🏹20〕─1─元寇における残虐行為の、加害者は高麗で、被害者は日本である。10万人対1万人。1274年~No.58No.59No.60 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 残虐な高麗軍は、蒙古軍以上に罪のない日本人を虐殺し、女性を船縁に釘で打ち付け、子供を戦利品として連れ去った。
   ・   ・   ・  
 朝鮮半島の高麗と日本国内の高麗とは、血のつながりのない全くの別人である。
 日本国内の高麗に対して、日本人は感謝する責任と義務がある。
   ・   ・   ・    
 韓国人曰く、「人の怨み1000年の後まで残る」
 残虐行為を最初に行ったのは、日本ではなく、朝鮮であった。
 最初に甚大なる被害を受けたのは、朝鮮ではなく、日本であった。
 歴史的に見て、朝鮮は残忍な加害者で、日本は憐れな被害者であった。
   ・   ・   ・   
 高麗は、蒙古の庇護のもとで、お情けで国家として存在していた。
 高麗人は、大国と一緒に行動すると勇猛果敢に戦い獰猛に殺し回ったが、1人になると極端に弱くなり発狂したように泣き叫びなが逃げ回った。
 その姿は、惨めとしか言いようがなかった。
   ・   ・   ・  
 日本は、フビライに強制されて攻めてきた高麗に同情する必要は全くない。
 高麗軍は、蒙古軍の先頭に立ち先陣を切って攻めてき、日本人を見付けしだいに惨殺し、日本人女性を強姦して殺し、日本人の子供達を拉致したのである。
 日本人が、高麗人の残虐行為を憎み、復讐を誓った事は正当な権利であった。
 だが。一部の日本人は、日本人が被った惨劇をを知った上でなを、高麗に同情し弁護した。
 全ての原因は、フビライの勧告に従って臣下の礼をとり属国とならなかった、国際常識を知らない日本にあると。
   ・   ・   ・   
 蒙古は、中国を征服する為に中国人を500万人虐殺した。
 もし日本が蒙古に征服されたら、同じか、それ以上の日本人が虐殺された可能性があった。
 ただし、祖国と主君を裏切り寝返った者は助けて優遇した。
 高麗は、進んで蒙古の臣下となった。
 中国人は、祖国と主君を裏切り、同胞を虐殺して生き残った。
 そして、日本は。
   ・   ・   ・   
 遊牧民のモンゴル人は、家畜を飼う為の広大な放牧地を手に入れるべく侵略を繰り返していた。
 欲しいのは肥沃な牧草地であって、文明でも、教養でも、都市でもなかった。
 フビライに忠誠を誓って臣下となった耶津楚材は、中国を支配するならモンゴル風を改め、破壊と虐殺を止めるべきだと諫めた。
 フビライは、中華皇帝として中国風を取り入れた。
 多くのモンゴル人は、中国化を拒否して、依然と粗暴な生活を続け、強奪と虐殺を繰り返していた。
   ・   ・   ・  
 ジンギスカンフビライは、モンゴル人であって漢族ではない。
 漢族は、モンゴル人の忠実な下僕・奴隷に過ぎなかった。
   ・   ・   ・   
 鎌倉時代は、蒙古襲来と呼んでいた。
 明治になってから、元寇と呼ばれるようになった。
   ・   ・   ・   
 一遍上人(1239〜1289)は、身体を動かさず、大寺院の講堂で机に向かってお経を読むださけが仏法を学ぶ事ではく、衆生を浄土に往生させる事が大切として民衆に念仏を勧め、踊り念仏を広める為に諸国を遊行した。
   ・   ・   ・   
 日本は、南宋と交易していた。
 南宋は、火薬の原料である硫黄を日本から輸入していた。
 蒙古のフビライは、外交で日本を屈服させ南宋との交易への遮断しようとした。
 フビライは、対等な関係での日本との友好を望んではいなかった。
   ・   ・   ・   
*第一次元寇 = 文永の役
 元寇という国難に見舞われた時、多くの鎌倉武士は蒙古・高麗連合軍の侵略から本気で日本を守ろうという危機意識はなかかった。
 大半の武士は、代々の相続分けで縮小した領地からの収入減と貨幣経済の発達に伴う物価の高騰で支出増が重なって貧困化していた。
 わずかな土地をめぐる領地問題と多額の借金による金銭問題が、武士の家計を圧迫していた。
 困窮していた武士は、現実の貧しさを打開する手段として恩賞欲しさに、幕府の命令に従って北九州に出兵した。
   ・   ・   ・   
 北条時宗
 無学祖元「分別の念 起こす事なかれ」
 [勝つか負けるかと思い悩むな。戦いを避けるなかれ]
 「莫(まく)煩悩」
 [煩悩するなかれ]
   ・   ・   ・   
 高麗は、蒙古軍の日本侵略を手助けする為に積極的に協力し、フビライに褒められたいが一心で頑丈な軍船を建造した。
 高麗の優先事項は、日本ではなく自国の存続である。
   ・   ・   ・   
 鎌倉幕府は、強大な軍事力で臣下の礼を取る様に外圧を加えてくる中国・元に対して、臆することなく「武士の体面」を守る為に戦う事を決意した。
 武力を持って威圧してくる相手と、戦いを避ける為に話し合いを続けは無意味と判断した。
 戦えば甚大な被害を出す事は明らかであったが、如何なる犠牲を払っても、高麗のように属国となり、朝鮮人のように奴隷になる気は毛頭無かった。
 武士団は、サムライとしての名誉の為に「戦争」を決断し、祖先への面目の為に潔い「玉砕」を覚悟した。サムライは、勝てないと分かっていても、戦わずして奴隷になる事を拒絶したのである。
   ・   ・   ・   
 第90代亀山天皇は、日本の行く末を案じつつ、固唾を飲んで鎌倉幕府と元・高麗の外交対話を見守るしかなかった。
   ・   ・   ・  
 高麗は、元と共に、不道徳な日本を懲罰る為に出兵した。 
 蒙古軍の主力は、高麗軍であった。
 高麗の僧侶は、フビライと元軍を讃える漢詩を作り、醜い野蛮な東夷(日本)を掣肘する命が高麗に下された事を誇らしく讃えた。
 高麗は、日本征伐に積極的に関わり、率先して行動していた。
   ・   ・   ・  
 1274年 第91代後宇多天皇(〜1287年)。
 1月 フビライは、高麗に対して、軍船の建造と兵士を集めるように命じた。
 6月 高麗の元宗が死去して、忠烈王が即位した。
 正装に蒙古の胡服を着用し、官職名を元風に改めるなど、元の従属国として徹底して元化を行った。
 朝鮮は、大国に対して節操なく阿諛追従して媚び諂った。
 10月5日 文永の役。日本の武力を探る威圧偵察と、蒙古軍に逆らうと虐殺を行うという恐怖を与える恫喝が目的であった。
 高麗軍5,600人。元軍1万5,000人。非戦闘員の水夫ら6,700人。合計2万6,600人。
 軍船900隻。(一説には、112隻)
 副司令官の征東都副元帥は、高麗人の洪茶丘であった。
 元軍は、食糧などの戦略物資を半島で強制調達した為に、食うや喰わずの高麗の民衆は反乱を起こした。
 高麗は、元に不信感を与える事を恐れて、自国民の反乱を弾圧した。
 蒙古軍には純粋なモンゴル人は参加せず、遼東系高麗人、契丹人、女真人、華北漢人など降伏した諸民族の混成軍であった。
 遼東地区の高麗人は、祖国高麗に見捨てられたという怨念と蒙古の中で生きる定めから、モンゴル軍の一員として各地で戦いながら武勇を上げていた。
 それに比べて、半島の高麗人は逃げ回るだけでまともに戦わない弱兵として、モンゴル軍内では馬鹿にされていた。
 第一次元寇では、高麗軍は最前線で勇猛果敢に戦い日本の武士団を蹴散らした。
 好戦的な高麗軍兵士は、血に飢えたように、元軍兵士に先んじて各地で虐殺と略奪を行った。
 対馬の島民は、情け容赦なき血に飢えた獰猛な高麗軍兵士から逃れる為に、狭い島内のあちこちに隠れた。
 高麗軍兵士は、日本人が隠れている場所を赤児の泣き声を手懸かりに探し回り、見つけ出すやその場にいた全員を虐殺した。
 高麗軍兵士の血に飢えた獰猛さには、さすがの血を恐れないモンゴル人兵士も目を反らすほどであった。
 中国の正史『元史』も朝鮮の正史『高麗史』も、高麗人の日本人への猟奇的虐殺と日本人婦女子への淫靡な凌辱を書き記している。
   ・   ・   ・   
 血も涙もない残虐で恐れられたモンゴル人でさえ、高麗人の残酷さには驚愕した。
   ・   ・   ・   
 むくり(蒙古) こくり(高麗)。
   ・   ・   ・   
 元・高麗連合国軍は、生け捕りにした女性を含む数百人の日本人を裸にして釘で軍船に打ち付け、北九州沿岸に押し寄せた。
 その残虐行為を見せつける事で、日本の交戦意欲を砕こうとした。
 蒙古軍は、そうした残虐行為で各地を占領して、世界帝国を築いた。
 日本人は、気弱な民族ゆえに、その地獄の様な光景を見て恐怖し震え上がった。
 日本には、こうした残虐行為は、歴史上いまだかって存在しなかった。
 『八幡愚童訓』「片時の命も惜しければ、さしも愛する嬰児を指殺してぞ隠しける」。
 八幡神の霊験を記した『八幡愚童訓』は実録ではない。
 蒙古軍は、大陸の掟として、抵抗する者は決して許さず根絶やしにした。
 高麗兵も、蒙古軍を見習い、残虐の限りを尽くした。
 もしそうしなければ、高麗がモンゴルによって根絶やしにされたからである。
 モンゴルは、そうした虐殺を繰り返して世界帝国を建国した。
   ・   ・   ・  
 後年。ベトナム戦争に参加した韓国軍は、アメリカ軍以上の働きをして、100万人近いベトナム人を殺害したといわれている。その殺戮や拷問などの残虐性ゆえに、ベトナム人は韓国軍を恐れ、韓国人兵士を見かけるや子供さえ一目散に逃げ去ったといわれている。
   ・   ・   ・
 対馬壱岐からの蒙古襲来という知らせが九州各地に伝えられ、筑後肥前・肥後・豊後などの御家人達は祖国を外敵から守る為に太宰府に駆けつけた。
 それは、愛国心からか、恩賞欲しさの欲得か、それは分からない。
 もし、恩賞欲しさからすれば無駄な努力、死ねば無駄死に犬死にであった。
 恩賞欲しさとすれば、高麗のように蒙古に味方した方が得であった。
 国際的視野を持っていたら、日本を捨てて、蒙古に寝返ったかもしれない。
   ・   ・   ・   
 10月20日 蒙古・高麗連合軍は、博多湾に侵入して上陸して、防戦に現れた現地の御家人や在地武士を殲滅し、蒙古軍は赤坂の丘陵地帯に陣を張った。
 高麗軍は、後方の上陸地点に陣をひいて日本軍の襲撃に備えていた。
 大型軍船「千料舟」は、伝馬船的小舟「抜觥魯軽疾舟(バートルけいしつしゅう)」を一艘積載していた。
 総大将・少弐景資や豊後守護・大友頼泰らは、後手に回って水際撃退の機を逸していた為に、箱崎に本陣を置き、主力を博多の息(おき)の浜に展開した。
 少弐景資らは、蒙古・高麗連合軍の兵力に比べて劣っていた為に、敵陣を襲撃するのではなく東進してきた所を一丸となって撃退するという作戦を立て、全軍に下知した。
 肥後の御家人菊池武房は、抜け駆けして、100余騎の手勢を率いて赤坂の蒙古軍陣地を急襲して撃退した。
 日本軍総兵力は、九州の武士で数千〜1万人。
 蒙古軍は、油断していた所を襲われた為に敗走し、鳥飼潟に差し掛かった所で日本軍の追撃を受けた。
 鹿原(そはら)に陣を張っていた蒙古軍は、敗走する友軍を助ける出撃した。
 だが。蒙古軍は、連携して組織的に攻めてくる日本軍に撃破され、百道浜姪浜方面に退却した。
 蒙古軍は、集団突撃をして来る重層弓騎兵の武士団に対して、「てっほう」を使い轟音と黒煙で馬を驚かせて足を止め、日本の弓矢より遠くに飛び殺傷力のある弓を射かけ、高麗軍がいる上陸地点まで退却した。
 日本軍は、蒙古軍の激しく抵抗をする退却戦にあって追撃戦を取り止めて、太宰府方面に後退して再編成する事にした。 
 10月21日 蒙古・高麗連合軍は、未だに優位を保っていたが、日本軍が引いたのを機に舟に引き上げ壱岐に向かった。
 壱岐で、今後の日本遠征について軍議が行われた。
 高麗軍の金方慶は、高麗軍は今だ士気旺盛で戦闘継続は可能であると主張し、当初の計画通り博多に再上陸して太宰府を攻略する事を訴えた。
 蒙古軍総大将の忻觥は、対馬壱岐とは違って日本本土のサムライの抵抗は激しく、援軍が続々と集まり始めているとして、撤退する事に決定した。
 残虐行為を見せ付ければ恐怖に怯えて我先に降伏してくると甘い考えでいたが、日本人の平和より戦いを好む本質を見誤った。
 この間、玄界灘対馬海峡は暴雨風に襲われて大荒れとなり、多くの軍船が被害を受け、犠牲者が出た。
 『高麗史・金方慶伝』「夜、大風雨に会う。戦艦は岩に触れ多く敗れる」
 日本沿岸での、難破船の残骸や水死体の報告はなかった。
 日本側は、神社仏閣に於ける救国祈願による奇跡と信じた。
 元・高麗連合軍の攻撃を受けた地域の損害は、眼を覆いたくなる程の悲惨な惨状であった。
 10月27日 日本征討軍は朝鮮の合浦に帰還しが、未帰還者は1万3,500人に達した。 
 『元史・日本伝』
 蒙古軍の大将は、フビライに、高麗が建造した軍船は見た目以上に脆弱で被害を出し、日本征服が失敗したと報告した。
   ・   ・   ・  
 実は、7日間戦った後に、嵐が収まってから引き上げた。
   ・   ・   ・   
 蒙古軍の毒矢とてっぽう。
   ・   ・   ・   
 蒙古軍は、中国戦法による集団戦。
 日本軍は、抜け駆けの個人戦。 
   ・   ・   ・   
 日本武士の騎射は、蒙古軍を敗走させた。
   ・   ・   ・   
 11月 高麗軍は、凱旋帰国する際には、多くの日本人を奴隷として強制連行し、その内の約200人の子供を戦利品として高麗王に献上した。
 必要としない日本人捕虜を、中国人人身売買業者に奴隷として売った。
 高麗は、日本侵略で味をしめた。
 若し、日本征服船隊が暴風で甚大な被害を受けて沈没したのなら、高麗に連行された日本人は十数倍になる。
   ・   ・   ・   
 大陸的常識としては、残虐行為を目の当たりにした大陸人は恐怖を感じて、例外なくモンゴル軍の軍門に下った。モンゴルの要求を拒否して抵抗した民族主義国家は、イナゴの様な大軍に攻められて滅ぼされ、その民族は虐殺されるか奴隷とされて売られて地上から消滅した。
 フビライは、幾多の大陸的殲滅戦での経験から、日本も分別を持って虐殺と略奪の恐怖から臣下の礼をとるものと確信していた。
 負けず嫌いのサムライは、大陸的常識を振りかざして人を人と認めないやり口に怒りを感じ、全滅を覚悟で戦争に望んだ。
 当時の日本人は、生きる為に降伏して奴隷になるよりは、「人の尊厳」を守る為に正々堂々と戦い、祖国の大地を枕に「潔く討ち死」にする事を選んだ。ましてや、降り掛かった火の粉は自分の手で、火傷しても払いのける度胸があった。
 彼等は、現代日本人とは正反対に好戦的であり、不当な外圧には牙を剥いて噛み付いた。
   ・   ・   ・   
 後宇多天皇も、「戦争はやむなし」として、押し寄せる中国・朝鮮の大軍から神国日本が守られる様に日本の神々に祈った。それが、最終決定権者である万世一系男系天皇の最重要な宗教的国事行為である。
 彼らは、夥しい血を流しても侵略を正当化する中国文明から、血を流す事を嫌う日本文明・日本の伝統を守ろうとしたのである。
 当時の、日本の総人口は約700万人とされている。
 亀山上皇は、北条時宗に「日本全国の武士団へ指揮命令権を与える」という宣旨を下した。
 北条時宗は、鎌倉幕府御家人である全国の守護や地頭だけではなく、西日本の国司や土着の国侍に対しても蒙古に備えるように命じた。
 鎌倉幕府は、国難を利用して全国の武士団を命令下に置いた。
 高麗は、これ以上の絶望的な戦争を避ける為に、再び、日本に降伏して元の臣下になるよう勧める平和の使節を送った。
 日本は、皆殺しにあっても元・中国の奴隷になるつもりはないとして、戦争の決意を示す為に平和の使節団を処刑した。
 サムライは、如何なる外圧も、恫喝も、脅迫も、威嚇も、毅然として拒絶して、自己の信念を命を犠牲にしても守ろうとした。ゆえに、如何なる妥協もする気はなく、如何なる話し合いにも応ずるつもりもなかった。
 結果を予想していた高麗王は、平和を拒否する日本側の不服従を理由にし、フビライに日本に対する再度の侵略を要請した。
 朝鮮の将軍らは、前の侵攻で多くの戦利品をえ、それ以上の戦利品と奴隷を得る為に日本本土侵略にとりかかった。そして、軍船数を増やす為の建造も急いだ。
   ・   ・   ・   
 中国・元も、江南で大軍船の建造に着手し、侵略軍の編制に取り掛かった。
 フビライは、日本を中国領にする為に、南宋の降伏兵士や犯罪者や浮浪者や病人など厄介者の中国人数十万人を掻き集めた。中国人移住者は、日本人との平和・友好の和合の為ではなく、日本を中国化して日本人を抹消させるのが目的であった。
 大量の中国人移民を送るのは、領土を拡大する中国の常套手段である。
 高麗王は、日本が中国領として消滅する事は、その間にある高麗の将来を危うくすると判断した。
 北九州周辺の気象や海流などに詳しく、海戦の専門家である高麗水軍は、河川戦の専門家である江南水軍に全軍の指揮権を任せた。
 元・モンゴルの将軍は、騎馬による地上戦は得意であったが、水上戦は不得意であった。
 事実、1292年のジャワ侵略でも大敗している。
 ベトナムの陳朝は、3度にわたって元朝の侵略を受けたが、中国を敵視する民衆の協力を得て撃退した。中国人は、各地でベトナム人を虐殺していた。
   ・   ・   ・   
 1275年 フビライは、日本が、モンゴル・高麗連合軍の圧倒的軍事力と容赦なき残虐行為に恐怖し不徳を認めて降伏するであろうと高を括り、宣諭使に国書を持たせて日本に派遣した。
 同時に。高麗に対して、日本再征の為の軍船修造と矢の生産と兵糧の確保を命じた。
 ベトナムの大越国は、侵略して来た元軍・旧南宋軍を撃退した。
 4月 宣諭使は、長門室津に上陸して国書を手渡した。
 国書が現存しない為に、その内容は不明とされているが、戦争を臭わせて脅迫し臣下の礼を強要した先回の国書よりも、遙かに激烈な内容であったであとう推測されている。
 宣諭使が長門の上陸したのは、日本占領後の拠点作りの為であったとされている。
 6月 『東国通鑑』は、中国の碩学から「数百年間、白ばかり来ているが、朝鮮は東にあり、東は五行説で考えれば青になるから、白ではなく青服を着るべきだ」と指摘された事を記載している。 
 9月 幕府は、宣諭使全員を鎌倉に護送させて処刑し、蒙古との和平がない事を天下に知らしめて、徹底抗戦の宣言とした。
 日本は、戦争の継続を覚悟し、先手必勝として高麗への侵略として異国征伐を発表した。
 フビライは、これ以上の戦いを望んではいなかったが、世界の情勢に暗い日本によって和平の道は閉ざされた。
 高麗王は、高麗が生き残る為には、元の日本征服に積極的に関与するしかないと覚悟した。
   ・   ・   ・   
 1276年3月 幕府は、元寇再来襲に備えて、博多の防衛用の石塁建設を急ぐ為に、高麗討伐用の兵員を建設現場に投入した。
 フビライは、第2回日本征服のために、高麗に対して船舶建造と武器・兵糧の用意を命じた。
 高麗は、進んで日本征服に加担していた。 
   ・   ・   ・   
 1277年 元は、日本征服の前に南宋攻略をおこなうべく、日本を油断させる必要から交易の再開を許した。
 フビライの戦略の転換で、日本は時間を稼ぐ事ができた。
 日本が感謝すべきは、三別抄ではなく南宋であった。
 親中国派日本人は、中国側の友好の証しと信じて、元との戦争を回避するように朝廷や幕府に大金をばらまいて働きかけた。何時の時代でも、国家や民族の存続よりも自分の利益を優先する国際派日本人はいた。
 だが。元は、対等を求める天皇と日本を存続させておく意思はなく、臣下の礼をとらない限り日本と天皇を滅ぼす強い意志を持っていた。
 サムライは、国體護持を目的として、中国と朝鮮との戦争を覚悟した。
 1月 南宋の一部の武将は、主君である恭宗皇帝を捕らえて元の軍門に降った。
 モンゴルが大帝国を築いたのは、敵に残虐非道な大虐殺を見せ付け、敵の中から投降者を出させたからである。
 大軍団を維持したのは、降伏した旧敵将兵を最前線において新たな敵に突撃させ、モンゴル兵を温存したからである。
 この戦略が唯一効かなかったのが、日本で会った。
 日本では、モンゴルに降伏して、将軍と天皇に刃を向ける者がいなかった。
 日本では、世界常識が通用しなかった。
 南宋の遺臣は、幼帝を擁してこの後も3年間、激しく抵抗した。
   ・   ・   ・   
 高麗内では、蒙古軍が南宋に転戦して手薄になった事で内紛が起きた。
 朝鮮の宿痾として、目の前の危機過ぎ去ると明日の危機を忘れて権力闘争をくり返す。
   ・   ・   ・  
 1278年1月 フビライは、高麗を完全支配する為に、元に投降して蒙古軍の武将となっていた高麗人の洪茶丘を送り込んだ。
 高麗内で内紛が起きた。
 6月 高麗王は、フビライの元に急行し、遜り、臣下としての忠誠と従属国として命令に従う事を誓った。
 フビライは、日本征服に利用するべく、高麗王に娘婿の称号を与えて懐柔した。 
   ・   ・   ・   
 1279年2月 蒙古軍は、南宋の残党を根絶やしに為て中国を統一した。
 モンゴル兵は、到る所で、逆らう江南人を虐殺していた。
 一部の南宋人は日本に亡命し、復讐する為に元の情報をもたらした。
 フビライは、宋の降将笵文虎に日本攻略を命じ、同時に宋人10万人を日本に移住させ中国化を計画した。
 高麗は、フビライの命を受け手日本侵略用の軍船建造を急いだ。
 笵文虎将軍は、同じ宋人を使者として日本に送って降伏を勧告した。
 使者に日本と永年交易を続けて来た宋の旧臣を任命し、東アジアには日本に味方して援軍を送ってくれる国がない事を知らしめようとした。
 フビライは、中書省出先機関として新たな役所を設け、遼陽行省に満州と朝鮮の一部を統治させ、征東等処行省はアムール河下流域と高麗と済州島を担当させた。
 蒙古は、モンゴル人第一主義から、表向きは高麗を友好国としながらも、実体は半植民地として間接統治を行った。
 高麗は、絶対服従の家臣として蒙古皇帝にかしずき、許可なく意見を言う事は許されず、命じられた事のみを唯々諾々として従った。
 古代から、朝鮮は大国・強国には逆らわず忠実な家臣で有り続けた。
 中国における行政区割りとしての省州制は、大ざっぱで細かい事が苦手な元が始めたといわれている。
 高麗の国力を分断して、高麗王族から遼河以東と朝鮮北3分の1を統治する瀋陽王を任命し、後に高麗王と同格の瀋王に昇格させた。
 儒教に於いて、一字文字の国王は二文字の国王よりも位が高いとされた。
 高麗王と瀋王が同一人物であれば問題が起きなかったが、別な高麗人が任命されると元朝の権力闘争に影響されて、高麗人は高麗王派と瀋王派に別れて争った。
 フビライは、第2回目の日本侵略を実行しようとしたが、雲南省満州北部で起きた叛乱を鎮圧する為に中止した。
 さらに、中央アジアでの叛乱鎮圧で日本侵略が遅れた。

 8月 日本は、孤立無援で絶体絶命の追い遣られても、モンゴルの臣下として生き長らえるよりも、神国日本を守る為に最後の一人になっても戦い続けるとの決意を示す為に使者を処刑した。
 博多周辺の防塁作事を急いだ。
   ・   ・   ・   
 1280年 降伏南宋人将軍等は、元の都で開かれた日本征服作戦会議に出席し、日本征討に参加する事を積極的に申し込んだ。
 高麗も、元の属国として生き残る為に、日本征服に参加する必要があった。
 フビライは、名目だけではあったが、高麗王に高位の官職を授けた。
   ・   ・   ・   
 日本が、日本侵略推進派の高麗に感謝する事は何もない。
   ・   ・   ・   
 日本は、援軍を送ってくれる同盟国を持たず、東アジアで孤立し、世界帝国の元と同盟国・高麗の連合軍を一ヶ国で迎え撃たねばならなかった。
 古代から、日本は東アジアで孤立していた。
   ・   ・   ・   
 もし、日本が世界最強の蒙古軍に怖じけ付き属国として朝貢をしたら、フビライは高麗王に皇女を嫁がせたように、日本天皇を臣下にするべく皇女を下賜したであろう。
 そして、黄金の国・日本を支配地にする為にモンゴル人の将軍か帰属高麗人の武将を総督として派遣し、日本の伝統や文化を全て破壊した。
 何故なら、元王朝衰退の原因の一つが日本征服の失敗にあったから。
 日本征服が高麗王の要請通りに成功したら、元王朝の繁栄は続き、日本は完全に中国化して消滅していたからである。
   ・   ・   ・   
 対馬で生き残った島民の一部は、モンゴルと高麗の襲撃から逃げる為に青森・弘前に移住した。
   ・   ・   ・   
*第二次元寇 = 弘安の役  
 高麗は、生き残る為に日本を陥れようとした。
 高麗王は、日本征伐を積極的に推進し、戦利品欲しさに約1万人の兵士を参加させた。
 高麗人兵士は、モンゴル人以上に血に飢えた獣の様に獰猛で、女子供でも容赦せず見付けしだい虐殺し、日本人女性は強姦して惨殺した。
 高麗人は、モンゴル人同様に、日本人が流す血に酔いしれた。
   ・   ・   ・   
 1281年 フビライは、日本征服に赴く蒙古軍に対して先の遠征のような虐殺を行う事を禁止した。
 これが大陸の戦いであれば、蒙古軍の虐殺に恐怖した敵兵が先を争って降伏し、蒙古軍に味方して先陣を切って同胞を攻撃した。
 だが、当てが外れた。
 フビライは、南宋の降伏兵や犯罪者や老人など邪魔な漢族を国外追放する為に、武器のかわりに農具を持たせて軍船に押し込めて送り出した。
 江南軍は、移民団であった。
 中国は、古代から、邪魔な人間は戦争に追い遣って殺した。
 5月21日 弘安の役元寇東路軍4万人内高麗軍1万人は、対馬に上陸し、防戦に出てきたサムライを皆殺しに為た。
 対馬島民は、先の惨劇に恐れを成して降伏した。
 行きに向かう途中で強風に襲われ、東路軍に被害が出た。
 東路軍は、腹いせに、壱岐に上陸するや島民を見付け次第に虐殺した。
 蒙古軍の戦陣を受け持つ高麗軍の働きは、蒙古軍を喜ばせた。
 朝鮮人は、後ろに強い味方がいると、味方に誉めて貰いたくて凶暴化して見境なく殺戮を行った。
 『八幡愚童訓』
 5月26日 鎌倉武士は、文禄の役を教訓として、博多に20キロにわたる防塁を築き襲撃に備えていた。
 東路軍は、博多上陸を諦め志賀島に上陸し、長期遠征を想定して陣営設営を行った。
 6月6日 東路軍は、博多湾に侵入した。
 サムライ達は、先の戦いを教訓として、同じ失敗を繰り返さない為に慎重に戦った。
 蒙古軍は、攻めあぐねて船上に退いて休んだ。
 サムライ達は、夜襲をかけて蒙古軍を脅かした。
 東路軍は、博多湾の外にある志賀島に上陸し、海の中道から博多を目指して攻め込んだが日本軍に遮られて攻め倦んだ。
 別動船隊は、陽動作戦として、長門の西海岸を攻めた。
 東路軍は、本隊主力である江南軍の到着を待ち、積極的な攻撃を避けていた。
 高麗軍は、江南軍が到着すると存在感が薄れるとして、日本軍へも猛攻を繰り返し、日本人を見付けしだい容赦なく殺していた。
 京では、蒙古軍が対馬壱岐・博多・長門などを攻めて、日本が湾甚大な被害が出ているという噂が流れていた。
 鎌倉は、どんなに被害が出ようとも最後には勝つという決意で、如何に悲惨な報告が来ても動ずる事なかく、講和を拒否していた。
 サムライとは、現代の日本人とは違って、戦い敵を斬り殺す事を職業として、蒙古軍に先祖代々の土地を渡す気はなかった。
 深夜から、日本軍は志賀島を奪還する為に繰り返し攻撃したが成功しなかった。
 6月15日 江南軍の到着日であったが、アラウォーはあらわれなかった。
 江南軍先発船隊は、航路を誤って対馬に到着した。
 対馬は、南宋船が蒙古軍に加わっている事を京に急報した。
 6月24日 京では、蒙古軍・高麗軍に加えて南宋軍も日本に侵略してきたとの驚愕の報告が届いた。
   ・   ・   ・   
 亀山院は院宣を発し、22の神社と比叡山などの寺社に「敵国降伏」の祈祷を命じ、自らは石清水八幡宮に詣でて「国家安泰」と「勝利」を祈った。
 天皇は、祭祀王として祈る事が最大の責務であって、征服王として武器を持って戦う事ではなかった。
 天皇も武器を持って戦うべきだと確信している日本人は、真っ赤な偽物で、本当の日本人ではない。
   ・   ・   ・   
 6月26 江南軍の総大将である阿刺罕(あらかん)が病に倒れた為に、阿塔海が代わって総大将として江南軍にようやく合流した。
 阿塔海の下で新たな作戦会議が開かれ、主力船隊の出航は遅れた。
 6月29日・7月2日 東路軍は、水と食糧を補給する為に壱岐に上陸し、防衛の為に布陣していた日本軍を全滅させた。
 日本軍は、多勢に無勢で不利と分かっていても、死ぬを覚悟で戦っていた。
 7月5日〜10日 江南軍が到着して、東路軍と合流した。
 日本征服の為の作戦会議が行われた。
 高麗軍の金方慶は、祖国高麗の貢献を蒙古軍に認めて貰う為に全軍による猛攻を主張した。
 宋軍の笵文虎らは、長旅で到着したばかりである為に疲れを取るべく、日本軍の出方を静観する事を主張した。
 蒙古軍の総大将である忻觥と降伏高麗人の洪茶丘は、これ以上の被害を出す事を嫌い、日本がこれだけの大兵力を見て怖じ気づいて全面降伏するとの希望的観測で対陣を決めた。 
 博多の日本軍等は、蒙古軍の大船団に度胆をを抜かされたが、負ける気がしなかった為に降伏する気はなかった。
 サムライは、高麗とは違って、日本の意地で最後の一人になっても、玉砕する覚悟で祖国を守る決意を固めていた。
 7月27日 蒙古軍の大船団の中で疫病が蔓延しこれ以上の対陣は不可能となって、攻勢に出るべく、平戸から鷹島沖に移動した。
 江南軍は、日本を長期間攻め続ける為に、鷹島を中継陣地にするべく準備を始めた。
 松浦水軍は少数ではあったが、本拠地を占領された為に、サムライの名誉にかけ、全滅覚悟で夜襲を仕掛けた。
 だが、蒙古軍の被害は軽微であった。
 7月30日 午後から雨が降り出し、夕方には風が混り、夜半には大嵐となった。
 蒙古軍の船は、荒れ狂う海に飲まれて被害が出始めた。
 嵐は、丸二日間続き、蒙古軍の大船団の大半が海の藻屑となり、大勢の兵士が溺死した。
 蒙古軍による日本征服計画は、日本の武士団の活躍と台風の暴風(神風)で失敗した。
 嵐は、日本側にも甚大な被害をもたらした。
 7月31日 日本側の新兵器は「糞尿」であった。
 モンゴル兵や高麗兵は、「糞尿」兵器に閉口し戦意を失った。
 武士団は、難破を免れた蒙古船を襲撃し残敵掃討を実行した。
 武士団は、船の上で敵兵を殺し、沿岸に泳いで逃げた敵兵を見付けしだい惨殺した。
 捕らえた敵兵は、全て首を刎ねた。
 特に、高麗兵と蒙古兵は許す事なく惨殺した。
 南宋兵は懇ろに弔ったが、高麗兵には見抜きもしなかった。
 日本人は、高麗人に対する恨み骨髄から残虐な対応をした。
   ・   ・   ・   
 蒙古軍は、準備してきた矢などの武器を使い果たし、武士団の弓矢攻撃と夜襲に悩まされ撤退した。
   ・   ・   ・   
 高麗王は、日本の報復を恐れ、日本の侵略軍を撃退する為に部隊の駐留を要請した。王族や高級官吏は、恭順の証しとして、姓名をモンゴル風に創氏改名した。朝鮮人にとって、先祖からの姓名にそれほどの愛着は持ってはいなかった。
 高麗は、日本の侵略を警戒し、敵性国家日本との交易を遮断した。
   ・   ・   ・   
 日本は、蒙古に臣属した高麗への敵愾心を強め、「ムクリ(モンゴル)・コクリ(高麗)の鬼が来る」と恐れた。
 惻隠の情を信ずる日本側は、死亡した旧宋の民は無理矢理に連れてこられた犠牲者として手厚く弔り、生き残った宋人には同情し助けて中国に送り返した
 だが。蒙古の犬となって喜々として日本人を虐殺した高麗人を、蒙古人以上に、八つ裂きにしても飽き足らないほどに憎んだ。
 事実。家族を見るも無残に虐殺された日本人は、命辛々海岸に辿り着いた高麗人を皆殺しにした。
 日本人にとって、高麗はモンゴルの奴隷として虐殺を行っただけに、高麗人は許しがたい殺人鬼であった。
 ゆえに、高麗人を八つ裂きにしたいほど憎み、実行した。
   ・   ・   ・   
 現代日本の一部の良識的日本人は、虐殺された日本人島民より高麗に同情して、溺死せずに辿り着いた高麗人を殺した日本人を血に飢えた殺人鬼と非難している。
 友好的日本人は、同じ日本人を憎み、高麗人・朝鮮人・韓国人を愛している。
   ・   ・   ・   
 鎌倉幕府は、モンゴル・高麗連合軍の三度目の侵略を防ぐ為に、日本侵略の軍事基地となっている半島への反撃を計画し、西国の御家人に出兵を命令じた。
 ただし。出兵出来ない者は、博多の防塁建設を命じた。
 大半の御家人は、恩賞が貰えない朝鮮出兵を嫌って防塁建設を希望した。
 幕府は、兵員が集まらなかった為に朝鮮侵攻を断念した。
 だが、高麗人によって家族を虐殺された対馬壱岐、北九州の住民は復讐に燃え、倭寇として朝鮮半島や中国大陸の沿岸を荒らし回った。
 倭寇が殺すのは役人や兵士であって、一般住民には同じ庶民として手を出さなかった。
 倭寇は、復讐としての海賊行為を行ったのであって、上位者による下位者に対する懲罰的意図もなかったし、領土拡大の野心もなかった。
 朝鮮や宋との交易を行っていた倭寇は、友人として朝鮮人や中国人を信じ切っていただけに、人として日本人を虐殺した彼らが許せなかった。
 また。倭寇は、外国交易を行っていただけに、国際感覚があり大陸情勢に詳しかった。
 倭寇を単ある略奪と虐殺を行う海賊集団と決め付ける者には、本当の歴史は見えない。
   ・   ・   ・   
 1282年 高麗王は、元朝の内紛が続発し始めたのを知りながら、再々度の日本侵略をフビライに要請した。
 フビライは、区切りとして、一先ず日本征服計画を中止したが、諦めたわけではなかった。
   ・   ・   ・   
 北条時宗は、無学祖元禅師に円覚寺を開山させ、元寇で死亡した敵軍兵士の供養の為に1,000体の地蔵尊を奉納した。
 残虐行為を行った高麗兵も、死ねばみな同じ仏になるとして、恩讐を超えて手厚く弔った。
 日本の宗教観や死生観において、中国や朝鮮とは違って、敵味方に関係なく別け隔てせず平等に祀った。
   ・   ・   ・   
 1283年 フビライは、日本に敗退した事実を放置すれば皇帝の威信に関わるとして第三次日本討伐の必要性を自覚していたが、その前に帝国内の立て直しが必要であった。
 高麗王は、フビライの命令で軍船建造に取り組んだ。
 江南も、フビライの命で軍船建造と兵士の調達を行っていた。
 江南の住民は、重税と強制労働に不満を抱き暴動を起こし始めた。
 ベトナムの占城王国は、元の臣下として朝貢す事に不満を抱いて叛乱を起こした。
 フビライは、日本侵略の為に用意した兵士と軍船をベトナムへ派遣した。総大将は、阿塔海であった。
 だが、占城遠征船隊は暴風に遭って甚大な被害を被り、ベトナム人の反撃を受けて敗走した。
   ・   ・   ・   
 日本侵攻の為の時間が稼ぎに、日本でも高僧として名の知れた一山一寧を使者として送り、友好を申し込んだ。
 中国の平和の使者とは、一時の方便で過ぎず、友好・善隣は口先だけの嘘偽りであった。
 日本に亡命していた宋の遺臣や僧侶らは、戦争を恐れる自国が平和の為に敵の宥和策を信じて滅亡した経験から、「国家を安泰させ未来に残す」為には中途半端な和平策は避けるべきと忠告した。
 サムライは、国家の尊厳と安泰は戦って守り屍の上に築くものとして、中国側の謀略的宥和策を毅然として拒絶した。
 日本が元との敵対関係を表明した事で、高麗の地政学を生かした生き残り戦略は成功した。
   ・   ・   ・   
 1284年 フビライは、日本討伐の準備に取り掛かろうとしたが財政難に陥り、戦費を賄う為に江南地方に重税を課した事で叛乱が起きた。
 やむなく、話し合いで日本を属国として天朝朝貢秩序に従わせるべく、平和の使者を日本に送った。
 当然、日本は拒否した。
 元軍・旧南宋軍は、ベトナムを再度侵略したが、雨量の多い柔らかい土地柄の為に騎馬による得意の機動戦が使えず、その上に地理不案内な為に大敗をきしって敗走した。
   ・   ・   ・   
 1286年 幕府は、元と高麗に対する備えを厳重にする様に命じた。
 鎌倉幕府は、日本侵略の前線基地である朝鮮半島の侵略と占領を計画したが、御家人らは恩賞が得られないとして猛反対した。大陸や半島の富に興味のない閉鎖的武士らは、朝鮮侵攻は愚の骨頂として実行させなかった。決して、朝鮮との友好関係を重視したからではなく、朝鮮などに価値を見出さず興味がなかったからである。
 被害を被った対馬や北九州の漁民らは、復讐をしない武士をあてにしなかった。報復の為に、独自で倭寇の船団を組み、半島の沿岸を荒らし回り、憎き朝鮮人を大量に虐殺した。
 朝鮮人は、日本人を血に飢えた獣と憎悪した。その認識は、現代にも受け継がれている。
 数隻の中国船が、琉球(沖縄)や北九州を襲撃して虐殺と略奪を行った。
 北九州の武士団は、鎌倉幕府が滅亡するまで、大陸や半島からの侵略に備えて警戒を緩める事はなかった。
 サムライは、現代の日本人以上に、大陸と半島を信用せず、話し合いではなく武力を持って国土と民衆を守ろうとした。
 日本民族は、高度な教養と技術を持つ元・高麗軍に抵抗した事によって、文化程度の低い野蛮な好戦的民族とされた。それが、東アジアの日本人観となった。
 近隣には日本の友好国は存在せず、全てが敵国であった。日本人には、古代から、心を許せる隣人はいなかった。
 高麗は、自分が事を忘れたが如く、元には内緒で日本との交易を開こうとした。
 鎌倉幕府は、信義なき朝鮮人を心底から信用せず、敵国高麗との国交を拒絶した。
 日本と朝鮮との友好は、幻想のまやかしに過ぎなかった。
 朝鮮人は、自己中心型で自分を正当化し、自分の非をけっして認めず、責任を他人に転嫁して恥じない。
 元寇における高麗軍の蛮行は、元に強要されたもので自分に責任ではないと。
 実は高麗も被害者であったと奇弁を労して恥じないのが、朝鮮民族のさもしく卑しい民族性である。
 国益を無視して自己利益のみを強欲に追い求める日本人のみが、朝鮮との友好関係を声高に叫び、個人的に高麗人参青磁及び白磁を得る為の交易を望んだ。こうして、民間交易は続けられていた。
 元は、1292年と1297年に琉球を襲撃し(第92代伏見天皇)、1301年に薩摩を襲撃した(第93代後伏見天皇)。
   ・   ・   ・   
 日本は、高麗・朝鮮に救われた所は全くない。
   ・   ・   ・   
 1288年 元軍・旧南宋軍は海上から侵攻する為に大艦隊を送り込んだが、ベトナム白藤江(バックダン河)でベトナムの奇計で大敗した。
 ベトナムは、高麗とは違って、日本同様に軍事力で中国の侵略から祖国を守り通した。
 大越(ベトナム)やジャワなど東南アジア諸王国も、日本と同じように高麗とは違って、大モンゴル帝国に従属する事を嫌い、属国となる朝貢冊封を拒否し、無謀にも強大な元軍の侵略と戦って撃退した。
 元は、各地で激しい抵抗を受けて敗北して帝国の威信を傷付けられた。帝国としての面子を取り戻す為に、周辺諸国への再遠征を計画するが、身内の内紛や漢族の反乱によって版図拡大戦を断念した。
 中国の歴代王朝は、戦争に疲れ軍拡路線を平穏な平和路線に切り替え、領土拡大を止めた時から衰退して滅亡した。
   ・   ・   ・  
 1292年 元の役人は、日本の商船が自衛の為に船中に置いていた武器を発見し、倭寇の一味と見なして不当な関税をかけ、中には商品を略奪品として没収した。
 日本商船の一部は、旧南宋での平和的な交易を求めていたが、元側の差別的な対応に激怒して倭寇化していった。
 1293年 フビライは、日本征伐を計画し、高麗に軍船の建造と兵糧の備蓄を指示し、場合によっては高麗一国による日本征伐を命じるつもりであった。
 高麗王は、主戦派として元の日本征服に賛同したが、軍船を建造する樹木がなく、兵糧を集めるにも国土が疲弊していた。
 1294年1月22日 フビライは、日本征服の夢半ばで逝去した。
   ・   ・   ・   
 1304年 元は、倭寇の襲撃から沿岸を防衛する為に軍隊を配置したが、そのほとんどが倭寇に敗れ米や商品が略奪された。
 日本人の倭寇は、蒙古を憎んだが中国には恨みがなかった為に、元の役人は殺したが逃げ惑う中国人を殺害する事はなかったし、中国人から金品を奪うこともしなかった。
 1308年 フビライの日本征服に積極的に協力した、高麗王忠烈王が死亡した。
 江南地方では、モンゴル人支配にへの不満から叛乱が堪えなかった。
 高麗は、忠実な臣下として、卑屈なまでに元に忠誠を誓っていた。
   ・   ・   ・   
 日本にとって感謝すべきは、三別抄の高麗ではなく、元の情報をもたらしてくれた親日的な南宋人であった。
 日本が、蒙古・高麗連合軍に占領されなかったのは、暴風という「神風」ではなく、高麗や南宋のように元に降伏し寝返った者がいなかったからである。
 其の意味に於いて、現代日本より当時の日本人の方が優れていた。
 当時の日本人は、全滅覚悟で蒙古・高麗連合軍と戦って、戦わず話し合いで生き残ろうとした者がいなかった。
 知ったかぶりで日本を裏切り、中国や朝鮮に擦り寄ろうとした日本人はいなかった。
 現代日本には、外国との戦争を嫌って、日本を見捨てようとしている反日的日本人がいる。
   ・   ・   ・   
 1309年 倭寇は、明州(寧波)を攻めて城中を焼き払ったが、無益な殺生はせず引き上げた。
 倭寇は、交易商人を中心とした海の男達であり、公平な商取引が望みであって領土的野心はなかったし、沿岸部の住人から憎まれては今後の商いに支障をきたす為に手荒なまねはしなかった
 日本人倭寇は、バイキングや無法者集団のような根っからの海賊ではなかった。
 元は、倭寇の猛威に危機感を強くして海防を強化したが、神出鬼没な倭寇の攻撃に翻弄されてた。
 その原因は、沿岸部の中国人で、彼らは蒙古の支配を嫌って倭寇を支援し、日本人商人と密貿易を行っていた。
 モンゴル人は、名誉の為なら暴力を以ても自己主張する日本人に感服したが、生き残る為に武力を否定して卑屈なまでに臣下の礼をとって媚び諂う高麗を軽蔑した。
   ・   ・   ・   
 1317年 元は、沿岸部を襲う倭寇を討伐する手立てがなく頭を悩ませた。
 江南人は、蒙古の無能さを目の当たりにして、異民族の支配から独立の為に暴動を起こし始めた。
 元の呉?『論倭』「漢代の日本人は弱小で制圧しやすく、唐代では白村江の戦いでは簡単に打ち破れるほどであった。しかし、今の日本人は昔の日本人ではない。昔の日本が弱いといっても、せいぜい中国軍の軍隊を防ぐ程度であったが、現在ではこちらに向かって攻め寄せてきている。日本兵は軍備を整え、船を使って神出鬼没に攻撃してくるため、沿岸の兵隊がやって来る時にはもはや跡形もない。元軍は疲れ果て国家の権威は地に落ちた」
 元は、表面的に武力を見せ付け倭寇を恫喝しながら、裏では利益をちらつかせて日本商人の懐柔を行った。
 日本人倭寇はもとは交易商人であっただけに、命の危険を犯すよりも安全に商売ができる方を望んでいた。
 だが、海賊稼業に快感を持った日本人は倭寇を続け、バイキングのように沿岸部からた内陸部まで攻め込んでいた。
 倭寇の獰猛さ憧れた中国人が仲間に入り、次第に日本人よりも多くなり、日本人に代わって頭目となった。その代表が、後の王直である。
 力の信奉者である中国人は、討伐・殲滅ではなく懐柔・宥和を模索する元の腰抜けを衰退と見た。
   ・   ・   ・   
 1322年 多くの倭寇が元の懐柔策で中国沿岸を離れて、北の高麗か南のフィリピンやベトナムなど活動拠点を移した。
 8月 倭寇は、全羅道に上陸して高麗軍と戦い、沿岸部から多くの戦利品を奪って去った。
   ・   ・   ・   
 悪名高い、日本人倭寇の復讐戦が始まった。



   ・   ・   ・