと述べてきておられます。そのために様々なルートを通じて、働きかけを絶えず行ってきているところであり、引き続き取り組みを進めていく考えでございます」
 (拉致問題の扱いについて)「北朝鮮側の発表の一つ一つにコメントすることは差し控えたいと思いますが、拉致問題がすでに解決されたとの主張は、まったく受け入れられないと考えております。わが国としては日朝平壌宣言に基づき、拉致・核・ミサイルという諸懸案を包括的に解決するという方針に変わりはないということでございます。
 岸田総理はこれまでも、北朝鮮との間の諸懸案の解決に向けて、金正恩委員長との間の首脳会談を実現すべく、総理直轄のハイレベルで協議を進めていきたいと述べてきておられます。そのために様々なルートを通じて働きかけを絶えず行ってきておりますが、それ以上の詳細については今後の交渉に影響する恐れがあるため、明らかにすることは差し控えたいと考えております」
 (核・ミサイル問題にについて)「北朝鮮側の発表の一つ一つについてコメントすることは差し控えたいと思いますが、わが国としては、日朝平壌宣言に基づき、拉致・核・ミサイルといった諸懸案を包括的に解決するとの方針に変わりはございません。岸田総理はこれまでも、北朝鮮との間の諸懸案の解決に向けて、金正恩委員長との首脳会談を実現すべく、総理直轄のハイレベルで協議を進めていきたいと述べてきておられます。
 様々なルートを(通じて)そのために働きかけを絶えず行ってきておりますが、それぞれの詳細については今後の交渉に影響を及ぼす恐れがあるため、明らかにすることは差し控えたいと考えております」
 (金正恩委員長からの能登半島地震のお見舞いの電報に対する返信について)「政府としては引き続き、被害に遭われた方への対応に全力で取り組んでいるところでございまして、各国首脳等からのお見舞いのメッセージの逐一に対して、返信等は現時点で行っていません。いずれにしても日朝間のやり取りについては、ご指摘のメッセージに対する対応も含めて、事柄の性質上、お答えを差し控えたいと考えております」
 (可能な限り早期の日朝首脳会談について)「岸田総理はこれまでも、北朝鮮との間の諸懸案の解決に向け、金正恩委員長との首脳会談を実現すべく、総理直轄のハイレベルで協議を進めていきたいと述べてきております。そのために様々なルートを通じて働きかけを絶えず行ってきておりますが、ご質問の点を含めて、それ以上の詳細については、今後の交渉に影響を及ぼす恐れがあるため、明らかにすることは差し控えたいと考えております」
 ところがここから、事態は「急変」していく。北朝鮮側が、林官房長官の2番目の拉致問題に関する回答に、敏感に反応したのだ。
 「朝日首脳会談は、われわれの関心事ではない」
 金与正副部長が3月26日、前日に続いて再び日本に向けた談話を発表したのである。朝鮮中央通信の見出しは、「金与正副部長、日本側との接触、交渉を拒否」。「鬼姫」の本領発揮とも言える内容で、その全文は、以下の通りだ。
 〈 日本側は25日午後、内閣官房長官の記者会見を通して、拉致問題が解決済みということに対して、絶対に受け入れることができないという立場を明白にした。あるいは彼ら(日本)とは何の関係もない、核やミサイル懸案とかいう表現をこね繰り出して、われわれの正当防衛に属する主権の行使に干渉し、問題視しようとした。
 日本は歴史を変えて地域の平和と安定を企図し、新たな朝日関係の第一歩を踏み出そうという勇気がまったくない。解決すべきものを解決もできず、また解決することもない克服不可能な問題を握りしめている日本の態度が、そのことを物語っている。
 最近何度か周囲の耳目を引いた岸田首相の朝日首脳会談関連発言は、自己の政治的目的によるものと見ることができる。史上最低水準の支持率を意識している日本の首相の政略的な打算に、朝日関係が利用されてはならない。
 「前提条件なしの朝日首脳会談」を要請し、先に門を叩いてきたのは日本側であるのに、ただわれわれは、日本が過去にとらわれず新たな出発を行う姿勢があるのであれば、歓迎しようという立場を明らかにしただけだ。
 わが政府は、日本の態度をもう一度、明白に把握したのであり、それによる結論は、日本側とのあらゆる接触も、交渉も無視し、拒否するものである。朝日首脳会談は、われわれにとって関心事ではないのだ 〉
 このように、大変手厳しい口調に突然、変化したのだ。さらに、ダメ押しのような朝鮮中央通信の報道が続いていく。3月29日、崔善姫(チェ・ソンヒ)外相の日本向け談話が発表された。
 〈 岸田日本国首相が「拉致問題」に再び言及し、朝日間の様々な懸案の解決に向けて、従来の方針のもとで引き続き努力していくという立場を明らかにした。
 現実を必死に拒否し、取り繕いながら、実現することができないこと、解決する方法がない問題に執着し、最後まで固執する理由に対して、理解することができない。われわれは日本が言ういわゆる「拉致問題」と関連して、解決してやることもないばかりか、努力する義務もなく、またそのような意思もまったくない。
 もう一度、明白に強調しておこう。
 朝日対話はわれわれの関心事ではなく、われわれは日本のそのような接触の試図に対しても、許容しないことにする。そして、日本がわれわれの主権行使を妨害し、干渉することに対しては、常に断固として対応していく。
 これがわれわれ共和国(北朝鮮)政府の立場だ。
 主体113(2024)年3月29日 平壌(完) 〉
 同日、朝鮮中央通信は「おまけ」も付けた。タイトルは、「李龍男駐中国朝鮮大使が、日本側と会うことはない」
 〈 28日、中国駐在の日本大使館関係者が、わが大使館参事官に電子メールで接触を開始してきた。われわれは日本側と、会うつもりはない。私は朝鮮民主主義人民共和国が日本側と、そのような性急に会うことはないという立場を、いま一度明白にする(完) 〉
 このように、北京の日本大使館からメールで連絡があったことまで暴露してしまった。これでは、今後日本から何らかのアプローチを北朝鮮に取ったら、そのルートや内容まで暴露されかねない。
 そのため、日本としては動きづらくなった。北朝鮮側からすれば、それを見越して「動くな」と言ってきているとも受け取れる。
 まことに困った相手だ。こんな時は、冒頭の箴言に耳を傾けるのも一考かもしれない。
 「北朝鮮は、3日後に何が起こるか分からない。いつも心の片隅に諦念を持ちながらも、あくせくしないことだ」
 (連載第721回)
 近藤 大介(『現代ビジネス』編集次長)
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👪16〕─4・C─アドラー心理学の岸見一郎が説く「本当に優しい人」とは。~No.90 

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 2024年3月26日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポンアドラー心理学の岸見一郎が説く「本当に優しい人」とは
 【今回のお悩み】
 「本当の意味で『優しい人』とは、どんな人なのでしょうか?」
 自分に有害な影響を与える人と一緒にいたいと思う人はいないでしょう。また、自分がそんな人間になりたいとも考えないはずです。では、「優しい人」ならどんな行動をするのでしょうか? どんな意見でも受け入れてくれる人? 相手が必要なことを何でもやってくれる人? 
 【画像】家族や友人の人生に関心があれば、自分の考えをいうはず
 アドラー心理学に詳しい岸見一郎先生に訊いてみました。
 優しい人は何事も自分で決めようとはしません。自分が決めたらその決断には責任が伴うからです。たとえば、一緒に食事をしようということになったときに、何を食べるかを自分で決めずに、必ず一緒に食事をする相手に何が食べたいか尋ねる人がいます。そのような人は、「優しい人」と思われるでしょう。
 相手の意見を聞かないで決める人がいれば、そのような人をリーダーシップがあって頼りがいがあると思う人がいるかもしれませんが、二人の関係がいいときにはそう思えるだけで、関係がよくなくなれば、支配的な人だと思うようになるかもしれません。実際、関係がよくても悪くても、相手の考えを聞かないで決めるような人は支配的な人であるといわなければなりません。
 それでは、自分で決めないで相手に決定を委ねる人は支配的でないのかといえばそうではありません。そのような人は、相手の意見を尊重するので「優しい人」に見えても、決めさせているのであり、その意味で相手を支配しようとしているのです。優しさは、支配的であることの隠れ蓑です。
 なぜ相手に決めさせようとするのか。それは自分で決めれば、そのことに責任が伴うからです。この店で食事しようと決めたところ、期待していたほどおいしくなかったときに責任を取りたくないのです。
 どこで食事をするかということであれば、値段の割においしくなかったというようなことになるだけですが、人生の一大事を決めなければならないときには、「優しい」人は自分の考えをいって相手の決断に影響を与えようとはしないでしょう。
 あなたの人生だから自分で決めたらいいとか、自分のことは心配しなくていいから自分がしてみたいことをすればいいといって、優しくあろうとします。しかし、これも自分の考えを述べ、場合によっては相手を引き止めることに伴う責任を取りたくないからです。
 相手がどんな決断をしようが、自分にとっては大きな問題にならないと考える人も自分の考えを主張しません。相手に関心があれば、相手がどんな決断をするかは自分に無関係とは思えないはずです。
 たとえば、付き合っている二人が大学生であれば頻繁に会うことができますが、卒業が近づくと、二人の関係をどうするかを決めなければならなくなります。就職先がどこになるかによって、卒業後も学生のときのように近くにいて簡単に会えるとは限らないからです。就職してからも、仕事の関係で離れて暮らす必要が起きるかもしれません。
 そのようなときに、相手の意志を尊重する優しい人は、どんな人生を生きるかはあなたが自分で決めることだというでしょう。しかし、相手がパートナーであれば、「私たち」の人生どう生きるかを考えなければならないのですから、相手が決めることであっても、私とあなたとの共同の課題にして、一緒にどうするかを考えなければなりません。
 その際、相手にこうしてほしい、こうしてほしくないと自分の考えをいわないとしたら、二人がどうなってもいいとまでは考えていないとしても、二人が人生を共にすることを重大事とは考えていないといえます。
 また、パートナーでなくても、友人や家族から相談を受けるようなときにも自分の考えをいわないとしたら、相手の決断に影響を与えることに伴う責任を回避したいだけなのです。
 自分の考えをいって関係が悪化することを恐れる人もいますが、家族や友人の人生に関心があれば、自分の考えをいうでしょう。自分の考えをいい、さらに相手に翻意を促せば嫌われるかもしれません。それでも、自分の考えをいう人は相手に関心があるのであり、そうすることが一時的に相手との関係に摩擦が生じることになっても、最終的には関係が破綻することはないと相手を信頼しているのです。
 相手からすれば、どんな人生を生きるかはあなたが自分で決めることだといわれるよりは、自分の考えを率直にいってくれる人のほうが真剣に考えていることが伝わります。
 本当に「優しい人」の行動
 以上述べたことから、優しい人とはどんな人なのかをまとめると、相手に関心を持ち、必要があれば自分の考えをいう人です。自分の考えをいわない人、何でも賛成するような人は、優しく見えても相手には関心がないのです。もっとも、「あなたのためにいっている」という人が本当は自分のためにいっていることはあります。優しい人はただ相手の関心があるのでなく、本当に相手のために考えられなければなりません。
 相手に関心を持つ優しい人は具体的にどうするかといえば、まず、最後まで話を聞いて、相手の考えを理解することに努めます。考えを理解した上で賛成しないことはありますが、話も聞こうとしない人は相手に無関心であって優しいとはいえません。
 二つ以上の選択肢があるときには、それぞれのメリット、デメリットを検討します。その上で、明らかに不利になると思えるような決断をすることはありえます。その場合、決断をすることは基本的には相手の課題なので、強制することはできませんが、優しい人は相手が不利な決断しても、力になりたいというでしょう。
 さらに、一度決めたことであっても、今後その決断が誤りであることが明らかになったら撤回していい、ということも優しい人は必ず言い添えるでしょう。
 ※お送りいただいた相談内容は、編集部で厳選して編集するため、そのまま掲載されることはありません。
 Ichiro Kishimi
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🎍5〕─3・B─現代の歴史学者は「神武天皇」を無視している。~No.13 

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 2024年1月15日 YAHOO!JAPANニュース「日本史上の重要人物〈神武天皇〉を、歴史学者はなぜ無視してきたのか?
 『神武天皇歴史学』外池昇氏に聞く
 外池 昇成城大学教授
 政治的に「右」か、「左」か。そんなことにこだわる時代は、もう終わったのではないだろうか。日本の歴史における天皇という存在、そしてその「初代」とされる神武天皇についても、戦後歴史学が積み上げてきた成果と方法によって研究すべき課題がたくさん残っているのではないか――。講談社選書メチエの新刊『神武天皇歴史学』は、そうした思いを新たに抱かせてくれる意欲作だ。著者の外池昇氏に話を聞いた。
 そんなに毛嫌いしなくても…
――まず、最初にお聞きしたいのですが、神武天皇って、実在したのでしょうか。
 外池 それがいつも、まず聞かれることなんです(笑)。私の答えは、歴史上の他の人物と同様の意味では「いない」、ということになりますね。それはつまり、同時代の史料や考古学的資料で存在が確認できない、ということです。
 ただ注意したいのは、『古事記』と『日本書紀』に共通して初代天皇と位置付けられている。もちろん、記紀のある部分から向こうは歴史的事実として扱えないということは僕も賛成するんだけど、同じ本に事実と区別なく語られていて、それがかなり重要な要素になっている。おそらく、いろんな人物の事績や伝説をつなぎあわせて作られた人格だと思いますが、それとても何らかの歴史と考えられます。ですから、そんなに毛嫌いすることもないんじゃないかっていうところですね。
 幕末明治期の画家・月岡芳年が描いた神武天皇
――歴史学の対象としては、いままで避けられてきたのでしょうか。
 外池 戦前の天皇中心の「皇国史観」による日本古代史では、特に学校教育では神話も史実として扱っていたわけです。しかし、僕らの世代の歴史学は、当たり前のように戦中戦前の歴史観を否定した上に成り立っていたものだから、神話の時代は日本古代史の範疇には入らないですよね。だから戦後の歴史学ではこれまで、神武天皇神武天皇陵を中心に扱った研究は見当たらない。
 でも、神武天皇を否定した上に成り立った日本古代史でありながら、神武天皇をどう見るかという問題にまともに答えてこなかったのは、あまり褒められた態度ではなかったと思う。考古学上の発見や、新しい研究手法を受け入れて、それを妨げない範囲で『古事記』や『日本書紀』の歴史も受け入れていいんじゃないかと思いますね。
――しかし、実在が確認できない人物を歴史学で扱うというのは…
 外池 記紀に描かれた事績が、どんな史実を反映しているか、日向から大和まで東征の道のりを歩いて確認する…なんていうことも、時間があればやってみたいけれども、僕がやってきた研究はそうではなくて、おもに天皇陵、つまり天皇墓所の問題なのです。
 実在したかどうかわからないのに、墓所だけはある、というのが古代の天皇です。これは、宮内庁が「ここがそうだ」と決めている。有名なところでは、世界遺産仁徳天皇陵ですね。
 でも、こうした天皇陵の多くは、古代からそうと決められていたわけではありません。江戸時代から明治にかけて、当時の政治課題として取り組まれてきたのです。特に明治新政府は、全国規模で天皇・皇族の陵墓の洗い出しと認定作業を行っている。つまり、実在が確認できない古代の天皇が歴史的に重要な意味を持つのは、古代ではなく近代になってからなのです。
 なかでも特に神武天皇については、明治維新の際の「王政復古の大号令」にも、「諸事神武創業ノ始メニ原(もと)ツキ」とあるように、近代という時代が、その理念の中心に神武天皇をすえてきました。また、明治天皇の父の孝明天皇は、神武天皇陵にお参りすることで攘夷を実行しようと考え、神武天皇陵の認定と整備を急いだわけです。
 〈神武天皇陵については、しばしば次のような言い方がなされる。つまり、「非実在の(筈の)神武天皇に墓があるのはおかしいではないか」というようにである。しかし、歴史上確かに実在した人物の墓が不明という場合ももちろんあるし、(中略)実在しない人物でも実際には墓とされる所がある場合もある。しかしそれでも今日なお神武天皇の墓、つまり神武天皇陵が確かに存在すると聞けば、奇異の感を抱く向きも多いのではないだろうか。そのような神武天皇また神武天皇陵は現代社会の中で果たしてどのように存在しているのであろうか。〉(『神武天皇歴史学』p.20)
 日本歴史掛図の「神武天皇」。戦前の学校教育で用いられた。
 権力者は古いほうにさかのぼる
――しかしなぜ、幕末明治期に注目されたのが、神武天皇だったのでしょうか。
 外池 大化の改新天智天皇でも、建武の新政後醍醐天皇でもなく、実在が確認できなくても初代とされる神武天皇を選んでいるわけですよね。しかし、詳細に見ていくと、明治政府がいきなり神武天皇を出してきたのではなく、江戸時代からだんだん問題になっていることもわかってくる。孝明天皇も何もないところからぽんと言ったわけではなく、たとえば水戸藩徳川斉昭は、建白書でしきりに神武天皇陵に言及している。歴史上、いろんな政権が自分の正統性を示すために、どんどん古いものにさかのぼっていくということはよくあることなので、その文脈で見ればよくわかる。
 ただ、江戸中期の元禄年間に幕府が中心になって天皇陵の修築事業を行った「元禄の修陵」以前には、神武天皇はどの程度話題になっていたのか、あるいはあまり話題になっていなかったのか、それはこの本を書きながらも、実は疑問でした。この時、幕府が神武天皇陵と定めた「塚山」は、どうやら貴人の墓所ではあったことはわかるが、その後、神武天皇陵となって現在にいたる「神武田」というのはもともと何があった場所なのかも、どうもはっきりしないのです。
 また、中世から戦国時代の文献で神武天皇に言及されたものがどれくらいあるのか、おそらく江戸時代より少ないでしょう。日本の歴史を通してみたときに、神武天皇とはどんな存在だったのか、わからないことは多いのです。
――『神武天皇歴史学』では、神武天皇に関連して墓所以外の話題も扱っていますね。
 外池 この本では特に、墓所である神武天皇陵と、橿原神宮紀元節、の三つをテーマとしていますが、この柱から見えてくるのが、いずれも近代の大きな画期です。
 「文久の修陵」では孝明天皇が神武陵を定め、明治改暦の時(明治6年)には紀元節が制定され、そして、神武天皇を祀った橿原神宮の創建は明治23年(1890年)ですが、これはもちろん、国家神道など近代日本の宗教政策に大きく関わってきます。
 この橿原神宮の創建に尽力した奥野陣七は、非常に興味深い人物です。幕末には勤王運動の下役として奔走して挫折し、橿原神宮の参拝者招致に活躍して一攫千金をねらい、後に神宮と決裂して激しく確執を繰り広げる。まさに幕末明治期の激動を体現したような生涯を送ります。
 神武天皇銅像は各地に建てられている。写真は新潟市白山神社のもの。
 自分の「担当の時代」だけ見ていてもダメ
――もともと、天皇陵や神武天皇に関心があったのですか。
 外池 僕は成城大学の大学院に入ったんだけど、いわゆる歴史学科ではなく、常民文化専攻といって、民俗学もあって、歴史学もあって、というところでした。
 天皇にはもともと関心はあって、ある時、図書館で江戸時代の随筆の索引をまとめた本を見ていたら、天皇とか皇子とか皇女の項目の中に、清和天皇皇子の貞元親王(さだもとしんのう)の墓所の記述があった。その墓所は千葉の君津にある。なんでこんなところにと思ってみて他の本もいくと、明治に入るとこんどは三重県名張にもある。で、自分のほうが正しいと主張して、千葉と三重で言い合っている。
 なぜ明治時代になって、急にこんな争いが始まったかっていうと、このころ、明治政府が、皇子や皇女の伝承があったらそれを届けよとお触れを出している。届けがあれば、役人が出ていって調べて、根拠があれば指定する。それを全国でやったので、それで火がついた。で、君津も名張も、どっちも指定されなかったんだけど。
 この辺のことを論文に書いて学会誌に載せたら、私の指導教授――我妻建治先生という「神皇正統記」の研究などで著名な中世史家でした――がこれは陵墓(皇族の墓地)の問題だろう、続けてはどうか、と言われた。江戸と明治の陵墓政策の違いもあるし、地元の伝承と政府の政策の乖離という問題もある。だから僕にとっては、古墳・天皇陵っていうのは、最初から近代史のテーマなんですよ。
 〈ここでは(引用注:植村清二著『神武天皇』では)神武天皇の実在・非実在の問題は、「ただいくらか通俗的な興味をひくだけの問題に過ぎない」とされている。そしてそれにもかかわらず、神武天皇についての研究は、実在・非実在の問題を離れても価値があるものであり、しかも「紀元節や建国祭の復活から離れて、なお新しい研究の主題である価値を失わない」というのである。 この指摘は、長年月を経た今日なお新鮮である。そのことを私流に解釈してしまえば、まさに神武天皇の研究は自由でなくてはならないということである。〉(『神武天皇歴史学』p.15)
――そういう視点で研究する方は少なかったのでしょうか。
 外池 僕らの世代の研究者で近世史・近代史といえば、まあ、民権運動とか、地域経済史とかが多かったと思う。日の丸反対運動に参加しよう、とかね。でも僕の周囲ではそうでもなくて、自由にやらせてくれたんですね。
 結局、古代史だろうと中世史だろうと、歴史学の根本テーマのひとつは、「我々が生きている近代とはどういう時代か」ということにあって、自分の担当の時代だけ見ていればいいっていうわけではないでしょう。古代史の研究者も、自分たちの学問のことを考えていくと、明治のことも考えなきゃいけないだろうし、神武天皇を近代はどうとらえてきたか、ということと、それはたがいに関係しあうテーマなんじゃないでしょうか。
 ※関連記事〈初代天皇なのに、教科書に登場するのは「神武景気」だけ。この程度の知識で、ホントに良いのだろうか?〉〈神武天皇墓所は三ヵ所あった!? 幕末の混乱期、荒れ果てた「暴汚」「霊威」の地に決定した「ある事情」。〉も、ぜひお読みください。
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2019-11-27
🎌5〕─2─閉ざされた万世一系の祭祀王家・日本皇室(男系・女系の双系による直系長子相続)。~No.26No.27No.28 @ 
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 ヤマト王権の初代天皇である神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)こと神武天皇は神話上の架空ではなく史実に実在していた。
 ヤマト王権は数千年前の弥生時代古墳時代に成立し、ヤマト王家はその中で生まれ、現天皇家は正統な世襲として男系父系天皇として存在する。
 正当な非世襲の女系母系天皇は、現天皇家とは血の繋がらない別系統の新しい皇室を意味する。
 つまり、女系母系天皇問題とは、血の繋がった血統の天皇か血が繋がらないらない皇統の天皇かの選択である。
 女系母系天皇を選ぶという事は、新たな初代天皇を即位させる事である。
 初代神武天皇を消し去るとは、現天皇家である正統な世襲として男系父系天皇を廃絶する事を意味する。
 女系母系天皇即位賛成派のエセ保守とリベラル左派そして8割の国民世論の目的はそこにある。
 メディアと教育は、反宗教無神論と反天皇反民族反日を子供達に教える為に活動している。
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 現代日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持っていない為に、世襲と言っても現代の世襲と昔の世襲が違う事が理解できない。
 それは、自然に対しても愛国心皇国史観でも同様である。
 日本国や日本人の間から、急速に民族主義が消えつつある。
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🗾40〕─1─旧石器人や縄文人を死滅させた鬼界カルデラと姶良カルデラの大噴火。〜No.167No.168No.169 

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 日本の自然災害において、科学的想定外は存在しない、全てが歴史的想定内である。
 日本の自然には、安全神話は存在しないし、啓示宗教は無力である。
 日本民族は、地獄の釜(マグマ)の薄板(岩盤)の上で生活して生きてきた。
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 日本民族の宿命とは、海外から新しい知識、技術、文化、その他を絶えず貪欲に受け入れなければ、過酷な自然環境で生き残る事ができない事であった。
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 大隅半島の歴史と文化、豊富な史跡と文化財を掘り起こし、今日と未来に伝えていこうとする民間団体です
 大隅史談会
 2020.06.27
 縄文文化を壊滅させた「鬼界カルデラ」の大噴火
 鬼界カルデラは鹿児島県南方およそ50kmの硫黄島竹島を含むカルデラで,大半が海底にあります。
 約7,300年前(約6,300年前とする説もある)に生じた鬼界カルデラの一連の大噴火の際に、最後の大規模火砕流(幸屋火砕流)が推定時速300km位の高速で海上を走り、大隅半島薩摩半島にまで上陸しました(下図左)。その時のアカホヤと呼ばれる火山灰は東北地方まで達しました(下図右)。
 幸屋火砕流は当時住んでいた早期縄文時代縄文人の生活に大打撃を与えたと考えられています。その後、1,000年近くは無人の地となったようです。
 その後に住み着いた前期縄文時代縄文人は以前とはルーツが異なり、土器の様式も変わりました。
 また、大噴火の際に海中に突入した火砕流の一部は大津波を発生させました。津波の推定高さ(下図左)は大隅半島で30mです。津波の痕跡は長崎県三重県でも確認されました(下図右)。
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 企業実務ONLINE
 2015年9月21日 00:00更新
 今週の話材「噴火 その弐」
 桜島噴火より怖い!九州の旧石器人や縄文人を死滅させた巨大カルデラ噴火
 [古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]
 口永良部島桜島で活発な火山活動が続いている。気になるのが、豊富な温泉に恵まれる九州地方の水面下に横たわる複数の巨大なカルデラの存在だ。四国以西の旧石器人や縄文人を滅ぼした巨大カルデラ噴火とは…。
 桜島噴火より怖い!九州の旧石器人や縄文人を死滅させた巨大カルデラ噴火
 桜島だけじゃない!鹿児島湾自体がじつは巨大な噴火口
 桜島の噴火というと、大正3年(1914)規模の噴火にばかり目が奪われがちだ。たしかに、この時の大噴火で流出した溶岩は、島を大隅半島と陸続きにしたほどで、鹿児島市民を恐慌に陥れた。
 鹿児島から脱出する避難民や、鹿児島が全滅するとの流言が流れたほどである。
 それ以来、桜島は噴煙を上げ続け、昭和30年(1955)からでも 5,000 回以上の噴火を繰り返している。そのため桜島の火山噴火予知は、かなり確実なものとなっている。
 ところで桜島は、巨大な噴火口の中の突出した部分に過ぎない。桜島を南端とする鹿児島湾の北半分は巨大な噴火口で、通称「姶良(あいら)カルデラ」と呼ばれる。
 桜島は、巨大噴火口「姶良カルデラ」の外輪山の一部が海面から突き出したものに過ぎないのである。
 水面下の巨大噴火口、姶良カルデラは、東西 23 キロ、南北 17 キロにわたる。噴火すれば、広範な地域に壊滅的な被害をもたらす「破局的噴火」と呼ばれる戦慄するべき火山だが、その噴火予知は進んでいない。
 この巨大な水面下の噴火口(姶良カルデラ)が発見されたのは、昭和 18 年(1943)なので、戦時下の情報統制もあって、発見者の地質学者・松本唯一の名とともに世間には知られなかったせいもある。
 四国以西の旧石器人を死滅させた「姶良カルデラ」の大噴火
 姶良カルデラの噴火は凄まじい。氷河期の終わりを告げるように、約 2 万 9,000 年前に大噴火した。
 当初は桜島付近の噴火で、火砕流軽石大隅半島に降り積もると、活動を休止した。その数か月後である。現在の桜島以北の鹿児島湾全体を噴火口とする巨大な爆発的な噴火を起した。
 これが姶良カルデラの大噴火である。
 吹き上げられた噴煙柱は 3 万メートルを超えて、やがて崩れると摂氏 800 度近い灼熱の火砕流を時速 100 キロで、半径 70 キロ以上を埋めつくした。川内原発は 50 キロ圏内にある。まさに破局的噴火である。
 今日、高さ 100 メートルもの火砕流の地盤もあり、これら火砕流と火山灰の堆積地盤を通称シラス台地と呼ぶ。
 巨大な火砕流を吐き出す姶良カルデラから吹き飛ばされた岩石は、直径2メートルの岩塊を含めて最大30メートルの地層(霧島市牧之原)を残している。巨岩が火砕流とともに襲ってくる光景は、想像するだけでも鳥肌が立つ。
 空高く吹き上げられた火山灰は、偏西風に乗り、東北地方まで 2,500 キロも日本列島全体に降り積もったのである。
 火砕流圏外の南九州では3メートルの厚さで堆積しており、高知県宿毛市で 2 メートル、鳥取県大山付近は 80 センチ、京都市で 40 センチ、東京で 1 センチ、東北ではミリ単位で地層に残っている。
 徳之島ではシラス地層の下に旧石器時代の遺物が発掘されているので、九州や中国地方の旧石器時代人は絶滅したと思われる。
 姶良噴火による火山灰は東北南部にまで飛散
 これら地層の厚さは、姶良火山の噴火から 2 万 9,000 年後の発掘調査の数字なので、その後の堆積物で地層は圧縮されている。それを計算に入れると姶良カルデラ噴火当時の火山灰(シラス)は、約 10 倍の厚さで地表を覆ったと見られる。
 すなわち姶良カルデラ噴火時は、南九州 30 メートル、高知県宿毛 20 メートル、鳥取県大山付近 8 メートル、京都 4 メートル、東京 10 センチ、東北数センチとなる。
 ことの重大性は、九州から関西まで全滅はもとより、関東地方や東北南部の人々も致命的な健康被害を受けたであろうことだ。
 火山灰の組成はガラスなので、空気とともに肺に入ると無数のガラス繊維が肺に突き刺さる。火山灰を吸い込むと盛んに咳をするのは、気道や肺を鋭利なガラス片が刺激することによるもので、アスベストと同じく珪肺となり、肺気腫心不全を引き起こす。
 飲料水からも、体内をガラス片が駆けめぐる。旧石器時代の関東人も、咳き込み悶死したと思われる。
 鬼界カルデラ火山灰の下から見つかった縄文人の遺跡
 口永部島の噴火を忘れた人はいないと思う。まだ屋久島で避難生活を強いられている。この口永部島のほぼ北、20 キロのところに薩摩硫黄島がある。
 地図を見ると西から薩摩硫黄島竹島と並んでいるが、それらの島は「鬼界カルデラ」の北側外輪山で、屋久島付近の海底まで広がる。
 鬼界カルデラの北端、薩摩硫黄島は2年前(2013年)に噴火した。大事には至らなかったが、鬼界カルデラは南北 17 キロ、東西 20 キロあるので、これが噴火すれば「破局的噴火」となる。
 鬼界カルデラ破局的噴火は、約 7,300 年前に生じた。時代は既に縄文時代中期で、最も温暖化した時代である。
 噴煙柱は高度3万メートルまで立ち昇り、それが崩壊した火砕流は、四方の海面を走り、100 キロ離れた薩摩半島にまで達した。むろん、西の種子島屋久島なども火砕流に焼き尽くされた。
 火山灰は南九州一帯の地層に 60 センチ、大分県で 50 センチの厚さで残っているが、通称「アカホヤ」と呼ばれる。鬼界カルデラ火山灰は、数メートルも降り積もって九州や四国の縄文人を死滅させた。
 といのも比較的近年、アカホヤの地層の下から縄文時代の大集落が発見されて、縄文文化再評価のひとつとなった。
 その集落は舟作の工具(世界最古)や燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などをともなっていた。この高度な海洋民族を思わせる縄文人を全滅させたことがわかる。
 その後、1,000 年ほど九州は無人の地だったようで、新たな縄文文化朝鮮半島からの渡来人だったと考えられている。
 次に破局的噴火が起こるのはいつ?
 ともあれ水面下の巨大カルデラは、ひとつでも噴火すれば「破局的噴火」となり、大気圏を漂う噴煙によって亜硫酸ガスの濃度が上がり、地球の酸素を3分の1減らすともいわれる。
 鹿児島湾はすべて巨大カルデラに海水が入ったものである。桜島以北の姶良カルデラ、その南は阿多カルデラ、同湾入口から西の池田湖にかけて阿多南カルデラ、と3つの海底カルデラで鹿児島湾は成り立っている。
 破局的噴火は、約1万年に1度とみられているが、もはや、いつ破局的噴火があっても不思議ではない、と専門家は指摘する。
 そもそも日本列島そのものが、火山噴火の原因となる無数の「マグマ溜り」の上にある。多くの火山は各地の大学の研究予算でまかなわれているが、破局カルデラ噴火については、その予測も対処も研究されていない。
 ひとたび破局的噴火が起これば、我が国が“存立危機”事態に陥ることは間違いない。巨大噴火への国家規模の監視・研究センターを設立し、その成果を世界で共有することこそ、火山列島日本の「海外貢献」だと思うのは筆者だけだろうか。
 著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター
 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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 2023年3月26日 YAHOO!JAPANニュース Science Portal「7300年前の鬼界カルデラ噴火は完新世最大 神戸大が解明
 九州南方沖の海底火山、鬼界カルデラが起こした7300年前の「アカホヤ噴火」が、完新世(1万1700年前~現在)で世界最大の噴火であることが分かったと、神戸大学の研究グループが発表した。海底に堆積した噴出物の量を船で詳しく調べるなどして判明した。この噴火は南九州の縄文人に壊滅的な被害を与えた。研究グループは「このような噴火が発生すれば、火砕流や火山灰が現代文明に及ぼす影響は計り知れない」としている。
 鬼界カルデラの外輪山である薩摩硫黄島=2009年撮影(気象庁提供)
 鬼界カルデラ鹿児島市の南約100キロにあり、長さ25~15キロほどの楕円(だえん)状。噴火でマグマが一気に噴き出し、地下の空洞になった所が落ち込んでできた陥没地形「カルデラ」が、巨大噴火の繰り返しにより複合しているとみられる。直近の巨大噴火がアカホヤ噴火で、火山灰は東北地方の一部にまで飛んで積もっており、考古学などで年代判定の手がかりとして利用されている。カルデラの縁は外輪山と呼ばれ、噴火を繰り返している薩摩硫黄島はその一つが海面から出たものだ。
 アカホヤ噴火は大きな被害を生んだが、詳しい規模や噴出物の量などは分かっていなかった。巨大カルデラ火山の巨大噴火は現代文明が未経験で、ひとたび起これば深刻な被害が生じるだけに、解明が重要と考えられた。
 そこで研究グループは鬼界カルデラ周辺一帯で、船から海底へ音波を出し、反射してくる波を手がかりに地下構造を調べる「反射法」により、堆積物の分布を調べた。海底から採取された堆積物も参照し、アカホヤ噴火の噴出物の量の推定などを試みた。
 反射法による調査結果の例。緑色の破線がアカホヤ噴火の噴出物の下面(神戸大学提供)
 その結果、堆積物の最も上の層がアカホヤ噴火の噴出物であると特定した。噴出した火山灰や石などが火砕流となって海水と混ざり、40キロ以上もの長距離を移動しながら海底に堆積し、京都府山梨県の面積に匹敵する4500平方キロ以上に広がっていたことが判明。鬼界カルデラからの距離に応じて層が薄くなっており、海底の噴出物は少なくとも計71立方キロに及んだと結論づけた。反射法では厚さ3メートル未満だと検出が難しいことから、正確には71立方キロを上回るとみられる。
 別の研究での、空から広がった火山灰の見積もりと合わせると、噴出物は計332~457立方キロ以上。完新世の既知の噴火では陸上、海底を通じアカホヤ噴火が世界最大であることが分かった。火砕流が水深の十分ある海中に達するとどうなるかを、初めて示した成果ともなったという。
 噴火の堆積物は、陸上では雨や川の作用で削られていき、また調査地点が道路などの土地利用の制約を受ける。これに対し海底では、海流の影響はあるものの噴火当時の状態を良くとどめており、しかも船で連続的に調べられる。研究グループは今回、噴出量を最も高精度に見積もったとしている。
 こうした結果は、地下のマグマの蓄積と巨大噴火による放出や、カルデラ形成の仕組みの解明に向け重要な手掛かりになる。今後はアカホヤ噴火の前の、9万5000年前などの巨大噴火も調べる意向という。
 鬼界カルデラの噴火に伴う噴出物の広がりの概念図。上空や海中で広がるほか、火砕流には海面伝いに南九州や、種子島など周辺の島々に達したものもある(神戸大学提供)
 研究グループの神戸大学大学院理学研究科、海洋底探査センターの島伸和教授(海底物理学)は「噴火には(鹿児島県の)桜島のようにマグマを少しだけためて小規模の噴火を高頻度に繰り返すものと、(鬼界カルデラのように)マグマをかなりためこんで巨大噴火を起こすものがある。マグマだまりの仕組みの違いなどを明らかにしたい。噴火から7300年経った鬼界カルデラの現状も関心事だ。大きな噴火は気候を左右し、都市に深刻な影響を与える。巨大噴火の仕組みを知ることが大切だ」と話している。
 成果は火山学誌「ジャーナル・オブ・ボルカノロジー・アンド・ジオサーマル・リサーチ」に2月1日掲載され、神戸大学が同22日に発表した。
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 富士山大噴火と阿蘇山大爆発  幻冬舎plus
 2020.08.26 公開 ツイート
 7300年前、南九州の縄文人を絶滅させた「鬼界アカホヤ噴火」
 巽好幸  コラム
 1707年に起きた「宝永大噴火」以降、沈黙を続けている富士山。専門家の間では、「いつ噴火してもおかしくない」と言われています。もし本当に噴火したら、首都圏はいったいどうなってしまうのか……。いざというときに備えるためにも読んでおきたいのが、「マグマ学」の権威、巽好幸さんの『富士山大噴火と阿蘇山大爆発』です。緻密なデータを駆使し、噴火と地震のメカニズムを徹底解説した本書から、一部をご紹介します。
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 なぜ「先祖返り」が起きたのか
 日本で最後に巨大カルデラ噴火の悲劇が起こったのは、今から7300年前、縄文時代に遡る。縄文時代早期の日本列島では、南九州で成熟した縄文文化が発達していたという。本州ではまだ先の尖った尖底土器を使っていたのに、南九州では既に平底型の土器が使われていたのだ。
 尖底土器は、屋外で地面に穴をあけてそこに立てるように置いて使われていたものらしい。
 一方、平底土器は住居の中での調理や貯蔵にも使うことができた。すなわち、平底土器の出現は、縄文人のライフスタイルが定住型に変化した証拠だと言われている。他にも南九州では耳栓やツボ型土器などのモダンな道具が使われていた。
 ところが、この南九州で、ある時を境に「先祖返り」が起きたのである。
 それまでの最先端の土器は姿を消し、当時本州で使われていた旧式のものが復活したのだ。この突如として消え去った進んだ文化は「もう一つの縄文文化」とも言われている。
 これらの最先端縄文土器は、南九州の遺跡では特徴的なオレンジ色の火山灰層の下にだけ見つかる。この火山灰層は、宮崎ではアカホヤ(「ホヤ」は役に立たないものの意味)、人吉ではイモゴと呼ばれていたものだった。
 そして東京都立大学(当時)の町田洋氏と群馬大学の新井房夫氏によって、これらはすべて同じ火山灰であることが証明された。その根拠は、火山灰に含まれる鉱物の種類やガラスの屈折率にあった。火山灰の主要な構成要素である火山ガラスは、高温で融けていたマグマが空気に触れることで急速に冷え固まったものである。マグマの化学組成の違いによってガラスの密度や屈折率が異なるのだ。
 同様の火山灰は、九州から遠く離れた中部地方でも発見された。そして東北以南の日本列島に広く分布するこの火山灰層の厚さを調べることで、その噴出源が鬼界カルデラであることが突き止められた。この火山灰は「鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)」と呼ばれるようになった。
 「もう一つの縄文文化」の上限を定めるこの火山灰の噴出年代は、考古学でも重要だ。
 火山灰で「死の世界」に
 都立大学(当時)の福沢仁之氏は、若狭湾に臨む三方五湖の一つである水月湖の湖底堆積物の中に、アカホヤ火山灰が含まれることに注目した。
 この堆積物は1ミリメートルスケールの明暗が繰り返す縞状の構造を示す。春から秋にかけて大量に発生するプランクトンの死骸が降り積もると、有機物に富む黒っぽい色の層ができる。
 一方、白っぽい層は生物質のものではなく、黄砂を含むので、冬から春にできたことになる。つまり、この明暗の縞の1対が1年に相当するのである。年輪と同じようなものだ。
 福沢氏はアカホヤ火山灰の上に積もった堆積物の縞を丹念に数え上げることで、この火山灰が1995年から数えて7325年前に降り積もったことを明らかにしたのだ。
 火山灰の噴出年代は放射性炭素の量で決めるのが一般的だが、どうしても誤差やズレが出てくるので、それを補正しなければならない。今では水月湖の年縞とアカホヤ火山灰は、いわば世界の標準時となっている。
 さて、この鬼界アカホヤ火山灰は九州南部では30センチメートル以上の厚さがある。
 これほどの降灰があると、森林は完全に破壊され、その回復には200年以上の時間が必要だと言われている。
 こうなると、縄文人の主要な狩猟ターゲットであったイノシシやシカなど森林動物は姿を消してしまったに違いない。また火山灰が厚く堆積したために、エビやカニなどの底生生物の多くも死滅したであろうし、その連鎖で魚も激減したと思われる。すなわち、鬼界アカホヤ火山灰の降灰によって、南九州の縄文人は食料を調達できなくなったのだ。
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 2022年8月3日 YAHOO!JAPANニュース「首都圏でも10cmの降灰で日常生活が破綻:桜島姶良)火山で2万8000年前に起きた超巨大噴火
 姶良丹沢超巨大噴火による火砕流と火山灰(産業総合研究所原図を基に作成)
 国内で最も活動的な火山の1つである桜島は、7月24日午後8時過ぎに爆発的な噴火を起こした。幸いその後火山活動は日常的な状態に戻ったが、油断は禁物である。なぜならば、桜島の地下には1914年の40億トン(1.6立方キロ)のマグマを噴き上げた大正大噴火の直前に近い量のマグマがすでに溜まっており、大規模噴火が切迫した状況にあるとも言われている。このことをよく認識して、万全の備えを講じておくことが必要であろう。
 この桜島大正大噴火は、日本の有史以来の噴火の中でも最大規模の1つであるが、世界一火山が密集する日本列島では、これらの大規模噴火を遥かに凌ぐ噴火も頻発してきた。例えば過去10万年前まで遡ると、100億トン以上のマグマを噴出した「巨大噴火」や「超巨大噴火」は20回程度発生している。そして桜島姶良)火山は、今から2万8000年前に、なんと1兆トン(約800立方キロ)、ほぼ瀬戸内海を埋め尽くす量のマグマを1週間程度の短期間に噴出した超ド級の噴火を起こしていた。
 姶良丹沢超巨大噴火
 鹿児島県を中心とした南九州には、「シラス」と呼ばれる細かい火山灰と軽石などからなる堆積物が広く分布している。これは、2万8000年前の姶良カルデラ形成時に30km以上の高さまで立ち上がった噴煙柱が大崩壊を起こして、全方位に数百度以上の高温ガスと火山灰の混合物である火砕流が流走したものだ。火砕流は極めて流動性が高く、高さ1000m近くあった山も乗り越えて広がり、現在でも姶良カルデラから100km近く離れた場所までこの入戸火砕流は分布している(図1a)。
 図1 (a) 姶良カルデラを形成した姶良丹沢噴火の入戸火砕流の現在の分布域;(b) 姶良丹沢噴火に伴う火山灰の等層厚線図と九州の超巨大噴火を起こした火山(丸印)(原図:産業総合研究所)。
 関東平野の台地部を広く覆う火山性土壌である関東ローム層の中には、多数の火山灰層・軽石層が挟まれている。これらの層は同一時間面を示すことから、遺跡の年代を決定する際に有用であり、考古学でも広く利用されてきた。その一つに「丹沢軽石」と命名された白色の火山灰層がある。関東地方で10cm程度の厚さがある立派な火山灰層だ。1976年に町田洋と新井房夫の二人の火山学者によって、この軽石層の供給源が姶良カルデラであることが明らかにされ、その後この火山灰は「姶良丹沢(AT)火山灰」、2万8000年前に入戸火砕流やAT火山灰を噴き上げ、姶良カルデラを形成した超巨大噴火は、姶良丹沢噴火(AT噴火)と呼ばれるようになった。
 AT火山灰はカルデラから500km離れた近畿地方でも30cm以上、1000km近く離れた関東地方でも10cmもの厚さがあり、本州最北端まで到達した(図1b)。ここで注意しておくべき点は、例えば関東地方で10cmの厚さと述べたものは、地層として圧密された状態のものであり、降灰時には倍ほどの厚さがあったに違いないことだ。
 現状では数cm以上の降灰でも電気・ガス・水道・交通などの生活インフラが全て停止することを考えると、このクラスの噴火が現在の日本で発生した場合は、日本喪失とも言える破局的な状況になることは間違いない。以前にも解説したように(日本喪失を防げるか?ギャンブルの還元率から巨大カルデラ噴火を考える)、超巨大噴火のよる危険値(=想定死亡者数×年間発生確率)は年間数千人と交通事故とほぼ同程度である。低頻度(100年発生確率1%以下)ではあるが超大規模な被害(最悪1億人程度が死亡)を引き起こす噴火災害を、まずは自然災害として認識して、減災対策を考えることが、日本という国家、そして日本人という民族にとって必要であろう。
 桜島の地下に巨大なマグマ溜まりは本当に存在するのか?
 このような超巨大噴火を起こす多量のマグマは、どのように発生するのだろうか? 姶良火山や鬼界カルデラ火山の岩石を調べると、その発生メカニズムがおぼろげながら見えてきた(図2)。
 図2 桜島火山及び姶良カルデラにおけるマグマ供給系。(著者原図)
 沈み込むプレートから水が搾り出されることでマグマが発生し、そのマグマは周囲のマントルと共に「マントルダイアピル」として上昇してくる。この高温のマントル物質が地殻の底まで達すると、熱せられた地殻は大規模に融解する(図2)。ここで発生したシリカ成分の多い流紋岩質マグマは、鹿児島のように地殻の変形速度が遅い地域では次々と上昇し、地下数kmから10km辺りに巨大なマグマ溜まりを形成する。
 この巨大マグマ溜まりに、地下深部から高温の玄武岩質マグマが貫入することで発泡現象が加速され、圧力が高くなったマグマが一気に噴き上げることで超巨大噴火とカルデラの形成が起きるのである(図2)。ただし岩石の化学組成を比較すると、このような巨大なマグマ溜まりと、現在の桜島の噴火を引き起こしているマグマ溜まりとは、本質的に別物である(図2)。
 日本喪失をも引き起こしかねない超巨大噴火の予測を行うには、現在の桜島火山の地下に超巨大噴火を引き起こす巨大マグマ溜まりが存在するかどうかを知ることがまず重要である。しかし残念ながらまだマグマ溜まりを検出する手法が確立されていない。現在の状況は、マグマ溜まりをC T検査の原理を用いてなんとか可視化しようとする試みが行われているところである。
 巽好幸
 ジオリブ研究所所長(神戸大学海洋底探査センター客員教授
 1954年大阪生まれ。京都大学総合人間学部教授、同大学院理学研究科教授、東京大学海洋研究所教授、海洋研究開発機構プログラムディレクター、神戸大学海洋底探査センター教授などを経て2021年4月から現職。水惑星地球の進化や超巨大噴火のメカニズムを「マグマ学」の視点で考えている。日本地質学会賞、日本火山学会賞、米国地球物理学連合ボーエン賞、井植文化賞などを受賞。主な一般向け著書に、『地球の中心で何が起きているのか』『富士山大噴火と阿蘇山大爆発』(幻冬舎新書)、『地震と噴火は必ず起こる』(新潮選書)、『なぜ地球だけに陸と海があるのか』『和食はなぜ美味しい –日本列島の贈り物』(岩波書店)がある。
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 2022年1月26日 読売新聞オンライン「遠い国の大噴火に翻弄された日本…その時、指導者たちはどう動いたか
 スクラップ
 調査研究本部 丸山淳一
 気象衛星「ひまわり」が撮影した海底火山爆発の噴煙(1月15日午後2時30分=日本時間) トゥルーカラー再現画像(気象庁ホームページよりJMA、NOAA/NESDIS、CSU/CIRA)
 南太平洋の島国、トンガの海底火山で1月15日、大規模な噴火があった。噴煙は上空約20キロと成層圏にまで達し、火山灰は半径250キロ~400キロにわたって広がったとみられる。噴出物の量から噴火の規模を示す「火山爆発指数」(VEI)は5か6で、世界でもこの規模の噴火は50年に1度しかない。トンガでは降灰と津波で全人口(約10万人)の8割以上が被災したという。まずはお見舞いを申し上げたい。
 明治期にもあった…遠い国の大噴火で日本に被害
 噴火によるとみられる衝撃波は地球を1周し、8000キロ離れた日本にも津波が押し寄せて、養殖いかだが流されるなどの被害が出たが、遠い国の火山の大噴火が日本に被害をもたらすことは過去にもあった。明治16年(1883年)8月27日のインドネシア・クラカタウ火山の大規模噴火(VEI=6)では衝撃波が地球を4周し、鹿児島県の 甲こう突つき川がわ には津波が押し寄せたという。この時の衝撃波は人類有史以来最大の「音」とされ、64キロ離れた洋上を航行していた英国の軍艦乗組員の半数の鼓膜が破れ、噴火音は4800キロ離れたモーリシャス領のロドリゲス島にも届いた。
 1883年のクラカタウの噴火(ハーバード大学ホートン図書館蔵)
 さらに深刻だったのは気候に与えた影響だ。噴火で排出された硫黄分は大気中の水と化合して硫酸エアロゾル(微粒子)となり、成層圏で拡散すると数年間、日傘のように地球を覆い続ける。太陽光のうち短い波長の青色の光が遮られて空は赤く染まる。ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンク(1863~1944)の代表作「叫び」の空が赤いのは、クラカタウ大噴火後の空を描いたからだという説がある。
 ムンク「叫び」ノルウェー国立美術館蔵)
 エアロゾルによって地表に届く太陽光が減れば、地球規模の寒冷化が起きる。数年間にわたって世界各地で農作物が不作になり、不作による食料不足は社会不安や戦乱の要因になる。日本もその例外ではない。世界有数の火山国である日本は、国内の火山噴火による直接的な影響だけでなく、間接的に海のかなたの火山噴火にも 翻弄ほんろう され続けてきた。気候と歴史の関係を研究している農林中金総合研究所客員研究員の田家康さんは『気候で読み解く日本の歴史』のなかで、古文書の記録や世界各地に残る大噴火の痕跡などから、その歴史をたどっている。
 海を渡った火砕流縄文人全滅
 7300年前に噴火した鬼界カルデラ
 今から7300年前、鹿児島県南部の鬼界カルデラで起きた巨大噴火(VEI=7)による火山灰(アカホヤ)は東北地方まで降り注いだ。大規模な火砕流は推定時速300キロという高速で海を渡り、大隅半島薩摩半島に上陸。九州南部の縄文文化を壊滅させたとされる。九州南部は1000年近く無人の地となり、噴火の前後で縄文式土器の様式が変わったという。
 現在のタンボラ火山(Photograph by NASA Earth Observatory)
 1257年には赤道付近に位置する火山が噴火し、世界的な冷害を引き起こした。グリーンランドと南極の氷床からみつかった硫酸エアロゾルの量などから、噴出物はマグマ換算で最大8000億立方メートルに達し、VEIでは7に近い有史以来最大の噴火とみられる。噴火したのはどの火山かをめぐって長年論争があったが、硫酸エアロゾルの成分分析などから、最近になって噴火したのはインドネシアのタンボラ火山ではないかという学説が発表されている。
 「夏のない年」 乱を“予言”した日蓮
 翌年は世界的に「夏のない年」になり、日本では建長8年(1256年)から続いていた台風や豪雨災害、干ばつに続いて冷害に見舞われた。6月なのに2月、3月並みの寒さが続いて「餓死者その数を知らず」という正嘉の 飢饉ききん が起きた。栄養不足によって疫病も流行し、朝廷は災厄を断ち切ろうと、正嘉、正元、文応、弘長と、5年の間に4回も改元している。
 日蓮上人像
 文応元年(1260年)には日蓮(1222~82)が鎌倉幕府の執権、北条時頼(1227~63)に『立正安国論』を献上、「すでに大半の人々が死に絶えて、悲しまない者は一人もいない」と飢餓の惨状を訴えた。幕府と朝廷は質素倹約を求める新法令を矢継ぎ早に発するが、祭りなど華美な催しの廃止や酒の販売停止などの効果は上がらず、幕府の権威は揺らぎだす。
 ちなみに『立正安国論』には、後に日蓮が蒙古襲来を予言したといわれる「四方の賊来て国を侵し」という記述がある。日蓮モンゴル帝国の動きを知っていたわけではない。修行 研鑽けんさん を通じて得た「先見の明」があったのだろう。だが、世界規模の冷害はモンゴルでも起き、より温暖な中国を侵略して元王朝の初代皇帝となったクビライ(1215~94)は、実際に文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に日本を襲っている。火山噴火が日本史と世界史に作用し、鎌倉幕府の滅亡を早めたという見方は、誤りとは言い切れない。
危機を直視しなかった義政
 鎌倉幕府が滅亡した後の寒冷期は、室町時代中期の1440年代にやってくる。当初は太陽の黒点の減少が主因だったとみられるが、50年代からは火山噴火が重なって、寒冷期は長期化した。1452年から翌年にかけては、バヌアツ共和国にあるクワエ火山が大噴火を起こし、グリーンランドと南極の氷床では57年ごろまでの層から硫酸エアロゾルが検出されている。
 日本でも天候不順が続いて、享徳3年(1454年)と長禄元年(1457年)には京都近郊で大規模な 土つち一いっ揆き が起きる。幕府が差し向けた鎮圧軍は一揆勢に敗北し、幕府は一揆勢が要求していた徳政令(借金の棒引き)の発布をのまされる。「武士の体たらくなきがごとし」という落首を紹介するまでもなく、幕府の権威は失墜した。
 足利義政(『肖像集1』国立国会図書館蔵)
 しかし、8代将軍の足利義政(1436~90)は政治を疎んじ、特に対策を講じなかった。それどころか「国の飢饉を 憐あわ れむことなく」将軍御所を山水草木で飾り立て、幕府全盛期の「花の御所」を再現しようとしたという(『長禄寛正記』)。見かねた後花園天皇(1419~71)は寛正3年(1462年)、自作の漢詩に寄せて義政を 諫いさ めた。
 残民 争ひ採る 首陽の薇
 処処 炉を閉ぢ 竹扉を 鎖とざ す
 詩興 吟ずれば酸なり 春二月
 満城の紅緑 誰が為に肥ゆ
(飢饉のなか、民は食べるものがなく、まるで中国・周の首陽山で餓死した伯夷・叔斉の兄弟のように野草を争い採って食べている。どこの家も 囲い炉ろ裏り に火はなく玄関も戸も閉じたままだ。詩を吟じても 辛つら く苦しいばかりの春である。都に満ちている花や緑は誰のために生い茂っているのか、楽しむ者などいないのに)
 義政はさすがに反省して御所の修築を中止したというが、御所はその5年後、応仁の乱の戦火で焼亡してしまう。土一揆に敗れた大名は、武装した一揆勢を自軍の兵に採用し、足軽や雑兵による乱暴や略奪は当たり前の戦国時代は100年以上続くことになる。
飢饉対策で指導力を発揮した家光
 江戸時代にも、日本は何度も飢饉に見舞われた。1631年にはイタリアのベスビオ火山、40年にはフィリピン・ミンダナオ島のパーカー火山が噴火し、日本では寛永の飢饉が発生している。ともにVEIは5で巨大噴火ではないが、他にもVEI4クラスの噴火が重なったことで大量の硫酸エアロゾルが放出された。寛永17年(1640年)には蝦夷駒ヶ岳が噴火し、東北や北陸で大凶作が起きている。
 徳川家光堺市博物館蔵)
 飢饉に直面した3代将軍の徳川家光(1604~51)は、義政とは真逆に高い政治力を発揮する。参勤交代で江戸にいた西国大名に「 撫民ぶみん に努めよ」と帰国を許し、各地の城主や江戸町奉行、大坂町奉行江戸城に呼んで凶作の理由についてじかにヒアリングを行い、評定衆に対策の策定を指示した。20回以上の飢餓対策会議が開かれ、決まった対策は諸大名に伝えられ、庶民には高札で公表されたという。
 農民には、年貢は不正なくきちんと納めること、ふだん通り耕作に精を出すことなど、いつも通り働くことが命じられた。町民には質素倹約を求め、酒造禁止令や粉食品禁止令が出された。大名には普請などの使役に農民を使わないことなど、領民の負担軽減を求めている。幕府や大名から庶民まで、みなができることをする「共助」が対策の柱といえる。一方で、大名の領地の没収や身分の 剥奪はくだつ は影を潜めた。田家さんは前掲書のなかで、「江戸幕府の統治思想という意味で、寛永の飢饉は転換点であった」と分析している。
 渡辺華山『荒歳流民救恤図』(国立国会図書館蔵)
 江戸時代の飢饉では天明3年(1783年)から5年以上続いた天明の大飢饉が有名だ。この時の冷害は同年の浅間山の噴火(VEI=4)と思っている人が多いが、この年にはアイスランドラキ火山も噴火しており、気候変動に与えた影響はより大きかったという説もある。
 義政を反面教師に
 今回のトンガ海底火山の噴火で放出された硫黄分は、人工衛星のデータ解析では約40万トンと、日本に冷夏をもたらした平成3年(1991年)のフィリピン・ピナツボ火山噴火の50分の1程度にとどまるという。少なくとも500万トンの放出がなければ地球規模の気候変動は起きないとされ、影響は限定的との見方が出ている。
 だが、噴火がこのまま収まる保証はない。トンガの噴火では爆発の衝撃で火山島が消滅し、海底にカルデラができていることが確認されている。このまま収まってくれたとしても、大規模噴火は地球上のどこで、いつ起きても不思議はない。1257年に有史以来最大の巨大噴火を起こしたとされるタンボラ火山は、1815年にもVEI7クラスの巨大噴火を起こしているし、鬼界カルデラでは現在も火山活動が続いており、海底には巨大な溶岩ドームが形成されている。何度放出されても火山のエネルギーは尽きることはないのだ。
 かつては遠い国での火山噴火を知るすべはなかったが、日蓮は宗教の教えから先の危機を見通し、徳川家光は詳細なデータ収集によって危機を乗り切ろうとした。22日未明には日向灘震源とする最大震度5強地震があり、どこか落ち着かない日々が続くが、今は人工衛星などによる観測網と、先人が積み上げてきた科学や防災の知識がある。なすすべなし、とあきらめた足利義政を反面教師にして、世界的な観測網を宝の持ち腐れにしてはならない。
 *富士山の火山災害については、以前に このコラム でも取り上げた。あわせてお読みいただきたい。
 主要参考文献
 田家康『気候で読み解く日本の歴史 異常気象との攻防1400年』(2013、日本経済新聞出版社
 池谷浩『火山災害 人と火山の共存をめざして』(2003、中公新書
 プロフィル
 丸山 淳一( まるやま・じゅんいち )
 読売新聞調査研究本部総務。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞編集委員などを経て2020年6月より現職。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場巡りや歴史書を読みあさり続けている。
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☳37〕─4─「韓国軍はベトナム戦争で民間人を虐殺した」を認める司法、否認の政府。〜No.130 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年3月24日 YAHOO!JAPANニュース 47NEWS「韓国軍はベトナム戦争で民間人を虐殺したのか?認める司法、否認の政府 映画「国際市場で逢いましょう」が触れた、派兵を巡る韓国の分断
 ソウルの地下鉄駅内に掲示されている映画「国際市場で逢いましょう」のポスター=3月4日(撮影・金民熙、共同)
 2014年の韓国映画「国際市場で逢いましょう」で、俳優ファン・ジョンミンが演じた主人公は、ベトナム戦争に技術者として渡り、韓国軍と行動を共にする。「想像してみよう。ベトナムの戦場に俺たちの子どもが金を稼ぎに来ていると…。こんなこと起きなければ良かったのに。でも起きてしまった以上、(子どもでなく)自分が経験しているのが、せめて良かった」。主人公は韓国に残る妻へ、こう手紙を送った。
 101歳の「ナチス戦犯」に禁錮刑、ドイツ司法機関が懸命の追跡 親衛隊の大物はみな死亡、残るは下級隊員
 1964~73年、韓国は米国の要請により、同じ自由主義陣営の南ベトナムに約32万5千人を派兵、約5千人が戦死した。韓国メディアは1999年から韓国軍によるベトナムでの民間人虐殺を報じ出し、2020年、ベトナムの女性が、韓国軍に家族を虐殺されたとして韓国政府に損害賠償を求める訴訟を韓国で起こした。
 昨年2月の一審判決は虐殺を認定したが、韓国政府は控訴した。今年1月の控訴審第1回口頭弁論でも、韓国政府は「国家賠償を命じるのは正義に反する」と主張した。虐殺の歴史をどう受け止めるべきなのか。韓国内が割れている。(共同通信ソウル支局・富樫顕大、ハノイ支局・松下圭吾)
▽米軍調査の事件も
 韓国の市民団体は、ベトナム各地での韓国軍による虐殺犠牲者を計約1万人と推計するが、正確な実態は不明だ。このうち、ベトナム中部クアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で1968年に起きた事件については、直後に米軍が調査した資料などが残る。この村の女性グエン・ティ・タンさん(63)が2020年に提訴した。
 タンさんは、ベトナム現地での共同通信のインタビューに「脅されて壕から出ると銃撃された。5歳の弟は顔面を吹き飛ばされた。地獄のようだった」と語っている。7歳だった自身も腹部を撃たれ負傷し、1年近く入院した。
 一審のソウル中央地裁は、乳幼児を含む非武装のタンさんの家族や村人が韓国軍に集められて射殺されたと認定し、約3千万ウォン(約340万円)の賠償を命じた。
▽市民団体の支援活動と、政府の「遺憾」
 1999年に初めて虐殺を報じたのは、リベラル紙ハンギョレ新聞の系列週刊誌だった。韓国の市民団体は「ミアネヨ(ごめんなさい)、ベトナム」という、ベトナムの虐殺遺族や貧困層への支援事業や現地訪問といった活動を始めた。
 以後、韓国の大統領のうち、リベラル系の金大中盧武鉉文在寅大統領が、それぞれ「不本意ながらベトナム国民に苦痛を与えたことが申し訳ない」「韓国民は心に負い目がある」「両国間の不幸な歴史に遺憾を表明する」と言及した。一方、公的機関が明確に虐殺を認定したのは、ソウル中央地裁の判決が初めてだった。
 だが一審判決当時の李鐘燮国防相は国会で「韓国軍による虐殺はなかった。判決に国防省は同意しない」と述べた。
▽政府機関、調査しないと決定
 ベトナムへ派兵した当時の韓国は軍事政権で、民主化したのは1987年だ。韓国には、軍事政権時などの過去の国家機関による人権侵害を調査する「真実・和解のための過去事整理委員会」という政府機関がある。損害賠償を求めたタンさんとは別の村の虐殺遺族が、この委員会に虐殺の調査を求めたが、委員会は昨年5月、調査を行わないと決定した。
 リベラル系の最大野党が推薦した委員3人は調査開始を求めたが、保守系の尹錫悦政権側が推薦した委員ら4人が反対し、却下された。金東光委員長は虐殺に関し「国家の責任がある部分はあるのかもしれない」と指摘しつつも、外交で解決すべき問題であり、外国で起きたため委員会の調査権限が及ばないなどと述べた。
▽法案も審議進まず
 一審判決後、最大野党の李在明代表も名を連ねて、野党議員らが虐殺の真相究明を求める特別法案を韓国国会に提出したが、審議は進まなかった。提出代表者の姜旼姃議員は、今年1月の共同通信とのインタビューで「真実を明らかにすることはベトナムとの関係強化だけでなく、韓国で人権意識を高めることにつながる。特別法案は韓国軍による虐殺全般の真相究明を目指す」と訴えた。
 韓国国会は野党が多数派だが「今年4月の総選挙を前に、国会は論争となる法案に向き合うのを控えた面がある。野党内でも活発に議論されなかった」と振り返った。
▽加害と被害
 ベトナム戦争では、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)のゲリラが身を隠す密林を消滅させるため、米軍が大量の枯れ葉剤を散布した。枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児として生まれた「ベトちゃんドクちゃん」は、日本赤十字社が分離手術を支援し、日本でも広く知られている。
 韓国・全南大の博士課程でベトナム戦争を研究する李在春さん(45)は、参戦した父を枯れ葉剤に起因する悪性リンパ腫で亡くした。自身も遺伝の影響と疑う病状に苦しむ。
 損害賠償訴訟のフォンニィ・フォンニャット村の事件については「当然のことを認めない」と韓国政府を批判しながらも「動員された軍人は加害者でもあり被害者でもある」と、韓国社会がこの問題に向き合う難しさを語る。
▽反発と自省
 李さんは「参戦兵は、韓国政府がアピールするように『自由を守るための十字軍』と考えたのではない。現実は(貧しい地方などから)食べる物がないから参戦した軍人たちだ」と指摘する。
 昨年2月の判決直後、韓国の退役軍人の団体は「一部の民間人に被害を与えたケースがあり得るが、不可避な軍事作戦だった」と反発した。一方、ベトナム参戦兵の聞き取り調査に取り組む市民団体「アーカイブ平和記憶」によると、「ベトコンだけでなく一般市民も死んだだろう。擁護できない」などと話す元兵士もいる。
 損害賠償訴訟の一審の口頭弁論では、ベトナムに派兵された元海兵隊員の柳振聲さん(78)が出廷し、当時、民間人とみられる約70人の死体を見たと述べ、部隊で「隊員が武勇伝のように(殺害の様子を)話していた」と証言した。当時は罪悪感を感じられなかったが、「戦争の残酷さを知らせたかった」ため証言に立ったと打ち明けた。
▽日本の歴史問題も訴える弁護士ら
 ベトナム虐殺の原告側弁護団の中には、日本企業を相手取った元徴用工訴訟や、日本政府を相手取った従軍慰安婦訴訟の原告担当弁護士も数人いる。
 徴用工訴訟の原告も代理する林宰成弁護士は、「私は日本と戦っているのではないし、(虐殺を巡る裁判も)ベトナムと韓国が戦っているのでもないと思う」と話す。「普遍的人権の問題として、ベトナムでの民間人虐殺について韓国政府は責任を取らねばならず、日本植民地期の強制動員や慰安婦問題については日本政府と企業が責任を取らねばならない」と強調した。
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