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2021年4月24日 MicrosoftNews JBpress「日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明
竹倉 史人
© JBpress 提供 青森県亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶(重要文化財・東京国立博物館所蔵)
縄文時代に作られた土偶は、女性や妊婦をかたどったものだ、というのが多くの人の認識だろう。「そうではない」という驚きの新説を提唱したのが、人類学者の竹倉史人氏だ。では、土偶は何をかたどっているのか? その結論に至った過程と具体的な土偶の解読内容を前後編でお送りする。(JBpress)
※土偶(どぐう)とは:縄文時代に作られた素焼きの人形。1万年以上前から制作が始まり、2000年前に姿を消した。現在までに2万点近い土偶が発見されている。なお、埴輪(はにわ)は、古墳にならべるための土製の焼き物。4世紀から7世紀ごろに作られたもので、土偶とは時代が異なる。
(※)本稿は2021年4月に発行された『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人著、晶文社)より一部抜粋・再編集したものです。
ついに土偶の正体を解明しました。
こういっても、多くの人は信じないだろう。というのも、明治時代に土偶研究が始まって以来、このように主張する人は星の数ほどいたからだ。そういう人たちの話を聞くと、「土偶は豊饒の象徴である妊娠女性を表しています、なぜなら……」、「土偶は目に見えない精霊の姿を表現していて……」、「縄文人は芸術家です。人体をデフォルメしたのが土偶で……」といった「俺の土偶論」が展開される。こうしたすべての「俺の土偶論」に共通して言えるのは、客観的な根拠がほとんど示されていないこと、話が抽象的すぎて土偶の具体的な造形から乖離(かいり)していること、そしてその説がせいぜい数個の土偶にしか当てはまらないということである。
土偶研究は明治時代に始まり、そこから大正、昭和、平成、令和と、じつに130年以上の歳月が経過した。それでも「何もわからない」ままであるから、アマチュアも入り乱れて「俺の土偶論」が侃々諤々、しまいには土偶=宇宙人説まで唱えられる始末――。ということで、いまさら「土偶の正体を解明しました!」などと口にしたところで、「オオカミが来た!」という虚言のようにしか響かなくなってしまったのである。
130年以上も研究されているのに、いまだに土偶についてほとんど何もわかっていないというのは一体どういうことなのだろうか。
縄文人でも妊娠女性でもない
土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。
その一方で、世の中は空前の「縄文ブーム」に沸いている。土偶はまさに縄文のシンボルであり、イメージキャラクターでもあるのに、その肝心の土偶の正体がわかりません、というのでは形無しというほかない。世界に向けて縄文文化の素晴らしさを発信しようにも、その中核にあり、おそらくは土偶が最も体現しているはずの「縄文の精神性」を語ることができないのであれば、それはわれわれの知の敗北を意味するであろう。
それでいいのか。いいわけがない。
結論から言おう。
土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。ただしここで〈植物〉と表記しているのは、われわれ現代人が用いる「植物」という認知カテゴリーが、必ずしも縄文人たちのそれと一致しないからである。
私の土偶研究が明らかにした事実は、現在の通説とは正反対のものである。
すなわち、土偶の造形はデフォルメでも抽象的なものでもなく、きわめて具体的かつ写実性に富むものだったのである。土偶の正体はまったく隠されておらず、常にわれわれの目の前にあったのだ。
ではなぜわれわれは一世紀以上、土偶の正体がわからなかったのか。
それは、ある一つの事実がわれわれを幻惑したからである。すなわち、それらの〈植物〉には手と足が付いていたのである。
じつはこれは、「植物の人体化(アンソロポモファイゼーション、anthropomorphization)と呼ばれるべき事象で、土偶に限らず、古代に製作されたフィギュアを理解するうえで極めて重要な概念である。
たしかに土偶は文字ではない。しかしそれは無意味な粘土の人形(ひとがた)でもない。造形文法さえわかれば、土偶は読むことができるのである。つまり土偶は一つの“造形言語”であり、文字のなかった縄文時代における神話表現の一様式なのである。
そしてそこからひらかれる道は、はるか数万年前の人類の精神史へとつながっている。私の土偶の解読結果が広く知れ渡れば、日本だけでなく、世界中の人びとがJOMONの文化に興味を寄せ、そしてDOGŪというユニークなフィギュアが体現する精神性の高さに刮目(かつもく)することだろう。
土偶は人体をデフォルメしているのか
「土偶は何をかたどっているのか」。そしてもう一つ「土偶はどのように使用されたのか」。土偶のモチーフや用途をめぐっては諸説あるものの、いずれも客観的な根拠が乏しく、研究者のあいだでも統一的な見解が形成されていないのである。
「それが何か」わからないなりに、土偶についての“通説”のようなものは存在している。現在の通説を大まかにまとめれば、「土偶は女性をかたどったもので、自然の豊かな恵みを祈って作られた」ということができる。そして、実際これが世間に流通する最も一般的な土偶のイメージと言ってよいだろう。
© JBpress 提供 図1 さまざまな土偶。本当に女性の姿に似ているのか? 所蔵:左上から、辰馬考古資料館、東京国立博物館、東京国立博物館。左下から大和文華館、大阪歴史博物館、東京国立博物館
しかし、あらためてここで実際の土偶を見て欲しい(図1)。はたしてこれが女性の姿に見えるだろうか? 見えるかどうかという主観的な印象の次元以前に、頭部や四肢こそあれ、土偶の身体はそもそも人体の形態に類似していない。つまり、土偶=女性像という説明は、われわれの直感に反するのみならず、物理的な事実にも反している。
それにもかかわらず、この無理筋な説明が多くの教科書に採用され、通説として社会に流通しているのはなぜだろう。それは、この説が「土偶は人体をデフォルメしている」というさらなる俗説によって補完されてきたからである。
着想は突然やってきた
土偶は人間女性をモチーフにしつつ、それを抽象化してデフォルメしたフィギュアであるから、土偶の多様なかたちには具体的な意味はない――。これは本当だろうか? こうした“通説”は、私には途方もなくデタラメなものに感じられた。土偶のかたちには具体的な意味があり、それは決してデフォルメのようなものではなく、土偶の様式ごとにそれぞれ異なる具体的なモチーフが存在しているのではないか――これが土偶を前にした最初の私の直感であった。
土偶研究の始まりに際して、私は新しい仲間を迎えることになった。遮光器(しゃこうき)土偶のレプリカである。私が購入したのはレプリカとはいえそれなりに再現性のあるものだった(図2)。
カ© JBpress 提供 図2 わが家にやって来た遮光器土偶のレプリカ
さて、遮光器土偶が自宅に届いてから一週間ほどしたある日のことである。東京国立博物館のウェブページで、私はあらためて遮光器土偶の高精細の画像を眺めていた。3000年近く前、東北地方に住んでいた人びとは、粘土を採取し、それを丁寧に成形し、体表に緻密な紋様を施し、焼成し、このフィギュアを製作した。いったい何をかたどり、何の目的のために? それは答えのない、それどころか手掛かりとなるヒントすらない、途方もない謎のように感じられた。
ハイバックチェアにもたれかかり、私はPCの画面を眺めながら何度か深呼吸をした。すると不意に、私の脳裏にある植物のイメージが浮かびあがった。それはある根茎類の映像だった。次第に鮮明になっていく輪郭を追いかけていくと、その根茎類が目の前にある遮光器土偶のレプリカの手足と重なるような気がした。私はハッとして椅子から起き上がり、ウェブで画像を検索し、実際にその根茎の画像を遮光器土偶の手足に重ねてみた。すると、根茎の描く独特な紡錘形のフォルムは、土偶の四肢とぴったりと重なったのである。
この時、私は探していた“何か”が自分の目の前に現れたと感じた。すなわち、この根茎こそが、遮光器土偶がかたどっているモチーフなのではないか、という着想を得たのである。
ほぼすべての文化で見られる植物霊祭祀
© JBpress 提供 イギリスの人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(1854-1941)
私はある一冊の書物のことを思い出していた。19世紀末にイギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーが著した『金枝篇』である。
私が特に注目したのはフレイザーが叙述している「栽培植物」にまつわる神話や儀礼である。植物の栽培には必ずその植物の精霊を祭祀する呪術的な儀礼が伴うことを、彼は古今東西の事例をあげて指摘している。
「野生の思考」を生きる人びとにとって、植物を適当に植えるということはあり得ない。播種(はしゅ)が行われるのは単なる畑ではなく、植物霊が集う聖地だからである。一粒の小さな種が発芽し、伸長し、何倍もの数の種を実らせるのはまさに奇跡であって、精霊(生命力)の力と守護がなければ絶対に成就しない事業である。それゆえ播種にあたっては、植物の順調な活着と成長を精霊に祈願してさまざまな呪術的儀礼が行われる。
古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。
© JBpress 提供 『初版 金枝篇〈上〉』J.G.フレイザー著、ちくま学芸文庫
呪術が科学技術より優先する社会において重要なのは、儀礼を通じて、自分たちが資源利用する植物の精霊と円滑なコミュニケーションをとることである。とりわけその食用植物が自分たちの食生活の中心となっていたり、交換財としての価値が高い場合には、「植えっぱなし採りっぱなし」ということはあり得ない。
播種の春には歓迎会が開催され、人間界へ来訪する精霊たちをご馳走と歌舞でもてなし(予祝儀礼)、収穫の秋にはふたたび宴席を設けて当該シーズンの精霊の事業を顕彰し(収穫儀礼)、翌年の来訪を約束して盛大な送別会が行われる。
こうしたことからも、「植物を成長させる精霊」という観念と「それを祭祀する儀礼」という事象が、植物栽培によって生命を繫いできたわれらホモ・サピエンスにとっていかに普遍的なものであるかがわかるだろう。フレイザーの『金枝篇』は、こうした植物霊祭祀の慣習と心性が、食用植物を重点的に資源利用するほぼすべての文化においてみられることを明らかにした人類学の古典なのである。
植物食依存はすでに縄文中期から
かつての通説では、縄文文化から弥生文化への移行の説明として、「狩猟採集の縄文時代」から「水田稲作の弥生時代」へ(「肉食中心」から「植物食中心」へ、「採集」から「栽培」へ)シフトしたと説明されることがもっぱらであった。ところが、近年の考古研究の進展によって、この図式が不正確であったことがすでに判明している。
縄文遺跡の発掘数の増加だけでなく、花粉分析やプラントオパール(植物珪酸体)分析、土器圧痕レプリカ法、デンプン分析、種実分析といった、電子顕微鏡を用いた理化学的な植物遺体の検出・同定技術の向上、さらには縄文人骨のコラーゲン分析の結果などによって、北海道を除く東日本では、すでに縄文中期(およそ5500年前)あたりから、縄文人が従来の想定よりもはるかに植物食に依存していた実態が浮かび上がってきたのだ。
しかもかれらは単なる採集(gathering)だけでなく、ヒエなどの野生種の栽培化(domestication)、里山でのクリ林やトチノキ林などの管理(management)、マメ類の栽培(cultivation)などを行っていたことも判明しつつある。
さて、そうなると一つの重大な疑問が湧き上がってくる。
縄文時代にはすでに広範な食用植物の資源利用が存在していた。しかも地域によっては、トチノミなどの堅果類を“主食級”に利用していた社会集団があったこともすでに判明している。ということは、そうした植物利用にともなう儀礼が行われていたことは間違いないのであるが、なぜか縄文遺跡からは植物霊祭祀が継続的に行われた痕跡がまったくといっていいほど発見されていないのである。一方、それとは対照的に、動物霊の祭祀を行ったと思われる痕跡は多数見つかっている。
ではなぜ、最重要と思われる植物霊祭祀の痕跡は見つかっていないのだろうか。
「植物霊祭祀の痕跡が見つかっていない」のではなく、本当はすでに見つかっているのに、われわれがそれに気づいていないだけだとしたらどうだろうか。
実はこれこそが私の見解なのだ。
つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。
後編では9種類の土偶タイプについて行った、解読作業の具体例を紹介する。(4月25日公開)
© JBpress 提供 『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人著、晶文社)
※『土偶を読む』刊行記念トークイベントのお知らせ
2021年5月12日 19:00~
竹倉史人 × 武富健治、司会 = 堀内大助
https://genron-cafe.jp/event/20210512/」
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