🏹22〕─1─日本人は捕虜にした蒙古兵と高麗兵を殺さなかった。~No.70No.71No.72 

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 日本の武士は、蒙古(中国)や朝鮮とは違って血を好む殺人集団ではなかし、自分が捕虜になる事は恥であったが、敵兵の捕虜を恥とは見ていなかった。
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 2021年6月28日 MicrosoftNews JBpress「元寇「神風のおかげで日本がミラクル大勝利」は本当か
 © JBpress 提供 写真はイメージです
 (花園 祐:上海在住ジャーナリスト)
 © JBpress 提供 『蒙古襲来絵詞』に描かれた、元軍と戦う御家人たち
 © JBpress 提供 『蒙古襲来絵詞』に描かれた弘安の役における元軍船
 日本の中世における唯一の国際戦争であり、その後の神風(神国)思想の源流にもなった元寇(1274年、1281年)は、近年新たな研究が進み、新事実が続々と判明してきています。それらの新事実には従来定説とされた内容を覆すものも少なくなく、筆者を含む一部歴史マニアの間で元寇への注目が俄然高まっています。
 前回(「元寇幕府軍が一騎打ちでボコボコにされた』は本当か」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65695)は、「文永の役」(1274年)こと第1次元寇における一騎打ち文化、元軍の残虐行為に関する従来説に対して疑義が持たれている状況を取り上げました。
 今回は、「弘安の役」(1281年)こと第2次元寇について、前回同様に服部英雄氏(九州大学比較社会文化研究院名誉教授)の著書『蒙古襲来』を参考資料に、最新の分析を紹介します。取り上げるトピックスは、後の神国思想の源流にもなった「神風」の実態、そして取り残された元軍捕虜の扱いについてです。
 なお中国王朝としての「元」朝の成立年は1271年ですが、本稿では混同を避けるため、その前身となったフビライ・ハーン率いるモンゴル帝国も含めて「元」と総称しますのでご了承ください。
 神風のおかげで勝てたのか?
 長らくの間、元寇に関する通説として、文永の役弘安の役ともに日本軍は戦闘では元軍に大敗したものの、突如やってきた台風が元軍に壊滅的被害をもたらしたことで辛くも勝利したと伝えられてきました。
 日本人はこの時の台風を「神風」と呼び、“外敵が侵攻してきた際には自然が味方して日本を守ってくれる”という信仰となって、太平洋戦争中には神風特別攻撃隊も編成されました。
 なお、弘安の役では実際に台風がやってきましたが、文永の役の戦闘期間は現在の暦に直すと11月にあたり、時期的に台風は来なかったとされています。ただ、この時期に発達した低気圧によって大嵐が起きることは今でもあり、台風ではなく「初冬の大嵐」によって元軍は被害を受けたとみられています。
 約2カ月にわたった攻防
 弘安の役において、元軍は5月初めに朝鮮半島を出発し、5月後半から九州北部へ攻撃を仕掛けています。それから約2カ月にわたり、日本側は元軍の九州上陸を防ぎ、橋頭保をつくらせませんでした。
 元軍が九州への上陸に手間取っている間、いつしか時期は台風シーズンに突入します。そして7月末から8月初めにかけ、大型の台風が九州北部を通過し、軍船をはじめ元軍に大きな損害をもたらしたとされています。
 なおこの台風は元軍だけでなく日本軍にも大きな損害を与えたとされ、台風通過後は日本側も軍船の調達が困難になったという記録が残されています。
 以上のように、確かに日本を助けるかのように台風が元軍に大きな打撃を与えたわけですが、その台風が来るまでの間、日本側が約2カ月にわたって防戦し続けた事実を見逃すことはできません。現代中国の評価においても、弘安の役の元軍の敗戦理由は日本武士団の頑強な抵抗によるもので、台風は最後の追い打ちをかけただけ、という見方がなされているようです。
 高麗船は手抜きだったのか?
 台風による元軍の被害が大きかった理由の1つとして、彼らが軍船に使用していた「高麗船(こうらいせん)」が手抜きで造られたからという説がよく唱えられてきました。
 元軍が日本侵攻に使用した軍船の多くは、当時、元朝に服属していた朝鮮半島の高麗朝が元朝に命令されて造船したものでした。この船が「高麗船」と呼ばれています。
 これまで、高麗朝が船を造る際、納期が短かった上、元の支配に対して反感を抱いていたことから手抜きをしたのではないか、そのため高麗船は強度が不足しており、台風時の被害拡大につながったのではないか、という説が唱えられてきました。
 しかし、この説は、現在はほぼ否定されているようです。というのも、実際に当時元軍が使用した軍船そのものが見つかっているからです。
 その軍船とは、鷹島長崎県松浦市)沖の海底にある「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」の沈没船です。
 この沈没船は、元寇で使用された高麗船であると判定されています。調査によると、この船は船底を二重構造にして丁寧に組み立てられており、同時代の船としては類を見ないほど頑丈な造りだったとのことです。
 また中国側の史料にも、台風時に多くの軍船が沈む中、高麗船は沈まずに耐え切った船が多かった、との記録があります。研究が進むにつれ、「高麗船手抜き説」は今では過去のものとなりつつあるようです。
 捕虜は皆殺しにされた?
 以上のように、弘安の役で元軍が受けた台風被害に関しては、これまでやや虚実入り混じった内容が伝えられてきました。
 人的被害についても同様です。史料によって数字に大きな隔たりがあるため、今でもよく議論の的になります。
 中国側の史料によると、台風を受けて壊滅した元軍のうち、本国に帰還できたのはごくわずかとされ、中には9割が帰還できなかったと書かれた史料もあります。また、元軍の前線拠点だった鷹島に一部の将軍らが10万人もの兵を置き去りにして帰った、とする史料もあります。
 一方、服部英雄氏は、弘安の役において置き去りにされ、捕虜となった元軍兵士の数は、日本側史料に書かれてある2000人に近い「3000人程度」であったと推算しています。
 これらの置き去りにされた捕虜について、中国側の史料には「ほぼ全員殺され、生き残ったのはほんの数人だけだった」と書かれています。また朝鮮側の史料である「高麗史」では、技能を持つ者だけが生かされ、残りは殺されたとされています。
 まるで日本側が捕虜を残忍に扱ったような書きっぷりですが、実際には、少なくとも皆殺しはなかった模様です。日本側の史料によると、元軍の捕虜の処遇をどうするかを幕府に伺う文書があり、幕府側はみだりに捕虜を殺さないよう通達を出していたようです。
 また弘安の役から11年後、高麗の使者が日本人の漂流者を日本に連れてきたことがあり、その際に弘安の役の捕虜が日本で生きていることが報告されています。
 以上を勘案すると、日本軍の残虐性を誇張するため、また敗戦の事実を糊塗する目的からか、「捕虜は皆殺しにされた」という見解を中国側が広めていた可能性も濃厚といえるでしょう。
 今回は弘安の役に関するトピックを取り上げました。最終回となる次回は、現在の中国における元寇に対する見方や反応を紹介します。
・参考書籍:『蒙古襲来』(服部英雄著、山川出版社
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世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本
蒙古襲来の真実
蒙古襲来と武士 (ダイアマガジン)