🗻7〕─4─鳥取県湯梨浜町の砂に消えた1700年前の貿易都市。古墳時代前期。~No.34 

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 2023年12月13日MicrosoftStartニュース 産経新聞「砂に消えた1700年前の「貿易都市」 竪穴建物跡320棟以上、ヤマト王権と関係か
 令和4年度から行われている長瀬高浜遺跡の発掘調査。遺跡は厚さ約2~6メートルのシロスナ層の下に眠っている=鳥取県湯梨浜町(松田則章撮影)
 © 産経新聞
 鳥取砂丘から西に約35キロ離れた鳥取県湯梨浜(ゆりはま)町の海岸近くの砂の下に「古代の大集落」が眠っている。冒険映画に出てきそうなこの遺構は「長瀬高浜遺跡」。昭和と平成の2次にわたる発掘調査で約260棟の竪穴建物跡が鉄器や青銅器とともに見つかり、交易で栄えた古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀後半ごろ)の大集落跡と判明している。昨年度からは、前回調査からほぼ四半世紀ぶりに令和の調査がスタートし、すでに60棟以上の建物跡を確認。調査は来年度も予定されており、さらなる発見に期待が高
 令和の調査で、竪穴建物跡から出土した大量の土器(公益財団法人・鳥取県教育文化財団提供)
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 重文の埴輪群出土
 「弥生の王国を掲げる鳥取県では青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡や妻木晩田(むきばんだ)遺跡が有名だが、かつては鳥取といえば長瀬高浜遺跡というくらい全国に知られた遺跡だった」
 同遺跡の発掘を手掛ける県教育文化財団調査室の君嶋俊行室長は力を込める。昭和55年には大量の埴輪(はにわ)が発見され、61年に国の重要文化財に指定された。この埴輪群は古墳からではなく、集落の一角で見つかったことにより全国の注目を集めた。
 発掘調査は昭和49年の遺跡発見後、昭和に7年、平成に3年の計10年間行われ、約8万平方メートルの調査地から261棟の竪穴建物跡をはじめ、掘立柱建物跡64棟、井戸跡12基、古墳を含む埋葬施設101基を確認。大量の埴輪や土器のほか、高さ9センチ足らずの小銅鐸、手裏剣のような形をした巴形銅器といった希少な遺物が出土した。
 昭和56年には、巨大な柱穴の大型掘立柱建物跡が見つかり「神殿」とも推測されている。さらに、国内最古級(弥生時代前期)の玉作工房跡も注目を集めた。
 令和の発掘調査は国道改築に伴うもので、昨年度から3年かけて約8500平方メートルで実施。すでに60棟以上の竪穴建物跡や廃棄された大量の土器が確認されており、これまでの調査成果とあわせて、同財団は「今から約1700~1600年前の古墳時代前期の竪穴建物跡の数がさらに増加し、遺構が密集する集落の特徴がより鮮明となった」とする。
 昭和の発掘調査で発見された「長瀬高浜第1号古墳」の復元古墳=鳥取県湯梨浜町(松田則章撮影)
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 地下6メートルに眠るクロスナ層
 長瀬高浜遺跡では、古墳時代を中心に、弥生時代から鎌倉・室町時代の畠跡まで約2千年にもわたる人々の営みの痕跡が確認されている。これらの遺構や遺物は、地表面から約2~6メートルの厚さがあるシロスナ層の下にあるクロスナ層から見つかったものだ。
 シロスナ層は日本海からの季節風に乗って運ばれた飛砂で、15世紀以降に堆積したとされる。同財団によると、地球が寒冷期を迎えたことによる海水面の後退などが飛砂の原因とみられるという。一方、クロスナ層は硬めの黒色砂で人々が住みやすい草原のような土地だった。
 同遺跡の特徴のひとつは出土土器の保存状態の良さだ。国重文の埴輪群のほか、令和を含めた3次にわたる調査では甕(かめ)や高坏(たかつき)などが完形のものを含めて大量に出土している。今年度の調査でも、竪穴建物跡からまとまって出土しており、君嶋室長は「土器が大量に出土しているのはそれだけ多くの人が住んでいたからではないか。保存状態が良いのは、砂に埋まっていたためとも考えられる」と話した。
 土器の中には近畿型の甕が多数見つかっているほか、鉄器も300点以上見つかり、これらは日本海を介した交易によりもたらされたとみられている。同遺跡の近くには東郷池や天神川があり、「貿易港」を中心に大集落が形成された可能性を示している。
 ヤマト王権とつながる豪族
 古墳時代前期初めごろの約1700年前(4世紀後半)から繁栄した長瀬高浜遺跡は、同時代中期後半の約1550年前には衰退し、古墳の集積地へと変貌する。この後、平安時代に再び人々が居住した痕跡が見つかり、鎌倉・室町時代の畠跡へとつながっていく。
 繁栄期の集落の規模について、君嶋室長は「推定はとても難しい。4世紀後半の竪穴建物が約60棟。これらが同時に存在していたわけではないため、同時期に暮らしていた人の数は150人程度ではないか」と推測。そのうえで、どんな集落だったかについては、こう話した。
 「ヒントは神殿説もある特殊な建物や、首長が居住した可能性がある大型の竪穴建物・掘立柱建物跡、長瀬高浜遺跡近くにある全長約100メートルの前方後円墳『馬ノ山4号墳』にある。馬ノ山4号墳の被葬者はこの一帯を支配下に置いた豪族で、長瀬高浜遺跡はその『城下町』のような集落だった」
 そして、「朝鮮半島などとの交易を差配していたこの豪族は、ヤマト王権とも政治的なつながりをもち、長く栄えた」と想像を膨らませる。
 令和5年度の発掘調査では、約1700年前の竪穴建物跡から類例のない構造の囲炉裏(いろり)と考えられる炉跡を確認したほか、約1400年前の円墳から副葬品として鉄鏃(てつぞく)(鉄のやじり)が出土した。君嶋室長は「来年度の調査では、引き続き竪穴建物跡や古墳などの検出が期待される。さらに、小銅鐸のような青銅器類が出ればすごい」と期待を示した。(松田則章)
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