☳10〕─1─共産主義者は在日朝鮮人団体と同和組織を支配して反天皇反日本の革命組織とした。~No.27 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 敗戦国日本で共産主義暴力革命を起こそうとしたのは、日本人のマルクス主義者・共産主義者ではなく朝鮮人共産主義者キリスト教徒であった。
 事実、日本全国で、在日朝鮮人が絡んだ兇悪犯罪や暴動が頻発し治安は悪化し社会は騒然としていた。
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 共産主義の5%支配理論。
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 有能な共産党員教師が3人いれば、日本の学校イデオロギー支配できる。
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 2022年2月4日号 週刊新潮「党史には出てこない不都合な真実
 『共産党』再建資金に『朝鮮人徴用工』の未払い資金
 戦後の混乱の中、『朝鮮解放』『民族独立』などを掲げて続々と朝鮮人組織が誕生するが、ほどなくそれらを糾合しようという動きが起こった。そして日本政府に協力していた団体から共産主義者まで一堂に会することになる。その時すでに『陰謀』ははじまっていた。
 結集する『朝鮮人団体』
 東郷一馬
 『政治犯釈放運動』を始めた金斗鎔ら共産主義者たちと同様に、玉音放送にいち早く反応したのは、戦前から日本政府に協力してきた親日朝鮮人団体の指導者たちであった。彼らはラジオで裕仁天皇の言葉に耳にすると、その3日後には『在留朝鮮人対策委員会』を結成した。
 政府は35年に亘って朝鮮民族皇民化教育をし、『内鮮融和』『内鮮一体』を目指して、相愛会や協和会(のちの興生会)といった朝鮮人親睦会を支援してきた。こうした愛国的性格を持つ団体の長たちは、日本敗戦の声を聞くや同胞が故郷の土を踏もうと怒濤のように帰還していく姿に、自身の組織が求心力を失うことを恐れ、即座に対応を図ったのである。
 すでに8月初旬から、本土決戦に備える日本人を横目に見ながら、200万人を超える在留朝鮮人は、労務動員者を筆頭に、空襲を逃れ朝鮮に疎開しようと、博多や仙崎などの港に殺到し始め、帰還を急いでいた。終戦前の下関では5,000人が渡航する船を待っていた。
 終戦後は日本国政府もGHQも『秩序立った帰還』への組織的対応を求めた。政府は『応徴士』を優先して人員輸送を実施するため、中央興生会に引揚業務を委託したものの、現場の統制はきかなかった。大戦で大型の輸送船を多く失い、『遠洋航路向けの船は2、3隻しかなく』(『読売報知』1945年9月7日)、1日に輸送できる人数は限られていた。このため朝鮮人ブローカーが暗躍し、半島から日本人を乗せてきた中古の闇船に朝鮮人が乗り込み、危険を顧みず次々と波高い海峡を渡っていった。
 こうした混乱の中、朝鮮人を統制し、各地で生じていた日本人との摩擦を解消する強いリーダーシップを持つ人物も待たれていた。その一人となったのが、のちに在日大韓民国団中央団長となる権逸である。
 『8月18日になると、いわゆる一心会派の権藤嘉郎(権逸)丸山修司(鄭寅学)木原茂(李在東)らの従来の指導者らによって、東京都杉並区に「在留朝鮮人対策委員会」がまず結成された。(略)こころある指導者たちは、これらの帰国を急ぐ同胞の引揚問題、日鮮人同士の摩擦問題、同胞の秩序と福利厚生などの諸問題について、まずなによりも組織をもつことを叫んだ。そして東京では、はやくも8月18日に杉並区に「在留朝鮮人対策委員会」が組織されたのを皮切りに、都内各所に同じ目的をもつ団体が、ぞくぞく組織されていった。これは東京だけでなく、大阪や京都でも神戸でも全国いたるところで、いろいろな名前の群小団体が組織されていった』(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書)
 権逸は在日朝鮮人の巨頭である。権赫周、権藤嘉郎という名前を持つ。民団の中央団長を務めた後は帰国して1967年よる韓国国会議員となり、戦後の日韓関係の一翼を担った。
 だが戦前は満州国の官僚養成機関である大同学院に学んで、満州国の法務官を務めていた。引用文に出てくる一心会は、朝鮮人の処遇改善に感謝の意を表し、埼玉県高麗神社の近くの地下飛行場建設事業遂行のため結成された朝鮮人組織である。なお先にの相愛会は、戦前の国会議員を二期務めた朴春琴が中心となり、大正時代より日本の事業現場に人材を派遣し労働者の世話をする団体であった。
 政府側の重要朝鮮人
 ……
 こうして権逸は在日朝鮮人たちの組織化を始めていくのである。
 次々誕生した朝鮮人団体
 この権逸とは対照的に、玉音放送快哉(かいさい)を叫び、戦前から志したことに意を強くしたのは、これまで度々触れてきた朝鮮人共産主義者の金斗鎔である。
 金斗鎔は東京帝国大学文学部を中退、日本プロレタリア芸術連盟に所属して『戦旗』『プロレタリア芸術』等に執筆活動を行い、朝鮮プロレタリア芸術同盟東京支部の設立とともに、機関誌『芸術運動』『無産者』を編集した。生粋の共産主義者である。
 1929年から労働運動に関わり、『在日朝鮮労働運動は如何に展開すべきか?』(同年11月)を執筆、工場内の日本人と朝鮮人労働者が連帯し闘争をすべくである、と訴えた。
 『私は第一回に入獄したのは1930年である。……』
 金はその後、産別労働組合の設立を目指すなかで何度も投獄される。終戦時は表面上、転向してはいたものの、終始革命家の志を変えることはなかった。
 そして日本の敗戦と共に『朝鮮の大日本帝国からの完全な独立』と『人民共和国建設』の革命を成し遂げるために立ち上がる。
 金は1946年2月1日に創刊した日本共産党の中央機関誌『前衛』で、終戦時の『日本における朝鮮人問題』について綴っている。
 『日本における朝鮮人問題は一つの民族問題である。それは朝鮮内に於ける朝鮮民族の政治的動向と結びつき、他方に於ては日本内に於ける革命状態と結びついてゐる。過去朝鮮民族日本帝国主義支配下に置かれてゐた時代には、それは反帝国主義的闘争、民族解放闘争の問題であった。しかし現在に於いては、それは朝鮮の完全な独立、人民共和国建設、の問題となつてゐる』(金斗鎔『日本における朝鮮人問題』『前衛』1946年2月号)
 そこで金は同胞を速やかに結集させ、まず『政治犯釈放運動促進連盟』を結成、続けて次々に朝鮮人団体を作った。
 『東京では、9月10日に金斗鎔、朴哲在、金文朝らを中心に「在日朝鮮科学技術団」が組織された。また同16日には神田のYMCAで金斗鎔、南浩栄、朱基栄らの呼びかけによる「在日朝鮮青年学徒有志大会」がもたれ、約400名が参加して朝鮮解放と独立の気勢をあげた』(坪井・同前)
 朝鮮人は政治と権力を好む。派閥争いも絶えず、戦前戦中を通じ、国内には留学生と青年団体、宗教団体、思想団体などあらゆる大義をもつ組織や団体が群雄割拠していた。同様にこの終戦時にも、中小さまざまな組織が誕生していったのだ。
 『在日朝鮮人連盟』へ
 権逸はこうした混乱を収束させるため、他の中小の団体や組織と手を取り、朝鮮人団体を一つに集結させようと動き始めた。金斗鎔をはじめとする共産主義者とも膝を交じえ、協議を発動させたのである。
 ミズーリ艦上での降伏文書の調印式から、1週間と1日が経った1945年9月10日、東京代々木の青我寮で『在京朝鮮人全国協議会』が開催された。ここには関東7団体の関係者、関西から60名の在日主要人物が集まった。民族派の権逸や共産主義者の金斗鎔はもちろん、相愛会、協和会(興生会)、一心会など、これまで大日本帝国政府に協力してきた愛国団体の幹部も多数出席した。
 ここで『在日本朝鮮人連盟結成中央準備委員会』が発足する。日本国民が敗北感に打ちひしがれ茫然自失していたその時、解放された民族として高揚していた朝鮮人は、『在日本朝鮮人連盟』という一大組織の結成に向けて第一歩を踏み出したのである。
 ……
 大日本帝国政府を支えた愛国団体の指導者たちと朝鮮人共産主義者が渾然一体となって入っているが、親日派が大勢を占めた。そしてこの時点では『皆で朝鮮半島に帰ろう!』という目的のものと大同団結していた。朝鮮人の生命と財産を保護し、無事、半島に帰還させることが最優先の課題だったのである。また日本に残ったとしても、日本で育った在日二世が少しでも朝鮮語を話すことができるようにするなど、日本での民族教育も重視された。
 そして準備委員会事務局は新宿角筈の朝鮮奨学会のビルに置くことが決まった。
 呉圭祥の『ドキュメント在日本朝鮮人連盟』(岩波書店)には、『5回に及ぶ中央準備常務委員会を経て、地方組織と緊急な問題をある程度整理した後、9月20日、10月14日の全国大会準備委員会で、宣言、綱領、規約などを作成して大会を迎える準備をした』とある。
 表面上は着々と進んだように見えるが、この間に権逸ら民族派と金斗鎔ら共産主義者たちとの対立は始まっていた。
 金斗鎔は、日本共産党の中央機関誌である『前衛』創刊号(1946年2月)に次のように記している。
 『少なくとも8月15日直後に於て大同団結のスローガンの下に出発した当時に於いても、その中央幹部の中にも、協和会、興生会、一心会等々の民族反逆者や戦争犯罪人等がその多数を占め、その比重も大きく、従つて日本の政府に対する大衆的な要求も、単に公称の域を脱することができなかった。彼等は朝鮮を相変らず過去の興生会のごとき、反動的日本政府の御用機関たらしめようと策謀してゐた』
 共産主義者らは、この組織を自らの支配下に置いて『革命組織』とすべく動き出した。」
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日本人にとって、朝鮮人は友・友人・親友・戦友ではなく敵であった。
 歴史的事実として、592年に天皇への忠誠心と国家への愛国心の欠片もない渡来人は欲得だけで第32代崇峻天皇を暗殺していた。
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 昔のほんの一時期にだけ朝鮮には親日派知日派はいたが、現代の韓国・北朝鮮には反日・敵日・侮日しかいない。
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 ソ連中国共産党・国際共産主義勢力は、日本で天皇制度覆滅の敗戦革命を起こすべく日本人や朝鮮人共産主義者マルクス主義者達に活動資金や武器を提供していた。
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 共産主義者の革命戦略は、ロシアのメンシェビキ政権乗っ取りや中国の国共合作の先例に倣って敵対勢力に入り込んで主要な地位を得て内部から崩壊させる事である。
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 博多などの朝鮮半島との連絡港では、昭和19年までは兵役免除された朝鮮人青年が仕事を求めて日本に上陸していたが、昭和20年からは本土決戦から逃げるように朝鮮へ帰還しようとする朝鮮人で溢れていた。
 昭和19年・20年、民間船の多くが軍輸送船に徴用され、船舶は連合軍の空襲や海上封鎖の機雷などで撃沈され、半島や大陸に渡る事は極めて困難となっていた。
 朝鮮人達は、稼いだ金を送金していた。
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 二等国民である朝鮮人は、一等国民の義務として徴兵される日本人と共に戦う意志はなく、一刻もはや日本を抜け出す事を優先していた。
 朝鮮人には逃げ帰る祖国があったが、日本人には国外に避難する安全な土地がなかった。
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 日本の警察当局は、国内での深刻化する食料状況から朝鮮人の上陸を厳しく取り締まっていたが、日本から逃げるように出て行く朝鮮人は止めなかった。
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