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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
朝廷や平安貴族は、現代の日本人のように平和ボケしていなければ、国際情勢に疎くとも対処の仕方は知っていた。
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朝鮮半島は、日本の喉元に突き付けられた短剣として、大陸諸国による日本侵略の戦略拠点に最適であった。
朝鮮が、日本の敵になるか味方になるかが、日本の生存には深刻な問題であった。
日本は、朝鮮が、親日派知日派であれば国交を開いて付き合えばいいが、反日派であれば放置して付き合わない事が正しい外交であり、敵日派であれば軍隊を派遣して占領する必要があった。
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日本国は、必然として誕生したわけではなく、滅びず生き残れたのは当然の結果であり、それは偶然と幸運によってもたらされていた。
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日本は、古代から、朝鮮や中国からの侵略に脅えていた。
日本民族日本人は、虐殺された被害者である。
中国や朝鮮などの大陸人は、虐殺した加害者である。
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日本天皇と日本国土(領土・領海)と日本民族を外敵の侵略から守る為には、全ての日本人が例外なく武器を取って戦争をするしかなかった。
故に、日本の戦争は自衛戦争であった。
ただ違うのは、国内・水際で戦う消極的自衛戦争か、国外・海上で戦う積極的自衛戦争か、である。
戦争には、正しい戦争や正義の戦争は存在する。
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現代日本人と当時の日本人は、別人のような日本人である。
そして、当時の世襲制公家と現代の高学歴出身知的エリートは全く違う日本人である。
いざとなった時、現代の日本人には期待できない。
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*騎馬民族刀伊海賊の日本侵略そして虐殺と拉致
海が日本を外敵から守ってくれていたというのは真っ赤な嘘で有り、中華帝国や朝鮮が海の外にある日本に関心がなかっただけである。
海が防波堤であったと信じる人間は、歴史を正しく見る眼を持っていない。
中華帝国は、遊牧民と農民が熾烈な死闘を繰り返して建国した大陸国家であった。
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2019年2月号 歴史街道「1000年前、日本が初めて侵攻された日 刀伊の入寇
今から1000年前の寛仁3年(1019)、日本は史上初めて、海外から大規模侵攻を受けた。この時、日本はどのように対応し、事件はいかなる経過を辿(たど)ったのか、この事件が後世に与えた意外な影響とは・・・。
元寇、太平洋戦争と並ぶ事例
『刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)』と聞いて、ピンと来る人は決して多くはないだろう。教科書にも、大きく取り上げられることはない。
それでも、今からちょうど1000年前、寛仁3年(1019)3月に起きたこの事件は、日本にとって重大な出来事であった。
というのも、日本が有史以来初めて、海外勢力に大規模に侵攻された事件だからである。
それ以降の例でいっても、鎌倉時代の元寇、太平洋戦争しかないのである。
また、後述するが、武士の成立を考えるうえでも欠くことはできない事件である。
では、どんな事件だったのだろうか。
まず『刀伊』とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)、つまり東夷(とうい)に日本文字をあてはめたもので、主に北方に境を接する東女真({ひがしじょしん}東部満州のツングース系の民族。後に中国で金{きん}や清を建国)のことを指す。
その彼らが突然、海を渡って北部九州に侵攻してきたのだった。それは、北東アジア情勢も関係している。
当時、中国では北の遼({りょう}契丹{きったん})と南の宋(北宋)が対峙していた。遼は宋と女真族の交易路を遮断し、朝鮮半島の高麗を屈服させ、宋と全面戦争に突入した。
これを受け、宋との貿易が思うようにできなくなった女真は、一部が海賊化して朝鮮半島東部を荒らしまわるようになり、そうした中で日本にも来襲したのである。
だから彼らの目的は、元寇のように日本に領地や地歩を築こうというのではなく、あくまで略奪や拉致であった。
事件の詳細は、『小右記(しょうゆうき)』と『朝野群載(ちょうやぐんさい)』所収『寛仁3年4月16日太宰府解(げ)〈撃取刀伊国賊徒状(げきしゅといこくぞくとじょう)〉』に記されている。それに基づき、推移を簡単に紹介しよう。
殺害、そして拉致の果てに──事件の経過と顛末
……
さて、最終的な日本の被害は、死者365人、拉致者1,289人(そのうち、1,000人近くが海に投げ込まれて殺され、30人が対馬から太宰府に向かう途中で遭難)、殺された馬牛380疋頭(ひきとう)だった。
当時、日本の人口はおそらく500万人くらいで、九州北部でいったら10万から12万人いるかどうかだろう。それを踏まえると、この事件がいかに甚大な被害をもたらしたのかが、おわかりいただけるのではないだろうか。
偶像化された藤原隆家
一連の経過を見ると、日本側は本格的な九州上陸を水際で阻止しており、被害を最小限に食い止めたと称すべきであろう。
仮に上陸を許し、刀伊がゲリラ戦のようなことをしていたら、被害はもっと大きくなっていたかもしれない。また、刀伊が味をしめるようなことがあれば、再度の来襲を招くおそれもあるのだ。
こうした対応ができたのは、藤原隆家の存在が大きいのではないか。
『大鏡』には、隆家が『大和心がしこくおはす人(智恵才幹のすぐれていらっしゃる方)』であるから、九州中の人が心服(しんぷく)しており、九州の武士を召集し、太宰府の文官まで徴発したことになっている。
隆家は武士ではなく、あくまで貴族である。それにもかかわず、博多湾から離れた太宰府にとどまることなく、果敢にも最前線の警固所に移って事件の対応に当たっている。普通の貴族にはできないことだろう。
また、刀伊を追撃する際には、国境を越えないように指示するなど、冷静な判断もできた。だから、『大鏡』が記すところは、案外に実状を伝えているのではないか。
なお、この事件は、九州における武士の成立を考えるうえでも重要である。
当時、日本には国家軍がなかった。太宰府には外敵に対応するために常駐兵はいただろうが、決して多くはなかったのではないか。隆家の指揮下で戦ったのは、土着した太宰府の元役人や、彼らを取り巻く在地住民などであろう。
そして、こうした人々を中心に、やがて九州の武士団が形成されていく。隆家の家司(けいし)として奮戦した藤原政則(蔵則)の子孫は、菊池氏を称し、肥後最大の武士団となる。
菊池氏は、隆家の子孫を称している。つまり九州において、隆家は偶像化されるようになったのである。
また九州の武士は、この戦いに参加した武者の子孫でなければ、名門ではないとされた。九州の武士にとっては、それほどまでに、後世に語り継がれる出来事だったのである。
もちろん、日本史上においても大きな事件だったことは間違いない。仮に侵略してきたのが、後のモンゴルのような強力な勢力であれば、日本は占領されていた可能性もある。その点でいえば、幸運だったといえるだろう。
また、現地で対応しきれたことで、平安王朝はそのまま続くことになる。もし、中央から軍隊を派遣しなければならない事態になっていれば、軍事国家を形成する契機になった可能性もある。そうなっていれば、のちの源氏の台頭も別の形をとっていたかもしれない。
いずれにしても、刀伊の入寇は、日本が経験した初めての大規模侵攻であり、もっと知らなければならない事件なのである」
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刀伊の入寇。刀伊の乱。
1018年 遼は、面従腹背と宋国に誼を通ずる高麗を懲らしめるべく遠征軍を派遣した。
遼軍は、各地で高麗軍を撃破し、見せしめの虐殺と略奪を行い、王都・開京を占領した。
高麗王は、降伏し、遜って臣下を誓った。
女真族は、遼の強勢に圧されて宋との交易路を制限された為に、高麗の弱体化に付け込んで国境を超えて攻め込んだ。
一部は、海賊となって朝鮮半島東海岸を荒らし回り、高麗軍の弱体化を嘲笑い更に大胆となり各地で殺戮と略奪、強姦と強制連行を繰り返していた。
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1019年3月頃 刀伊族海賊は、高麗東海岸を襲撃し略奪行為を行い、辺境に派遣された高麗人を捕獲して連れ去った。
高麗の国境や東海岸は、女真族の襲撃を受け被害が出ていた。
第68代後一条天皇。高麗は、中国東北部より侵略してくる騎馬民族・満州族のツングース系女真族・刀伊(野蛮な民族への蔑称・とい)と激しい攻防戦を繰り広げていた。
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3月28日 刀伊の海賊船団50隻以上が、対馬を襲撃し、3,000人以上の刀伊族海賊が対馬に上陸して殺人と掠奪を行った。
対馬で、島民18人が殺害され、116人が拉致された。
対馬守の大春日遠晴は、島を脱け太宰府に向かった。
刀伊族海賊は、日本側の国境警備が手薄なのを確かめ壱岐をも襲った。
国司の藤原理忠は、多勢に無勢で戦っても守り切れない事を知りながら、147人の兵で防戦したが全滅した。
島民も奮戦したが、148人が虐殺され、239人が拉致され、生き残ったのは35人であった。
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農耕漁労民族日本人は、土地にたいする愛着が強いだけに、命を捨て自己犠牲精神で一所懸命に戦った。
戦う意志の強い日本人は、勝てない絶望的状況にあっても降伏する事なく、諦めずに最後の一人になるまで戦い続けた。
それが昔の好戦的日本人であり、戦う事を拒否する平和的現代日本人とは違うところである。
騎馬民族である刀伊が、海賊となり、日本を襲ったのはこれが初めてである。仮に、公式文書に記載されていなかったとしても、これだけの大船団を編制する事は有り得ない。また、これだけの大船団を所有する海賊団がこれ以降の歴史に登場しないのは不思議である。
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4月7日 大春日遠晴と壱岐の国分寺僧は、太宰府に到着して被害状況を報告した。
太宰府は、直ちに都へ海賊の集団が襲撃してきた事を知らせた。
刀伊族海賊は、筑前国怡士郡を襲撃し、49人を殺害し、216人を拉致した。
志摩郡で、112人を殺害し、435人を拉致した。
早良郡で、19人を殺害し、44人を拉致した。
太宰府権帥(だざいふのごんのそち)藤原隆家は指揮をとり、周辺住人を兵士として召集した。
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4月8日 海賊船団は、博多湾の能古島に碇泊し、博多を襲撃した。
能古島では、9人が拉致されたが、島民は戦わず逃亡して殺害される事はなかった。
太宰府は、刀伊族海賊に備えて博多警固所に兵を向かわせた。
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4月9日 刀伊族海賊は、博多警固所を襲撃したが撃退され、能古島に退却した。
刀伊の海賊船に拉致されていた大奥の日本人は、敗走に乗じて逃げた助かった。
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4月10日 刀伊族海賊は、猛烈な北風の為に上陸できなかった。
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刀伊は、食料がなくなるや拉致した日本人を殺しその肉を食べていた。
大陸には、食人文化があった。
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4月11日 刀伊族海賊は、筑前国志摩郡船越津に現れた。
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4月12日 太宰府は、軍隊を派遣して志摩郡船越津に上陸した刀伊族海賊を撃退した。
平致行は30艘以上、海上に逃げる刀伊族海賊を追撃した。
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4月13日 刀伊族海賊船団は、肥前国松浦郡を襲撃したが、前国守源知の反撃で撃退されて対馬に引き上げた。
太宰府水軍の軍船数十隻は、日本領対馬を強襲し、数日間の攻防の末に日本領から追い出し、半島に逃げる刀伊族海賊を追って国境まで追撃した。
刀伊族海賊は、朝鮮半島へ逃走して、日本の危機は去った。
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太宰府は、朝廷に、被害状況と捕らえた海賊の大半が高麗人であったと事を報告した。
北九州沿岸は、大敵の侵略に備え得て臨戦態勢に入った。
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太宰府の官軍(実態は、交易を監視し治安を維持するだけの警備兵である)と地元の住民は、苦戦を強いられながらも刀伊の大軍を撃退した。
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住民達は武装し、九州武士団を形成していった。
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4月16日 太宰府は、海賊船団襲撃による被害を朝廷に報告した。『朝野群載』
殺害された者365人。強制連行された者1,289人。
刀伊は、日本人数千人を労働力不足の中国に奴隷として売る為に強制連行した。
東アジアでの主要貿易品は、何時の時代でも人、奴隷であった。
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4月下旬 刀伊族海賊は、日本から逃げ帰り、高麗東海岸を襲撃し略奪と殺戮を繰り返した。
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5月中旬 高麗は、刀伊族海賊討伐の大軍と数百隻の軍船を派遣し、根拠地・咸鏡南道の咸興に帰還する刀伊船団を襲撃した。
刀伊は、拉致した日本人は足手纏いになるとして海に捨てて逃走した。
高麗軍は、乱戦の中を中を逃げ惑う日本人を保護した。
高麗水軍は、約300人を救出し、それ以上の日本人が虐殺された。
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5月下旬 解放された日本人と高麗人は、高麗軍に連れられて金海府に到着した。
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9月4日 高麗使・鄭子良は、強制連行されていた日本人約100人を連れて日本領対馬に来航し、島守りに日本国への国牒を手渡した。
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9月22日 朝廷は、高麗国牒から刀伊が女真族と判明した。
刀伊とは、高麗が北方の蛮族・夷狄である女真族につけた蔑称である。
高麗は、自分こそが世界で優秀な民族という自意識過剰から、日本を島国の蛮族・東夷と毛嫌いしていたが、契丹族の遼が巨大化して来た為に後方にある日本との国交を開こうと模索していた。
高麗は、日本との国交回復交渉に利用する為に、恩を着せる様に日本人拉致者を手厚く保護し、徳を見せ付ける様に生存者がいる事を日本側に伝えた。
国書は、太宰府を経由して京に転送された。
太宰府に対して、外交方針が決定するまで、鄭子良ら一行に饗応して待たせる様に命じた。
対馬島判官代・長岑諸近は、高麗に渡り10名を引き取ったが、8名が船上で病死した。
日本に帰還できた日本人が何人なのかは、定かではない。
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現代日本における、北朝鮮による日本人拉致事件と似ている。
朝鮮は、今も、昔も、変わるところはない。
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『小右記』(権大納言・藤原実資)「賊は刀伊と言う事だが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐ為に自分達を派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は、高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか」
日本は古代から、度々、新羅水軍や朝鮮人海賊の襲撃を受け、虐殺さら拉致された経験から半島を信用していなかった。
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後一条天皇は、「高麗を信用できる相手ではない 」として、外圧をはね除けて、友好関係を持つ事を拒絶した。ただし、個人的な民間交易は制限しながら容認した。
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個人的に交易していたからといって、両国が良好な関係を持っていたわけではない。
もしそれを認めれば、現代において日本と北朝鮮は友好関係にあると認める事になる。
よって、何時の時代でも日本と朝鮮には友好関係は存在していなかった。
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日本と朝鮮は古代から友好関係にあったという日本人は、心に一物を持つものである。
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日本は、海によって守られたのではなく、海に囲まれていたがゆえに絶えず外敵の脅威に晒されていた。
絶えず襲撃され甚大な被害を出していた漁民らは、「倭寇」となって逆襲に出た。列島の漁民・倭寇と半島の水軍・海賊は、1000年近く報復の応酬を続けた。列島と半島の間の海峡は、報復が報復を呼び、復讐が復讐を呼んで血の海となっていた。
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貴族の間で、海賊行為を平然と行う高麗人を野蛮と嫌悪し、礼節を持たず信義を破る高麗人と接触する事を身の「ケガレ」として嫌悪した。
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朝廷は、陰険な高麗王国は信用に足る国ではないとして、幾度も国交を求めてきても全て拒絶した。
だが、宋との交易は認めた。
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1020年2月16日 朝廷は、太宰府に高麗への返書を送った。
太宰府は、強制連行された日本人と引き換えに、刀伊海賊の一味となっていた高麗人捕虜と高麗から逃げてきた渡来人を引き渡した。
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日本に渡ってきた有難い渡来神や御仏は、南の海の彼方からであった。
仏教・御仏はインドが発祥で、飛鳥朝から近江朝までは親日派百済からであったが、奈良時代以降は中国から直接との渡来である。
西の朝鮮半島から渡来したのは、災い・禍・厄だけである。
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日本は、古代から朝鮮半島から、大量の避難民流入と大陸軍の侵略を度々受けていた。
刀伊の入寇は、その一つにすぎない。
日本は、古代から中国大陸や朝鮮半島からの侵略の危機にさらされていた。
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朝鮮は、日本以上に身分意識からくる差別が酷く、異民族に対する差別・迫害・弾圧も過酷であった。
当然の事ながら、朝鮮は日本を野蛮人・蛮族と見くだし軽蔑していた。
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古代から、日本の安全は朝鮮半島と中国大陸の情勢に左右されていた。
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日本民族日本人にとって、中国人も朝鮮人も同じ人間でしかなかった。
何故なら、中国人と朝鮮人は話す言葉が違っていても、同じ姓を名乗り、同じ暦を使用していたからである。
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ウィキペディア
刀伊の入寇は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
名称
刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字を当てた物とされている[1]。 15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では?(そのまま「トイ」)として表れる[2]。
史料
この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。
朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。
経緯
日本沿岸での海賊行為頻発
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。
侵攻の主体
刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た[3]。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[3]などの情報を得た。
日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族
「刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている。10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる。
13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる[8]。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている。
刀伊の入寇までの北東アジア情勢
926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる。
しかし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている。
対馬への襲撃
寛仁3年3月27日(ユリウス暦1019年5月4日)、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
壱岐への襲撃
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。
筑前国怡土郡への襲撃
その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退された。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。
高麗沿岸への襲撃
藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという。しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された。
高麗との関係
上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。『小右記』では、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している。
日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。
被害
対馬の被害
有名な対馬銀山も焼損し、被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した。
壱岐の被害
壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された[3]。さらに、女性は239人が連行された。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった。
なお、この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる。
記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。
朝廷の対応
当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていること(新羅の入寇、高麗の入寇)もあってか、大宰府や朝廷は半信半疑であった。
結局、賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。
この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であった。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固めた弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。
その上、撃退した藤原隆家らに恩賞を与えようとしなかった。これは平将門の乱、藤原純友の乱(承平天慶の乱)に続き、朝廷の無策と武士の影響力の増長を示すこととなった。ただし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べたが、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされている。また、後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出されたともされている。
藤原隆家と九州武士団
藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病[21]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。
九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。
源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
なお、中世の大豪族・菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。
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