🗻16〕─1─空白の四世紀の混乱期は地球の寒冷化に原因があった。~No.56No.57 

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 日本の寒冷期における混乱を鎮めたのは、太陽を崇拝する神話物語であった。
 日本民族は、太陽を「御天道様」として崇め、真っ当な人間として日向を歩く事を心情とした。
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 2023年8月31日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「日本古代史ミステリー 「空白の四世紀」に何があったのか?
 奈良県桜井市にある「三輪明神(みわみょうじん)大神神社(おおみわじんじゃ)」の主祭神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の妻が「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」で、箸墓に埋葬されたと伝わっている。 (撮影:柏木宏之
 わが国の歴史には「空白の四世紀」とか「謎の四世紀」と呼ばれる、まったく記述のない時代がある。
 しかしながらその空白の入口である弥生時代末期と出口の「倭の五王」の時代では、すべての面であまりにも違いが大きすぎる。この期間はなぜ空白で、いったい何があったのだろうか?
卑弥呼から倭の五王までの時代は謎だらけ
 突然のように出現した巨大な前方後円墳が大和(やまと)から広がりを見せる3世紀後半~5世紀初頭は、具体的な記録が無いので「空白の四世紀」といわれています。
 中国の史書を参考にすると、『晋書 倭人伝(しんじょ わじんでん)』にある邪馬台国の新女王台与(とよ)が266年に朝貢をした記録が最後で、次に『宋書』などに現れる「倭の五王」までが何も情報がない空白の期間とされています。
 そして、この約150年の間に日本列島の人々の暮らしが大きく変化しています。まず第一に、弥生時代邪馬台国(やまたいこく)は魏(ぎ)の皇帝に戦の救援を求めていますので、戦乱で苦境に立たされているようです。つまり、まだ邑国(ゆうこく)同士が激しく争っていた小国時代です。
 それが5世紀の倭の五王の時代になると、王権がほぼ確立して権威ある肩書を中国皇帝に要求しています。つまりこの間に大和王権がほぼ確立したと考えられます。また同時に前方後円墳が各地に広まっているのです。
 そして古墳の副葬品を見てみると、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「倭国には牛や馬はいない」と書かれていたにもかかわらず、馬具が多く出てくるので馬が輸入されていたと考えられます。輸入どころか日本列島で繁殖に成功していたのでしょう。
 このように空白の期間は日本列島の文化や政治体制が大きく変わったときでもあるのです。現在の中国吉林省(きつりんしょう)にある高句麗(こうくり)の「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」には、倭軍が攻め込んできたという内容も書かれていて、大和国朝鮮半島への積極的なかかわりも見えます。
 なぜこの期間の記録がないのかといえば、大和にはまだ文字がなく書き残されたものがないからです。では中国はどうかといえば、地球の寒冷化によると思われる混乱の時代でした。中華国家は匈奴(きょうど)の侵入に悩まされ、五胡十六国時代に突入して南北朝時代まで混乱が続きます。とても海を隔てた辺境の倭国にかかわっている暇がなかったのでしょう。
 しかし日本列島は海に囲まれていることで大陸や朝鮮半島の混乱に巻き込まれず、その間に列島内の小国と折り合いをつけた大和王権が国家体制の礎(いしずえ)を確立していくのです。ただ、まったく大陸の混乱に関係がなかったかというとそうでもなく、渡来人(とらいじん)が日本列島に逃げ込んできます。現在の奈良県高取町市尾カンデ遺跡の「大壁建物」の調査では、4世紀後半ぐらいには渡来人が多くやって来たと考えられています。そういった先進の渡来文化が流入した時期でもあるのでしょう。
 記録はありませんが、前方後円墳をはじめ様々な遺跡の考古学史料は豊富ですから、ここから推測すると、かなりダイナミックな政治的・文化的な変革が日本列島にもあったことがわかります。
 風俗も大きく変わり、弥生時代の男が全員していた「黥面文身(げいめんぶんしん)」という入れ墨の風俗は駆逐されています。また、銅鐸(どうたく)祭祀や銅剣銅矛(どうけんどうほこ)祭祀も姿を消します。出雲の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡と荒神谷(こうじんだに)遺跡は、まさに弥生祭祀の両文化が終焉した証拠かもしれません。
 こういったダイナミックな混乱期は地球の寒冷化に原因があったのだと思われます。大陸が混乱する中で、比較的温暖で海に隔てられていた日本列島内は大変革に成功したのでしょう。
 柏木 宏之
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