🪁17〕─1─中国の漢詩とは虐殺戦争で白骨化した遺体が覆う平原を歩く壮絶な姿の事である。〜No.53No.54No.55 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代日本で民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力を持たない日本人には、日本史はもちろん中国史朝鮮史など理解できない。
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 中華(中国・朝鮮)は、戦争文明であり、漢詩文化である
 日本(ヤマト)は、平和文明であり、和歌(短歌)・俳句・和製漢詩文化である。
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 中国共産党には、伝統文明を正しく受け継ぎ、伝統文化を忠実に実践している。
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 2023年4月17日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「白骨化した遺体が覆う平原を歩く……。中国の漢詩にみる戦争の壮絶な姿!
 学術文庫&選書メチエ編集部
 古代中国の軍隊 by Gettyimages
 © 古代中国の軍隊 by Gettyimages
 歴史的にも戦乱の多かった中国には、さまざまな立場から戦争を描いた作品が残されている。遠い昔のことでも、その悲惨さは現代と変わらない。戦争を描き、また批判する漢詩を読みながら、中国の伝統を考える(鈴木虎雄著『中国戦乱詩』から紹介する)。
 哀しみは7種類?
 まずは、『三国志』で有名な、魏・蜀・呉の三国が天下を分けて争った三国時代に、王朝・魏(ぎ)の王粲(おうさん)が詠んだ漢詩「七哀詩(しちあいし)」をみてみよう。「七哀詩」の「七哀」については、〈(唐代注釈家の)古説では「痛、義、感、怨、耳目聞見、口歎、鼻酸(びさん)、の七の場合にかなしむから七哀という」〉が、実際のところはよくわからない。
 〈この題での古人の作例をみると夫婦の別れの悲しさ、古人の陵墓(りょうぼ)を見ての痛ましさ、故郷を遠くはなれての思い等、種種のことをうたってあるから、鄙見(ひけん)では当時哀の対象として七種の項目があったのではあるまいかとおもわれる。〉まずは、本文を見てみよう。
 西京亂無□ 西京(せいけい) 乱れて象(しょう)なし
 豺虎方遘患 豺虎(さいこ) 方(まさ)に 患(わざわい)を遘(かも)う
 復棄中國去 復(ま)た中国を棄て去って
 委身□荆蠻 身を委(い)して荆蛮(けいばん)に適(ゆ)く
 親戚對我悲 親戚 我に対して悲しみ
 朋友相追攀 朋友 相(あい)追(つい)攀(はん)す
 〈長安地方も騒乱となり治国の大道が失われ、豺虎のような盗賊どもがわざわいをかまえるようになった。そこで自分は中原の地を棄ててわが身をなるがままにまかせて南のかた荆州の方へゆくのである。親戚の人たちは自分に対して悲しみ、朋友らはあとから追いすがって別れを惜しんでくれる。〉
 古今東西に、こうした別れを嘆く詩は多い。ここでは、騒乱で盗賊も出てきたため、町を捨て去る自分に、人々が別れを惜しんでくれている。その直後に詩人が目にした驚くべき光景が、続く詩に書かれている。
 白骨が覆う平原
 出門無所見 出門 見る所なし
 白骨蔽平原 白骨 平原を蔽(おお)う
 路有饑婦人 路(みち)に飢えたる婦人あり
 抱子棄草間 子を抱きて草間に棄つ
 顧聞號泣聲 顧みて号泣の声を聞くも
 揮涕獨不還 涕(なみだ)を揮(ふる)いてひとり還(かえ)らず
 未知身死處 「未だ知らず身の死せん処を
 何能兩相完 何ぞ能(よ)くふたりながら相(あい)完(まった)くせん」と
 〈一歩門外へ出てみればほかに見えるものはなく、むれたつ白骨が平原をおおっているばかりだ。路ばたにうえた婦人がいて、子どもをだいてそれを草むらの間に棄てている。彼女はふりかえって子どもの泣きさけぶ声を聞いてはいるが、はふり落ちるなみだを手でおしぬぐいながら一人たち去り、あともどりしようとはしない。(彼女はひとりごとを言う)「わが身一つすらどこで死ぬかわからぬのだ、どうして親子ふたりが身を全うすることができようぞ」と。〉
 白骨が平原を覆うという状況は、たとえ比喩だったとしても、想像しがたいものだ。自分がいつ死ぬかもわからない時代には、親も子どもを育てることなどできない、という。こうした光景を見た詩人は、次のように続ける。
 驅馬棄之去 馬を駆(か)りて之これを棄てて去る
 不忍聽此言 此の言(げん)を聴くに忍びず
 南登霸陵岸 南 霸陵(はりょう)の岸に登り
 回首望長安 首(こうべ)を回(めぐ)らして長安を望む
 悟彼下泉人 悟る 彼かの下泉(かせん)の人
 喟然傷心肝 喟然(きぜん)として心肝(しんかん)を傷(いた)ましむ
 〈婦人のこの言葉はとてもきくに忍びないので、自分は馬を駆りたてて彼女たちを棄てて立ち去った。そうして南の方霸陵(はりょう)の川岸にのぼってふりかえって長安の方をはるかにながめた。
 むかし「下泉」の詩を詠じた人が都がこいしい、こいしい、といったが、その心もちを今自分ははっきり悟ることができて、喟然(きぜん)と歎きながら胸や肝(きも)をいたましめるのである。〉
 中国最高の詩人が語る戦争
 他方で、中国の唐代の最高の詩人「詩聖」杜甫(とほ)は、戦争に従軍した兵士の目線で書いている。兵士は、手柄を立てて出世したいが、軍隊によるひどい扱いに苦しんでいる。そんな兵士に仮託して、杜甫は「なぜ君主は十分に領土をもっているのに、さらに領土を広げようとするのか」と、領土を拡張する目的で戦争することを批判している。
 (二)原第六首
 挽弓當挽强 弓(ゆみ)を挽(ひ)く当(まさ)に強きを挽くべし
 用箭當用長 箭(や)を用(もち)う当(まさ)に長きを用うべし
 射人先射馬 人を射る先まず馬を射よ
 擒賊先擒王 賊(ぞく)を擒(とりこ)にする先ず王を擒にせよ
 殺人亦有限 人を殺す 亦(また)限りあり
 立國自有疆 国を立(一に列に作る)つる 自(おのずか)ら疆(さかい)あり
 苟能制侵陵 苟(いやし)くも能(よ)く侵陵(しんりょう)を制(せい)せば
 豈在多殺傷 豈(あ)に多く殺傷するに在(あ)らんや
 〈弓をひくなら強いのをひくべきだし、箭をつかうなら長いのをつかうべきだ。人を射るならまず馬を射、賊をとりこにするにはまずその王をとりこにすべきだ(万事あいての急所を衝ついて要領よくやることだ)。
 戦争をして人(敵人)を殺すにしても際限というものがある(敵だからとてみんな殺しつくせるものではない)。国をなすものがそれぞれ自国を立てているにもおのずと国疆(くにざかい)というものがあってその範囲を守るべきである。
 戦争の目的は苟いやしくも敵がこちらを侵略してくるのを制止することができさえすればそれでよいのであって、決して敵人を多く殺傷することに存在するのではない。〉
 中国人の伝統
 中国の漢詩には、民族の歴史、国家と民族の非運をうたった作品は少なくない。〈広く社会の現実を描写した作品をとって見るならば、それは日本の短歌などとは又ちがった特色を有する。常にいくつもの異民族と隣接し、それらの侵略の危険にさらされつづけた中国の政治史は日本のそれとは対照的であった。
 古くから文化の上ではただ一つの伝統を保持して来ながら、漢民族の王朝はいくたびか異民族によって滅ぼされ、そうでなくても国内の反乱もしばしば急速にひろがって、人民の生活は平和のときよりは戦乱になやまされた時期のほうが長かったとさえ言えるであろう。
 中国人は、いやでもこの「現実」を身をもって経験せざるを得なかった。詩人の声はすなわち民族の、人民の声だとするならば、詩がその「現実を反映する」のは当然のことであろう。社会史と芸術史が完全に平行するとは、私は考えないけれども、中国詩人の作品から「現実の反映」を見出すことは比較的容易である。〉
 そして、『中国戦乱詩』では、漢詩と戦争の関係はこう結ばれる。〈問題はむしろ中国精神史の側に在るであろう。「社会の現実を反映した」作品が中国の各時代を通じてはなはだ多いこと自体が、中国人の「現実」重視の態度から出てくると私は考える。
 言い換えれば、事実の記録を何にもまして重んじることは中国の伝統であったのである。二千年以上にわたる編年史料の間断なき連続。そしてそこから二十四史として知られる歴代王朝の整理された史書の集積が生まれたことは、事実の記録に対し中国人がいかに熱心であったかを証拠だてる。〉
 中国の現実を反映した漢詩は、中国人の伝統なのだ。
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