🗻4〕─1─ヤマト大王とは連合村の談合で選ばれた名誉長老。古墳時代と前方後円墳。~No.11 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の人口は、弥生時代には約60万人で、奈良時代には約450万人。
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 日本民族と中国人(漢族)・朝鮮人は、姿形は似ていても別種のアジア人であり、けっして同種同根の同じ人間ではなく、故に、交わる事がなく理解などできない。
 古代から、日本国と中国・朝鮮とは敵国同士であり、両者の間に友好や善隣など存在しなかった。
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 朝鮮半島における諸王国。
 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海であった。
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮(朝鮮)、大韓帝国北朝鮮、韓国である。
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 日本民族の性格は気が弱いだけに、村や国の責任を取りたくない為に指導者になる事を嫌った。
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 ヤマト大王とは、奈良・河内とその周辺の有力豪族(氏族)らによる集会で、有力豪族の中から集団の「和」を乱さない、私利私欲がなく大人しく謙虚で真面目で素直で正直な人柄で選ばれた名誉長老に過ぎない。
 つまり、専制君主でもなければ独裁者でもなく、集団の決定に承認を与える人徳としてのカリスマ性はあっても、集団を力で引っ張っていく強いリーダーシップは乏しかった。
 ヤマト王権は、中央主権的な征服王朝というより全国の諸王権による連合(連合王権)に過ぎずなかった。
 『古事記』と『日本書紀』は、ヤマト王権ヤマト大王の話しを天皇心神話・日本中心神話・血の神話(Y染色体神話)という「一筋の血族・正統な血統」による物語にまとめた。
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 ヤマト王権とは、3世紀から始まるとされる古墳時代に「王」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。(今の大阪平野奈良盆地などの大和地方、または邪馬台国九州説では九州)の国がまわりの国を従えた。
 旧来より一般的に大和朝廷と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。
 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説する。
 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。
 ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。
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 悪戦苦闘の末ね日本を統一したヤマト王権にとって、油断も隙もない難敵は国内外の数多く存在し、気を許すと足元を掬われヤマト王権は滅亡し日本は諸王国混迷時代へと逆戻りする危険性があった。
 ヤマト王権(日本国)・ヤマト大王(日本天皇)は、何時攻めてくるか分からない敵に囲まれていた。
 ヤマト王権ヤマト大王による日本の統一と統治は、強力な軍隊と豊かな経済力で盤石というわけではなく、むしろ不安定で危うい綱渡り状態が続いていた。
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 日本は海に囲まれていて安全だった、はウソである。
 朝鮮半島からの、不法入国・不法上陸・不法移住が絶えなかった。
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 日本の大地は、中国大陸や朝鮮半島とは違って、非人道的行為による虐殺に次ぐ虐殺が起きなかっただけに死臭は漂っていない。
 当然、日本民族(現代の日本人と同一とは限らない)は中国大陸人(漢族)や朝鮮半島人とは違って殺人鬼のように血生臭くない。
 中国人や朝鮮人は、日本民族を人間以下の獣・未開人・非文明人・野蛮人・土人と見下げ嘲笑する為に差別用語である「倭」と呼んだ。
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 現代日本人は、昔の日本人とは違て差別され蔑まれる事が好きである。
 奈良時代の日本人は、天皇の名誉と日本国の体面と日本民族の尊厳の為に、中華皇帝に対して差別用語の「倭・倭国倭人」を誉れ高き「日本・日本国・日本民族・日本人」に変更させ、儒教の影響を排除し、中華帝国を中心とする中華思想華夷秩序・絶対的上下関係を排除した。
 国家建設の手本としたが、「国交を開いて豊かさを手に入れる」より「安寧の為に国交を閉じる」ことを選んだ。
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 日本の歴史、日本史、または国史とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。

 古墳時代
 詳細は「古墳時代」を参照
 平出遺跡公園にある、復原された古墳時代(西暦600年)の住居。
 3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に近畿地方に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
 4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国流入した。新羅高句麗とも戦争を繰り返した。(倭・高句麗戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)
 5世紀に入るとヤマト王権朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく朝貢することで、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。
 倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
 倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。
 またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。
 この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
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 古墳時代は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。
 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。
 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。日本国家の成立を考察すれば仁徳天皇は難波(なにわ:現在の大阪市)に都を定め、宮居を難波高津宮 (なにわのたかつのみや) とし、国内流通の中心である住吉津や難波津といった港湾設備も建設され、倭国ヤマト王権が拡大し王権が強化統一されていった時代と考えられる。その後、都を飛鳥に定め、飛鳥時代に入り後に7世紀半ばに孝徳天皇難波宮で行われた大化の改新により倭から日本という国号と共に元号の使用が始まった。
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 古墳とは、
 原義・第1義としては、「古い墓」「古人の墓」を意味する。日本では少なくとも平安時代中期以来の日本語(漢語)である。
 第2義・考古学的語義・近代以降現代の語義としては、「墳丘墓」・「盛土(封土)をした古代の墳墓」を意味する。
 最狭義には、日本の古代に属する一時代(古墳時代という)に築造された特定の形態の墳丘墓を指す歴史用語である。高塚(たかつか)ともいう。
 東アジアにおいて位の高い者や権力者の墓として墳丘墓が盛んに築造された[3]。本項はこれ以降、特筆しない限りは日本の古墳について解説する。
 「古墳」という日本語は、古代から近世にかけては「古人の墓」全般を指す語であったが、墳丘をもつ墓が知られていたより古い時代(弥生時代)にも存在することが考古学の発展によって判明して以来、「前方後円墳出現以降の、墳丘をもつ古い墓」を指す語に変わり、弥生時代に続く古墳築造の隆盛期を「古墳時代」と呼ぶようになった。現在の日本史では、一般的に「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓/高塚の墳墓を「古墳」と呼び、他方、弥生時代の墳丘墓は「墳丘墓」、奈良時代の墳丘墓は「墳墓」、中世の墳墓は「中世墳墓」、近世の墳墓は「近世墳墓」と呼んで、それぞれに区別する。
 また、現代日本語の「古墳」は、国際的に通用する普通名詞として用いるか(※第2義)、日本の古墳のみを指す固有名詞に近い語として用いるかという(※第3義・最狭義)、未だ明確に定義されない異なる語義が並立しており、この点に断り無くどちらか一方の意味で用いられることにより、時として齟齬が生じる。
 現代日本語「古墳」に相当する現代英語は kofunが通例であるが、"ancient burial mound" など mound(意:塚、墳丘墓、ほか)に説明を付け加える形でのかなり曖昧な言い回しも多く、特に日本に限定する場合は "in Japan" を付け加えるなどする。
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 前方後円墳は、古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。
 主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。
 概要
 起源
 3世紀中ごろ、大和地方の纏向(現・奈良県桜井市)に巨大都市が出現し、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳を築造する。これをもって古墳時代の始まりとする。その後日本各地に同じ形の墳墓が築造されていった。
 大和政権の勢力下にある日本の諸地域(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられている。
 最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる。
 それに対して、各地方政権の墳墓の糾合によるという説もある。例えば「形」は播磨の前方後円型墳墓から、「葺石」は古代出雲政権の四隅突出型墳丘墓から、というように、弥生時代に作られていた各地方政権の墳墓の諸要素を糾合して、大和政権が前方後円墳を考案したという。
 奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されている。
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 日本民族は、縄文後期に中国大陸や朝鮮半島から日本列島に民族移動して先住民を攻撃して占領した征服民ではなく、石器時代縄文時代から日本列島に流れ着いき定住した人々の子孫である。
 その後の、大陸や朝鮮から逃げてきた弱者・敗者と乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。
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 ヤマト大王・日本天皇は、日本列島に住む日本民族の中から生まれた。
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 ヤマト大王・日本天皇は、大陸の中華皇帝や半島の諸王家から日本を守る強力な軍隊を持った国家を樹立すべく、日本統一に乗り出した。
 抵抗する王国は軍事力で滅ぼし、抵抗せず従う王国や有力豪族は臣下に加えた。
 ヤマト王権の権威を示す為に利用されたのが、ヤマト方式の前方後円墳と埋葬祭祀である。
 そして、大陸や半島などの対外勢力と九州・中国地方の反ヤマト勢力に対する威嚇として築かれたのが河内平野の大古墳群であった。
 それでも、九州地方の反ヤマト勢力は大陸や半島などの外国勢力と組んで反乱を繰り返していた。
 後に、関東などに移り住んで新羅系渡来人は日本天皇・日本国に対して反乱を起こし、百済高句麗帰化人は日本天皇・日本国を守る為に戦った。
 帰化人と渡来人は別人である。
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 ヤマト大王・日本天皇は、中国大陸や朝鮮半島からの侵略から日本国・日本民族を軍事力で守る為に率先してた戦い、外国勢力の支援を受けた反ヤマト国内勢力から日本国・日本民族を守る為に伝統文化や神話宗教などで戦ってきた。
 日本国と日本民族にとって、中国大陸や朝鮮半島、中国人(漢族)や朝鮮人は油断ならない敵であった。
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 日本が中国や朝鮮の様な儒教な大量虐殺の地獄にならずに済んだのは、ひとえに正統な唯一の支配者であるヤマト大王・日本天皇が存在したからである。
 日本民族は、ヤマト大王・日本天皇を守る為に、民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)に基ずく最高神の女性神天照大御神の正統な血筋である男系父系天皇と皇室を命を犠牲にして受け継いできた。
 民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)は神聖不可侵の不変神話として、日本民族と共に存在する。
 日本文明・日本文化、伝統、日本国語、日本神道、習慣、風習その他すべての民族性は、民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)を起源としている。
 それが、天皇家の歴史である『古事記』『日本書紀』と各地の『風土記』である。
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 現代の日本の歴史は、マルクス主義史観・キリスト教史観・儒教史観で愛国主義皇国史観を葬った為に、天皇中心の『古事記』『日本書紀』と民族中心の『風土記』を非現実的非科学的であると否定している。
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 1980年代後半頃から、日本民族性が急速に消え始めた。
 民族性を失った日本人とは、マルクス主義歴史教育を受けたリベラル派戦後民主主義世代であり、彼らの薫陶を受けた優秀・有能な次世代である。
 その象徴たる出来事が、2019年に開催された「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の自由」騒動である。
 国民世論と政治家や官僚達は、「昭和天皇肖像画写真を燃やし、灰を踏み付ける」映像を反対せず支援・賛同した。
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 現代日本人は、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力などがなく、ヤマト大王・日本天皇への理解と愛着は希薄で、正統な男系父系天皇から正当な女系母系天皇への変更を求めている。
 正当な女系母系天皇を支持する日本国民は80%近くに達している。
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 国家や民族には寿命があり、寿命が尽きれば死滅・絶滅・消滅する。
 それは、生物であれ、非生物であれ、逃れなれない運命である。
 地球も太陽も銀河系も宇宙さえも、何時から消え去る。
 当然、日本民族も日本国も寿命が尽きれば死滅・絶滅・消滅する。
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 日本民族少子高齢化によって人口激減が加速化し、日本国民は外国人移民(主に中国人移民)で人口を回復していく。
 日本人は日本民族とは限らない。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の情緒的な文系的現実思考はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の理論的な理系論理思考はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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🗻6〕─2─韓国南部の日本式墓、主は5世紀に日本から百済に渡った傭兵。〜No.26 

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 東亜日報
 韓国南部の日本式墓、主は5世紀に日本から百済に渡った傭兵
 Posted April. 11, 2018 08:05, Updated April. 11, 2018 08:05
 「韓半島南部で発掘された日本式の墓の主は果たして誰か」
 光州光山区月渓洞(クァンジュ・クァンサンク・ウォルゲドン)の古墳群などで発見された前方後円墳は、韓半島の伝統の古墳の様式とは全く異なる。名前のとおり前面は台形、後方は円形で作られた鍵形の墓だ。日本の古墳時代(3~7世紀)の墓の典型的な様式だ。
 韓半島に存在する倭系古墳の主が、5世紀に日本から百済に渡ってきた「倭人傭兵」の可能性が最近提起された。慶北(キョンブク)大学考古人類学科の朴天秀(パク・チョンス)教授は、最近発表した論文「倭系の古墳から見た百済と倭」で、「出土遺物や三国史記日本書紀など各種文献を分析した結果、墓の主は日本の支配層ではなく中下級の傭兵と見るのが妥当」とし、「日本の学界の一部が主張する任那日本府説が説得力がないことを示す証拠」と強調した。
 文献によると、日本の傭兵が韓半島に来た初の記録は405年頃。三国史記日本書紀には、「日本に滞在した百済の太子、腆支王が父親の阿莘王が逝去すると、倭兵100人の護衛を受けて帰国した」という内容がある。その後、日本の護衛兵に関する記録は残っていない。ただ広開土大王陵碑に「倭が船で攻撃した」という記録があり、彼らが百済高句麗戦争に参加した可能性が高い。
 朴教授は、「5世紀前半の全羅南道高興郡(チョンラナムド・コフングン)の雁洞(アンドン)古墳と野幕(ヤマク)古墳は、墳丘の表面に石を敷く葺石施設で、日本式の大刀や鎧などの遺物が出て、墓の主が日本人であることを物語る」とし、「海洋軍事の要衝地に位置し、王室から下賜したと見える金銅冠が出土したことから、百済の傭兵として活躍した可能性が高い」と説明した。
 479年、百済の東城王も腆支王と同様、日本の傭兵500人を同行させて三斤王の逝去後、帰国した。彼ら500人が埋葬されたと推定される6世紀前半の墓は、主に栄山江(ヨンサンガン)流域で発見されている。日本の九州地域の横穴墓と似ている。百済の王室の用品である金箔ガラスなどが出土した。
 日本の数人の学者はこの古墳を根拠に「任那日本府説」を主張した。しかし朴教授は、「墓の形態が一定の系統なく5~6世紀に集中的に現れて消えた」とし、「倭系古墳の主は韓半島で支配的な勢力ではなく、一時的に活動した傭兵階級と見るほかはない理由だ」と明らかにした。
 柳原模 onemore@donga.com
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 YAHOO!JAPANニュース
 朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は
 3/22(月) 9:09配信
 ハンギョレ新聞
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに 日本の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論 「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める 墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人? 日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念
 最近発掘調査された全羅南道海南郡北日面方山里の長鼓峰古墳内部の石室。遺体を置く部屋への入口の玄門が正面にみえ、平らな板石をいくつか置いた床と砕いた石を整然と積んだ石室の壁面が見える。1990年代までに2回盗掘され、内部の遺物は大部分が失われた
 朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始めについに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた。
 この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ。6世紀前半のものと推定されるこの墓の外側の墳墓と石室内部が、去年10月から今年2月まで、馬韓文化研究院の発掘調査により約1500年ぶりに明らかにされた。驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5~6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった。
 調査団は、後面の封土を掘り、墓の内部に通じる細い通路(羨道)に入り、内側を観察した。調査の結果、床に細長い板石を置き、上側に砕いた石(割石)を整然と積み壁面を作る、古代九州の石室墓特有の構造であることが明確だった。天井と壁面にも、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。
 出土品はほとんどが盗掘されていたが、墓の被葬者を明らかにする手がかりとなる遺物が相当数収集された。墓の内部への入口で発見されたふた付きの皿(蓋杯)10点が代表的だ。一部の蓋杯の中にはイシモチなどの魚の骨や肉類など祭礼での食事と推定される有機物の塊も検出された。「日本の古墳で確認された祭礼の遺物と類似の内容物と配置が注目される」と、チョ・グヌ研究院長は説明した。墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は「九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった」と述べた。
 長鼓峰古墳は墳墓の長さが82メートル(溝を含む)、高さは9メートルに達する。皇南大塚などの新羅の慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墓だ。外見は日本で古代国家が成立する当時の墓の様式である前方後円墳(長鼓形墳墓)の形だ。前方後円墳は、墳墓の前方は四角い形で後方は丸みのある円形の特徴をとり、日本の学者が名付けた名称だ。日本の墳墓の形式である前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実は、1980~1990年代に相次いで確認された。日本の右派勢力は、4~6世紀に日本が朝鮮半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物証だと主張した。韓国と日本の学界で、埋葬された人物の出身地が朝鮮半島倭国かをめぐり大きな議論となった。
 長鼓峰古墳も議論の中で困難を経験した。80年代初め、学界に初めて報告された当時は、自然の地形である丘とみなされた。80年代半ばごろに嶺南大学のカン・イング元教授が発掘許可を申請したが、文化財委員会の許可が下りず、外側の実測しかできなかった。1986年に全羅南道記念物に指定されたが、保存措置がまともにとられず、90年代に2回盗掘された。国立光州博物館が2000年に盗掘の穴を確認し、緊急試掘調査により内部を一部確認したが、公式の発掘は20年後の昨年秋に始まった。
 しかし、墓の石室は2月末に再び埋められた。研究院側は「新型コロナウイルスの防疫のための措置で、5~9月に墓の周溝の追加発掘の後に一般公開を推進する」と明らかにした。しかし、一部では発掘による波紋も考慮したものだという見方が出ている。調査内容は、朝鮮半島前方後円墳の墓の被葬者の議論を再び引き起こす公算が高い。過去20年ほどの間、百済政府の統制を受けた倭人官僚や傭兵という説と、日本に移住し現地の墓の文化の影響を受け帰国した馬韓人または百済人という説など、多くの推測が出された。長鼓峰古墳から九州の古墳と瓜二つの構造と鉄鎧の破片や鉄の矢じりなどの武器類が埋められた事実が確認されたのは、韓国国内の学界に負担になり得る。日本の右派学者が再び任那日本府説の根拠にすることがあり得るという懸念まで出ている。
 ソウル大学国史学科のクォン・オヨン教授の助言を思い出したい。「長鼓峰古墳は倭系統の墳墓の構造を有しているが、埋葬された人物を軽々しく断定してはいけません。外形、構造、遺物などを当時の情勢とともによく調べなければなりません。民族主義を越え古代人の観点まで考え、開かれたものの見方でアプローチしなければなりません」
 ノ・ヒョンソク記者、写真=馬韓文化研究院提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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 朝鮮半島南部の前方後円形墳、すなわち朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)全羅南道全羅北道に分布する、日本列島の前方後円墳と同じ墳形の古墳について解説する。
 これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳(전방후원분)」のほか楽器のチャング(チャンゴ/장고/長鼓)になぞらえ「長鼓墳(チャンゴブン/장고분)」などと表記される。日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本項では「前方後円形墳」の表記で区別して解説する。
 概要
 朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的関係を表す事例として注目される。
 古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し画一的ではない。発掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀・段築・葺石・埴輪・木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系横穴式石室の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。しかしそれら墳丘・施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には倭(日本)系・百済系・大加耶系の文物が混在する点で、特定地域に限らず様々な地域との交渉を反映した多義的な様相が認められている。
 前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭・百済加耶のいずれとも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。そしてこの在地勢力が百済支配下に入る時期(6世紀中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した[1]。しかし栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。現在も、被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。
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🗾12〕─1─日本の石器時代。~No.56No.57No.58 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 縄文時代早期に2万人前後しかいなかった日本(北海道・沖縄を除く)の人口は、温暖期に入ってナッツ類が豊富に実るようになると順調に増え始める。
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 2021年5月23日 MicrosoftNews 共同通信「長野の「石刃」、国内最古と発表 現生人類、流入の手掛かり
 © KYODONEWS 長野県佐久市の香坂山遺跡で出土した(左から)大型石刃、小石刃、尖頭器=2020年10月
 長野県佐久市の香坂山遺跡で昨年出土した旧石器時代の石器「大型石刃」が、石刃として国内最古となる3万6800年前のものであることが、遺跡を発掘した奈良文化財研究所の国武貞克考古第一研究室長の研究で明らかになった。国武氏が23日、日本考古学協会の総会でオンライン発表した。
 遺跡からは大型石刃含め、アフリカで誕生しユーラシア大陸を東に拡散した現生人類特有の石器群が、国内で初めてそろって出土。同様の石器群は、中央アジア、南ロシア、中国などで5万~4万年前のものが出土。朝鮮半島でも4万1千年前の大型石刃が見つかっている。日本列島への現生人類の到達にも関わる事例だ。
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 毎日新聞
 日本最古の人類の姿が分かる? 長野・香坂山遺跡で「ホモサピエンス」の石器がザク
 2020/8/28 14:00(最終更新 8/28 14:00)
 日本列島で人類の歴史が始まった時、その最初の姿はどのようなものだったのだろう?
 この、考古学・人類学の一大テーマに答えを出す可能性のある旧石器時代の遺跡が現れ、研究者の関心が高まっている。長野県佐久市の香坂山(こうさかやま)遺跡である。出土した石器を見ると、アフリカを出てユーラシア大陸を西から東へと拡散していった現生人類(ホモサピエンス=新人)の大きな流れが、まさにそのまま直結した形で日本列島に姿を現したかのようなのだ。
 国武貞克・奈良文化財研究所主任研究員をリーダーとする研究グループが8月初めから調査している。
 日本列島では約3万8000年前、大陸から新人が渡ってきて、人の歴史がスタートしたと考えられている。世界的な考古学の枠組みでは、後期旧石器時代と呼ばれる時代だ。それよりも前に人が住んでいたかどうか、つまり、日本列島にも前期・中期の旧石器時代が存在したかどうかについては、ちょうど20年前に発覚した発掘捏造(ねつぞう)事件も絡んで、議論が分かれている。こうした事情から、研究者が一致して存在を認めるのは3万8000年前以降の時代であり、その最初がどのような状況だったのかが、旧石器時代研究の最大関心事の一つなのである。
 日本列島で最古の「石刃」遺跡
 香坂山遺跡は実は、1997年に一度発掘されている。
 浅間山の東南約15キロ、八風山(はっぷうさん)山麓(さんろく)南側の標高1080メートルの地点に位置する。群馬県境に近い。上信越自動車道の八風山トンネルの建設工事に伴って発見され、長野県埋蔵文化財センターによって調査が行われた。
 その時、後期旧石器時代を特徴づける石器製作技術である「石刃(せきじん)」技法でつくった石器などが見つかった。石刃技法とは、石器になる原石を他の石などでたたいて割り、ナイフのような鋭い刃をもつ縦長の素材を効率よく獲得する技術である。
 当時、同時に出土した炭化物の放射性炭素年代測定によって、遺跡の年代は3万6000年~3万5000年前とわかった。この年代は、石刃が出土した遺跡として国内最古とされている。
 ただ、年代測定の技術進歩はめざましい。最初の発掘から20年以上たっているため、国武氏は今回、さらに精度の高い年代測定を念頭に発掘を思い立った。「墨粒(炭化物)が取れればいいな」と臨んだわけだ。
 大小の石刃、尖頭器がザクザク出土 ユーラシア大陸と同じ
 ところが、3週間足らずの間に、望外といえる収穫が連続することになった。
 出土した石器は約400点。中でも注目されるのが、長さ10センチを超えるものも含む大型の石刃と、長さ3~4センチほどと小さくて薄い小型の石刃の2種の石刃。大型石刃は97年の調査でも発掘されたが、この時代の小型石刃が見つかったのは初めてのことだ。さらに、尖頭器(せんとうき)と呼ばれる先のとがった大型の石器も見つかった。
 この3種の組み合わせが日本列島で見つかったこと自体が初めてなのだが、興味深いのは大陸で発掘された石器との比較だ。
 国武氏によると、「大型石刃・小型石刃・大型の尖頭器」の3種のセットは、アフリカを出た新人がユーラシア大陸に入り、西から東へ拡散していく時に持っていた石器の組み合わせという。言い換えると、大陸で後期旧石器時代が始まった時の最古の石器の組み合わせである。
 その時期と地域は、おおよそで中東(レバント=4万8000年前)、中央アジア(4万5000年前)、中国北部(4万4000年前)、朝鮮半島(4万2000年前)などと時代を下りながらつながってゆき、それぞれ同じ内容の石器のセットが見つかっている。
 それと同じ3種セットが今回見つかったわけだ。そこで、焦点となるのが遺跡の年代である。
 これまで香坂山遺跡の年代は3万6000年前とされてきたので、朝鮮半島の同種の遺跡とは6000年の時間差があり、やや離れている。今回、高精度の年代測定によって年代がさかのぼることになれば、時間の溝が縮まる。
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 酒々井町
 旧石器時代とは
 2019年7月2日
 旧石器人達の暮らし
 旧石器時代とは今から約3万8千年前から1万6千年前の約2万2千年間をいいます。人々はまだ土器を持たず、主に打ち欠きによって作られた石器(打製石器)や動物の骨や角を用いて作られた骨角器(こっかくき)を使い、狩猟や採集活動を行っていました。定住はせずに、テントのような軽易な住居によって食料となる獲物(今では絶滅して見られない大型哺乳類など)や木の実等を求めてたえず移動を行いながら生活をしていた時代です。しかも当時は氷河期という寒冷な気候であり、また火山活動も活発で頻繁に火山灰が降り注ぐ非常に厳しい環境下での暮らしでもありました。
 ○後期旧石器時代前半期(想像図)_RGB.jpg
 【後期旧石器時代前半期(墨古沢遺跡の頃)の風景(想像図)】
 年間平均気温は7~8度低く、台地上には針葉樹を中心とした森林帯が広がり、現在でいえば標高約1500mの風景が広がっていたと考えられます。
 墨古沢遺跡でも発掘調査で出土した炭化材の樹種同定やプラント・オパールの分析などから、周辺に針広混交林が広がっていたと推察されています。
 (図は2004『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』印旛郡文化財センターより引用)
 ○旧石器時代に生きていた大型哺乳類_RGB.jpg
 【旧石器時代に生きていた大型哺乳類】
 陸続きとなった大陸から、現在では絶滅して見られないマンモス・ナウマンゾウ・オオツノジカなどの大型獣が渡ってきて生息していました。これらの動物は重要な食料源であったばかりではなく、骨や角は加工して道具として使われました。
 (図は2004『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』印旛郡文化財センターより引用)
 墨古沢遺跡の時代、後期旧石器時代前半期
 墨古沢遺跡に旧石器時代の環状ブロック群があった時代は、気候が寒冷化に向かい年ごとに大きく変動していました。海抜は現在よりも約80mほど低く、本州・四国・九州は地続きになり一つの島を形成していましたが、この島は大陸や北海道とは海で隔てられていました。
 そして、この時代こそ、私たちの祖先ホモ・サピエンスが海を越え日本列島に到来・定着した時代なのです。ホモ・サピエンスは30万年~20万年前にアフリカで誕生し、8万年~5万年前にアフリカから世界中へ拡散を開始します。約4万5千年前にはヨーロッパや中央アジア・オーストラリアへ到達し、約3万8千年前に朝鮮半島から海を越えて日本列島へ到来しました。(なお、ホモ・サピエンスの拡散については今日も精力的な研究が続けられており、これからの年代についても今後の研究成果により大きく変わることが予想されます。)
 (図は印旛郡文化財センター 2004 『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』、国立科学博物館編 2016 『世界遺産ラスコー展』、NHKスペシャル「人類誕生」制作班編 2018 『人類誕生』をもとに作成)
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 石器時代(せっきじだい)とは先史時代の区分のひとつで、人類が石材を用いて道具や武器をつくっていた時代を指す。
 概要
 石器時代という時代区分は、デンマークの考古学者クリスチャン・ユルゲンセン・トムセンによって名付けられた。彼は一定の原理に基づいて、人類は、石以外に金属を知らない石器時代、鉄をまだ使っていない青銅器時代鉄器時代の順に発達した、と1836年に「北方古物学の手引き」でまとめた。そして、この時代区分はスカンジナビアとその周辺地域に適用できることを述べている。この三時代区分によって、考古学的な整理がつくが、世界のどの地域でも当てはまるかというとそうではなく、青銅器時代を経ない地域も存在する。
 旧石器時代
 詳細は「旧石器時代」を参照
 旧石器時代は、200万年前から紀元前1万年の間とされている。地質学的にいうと、人類が絶滅した動物と共存していた更新世に属する。また、ホモ・ハビリスが石で道具を作り始めた時期でもある。考古学的にいうと、打ち欠かれた石の道具である打製石器という単純な石器を使用して狩猟・採集生活を営んでいた時代でもある。
 旧石器時代をさらに前期、中期、後期に区分する時代区分が行われる。
 弓矢が無かった為、石を削り獲物に投げつけて狩をしていた。

 後期旧石器時代
 後期旧石器時代の年代は、地域によって異なるが、約3.5万年前~約1.2万年前の期間とされている。西ヨーロッパでは、「発展した旧石器時代(アドバンスト・パレオリシック)」とも呼んでいる。約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅し、ヒト属に属する生物は現生人類のみとなった。このころ打製石器はさらに精巧なものとなり、石刃技法を用いたナイフ形石器が普遍的に生産されるようになった。また骨角器の制作や衣服の着用、装身具の使用、洞窟壁画の登場やこれに代表される呪術的な行為の発生が認められている[2]。
 この時代から、日本列島に人類が住んだ遺跡や遺物が多く発見されている。北海道から九州までの遺跡の数は5000箇所にのぼっている。

 新石器時代
 詳細は「新石器時代」を参照
 地域によって違うが、オリエントの肥沃な三日月地帯では、紀元前8000年頃に、中米やメソポタミアでは、紀元前6000年頃に始まった。 地質学的にいうと、人類が現生動物と共存する完新世に属し、磨かれた石の道具である磨製石器を主な道具としていた時代でもある。この時期のもっとも重要な出来事は定住の開始であり、さらにこれに伴って土器の使用、農耕や家畜の飼育が始まり、自給自足の生活へと変わっていったことから「新石器革命」とよぶことがある。もっとも、定住を開始したために農耕や土器製作などがはじまったのか、それとも農耕などの各種技術の発見によって定住を開始することになったのかはわかっていない。とくにこの時期に行われたオオムギやコムギなど穀物の栽培化は人類の食糧基盤となり、家畜は食糧源や輸送・労働力として重要なものとなり、また土器は石器に比べはるかに製作・成形しやすいものであり、より高度な道具の制作が可能となった。こうした発明は以後の技術発展の基礎となるものであり、人類の繁栄の基盤となった。また、この新石器革命は社会を複雑化させるきっかけとなった。効率的な食料生産はそれまでよりもはるかに大きな人口を扶養することが可能になり、莫大な社会余剰を生み出した。この社会余剰を元に、食料生産に直接的に従事しないスペシャリストが生まれ、さらに食糧生産をより増大させるために灌漑などの土木工事が始まり、それを実行するために社会の組織化が始まった。しかしはじまりの時期が違うように、生活様式は、地域で大分違っていた。例えば日本の縄文時代新石器時代に位置づけられるが、日本で農耕が発達するのは縄文時代中期以降であり、牧畜は縄文時代を通じて存在しなかった。
 金石併用時代と石器時代の終焉
 やがて、自然状態で存在する金属を加工することを覚えた人類は、自然銅や自然金といった天然の鉱石を発見し、銅や金といった加工の容易な金属を使用するようになっていった。ただしこうした金属は硬度が不足しており、石器を完全に駆逐することはできなかった。この時代のことは銅器時代、または金石併用時代と呼ばれる。やがて冶金を覚え、スズと銅の合金である青銅を手にした人類は、完全な金属器文明である青銅器時代を迎えることとなった。ただし、石器時代の終焉は地域によって時期が非常に異なり、なかには紀元後に入っても石器時代のままであった文明も存在した。こうした文明のうちでもっとも代表的なものはメソアメリカ文明インカ帝国といった新大陸の諸文明であり、国家を形成し文明と呼ぶに足る高度な文化を築き上げていたにもかかわらず、冶金技術は非常に遅れており、銅や金などを装飾品として使用する金石併用時代から進歩することのないまま16世紀初頭にスペインの侵略を受け、滅亡することとなった。
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 旧石器時代(きゅうせっきじだい、英語: Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。旧石器時代の語源はギリシャ語で παλαιός (palaios, 古い)+ λίθος (lithos, 石)である。
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 日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6500年前と考えられている。無土器時代、先土器時代、岩宿時代ともいう。
 終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。
 日本列島での人類の足跡も12万年前(島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡)に遡る。この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。
 地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。ヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する。
 日本列島の形成
 日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ1500万年前で、現在のテクトニクスは約300万年前にほぼ出来上がった。更新世氷期間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
 しかしながら、従来の学説では氷期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきた[2]とされてきたが、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道されている。しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため少数の意見である。
 一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
 また、4万年〜3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、すでに日本では独自の文化が形成されていたことがうかがえる。
 石器
 前・中期旧石器の発掘
 相沢忠洋の像。日本の旧石器時代の存在証明に貢献した。
 日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石器が、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。
 日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(群馬県新田郡笠懸村、現・同県みどり市笠懸町阿左美地内)で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
 後期旧石器の特徴
 後期旧石器時代の石器群を概観する。日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続いた。遺跡は樺太から沖縄まで約10,000ヵ所以上が確認されている。これらの遺跡で出土する遺物のほとんどは石器であり、遺構は礫群以外が出土することは極めてまれである(他に陥し穴などがある)。石器ばかりが発見されるのは有機質の材料で作られた道具が土中で分解されて残りにくいためであり、遺構についてもその可能性が高い[要出典]。ただし遺構はおそらく大変簡素な作りだったと推測されている。

 土器の出現
 詳細は「土器」を参照
 日本で最初の土器がどのようにして出現したのかははっきり分かっていない。しかし世界でも最古級(約1万6500年前)の土器が青森県の大平山元I遺跡から出土していることから日本で出現した可能性が高い。旧石器時代の終末に、長崎県で豆粒文土器(佐世保市泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現している。一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出現期の土器の役割はまだ十分解明されていない。

 木の文化
 石器時代の文化といえば、石器を思い浮かべるが、日本列島の豊かな森林資源を忘れてはならない。これまでに、板状の木製品と木の柱を使った住居跡が見つかっている。

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☵15〕─6・B─歴史歪曲防止法。戦犯旗である旭日旗の使用で懲役10年。~No.115 

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 2021年5月17日 産経新聞旭日旗使えば懲役最大10年 韓国で法案提出 保守派や学者に反発も
 4月24日、ソウルの日本大使館前で行われた抗議デモで、旭日旗を模した旗を破る女性(AP)
 【ソウル=桜井紀雄】韓国の与党「共に民主党」の議員が、旭日旗を使ったり日本統治からの独立運動に関する史実を“歪曲(わいきょく)”したりする行為を禁じる「歴史歪曲防止法」制定案を国会に提出し、議論を呼んでいる。旭日旗を使ったりすれば、10年以下の懲役または2億ウォン(約1930万円)以下の罰金を科す案だが、「表現の自由の侵害」との反対意見も出ている。
 法案は与党幹部の金容民(キム・ヨンミン)議員が14日に提出したもので、1919年の三・一運動などの独立運動に関する歪曲のほか、「日本帝国主義」の称揚や、それを象徴するとして旭日旗の使用まで禁止の対象にしている。歪曲かどうかは歴史学者や弁護士らで構成する審理委員会が判断するという。
 金氏は「抗日独立運動という崇高な価値を嘘で傷つけ、侮辱する行為が頻発し、国民的な憤りが高まっている」と主張している。
 左派系の文政権と与党は、自分たちのイデオロギーに合わない歴史的な主張を法律で取り締まろうとする動きを強めてきた。80年の南西部、光州(クァンジュ)での民主化運動を当時の軍事政権が鎮圧した光州事件について否定、誹謗(ひぼう)、歪曲する行為を罰する改正特別法が昨年末に可決、成立している。
 今回の法案に対し保守系最大野党「国民の力」は「表現の自由の侵害」で軍事政権時代の取締法を連想すると批判。歴史学者らも「(韓国では)政権によって史実は変わるもので、国会で歴史を議論すべきでない」と反対している。」
   ・   ・   ・   
 日本にとって韓国は、心許せる友・友人ではなく、頼れる親友ではなく、共に戦い苦楽を分かち合える戦友でもなく、安心できる知人でもない。
   ・   ・   ・   
 韓国は、反日派で未来永劫変わる事はなく、知日派は存在せず、親日派売国奴として弾圧の対象であった。
   ・   ・   ・   
 韓国は、旭日旗を掲げる自衛隊の韓国領内への立ち入りを拒絶している。
   ・   ・   ・   
 韓国軍にとっての本当の敵は、北朝鮮軍や中国軍ではなく日本の自衛隊であった。
   ・   ・   ・   
 5月20日 MicrosoftNews FNNプライムオンライン「旭日旗使用で懲役10年? 韓国「反日公安統治」の悪夢
 © FNNプライムオンライン 法案を提出したキム・ヨンミン議員について、韓国メディアは文大統領のシンパを指す「ムンパ」の議員だと指摘している。
 かつて軍事独裁政権が支配していた韓国では、政府が「パルゲンイ(=赤い奴、共産主義者)」のレッテルを利用し言論を封殺してきた。1987年の民主化で韓国社会は言論の自由を得たが、今再び言論封殺の影が忍び寄っている。
 軍事独裁下で弾圧の対象とされた「共産主義者」に代わる新たなレッテルは「親日派」だ。保守系知識人からは「反日公安統治が進みつつある」との警鐘が鳴らされている。韓国の民主主義は後退するのか?
 「親日」を理由に自国民告訴を正当化した大統領
 4月29日、韓国メディアは文在寅大統領が韓国国民を侮辱罪で告訴していたと報じた。告訴されたのは2019年、ソウル市内で文大統領を批判するビラをまいた34歳の韓国人男性だ。警察は4月28日、この男性を「侮辱罪で起訴すべき」との意見を付けて送検した。
 男性がまいたビラには、文大統領やその側近たちの親などが親日だったという内容が書かれ、裏面には「北朝鮮の犬、韓国大統領文在寅の真っ赤な正体」という日本の週刊誌の記事が印刷されていた。
 侮辱罪は被害者が告訴することで初めて罰する事が出来る親告罪だ。つまり、大統領本人かその代理人刑事告訴していた事が分かったのだ。大統領が、自分を批判した自国民を刑事告訴していたという事態に、韓国メディアからは「独裁国家のようだ」との批判が上がった。
 これに対し大統領府は「大統領個人に対する嫌悪と嘲弄が問題ではなく、日本の極右週刊誌の報道を無差別的に引用するなど国の品格と国民の名誉、南北関係など国家の未来に及ぼす害悪を考慮して対応をした」との声明を発表。大統領の指示を受けて告訴を取り下げた。
 文大統領が告訴した男性がまいたビラ。文大統領らを「親日派の子孫」と書いている© FNNプライムオンライン 文大統領が告訴した男性がまいたビラ。文大統領らを「親日派の子孫」と書いている
 注目すべきは、「日本の極右週刊誌の報道」を引用した事を殊更取り上げ、大統領が国民を告訴したことを正当化している点だ。
 大統領府はさらに「今後明らかな虚偽事実を流布して政府への信頼を意図的に毀損し、外交的問題に飛び火する恐れのある行為は、少なくとも事実関係を正すという趣旨で、個々の事案に応じて慎重に判断して決定する」とも述べ、さらなる告訴もあり得るとの「警告」まで発したのだ。
 「反日公安統治」の到来か
 この大統領府の声明について、保守系雑誌「新東亜」は、1983年生まれの哲学者であるノ・ジョンテ経済社会研究院専門委員による痛烈な批判を掲載した。ノ委員は「この事件は1987年の民主化以降、私たちの民主主義と憲政秩序が直面した、最も重大で深刻な威嚇の一つだ。大統領を頂点とする国家権力が、市民の表現の自由を侵害した」「大統領府の声明は『反日公安統治』の到来を予感させる」と批判した。
 その上で、脱北者による北朝鮮へのビラ散布を禁じた法律を引き合いに出し、「金正恩の気分が悪くなりそうな話や行為をすれば、韓国政府が韓国国民の口を塞ぐ」とも述べ、大統領への批判だけでなく、北朝鮮への批判も封じ込めようとしていると指摘している。
 このような文大統領や韓国政府の姿勢について、「自国民の口を塞ぐ正当性を確保するために大統領府が率先して日本の極右報道を云々している」「『君はパルゲンイだろう?』と言って口を塞ぐ時代が終わり、これからは『君は日本極右だ』と告訴状を出す時代が近づいている」と警鐘を鳴らした。
 旭日旗使用で懲役10年?
 「反日公安統治」を危惧させる動きは国会にも広がっている。文在寅政権を支える与党「共に民主党」のキム・ヨンミン議員ら国会議員12人は5月14日、「歴史歪曲防止法案」を発議した。その趣旨は「日本帝国主義を称賛したり、関連する歴史歪曲行為を処罰できる法的根拠を整える」というものだ。
 具体的には「3・1独立運動、4・19民主化運動(1960年の民主化運動)、日本帝国主義支配または、日帝統治下の暴力・虐殺・人権蹂躪および独立運動関連事実の歪曲および同調行為、日帝支配または、日帝の暴力・虐殺・人権蹂躪に対する称揚・鼓舞・扇動行為などを禁止」し、「日本帝国主義称揚・鼓舞・宣伝を目的とする日帝象徴物(軍旗・造形物)の使用も禁止」するという。
 平たく言えば、日本統治時代をポジティブに評価することを全面的に禁止し、自衛隊旗として使用されている旭日旗も処罰の対象にするというものだ。可決されたら、日本統治時代に関する研究や報道が萎縮するのは目に見えている。さらに我々日本メディアの韓国特派員が、「日本統治時代に朝鮮半島の人口は大幅に増加した」などのデータで立証された客観的な事実を報じたとしても、「日帝支配を称揚している」と判断されれば罰せられ得るのだ。
 違反かどうかを判断するのは、大学教授や判事によって新設される「真実の歴史のための審理委員会」なる組織だ。韓国メディアによると罰則は10年以下の懲役や2億ウォン(日本円でおよそ2000万円)以下の罰金となっており、非常に重い。
 日本統治時代については、その評価を巡り韓国内にも様々な意見が存在し、議論が続いている。この法案はそうした議論や学術的な研究を権力によって封殺するものだ。
 保守系中央日報からは「共産党が歴史解釈を独占する中国を真似ようというのか」との批判が出ている。また与党はこれまで、「積弊精算」の名の下に「親日」レッテルを使って野党を攻撃してきた。「真実の歴史のための審理委員会」の人選次第では、政府に対立する勢力を駆逐するために悪用される恐れもあるだろう。
 ダブルスタンダード
 この法案を代表して発議したキム・ヨンミン議員ら与党系議員15人は2020年11月、国家保安法の条文から「反国家団体の称揚・鼓舞罪」を削除するという改正案を国会に提出している。国家保安法とは、北朝鮮の脅威に対抗するために、北朝鮮を支持する人物や団体を取り締まるための法律だ。
 この法律には「国家の存立及び安全や自由民主主義の基本秩序に危険を及ぼすと知りつつ、反国家団体やその構成員、又はその指令を受けた者の活動を賛美・鼓舞・宣伝・同調したり、国家変乱を宣伝扇動した者は、7年以下の懲役に処する」との条文がある。キム議員らはこの条文の削除を求めた。
 その理由は「称揚・鼓舞の判断基準が主観的であり、法執行者の政治的指向や価値観、時代的な変化などにより解釈と適用が変わる危険性がある」というものだ。これだけなら、至極真っ当な主張に聞こえる。
 しかし、ここで先の「歴史歪曲防止法案」を思い出して欲しい。この法案にも、国家保安法と同様「称揚・鼓舞したものは罰する」という条文がある。北朝鮮に対抗するための国家保安法では「判断が主観的に行われる危険性がある」から条文削除を求め、反日的な歴史歪曲防止法案では「称揚・鼓舞したものは罰する」という。典型的なダブルスタンダードだ。
 いくら「審理委員会」なる組織を作っても、「日本統治は悪」との価値観を持ち、与党を支持する委員だけを入れてしまえば、判断は全て異論を許さない「主観的」なものになるだろう。北朝鮮に融和的で、日本に対しては厳しい姿勢を見せてきた文在寅政権と軌を一にしている。
 日本は関係無いのに・・・
 日本とは直接関係無いなかで、韓国内の都合で勝手に「日本」が政争に利用されるのは気持ちの良いものではない。こうした動きが韓国国民の反日感情を不必要に高める事もあり得る。法案が可決するのかは国会の審議次第だが、こうしたダブルスタンダードも、こと日本に関しては許容されかねない危うさが韓国にはある。ノ委員が警鐘を鳴らした「反日公安統治」は、決して大げさな話しではないだろう。」
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🌋11〕─3─弥生時代の人口増加と水田稲作農業などの食糧事情。~ No.38No.39No.40 

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 弥生時代の総人口は約60万人。
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 第1章 弥生時代の年代
 弥生時代のはじまりは紀元前5世紀頃、終わりは紀元3世紀頃(この間約700年)というのが、これまでの通説です。近年、自然科学的な年代測定法により弥生時代の始まりは、それまでの説より約500年早い「紀元前10世紀頃」という説も出てきています。
 1.弥生時代の始まりと終わり
 弥生時代の終わりを表す指標 巨大な墳丘墓をもつ王
 弥生時代の始まりを表す要素が水田稲作農業の開始と金属器の登場なら、弥生時代の終わりを表す要素は、巨大な墳丘を持つ王の墓です。
 弥生時代の後期後半になると、中国地方、北陸地方四国地方、東海地方など日本列島各地で大型の墳丘墓が現れます。 墳丘墓は吉野ヶ里遺跡で既に中期前半に築造されていますが、その後徐々に各地で築造されるようになります。 これは、日本列島各地で地域を統括する首長が台頭してきた表れと見ることができます。 弥生時代後期末頃には、近畿地方や東海地方、中国地方や北陸地方の土器が日本各地で出土し、広範な交流が行われたことを窺わせます。 1~3世紀(弥生時代の後半)には、中国の歴史書に記述されているように、邪馬台国など日本列島内の主要な勢力が中国と独自のルートで交流を始めていました。 こうした一連の動きは、列島内の各地に首長を中心とする地域的なまとまりが現れ、クニやクニの連合を形成していったことを示していると考えられます。 しかし、弥生時代末期の段階ではまだ地方色を備えたものでした。次の段階になると、多くの地域で環壕を持った集落が一挙に消滅するようになります。 この後、奈良盆地南部に巨大な前方後円墳が出現し、さらに列島各地に前方後円墳が築造されるようになります。
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 歴史のQ&A
 弥生人米食人?
 質問
 弥生時代になると稲作が広まると書いてありましたが,米が主食になった社会と考えてよいでしょうか?
 解答
 結論から言いますと,弥生人米食人というのは間違いです。
 遺跡から出てくる穀物の中でも,66%はイネですが,ムギ・ヒエ・アワ・キビ・ソバなど多様な穀物が一緒に出てきます。また,植物食という範囲で見ると,ドングリ類がだんぜん多く,二番がイネ,ついでモモ,マメ,ヒョウタン,クルミ,クリ,ムギと続きます。
 吉野ヶ里遺跡でも,食糧をささえるもののうち,コメはわずか20%程度といわれます。寺沢薫ほか「日本の歴史3」講談社に,そのことがくわしくのべられています。
 さらに,福岡県横隈遺跡や奈良県唐古遺跡から推定される稲の収穫量は,「1反あたり60kg。現代では1反あたり400kg」。現代から見れば1/6以下の生産性であったと考えられています。
 縄文時代弥生時代の人口の変化については,縄文時代は早期・前期・中期・後期・晩期の五つの時期に区切った人口推計と弥生前期とをあわせて示したグラフがありますが,このグラフは,一つは,温暖な縄文中期に人口増加が目立つことを表しています。二つは,縄文時代の晩期になると,人口の減少がいちじるしくなります。社会が行き詰まった状態を思わせます。三つは,一転して弥生時代になって人口の急増することを表しています。 不安定な食生活に比べて,食糧の中心にはならないが,保存性のある再生産率の高い稲作の成果を無視することはできません。
 また渡来してくる人々の数も,私たちが想像以上に多かったと推計されています。
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 日本に移り住んだ弥生系渡来人は、大陸や半島で政争や戦争に負けて逃げてきた弱者や敗者で、未開の縄文人達に伝えたのは国家運営の「政治」、水田稲作の「経済」、人を殺す「戦争」、国と国との「外交」などなどであった。
 日本全国に邪馬台国などの小国が乱立し、小国家間での戦争(弥生の大乱)を繰り返して、地域王国に成長していった。
 そうして成立したのが、ヤマト王権、出雲王国、吉備王国、丹波王国、越王国、筑紫王国、東海王国、毛野王国、総王国、隼人王国、その他、などの地域王国であった。
 大陸帝国(中国)や半島王国(朝鮮)の侵略から日本列島を守る為には、日本を武力で統一する必要があった。
 マルクス主義史観は、ヤマト王権天皇)の日本統一を侵略による犯罪として否定している。
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 弥生時代の人口増加は、半島や大陸から大量の渡来人が渡ってきたからではなく、国内での稲増産による食糧確保であった。
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 弥生時代水田稲作が本格的に開始され、日本の総人口は約60万人に増加した。 
 地域別では、東北や関東地方では縄文時代における推定値とそれほど差がなかったが、近畿や中国地方では20倍以上、四国や九州では10倍以上に急増した。
 日本の人口分布は、縄文時代は東日本に集中していたが、弥生時代では西日本に人口が急激に増加した。
 西日本に人口が急増した原因は、稲の水田耕作にある。
 日本にもたらされた稲は、揚子江流域で栽培されていた熱帯産の稲であった為に、温暖な西日本に適し、冷涼な東日本には適さなかった。
 その結果、米食を主食とする近畿地方を中心とした西日本で人口増加は急速で、米食以外の畑作物や堅果類の比率が高かった東日本での人口増加は緩やかであった。
 日本民族の人口は、米食文化として、水田稲作における耕地拡大や収量の増加で増えていった。
 古墳時代には、日本全体の人口は約540万人に増えた。
 奈良のヤマト王権は、同盟を結んだ諸王国に前方後円墳と土木・灌漑技術を伝えた。
 派遣された農業指導者は、ヤマト王権の農業奨励政策などで耕地が拡大し米の生産量が増え事によって、諸王国で扶養できる人口数も大幅に増加した。 
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 食文化の変遷と栄養
 巻頭インタビュー
 静岡県立大学学長鬼頭 宏
 構成◉大朏博善 composition by Hiroyoshi Otsuki
 「歴史人口学」からみる
 食と人口の関係
 「食べることは生きること」といわれるように、食べ物と栄養は人類の歴史に大きく影響してきた。たとえば食糧事情と栄養状態が良くなると地球的規模では人口が増加し、それにともない資源問題が顕在化する。しかし一方で、日本など多くの先進国では少子化が問題となっている。人口から歴史を読む「歴史人口学」の第一人者・鬼頭宏静岡県立大学学長に「人口変遷と食資源環境」の関係を聞く。
 これまでの人類史の大半は“どのようにして食べていくかの歴史”でもあったのは、いまやよく知られるようになった事実だと思います。
 これまで人は、自分が生活している環境の中で、生存に必要な食料をどれほど確保できるかによって、自身だけでなく子孫までを養っていけるかどうか決まる、といった時代を過ごしてきました。
 どのような食物を、どのような手段で入手して、どのような方法で調理し、どれほどの量が食べられるか―その食料調達システムと量・栄養の充足度が、歴史上の人口変動に大きく関係してきたことは間違いありません。
 現代では、新興国を中心とする人口増加によって地球人口100億人への到達が予測されています。これを過剰人口とみて、資源の不足や枯渇が問題となっていることから、今でも「食べ物やエネルギーが満たされなければ人口は増加しない」とのメカニズムが働いていると考えられます。
 食が十分でなければ人口は増加しない
 しかしその一方で、先進国のみならず相当数の国々で少子化現象がみられるようになり、生産力が低下して国力の衰退が心配される、という声まで聞かれるようになりました。日本も例外ではなく、1970年代の人口爆発状態から一転し、いまや人口減少が明確となり、行政では少子化対策担当の大臣ポストまで設けられています。
 もちろん、人口の増減を規制する要因は食物量だけではありません。その時々の気象・環境の変化や疫病の大流行など、歴史的にみても多様な条件・現象によって人口が増減してきたのは事実です。
 じつは、歴史人口学の目でみる場合、人口増加の法則として「生物が生きていくためには一定の食糧と空間が必要」とされます。一定量の食糧と空間が与えられている時に、生物個体は増殖する、というわけです。そこで、今回は特に食糧に重点をおいて語ろうと思います。
 さて、ひとことで“十分な食べ物”といっても、それが実現するまでにはさまざまな条件が必要となります。たとえば、食糧需要を一定期間、安定的に満たすとなれば、資源となる動植物の確保のために、農地、肥料や家畜用の飼料、そして灌漑用の水がなければ十分な食物を継続して得ることができません。特に燃料は、調理や冶金用のエネルギー源として欠かすことができないものです。
 つまり、私たちがモノを食べていくためには“食事システム”とでも呼べるような条件や環境が必要で、その構成内容は当然ですが、国や地域、生活環境などによって異なってきます。文化人類学民族学の代表的研究者である石毛直道さん(国立民族学博物館・元館長)がよくいわれるように、食習慣はそれぞれの地域の特性に基づいて決まる「食文化」と呼ぶべきものなのです。
 では、私の専門分野である歴史人口学においては、食文化と人口変動の間にはどのような関係があるのか。日本の歴史の中でみていくことにしましょう。日本列島に人が住みついたのは10万~ 3万年以上前の更新世の頃であったとされますが、ここでの対象は縄文人が暮らしていた約1万年前からの話となります。
 縄文時代から21世紀に至る日本の人口推移を、何人かの研究者による推計に基づいてまとめてみると、過去1万年の間に“増加と停滞を繰り返す波”が4回あったことが分かりました。第1は「縄文時代における人口循環」、第2は「弥生時代に始まる波」、第3は「14・15世紀に始まる波」、そして最後の第4の波となるのは「19世紀に始まり現在にまで至る循環」です。
 この経過をみていくうえで問題となるのは、人口変動を繰り返してきた4つの波は、何が原因となって起きたのか、そして、それらは同じ原因なのか、それとも異なるのか、といった点です。人口増加の要因と停滞・減少へと向かう要因は、いったいどのような関係にあるのでしょうか。
 まず第1の波である「縄文時代における人口循環」の具体的内容から―。
 縄文時代の食文化は自然依存型
 氷河時代だった更新世が終わって気候が温暖化するとともに、日本列島には土器を持った縄文人が登場しました。紀元前3世紀頃まで続く縄文文化の時代に、日本列島の人口はいったいどれくらいあったのか。確かな数は分かりませんが、縄文時代に詳しい文化人類
学者の小山修三さん(国立民族学博物館名誉教授)の研究によると、縄文中期には約26万人だったとされます(北海道・沖縄を除く)。
 当時は圧倒的多数の人口が東日本に分布していて、西日本の人口密度は縄文時代を通じて低かったと考えられています。そして、この頃の人々は、必要とする大半の食料を採集・狩猟・漁撈活動によって、つまり大自然から“もぎ取る”ようにして利用していました。このような生活様式では、自然の意のままに日常生活が動かされていたことでしょう。
 1万年前から徐々に平均気温が上昇を続けて、縄文時代中期にあたる約6000年前に最も気温が上昇することになります。現在よりおよそ1度高く、4000年間では約3度の気温上昇となるもので、たとえば4000年の間に新潟市から高知市近辺の気候に変化したことになるのです。
 その結果、クリやコナラといった木の実の生産力が大きい暖温帯落葉広葉樹系が北上。東日本では河川を遡上するサケの利用とともに、狩猟採集民の食の要求に応える形で高い人口密度を支えることになりました。ちなみに、青森市にある縄文時代の遺跡「三内丸山遺跡」はその名残の1つです。
 しかし、4500年前から気候は再び寒冷化を始め、2500年前には温暖期に比べて約3度も低下します。寒冷下の植生に対する影響は、高い人口密度を支えていた東日本に強く働いたようで、食料減少と栄養不良による人口減少が起きました。食糧事情の悪化は栄養不良に繫がり、疫病の大流行を呼ぶことで人口崩壊の規模を広げた可能性も十分考えられます。
 日本の人口支持力が著しく上昇
 次いで紀元前3世紀頃、九州北部に新しい文化が起こって、それが各地に広まるにつれて、日本人の生活史のうえに極めて大きな転換が引き起こされました。これが第2の“増加・停滞の波”となった「弥生時代に始まる波」です。
 この時代の特徴はなんといっても、稲作農耕が日本列島の主な生業として成立して、コメが支配的な食文化になったことです。大陸から渡来した人々によってもたらされた稲作技術は、紀元前100年頃までに西日本一帯を覆い、1世紀から3世紀には北海道を除く日本列島の全域に広がっていきました。こうした稲作技術の習得による農耕化は、人類が経験した“第1のエネルギー革命”となって、日本列島の人口支持力は著しく上昇することになります。
 同時に、弥生時代の農耕に依存する生活型への変化は、縄文時代に比べて“人口規模を決定するメカニズム”をより複雑にしました。
 縄文時代には、人口規模はほとんど環境によって決定されていました。それに対して弥生時代に始まった農耕社会では、生きるために必要な物資は、人間が与えられた環境の下で自ら生産するものとなりました。つまり、人口と自然環境との間に人の能力・学習に基づく“農耕地と技術・知識”が介入するようになったことで、気象変動がほぼ直接的に人口を規制する、といった状況ではなくなったわけです。
 しかも、この人口増加は食糧需要のリスクではなく“働き手の増加”として働きました。労働力が増えたことからより広い土地を開墾することが可能となり、食糧増産に繫がる可能性を広げたのです。人口圧力の高まりは、一人当たりの可食物資を減少させたわけではなく、技術開発を促すことによって食料資源を増加させる可能性を持ったわけです。
 こうして、人口の増加は食料生産量の増加を呼び、食料の増産は人口の増加に繫がるという相互刺激となって、日本列島の人口は増加しました。弥生時代
人口が59万人ともいわれていますが、8世紀の奈良時代から鎌倉時代にかけて10倍以上の600万人から700万人くらいまでに増加することになったのです。
 そうはいっても、農耕社会化は際限のない人口成長を保証したわけではありません。一定の技術水準の下では、農地として利用可能な土地の広さには限界があります。どこかの時点で生産拡大に行き詰まりがくるはずで、実際、8世紀を過ぎると成長率が落ち、10世紀以降は停滞期となって、人口の第2の循環は終息に向かいます。
 では、何が“食料生産の拡大と人口増加”を妨げたのか、いくつかの原因を挙げることができます。
 まず、当時の技術体系で可能な耕地拡大と生産性向上が、それ以上に望めなくなった。つまり、耕地として開拓可能な土地が人口の多い先進地ではほとんどなくなった、と考えられます。また、こうした生産停滞の要因としては、気候の悪化も考慮に入れるべきでしょう。10世紀を過ぎて11世紀から12世紀になると温暖化がピークとなって大気の乾燥化が起き、特に12世紀に入ると農地が干上がる旱魃が頻繁に起きています。
 これに加えて、異常気象による伝染病の蔓延もみられました。実際、鎌倉時代に書かれた有名な随筆『方丈記』の中で筆者の鴨長明は、大飢饉によって京の町では疫病が猛威を振るい、屍が道を埋めるという悲惨な状況を描いています。
 そして、この12世紀の末期に旱魃の打撃で人口増加が少なかった西日本を本拠とする平家が倒れ、人口増加があった東国で源氏が鎌倉政権を打ち立てたという事実があります。こうした社会現象も、自然史との脈絡で考えると大変興味ある歴史となるのです。
 爆発的に人口が増加した第3の波
 そして第3の波は「14・15世紀に始まった(と推測される)波」で、その後の400 ~ 500年を支配する形で18世紀まで継続しました。

 歴史人口学からみると避けられない現象
 改めて考えてみれば、歴史的に1900年代までは、食べ物があると人口が増え、人口が増えると経済・産業活動が盛んになる、という基本的なメカニズムが働いたのは事実です。そして、ある生活様式の下で人口が一定数に達すると、それ以上は増えなくなるという現象が起きます。
 そして人口減少が予想されるようになると、“生活を支える仕組み”に関する概念の変化が起きて、ライフスタイルが変化。社会システムが変わっていく中で、次なる仕組みが準備される―こうした時間の流れの結果として作られるのが「増加・停滞を繰り返す波」なのです。つまり、この波の発生は、歴史人口学の視点からは避けられない現象なのです。
 では、現状の問題をどうすればよいかとなると、何よりまず「人口減少は社会的リスク」だと問題視する発想を変えることです。歴史人口学の視点からいえば、「増加を続けた人口は、いつか必ず減退する」、そして「人口の変化は次の社会システムを生み出す」のです。
 ですから私はよく、人口縮小に適応した新たな社会システムを日本が世界に先駆けて構築する、そんな気概を持つべきだとお話ししています。少子化は止める必要があるでしょうが、一時的な少子化現象そのものが問題なのではありません。人口減少にもかかわらず快適な生活が営まれることが予想されれば、出生率は上昇すると期待できるのです。
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 ケツトジャーナル
HOME ケツトジャーナル お米と日本の歴史2〜稲作がもたらした繁忙期と農閑期 | 株式会社ケツト科学研究所
 お米と日本の歴史2〜稲作がもたらした繁忙期と農閑期
 米ラボ
 日本の人口増加
 弥生時代以降における日本の人口増の一因は、稲作の広がりと言われています。弥生時代は、縄文時代に比べ約3倍もの人口増がありました。
 東日本ではさほど増加せず、九州四国中国地方では10〜20倍の増加があったようです。これは、稲作が西日本の気候に適しており、摂取カロリーのうち、米から摂れるカロリーに東西において差があったためという説があります。
 人々は田畑の近くに集落を作り、余剰米は高床式倉庫などに保存できたため暮らしは豊かになりました。同時に、持つ者と持たざる者が現れたこととなり、社会は複雑に形成されていきます。
 お米が貨幣に
 やがて古墳時代になると大和朝廷より国司が全国各地に派遣され、稲の耕作方法に加え灌漑設備の土木技術等を広め、国家権力を背景に水田稲作が広がりました。大阪府の狭山池など、この頃に造成されたため池が現在でも利用されている例が多数あります。同時期に全国の水田を区画整理し、班田収授法により国民に口分田を与えながら米での納税を義務付けるという制度を作りました。
 つまり、米が貨幣となったのです。
 国家に対する米での納税は明治時代で終わりましたが、小作人から地主への米での納税は、なんと太平洋戦争後まで続いていました。
 また、中近世においては、農民は農地に住まわされ、主に米の生産に従事せざるを得なくなりました。稲作には人力を伴う労働力が必要ですので、稲作のスケジュールが生活のリズムそのものになり、農繁期と農閑期が区別されることになります。
 当社においても、稲作のスケジュールは業務上重要です。米の品質管理のための測定器は、いざ使う際に正確に測定できなければなりません。そのため、夏のあいだに全国各地でお米の水分計の点検作業を行なっています。
 夏期に全国各地で開催している、水分計の点検会と説明会の様子
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏は著作「サピエンス全史」にて、「人類が小麦・稲・ジャガイモの栽培により『農業革命』を起こしたというのは錯覚であり、逆に作物が人類を家畜化した結果である」と論じています。つまり、米や麦自身の種の保存のために人類が利用されていると。
 農繁期と農閑期が起こったことに関しても、そういう見方ができると思える一方、はたしてその家畜化は私たちを不幸にしたのか、幸せな何かをもたらしていないのか、美味しいお米を食べながら考えていきたいです。
 ライター:K.Okawa
 参考文献:『稲 品種改良の系譜』菅洋(2005, 法政大学出版局)/『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳(2016, 河出書房新社
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🗾14〕─2─日本民族の祖先は南方系海洋民の縄文人。縄文時代の人口。~No.68 

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 縄文時代の総人口 
 早期は約2万人。
 縄文中期は約26万1千人。
 縄文後期は約16万人。
 縄文晩期は約7万6千人。
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 Science Portal
 ニュース
 縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
 2019.06.25
 縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。
 東京大学大学院理学系研究科の大橋順准教授と大学院生の渡部裕介さんらは、同大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らと共同で、日本人男性345人の男性だけが持つY染色体塩基配列を解析した。Y染色体は父親から息子へ受け継がれるため、変異をもとに系統を調べることができる。
 現在の日本人は縄文人と大陸からの渡来系弥生人の混血と考えられているが、解析の結果、日本人のY染色体は七つの系統に分かれ、縄文人に特有の型を持った系統の男性が122人いることが判明した。このため研究グループはこの122人を対象に共通祖先をさかのぼる遺伝子系図解析を実施。遺伝子の変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。
 縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。
 縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している(提供・東京大学
 関連リンク
 東京大学プレスリリース「現代人のゲノムから過去を知る〜Y染色体の遺伝子系図解析からわかった縄文時代晩期から弥生時代にかけておきた急激な人口減少〜」
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 日本経済新聞
 縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析
 2019年6月18日 11:40
 縄文時代の終わりに人口が急激に減少していたことが現代の日本人男性のDNA解析で分かったと、東京大の大橋順准教授(集団ゲノム学)らのチームが18日までに、英科学誌に発表した。狩猟採集生活の中、寒冷化し食べ物が減ったことが原因で、弥生時代になって稲作が朝鮮半島を経由して伝わり、食料供給が安定すると、人口は急回復したとみている。
 チームは、男性だけが持つY染色体を解析。弥生人の母体となった集団の子孫に当たる現代の韓国人や中国人にない、縄文人特有と思われる型を持った122人について、変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 その結果、彼らの祖先は縄文時代の終盤、急激に数が減少したことが判明した。時代が移り変わっていく3200~2千年前の間に、一時は26万人に達したとされる人口が3分の1にまで減った計算になったという。
 縄文時代は1万5千年ほど前に始まったが、途中で遺跡の数や規模の縮小が起きており、人口が減ったのではないかとする仮説があった。今回はDNA解析から、その説を補強した形だ。
 大橋准教授は「この手法は、縄文人弥生人が混血した日本人同様、混血によって誕生した他の集団の人口変化の類推にも使える」としている。〔共同〕
   ・   ・   ・   
 人口から読む日本の歴史       鬼頭宏著
 人口推移の四つの波
 縄文時代から21世紀に至る日本人口の推移は4つの波があった。第一は縄文時代の人口循環、第二は弥生時代に始まる波、第三は14・15世紀に始まる波、そして最後は19世紀に始まり現代まで続く循環である。
 縄文
 縄文時代の人口は、縄文早期の2万人から縄文中期の最盛期の26万1千人まで順調に増加したが、縄文中期を過ぎると反転し急激に落ち込み、縄文後期は16万人、縄文晩期は7万6千人まで減少した。1万年ほど前、日本列島の年平均気温は現在よりも約2度低かった。しかしその頃から気候は温暖化しはじめ、6千年前には現在より1度以上高くなった。気候温暖化に支えられて、関東・中部の人口は縄文中期までに環境の人口支持限度いっぱいに達していた。そのような状況にあるときに気候の悪化が起きるとまず動物相に影響があらわれる。そして生産力の低下にもかかわらずいっそう環境から多くのものを引き出そうとするから、環境の悪化ないし破壊を加速してしまう。その結果として一人あたり食料消費量は減少し、栄養不良の状態が拡がることになる。同時に、縄文時代後半には大陸から新しい文化をもった人々が渡ってきていたが、縄文人にとっては免疫のない新しい病気ももたらされたと考えられる。
 水稲農耕化
 紀元前3世紀ころ九州北部に稲作農耕の受容により弥生文化がおこり、紀元前100年頃までには西日本一帯をおおい、1世紀には東北南部、そして3世紀には北海道を除く日本列島のほぼ全域に拡がり、日本の人口は急速に増加しはじめた。この人口成長は千年ほども続いたのち、8世紀を過ぎるころから成長を鈍化させて、11世紀以後になると人口循環を一巡させた。稲作の導入は二つの面から人口を増加させた。一つは稲作の高生産力が日本列島の人口支持力を著しく上昇させたこと、そしてもう一つは水田耕作が多くの労働力投入を必要としたことである。
 弥生時代以降の人口増加には、縄文時代から日本列島にすみついていた人々の自然増加によるだけでなく、海外からの移住にささえられた増加もあった。そもそも稲をもたらした人々は、渡来人であった。シミュレーションの結果、弥生時代初期から奈良時代初期までの千年間に150万人程度の渡来があり、奈良時代初期の人口は血統からみて、北アジア系渡来系が八割あるいはそれ以上、もっと古い時代に日本列島にやってきて土着化していた縄文系(原日本人)が二割またはそれ以下の比率で混血した可能性が高いという。
 水稲農耕化社会の成長の限界
○当時の技術体系のもとで可能な耕地拡大と土地生産性の上昇が望めなくなった。
○12世紀の乾燥化の影響は度重なる旱害となって現れた。その極度が1181年の日照りによる大飢饉であった。
○大陸から日本に人口移動とともに天然痘が浸入し流行した。
○公地・公民制は9世紀には動揺しはじめ、10・11世紀には解体した。代わって出現したのは荘園・公領制であった。土地の私有化は初期には原野の開墾を促す要因となったが、律令制的土地制度の崩壊は、高度な技術と大量の労働力を駆使して大河川流域の平野を開拓し、排水・灌漑施設を維持することを困難にした。
 経済社会化
 江戸前期に連なる人口成長の波は、14・15世紀に始まり、その後四百~五百年を支配して、18世紀まで継続した。それを支えた原動力は経済社会化、すなわち市場経済の展開に求めることができる。室町時代は文明システムの転換にとって重要な時代であった。現代日本人にとって伝統的な文化とみなされているものの多くがこの時代に生まれ、あるいは中国・朝鮮・ヨーロッパ(南蛮)などから取り込まれた。
 世帯規模と世帯構造の大きな変化によってひき起こされた出生率の上昇が人口成長の主要因となっている。世帯規模の縮小は、傍系親族と隷属農民の分離あるいは消滅によって、社会全体の有配偶率を高め、その結果として出生率の上昇に結びつく。いわゆる小農民自立と呼ばれる現象で、人口成長は、隷属農民の労働力に依存する名主経営が解体して、家族労働力を主体とする小農経営へと移行する農業経営組織の変化と結びついていた。
 18世紀になると人口は停滞する。重い年貢賦課や度重なる飢饉によって餓死や堕胎・間引が横行したためと説明されることが多い。しかし、最近では、死亡率はむしろ改善されており、堕胎・間引にしても将来の生活水準の低下を防ぐ目的で、予防的に行われていたとみなされている。
 工業化
 19世紀に始まり現代まで続く工業化の波である。工業化社会を生み出した産業革命の基本的特徴は、文明が依拠するエネルギー源を生物的資源から非生物的資源へと転換したことにあった。石炭、石油、天然ガスといった化石燃料や、原子力、おもに水力発電の形で利用する自然力などの、非生物的エネルギー資源の大規模な使用が、いくつかの側面から未曾有の経済成長と人口成長を可能にした。
○非生物的エネルギー資源の利用は耕地を大幅に食糧生産に振り向けた。薪炭生産のための林野や、役畜飼育のための牧草地・飼料畑を必要としなくなった。
○生物(木)の生育速度に束縛されていたエネルギー供給が、その制約から解放された。いつでも必要なだけのエネルギーを取り出して、人口成長を上回る経済成長を達成することができた。
○工業生産物が農業生産力を高い水準に押し上げた。機械力の導入、農薬・化学肥料の投入はそのもっとも目覚しいものである。
 現代の世界の人口の推移
 現代の人口増加は、発展途上国で大きく、先進国ではゼロ成長に近い。発展途上国における高い出生率は貧しさとむすびつけた説明がなされている。子供が労働力として役立ち、ささやかであっても賃金稼得の担い手になりうる場合や、同族の拡大が成員の生活保障に役立つ場合には、貧困が多産に結びつく。また、発展途上国における高い人口増加率を、人口転換の実現過程における過渡的な現象であるとする見方がある。近代以前の社会では多産ではあったが死亡率も高かったので、人口増加は小さかったとされる。近代化の過程で医薬や医療が進歩し、水道や病院などの社会資本が整備されることによって、死亡率が下がりはじめる。ところが社会的な慣習となっている出生行動は急には変わらない。高い出生率が維持されたままに、死亡率の低下が進展する。この多産少死が、近代人口成長の局面を生み出すのである。しかしやがて出生率も低下に向かい、やがて少産少死が実現して、人口増加はゼロ成長に近づいて安定する。
 20世紀の先進国が経験したのは、死亡率の低下に遅れて、あるいは平行して出生率の低下が起きたことであった。まず晩婚化である。とくに女性の教育水準の上昇と家庭外での就職が増えることによって結婚年齢が上昇した。しかし出生率低下のおもな要因は、むしろ有配偶出生率、すなわち夫婦間の意図的な出生抑制であった。子供をもつことの価値が減退したのに対して、子供をもつことに財政的にも、心理的にも負担が増大しているのである。
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 NATIONAL GEOGRAPHIC
 TOP > Webナショジオ 第2回 鬼頭宏(歴史人口学者) その2 縄文時代、26万人でピークに世界人口から考える、日本の未来
 第2回 日本が乗り越えてきた4つの人口の波
 歴史人口学者 鬼頭宏
 世界の流れと逆に、急激な人口減少期を迎えた日本の未来を考える本企画。第2回は日本の人口の変遷に詳しい上智大学教授の歴史人口学者、鬼頭宏氏に話を聞いた。日本人は過去の人口減少をどう克服して1億2800万人の現代日本を作り上げてきたのか。歴史をたどり、日本の人口の今と未来を探る(インタビュー、文=福光恵)
 その2 縄文時代、26万人でピークに
 日本列島が、初めての大きな人口減少期を迎えた縄文期は、こんな時代だった。
 「紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられています」
 住居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高かったといわれる。ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少する。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だった。
 原因は、気候変動で気温が下がり、食料供給量が激減したこと。クルミ、ナラ、トチの実……貴重な食料であったナッツ類が気温低下の影響を受けて激減してしまう。そして食料の供給量に合わせるように、人口はみるみる減っていった。
 「この時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が、一瞬、大きく人口を減らしたこともあった。ただしこれは、地域的なものであって、列島全体の人口減少という波には結びつかなかった」
 26万人といえば、東京ならほぼ墨田区の人口となる。これが日本列島全土を使って生活していたと考えると、かなりの余裕の人口密度と考えがちだが、
 「当時の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったんです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった」
 パンパンに膨らませた風船が一瞬で割れるように、大きく人口は減り、人口曲線はひとつめのピークを描き始める。
 26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減し、まもなく迎えた弥生時代。再び人口は増加に転じる。海の向こうから持ち込まれた稲作の技術が、全国に拡大。食料供給量がアップして、それに合わせるかのように、またたく間に人口を押し上げたのだ。
 そんな「正のスパイラルによって」、紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人まで伸びていく。
 この縄文後期の人口減少期から、弥生時代の人口増加期にかけての人口カーブは、日本列島の人口変動に共通する黄金パターンと言うことができる。その後も、日本列島の人口の増加のポイントには、多くの場合、海外から持ち込まれた技術革新があったからだ。新しい技術や社会制度などが持ち込まれるたびに、文明システムが転換し、人口は増えていった。
 一方、そうした新しい技術が定着し、発展の余地がなくなると、人口は横ばいに転じるのが常。そこに気候変動などが起こると、一転、人口が減少していく。これが、日本の人口変動のひとつのパターンとなっている。
 稲作技術をきっかけに始まったこの人口増加も、その後奈良時代には500万人と順調に伸びていったが、平安時代の700万人をピークに再び減少期に入っていく。
 この減少の原因となったのは、社会システムの変動。 「それまで、ひとりひとりが朝廷に租庸調を収めることで経済が回っていた中央集権国家が、平安時代に入ると次第に形骸化していきます。と同時に、耕地の開発にブレーキがかかっていきました」
 中央集権の仕組みがゆるんで、国家が弱体化。農地開発にまで手が回らなくなったためとも言われる。
 「実際には、開発できる土地の余地は、まだこのときはたくさんあったと思います。ところがその開発が次第におこなわれなくなってしまう。そうして荘園領主は開発よりも寄進によって荘園を拡大するようになり、国からも国民からも、意欲が失われていった」
 そこへきて、平安時代には再び気候変動が起こる。今度は、温暖化だ。この温暖化によって、西日本はとくに乾燥が進み、水田などの水の確保が不安定になっていったという。弱体化した国家では、新たな農地灌漑をおこなう余裕もない。こんなふうにして、日本全体が、末法思想の広がりにみられるように未来に失望する停滞ムードに包まれ、人口停滞を招いていった。
 「この時代は、気候変動による飢饉や天然痘の大流行などの記録も残っています。ただし、本格的な人口減少を招いたのは、意外に、このような人の心理も大きかった。未来に希望を持てないという、心理的なブレーキと気候変動などの外的要因がセットになって、人口減少期に入る例は、このあとの時代も不思議と多いですね」
 こうして人口は、平安中期にブレーキがかかったまま、鎌倉、室町時代を迎える。これが日本の人口曲線の2つめの山となった。
 「第2回 鬼頭宏(歴史人口学者)」最新記事バックナンバー一覧へ
 その5 出生率増加に足りないものは?
 その4 開国で訪れた第4の巨大な波
 その3 “貨幣”が人口を増やした
 その2 縄文時代、26万人でピークに
 その1 日本に最適の人口は何人?
 鬼頭宏(きとう ひろし)
 1947年生まれ。上智大学経済学部教授。専攻は日本経済史、歴史人口学。「宗門人別改帳」などの史料をもとに、縄文時代から江戸時代までの人口推移をあらためて明らかにした。著書に「人口から読む日本の歴史」「文明としての江戸システム」(ともに講談社学術文庫)、4月には「2100年、人口3分の1の日本」(メディアファクトリー)も刊行。
 福光 恵(ふくみつ めぐみ)
 1960年東京都生まれ。美術業界で働いたのち、フリーライターに。日経新聞プラス1「コトバの鏡」、アスキードットPC「自腹で大人買い」などの連載あり。・・・
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 R RADIANT 
 立命館大学研究活動報 STORY #7
 縄文時代から現代の人口問題を見つめ直す
 中村 大
 立命館グローバル・イノベーション研究機構 助教
 縄文時代の人口を推計する
 新しい計算法を開発。
 日本列島の人類史のなかで、約15000から2500年前までを縄文時代という。採集・漁労・狩猟のほか栽培も行うなど多角的な生業経済を基盤とし、多様な地域文化が育まれていた。統計解析などの定量的な分析手法を用いた考古学・歴史学研究を専門とする中村大は「最近は火炎土器や土偶など造形の魅力で話題になることが多いですが、小規模社会システムの研究対象としても縄文時代は興味深いものです」と語る。
 「自然環境や社会環境に適応しながら生きているという点では現代社会と縄文時代にも共通するところがあります」と中村。とりわけ中村が過去の人間の営みや社会環境を知る上で最も重要な指標の一つとして注目するのが「人口」である。「人間集団の規模つまり人口の増減は、生存に必要な経済システムに影響を与えます。また、社会システムにおける組織のあり方や成員間の関係性に変化をもたらし、人びとに心理的な影響をおよぼします。それが、社会意識や価値観を変化させる『ゆらぎ』となるのです」と中村。こうして人口研究の重要性に気付き、約40年間ぶりとなる縄文時代の人口推計の更新にとりかかった。そのために開発した新しい手法は、学術界で注目を集めている。
 人口を明らかにする最も確かな方法は、人数を数えることだ。「しかしこれが可能なのは全国人口調査が始まった18世紀前半以降です。奈良時代の戸籍は残念ながら断片的にしか残っていません」と中村。それ以前の人口を知るには人数と関連するデータを使って推測する間接的な推計しかない。例えば、総田地面積と単位面積当たりの収量で養える人数から人口を推計する方法は歴史人口学でよく使われる。中村はこうした方法を「乗算法」と名付け、縄文時代の人口推計に応用しようと考えた。
 縄文時代の人口に関係ある有力なデータは、竪穴建物(住居)数である。もし縄文時代の総住居数がわかれば、それに1軒当たりの居住者数を掛けることで人口を導き出せる。「しかし問題は、これまでに発見された竪穴建物跡が当時の建物のすべてではないことです」。そこでまず中村は、現在発見されている縄文期の竪穴建物数が当時の総建物数の何%にあたるかを推計する方法を考え出した。
 目を付けたのは、同時代の文献資料と竪穴建物の考古資料の両方が揃う東北地方だ。「『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という古文書に記された田地面積にもとづく人口推計の先行研究から、10世紀前半の青森県と岩手・秋田県両県の北部にまたがる北辺地域の人口を約32万人と推定します。一方、同時期の建物跡の発見数はおよそ4,800軒。1軒の居住者を4人とすると、当時北辺地域には約8万の竪穴建物があったと推計できます」。これらの数字から現在の竪穴建物跡の発見率を導き出せる。さらに発見率の逆数に対象地域で発見された竪穴建物跡数、および1軒当たりの居住人数を掛ければ、地域人口を推計できることになる[式A]。
 加えて「もう一つ考慮すべきなのが『時間』です」と続けた中村。竪穴建物跡数の推移には出土した土器の型式とその放射性炭素年代を用いる。土器は一定速度で変化するわけではないため、縄文前期から晩期(約7000から2500年前)までの各型式の時間幅は80年~350年もの幅がある。中村はこれを25年幅に換算し直し、推定人口値を計算。この計算法をもとに青森県八戸市域や秋田県北秋田市域の縄文時代の土器型式別人口を推計した[式B]。
 次いで中村は、人口の推移と地域の考古資料の関連性を調べ、興味深い指摘を行っている。その一つが約4000年前の縄文後期に東北北部に出現した環状列石と人口との関連だ。環状列石は数千個の石を直径30~40mの円状に並べた巨大なモニュメントで祭祀に使われたと考えられている。中村は環状列石の作られた時期と人口推移を照らし合わせ、人口が増加した時期に多くの環状列石が出現することを見出した。「人口が増加すると食料などが不足し、資源環境が悪化します。加えて人間関係や社会が複雑化し、情緒的な問題も起こりやすくなります。そうした社会環境問題を解決し、成員間のコミュニケーションを円滑にする装置として環状列石の祭祀が生み出されたのではないでしょうか」と中村は分析する。人口集中地域と環状列石の分布がよく一致することもこの仮説を裏付けるという。
 それとともに、せっかく作られた環状列石がなぜ廃棄されたのか、ということにも目を向ける。「約3800年以降は人口が減少し、環状列石は利用されなくなりますが、それに代わり新しいスタイルの土偶祭祀が出現します。人口減少に伴い生じた社会環境の変化に新たな祭祀を生み出すことで対応したと考えられます」と中村。さらに、「現代は個人主義グローバル化のはざまで地域社会など少数システムの存在意義を見失いがちではないかと感じます。そこに縄文時代の小規模社会研究の現代的意義があるのでは」と語る。
 人口の増減に対し、いにしえの人々はどのように適応したのか。近代文明社会は本格的な人口減少期を経験しておらず、過去を紐解くことが現代の人口問題を考える上で重要な手掛かりになると中村は指摘する。過去の文化や社会を理解することで現代を見つめ直す新たな視点を獲得する。それこそが考古学研究の醍醐味だと中村は結んだ。
 中村 大
 Nakamura Oki
 立命館グローバル・イノベーション研究機構 助教
 研究テーマ:縄文時代における人口変動と社会変化に関する定量的研究、近世・近代における地理情報システムを活用した食文化研究、考古学と現代アートの協働による考古学の文化資源化
 専門分野:考古学、食生活学文化財科学・博物館学、統計科学
storage研究者データベース
 2020年3月2日更新
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人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)
[図説]人口で見る日本史
日本二千年の人口史―経済学と歴史人類学から探る生活と行動のダイナミズム (二十一世紀図書館)

👪3〕─2─日本には約120万人のマイルド・サイコパスが存在する。~No.15No.16No.17 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年4月4日号 サンデー毎日「大人気ドラマ『天国と地獄~サイコな2人~』で注目
 あなたの隣りにいるマイルド・サイコパスの正体
 TBS系日曜劇場『天国と地獄~サイコな2人~』が好評のうちに最終回。ただ、『サイコパス=残虐な殺人鬼』と思うのは間違いだ。大多数は普通に生活する『マイルド・サイコパス』という。関連著書もある原田隆之・筑波大教授に実態などを教えてもらおう。
 原田隆之  聞き手 伊藤あゆみ
 人間を鶏肉のように切り刻みながら平然としている。捕まるたびに反省した姿を見せ、自由になった途端に犯罪を繰り返す。そんな理解不能で非情な犯罪者が、精神医学の領域で『精神病質者(サイコパス)』と呼ばれるようになったのは19世紀末。そして、その存在は映画『羊たちの沈黙』(1991年)あたりから一般にも広く知れ渡り、今やサイコパス関連の書籍やエンタメ作品は数えきれないほどだ。
 サイコパスとは『良心が欠如している』人々だと米心理学者マーサ・スタウトは定義した。それは精神障害の一病態であり、脳の機能障害を主原因とする。2002年に発覚して7人が犠牲になった北九州市の連続監禁殺害事件の首謀者、17年に明らかになった神奈川県座間市の9人殺害事件の加害者は、典型的なサイコパスと言われている。
 英神経科学者ジェームズ・ブレアの推計では、サイコパスは人口の1~3%。仮に1%としても、日本は120万人超のサイコパスがいることになる。あなたの職場や学校にもサイコパスが潜んでいるとしたら、どう対応するだろう?
  ◇  ◇  
 Q サイコパスが100人に1人はいるということは、周りに犯罪者予備軍がいると考えるべきですか?
 A 『サイコパス=凶悪犯罪者』ととらえる人が多いのですが、それは映画やドラマで作られたイメージにすぎません。実際、犯罪に関わるサイコパスはごく一部で、普通に社会生活を送っている人がほとんどです。そんな犯罪的でないサイコパスのことを『マイルド・サイコパス』と呼びます。
 サイコパスの全てが犯罪者ではないのと同じように、犯罪者の全てがサイコパスではありません。刑務所にいる受刑者のうち、サイコパスの占める割合は30~40%にすぎないというデータがあります。ちなみにサイコパスと重なる部分が多い『反社会性パーソナリティー傷害』は、受刑者の70%を占めます。
 サイコパスには犯罪的なサイコパスからマイルド・サイコパス、さらに普通の人まで『グラデーション』があります。『サイコパスとは言えないけれどサイコパス的な人』も含めば、相当な数に上るでしょう。
 Q サイコパスは、どのように診断されるのですか?
 A サイコパスは医学的な概念ではありません。医学的な概念で最も近いのは、先述の『反社会性パーソナリティー傷害』ですが、これは、精神科医が米国精神学会による精神障害・疾患の診断基準であるDSM-5の診断基準に基づいて診断するのが一般的です。サイコパス犯罪心理学上の概念であり、カナダの心理学者ロバート・ヘアが開発した『サイコパス・チェックリスト』を用いて診断します。

 {サイコパス・チェックリストの概要(Hare、1991)
 ・対人因子
 表面的な魅力。尊大な自己意識。他者操作性。病的な虚言癖。長続きしない婚姻関係。
 ・感情因子
 冷淡性、共感性欠如。良心の呵責や罪悪感の欠如。浅薄(せんぱく)な情緒性。自分の行動に対する責任を感じない。
 ・生活様式因子
 衝動性。刺激希求性。行動コントロールの欠如。現実的で長期的な目標欠如。無責任性。寄生的ライフタイル。
 ・反社会性因子
 幼少時の問題行動。少年非行。早期からの行動的問題。仮釈放の取り消し。犯罪の多方向性。
 (出典:原田隆之『サイコパスの真実』ちくま新書、2018)}

 ただし、これは高度な訓練を積んだ有資格者でなければ診断に使ってはいけないことになっています。サイコパスの診断はそれだけ難しく、慎重さが求められるのです。
 欧米企業ではスクリーニングも
 サイコパス・チェックリストは対人因子、感情因子、生活様式因子、反社会性因子の4因子からなります。対人因子とは、例えば『病的にうそをつく』『人心を操る』『自己中心的である』といった対人関係の特徴です。サイコパスは一見人当たりが良く、冗舌で魅力的に見えるので、周りの人はサイコパスのついたうそにだまされがちです。
 感情因子は、これぞサイコパスと言うべき感情面の特徴です。良心や共感性、罪悪感や不安感が欠如しており、それが冷酷で残虐な行動につながります。この感情の乏しさゆえに、サイコパスは家族や恋人と温かい関係を築くことが難しく、結婚生活が長続しない傾向にあります。
 生活様式因子は、サイコパスならではの独特なライフサイクルです。退屈を嫌い、スリルを求め、先のことを考えない彼らは、その日暮らしの生活をしたり、衝動的な行動をしたりしがちです。反社会性因子は、犯罪や、犯罪スレスレの問題行動です。火遊び、万引き、動物虐待などの悪行が目立ち、長じるにつれてエスカレートします。
 ……
 Q その中で、マイルド・サイコパスとは、どういう人でしょうか?
 A まず4つの因子のスコアが全体的に低い人は、サイコパス傾向がマイルドと言えます。スコアが満点に近いほど、極端なサイコパスになるということです。
 もう一つは、4つの因子のうち、感情因子と反社会性因子が低い人。この二つの因子はサイコパスの犯罪性に大きく関わります。
 感情因子のスコアが低ければ、良心や共感性がある程度機能し、犯罪行為に結びつきにくくなります。実際、一般社会人に多いマイルド・サイコパスは感情因子スコアが低いという調査結果があります。反社会性因子は、直接的に犯罪につながる要素なので、当然、低い方がマイルドになります。犯罪とまではいかなくても、部下にパワハラをしたり、妻にモラハラをしたりと攻撃性が目立つ人は、マイルド・サイコパスかもしれません。
 マイルド・サイコパスには、社会的に成功した人も珍しくありません。特に知能が高いマイルド・サイコパスは冗舌で、人をうまく操り、特にカリスマ的地位に上り詰めることがあります。普通の人が恐れるリスクを物ともせず、情に流さず、大胆に冷静に突き進むので、ビジネスで成果を上げやすいという面もあります。経営者や政治家、弁護士、外科医などに適しているという説もあります。このように、マイルド・サイコパスは、悪い面だけではないのです。
 米アップル創業者のスティーブ・ジョブズは、サイコパスだったのではないかとうわさされる一人です。革新的なアイデアで世界を変えたカリスマですが、周りの人はその暴君ぶりに辟易していたという話が伝わっています。恋人や学生時代からの仲間を、邪魔になったらバッサリ切り捨てたというように、その残酷さを示すエピソードの数々が、伝記や映画などに描かれています。
 Q マイルド・サイコパスは優れた面もあるけれど、周りの人を傷つけえう可能性があるのですね?
 A はい。オーストラリアの調査では、サイコパス上司がいない企業はハラスメントの発生率が約54%だったのに対し、サイコパス上司がいる企業では約93%でした。マイルド・サイコパスは人口の1~3%しかいませんが、企業の指導的立場に限れば4%に達するというデータもあります。
 つまり、マイルド・サイコパスは管理職に多く、その地位を利用してパワハラやセクハラを行う確率が高いのです。中には不正行為、例えば会社のお金を横領したり、機密情報を横流ししたりする悪質なマイルド・サイコパスもいます。これら不正行為は、企業にとって大きな損害です。
 今の企業はコンプライアンス順守に非常に力を入れていて、コンプラ違反防止のために社員研修などを行っています。にもかかわず、パワハラや情報漏洩、高額接待などの事件はなくなりません。これだけ世の中が『ダメ』といっているのに違犯をしてしまうのは、パーソナリティーの問題と考えるほかないでしょう。頭で分かっていても、パーソナリティーの問題があるからやってしまうのです。
 ……
 『知識として良心』は得られる
 Q 日本でも今後はマイルド・サイコパス社員の抽出を行うべきでしょうか?
 A これまで日本企業はルールを作って、社員研修で教えさえすれば、問題が解決すると考えてきました。しkし、それだけではパワハラも不正行為もなくならないことが明白になっています。これからは、心理的なアプローチを導入すべきでしょうね。
 とはいえ、そこでサイコパスという概念を安易に扱うのは危険です。先に触れたように、サイコパスはドラマやアニメなどのエンタメ作品でセンセーショナルに描かれるため、極端なイメージが独り歩きしています。『サイコ』という呼び方を含め、世の中は、そのおどろおどろしいイメージを面白がっているのです。
 そんな中、企業が社員にサイコパスというレッテルを貼ると、偏見や差別が生まれる恐れがあります。
 ……
 Q サイコパス社員を抽出するにしても、慎重に扱う必要があるのですね。ところで、サイコパスは治るものなのですか?
 A サイコパスの原因は、ほぼ生来の脳の機能障害であり、それを治す方法は今のところありません。そもそも本人が問題と思っておらず、治したいとも思わないケースがほとんどなので、そういう意味でも難しいと言わざるをえません。
 ただし、マイルド・サイコパスであれば、治療することは十分可能です。脳を変えることはできませんが、環境を変えたり教育したりすることで、反社会的な行動を抑制できるのです。
 悪いことをして胸が痛むというのは、持って生まれた『感情的な良心』があるからです。これは教育で身につけることは非常に困難です。しかし、やってはいけないことが分かるという『知識としての良心』は教育によって得られます。子供のうちに介入すれば特に効果が大きく、成長してもサイコパス傾向を増幅させずに済みます。大人でもマイルドであれば、『治る』まではいかなくても、最悪の事態を免れることができます。そのためには、サイコパス傾向を早く自覚することが重要です。子供であれば、周りの大人が気づいてあげる必要があります。
 ……
 地位などを守るには『己を知る』
 Q もし周囲にサイコパス的な人がいたら、どのように身を守ればいいですか?
 A その人と距離を置くのが一番ですが、そうできない場合、たとえば上司にハラスメントされたら、一人で抱え込まないで誰かに相談しましょう。
 サイコパスは相手をコントロールするのが得意なので、執拗に責められるうちに『自分が悪い』と思い込まされる恐れがあいます。そうなる前に第三者の意見を聞き、その上で発言を記録するなどして証拠を残し、しかるべき部署に訴えるようにするべきでしょう。
 逆に、もし自分にサイコパス傾向があると思ったら、加害者にならないように気をつけましょう。そのためには、やはり周りの人の力を借り、自分が暴走しないかチェックしてもらいます。部下を叱るときには1対1にならないゆにするなど、物理的な環境を整えることも大切です。
 自分がサイコパス的だと知るのは辛(つら)いことかもしれませんが、自覚して気をつけることは、必ずプラスに働きます。『自分は他人を思いやるのが苦手だ』とか、『ついうそをついてしまう』などといった傾向を知ることは、自分の地位や経歴を守る上で非常に重要です。ぜひ、周りのサイコパスを見つけるためだけでなく、自分が加害者にならない為にリストを参考にしてください。
 多くの人は何も努力をしなくても、生まれつき人の痛みが分かります。これは、当たり前のことではなく、実はありがたいことなのです。
 だからこそ、良心を欠いて生まれた人のことを闇雲に恐れるのではなく、『正しく知る』ことが大切です。
 マイルド・サイコパスの特徴
 人付き合いは広く浅く
 自分に自信がある
 人を惹きつける魅力がある
 人を利用するのが上手である
 よくうそをつくし、ばれても動じない
 本心からの後悔や反省をしない
 感情が薄っぺらい
 映画やドラマで泣くことはない
 責任感が欠如している
 思いつきで行動しやすい
 ルールを軽視しがちである
 現在に生きており、後先のことはあまり考えない
 パートナーができても長続きしない
 子どもの頃、いじめやケンカをよくしていた
 性的に放逸である
 ※ 自分や周りの人のサイコパス傾向を知るための目安であり、診断を確定するものではありません。  監修:原田隆之」
   ・   ・   ・   
 これまで日本は、古く良き社会として性善説的に「罪は憎んで人を憎まず」でやって来たが、今後は新しいブラック社会として性悪説的に「人を見たら泥棒と思え」で生きる事になる。
 つまり、これからの日本人、いつ何時でも、一瞬の隙を見せず、作らず、気を引き締め、身構えて生きていかなければならない。
 その現れとして、現代日本人は安全・安心の為に完全なセキュリティ完備の牢獄の様な住宅に住んでいる。
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 日本の宗教史とくに鎌倉仏教史は、「日本人は善行より悪行を好む因果を持って生まれている」事を嘆き、如何にして「因果から逃れる」かから始まっている。
 日本の神仏は、日本人が背負う因果を見て泣き、その因果から救う事を誓願・祈願とされている。
 それが、かって日本民族が持っていた伝統的な宗教観・人生観・生命観・道徳観であった。
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 企業秘密・最新技術情報・国家機密・他人の個人情報を中国共産党・中国軍に流して恥じない・罪悪感がない日本人が絶えないし、むしろ増えている。
 日本を裏切る報酬は、カネか美女であった。
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