🎍43〕─3・A─藤原道長が「我が世の望月」という言葉に込めた2つの意味。~No.136 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年2月18日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「「この世は私のものだ」という歌ではなかった…藤原道長が「我が世の望月」という言葉に込めた2つの意味
 平安時代の貴族で、政治の実権を握っていた藤原道長が詠んだ「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という和歌はよく知られている。京都先端科学大学人文学部の山本淳子教授は「『我が世とぞ思ふ』は『この世は私のものだ』という意味ではない。『望月』という言葉には2つの意味がある」という――。
 【図表】道長の家族(道長出家時)
 ※本稿は、山本淳子『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■「ブラックホール」と化した後宮サロン
 寛仁二(1018)年正月、後一条天皇は11歳で元服(げんぷく)し、道長の正妻・倫子(りんし)腹三女でしばらく尚侍(ないしのかみ)を務めていた威子(いし)が、三月に華々しく入内(じゅだい)して翌月には女御となった。すると、その女房(后妃を盛り上げる知的・美的スタッフ)の一人として倫子が目を付けたのが、道長の亡くなった次兄・道兼の娘だった。
 この頃、道長の娘たちの後宮(こうきゅう)サロンは、上流貴族の娘たちを女房として吸い上げる〈ブラックホール〉の様相を呈し始めていた。
 早くは寛弘年間(1004~12)、故一条太政大臣(だいじょうだいじん)・藤原為光(ためみつ)の四女でかつて花山院(かざんいん)(968~1008)の寵愛(ちょうあい)を受けた姫君が道長の姫たちの遊び相手として出仕させられ、また故藤原伊周の娘が彰子に仕えた(『栄花物語』巻八)。長和年間(1012~17)には為光四女のすぐ下の妹や中関白道隆の娘が妍子(けんし)に仕える女房となった。
 大蔵卿(おおくらきょう)・藤原正光(まさみつ)の娘は、父が健在なのに出仕した(同、巻十一)。『栄花物語』はこう記す。

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 すべてこのごろのことには「さべき人の妻子(めこ)みな宮仕(みやづかへ)に出ではてぬ。籠りゐたるは、おぼろげのきず、片端(かたは)づきたらん」とぞ言ふめる。さてもあさましき世なりや。
 (およそ近頃は「しかるべき上流貴族の妻子は、皆が道長家の姫君の女房となり尽くした。家に籠(こも)っているのは、明らかな欠点があるか体の悪い者だろう」という噂だ。何とも驚く時代になったものよ)
(『栄花物語』巻十一)

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■娘を道長家に取られた母は号泣した
 公卿にとって一家の娘は、状況さえ合えば入内の夢を懸けて当然の〈宝〉だった。それが召使(めしつかい)である女房になり果てるなど、屈辱以外の何物でもない。だが道長から娘を出仕させよと請(こ)われれば、父も一家の者たちも断ることができなかった。
 「世、以(もっ)て嗟(さ)と為(な)す(世間はこれを嘆いている)」とは、実資が『小右記』(長和二〈1013〉年七月十二日)に記した言葉である。そんななかで、故道兼の娘も、威子の女房にと声を掛けられた。
 父が長徳元(995)年に亡くなった時、母の胎内にいた姫で、この寛仁二年には24歳。上流貴族に縁づかせようと夢見てきた母は号泣した。「良い話と思って言うのではないの。でも道長様の奥様があんまり強引におっしゃるから」。兄の兼隆(かねたか)も泣いたが、「断ってはこの兄の立場が悪くなる。道長ご一家の世は永く続きそうだし」と露骨に自分の保身を先に立てた。
 ところでこの母は道兼の死後に再婚しており、その相手が、至愚の大臣・顕光だった。しかし相談されても彼は「何も麿(まろ)に言うな。今は何事も考えられぬ」とにべもない。敦明親王の春宮退位の巻き添えを食った実娘・延子のことで頭がいっぱいなのだ。
 果ては道兼が夢枕に立つやら物の怪となって現れるやら、姫は出家まで考えるやらの愁嘆場(しゅうたんば)となったが、結局道長家に逆らうことはできなかった。姫は「二条殿(にじょうどの)の御方(おんかた)」という名で威子に仕える女房となった。
■文化と情報と人脈が「一極集中」していった
 威子側は彼女を特別待遇とし、道長の息子たちすら容易に近づかせなかったという(『栄花物語』巻十四)。だが、妙ではないか。人に会わせぬなど、これではまるで深窓(しんそう)の令嬢である。応接したり儀式に参加したりと、人前に出て立ち働いてこそ〈女房〉ではないのか。――違うのである。
 この姫を始めとして、道長家が吸収した貴顕(きけん)の女君たちはいわゆる〈女房〉ではなく、彰子、妍子、威子たちの〈装飾〉だった。彼女たちは、その出自一つで道長家をさらに輝かせた。そして道長家は彼女たちを雇用することで、自分たち一家が他とは別格の存在であることを上流貴族社会に見せつけたのだ。
 加えて、姫にはそれぞれの女房がおり、女房はそれぞれのネットワークを持っている。姫たちを握ることで、道長一家は貴族社会の入り組んだネットワークをも把握し、利用することができた。文化と情報と人脈の、道長家への〈一極集中〉である。
 そしてその〈施策〉を練り実行したのは、道長というよりも道長家の女たち――妻の倫子と長女の彰子だった。
■姫君を吸い上げることで野心を削いでいった
 彼女たちは姫君に狙いをつけると、その母などに消息(しょうそく)(手紙)を「せちに(熱心に)」「たびたび(何度も)」送りつけて出仕を要請し、断られても決して折れることなく、結局は意志を通した。
 こうして道長の妻と今上天皇の母が上流貴族の姫君を吸い上げることは、上流貴族を脅かし、娘を入内させて道長家に対抗しようという野心を阻喪(そそう)させた。結果的に、後一条天皇の后妃は彼が崩御するまでたった一人、威子だけだった。
 実は、道長にとって彰子はだんだん煙たい存在になりつつあった。今や彼女は、今上・後一条天皇と春宮・敦良親王を擁する「天下第一の母」(『大鏡』「道長」)である。道長の開く宴会が貴族らを疲弊させていた時は「父上のいない所では、皆嫌がって後ろ指をさしていますよ。ましてご薨去(こうきょ)後はどう言われるか」とビシッと窘(たしな)め、道長が「心神宜(よろ)しからず(気分が悪い)」とふてくされたこともあった(『小右記』長和二〈1013〉年二月二十五日)。
道長の娘たちが朝廷のトップに上り詰める
 道長が見るより遠い将来と広い世間を、娘は見つめ始めていた。ところが、寛仁二(1018)年秋のことである。早朝、道長と摂政・頼通を御前に呼ぶと、彰子は言った。

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 「尚侍立后(りっこう)すべき事、早々たるを吉(きち)とすべし」てへり。余(よ)、申して云(い)はく、「宮の御座(おはしま)すを、恐れ申し侍り」と。是(こ)れを以て未(いま)だ此(か)くの如(ごと)き事を申さざるなり。又(また)仰せられて云はく、「更に然るべき事に非(あら)ず、同様のこと有るを以て、慶び思ふべきなり」と。摂政申して云はく「早く日を定めらるべし」てへれば、慶びの由(よし)を申して退下(たいげ)す。
 (「尚侍〈女御・威子〉の立后(りっこう)は、早くしたほうがよろしいでしょう」。私は申した。「太皇太后(たいこうたいごう)様も妍子中宮様もいらっしゃるのに、立后などと申すのは憚(はばか)られます」。だから私はいまだにこの提案をしていなかったのだ。太皇太后はまた、おっしゃった。「全く憚ることはございません。前例もあるのですから、慶ばしく思うべきでしょう」。摂政〈頼通〉が申した。「早く日程を決めましょう」。私はお礼を申して退出した)
 (『御堂関白記』寛仁二年七月二十八日)

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 この時、后(きさき)は、最高位の太皇太后が彰子、次の皇太后が空席で、皇后と中宮にそれぞれ娍子と妍子がいた。彰子は空席の皇太后に妍子を転上(てんじょう)させ、空く中宮に威子を立てようというのである。すると、四人のうち三人が道長の娘となる。これは空前の事態だ。「そこまではいくら何でも」と遠慮して、道長は言い出せずにいたのだ。
 まさに望外、しかし喉から手が出るほど憧れた状況だ。
■そして前人未踏の権威を確立した
 ところがそれを彰子が自分から言い出して成就させてくれるというのだ。日記の記す彰子は堂々としている。頼通は坊ちゃんらしく、事の重大さをあまり分かっていないようで、いそいそとしている。そして道長は、いささか茫然としている。
 彰子は前例のあることと言ったが、『栄花物語』は「一人の大臣の娘が二人后に立った例はない」(巻十四)と記している。確かにその通りで、実は前例では、娘たちが后として並び立ったのは父大臣の死後だった。道長は、自分の存命中に彰子と妍子の二人を后にしただけでも、史上初めてだったのだ。それが今度は、三人になる。まさにこれは「未曽有」(『小右記』寛仁二年十月十六日)の事だった。
 誰も手の届かなかった場所に達した道長。彼の「この世」を『栄花物語』は讃(たた)える。

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 かくて后三人おはしますことを、世にめづらしきことにて、殿(との)の御幸ひ、この世はことに見えさせ給ふ。
 (こうして后に娘三人が立たれることを、まさに稀有なこととして、道長殿のご幸運、この世の運命は最強のものとお見えになる)
(『栄花物語』巻十四)

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 立后の日程は、安倍晴明(あべのせいめい)の息子である陰陽師(おんようじ)・吉平(よしひら)に占わせ、十月十六日となった。この威子立后の夜こそが、道長が彼の代名詞となる和歌を詠んだ月夜だった。
■和歌を詠んだ夜は満月ではなかった
 だが、当夜は誰もが想像する望月(もちづき)の夜ではない。十六日の夜――月は十六夜(いざよい)の月で、少し欠けていた。当日の子細は、道長の『御堂関白記』よりも実資の日記『小右記』に詳しい。道長が和歌を詠んだのは、内裏の紫宸殿(ししんでん)で立后の儀式が行われた後、場を道長の土御門殿に移しての宴でのことだった。
 前々年七月の火災で灰燼(かいじん)に帰した土御門殿はこの六月に新造され、前より高く聳(そび)える屋根など、すべて道長の指示通りに輝かしく造り替えられていた(『小右記』寛仁二年六月二十日・『栄花物語』巻十四)。
 宴がやがて寛(くつろ)いだ二次会となると、音楽が奏でられるなか、道長は大納言(だいなごん)の実資に戯(たわむ)れるように言った。「我が子に盃を勧めてくれんか?」。我が子とは、摂政・頼通である。実資は頼通の盃に酒を注(つ)ぎ、頼通は左大臣・顕光に、顕光は道長に、そして道長は右大臣(うだいじん)・藤原公季(きんすえ)に注いだ。この五人こそが、現政権の頂点に立つ者たちである。
■「浮かれた気分の歌なのだ」
 頼通だけは27歳と若いが、あとの4人は一条朝から30年来の公卿仲間である。長徳元(995)年、道長の長兄・道隆と次兄・道兼が亡くなり、翌二年、中関白家の伊周が失脚した時、道長、顕光、公季の3人は政界第1位、2位、3位の座に躍り出て、その順位はずっと変わらなかった。また、その間、政界の〈ご意見番〉として一目置かれてきたのが実資だった。そこに頼通が加わり、道長は表向き身を引いて「太閤(たいこう)」となったが、陰(かげ)に控えている。そんな五人の間を盃が廻(めぐ)った。
 しばらくして、道長は再び実資を呼ぶと言った。

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 「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」てへり。答へて云はく、「何ぞ和し奉らざるや」。又云はく、「誇りたる歌になむ有る。但(ただ)し宿構(しゅくこう)に非ず」てへり。
 (「和歌を詠もうと思う。必ず返歌せよ」。私は答えた。「どうして返歌しないことがありましょう」。すると、太閤はまた言われた。「浮かれた気分の歌なのだ。ただし、予(あらかじ)め用意したものではない」)
 (『小右記』寛仁二年十月十六日)

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 そうして道長が詠んだのが、今や教科書でおなじみのあの和歌だった。だがその意味は、長らく理解されてきたものとは違う。
■和歌の「望月」はどういう意味か

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 此(こ)の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば
 (今夜のこの世を、私は最高の時だと思う。空の月は欠けているが、私の望月は欠けていることもないと思うと)
 (同前)

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 「この世をば我が世とぞ思ふ」は、「この世は私のものだ」の意味ではない。道長は『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』以下の勅撰(ちょくせん)和歌集に自詠が四十三首も採られている歌人である。どんなに酔っていても、和歌でそうした乱暴な言葉遣いはしない。
 定石(じょうせき)通り「世」は「夜」を掛けたものだし、「我が世」は「我が世の春」のような人生最高の時を言うと解釈するのが正しい。道長が「浮かれた歌」と照れていたのは、このことである。では、「望月」以下はどういう意味か。
 この日は十六日で、空の月は欠けていた。歴史学者佐々木恵介(ささきけいすけ)氏によれば、天文学的には限りなく満月に近かったらしいが、和歌はそれには頓着しない。むしろ、「月は欠けたが欠けていない」と謎々のような機知を詠むことこそが、和歌の真骨頂なのである。つまり、道長の詠んだ〈欠けない望月〉とは、天体の月ではない。
道長が託した「二つの意味」
 意味するものは二つ。その一つは、今しがた道長ら五人が酌(く)み交わした盃――「さか“づき”」の洒落(しゃれ)である。土器(かわらけ)は丸く、欠けていない。いや、それもあるが、何より五人の結束が固く、欠けていない。道長は、政界の重鎮たちが若い頼通を迎え入れて盛り立ててくれる様(さま)に、この世の円満を感じたのだ。
 そしてもう一つは、今夜の主役、「后」である。「后」は文学の世界でしばしば月に喩(たと)えられてきた。その后(太皇太后、皇太后中宮)の席を、道長家の娘たちはすべて満たした。いや、実際にはもう一人、故三条院の妻である娍子も皇后なのだが、それは措(お)いておこう。后の席は娘たちで満席、これは月も月、満月だ――道長は二つの洒落で、〈我が人生最高の時〉を喜んだのである。
 思えば、かつて同じように我が人生の到達を歌に詠んで喜んだ人物がいた。外孫・清和(せいわ)天皇(850~80)のもとで史上最初の人臣摂政となった藤原良房である。彼は天皇の母后である我が娘・明子(あきらけいこ)の前に置かれた桜を見て、こう詠んだ。

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 年ふれば よはひは老(お)いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思(ものおも)ひも無し
 (年の経つままに、私は老いてしまった。それでも桜の花を見ると――母后となって花を咲かせたお前を見ると――何の悩みもないことよ)
(『古今和歌集(こきんわかしゅう)』春上 五二番)

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 実物の桜は必ず散り、人の心を悩ませる。しかし后となった明子と、娘のおかげで摂政となった良房の栄華は、咲き誇って散ることがない。
■夜空の月は欠けても、一族の栄華は満ち足りている
 道長の和歌も同じである。実物の月は必ず欠けるし、実際十六日の当夜には欠けていた。だが、道長にとっての二つの月――息子を中心としての政界の円満と、娘たちの名誉ある位とは、満ち足りてこれからも輝き続ける。道長は百五十余年前の父祖・良房に肩を並べたのだ。
 道長の和歌を聞いた実資は彼の思いを理解した。そして自らは返歌を詠まず、「この和歌を唱和しよう」と一同に呼びかけた。一同にとっても政界の円満は“我がこと”である。皆は何度もこの歌を唱和し、道長は満悦の様子で見守った。その夜深く、皆がすっかり酔って土御門殿を後にした時も、十六日の月は空に明るく照り映えていた。
 ちなみに、その土御門殿があったのは現在の京都御苑地内。今は京都迎賓館が美しい佇(たたず)まいを見せる場所である。

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 山本 淳子(やまもと・じゅんこ)
 京都先端科学大学人文学部 教授
 1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。15年、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)で第3回古代歴史文化賞優秀作品賞受賞。選定委員に「登場人物たちの背景にある社会について、歴史学的にみて的確で、(中略)読者に源氏物語を読みたくなるきっかけを与える」と評された。各メディアで平安文学を解説。著書に『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫)、『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日選書)などがある。

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