🎍17〕─3─忍者のルーツは秦の始皇帝が派遣してきた徐福説。~No.52 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。
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 601年 『日本書紀』に、推古天皇の御代に忍者のように間諜(スパイ)を行ったという記述が存在する。
 山田雄司三重大学教授)「時代劇や小説の中の忍者のイメージは、大部分が江戸時代以降、主に昭和になって作られた。
 忍者は刀を持って戦うだというイメージを誰も持っているが、実際は生きて情報を持ち帰るため、何かあれば逃げるのが一番大事とされていた。
 鎌倉時代の終わり頃にゲリラ的な戦いを始めた『悪党』と呼ばれる傭兵集団が、山で修行を積んだ山伏とも結び付いて忍者になっていったのでは。
 忍術書に書かれてあることがすべて行われたわけではなく、ひそかに伝えられている史料もまだたくさんあるはず。
 忍者の技術や智恵は当時の最先端。天候や風、音など自然に敏感だった忍者について知ることが、日本人が忘れかけた伝統的なあり方を思い出すことにつながる」
 伊賀の地は、400万年前までは琵琶湖の底にあったが、地殻変動で隆起して陸地となった。
 土壌は、湖の底時代に堆積した粘土質で農作物が育ちづらく、稲作に向かず畑作が中心で貧しかった。
 伊賀の郷は、狭く豊かでもない厳しい土地であったが、住人は他を頼らず自給自足の生活を送っていた。
 伊賀国には、東大寺興福寺伊勢神宮などの神社仏閣の荘園が点在し、洪水などで地形が変わたびに各荘園はわずかな土地をめぐって奪い合っていた。
 山林も荘園領主が所有し、材木の切り出しをめぐって争いが絶えなかった。
 伊賀の住人は、荘園に雇われた百姓が大半の為に荘園争いに巻き込まれ、極度の緊張感の中で生きの残る為に精神力と技を磨き、後の忍術につながる戦法を編み出していった。
 荘園を持っていた神社仏閣の支配が弱るや、荘園ごとに別れて対立していた住人は名張を中心とした武装集団を形成した。
 武装集団は、鎌倉末期から南北朝にかけて、侵略してくる周辺の武士団を如何に撃退し、被害を最小限に止めながら相手を殺すかの特殊な戦略や戦闘を編み出した。
 武器を持って自分を守らない者には、狭い土地での生きる権利はなかった。
 忍者道具は、生き残る為に、創意工夫を凝らして自分達で作っていた。
 忍術とは、人に頼る事なく自分一人を信じ切って生きる究極のサバイバル術あった。
 忍者とは、人の助けを期待せずに一人きりで生きられるサバイバルの達人であり、埋葬される事なく山野に死体を晒し、人に看取られる事なく一人で孤独に死ぬ覚悟のある人間の事である。
 命じられた任務には抗弁せず、言い訳をせず、弁明をせず、愚痴を言わず、不平不満を言わず、悪態をつかず、仲間を罵らず、自分が助かりたいが為に仲間を貶めず、自分が罪から逃れるべく仲間に責任を押し付けない。
 全てを受け入れて死ぬという、究極の自己責任である。
 一生涯日陰者として、任務が成功してもわずかの報酬が得られるのみで、下人から中人へ、上人へと出世する事がなく、下人として生まれたものは如何に優秀で任務を全て成功させても下人として生きるしかなかった。
 それが、忍者の定めであった。
 それが嫌な者は自由を求めて抜け忍として伊賀から逃亡したが、仲間の討手に追い詰められて殺害された。
 忍者には死の掟しか存在せず、仲間として生きるならば死ぬまで面倒を見たが、仲間を裏切り迷惑をかければ村八分ではなく死の制裁のみがあった。
 村八分とは、ムラ社会の非情ではなく恩情であった。
 故に、世間体を気にし、社会の為ムラの為仲間の為家族の為に命を捨てる自己犠牲を行った。
 忍者は、人ではなく消耗品的道具であった為に、孤独に生き、孤独に死んで行った。
 忍者とは、日本のみに存在する武装集団であり、サムライ同様に朝鮮とは縁もゆかりもない。
 文を武よりも上位に置く儒教社会・朝鮮には、体面を死よりも重んずるサムライ・武士や任務を死を賭けて遂行する忍者も存在せず、いたのは盗賊や海賊の如き名誉も誇りも無縁な残虐な犯罪集団だけであった。
 朝鮮人には、日本人が持っていた、禅宗的心技体を重んずるサムライ・武士や山岳信仰に基ずく神懸かり的な精神と秘技を一子相伝する忍者などの特性は無い。
 現代の日本人にも、サムライ・武士や忍者の様な一人で立って生きるという独立独歩の気質は存在しないがゆえに、精神的気迫に欠け健康や人間関係で悩んだ末の自殺者が増えている。
 忍者を世に知らしめたのは、1487年の長享の乱であった。
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 日本民族の祖先は、強者・勝者の中国人や朝鮮人から追い出された弱者・敗者であった。
 日本列島に比べて中国大陸や朝鮮半島は、人が強欲で殺し合う地獄であった。
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 現代の漢族中国人と古代の中国人は、血の繋がらないか、血が繋がっても薄い中国人である。
 人類は、アフリカで突然変異種として生まれ、アフリカから地球上に移住して行ったアフリカ人であった。
 アフリカ人と日本人は、似た所が幾つかある。
 日本人とアフリカ人は、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人によって世界中に輸出されていた。
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 2018年6月13日 産経WEST「伊賀衆と甲賀衆の密接な関係示す戦国期の「山論文書」初の一般公開 三重・伊賀
 初めて一般公開される「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文」=伊賀市上野図書館
 「忍者の里」の伊賀衆と甲賀衆が密接な関係にあったことを示す「伊賀国上柘植村并近江国和田・五反田村山論関係文書(いがのくにかみつげむらならびにおうみのくにわだ・ごたんだむらさんろんかんけいもんじょ)」が16日から、三重県伊賀市上野図書館で初めて一般公開される。市の有形文化財指定を受けた記念展示。24日まで。
 文書は1573〜1650年の日付のある9通。上柘植村(現・伊賀市柘植町)と和田・五反田村(現・滋賀県甲賀市)が境界域での柴や草の採取に関して取り決めたことなどが記されている。「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文」では、双方の代表者が署名、ともに自治能力が高かったことがうかがえるという。
 一昨年末に市が購入、今年2月に有形文化財に指定された。」
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 ウィキペディア
 概要
 領主に仕えずに戦毎に雇われる傭兵のような存在もいた。甲賀衆・伊賀衆のような土豪集団もあれば、乱波・透破のようなただのごろつき集団もある。戦には足軽として参加し、夜討ち朝駆けといった奇襲撹乱を得意とした。伊賀・甲賀においては荘園時代から悪党がはびこり、それが後世に忍者と呼ばれる伊賀衆・甲賀衆になる。

 忍者の歴史
 この節の加筆が望まれています。
 発祥と変遷
 間諜の歴史は、人類の歴史とともに古く遡ることができる。その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる地域もあるようだが、『日本書紀』等にそのような記載はない。
 伊賀・甲賀・雑賀、さらには柳生・根来等の紀伊半島は、天武天皇壬申の乱の直前に住んでいた場所であり、後醍醐天皇南朝が置かれるなど、特殊な霊地が多い。
 『太平記』で、高師直石清水八幡宮焼き討ちに「忍び」を使ったと記されるのが文献上の初見である。
 天正13年、羽柴秀吉によって甲賀の侍衆は改易処分となり甲賀は秀吉の家臣中村一氏の支配となる。これにより甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していく。これを「甲賀ゆれ」と言う。
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 伊賀流忍者観光推進協議会
 忍者の里 伊賀(三重県伊賀市名張市
 忍者オフィシャルサイト
 本物の忍者はこの地から生まれた
 忍術の起源は?(にんじゅつのきげんは)
 なぜ 伊賀、甲賀が忍術発祥の地とされているのですか?
 古くは、古代から忍術的な働きをした人がいた様子がうかがえる記録もみられます。忍術は突然発生しものではなく、長い年月を経て室町時代頃にまとまったものと考えられますが、伊賀、甲賀において発達したのは、都に近かったことや修験道(しゅげんどう)の行場が多かった
 こと、渡来人(とらいじん)がもたらした先進文化、政治的な亡命者が多かったこと、山もありゲリラ的戦術が発達したことなど、さまざまな要因があげられます。戦国時代に伊賀、甲賀の実技が最も優れていたので、その名が高まったようです。
 伊賀流忍者の始祖は誰ですか?
 武術や兵法は、流脈をまとめた人を流祖としています。しかし、伊賀、甲賀の忍術の場合は、誰が始めたとか、誰がつくったものというのではなく、伊賀、甲賀地方に起こった特殊な兵法(軍法)が、忍術と呼ばれるようになりました。
 始祖を忍術伝書に求めると、「忍法(にんぽう)秘巻(ひかん)」には平安時代末期の伊賀(服部)平内(へいない)左衛門(ざえもん)家長(いえなが)を始祖としています。さらに古くは、「伊乱記(いらんき)」「忍(しのび)秘伝(ひでん)」などに記されている御色(おいろ)太夫(たゆう)(御弓(おゆ)路(ろ)太夫(たゆう)、御色(おいろ)多由也(たゆや))がいます。紀元前の中国を統一した秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)から命じられて、不老(ふろう)不死(ふし)の妙薬(みょうやく)を求めて日本に来た徐福(じょふく)が連れて来た人物(「忍秘伝」の奥書きには女性と書かれています。)と言われています。熊野(三重県熊野市)に上陸し、薬草を求めて伊賀に来て住み着き、いろいろな先進技術を伝えたのが忍術の始まりとも伝えられています。
 伊賀流甲賀流はどのように違いますか?
 本質的には同じです。忍術伝書には「伊」「甲」どちらにも読めるよう、わざとまぎらわしい崩(くず)し字で書いているものもあります。「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」も双方に数種の写本(しゃほん)が伝えられます。著者の藤林(ふじばやし)保武(やすたけ)は、伊賀の湯舟(ゆぶね) (三重県阿山郡阿山町)の人ですが、この場所は甲賀との境界付近であり、甲賀では甲賀(こうか)隠士(おんし)の肩書を冠しています。
 ※写本(しゃほん)-原本を筆で写し取ったもの。写本の写本など、書き写すときに誤字や脱字などが生じて伝わるため、原本が出された年代に近い(古い)ほうが価値が高い。
 三大忍書といわれている忍術伝書があります。
① 藤林(ふじばやし)保武(やすたけ)著 萬川集海(ばんせんしゅうかい) 伊賀・甲賀流忍術を集大成したもの
② 藤林(ふじばやし)正武(まさたけ)著 正忍記(せいにんき) 紀州流の伝書
服部半蔵(はっとりはんぞう)正成(まさなり)著忍(しのび)秘伝(ひでん) 伊賀・甲賀流の伝書
 伊賀流甲賀流は仲が悪かったのですか?
 テレビや映画、漫画などで伊賀と甲賀の忍者が敵対しているように描かれることが多いのでそのように思われがちですが、実際に敵対したという事実は少ないのです。地理的に隣接していて、昔から親類関係が多く、交流のあった様子がうかがえます。戦国時代でも、伊賀と甲賀の境界で野寄合(のよりあい)と呼ばれる野外会議が開催され、同盟を結んでいました。ただ天正9年(1581)織田(おだ)信長(のぶなが)による伊賀攻め(天正伊賀の乱)では、敵対した一族がありました。
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 名古屋刀剣博物館
 名古屋刀剣ワールド
 刀剣の豆知識
 忍者とは - ホームメイト
 忍者は室町時代から江戸時代に、大名や領主に召し抱えられて諜報活動や破壊活動、暗殺などを行っていた技能者です。時代劇や漫画、アニメ作品に登場する忍者は黒装束で夜陰に紛れて暗躍しますが、実際には生活者を装って敵方に潜入し、日中も情報収集などをすることがありました。忍者の始まりと発展を辿りながら、忍者の実態や役割を紹介します。
 忍者の基礎知識
 忍者の成り立ちや歴史をはじめ、忍者が使用した手裏剣などの道具についてご紹介します。
 目次
 忍者の起源
 伊賀忍者甲賀忍者
 忍者界のレジェンド、服部半蔵
 太平の世の忍者
 忍者の武器と装束
 現代人が学ぶ忍者の知恵
忍者の起源
 聖徳太子
 忍術の起源には諸説ありますが、6世紀には「聖徳太子」に登用されて諜報活動を行った「大伴細入」(おおとものさいにゅう、細人[ほそひと/さびと]の異名も)という人物がいました。
 大伴細入は、その功績を認められて聖徳太子から「志能便」(しのび)という称号を与えられたという逸話があり、忍者のルーツとされているのです。
 戦国大名の傭兵として特殊任務を遂行
 鎌倉時代末期になると、忍者の前身と考えられる「悪党」と呼ばれた者達の活動が史料でも確認できます。悪党は、寺院や貴族などの荘園支配に不満を持って妨害したり、領主同士の所領紛争に加担したりしました。
 彼らは室町時代に入ると、戦国大名の傭兵になり、従軍して夜襲や侵入作戦を担うようになります。南北朝時代の内乱を描いた軍記物語「太平記」には、忍者が夜間、風雨の音に紛れて敵陣に侵入して火を放つ場面や、敵方に潜入した忍者が合い言葉を知らなかったために見抜かれる場面があるのです。
 ちなみに太平記は忍者を「忍び」と表現していますが、この時代には決まった呼び方がなく、「乱波」(らっぱ)・「透波」(すっぱ)・「草」(くさ)・「奪口」(だっこう)・「かまり」などとも呼ばれていました。忍者という呼称は、昭和時代に発表された時代小説や漫画を通して一般化したのです。
 伊賀忍者甲賀忍者
 忍者には特定の主君に仕えず、戦のたびに雇用されて一匹狼のように生きた者も多かったのですが、伊賀国(現在の三重県伊賀市)や甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市湖南市)では組織的に技能を訓練し、世代を受け継いでいく忍者の職業集団が生まれます。
 山岳地帯の伊賀は、山中を素早く移動し、山城を攻める兵法に長けた伊賀忍者を輩出しました。甲賀は都に近く、薬草が多く自生した土地柄のため、都の政局に詳しく、また薬の知識が豊富な甲賀忍者が育ったのです。
 ゲリラ戦で名を馳せた甲賀忍者
 室町時代後期に、室町幕府近江国(現在の滋賀県)の武家・六角家が衝突した「長享・延徳の乱」(ちょうきょう・えんとくのらん)では、甲賀忍者が六角家に貢献しています。この乱で起きた「鈎の陣」(まがりのじん)と呼ばれる1487年(長享元年)の戦で、甲賀忍者達は「亀六ノ法」(かめりくのほう)という戦術で幕府軍を翻弄したのです。
 この戦術は、亀が状況に応じて手足を出したり引っ込めたりするように、敵が攻めてくると山中に隠れ、撤退すれば奇襲に転じるゲリラ戦法で、これに幕府軍は苦しめられ、甲賀忍者が知られるきっかけになりました。
 火術、呪術を得意とした伊賀忍者
 伊賀忍者の得意技「火術」
 一方、伊賀忍者は、甲賀忍者が六角家などに仕えたのとは違い、各地の大名に起用される傭兵のような存在でした。
 日頃は、午前に農作業をはじめとした家業に従事し、午後は寺に集まり集団で訓練を行っていたとされています。
 伊賀忍者は、当時、最先端の武器だった火薬の技術に優れ、また呪術も得意でした。呪術には敵方の目をくらますトリックのような技もありましたが、主流は窮地に追い込まれても自己暗示をかけて精神を統一し、切り抜けることを目指した術です。
 代表的な呪術「九字護身法」(くじごしんほう)は、両手で印を結び、右人差し指と中指を刀に見立て、「臨兵闘者皆陣列在前」(りんひょうとうしゃかいじんれつざいぜん)と九字を唱えます。時代劇や漫画でよく見る、忍者が印を結んで火薬玉を爆破させ、煙に紛れて消えるシーンは、実際に伊賀忍者が得意としていたのです。
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 2023年9月26日 YAHOO!JAPANニュース「忍者のルーツは「中国」にあった!? 服部半蔵の「驚くべき血筋」とは
 日本史あやしい話20
 藤井勝彦
 家康最大の危機・「伊賀越え」最大の功労者と言われる服部半蔵(正成)。本当のところはどうだったのだろうか? 本記事ではその実態を振り返りつつ、後半では服部氏のルーツ、さらには忍者のルーツにまつわる伝承を紹介する。
■家康の長男・信康の切腹で涙を流した情に厚い男
 服部半蔵の墓(西念寺
 服部半蔵とは、言うまでもなく、家康の「伊賀越え」に尽力したことで知られる御仁である。名は正成。父・保長が初代・服部半蔵で、2代目である正成はもとより、代々同じ通称名を受け継いでいるから、何とも紛らわしい。
 もともと父は、伊賀において忍びの棟梁だったと見られているが、どういう事情があったのか定かではないものの、故あって三河へと移り住んだという。三河の前に、しばし第12代将軍・足利義晴に仕えたこともあったが、その後、家康の祖父・松平清康の家臣となったとか。
 その2代目である正成は、忍びであった父とは違って、武士として生涯を貫いたようである。初陣は16歳。以降、姉川の戦い(1570年)や三方ヶ原の戦い(1572年)などに参戦して武功を挙げた。
 特に三方ヶ原の戦いでの戦功が華々しく、家康から槍を賜ったとも。槍の使い手として名を成したところから、俗に「鬼の半蔵」とまで称えられたという。さらには、「徳川十六神将」の一人にまで数えられたというあたりが、よく知られるところだろう。
 ところが、思いのほか人情味溢れる御仁だったようで、家康の長男・信康が切腹を命じられた際には、その介錯を仰せつかったものの、「三代相恩の主に刃は向けられぬ」と涙をこぼし、ついに刀を振り下ろすことができなかったとか。結局、検使役の天方通綱が代わって介錯を務めたとの逸話が伝わっている。
 その後、信康を思う余り、彼のために自身で寺を建立した。それが四ツ谷(東京都新宿区)にある西念寺(前身は清水谷の安養院)だったという。境内に、「松平信康公供養碑」と共に「服部半蔵正成公墓」があるというのが印象的である。
■「小牧・長久手の戦い」で活躍し認められるも……
 その後は、伊賀衆や甲賀衆を率いる立場に出世。小牧・長久手の戦い(1584年)では、鉄砲隊を率いて秀吉軍を撃退している。その功績によって8000石を与えられ、伊賀同心200人を指揮下に置いたばかりか、江戸城麹町口門外に組屋敷を構え、城の警護にあたったと言われている。ただし、残念なことに、1596年、経緯は不明ながらも、どうやら、配下に暗殺されたようである(法号・西念)。
 その跡を継いだのが正成の長男・正就であるが、これが少々問題児で、配下の伊賀同心を冷遇するなど人徳がなかった。部下にも見放された挙句、蟄居閉門の憂き目に遭ったというから、父・正成も、草葉の陰で泣いていたことだろう。
 4代目・正重の代で改易。以降は、家康の弟・桑名藩主・松平定勝に助けられ、知行2000石で仕えて、「服部半蔵」の名を受け継ぐことは叶えられている。幕末まで桑名藩家老として仕え続けたというのも、初代〜2代目の名声あってのことかもしれない。
 ちなみに、3代目・正就が、汚名返上とばかりに大坂夏の陣(1615年)に参戦したこともあったが、そのまま消息を絶ってしまったとのことで、汚名返上とはならなかった。伊賀や新潟へと落ち延びて、庄屋になったとも言い伝えられているようだ。
服部半蔵(正成)は、じつは「伊賀越え」でさほど活躍していない?
 ともあれ、ここからは、2代目・正成の活躍の舞台となった「伊賀越え」について話を進めていきたい。事件の発端は、言うまでもなく、信長が本能寺の変で(おそらく)自害してしまったことによる。
 信長に刃を向けた明智光秀が本懐を遂げた後、その同盟者であった家康をも亡きものにしようと探索を続けていたことは、容易に察せられるところ。「徳川殿を討ち取るものには1万石」とのお触れまで出したというから、恩賞目当ての落ち武者狩りの輩たちが、そこかしこで待ち受けていることは確かであった。対して、家康の供回りは、わずか30数名。到底、生きて岡崎に帰れる見込みなどなかったのだ。
 しかし、泣き言を言っている暇はなかった。わずかな望みをかけて急遽選んだルートが、伊賀街道をたどるルートであった。途上の伊賀の地といえば、第二次伊賀の乱の舞台となったところで、信長に破れた後、降伏しなかったものは老若、俗在家を問わず、ことごとく首を刎ねられた。その数、日に300とも500とも。またもやの大虐殺である。そのため、伊賀衆は織田家に対して恨み骨髄で、同盟者の家康にも敵愾心をむき出しにしていたと語られることが多いようだ。
 ただし、乱以前のことであるが、信長の侵攻が逃れられないものとして、伊賀衆から家康に救いの手が差し伸べられていたことを指摘する向きもある。そればかりか、恭順の意志まで伝えていたとも。家康があえて伊賀越えを選んだのは、伊賀の人々が必ずしも敵愾心むき出しではなく、「危害を加えられることはない」と踏んでいたからとも考えられるのだ。
 ちなみに、本能寺の変(1582年)の第一報を家康陣営にもたらしたのは、服部党の服部平大夫正尚(徳川秀忠の母・西郷局の継父)だったと言われる。「伊賀越え」の際に、自分の蓑笠を家康に差し出して窮地を救ったところから、蓑笠之助と呼ばれたとも。
 一般的には、家康の「伊賀越え」を助けたのは服部半蔵正成と言われることが多いが、実際に伊賀国人との折衝役を務めたのは、この服部正尚だったとか。服部半蔵正成は、万が一のため、家康一行に密かに同行していたというのが実情のようである。正成にとっては、すでに縁が薄れてしまった伊賀衆との折衝役は、少々荷が重かったと見なすべきかもしれない。
 さて、ここでもう一つ目を向けておきたいのが、服部氏のルーツである。
■服部氏の開祖ともつながる「史上最強の武将」とは?
 服部氏の開祖とされるのは平家長(伊賀家長)と見られている。この、「その父が平家貞だった」との伝承が気になるところだ。
 よく知られるところの家貞とは、平忠盛と清盛の親子2代に仕えた武将である。少々馴染みの薄い武将ながらも、実のところ、彼の動向は、源平合戦直前の謎めく歴史の解明に大きな鍵を握っていると考えられるから、目が離せない。
 その家貞といえば、薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧したことでも知られる人物であるが、注目すべきは、彼を含め、攻略された側の阿多忠景や日向通良までもが、とある武将と大きく関わっている点である。
 それが、「史上最強の武将」としてその名が知られる源為朝であった。頼朝の叔父に当たる御仁である。阿多忠景は、その為朝の義父とも言い伝えられる人物で、日向通良は、肥前国佐賀県)に勢威を張っていた武将。佐賀県上峰町北部にそびえる鎮西山を拠点にしていたと見る識者もいる。
 この鎮西山の南麓に、屋形原という地名があるが、龍造寺隆信大友宗麟の死闘を描いた『肥陽軍記』によれば、かの為朝が拠点(館を築いた)としていたところである。
 となれば、鎮西山を通して、伊賀家長、平家貞、阿多忠景、日向通良、源為朝の五者が1本の糸で繋がることになるのだ。史実としてはこれ以上のことはさほどつまびらかではないが、状況を踏まえれば、次なるストーリーが推測できそうだ。
 まず、義父を通してすでに薩摩を征していた為朝が、鎮西山を占拠する通良を攻撃。一時的とはいえ為朝が勝利したものの、京の都へと舞い戻らざるを得なくなった(直後に、保元の乱に遭遇)ことで、通良が勢いを盛り返した。それが平清盛の怒りに触れて、配下である家貞の攻撃を受けてしまった。
 さらに、薩摩に残された為朝の義父・忠景も一人奮闘して城を守っていたものの、これまた家貞の攻撃を受けて敗走。挙句、喜界島(硫黄島か)に出奔したという訳である。その家貞がどのような経緯で伊賀家長の父となったのか詳らかにはできないが、二人が父子であったという伝承を信じたい。
 もちろん以上は筆者の推測でしかないが、まんざらあり得ない話ではないと睨んでいる(詳細は藤井勝彦著『源為朝伝説』天夢人を参照)。
■忍者の祖は「始皇帝が派遣した男」!?
 また、時代をもっと遡れば、服部氏が、渡来系氏族・秦氏の流れを汲むとの説まで飛び出してくるから興味深い。
 秦氏とは東漢氏と並ぶ渡来系氏族で、3〜7世紀頃に渡来。『日本書紀応神天皇紀によれば、百済より百二十県の人を率いてやってきた弓月君を祖とすると記しているが、天日槍を祖とする新羅加羅系渡来氏族とみなす識者も少なくない。
 ともあれ、その主要産業は、養蚕や織絹に関することで、仕上げられた織物が、肌(ハダ)のように柔らかだったというところから波多(秦)の姓を賜ったという。京都(太秦深草)を拠点としていたが、当時京都の人口の3分の1が秦氏だったと言われるほどの大勢力であった。
 この秦氏と前述の服部氏が、具体的にどのようなつながりがあるのか、これまたわかりにくいが、服部氏が機織部に由来する姓氏で、秦氏と何らかのつながりがあったことだけは間違いなさそうである。
 また、怪しげな説ではあるが、後の服部氏の十八番ともいうべき忍びに関して、秦の始皇帝が派遣してきた徐福が忍者の祖であったと、まことしやかに語られることもある。徐福らが熊野に上陸して北上。たどり着いた先が、伊賀だったとか。
 そこでは、伊賀衆が、徐福が連れてきた御色太夫から謀術、つまり忍びの術を学んだと。もちろん疑惑の強い説ではあるものの、一概に全否定することだけはすべきではないだろう。万に一つの可能性がある以上、再検討すべきではないだろうか?
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 4月29日 YAHOO!JAPANニュース WEB歴史街道伊賀忍者も下緒として重用した? 忍びの里に受け継がれる「組紐」文化
 三重県伊賀市の「伊賀組紐(くみひも)」には、どんな歴史があるのか? 兼田由紀夫氏が解説する。写真:伊賀上野城のシンボルである高石垣。築城の名手といわれた藤堂高虎が築き上げたもので、高さは約30メートル
 あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
 今回は、三重県伊賀市の「伊賀組紐(くみひも)」。多数の絹糸を緻密に組み上げて作られる組紐は、和装の帯締めで知られるが、近年は腕時計のベルトやネクタイなど活用範囲を広げつつある。現在、組紐においては伊賀が国内最大の生産地で、国指定の伝統的工芸品ともなっている。組紐と伊賀とのかかわりの歴史をたどった。
 【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
 昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
 【(編者)歴史街道推進協議会】
 「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
 盆地の城下町に息づく歴史文化と伝統工芸
 写真:伊賀上野城近くの「だんじり会館」。工芸の美に包まれた、だんじり3基を公開するとともに、全国的にも珍しい「鬼行列」を映像などで再現展示し、平時でも祭りを体感できる
 伊賀市の中心地である伊賀上野は、城下町の面影を色濃く残す地である。上野盆地北部の高台に位置する伊賀上野城跡から南に、昔ながらの町割をひろげる旧城下町には、武家屋敷の長屋門や町家の蔵が残り、今は忍者が住むわけではなさそうだが「忍町(しのびちょう)」という町名も伝えられている。
 近年は、忍者の里として海外からも観光客が訪れ、城跡内に設けられた「伊賀流忍者博物館」などの関係施設が人気を集める。また、俳聖・松尾芭蕉の故郷でもあり、その生家なども観光の目玉となっている。そして、忘れてはならないのが、この地で育まれた伝統工芸の存在である。
 工芸の文化を育んだ地域性とは?
 写真:組台の一つ「高台」を使っての組紐の製作風景。松島組紐店の工房「くみひもstudio荒木」にて
 伊賀上野の城下で培われた伝統工芸への見識をしのばせるのが、菅原神社(上野天満宮)の秋祭、上野天神祭である。
 毎年10月25日の前の日曜日までの3日間に催される祭礼で、近世初期の城下町整備とともに始まったとみられ、万治3年(1660)に再興。城内にも巡行して藩主も観覧したと伝える。神輿(みこし)の神幸に供奉する鬼行列と九基のだんじり行列では、美麗な衣装や由緒ある面による仮装、祇園祭の山鉾(やまぼこ)を思わせる豪華な装飾を見ることができる。
 この上野天神祭は国の重要無形民俗文化財に指定されるだけでなく、平成28年(2016)11月にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」全国33件の一つとして登録されている。
 山々に囲まれて隔絶した感のある伊賀だが、古来の文化都市、京都や奈良と伊勢を結ぶ街道の収束地であったことが、こうした文化を育む背景にあった。
 江戸時代に入り、藤堂氏が治める津藩の所領となるが、藤堂氏は徳川幕府の重鎮であり、江戸文化とのかかわりも浅くはなかった。東京の上野の地名は、ここに藤堂家の屋敷があり、伊賀上野に風景が似ているとして名付けたことに由来するという。
 桃山時代から江戸時代初期に伊賀の作陶「伊賀焼」から茶陶の名品が生み出されたのも、陶土の産地という地の利とともに文化的背景があってのことといえよう。伊賀焼は18世紀以降、藤堂家の庇護のもとに日常雑器を中心に再興し、現在も多くの窯元が生産に携わっている。
 写真:松島組紐店で受注生産している手組みによる時計ベルトの見本
 その伊賀焼と並んで、この地の伝統工芸品として挙げられるのが「伊賀組紐」である。
 原始からの紐は、束ねた糸をより合わせたもので「撚紐(よりひも)」といい、よった糸を複数交差させて緻密に組み上げたものが「組紐」である。経典や仏具の飾り紐として渡来したのが、わが国での最初といい、奈良時代には国内での製造も始まり、礼服の帯などに使われた。素材には絹糸が使われ、平安時代の宮中において芸術性の高いものになっていったと考えられている。
 組紐は伸縮性があり、組み方によってその強弱が変えられる。さらに紐の断面が四角い「角組」、丸い「丸組」、リボン状の平たい「平組」と形を変えて組むことができ、用途によって使い分けられた。鎌倉時代以降、武家の世になると、武具の実用および装飾として多用され、特に太刀の鞘(さや)に付ける「下緒(さげお)」として需要が高かったとみられる。
 下緒はもともと太刀を腰に結び付けるためのものであったが、太刀を腰帯にはさむようになると、たすきに使うなど汎用性のある太刀の付属品、あるいは色合いや模様を追求する装飾品となった。江戸時代には華美を競うことを嫌って、幕府や藩が色などに規制を加え、緋色の下緒は将軍か大名しか付けられなかったという。
 日本人にとっての紐、「むすび」の文化とともに
 写真:三重県組紐協同組合が運営する、伊賀伝統伝承館「伊賀くみひも 組匠(くみ)の里」館内。組紐についての資料展示や多彩な製品の販売のほか、「丸台」を使用しての製作体験ができる部屋も備えられている
 伊賀における下緒の扱いを知るうえで興味深いのは、忍者の後裔である伊賀郷士によって江戸時代前期にまとめられた忍術の伝書『萬川集海(まんせんしゅうかい/ばんせんしゅうかい)』に、「下緒七術」として忍者の下緒の活用法が記されていることである。
 七術の一つ「吊り刀のこと」を紹介すると、長い下緒の端を口にくわえたまま、太刀を塀に立てかけてこれを足場にして塀に上ったのちに、下緒をたぐって太刀を手にするというもので、忍者が登場する時代劇の演出でもよく使われている。
 また「旅まくらのこと」は、旅宿で眠る際には、大刀と小刀の下緒を結び、その結び目を体の下に置いて眠るというもの。盗もうとする者が太刀を引くと瞬時に気付くというわけである。
 安全の保障がない状況で厠(かわや)に入る際の利用法「四方詰めのこと」などもあって、なかなか詳細である。忍びの者にとって、下緒はファッションではなく、活用すべき必須の道具であった。
 しかし、明治時代を迎えて廃刀令が出されると、下緒としての組紐の需要も失われ、組紐業者にとって大きなダメージとなった。和装の帯締め組紐が使われるようになるのはこれ以降のことで、実は下緒の転用であったという。男性から女性へ、時代の転換とともに需要の対象も変化したのである。
 「伊賀で古くから組紐が作られていたことは確かですが、産業として発展したのは和装での需要が主となった明治時代以降のことです」と教えてくれたのは、三重県組紐協同組合副理事長で、組紐の製造・卸「松島組紐店」の3代目で伝統工芸士の松島俊策さん。
 明治35年(1902)、江戸の時代から伝えられてきた組紐の技術を東京で習得した、廣澤(ひろさわ)徳三郎が伊賀に戻って開業。以来、農家の女性の内職として組紐作りが地域に広まり、組むための台が嫁入り道具とされるまでになったという。松島さんの妻のひろ美さんも、義母から技術を教わった職人の一人だが、現在も女性の職人が少なくない。
 「伊賀が組紐の生産地となったことには、主だった産業がなかったということがあります。また、原料の絹糸を生産する養蚕が伊賀周辺で盛んでした。そして、忍びの里ともいわれる伊賀の人たちの気質や生活とも合ったのでしょう」と松島さんは語る。
 一本の帯締めを手組みするために、60玉もの糸を操り、4日を要することがあるといい、並の心構えでは作業に向き合うのは難しい。体調が優れないときには、すぐに組んだ目に乱れが生じるともいう。
 平成28年(2016)に公開され、世界的なヒット作となったアニメーション映画『君の名は。』では、主人公の少女が作る組紐が、物語の重要なキーアイテムになっていて注目を集め、伊賀でも類似の組紐製品への問い合わせが数多く寄せられることになった。
 この物語で組紐が取り上げられた背景には、日本の「むすび」の文化があると思われる。例えば、神の領域を示す注連縄(しめなわ)、あるいは、さまざまな意味を持つ多様な飾り結びなど、日本人は「むすび」に実用性を越えた思いや願いを込めてきた。
 伊賀に組紐が根付いたことは、そのことと無縁ではないのかもしれない。なぜなら、時空を超えて人と人を結び、文化を築いてきた地こそ、この伊賀であると思えるからである。
 兼田由紀夫(フリー編集者)
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