🏹21〕 ─1─高麗王が弘安の役(第2回日本侵略戦争)を始めた。朝鮮半島の歴史は加害者の歴史。~No.67 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 鎌倉後期から室町前期にかけての前期倭寇は、対馬壱岐・北九州などの漁民が、高麗・蒙古・旧南宋襲来で高麗人・漢族中国人・蒙古人に家族・親族・仲間が虐殺された事に対する報復・復讐であった。
 室町後期から戦国時代にかけての後期倭寇は、朝鮮人・中国人・南蛮人による海賊で日本人には関係なかったが、大航海時代の東アジア史はおろか世界史にまで影響を与えた。
 倭寇(特に後期倭寇)は、西洋のバイキングと同様に世界史レベルで正しく評価すべきである。
   ・   ・   ・   
 高麗・蒙古・旧南宋連合軍は、鎌倉の武士団の猛攻で甚大な被害を出したとこで大嵐に襲われて壊滅した。
 日本の武士は、強かった。
   ・   ・   ・   
 日蓮の「立正安国論」と中国・朝鮮の日本侵略。
   ・   ・   ・   
 2022年2月号 Hanada「知己知彼  石平
 朝鮮半島こそ歴史の加害者
 『知己知彼』と題するこの連載は、いままで一貫して中国のことを取り上げて論じてきたが、今回は朝鮮半島の話をしよう。中国と並んで、この半島はまた日本にとっての厄介な『彼』の一つだからである。
 半島の二つの国、特に韓国は、いつもどこでも被害者面(づら)をして『謝罪』や『賠償』を求めてくる。いまや自国の牢獄にいる某女性大統領に至っては、『被害者の立場は千年不変』とまで宣言していた。彼らは未来永劫、『被害者』を扮して日本人を強請(ゆす)っていくつもりであろう。
 しかし半島の人々は、本当にどこまでも『歴史の被害者』だったのだろうか。実は、朝鮮半島と日本や中国など周辺国との歴史的関係性を詳しく調べると、実態はまったく違うことが分かる。長い歴史のなかでは、朝鮮半島の国々はむしろ『歴史の加害者』として周辺国に多大な迷惑をかけまくってきた。
 一例を挙げよう。朝鮮史上の三国時代(4世紀~5世紀)、半島で高句麗新羅百済が並立して覇権を争っていた。そのなかで経済力や軍事力がもっとも貧弱だった新羅は、仇敵の百済に勝つために中国の唐王朝に数回使節を派遣し、半島に派兵して一緒に百済を討つことを中国皇帝に懇願した。唐王朝はそれを聞き入れて半島に大軍を遣わし、新羅軍と連携して百済を挟み撃ちにして滅ぼした。
 いまになって、半島の人々はよく『われわれは歴史上いつも周辺国から侵略されて、たいへんな被害をうけた』と声高に主張するが、何のことはない。半島の国家は自らの意志で外国軍を半島に招き入れて、彼らに半島を『侵略』されただけの話である。百済新羅唐王朝連合軍によって攻め滅ぼされたあと、一部の遺臣たちは国の再興のために兵を挙げた。その時に彼らは日本に使者を派遣してきて、大和朝廷に対し、朝鮮半島に派兵して百済の再興を助けてくれるよう要請してきた。
 大和朝廷はそれを聞き入れて半島に派兵。白村江(はくすきのえ)で唐王朝の中国軍と激戦を展開した。結果は周知のとおり、日本軍は惨敗してほぼ全滅。百済の遺臣たちに半島の紛争に巻き込まれた結果、当時の日本と日本人は大きな被害を受けた。
 朝鮮半島が日本に多大な被害を与えた例は他にもある。鎌倉時代、文永・弘安の役という2度にわたる蒙古襲来には終始一貫、半島国家の高麗の助力と加勢があった。
 1回目の蒙古襲来である文永の役は、元朝皇帝のフビライが主導したことは歴史の事実だが、蒙古の属国となった高麗は戦艦の建造から軍用物資の調達にまで精を出し、蒙古の日本侵略戦争に全面的な協力した。そして約2万人の日本遠征軍が編成された時、金方慶(キムバンギョン)将軍率いる5,000人の高麗軍がそのなかに加わり、1万5,000人の高麗人が艦隊の舵取りや水手(かこ)として動員された。日本に対する侵略軍は事実上、蒙古・高麗連合軍であった。
 文永の役で日本征服が失敗に終わると、フビライは一時、日本への征伐を諦めようとした。しかしその時、フビライに日本征伐の再開を強く懇願したのは、高麗王朝25代目国王の忠烈王である。これは、李氏朝鮮時代に編纂された正史の『高麗史・忠烈王世家』にきちんと記されている史実である。フビライ忠烈王の懇願を聞き入れ、2回目の日本征伐戦争(弘安の役)が行われたが、その時、高麗軍は征伐軍の重要なる一翼を担(にな)ったと同時に、忠烈王は自ら『征伐日本行中書省』(日本遠征大本営)の『中書左丞』に就任して侵略軍の前線司令官を務めた。つまり弘安の役の蒙古襲来は、正確には『高麗・蒙古襲来』というべきのであって、高麗国王と高麗軍こそは、日本侵略の主役であった。
 彼らは、日本人に対してどのようなことをしたか。同時代に生きた日蓮は、高麗・蒙古連合軍が対馬で行った残虐行為について、『百姓等ハ男ヲハ或(あるい)ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトオシテ船ニ結付』と記した。つまり侵略軍は、普通の百姓に対し、男は殺し、女は手の平を穿(うが)ち、数珠(じゅず)つなぎに貫き通して船壁に並べ立てたという。
 以上は、半島の高麗人が日本への侵略戦争に加担したり、それを主導したりした歴史であり、日本の民衆に対して残酷な虐殺を行った歴史である。このような厳然たる歴史の事実を前にしても、半島の人々は自分たちこそが『歴史の被害者』だと主張できるのか。
 いや、事実は決してそうではない。長い歴史のなかで、朝鮮半島の国々は日本を含めた周辺国を半島内の紛争に巻き込んで被害を与えたり、そして日本に対する侵略戦争にも加担した。彼らこそ、紛(まぎ)れもなく歴史の加害者であって、彼らこそがこの日本に対して謝罪と賠償を行うべきではないのか! 
 (詳細は、石平著『韓民族こそ歴史の加害者である』[飛鳥新社]をご参照いただきたい)」
   ・   ・   ・   
 2018年11月07日
 日刊SPA!PLUS 朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第2講:元寇、日本侵略の意図とその証拠」
 朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第2講:元寇、日本侵略の意図とその証拠」
 2『蒙古襲来絵詞』より
 北朝鮮の拉致・核問題の暴虐、韓国の執拗な反日政治、これらの異常さというのはいったい、どこから来るものなのか。著作家の宇山卓栄氏はその答えを、朝鮮特有の「歴史的隷属」に見出す。朝鮮半島は一時期を除き、約2000年間、中国の属国だった。中国への隷属は朝鮮人の心を蝕み、我々、日本人には考えられないような「精神の卑屈」を招いた、と宇山氏は説く。
 朝鮮は被害者か
 元寇に関し、朝鮮人モンゴル帝国の被害者であるとする見解があります。
 「蒙古襲来」とも言われるように、モンゴル人が大挙して押し寄せて来て、それに朝鮮人たちが仕方なく付き合わされたという捉え方が日本人の中にもあると思います。しかし、実態はそうではなく、朝鮮人も日本侵略の片棒を担いでいたのです。
 当時の朝鮮は高麗でした。高麗王の子の諶(しん、後の忠烈王)は1272年、自ら進んで、フビライ・ハンに日本を攻めるべきであることを以下のように、上奏しています。
 惟彼日本 未蒙聖化 故発詔 使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。
 惟(おも)んみるに彼の日本は、未だ(皇帝フビライの)聖なる感化を蒙(こうむ)らず。故に詔(みことのり)を発して、軍容を整え、継糴(けいてき、糧食を整えること)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。もし此事(このこと)を以て、(皇帝が)臣(忠烈王のこと)に委(ゆだ)ねば、心力を尽し勉(つと)め、王師(皇帝のこと)を小助せん。
       —『高麗史』の「元宗十三年」の一部
 忠烈王の上奏文
 王子はこの上奏の2年後の1274年、父王の死により、王(第25代王、忠烈王)に即位します。そして、忠烈王文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)において、艦船を建造し、兵力と経費を積極的に元王朝に提供し、日本侵攻の主導的な役割を果たします。
 忠烈王の上奏文は高麗に日本侵略の意図があったことの何よりの証拠です。元を焚き付けた上での侵略ですから、「虎の威を借る狐」の如きものですが、狐であろうと何であろうと実際に、朝鮮兵はモンゴル兵とともに、日本に襲来し、乱暴狼藉を働いたわけですから、立派な侵略であることに違いありません。
 宇山卓栄(うやま たくえい)
 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。
   ・   ・   ・   
 2018年12月11日
 日刊SPA!PLUS 朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第7講:日本侵略を利用した高麗王」
 北朝鮮の拉致・核問題の暴虐、韓国の執拗な反日政治、これらの異常さというのはいったい、どこから来るものなのか。著作家の宇山卓栄氏はその答えを、朝鮮特有の「歴史的隷属」に見出す。朝鮮半島は一時期を除き、約2000年間、中国の属国だった。中国への隷属は朝鮮人の心を蝕み、我々、日本人には考えられないような「精神の卑屈」を招いた、と宇山氏は説く。
 忠烈王元寇
 忠烈王は剛腕で有能な人物でした。フビライの信頼を得て、自らの影響力を最大限、発揮しようと画策します。
 1274年10月の文永の役で、元軍・高麗軍は対馬壱岐を侵略し、博多に上陸しましたが、武士の抵抗があり、戦闘1日で撤退します。なぜ、すぐに撤退したのか、その理由はよくわかっていません。
 元寇は2回とも暴風雨によって、元軍が被害受けたとされますが、第2回の弘安の役の時に暴風雨があったのは事実ですが、第1回の文永の役の時には、暴風雨はなかったとする見方が学界では有力視されています。「神風」に護られる「神国日本」というのはつくられたイメージに過ぎません。
 高麗を統治する忠烈王
 忠烈王文永の役の敗因を、モンゴル軍と高麗軍の指揮系統の未整備に伴う混乱と捉えました。
 忠烈王はこれを是正するため、高麗軍の将軍をモンゴル軍の指揮系統の中の正式な指揮官(万戸職など)と認め、モンゴル正規軍としての役割を果たさせるべきことを上奏しています。忠烈王は高麗軍の地位向上を狙ったのです。フビライはこれを認めました。
 さらに、忠烈王は高麗軍を一元的にコントロールするため、高麗軍統轄の権限を自分に与えてほしいと上奏します。フビライはこれも認め、忠烈王を「征東行省」の丞相に任命します。「征東行省」とは前述のように、モンゴルが設置した高麗統治府です。
 「征東行省」の丞相は高麗の統治権を一切任されています。丞相となった忠烈王は自分の服臣たちを政治的要職に就け、また軍の指揮官たちを自ら選定し、事実上の王直属軍を編成します。
 忠烈王元王朝の日本侵略を自らの王権強化のための材料として最大限利用したのです。その意味において、忠烈王は政治的に大きな成果を挙げました。以後も朝鮮の王や為政者たちは忠烈王を模範として、「虎の威を借る狐」を演じていくことになります。
 14世紀に編纂されたモンゴルの歴史書『集史』には以下のようにあります。
 「(忠烈王)はフビライに寵愛された王と知られているが、実際には王ではなかった」
          ラシード・ウッディーン『集史』、フビライ・ハン紀
 宇山卓栄(うやま たくえい)
 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。
   ・   ・   ・   
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「忠烈王」の解説
 忠烈王 ちゅうれつおう
 Ch'ungryǒl-wang
 [生]高宗23(1236).2.
 [没]忠烈王34(1308).7.
 朝鮮,高麗の第 25代の王 (在位 1274~1308) 。諱はきょ。古諱はじん,しゅん。元宗の長子。元宗1 (1260) 年元に行き,特進上柱国東安公に封じられ,同 12年再び元に行き,元の世祖フビライ・ハンの娘忽都魯掲里迷失 (くとるけりみし) 公主と結婚。同 15年6月元宗の死により帰国,即位した。同年 10月元軍の日本遠征に協力したが,失敗に終り (文永の役) ,さらに忠烈王7 (81) 年再び日本を攻めて失敗した (弘安の役) 。忠烈王は十数回も元に行き,元の勢力を背景に権臣たちを押えて王権は安定したが元の圧迫に苦しみ,また太子 (忠宣王) との不和で苦しんだ。王の時代には元の官制,学問,風俗,習慣が流入したが,特に朱子学は有名。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。
 第24代高麗王元宗の子。諱は昛、初名は諶、賰、諡号は忠烈景孝大王。1260年に太子(世子)となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、クビライの公主忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。
 文永の役弘安の役においては元に日本侵攻を進言し、兵力と経費を提供する とともに毎年元に莫大な貢物、人員等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っている。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史は事実・現実であり、中国の歴史は善悪二元論二項対立論イデオロギーであり、朝鮮・韓国の歴史はご都合主義で作られたポエムである。
   ・   ・   ・   
 日本が関わった対外戦争の多くは、朝鮮が日本を大国との絶望的な戦争に巻き込むべく行った陰謀であった。
 つまり、朝鮮は加害者であって被害者ではない。
 日本天皇・日本国・日本民族の悲劇・不幸は、朝鮮の加害者に味方する日本人が何時の時代でも日本国内に存在していた事である。
 朝鮮や中国は、強欲で野心家の反天皇反民族反日的日本人達に大金や美女を与え利権や地位を保証するなどのエサで味方につけ操っていた。
 その構図は、現代日本でも変わりなく存在する。
 それが、親中国派・媚中派、親韓国派、親北朝鮮派と呼ばれる日本人達で、左翼・左派・ネットサハや右翼・右派・ネットウハに関係なく、保守派からリベラル派・革新派にまで広く存在する。
 彼らは、日本天皇・日本国・日本民族にとって「獅子身中の虫」である。
 彼らによって、将来、民族神話の正統性による宗教的血統世襲の男系父系天皇国家日本は消滅する危険性が出ていた。
   ・   ・   ・   
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の発展の為に持てる知識や技術を出して働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の為だけに仕事をした。
   ・   ・   ・   
 大国に睨まれた小国が生き残り戦略は、大国と敵対する中程度国を反対側に作って騒ぎ立て、そして時折大国をけしかけて中程度国を侵略させるが、けっして大国が中程度国を滅ぼして領土にしないように妨害する事である。
 小国が取るべき態度は、大国に泣き付く苛められる被害者の立場である。
 朝鮮は小国で、大国が大陸帝国である中国とロシアで、中程度国が日本であった。
 それ故に、古代から日本の安全は絶えず朝鮮の陰険・陰湿な策謀で脅かされていた。
 つまり、歴史的事実として、日本は被害者であって、加害者ではない。
 そして、憐れで惨めな朝鮮の小国としての悲哀には同情の念を禁じ得ない。
 悪く言えば、「不様」の一言である。
 そして、日本にとっていい迷惑であり、居ても居なくても如何でもいい隣人・隣国である。
   ・   ・   ・   
 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
   ・   ・   ・   
 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
   ・   ・   ・   
 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
   ・   ・   ・   
 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
   ・   ・    ・   
 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
   ・   ・   ・   
 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
   ・   ・   ・   
 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)蘇我馬子の命を受けて第32代崇峻天皇を暗殺した。 
   ・   ・   ・   
 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げるが捕まる。
   ・   ・   ・   
 668年~780年 新羅朝貢の為の日本に遣新羅使を派遣し、遣日本使が30回以上。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
   ・   ・   ・   
 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
   ・   ・   ・   
 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
   ・   ・   ・   
 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
   ・   ・   ・   
 820年 弘仁新羅の乱。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
   ・   ・   ・   
 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
   ・   ・   ・   
 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
   ・   ・   ・   
 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
   ・   ・   ・   
 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
   ・   ・   ・   
 906年 延喜の新羅の賊。
   ・   ・   ・    
 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
   ・   ・   ・   
 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
   ・   ・   ・   
 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本の子供約300人を捕らえ忠烈王に戦利品として献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
   ・   ・   ・   
 1419年 応永の外寇李氏朝鮮軍による対馬侵略。
   ・   ・   ・