🛶3〕─1─縄文系アイヌ人は、オホーツク海沿岸海域で独自の文化・経済圏を形成していた。~No.5No.6No.7 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アイヌ人とは、シベリアから樺太及びカムチャツカ半島から千島列島・北方領土から北海道に南下していた北方系草原の民が縄文人(南方系海洋民)と出会い、雑婚し混血として誕生した先住民族である。
 アイヌ人は、縄文人と同様に海を手漕ぎ船で移動しながら生活し、そして戦闘的攻撃的であった。
 アイヌ人と日本人は祖先を同じくする血族であったが、ロシア人や中国人とは血が繋がらない別人種である。
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 アイヌ人は、戦闘を嫌う平和な民ではなく、戦う事を厭わない戦士の民であった。
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 2016年10月19日 読売新聞「アイヌ交易 北東アジアにも
 日本と大陸の『あわい』に生まれる 瀬川拓郎
 狩猟暮らしに閉じこもり、時代の変化に取り残された人びと──多くの日本人が漠然と持つ、このアイヌ人のイメージは、考古学によって大きく変わりつつある。
 生息する動物の種類が大きく変わる境界が『ブラキストン線』として知られるように、北海道にはヒグマやエゾシカなど大型獣が豊富で、良質な毛皮をもつ中小型獣も多い。トドやアザラシなど海獣類の回遊も、北海道近海がほぼ南限にあたる。さらに今の季節、大量のサケが川面を黒く染めて遡上する。北海道は、南に張り出した北の生態系、日本列島における北東アジア的世界だ。
 古人骨のコラーゲンによる食生態の分析では、北海道縄文人は肉食主体、本州縄文人は植物主体とされる。北海道では縄文時代以降も、肉食と毛皮利用のいわば『旧石器的生業体系』が展開してきた。その基盤となったのが、北海道の北東アジア的生態系なのだ。
 狩猟採取に踏みとどまったにもかかわず、北海道の遺跡からは異文化の産物が多く出土する。弥生時代の南島産貝製品、古墳・奈良時代の刀、平安時代の銅椀(どうわん)や鏡、鎌倉時代以降の漆器、サハリンのコハク玉、大陸のガラス玉などだ。平安時代の集落跡では、アムール川下流域パクロフカ文化の鉄鏃(てつぞく)が出土し、注目を集めた。おそらく大陸の弓・矢・矢筒のセットが、珍奇な宝として流通していたのだとう。
 本州の庶民など到底手にできないこれらの産物を、北海道の人びとは陸海獣の毛皮などによって入手した。旧石器的生業体系という『後進性』を優位性に転換する、交易狩猟民の道を『選択』したからではないか。
 ロシアの考古学研究者は、アイヌが11世紀以降、サハリン南部、千島、カムチャツカへ進出していった事実を明らかにしてきた。中国の史料によれば、サハリンに進出したアイヌ人は、13世紀には大陸の先住民の村々を襲って略奪を働き、北東アジアに政治的影響力を及ぼす大モンゴルと戦争を繰り広げた。北東アジアに進出し、交易を拡大していったアイヌ人は、バイキングともいえるいえる存在だったのだ。
 ただし、北海道は基本的に本州の流通圏のなかにあった。それは日本の強い求心性だけでは説明できない。というのも、その事実は、北東アジア的な北海道がなぜ日本列島の縄文文化圏に含まれたのか、生態系で北海道と共通する一衣帯水のサハリンがなぜ縄文文化圏に含まれなかったのかという、日本国成立以前の問題とも関わっているからだ。
 北海道は、道東太平洋沿岸を除いて、東シナ海から日本海を北上する対馬海流に取り囲まれている。海流と海上交通からみた北海道は、南の生態系に組み込まれた世界だ。北海道が縄文文化圏に含まれ、その後も日本の流通圏となっていた理由はそこにある。
 日本と北東アジアのあいだで、アイヌはどちらにも帰属しない『あわい』の存在として生きてきた。かれらを理解する手がかりは、北と南の生態系が重なりあう、北海道という『あわい』の世界にある。南に目を転じれば、亜熱帯の生態系をもちながら、海流によって日本列島に組み込まれた沖縄もまた『あわい』の世界だ。沖縄の人びとも交易を生業とし、近代になるまで日本と中国いずれにも属さない『あわい』の存在として生きてきた。アイヌ人と沖縄人は、縄文人の遺伝的特徴を強くもつという。かれらの独自の歩みは、日本列島の『あわい』に生きた縄文人の『選択』だった。といえるのではないか」
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 日本民族日本民族日本人の原初は、渡来人である南方系海洋民の縄文人であった。
 4万年前 南方系海洋民は、台湾から沖縄を経て九州に上陸して日本全国に住みついた。
 3万6000年前 日本に於ける前期旧石器時代の始まりである。
 3万年前 鹿児島県・姶良(あいら)火山が噴火して、大規模な火砕流が南九州を襲い、火山灰は九州・四国・中国など広域に降り積もった。
 南九州では、噴火後数百年以内に再び縄文人たちが住みついた。
 2万8000年前〜1万5000年前 最終氷期の最寒冷期に大規模な海面が低下し、対馬海峡間宮海峡宗谷海峡を経て人や動物がい移動した。
 縄文人達は、北九州から出雲、能登、新潟と日本海側を船で東北、北海道へと北上しながら定住した。
 1万5000年 前縄文中期。気候が温暖化した。
 1万3000年〜1万1500年前 縄文後期・晩期。再び寒冷化した。
 紀元前7000年 縄文海進。気温が上がる事で海面も上昇して、海運が活発化した。
 紀元前5300年 鬼界カルデラが大噴火して九州に甚大な被害が出て、南九州の縄文文化は打撃を受けた。
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 北海道に住みついた縄文人は移動して、宗谷岬から樺太へ、北方領土から千島列島へと渡りカムチャツカ半島に向かった。
 バイカル湖周辺に住んでいた北方系草原の民の一部が西に向かって移動してベーリング海に到達し、カムチャッカ半島から南下するグループとアリューシャン列島からアラスカを経てアメリカ大陸に拡散するグループに分かれた。
 南下したグループは、千島列島を下って縄文人と出会った。
 別のグループは、アムール川下流域や沿海州を経て樺太に上陸して南下した。
 縄文人と北方系草原の民は樺太や千島列島・カムチャツカ半島などで出会い、雑居し、雑婚し、その中からアイヌ人が生まれた。
 アイヌ人らは、船を使って行き来しながら交わり、オホーツク海海域で独自の文化・経済圏を形成した。
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 アイヌ人は、北方系草原の民の血を色濃く受け継ぐ朝鮮人のような、口先だけの文弱ではなかったし、武芸に不向きなひ弱でもなく、意欲的な行動力が乏しい民族とは違っていた。
 アイヌ人は、荒っぽく大きく3つのグループに分けられる。
 今に残る北海道・北方領土アイヌ。今はいない樺太アイヌと千島アイヌである。
 千島アイヌは、ロシア帝国時代に北辺紛争にともない強制移住させられて消滅した。
 樺太アイヌは、ソ連共産主義政支配時代の民族浄化で激減した。
 アイヌ人と共存できたのは日本だけであった。
 日本の寛容な多様性が、異質なアイヌ人を受け入れた。
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 日本民族日本人・大和民族倭人弥生人縄文人と、アイヌ人、琉球人、台湾人は南方系海洋民を祖とする同根である。
 ただ、日本民族日本人のみが、北方系草原の民の移住を受入れて雑居し雑婚して混血化した為に南方系海洋民・縄文人の特性を薄めた。
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 戦闘的なアイヌ人が非戦闘的な穏やかな人間に変容していったのは、地球の寒冷化にともない居住環境の変化である。
 バイキングは生活圏を南の温暖地域に求めたが、アイヌ人は南の日本列島や朝鮮半島に乗り出す事なく留まった。
 今住んでいる寒い地域に留まる事で、戦闘的性格が変わった。
 極寒と酷暑は、生存に必要なエネルギーを温存し無駄に消費しない為に生物の行動的意欲を奪う。
 平和的なアイヌ人と攻撃的なバイキングとの違いは、居住地帯周囲に食料が豊かにあるどうかであった。
 食糧が乏しかったバイキングは、豊かな土地を襲撃して必要な食料や生活物資を略奪し、時には子孫を増やす為の女性や労働力としての男性そして仲間を増やす為の子供を拉致した。
 食べ物が豊富にあるアイヌ人は、野蛮行為に走る必要がなかった。
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 ウィキペディア
 アイヌ
 民族的出自
 自然人類学から見たアイヌは、アイヌ大和民族も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立しとされる。アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる。
 身体的特徴
 アイヌは古モンゴロイドに属し、周囲のモンゴロイドと大きく異なる形質を持っており、人種的にはアイノイドと呼ばれる。和人など周囲のモンゴロイドと比較して、北海道アイヌは次のような特徴をもつ。
 1,皮膚の色は、黄色みの乏しい明褐色。
 2,新生児の仙骨部の皮膚の色素斑(児斑)がまれ(11%)。
 3,体毛が比較的太く、長い。
 4,頭毛が波状を呈し、断面形が扁平。
 5,脳頭蓋の前後径が大きく、頭長幅示数が長頭に近い中頭型(76.6%)。
 6,顔高が低く、頬骨弓幅が広い。
 7,眉稜、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼は二重瞼が多く、蒙古ひだが少ない(5%)。
 8,耳垂が発達し、癒着型は少なく、遊離型がほとんど(95%)。
 9,耳垢は湿型が非常に多い(87%)。
 10,歯の咬合型式は鉗子状が多い
 11,身長は和人と比べると低く、体の比例は上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い。
 12,手の指紋は渦状紋が比較的少なく蹄状紋が多い。
 以上に挙げた特徴は、北海道アイヌ樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向がある。
 コーカソイド
 これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人琉球民族、日本人と近縁であることが判明し、コーカソイド由来のDNAは全く検出されていない。
 遺伝子調査
 「ハプログループDlb (Y染色体)」および「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)」を参照
 近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球民族で、次いで大和民族であり、大和民族アイヌ人の共通性は約30%程である。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ琉球民族大和民族)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。アイヌ集団にはニヴフなど大和民族以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。
 北海道縄文人集団
 母系系譜を示すミトコンドリアDNAを用いた系統解析により、北海道の縄文・続縄文時代人の系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団における頻度分布と大きく異なっている。また坂上田村麻呂侵攻以前の東北地方古墳時代人に北海道縄文・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察され、東北地方縄文人についても北海道縄文・続縄文人と同様の母系を持つ可能性が指摘され、東北地方縄文時代人と北海道縄文時代人DNAと比較した結果、ハプログループN9bおよびM7aが北日本縄文人ミトコンドリアDNAの遺伝子型の中心とされた。
 オホーツク人・カムチャツカ半島先住民族との関連
 近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化は5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消している。。
 歴史
 人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる。擦文文化やオホーツク文化アイヌ文化に影響を与えている。13〜14世紀になると、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われた。
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 十三湊(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に、蝦夷沙汰職(えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の許でとりわけ隆盛を極めた湊である。
 地域名「十三」を江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん(歴史的仮名遣:じふさん)」と読むようになった。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる。
 遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日に国の史跡に指定されている。史跡としての中心地(説明板所在地)は十三古中道(ふるなかみち)61番地。本項ではこの遺跡についても述べる。
 年表
 後氷期初頭(新生代第四紀完新世初頭) - 縄文海進の始まり。本州島北西端部の日本海に面した海岸部では、遠い未来に十三湖となる湾入「古十三湖」が形成され始める。
 縄文時代前期 - 縄文海進が極限に達したこの頃、古十三湖(十三の湾入)が史上最も広大な水域(※岩木川水系全域と推定される)となる。その湾入に面した台地の上では人々の活発な活動が見え始める(集落や貝塚が急増し、新潟産の翡翠や北海道産の黒曜石なども見られることから、すでに古十三湖日本海経由の交易が行われていたことが分かる)。
 縄文時代後期 - 岩木川水系のもたらす土砂の堆積により、古十三湖が大幅に縮小し始める。
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