🗾56〕─1─銅鐸は弥生日本の祭祀。~No.176No.177No.178No.179No.180No.181 ㉕ 

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 日本民族日本人とアイヌ人・琉球人を分けるのは弥生文化である。
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 2020年6月17日 産経新聞「【歴史、そうだったのか】祭祀に利用か、「弥生日本」の変遷語る銅鐸 模造の土製品も出土 
 静岡県袋井市の大門遺跡で出土した「銅鐸形土製品」(同市提供)
 弥生時代に祭祀(さいし)などで使われたとみられる青銅器「銅鐸(どうたく)」。西は九州から東は静岡県西部まで広く出土しているが、分布範囲から外れた静岡県袋井市で昨年7月、銅鐸を模して作られたとみられる土製品が出土した。こうした「銅鐸もどき」はしばしば見つかっており、専門家は「銅鐸の価値や使用法が広く浸透していたことをうかがわせる」と指摘する。古代中国の文献などから銅鐸が使われた当時の歴史をひもとくと、狩猟採集から農耕への移行をへて古代国家の形成に至る日本の姿が見えてくる。(橋本昌宗)
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 土製品が発掘されたのは、土地区画整理事業に伴い平成30年度から袋井市で発掘が始まったJR袋井駅の南側にある「大門遺跡」。弥生時代から鎌倉時代にかけての集落の痕跡が次々と見つかり、昨年7月に割れた大量の土器とともにほぼ完全な形の銅鐸形土製品が発見された。
 弥生時代後期(1~3世紀ごろ)のものとみられ、大きさは横約5センチ、高さ約6センチと小ぶり。上部や中央部付近に複数の小さな穴が空いており、横には“弥生人”のものとみられる指の痕もついていた。
 弥生時代の土器は女性が作っていたとされ、痕のついた指は現代の成人女性の指より細いとみられることから、この土製品も小柄な女性が制作した可能性がある。内部は空洞になっていたが、銅鐸で音を鳴らすための「舌(ぜつ)」と呼ばれる器具は付随していなかった。
 紀元前4世紀から紀元前3世紀ごろにかけて使われ始めたとされる銅鐸の分布圏は、西は九州の佐賀県から、東は静岡県西部を流れる天竜川の西岸まで。ただ、今回のような銅鐸形の土製品は関東でも出土したことがあり、静岡県では今回で2例目という。
 市の担当者は「銅鐸が持つ意味を理解していた小さな集落や個人が使っていたものではないか」と推測する。
 祭祀の変化
 銅鐸の模造品は土製だけでなく、石製品も確認されており、出土分布も西は熊本県から東は群馬県までと幅広い。本物の銅鐸をつくるための鋳型が見つかっている唐古・鍵遺跡(奈良県)からも模造品が出土した例があるなど、当時の社会生活に浸透していたとみられる。
 銅鐸は、中国から朝鮮半島経由で伝わり、日本で独自に変化したとの説がある。基本的に狩猟採集社会だった縄文時代土偶などが祭祀で使われていたが、水田耕作が社会の中心となった弥生時代になると、銅鐸や青銅器が使用されるようになったとされる。
 東京国立博物館の井上洋一副館長(考古学)は「縄文時代の『自然の恵みがたくさんとれますように』という祈りから、自然と戦う農業をするようになったことで、祈りの内容や方法も変わったのではないか」と話す。
 川から水路を引くなど自然を改変する作業が必要な稲作には家族単位を超えた大きな集団で協力しての労働が不可欠。土偶から銅鐸に祭祀にまつわる道具が変化した背景には、社会構造の変化があったというわけだ。
 「倭国乱」の時代
 銅鐸は、弥生後期に入ると近畿を中心とした「近畿式銅鐸」と愛知や静岡西部を中心にした「三遠式銅鐸」にまとまっていく。徐々に大型化も進み、滋賀県で出土したこの頃の銅鐸には、高さが135センチもあるものもある。
 今回、大門遺跡で見つかった土製品も弥生後期のものとみられるが、この時代の日本列島は、どんな状況だったのか。
 中国の前漢時代について記した歴史書漢書」には、紀元前1世紀ごろの日本とみられる「倭」についての記述があり、100以上の国に分かれていたとされている。
 前漢に続く後漢時代について書かれた「後漢書」には、紀元57年に「奴(な)国」が朝貢して印綬を授け、107年には「倭国王帥升(すいしょう)」らが朝貢してきたと書かれている。
 また、邪馬台国が登場することでも有名な「魏志倭人伝」には、3世紀前半から半ばにかけて、倭が三国時代華北を支配していた王朝・魏に朝貢していたとの記述がある。邪馬台国では当初、男王を立てたが、70~80年後に「倭国乱」と呼ばれる戦乱が起き、女王・卑弥呼が登場。時系列的にいうと、魏への朝貢はその後のことになる。
 中国の史書をどこまで信頼できるか議論の余地があるものの、銅鐸やその模造品が広まったとみられる弥生後期は、奴国の朝貢から卑弥呼の時代までの期間と重なる。
 弥生時代から古墳時代に入ってしばらくすると、銅鐸は急に使われなくなる。代わりに、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳奈良県)などを皮切りに、大型の前方後円墳が九州から東北南部まで、広範囲に広がっていく。
 前方後円墳の広がりは、銅鐸の広がりと地域的に重なる部分も多い。井上氏は「銅鐸から古墳への変化は、農耕社会が成熟し、ほかの集団との争いを通じて、権力が集中していくさまを示しているのではないか」と話した。
 より強い権力が確立していく中で、「古代日本」につながる大和政権の姿も見えてくる。
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