🗻7〕─2─国産み神話。天照大神と高天原。スサノオと八岐大蛇。出雲神・大物主神を祀る三輪山信仰。大八洲豊葦原の瑞穂の国と稲神話。三種の神器。~No.32 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 自然災害多発地帯で生身の弱さや脆さをさらけ出し諦めず我慢し、痩せ我慢で諦めて耐え抜いて生きる弱小の日本民族
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 正史とは、支配権を持つ権力者が自分の正統性を証明為る為に書き上げた歴史である。
 決して、正しい歴史とは違う。
 正史の中に、嘘が書かれている。
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 アーノルド・トインビー「神話を忘れた民族は、全て滅びている」
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 民族に必要なのは、民族を中心とした神話であり物語である。
 決して、他の民族に配慮した偽りの歴史ではない。
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 男系の父系社会では、財産は父から息子に引き継がれるが、女系の母子社会では母から娘に財産が引き継がれる。
 女は、夫や父親の知らない所で誰かと寝て誰かの子供を生み、財産を誰の子か分からない子に渡す。 
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*島国日本の歴史とは、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の歴史である。
 日本神話の原型は、中国や朝鮮ではなく東南アジアである。
 素戔嗚尊日本書紀』 
 「(新羅国)この地には居たくない」
 「韓郷の島(韓国)には金銀(金属鉱石)がある。もし我が子が治める国(日本)に浮宝(木材=自然)がなければ、これは良くない」
 朝鮮は、中国同様に、無謀な森林乱伐で回復不可能な状態まで自然破壊が進んでいた。
 高天原は、日本であって朝鮮ではなく、朝鮮というのは悪意に満ちた戯言である。
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 古代島国日本には、海の外から異なった部族が入り事が少なかった為に、集落内若しくは近隣の集落との近親相姦が普通に行われていた。
 一説によると、姉・天照大神と弟・須佐之男命は夫婦であったと言われている。
 「宇気比(うけひ)テ子ヲ生マン」とは、「誓約して子作りをする」、つまり「結婚して子供を作る」になるといわれている。
 だが、古代に於いて「近親相姦」は別に珍しい事でも亡く、古代エジプトでもごく普通に行われていた。
 古代に於いて、高貴な血を絶やさず、庶民の間に拡散させない為には、限られた支配層の中で近親結婚するしかなかった。
 王族と庶民の間に生まれた私生児が、王国の王にはなれなかった。
 近親相姦が罪悪となったのは、キリスト教が普及してからである。
 そして、遺伝子の異変が分かった近代以降である。
 近親相姦を嫌悪する現代人の感覚で古代の近親相姦を否定した時、人類の古代史は否定されてしまう。
 日本神話の中の近親相姦的物語が否定されると、人類の古代に於ける神話や宗教が否定されてしまう。
 近親結婚のなごりは、欧州の王侯貴族における親族関係にある。
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 日本神話の国生み神話において、最初に愛情を持って声を出したのは女性神イザナミノミコトで、男性神イザナギノミコトはこれに答えた。
 男尊女卑という中華の儒教的価値観が入ってきて、女性神の愛情からなる国生み神話は男性神優位の物語に書き換えられ、女性神が最初に声を発した為に生まれた子は不完全であったした。
 儒教的価値観は、日本を原理主義的男尊女卑世界に変えようとしたが、日本風土は万物を生み出す生命力は女性にこそあるとして拒否し、日本文化は女性の言葉には霊力が宿っているとして女性が詠う和歌を男性の和歌より優位とした。
 日本文学において、唐的なものは男性が、ヤマト的なものは女性がになっていた。
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 姉神・天照大神と弟神・須佐之男命の間に生まれた4人の男神の長兄が正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト短くしてホミミノミコト)の子供が、瓊瓊杵尊ニニギノミコト)である。
 天照大神は、天孫降臨する天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に三種の神器(鏡・玉・剣)を授けた。(『古事記』)
 皇位継承する皇族は、皇室の正統たる証として、即位する際に三種の宝物(八咫鏡・やたのかがみ。八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま。天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ後に草薙剣・くさなぎのつるぎ)を継承した。
 儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表すと解釈された。
 記紀神話によれば、八咫鏡古事記』では、八尺鏡(やたかがみ)は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
 天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れ、外の世界を覗くために岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した。
 そして再び高天原葦原中国は明るくなった。
 天照大神は、瓊瓊杵尊に授けるに当たり、自分の姿を隠さず有りの儘に映した八咫鏡を私自身と思い、「御神体」として祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)を下した。
 「この鏡は、私の御魂そのものとして、私の前に斎(いつ)き祀るように、この鏡を奉斎なさい」
 鏡が映すのは、世の真実であり、本質であり、自分の心の中にある「清明心」である。
 日本神道は、偶像崇拝ではなく、自分自身の清明心・良心に恥じないように生きる事である。
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 ヤマト王権は、日本列島を俗世の政治権力と神聖の宗教権威で統治する正統性を証明する為に、八岐大蛇退治退治という出雲神話スサノオを主役として日本神話に組み込んだ。
 八岐大蛇は、古い縄文・弥生混合的宗教観に基づいた自然力の象徴である。
 スサノオは、アマテラスの弟として、高天原神話という新たな宗教観に基づいた文化力の象徴である。
 新たな文化力であるスサノオは、、古い自然力である八岐大蛇を倒し自然主権の象徴である天叢雲剣を手に入れ、生命力の源である若い女性の奇稲田(くしなだ)姫を奪った。
 日本の統治権は、地方で独立して存在していた自然主権からヤマトという中央の文化主権に移った。
 日本皇室の正統性は、アマテラスの「神威」とスサノオの「武威」に基づく。
 武威とは、暴力や武力や軍事力とは異質な次元に存在する、人間では手に入れられない霊力である。
 神威や武威を手に入れた或いは振れた事があると公言する人間がもしいたら、そうした人間は選ばれた預言者でもなく賢者でも聖者でもなく、単なる発狂した狂人であるから信用するべきではない。
 日本天皇とて神威も武威も持ってはいない、唯一人の祭祀王として宮中奧の祭殿で祭祀を執り行う神官に過ぎない。
 皇室の宗教儀式・宮中の祭祀は、自然と文化の統合及び神威と武威の結合で生まれ、人の目に触れない秘技は2000年近く一子相伝で継承されてきた。
 この宗教儀式・宗教儀礼を執り行えるのは、皇統の正統な継承者(父系・母系)のみである。
 日本天皇家が閉ざされた皇室といわれるのは、この為である。
 日本皇室の皇位継承権と世界の諸王室の王位継承権の違いは、ここにある。
 日本の統治権の正統性は、人によって「創られた文化力」から有りの儘に「生まれる自然力」に帰って行った。
 日本を支配するの古層とは、縄文の自然主権である。
 縄文の自然主権とは、自然災害多発地帯の日本列島のみに深い根を張っている特殊な主権である。
 中国や朝鮮には無縁であり、中国や朝鮮には及ばない、日本国内だけに限定された狭い主権である。
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 三種の神器八咫鏡(やたのかがみ)は「誠」、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は「慈愛」、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は「勇気」。
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 天叢雲剣草薙剣)は、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治してその尾から得た宝剣で、後の天照大神に奉じられた。
 大蛇とは、南方系海洋民が信仰した神奈備(かんなび)山に住み大地に豊穣をもたらす和神である。
 八岐大蛇とは、山奥に住んでいた大蛇が麓に降りてきて、大地で荒れ狂う荒神である。
 荒神である八岐大蛇を鎮める為に、和神の大蛇から流れ出た清水と大地から収穫した米を混ぜ発酵させて造った清酒を捧げた。
 山中の川底から砂鉄を集め、踏鞴(たたら)製法で純度の高い玉鋼を作り、玉鋼を真っ赤に焼き打ち付け鍛えて成形して剣(日本刀)とした。
 日本刀は、日本独自の刀で、朝鮮や中国の剣とも全く異なる。
 三輪山信仰の祭祀では、時代によって縄文勾玉と弥生勾玉と全く異なる子持ち勾玉が使用されていた。
 司馬遼太郎「鳥上山の八岐大蛇というのは、鳥上山にいた古代の砂鉄業者であるという。出雲ではだれもがそのように言うし、もっともな解釈かと思える」
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 天皇神話は自然重視の農耕神話として、女性神天照大神が血のつながった子孫の天皇に稲穂を与え、生産して生活する様に命じた。
 他人の土地を武力で征服し、他人を奴隷として使役し生産を強要せよとは命じてはいない。
 「神の裔」である天皇は、米は大切な国の礎として、皆と助け合い励まし合って生産していた。自然を人間の都合で改造して増産を図るのではなく、自然の恵みに感謝し、自然に負担をかけない範囲で生産していた。
 天皇神話は、自然を破壊し征服する普遍宗教ではなく、自然との補完共生を信仰する民族宗教であった。
 日本の八百万の神々とは、天皇霊によって正統化されている。天皇霊と宗教的縁を結ばない神は、日本の神ではない。
 よって、宗教権威としての祭祀王・天皇がいなくなれば、日本から全ての神が消滅する。
 左翼・左派のマルクス主義者日本人は、こうした宗教的事実を充分に理解した上で、「人民の正義」で農耕民族としての天皇神話を破壊しようとしている。なぜなら、彼等は、神を必要としない、神を信じない、心・精神の強い反宗教無神論者であるからである。
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 四季という変化の多い自然と目まぐるしく激変する天候。
 一年を通して何かしらの自然災害が幾つも複合して襲い来る住環境。
 非力な人間の力では防ぐ事も止める事もできない災害の数々。
 ただただ、恐れ戦くばかりで、逃げだす事ができない島国。
 日本民族日本人は、如何に威張って偉ぶっても、理不尽なまでに暴力的な自然環境の前では無力である事を自覚させられ、諦めるしかなかった。
 自然変化が乏しく自然災害の少ない大陸のように、のんびりと天地創造の物語を詩作する心の余裕がなかった。
 全てのモノや現象は、そこに既に「ある」ものとしてしか考えられず、その誕生の起源を想像する事ができなかった。
 そして、苦し紛れに思い付いたのが「天地開闢」の物語という神話である。
 日本民族日本人の閉ざされた思考の創造力では、天地創造などは想像できなかった。
 というよりも、海に囲まれた逃げ場のない島国の自然は、「光と水と緑」からなる大地に生かされているという、「厳しい現実」から逃避する様な想像や空想や妄想を許さなかった。
 その「厳しい現実が」、未開宗教と言われる日本の自然崇拝神話である。
 日本の「荒れ狂う自然」をどう冠考えても、天地創造的に創られたとは想像できず、想像できない為にそこに「ある」ものと諦めた。
 ゆえに。日本の宗教観は民族性が強く、普遍宗教として世界に広がる事はないし、他の民族に理解されない。
 日本の宗教観が自然観と一体となっている以上、日本の自然観が体感できない限り日本の宗教観は理解できない。
 日本の自然は、日本列島にしかないのだから。
 日本の宗教侵略など、有りはしない。
 日本の宗教観は、日本民族と共にのみ存在し、日本人が国際化で開放されて民族性という閉鎖性を捨てたとき消滅する。
 「多に分裂・拡散し、一つに吸収・集約される」という人類史的世界史的大陸史的時の流れからすれば、多の一つに過ぎない排他的な日本の多様性に富んだ宗教観は何れは消滅する定めである。
 歴史的事実として。地球上にあった、数多くの民族言語で語り継がれてきた民族神話に基づく民族宗教が消滅し、今も消滅し続けている。
 日本の宗教観は、閉ざされた日本語でしか表現できない。
 価値観を共有しない国際語では、日本の宗教観を語れない。
 自然が地球気候という国際認識で語られる事により、日本の自然及び気象は一地方の現象とされ、島国環境によって生み出された日本の宗教観は消滅する。
 それが、人類の進化及び社会の進歩という現実の歴史である以上、嘆き悲しんでも無意味である。
 何れは。中南米やハワイのように、捨て去る勇気が必要となる。
 今や。中南米やハワイには、民族言語も民族宗教も民族文化も観光用の金儲け目的の見世物としてしか残ってはいない。
 そこにあるのは、死んだ、文化であり、言語であり、宗教である。
 それが、日本の未来である。
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 仏教が伝来する前の古い神道においては、祭祀を行う本殿のような建物はなかった。
 古い神道は、伊勢神宮大神神社などのように自然のままで鬱蒼とした密林に覆われた神奈備の山をご神体とし崇め、祭祀を行うときだけ神を迎える為に麓に祭壇を設けた。
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 旧中国領インドシナ半島での国際穀物商社との「米」をめぐる『食糧戦争』。
 エドワード・ミラー「輸出を拒否することも主権国の権利だったが、ヴァッテルとしては、飢餓に苦しむ国にも食糧輸出を差し止めるといった極端な行動は、戦争行為と解釈できると考えた」(『日本経済を殲滅せよ』P.21)
 キャサリン・バーティニ「食糧は権力だ。食糧を使って人を動かす事が出来る」(1995年9月 国連第四回世界女性会議)
☆神代から続く日本民族は、世界一「餓え」の苦しさを知り、人一倍に「ひもじさ」の辛さを身体で知っていた。それの、ひもじさが民族神話的「コメ」信仰を生んだ。その祭事を執り行っていたのが、女性神の血を引く現人神・万世一系男系天皇(直系長子相続)であった。
 古代の日本は、子供を産み育てる女性を神の化身の様に大事にし、粗末に扱う男・亭主は仲間内で軽蔑された。村で一番権威を持っていたのは、老婆であった。日本の原風景は女性上位社会であり、それを証明するのが最高神が女性神であった事である。それは、世界基準を逸脱した非常識である。
 日本の民族宗教は、抗しきれない自然の脅威に恐怖する事である。
 それは、人を心底信じきる八百万の神々への宗教であって、愚にも付かない絶対神の奇跡を求める宗教ではない。そして、来もしない、人智を越えた能力を有した救世主を茫然と待ち望む宗教でもない。
 伝統を重んずる日本人の信仰とは、人としての傲慢な驕りを「穢れ」として捨て去り、偉大なる自然の恵みよって生かされている事に感謝し、壮大な自然の力に較べてちっぽけで無力な姿を見詰める事である。
 その大いなる自然に対して、西欧の様に不動の自我を確立して独立するのではなく、我欲的自己を捨て無欲無心となって一体となろうとした。
 ゆえに、神社信仰としてムラの鎮守の杜を大事にし、孫や曾孫や玄孫の為に役に立つ木々を植林して、地域の為に里山に神聖な神の座として手を加えて守って来た。世界の宗教で、植林信仰を伝統文化としているのは民族宗教・日本神道のみである、
 これが、今は無き自然体の日本精神・大和心である。
 国際主義的共産主義者は、科学的合理主義から、「絆」を大事にし「情理」を重んずる日本的「情緒」を完全破壊しようとしている。
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 肉1㎏を作るに必要な穀物肥料量は、
 牛肉では8㎏で、
 豚肉では4㎏で、
 鶏肉では2.5㎏である。
 同時に、大量の新鮮な水を必要とされている。
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