🎍5〕─3─なぜ京都は「平野が少ないのに繁栄した」のか?地理的条件と古代の勢力図。~No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ヤマト王権による日本統一は、外敵である反天皇反日の中国や朝鮮による軍事侵略から日本を守る為であった。
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 2024年2月14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「なぜ京都は「平野が少ないのに繁栄した」のか? 地理的条件と古代の勢力図
 大和王権の勢力を反映する最大のモニュメント・前方後円墳京都府北部から兵庫県東北部にあたる丹後地方には多くの豪族たちが古墳を建設したが、なぜ平野の少ない丹後が栄えたのだろうか。また、九州や関東など地方の有力豪族たちはどのように権力を失ったのだろうか。
■中央に近い豪族と地方豪族に力の差があった!?
 大和王権の勢力を反映する最大のモニュメントといえるのが前方後円墳だが、5世紀初めくらいまでは必ずしも大和や河内などの大王墓が突出して大きかったわけではない。岡山県には全国第4位の大きさの全長360mの造山(つくりやま)古墳、第9位の全長286mの作山(つくりやま)古墳、次いで全長192mの両宮山(りょうぐうざん)古墳といった前方後円墳がある。
 前2者に関しては、大きさ、墳形、ともに5世紀の大王の古墳に引けを取らない。このことからわかるように、大王にとって吉備(きび)氏は重要な政権パートナーであった。5世紀後半の雄略(ゆうりゃく)天皇に后妃(こうひ)を入れていることからも明らかであろう。
 吉備氏がそこまで繁栄した背景には、これまで吉備平野の農業生産力や中国山地での製鉄、瀬戸内海での製塩などがあったと考えられてきたが、考古学者の新納泉(にいろいずみ)氏はそれらの要素よりも、吉備が九州と畿内を結ぶ物資流通の結節点であったことを重視している。そうした役割は邪馬台国の時代から始まっており、弥生末期には楯築墳丘(たてつきふんきゅう)墓のような大型の墳丘墓が築かれている。
 丹後(たんご)地方(現在の京都府北部から兵庫県東北部)にあたる一帯にも大きな前方後円墳が継続して営まれた時期があった。決して広い平野があるわけではない丹後半島に、古墳時代前期、丹後3大古墳とよばれる大古墳が築かれた。この地に4世紀後半ころまで有力な豪族が勢力を保っていたことは疑いない。
 この丹後3大古墳とは造られた順に、蛭子山(えびすやま)古墳(全長145m)、網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳(全長198m)、神明山(しんめいさん)古墳(全長190m)である。これに遡る湧田山(わくたやま)古墳(全長100m)、白米山(しらげやま)古墳(全長90m)、その後に造られた黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳(全長105m)を含めると、6代100年近くにわたって継続した。
 北陸から若狭(わかさ)、伯耆(ほうき)、出雲(いずも)と日本海沿岸地域の中でも最大の勢力を誇ったのがこの丹後地方であった。考古学者の広瀬和雄(ひろせかずお)氏はその背景に交易があるという。
 「圧倒的に平野面積の乏しい」土地にもかかわらず丹後地域が繁栄を遂げたのは、「日本海に面する」「地理的条件を活かし、具体的には南部朝鮮からの鉄素材を入手し、畿内などの諸地域へ供給していた」ことがあったと考えた。その表象として「大型・中型前方後円墳が、日本海から大和への交通の要衝に造営」されたとしたのである。
 このほか九州一円に勢力を誇った筑紫(つくし)君や、北関東一帯に多くの前方後円墳を残した下毛野(しもつけの)君、濃尾平野に本拠地をもち、東海地方最大の前方後円墳である断夫山(だんぷさん)古墳を築いた尾張(おわり)臣など、有力地方豪族は枚挙にいとまがない。
 彼らは5世紀中ごろまでは中央の豪族たちと遜色なく、大和王権の中枢で大王を扶翼(ふよく)する立場にあった。しかし、雄略朝に大和盆地西南部の葛城氏が反乱を起こして鎮圧され、以後衰退していったのとともに、これに次ぐ勢力を誇った吉備氏もまた反乱に失敗し、勢力を急速に失った。
 また九州中部・北部に勢力を保ち、5世紀半ば以降は有明海沿岸一帯に首長連合を形成して、朝鮮半島と独自の外交を展開していた磐井(いわい)君が、継体朝に中央から派遣された物部氏の軍と戦い敗れた(磐井の乱)。雄略朝から継体(けいたい)朝、欽明(きんめい)朝を通じて地方の有力豪族が、次々と中央からの武力制圧に敗れていったのである。
 雄略朝には大王一人に権力が集中する専制が志向されていたようにみえるのに対し、継体・欽明朝以降は大王と中央(畿内)豪族の合議制が権力主体となっているようにみえる。大和や河内に本拠を有する大伴氏・物部氏蘇我氏阿倍氏和邇(わに)氏などによる合議制が形成されていく一方で、地方豪族は権力中枢から排除されていったのである。
 監修・文/水谷千秋
 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
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 古代日本は、地獄の中華世界・弱肉強食の半島社会の中にあって、倭国(獣国)の自主独立を確立し、倭人(野蛮人)の生存権を護持する為に、ヤマト大王ヤマト王権によって統一されるしか選択肢がなかった。
 もし、日本統一をヤマト大王ヤマト王権・ナラ王国がしなければ、地方の王・王国が日本を統一した。
 日本が天皇家・皇室の元で統一国家に成れなければ、中世東南アジア世界のような小国家群による無秩序で無法なカオス地帯となったか、朝鮮のような中華帝国奴隷国家に成り下がるか、流刑地・台湾のような汚れた化外の孤島として捨てられるか、何れにしてもそこには現代の日本は存在しない。
 そして、歴史・伝統・文化・神話宗教・自然崇拝を共有する日本民族は生まれなかった。
 ヤマト大王ヤマト王権・ナラ王国その後継である日本天皇平安京朝廷による日本統一を望まない日本人が、高学歴のエセ保守・リベラル・革新(進歩)・過激の中に存在する。
 ヤマト大王ヤマト王権・ナラ王国その後継である日本天皇平安京朝廷は、大陸の中華帝国と半島の諸王国の軍事侵略から日本を守る為に人工的に作られたムラ的システムである。
 ムラ的システムのコアになっていた価値観は、数万年前の旧石器時代縄文時代に自然発生的に生まれ、数千年前の弥生時代古墳時代天皇と一体化された。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
 ……
 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 明治43(1910)年 「韓国併合ニ関スル条約」により日本は大韓帝国を併合して自国の領土とした。
 多くの朝鮮人は反天皇反日で、その中に過激なテロリストが存在していた。  
 貧しい朝鮮半島から豊かな日本列島への朝鮮人による民族大移動。朝鮮人若者は低賃金労働者として日本人労働者からを奪った為に、日本人の反朝鮮人感情が膨らんでいった。
 キリスト教共産主義朝鮮人テロリストは、大正デモクラシー労働争議や小作争議、社会主義運動や部落解放運動、国家主義革新運動などで混乱している日本に潜入してきた。
 大正12(1923)年9月1日 関東大震災
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 大正13(1924)年1月5日 朝鮮人テロリスト集団の義烈団による二重橋爆弾事件。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
           1月28日(~5月) 第一次上海事変勃発。
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