🗻9〕─1─南方系海洋民の魚河岸文化と日本神道の太陽崇拝。祭祀王・日本天皇。~No.38No.39No.40 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の魚介類食文化は、旧石器時代縄文人である南方系海洋の民が作り出した食文化であり、北方系草原の民の子孫が作り出した中華食文化とは無縁である。
 日本の魚介類食文化は、日本民族日本人の独自の食文化でがゆえに価値があり、世界に2つとない貴重な食文化である。
 日本の魚介類食文化は、多様性に富み完成された食文化ではなく未熟な食文化として、世界中から新しい魚介類の食材を採り入れて新しい料理を作り続けている。
 伝統的クジラ食文化は、海と共に生きている海洋民であれば理解できるが、海と無縁で海を理解できない大陸民では理解できない。
 不毛な大地に近い地域に住んでいる、少数の大陸民はクジラ食文化を理解しているが。
 その意味で、日本は明治以来、世界から奇異の目で見られ、理解されることなく誤解され、昭和初期には世界から袋叩きにされた。
 世界を支配しているのは、大陸の乾燥した草原の論理である。
 その為。日本がいかに海の論理に基ずく説明や弁明しても、その大半が理解されないどころか拒否され、要らざる敵意を作ってしまった。
 昭和初期の日本の悲劇は、「船乗りの空気」が「騎馬の理」で動いていた世界では通用しなかった事である。
 中国や朝鮮などの中華世界も、「騎馬の理」に支配されていた。
 なぜ中国や朝鮮が、日本よりも世界で理解され受け入れられるかは、似たような「騎馬の理」を共有してるからである。
 日本は曖昧な「空気」に支配され、世界は明快な「理」に支配されている。
 「船乗りの空気」を象徴するのが、天皇制度である。
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 2016年12月10日号 週刊現代「アースダイバー 築地市場編 中沢新一
 第1回 日本の魚河岸文化(1)
 1000年を超える歴史
 日本の魚河岸文化は、少なく見積もっても、ゆうに1000年を超える歴史を持っている。 
 四方の海からこの列島に流れ着いてくる文化や情報を、長い時間をかけて集積し、整理し、使い勝手の良いように改良し、さまざまな独創を加えた末に出来あがってきた日本の文化は『もったいない』の保守精神を発揮して、古い要素を捨てずに大切に保存してきた。
 そういう日本文化のなかでも、魚河岸はとりわけ古い文化の保存場所として、異彩を放ってきた。そこには生きの良い魚貝のように、伝統が活け造りの状態で、いまだに生命活動を続けている。
 魚河岸はなんといっても市場であるから、海産物の交易と流通が、いちばんの機能である。しかしそういう経済機能だけではなく、そこには長い時間をかけて独特の文化が育てられ、保存されてきた。それは食を中心に組織された、感覚のすべての領域に関わる文化である。見て美しく、嗅いで香ばしく、舌で味わって美味しく、噛だり啜(すす)ったり耳にすら心地よい日本料理の生まれ出る根源、それが魚河岸に保存されてきた文化である。それはどんな博物館にもまして、伝統文化の保存能力に秀でた場所として、歴史を生き抜いてきた。
 海産物への偏愛
 魚河岸に保存されてきた文化は、海との深い関わりの中で自分を形成してきた、日本文化の核心部分に触れている。日本人の原型は、よく知られているように、狩猟採取によぅて生活してきた縄文人と、米作りをおこなう海洋性の民族である弥生人が、混血をくりかえすことによってかたちづけられた。その過程で地域差をもった混成系の文化が、じっくりと形成されてきた。
 縄文人も魚貝類は好んで食べた。しかし彼らの社会では、森でおこなう動物の狩のほうが、海や川でおこなう魚の漁よりも『高級な行為』と考えられていたので、魚貝や海藻類にたいする執着の度合いは、あとからこの列島に入ってきた弥生人ほど強くはなかった。
 それに比較すると、弥生人の魚貝への執着には、尋常ならざるものがあった。米作りもする海洋性民族としての弥生人は、半農半漁を生活の形態として、その食生活は米と魚貝の組み合わせを基本とした。動物の狩猟よりも、海や川で魚貝や海藻を取る漁のほうに、大いに熱を入れた。
 とうぜん彼らは新鮮な魚貝に、高い価値づけをあたえた。人間ばかりではなく、弥生人の社会では神々でさえもが、お供えとして新鮮な魚貝類と海藻を求めた。そのことは、伊勢神宮をはじめとする多くの神社で、今日でも神々への供物として、鯛や鮑(あわび)や和布(わかめ)を捧げているのを見てもわかる。弥生人の神々はもともとが海と深いつながりを持っていたため、海産物のかたちを取った『海のエネルギー』の定期的補充が必要だった。
 そのうち弥生社会の中から、『王』と呼ばれる存在が出現した。王は神々と庶民の間に立つ、高貴な存在である。その王と王の権力を取り囲む人々が欲したのも、新鮮で高級な魚貝を、食用に確保することであった。彼らはほとんど例外なく、権力を握るやいなや、海や川で取れる魚貝が、新鮮なうちに自分たちの手元に届けられるためのルートを独占するために、権力を行使している。それほどに、この国の権力は、新鮮な魚貝類の確保を必要とし、それに執着し続けた。その執着が魚河岸文化の根源をなしている。
 最初の魚河岸
 ヤマト王権の所在地がまだ北九州にあった頃、祭祀と日常食に用いる新鮮な魚貝類を手に入れるのは、たやすい仕事だった。ところがその王権は、その後しだいに東方への移動を始める。緊迫の度を深める大陸情勢を警戒して、北部九州を離れるのが賢明であると判断したからである。そしてとうとう、内陸の奈良盆地に入り込んだ。3世紀はじめ頃の話である。
 四方を山々に囲まれたその土地は、軍事的に見ればたしかに安全だったが、いくつかの困ったこともあった。海から遠い内陸にあって、新鮮な海の食材を手に入れるのが難しくなってしまったことなども、その困ったことの1つである。ヤマト王権三輪山の麓につくった政庁の近くに、太陽神を祀る巫女団による祭祀を続けようとした。しかし北部九州や移動途中の瀬戸内海沿岸ではすぐに手に入れることのできた、新鮮で上等な海産物の入手が、難しくなってしまったのである。海産物のお供物が手に入らないものだから、太陽神への祭祀は、しばしば滞りがちになった。
 そこで、海岸部から内陸部へ移転まもないヤマト王権は、海への通路を開こうとした。さいわい近くを流れる大和川は、途中いくつかの難所を過ぎれば、そのままゆっくりと大阪湾に注いでいく。ヤマト王権は大規模な土木工事をおこなって、竜田川の難所を切り開いて、中型の船が三輪山の麓までさかのぼってこれるような、運河を開削した。これによって、外国からの使節団なども、船に乗ったままヤマト国の中心にやってこれるようになった。
 それよりなにより、この運河の建設によって、内陸につくられた王権には、大阪湾から直接、新鮮な海産物が届くようになったのである。運河は三輪山の麓にまで達していて、そこに『大市(おおいち)』という市場が開かれた。のちにヤマト連合王権の女王卑弥呼が、自身のための巨大な前方後円墳(箸墓{はしはか})を築造することになる。まさにその場所である。
 大市は運河に面していた。大阪湾から毎朝届けられる新鮮に魚貝は、まずその運河の河岸に、荷揚げされたものであろう。最上等品は、太陽神の聖所と王宮に運ばれ、そこで神と王族によって消費された。
 余った分が、市場で売り出された。このときおそらく大阪湾の漁民が、荷主兼問屋兼仲買いとう立場で、市場での交換をとりしきったのであろう。内陸の王権のもとに新鮮な魚貝類を届ける。日本の魚河岸の歴史は、ここから始まった」



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