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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国語・朝鮮語は、明瞭なグローバル言語である。
日本国語は、曖昧なローカル言語である。
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漢字とは中国や朝鮮では、形を見て意図を知るのであって、声(音)に出して読んで意味を理解するのではなかった。
韓国語・朝鮮語には、漢字は消えている。
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2020年5月号 WiLL「たたかうエピクロス 古田博司
第10回 無知・無明からのがれるのは至難の業だ
遊びの国エピクロス
現在から過去を見渡して記述することを眺羨(ちょうぼう)主義、過去のある時点に着地して周りを見回るのが着地主義と前に言った。先の回は眺望主義だったが、今回は再び私が暮らしていた1980年代前半のソウルに戻ってみよう。
私は希望を失っていた。できればほかの人間になりかわりたかった。母親の制圧から逃れた当初の巨大な喜悦(きえつ)もすり切れていった。喜びも悲しみも長続きはしない。レニングラードの裏街で視た失業者の群れ、壁に貼られた職安の広告は次々t剥がされて飛び去り、欺(あざむ)かれたマルクスへの憎しみなどにやすやすと変わりはしない。空疎(くうそ)な思いだけが茫漠(ぼうばく)と広がり、本がまったく読めなくなった。すべての書かれたものが信じられなくなったのだ。眺望すれば、これは3年間つづいた。
その間私は何をしていたのか。学校で日本語を教える以外では、ただただ遊んだのである。この連載を始めた去年の7月あたり、エピクロスを読んで不思議な邂逅(かいこう)に驚愕するまで、私は自分が快楽主義者だとは思ってもみなかった。むかしから澁澤(しぶさわ)龍彦が私は好きだが、好きと本物とは別物え、あのインチキ快楽主義本(『快楽主義の哲学』)にすっかり騙されていた。そこで、じかにエピクロス本に手を触れることもなかったのだ。だが確かに私はこうなった。
『もしわたしが味覚の快を遠ざけ、性愛の快を遠ざけ、聴覚の快を遠ざけ、さらにまた形姿によって視覚に起る快なる感動も遠ざけるならば、何を善いものと考えてよいか、このわたしにはわからない』(『エピクロス教説と手紙』「断片その二の10」岩波文庫)
……
意味は音にともなう
じつは表意文字の言語には、音は必要がない。『黙読』には、目で見るだけの黙読と、頭のなかで音を出して読む黙読の二種類がある。若い中国人がスマホでネット小説を読むときには、この前の方の黙読をしている。頭で音を出していないのだ。彼らは高速度で目で読む。つまり音は要らないのである。これは中国映画の漢語字幕も同じだ。
それに時代が経つと音が変わってしまい、むかしどんな音だったか分からなくなる。そうなると漢文を現代中国語の音で読んでも意味がれない。これは本当のことだ。意味をもたらすのは表意文字ではなく、その時代の音なのだ。ゆえに表意文字はいみではなく、たんなる絵ということになる。絵から視覚的に淡い意味が分かるということだけで、それを中国人はスマホ小説や映画字幕でしているということになる。
ちなみに日本人は、漢字を表意文字としてみていない。音の補助と見ているのだ。だから中国人や韓国人からすると、とんでもない苗字、鬼塚(亡霊の墓)、赤塚(赤裸の亡霊の墓)が存在する。鳥取は、トリトリではなく、トットリだ。漢字は音の呼び起こしに使い、漢字の表意性を捨象(しゃしょう)している。うまい使い方だが、滑稽とも言える。漢字だらけの黙読がじつは心、ひいては頭にわるいということに気づいていたのかもしれない。
今度は音の方から中国の歌謡曲の歌詞を見ると分かるが、『我在身辺(ウォーサイシェビエン)』とか『寂寞難消(チーモーナンシャオ)』とか、いつもきまり文句の組み合わせになる。感情や思考の表出という点で、表意文字ではなく、表意文字は音の額縁のようにその音の意味の流れを邪魔し、体内時間を滞らせるのである。だからシナ語以外は、古代エジプト語、古代マヤ語などぜんぶ滅びた。
表意文字では確実な意味把握も自由な感動もむずかしいということだ。頭に緊箍児(きんこじ)をはめられた孫悟空みたいなものである。日本人はもっと賢かった。レ点とか、送り仮名とかを入れて日本語の音訓読みにした。眺望的に見るとそんなことになるのだが、当時はそこまで考えが及ぶわけもない。着地主義でただ嫌になってやめたのである。1976年、毛沢東の死んだ年だった。
ロシア語の方は、その3年後にレニングラードの職安広告を見て、これも一撃で捨てた。そんなわけで快楽主義者の私には、本も語学も使ったら捨てるもの、との感が深い。だが、読者はマネしない方が良いかもしれない。少なくともその時代のその国の人々とは話せるようになるのだから、それだけでも楽しいらしい(田中克彦『田中克彦自伝』平凡社、2016年、参照)。ただし、本読みするならば、目だけの黙読ではなく、かならず頭の中で音を出して読むことをお勧めしたい。意味は音にともなう、絵ではないのだ。
音韻でお里が知れる
『意味は音にともなう』というと、人文系の人は何故かを、すぐ詮索したがる。だがそういうのは無駄なのだ。なぜ電波が発生すると磁場が生まれるのか、そんな解釈を理工系がうんぬんするだろうか、しはしない。『大いなるもの』が前提になっているからである。それは自然であろうと、神であろうと、美であろうと、とにかく向こう側だ。
それよりも、『電波が発生すると磁場が生まれる』ことの例外はないか、それが欠如した状態は宇宙にないか。『意味は音にともなう』の反証はないか、類似・・・似た状況のものが他にあるだろうか?こう考え方が次のステージの直観がスッと来やすいのである。と、こんな風に人々に役に立つことをいろいろ書き連ねて行く方が、私にとっては毒親に付けられた心の傷の癒しにずっとなっている。
あと、言語には『音調』というものがある。これは知覚経験から語る以外にないのだが、『女らしい』『男らしい』『上品さ』などは、その言語の音調をマネると、その国の女の女らしさや、上品な人のみやびさも聞き取れるようになる。
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表意文字やシナ語音韻論に関する研究はしなくてもよいのではないか。現代の中国の簡体字などは最低だと思う。これは私が覚えた頃には共産党が作ったことになっていたが、現在では民間発祥ということになっているらしい。
大学院時代に、指導教授の可児弘明氏の清末の保良局文書(人身売買の役所記録)を全部読んだのだが、簡体字が多用されていた。そのときは簡体字を作ったのはマンダリンではないかと疑ったものである。
いつだったか忘れたのだが、『豐』が簡体字の『丰』になったときには、心底まずいと直観した。稲だか草田かが、豆(トウ)という古代のたかつきに入っているのを一本取りだしただけだ。これでは、ゆたかな視覚にならない。日本人は漢字を音の呼び起こしに使っているだけだから良いが、中国人は目だけで黙読するのだから漢字の視覚が命である。こんなことをやっていると、そのうちぶざまなことになるのではないか。もっとも『そのうち』というのは、100年後くらいの単位だと思う。
私がシナ史を捨てた理由
最後に私がシナ史をやめたのは、先の保良局文書に『ある日、香港停泊のイギリス船で泣きわめく老爺がいた。船長が尋ねると、息子が香港見物に連れてきてくれたが、じつはブローカーに自分を苦力として売り飛ばされて、この船上に置き去りにされた』という、『船長が可哀そうに思って、老爺を田舎に帰した。すると老爺は、親戚をみんな集めて事情を語り、息子に大事な話があると香港から呼び寄せさせた。息子が帰ってくるとみんなで池に抛(ほう)りこんで石を投げて殺した』というのがあった。
こんあシナ不孝実話はめったにないので、可児氏に岩波書店で出す本に是非入れることを勧めたのだが、『そんな話、岩波が喜ぶと思う?』と一言で却下された。岩波書店とはじつは次のような出版社だった。元社員が語ってくれる。
『出版界では学術書の老舗として有名だったので、薄ぐらい、古ー感じの会社だろう、と予想していたのに、意外にも社員はみんな左翼なの?と思わせるような雰囲気だった。労働組合のチカラがきわめて強く、牛耳っているのは共産党であることは、私にもすぐわかった。共産党細胞は社内で公然化はしていなかったが、日本共産党(日共)の機関紙「アカハタ」は平然と配布されていた』(長島陽子『中国の夢を紡いだ日々──さらば「日中友好」』、13頁)。
1949年の入社時の驚きが書かれている。この人が退社したのは1991年、ソ連崩壊の年で、社内の雰囲気がどう変わったか書いていないので、だいたいそのままで推移したものと思われる。可児氏の岩波本が1979年の刊行で、私が大学院を修士で止めて韓国にわたるのが翌年である。その間、私はレニングラードの街角に立って、中国共産主義の滅亡を先見していた。」
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表意文字と表音文字の違い
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表意文字と表音文字それぞれが意味すること
個々に意味を持つ文字を集めたのが表意文字(表語文字)で、日本の漢字・アラビア数字など挙げられます。日本の漢字は意味を形にした文字なので、正確な読み方は分からなくても、漢字のつくりを見ればある程度の意味を理解できます。一方の表音文字とは、音声を媒介として意味を伝える文字のことで、アルファベット文字を用いる英語などが挙げられます。
アルファベット文字は綴りが違えば、意味がまったく違うものになりますし、それぞれのアルファベット文字が音を持っています。
見るだけで意味を理解できる「表意文字」と、単語を見ればその発音が分かる「表音文字」。これが両者の違いです。この違いが生まれたのには、日本人の文化や考え方にあります。
表意・表音文字を使う日本人は「読むことが得意」
表意文字の漢字を中心に、表音文字のひらがなやカタカナ、ローマ字などを学ぶ日本語は、複雑な言語として発達しました。
これは日本人が、外国文化を取り入れることが得意だったことを表しています。
例えば、漢字で書かれた仏教経典を正確に読むために、補助文字として生み出されたのが「カタカナ」でした。
漢字と一緒に使用されることが多く、後に漢字を公用語に定めたときに役立てています。一方で、プライベートな書物や手紙などに用いられたのが「ひらがな」です。漢字の意味に関係なく、音読だけで日本語を表した「万葉仮名」が登場し、そこから女性たちによって簡略化された「ひらがな」が生まれました。
ひらがなは、文字を早く書くために形を崩す筆記体(草書化)のような位置づけで、公式な文書にも取り入れられるようになりました。欧米文化の言語であるアルファベット文字に慣れるよう、ローマ字も学校教育に導入され、和製英語も数多く誕生しました。
これらに共通することは日本人が「読む」ことに長けているということです。
日本人は話すことよりも、文化や考え方を生活に取り入れることを優先してきたといえるのです。
英語はアルファベット文字だけのシンプルな言語
文章を読み書きして覚えるより、音声から意味を理解する英会話から始めると、英語は上達するといわれています。綴りと読みが一致しない単語も多いので、正しい発音ができるようになれば、聞いた英単語を正しく書くことができるようになれます。日本語のように書いて覚えるのではなく、英語は聞いて覚えることが重要です。
また日本人は話すことが苦手なため、保育園やインターナショナルスクールなど子供の頃から英語に慣れ親しむことをおすすめします。英語と日本語は文法や語順が異なります。自然な英会話の中で理解していくようになれば、英語を自分のものにすることができるでしょう。
東京都港区にあるJ’sインターナショナルスクールは、生の英語を体験できるスクールです。保育園や幼稚園の時期に英語に慣れ親しみ、東洋や西洋の伝統精神を理解することも可能になります。また自立心の確立や、自分の意見をしっかり表現できる能力も養われます。東京都港区の元麻布にあるので交通アクセスも便利です。プログラムの内容や学費に関するお問い合わせは、お気軽にご相談下さい。
スクール名 J's International School
住所 〒106-0046 東京都港区元麻布 2-12-14
TEL 03-3452-2078
URL https://www.js-international-school.com
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ウィキペディア
表意文字(英: ideogram)は、ひとつひとつの文字が意味を表している文字体系のこと。 概要
表意文字とは、「意味」を形(絵)に置き換えて表した文字の集まり。文字の一つ一つに意味があるため、表意文字では、ある文字を一つ見るだけで伝えたいことが理解できる。 アラビア数字、その他の数学記号は、代表的な表意文字である。&は本来はラテン語の "et" の事であるが、英語のand、ドイツ語のundなど、違う言語の同じ意味の言葉を表す文字となっており、現代では表意文字といえる。
表意文字は、ひとつひとつの文字が意味を表すが、必ずしも言語の発音を表してはいない。そのため表意文字で書かれた文章を、異なる言語を用いる者が、それぞれの言語で読む事もできる。前述の数字や数学記号はその典型であって、「1+1=2」は、日本語で「一足す一は二」、英語で「One plus one equals two」と読める。
対義語として、表音文字がある。一つの文字で音素または音節を表す文字体系の事である。表音文字は表意文字から発展し、文字の意味を無視して発音のみを利用したのが、その発祥であったとされる。
漢字なども表意文字と呼ばれることがある。しかし、漢字に関しては、文字のひとつひとつが意味だけを表すのではなく、言語の語や形態素を表し、その結果、語や形態素の発音も表していることから、表意文字と呼ぶのは必ずしも適切ではないという意見がある。文字体系の分類では、漢字などは表語文字と呼ばれる。
表意文字のうち、言語との結びつきがないが意味を表す図像を特に絵文字 (英: pictogram) と呼ぶこともあり、顔文字もこの一種である。
また古代アメリカのマヤ文字(紋章文字)も表意文字とされ、漢字と仮名文字から成る日本語と同様、表意と表音の組み合わせ(異なる文字体系)から成立する。
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表語文字(英: logogram)は、一つ一つの文字により、言語の一つ一つの語や形態素を表す文字体系のことをいう。
概要
漢字は、一音節が一形態素となる中国語の形態素それぞれを一文字ずつで表記するので、体系的な表語文字の代表的なものである。
表語文字に対し、一つ一つの文字が音素や音節を表し、意味に対応しない文字体系を表音文字という。表語文字が原則として単独の文字で意味をなすのに対し、表音文字は特定の順序につながって語の発音を表すことで意味をなす。形式的に言い換えると、表語文字は言語の二重分節のうち、一次分節のレベルで言語を表記するものであるといえる。
一方でアラビア数字のように、各々の文字が表す意味は明確だが、言語の発音との結びつきが弱いと考えられる文字体系を表意文字と呼ぶ。 なお漢字や古代エジプト文字なども表意文字と呼ばれることがあるが、これらは発音も表しており、文字体系の分類では形態素を有するものは表語文字とされる。
表語文字の多くは象形文字に起源を持つ。象形文字がもっぱら具体的な事物を表す記号のみを持つ文字体系であるのに対して、表語文字は言語の語や形態素のほとんど全てを表すことができる。このようなことが可能になったのは、以下の手法を発達させたためである。
会意 - 別の意味を持つ文字を組み合わせて、より複雑な意味を持つ文字を作り出す手法
・形声 - 以下を組み合わせて新たな文字を作り出す手法
・声符 - 語の発音を表す記号
・義符 - 意味範疇を表す記号
同じ表語文字の文字体系でも、言語によって用いられる文字の数や種類が異なる。これは各々の時代、地域の各々の言語の実状に合うよう、各々の言語で独自に文字の取捨選択や拡張がされるためである。漢字のように多くの言語で用いられている文字体系の場合、一つの言語で用いられる文字の数に比べ、文字体系に属する文字を全て集めた数はかなり多い。
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MAG2NEWS
日本語誕生の秘密。表意文字と表音文字を使いこなす稀有な言語
ライフ2019.09.30 83 by 山崎勝義『8人ばなし』
日本語は、表意文字の漢字と表音文字の仮名を使いこなす世界でも稀有な言語です。この文字としての日本語成立の兆しは、新元号「令和」で注目された万葉集に既に現れているようです。メルマガ『8人ばなし』の著者、山崎勝義さんが、漢字のみで書かれた万葉集の中に見られる「漢字の日本語化」の工夫について解説。表意文字を表音文字として巧みに使いこなしている点を指摘するとともに、遊び心のある当て字についても紹介しています。
万葉のこと
新元号「令和」は『万葉集』より採られた。元号選定の歴史においては初の国書原典ということになる。とは言え、採用されたところは和文部分ではなく漢文部分である。よって国書である点は揺るぎはしないが、より正確に言えば非漢籍の漢文からの漢語採用ということになる。
最初の元号である「大化」を645年に定めて以来、元号は飽くまで漢語であるべきという原則から決して逸脱することなく現代に及ぶまで続けてきた日本人の連続性へのこだわりが感じられて実に興味深い。因みに言うと本家中国では今現在元号は既に存在しない。
言うまでもないことだが新元号「令和」があるのは『万葉集』があるおかげである。また当時の日本語のあり様がある程度分かるのも『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などの上代書物が書き残されたおかげである。
ただその当時の日本人は文字を持っていなかった。世界中の文字を持たない文明がそうであったように、特定の人間の記憶に基づいた口伝えのみに頼るような口誦言語だけでは、どんな言語もその担い手ごとごっそり歴史から永遠に失われても不思議ではない。
大昔の日本語も一時期においてはその状態にあったと言える。日本で最も早く書かれた書物の一つである『古事記』は「稗田阿礼の誦ふる所の先代の旧辞(=稗田阿礼が記憶している古くからの伝承)」を太安万侶が書き記したものである。このことを逆から捉えれば、太安万侶が筆を執るまでは稗田阿礼の記憶頼みという実に危うい状態であったということである。
そういった『古事記』にしろ『日本書紀』にしろ『万葉集』にしろ、全ての文章は文明先進地である中国の文字「漢字」によって記された。普通に考えれば、漢字を使うなら漢文で書くのが極めて自然な行為であると言える。現代風に言えば「和文漢訳」である。
しかし史伝の類ならまだしも、日本語を話す日本人特有の情緒の表現ともなれば近似的な和文漢訳には自ずと限界がある。言語と言語の間の壁は表現主体の内面の機微に触れようとすればするほど大きくなるものである。
そこで我々の先人達は考えた。例えば「やまとうた」などで詠まれるような日本人ならではの心情くらいはどうにか日本語として残すことができないか、と。その結果漢字の日本語化が行われた。
その方法は四大別でき、
・正訓
・義訓
・借音
・借訓
というふうになる。
このうち正訓と義訓は(音のある)表意文字として、借音と借訓は表音文字として用いる。
四季を例に簡単に説明すると
・正訓spring 「春」を「はる」と読む
・義訓autumn 「金」を「あき」と読む
五行で言うと「金」は「秋」に相当するから
・借音summer 「奈都」を「なつ」と読む
・借訓winter 「経湯」を「ふゆ」と読む
となる。
面白いのは義訓で、意味的に相当さえしていればいいのだから時に悪乗りのレベルまで行く。「恋水」を「なみだ」とロマンチックに読んだり、「十六」を「しし(=鹿・猪)」と掛け算風に読んだりするのが好い例である。これらは遊びが過ぎるということで特に「戯書」と言われている。
ここで注目しなければならないのは、(音のある)表意文字と表音文字を既に使いこなしている点である。これは「漢字」と「かな」混じりの現代の日本語表記と根本的には変わらない。その意味においては、我々の先祖は実に効率よく文字というものを獲得したと言えるのではないだろうか。
image by: 日本古典籍データセット(国文研所蔵)CODH配信 [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons
山崎勝義この著者の記事一覧
ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。
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中国語・朝鮮語は、幾度も異民族の支配を受けた為に音が変わってしまい会話ができなくなっていた。
日本国語は、異民族支配を受けなかった為に音は変わらず会話ができる。
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中国語・朝鮮語には、地域事に反目し敵対し殺し合って為に意味が通じない地方言語が数多くある。
日本国語には、日本列島の複雑な地形の為に訛りが強い方言が幾つも存在する。
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日本国語は、中国語・朝鮮語とは違い、外国語を翻訳変換して日本言語に取り込む事ができるため、日本民族日本人は外国語を習得するのが苦手である。
外国語のカタカナ表記は、日本国語表記である。
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日本民族日本人は、日本国語に執着する限り外国語は身に付きづらく、身についても上達するのが難しい。
つまり、外国語を習得する唯一の方法は日本国語を捨て去る事である。
日本国語消滅の最善の方策が、外国人移民政策である。
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中国の歴代王朝は、科挙に儒学を採用したのは、天下を儒教理念で統治し、全領土に儒教価値観を広め、領民を儒教道徳で教化する為ではなかった。
中国の教養とは、儒教や道教ましてや仏教ではなく、人を罰する韓非子と人を欺く孫子である。
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