☳41〕─1・D─ベトナム戦争の民間人虐殺と加害者の立場に立つことの意味。〜No.147  

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 2023年2月22日 YAHOO!JAPANニュース ハンギョレ新聞「[寄稿] ベトナム戦争の民間人虐殺と加害者の立場に立つことの意味
 イム・ジェソン|弁護士・社会学
 ベトナム河南省フォンニィ村の自宅にいたグエン・ティ・タンさんが7日の勝訴判決後、弁護団とテレビ電話で感想を述べている=ベトナム戦争問題の公正な解決のための市民社会ネットワーク提供
 平和とは何だろうか。平和であるという状態とは何だろうか。哲学者のエマニュエル・レヴィナスの「非暴力」に対する説明に少し修正を加えて定義してみると、次のようである。「自分が誰かから暴力を加えられるかもしれないという恐れ」(被害者としての不安)と「自分が誰かに暴力を加えるかもしれないという恐れ」(加害者としての不安)の間の緊張状態。一見平和と全く関係なさそうな、この不都合な恐れを同時に抱き、その狭間で葛藤する時、初めて「平和」という状態が維持される。
 被害者になるかも知れないという恐れだけが圧倒的に大きい社会は暴力へと進む。2011年5月、米国の若者たちは街頭に飛び出して抱き合って歓声を上げ、W杯の応援で登場した「ブブゼラ」を吹き鳴らした。ウサマ・ビンラディンが射殺されたという知らせを聞いたからだ。3千人余りが犠牲になった2001年の同時多発テロ以後、米国社会は更なるテロの恐怖に満ちていた。米国は直ちに「テロとの戦い」の名のもとに他国への爆撃を開始し、同時多発テロとは関係のないイラクまで侵攻した。結局、10年余りの戦争の末、テロの主犯を殺した。人々は「もう(テロで)殺されることはない」と喜んだ。
 米国はこれ以上被害者になるわけにはいかないと言いながら、何人を殺したのだろう。米ブラウン大学の研究によると、テロとの戦いで死亡したイラクアフガニスタン、イエメンなどの人々は90万人前後と推算される。ブブゼラを吹き鳴らしていた米国人たちには、被害者としての恐れと拮抗し、暴力という選択をためらわせる加害者としての不安など存在しなかった。
 テロとの戦いの初期、「まず、共に悲しもう。だが、みんなで一緒に愚か者になる必要はない」(スーザン・ソンタグ)という声もあった。無差別の軍事対応には数多くの民間人の被害が伴い、テロにテロで立ち向かおうとする格好だという加害者としての恐れからの声。しかし、米国社会の圧倒的多数はこの声に「テロ擁護」という軽蔑のレッテルを貼り、議論の場から追い出した。ある社会が暴力に突き進む過程だった。
 今月7日、ソウル中央地裁はベトナム戦争民間人虐殺被害者に対する国家賠償を求める訴訟で、韓国軍による民間人虐殺を認め、被告「大韓民国」の法的責任も存在すると判断した。この判決は何よりも長い間苦しんできたベトナムの被害者の権利を初めて認めた歴史的な判決だ。同時に、韓国という共同体のための判決でもある。「加害者の立場」を生み出した判決であるからだ。
 韓国社会は加害者としての恐れが希薄な社会だ。韓国は植民地と戦争という極端な暴力の真ん中で形成された。国家アイデンティティの一つである反共主義は「アカたちが私たちを殺す」という恐怖に支えられて作動してきた。その恐怖の中で、韓国現代史の数多くの暴力が正当化された。後から暴力の真実が明らかになった後も、韓国社会の人々はすぐに自らを被害者と同一視した。済州4・3事件を、5・18光州抗争を忘れてはならないと叫びながらも、誰も陸地から済州島(チェジュド)に渡った討伐隊、全羅南道庁に突進する空輸部隊員の立場には立たなかった。日本へ、米国へ、軍事独裁へと加害の主体を他者化するだけだった。
 ところが、ベトナム戦争の問題は違う。被害者は私たちと国籍も言語も異なり、遠く離れたところで暮らしているため、彼らと自分を同一視し、罪悪感なしに歴史的な悲劇を考えることは不可能だ。過去のことだと目を背けることも難しい。ベトナム戦争に対する韓国の公式的な評価は「戦争特需で稼いだ外貨で目覚ましい経済成長を成し遂げた」というものだ。韓国社会がいま享受している成果の裏には、少なくともベトナムの虐殺被害者の死と苦しみがある程度は存在する。
 今回の判決によって、これまでなかった加害者としての立場が生み出されたが、その立場に立つということはまた別の問題だ。誰かがその立場に立てば、この質問を避けては通れないだろう。「私たちはなぜ、どのように、どのくらい彼らを殺したのか」。この受け入れがたく恐ろしい質問から目を背けずに問いかけ続けるほどに、私たちは平和に向かって前進できるだろう。この質問は「引き金にかけた指を下ろすために、いま必要なものが何か」につながるからだ。
 歴史学者の藤井たけしは「加害者になるというのは主権者になるということ」だと述べた。加害者は自分の行動を自分の決定と責任として認めなければならない。加害者は自分が引く引き金の重さを感じざるを得ない。だからこそ、止めることも、心からの謝罪をすることもできる。このように、止めて反省する力を身につけ、忘れず記憶し続ける限り、韓国社会は簡単には暴力と戦争へと向かわないだろう。どうか多くの人が加害者の立場に立つ勇気を出してほしい。
 イム・ジェソン|弁護士・社会学者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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