☱21〕─3・B─マスコミの取材手法は今も同じ、関東大震災で最悪の"朝鮮人デマ"。~No.47No.48 

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 2021年9月1日12:15 MicrosoftNews PRESIDENT Online「「マスコミの取材手法は今も同じ」関東大震災で最悪の"朝鮮人デマ"が広がった根本原因
 © PRESIDENT Online 1923年9月、関東大震災でがれきと化した町を歩く被災者ら(東京)
 1923年9月1日の関東大震災では、「朝鮮人が放火や略奪を犯した」というデマが流れ、各地で自警団による朝鮮人虐殺が起きた。ジャーナリストの渡辺延志さんは「当時の新聞各紙は『朝鮮人暴動』の流言を大々的に報道していた。だが、その取材手法は現代の記者でも同じだ」という――。
 ※本稿は、渡辺延志『関東大震災「虐殺否定」の真相』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
 取材の大きな比重を占めたのは東京からの避難民
 『東京大学新聞研究所紀要』で発表された「関東大震災下の『朝鮮人』報道と論調」という論文によると、東京や大阪、朝鮮などの新聞20紙のうち、関東大震災での朝鮮人を巡る記事が最も多かったのは仙台に本社を置く河北新報で、全体の11.3%に上った。
 河北新報においては、「朝鮮人による暴行」流言が全国平均を大きく上回る量で報道され、他方、「朝鮮人に対する暴行」については、あまり報道されないか、あるいは「取締り」というボカされた表現で報じられているにすぎない。
 河北新報は震災のニュースを全国に先駆けて入手し、迅速な報道によって、東北地方の人びとに震災の速報を次々と伝えたが、それと同時に「朝鮮人暴動」流言もまた、同紙の報道を通じて東北地方に広く伝播することになったのである――と論文は指摘している。
 震災直後の混乱期に河北新報の報道の中で大きな比重を占めたのは東京からの避難民の談話であり、「これらの談話の内容は、とくに朝鮮人による暴行に関しては事実を著しく歪め、あるいは誇張した流言に満ちていた」とも研究は指摘している。
 体験者や目撃者の証言取材は記者の基本動作
 だが、新聞記者としてその場に自分がいたならと考えると、やはり同じ様な記事を書いただろうと思えてならない。聞いた話の内容が本当に事実なのかを確認する手段はない。
 だが、語っている人たちに嘘をつく理由が考えられない。数多くの人に話を聞けば聞くほど、内容は似通っている。全国どこの新聞であっても、一本でも多くの記事を載せたいという段階だった。
 そもそも事故や災害の現場で、体験者や目撃者を探して証言を集めるという取材は今日でも珍しいものではない。記者の基本動作ともいえる。
 例えば、2020年、新型コロナウイルスによる大規模な感染が確認された中国の武漢から日本人を帰国させるために日本政府はチャーター便を運航した。到着する空港には多くの報道陣が待ち構えていた。そこで帰国者が語った言葉は、そのまま報じられたはずであり、日本国内から見ていただけでは想像できない切実な話であればあるほどニュース価値は高かったはずだ。
 河北新報が群を抜いて多くの記事を掲載したことには理由があったように思えてならない。熱心に報道をしたのは確かだろうが、それと加えて被災者から話を聞くことのできる条件がそろっていたのだ。
 東京を脱出しようとする人が北への鉄道にあふれた
 東京から西へ向かっては鉄道も通信も多くが機能を停止したが、北へと向かう鉄路は動いていたのだ。
 常磐線は9月1日のうちに金町以北が単線で復旧し、東北線も川口以北が単線で復旧した。3日には隅田川橋梁の応急修理を終えた常磐線が日暮里まで開通し、4日には東北線の荒川橋梁が単線で応急復旧され、赤羽、田端を経て日暮里まで運転された。
 4日には避難民の無賃乗車が始まり、とにかく東京を脱出しようとする人が北へと向かう鉄道にあふれた。そういう人たちの体験談を集めることで、河北新報の記事は成り立っていた。河北新報が特に軽率だったから流言を多く報道したとは思えない。他の地域の新聞ではできなかった情報を収集できる環境にあったのだ。
 さらに、大きいのは仙台鉄道局の存在だ。首都圏の鉄道復旧へ向けて、仙台鉄道局は資材や人員を真っ先に送り込んだ。列車の運行が可能だったからで、他の地域の鉄道局にはできないことだった。
 「列車内は戦争といっていい状態だった」
 国鉄の業務日誌によれば、仙台鉄道局は早くも2日に、鉄道省や東京鉄道局との間の連絡や作業援助の目的で運輸、運転、工務、電気、経理各課員一名で移動出張班を編成し出発させ、大宮駅構内に仙台鉄道局派出所を設置している。この日誌を見る限り、震災直後に独自の派出所を設けた鉄道局は仙台だけだ。そこからの情報は鉄道電話を通して仙台へともたらされ、それを河北新報が次々と記事にしていったと考えられる。
 5日の紙面には「仙台鉄道局大宮派出員島村書記より鉄道職員の実見談として電話報告してきた」という記事が見える。鉄道電話を頼りにしたのは全国の新聞で共通だったとしても、仙台の河北新報だけは独自の情報源を持っていたといえるだろう。
 東京から押し寄せた避難民が東京の空気を運んできたことも考えなくてはいけない。同じく動いていた鉄道でも碓氷峠より西の信越線では雰囲気が相当に違っていたことを当時の新聞は伝えていた。それに対して、東北線常磐線の沿線は殺気だった状態で、武装した自警団が列車内や駅を動き回っていた。戦争といっていい状態だったことを避難民の証言は伝えている。
 東京一帯の被災地の空気がそのまま北へと流れ込んでいたのだ。その環境の中で最も情報を集めやすい立場にいたのが河北新報だった。河北新報の記事が震災直後に際立って多かった、それが理由だったと思えてならない。
 情報源が明らかでない「不逞鮮人団の襲撃」記事
 東大新聞研の紀要に載った論文は、河北新報の記事の内容も分析している。5日朝刊の以下の記事は「事実無根の流言にすぎない」と指摘している。
 「東京における惨害後の混乱はますます激しく、不逞鮮人団が襲撃して各所に争闘を起こし、危険極まりなき状態なので、陸軍では戒厳令発布と同時に、近衛第一両師団並びに宇都宮、高田両師団より一部の兵力を増加し秩序維持に努めているが、なお充分でないというので、三日夜、第二師団に出動命令を下した。」
 4日夕刊の以下の記事に対しては「クレジットがついておらず、情報源が明らかでない。しかし、記事の内容からみて、戒厳軍ないし警察筋からの情報である可能性が示唆される。「朝鮮人暴行」流言を朝鮮半島における独立運動と結びつけて「説明」している点で、強い政治的な意図をもったデマゴーギーの性格をもつ流言報道といえる」と指摘はさらに厳しい。
 「東京の大惨害は地震と暴風を奇貨とし朝鮮の独立陰謀団が時期到来とばかり爆弾放火の大残虐を断行したという事はいよいよ明瞭となったらしく、かかる大陰謀を企ててることを未然に察知できなかった残触内閣は野垂れ死にとなり、これを幇助した政友会の幹部連が頸を並べて圧死したと伝えられ国民の義憤を避けてるが、宇都宮駅にて逮捕した鮮人の自白により彼等は鉱山または水力電気工事、鉄道工事の人夫に雇われて巧みにダイナマイト類を取しビール瓶等に入れて某所に蔵匿し置き、微妙な暗号符牒にて互いに気脈を通じ、東京を中心に機会を狙って居たが、民心倦怠して緊張せず思想はますます悪化し、内閣の奪取運動に夢中になってる矢先、大地震大爆風大火災にて大動揺となるや彼等の組織せる決死隊は枢要の官衙、銀行、富豪等に対して爆弾放火をなし、やがて無政府状態に陥らしめ、暴動化せしめんと計画し、丸に一は爆弾係、山の形二つは放火係、丸に井桁は毒殺係という符牒を定めたもので、戒厳令を敷かれ軍隊ため追撃さるるや、学生その他に化けて罹災者と共に八方に遁走し、中にも最後の爆弾を試むべく宇都宮駅に下車せんとした鮮人十数名あり、大格闘して内四名を捕縛し、他は死に物狂いになって逃亡し甚だ険悪なので、第二師団にも出動命令あり。四日午後一時十分発列車にて第二十九連隊の(一字欠)部が武装して宇都宮方面へ急行し、また五日午前五時三十分発列車にて工兵第三大隊及衛生隊約五百名が東京方面へ急行するそうだが、本県警察部にても怪しい朝鮮人は全部検束することとし、隣県警察部と相策応するなど警察は徹宵し異例の緊張振りである。」
 流言をそのまま伝えた部分のあるのは、確かにその通りだ。だが、この記事を読んだ河北新報の読者が情報源で悩むことがあったとは思えない。
 朝鮮人捕縛に向けて郷土の陸軍部隊が出動
 この二つの記事に共通するのは「第二師団に出動命令が下った」ことを伝えていることだ。ほかの師団は宇都宮(第一四師団)、高田(第一三師団)と地名が示されているが、なぜ第二師団は地名の師団名ではなかったのか。
 理由は明白だ。第二師団は仙台に司令部を置いた部隊だったからだ。第二師団を知らない河北新報の読者がいたとは思えない。師団長は親任官相当職であり、勅任官の県知事よりも席次の高い役職だった。
 日本陸軍の部隊は地域で集めた兵により編制されていた。師団は通常四個の歩兵連隊を抱えていたが、記事に登場する第二九連隊は仙台に駐屯した歩兵の部隊であり、宮城県出身の兵で編制されていた。その郷土部隊が出動することを、この河北新報の記事は報じているのだ。
 4日の夕刊は一面に「第二師団の二個連隊/本日午後仙台駅出発」という記事を載せている。
 「東京市及びその付近の震災救援のため三日午後八時、大湊要港部司令官を経て第二師団司令部に対し、有力なる通信班を有する工兵隊並びに衛生隊の出動命令あり。師団司令部にては、最も機敏迅速に直ちに在仙各隊及び若松、山形各隊に命令して四百名の衛生兵を臨時編成し、医官十四名これを引率し、一方工兵第二大隊三百名は佐藤大佐これを指揮して四日午前五時三十分、東京市外田端へ向け出発」と伝えている。
 ニュースの重要性を強調するための記事の仕立て方
 それとは別に仙台の歩兵連隊に出動命令のあったことも報じている。3日の夕刊には「第二師団の出動は未だ決定していない」という記事もあり、第二師団の動向には地元で大きな関心が集まっていたことを物語っている。
 5日の朝刊には「動員下令の第二師団」という写真も載っている。仙台駅前の広場で銃を手に整列した姿で、「不鮮人跋扈(ばっこ)の東京へ出発」との説明がついている。
 歩兵の一個連隊は約2000人であり、その規模の部隊が武装して混乱を極め、朝鮮人の集団と戦争状態とも伝わる東京方面へと出動するというのだから、河北新報にとっても、その読者にとっても、これ以上はない関心を集めるニュースだった。読者の中には家族や知り合いに兵士のいる家庭もあっただろう。
 このニュースの行間には、そうした事情が、記者と読者の間の暗黙の了解が詰まっているのだ。
 河北新報にとって第一級のニュースである。「出動命令が下った」というだけではとても記事として成立しない。なぜ出動するのか、それがいかに重要で危険な任務であるかを説明する必要があった。当然、第二師団で取材もしただろう。それに加えて手元にあった東京方面の最新の情報を加え、この記事は生まれたはずだ。
 もし私が取材のデスクであったなら、そのようにして記事を仕立てることを記者に指示したことだろう。
 ---------- 渡辺 延志(わたなべ・のぶゆき) ジャーナリスト 1955年生まれ。2018年まで朝日新聞社に記者として勤務し、青森市三内丸山遺跡の出現、中国・西安における遣唐使墓誌の発見、千葉市の加曽利貝塚の再評価などの報道を手がけた。著書に『歴史認識 日韓の溝』(ちくま新書)、『虚妄の三国同盟――発掘・日米開戦前夜外交秘史』(岩波書店)、『軍事機密費――GHQ特命捜査ファイル』(岩波書店)、『神奈川の記憶』(有隣新書)など。 ----------」

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☵52〕─5─韓国国防予算、5兆2000億円=4.5%増で日本に迫る。~No.441 

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 2021年8月31日17:28 MicrosoftNews 時事通信「韓国国防予算、5兆2000億円=4.5%増で日本に迫る
 © 時事通信 提供 韓国海軍初の3000トン級潜水艦の就役式=13日、南部巨済島(EPA時事)
 【ソウル時事】韓国国防省は31日、2022年度国防予算案を発表した。総額は前年度比4.5%増の55兆2277億ウォン(約5兆2000億円)で、9月3日に国会に提出する。
 日本の21年度防衛費(当初予算ベース)は約5兆3400億円で、ほぼ肩を並べる水準になった。在韓米軍からの戦時作戦統制権の移譲をにらんで「自主国防」を掲げる文在寅政権は国防費を急拡大。予算案がこのまま確定すれば、文政権下の年平均増加率は6.5%となる。」
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 8月31日19:38 MicrosoftNews 毎日新聞「韓国、国防予算は5兆2200億円 将来的には日本と逆転も
毎日新聞 2021/08/31
 © 毎日新聞 提供 韓国国旗=ゲッティ
 韓国政府は8月31日、2022年の国防予算として、前年比4・5%増の55兆2277億ウォン(約5兆2200億円)を計上したと明らかにした。9月3日に国会に提出する。日本の21年度の防衛予算約5兆3000億円とほぼ同水準。将来的に日本の防衛予算を逆転する可能性が高まっている。
 国会で原案通りに可決した場合、来年5月に1期5年の任期を終える文在寅(ムンジェイン)政権下での国防予算の伸び率は年平均で6・5%となる。今回は「軽空母」の建造に向けた研究費として72億ウォンを計上。国産兵器の確保に向けて、北朝鮮を監視する超小型衛星の開発に112億ウォン▽次世代型の潜水艦事業に4210億ウォン▽長射程砲を迎撃するシステム構築に189億ウォン――を充てる。兵士の給与引き上げや給食の改善に関する予算なども盛り込んだ。
 韓国政府は今回の予算案について「安全保障上の脅威に備えるため、核や大量破壊兵器に対応する戦力増強とともに、軍需や施設、教育など軍事力運営に欠かせない部分を最優先に反映した」と説明した。【ソウル坂口裕彦】」
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☵52〕─4─明暗分かれ日韓のアフガン退避作戦。韓国メディア「日本、カブールの恥辱」。~No440 

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 2021年8月29日 MicrosoftNews 日テレNEWS24「明暗分かれた日韓のアフガン退避作戦 なぜ
 © NNN 明暗分かれた日韓のアフガン退避作戦 なぜ
 日本が進めているアフガニスタンからの邦人や現地職員らの退避が難航している。一方で、韓国は「ミラクル」と名付けられた退避オペレーションで、現地職員やその家族390人を韓国国内に移送完了した。いったい、何が日韓のオペレーションの明暗を分けたのか-。(NNNソウル支局長・原田敦史)
  ◇ ◇ ◇
■韓国メディア「日本、カブールの恥辱」
 日本政府関係者によると、自衛隊の輸送機でアフガニスタンから退避できた日本人は1人のみ(28日時点)。アフガニスタン人14人をパキスタンに運んだが、これは日本大使館国際協力機構(JICA)の職員ではなく、第三国から要請された人たちだ。
 28日の韓国紙「中央日報」は、当初は500人の退避を想定しながら実際は10人程度だったとして「日本、カブールの恥辱」との見出しで伝えている。
 このあざといまでの見出しの念頭にあるのは、韓国のオペレーションの成功だ。26日と27日、韓国政府は現地の大使館職員や家族ら合わせて390人を2便に分けて、無事に韓国に移送した。100人を超える乳幼児も含まれている。作戦名は「ミラクル(奇跡)」。韓国メディアは「文字通り、カブールの奇跡が成し遂げられた」と喝采した。
 連日のようにこれらの情報を浴びせられる筆者のような在韓国の邦人をはじめ、多くの日本人が複雑な気持ちを抱いているだろう。いったい、何が日韓のオペレーションの明暗を分けることになったのか。
■水面下で作戦進行した韓国、派遣が遅れた日本
 実は、韓国政府は当初、作戦を行っていることを公表していなかった。24日夜、韓国外務省は「政府に協力してきた現地職員と家族を移送するため軍の輸送機3機が作戦を遂行中」と初めて明らかにした。ただ、のちの韓国国防省の発表によれば、22日に経由の拠点となるパキスタン政府の了承を取り付け、23日の未明には、すでに軍が現地に展開していた。
 日本が自衛隊の輸送機の派遣を始めたのは、23日夜から24日にかけて。この差はわずかだったが、26日にカブール空港近くで起きた爆弾テロ前に退避できたかどうかの分かれ目になった。
 ちなみに、韓国軍が投入したのはエアバスの旅客機A330をベースとした多目的空中給油輸送機(KC-330)1機と輸送機(C-130)2機。一方の自衛隊は、国産輸送機(C-2)1機と輸送機(C-130)2機とかなり似通った編成だ。パキスタンイスラマバードを中継拠点としてカブールとの間で人員をピストン輸送する方式も共通だった。
■空港までのバス確保 連絡網も機能
 現地の映像でも伝えられている通り、カブール空港周辺には国外脱出を希望する多くの人が集まり、厳しい検問が敷かれている。韓国メディアによると、現地での作戦初日の24日には、徒歩で空港に集まることにしていたが、26人しかたどり着けなかった。
 そのため、翌25日にはバスを使った方法に切り替えられた。韓国大使館の現地のメール連絡網を使って場所を伝え、6台のバスで合わせて365人が集まった。バスには米軍が乗り、検問ではタリバン側と直接交渉を行うなど協力を得て、空港に入ることができたという。
 彼らを2機のC-130輸送機がカブールからイスラマバードへ移送。そして、377人はKC-330輸送機で26日に仁川に到着、残る13人も27日に仁川に到着した。韓国中部の公務員向け施設でおよそ8週間生活し、特別功労者として長期在留資格が与えられる見通しだ。(途中のイスラマバードアフガニスタン人1人について、名簿にない人物だとわかり、カブールに送還済み)
■退避後に戻った韓国の駐アフガン大使館員ら 現地連絡のカギに
 韓国の駐アフガニスタン大使館の外交官らは、タリバンがカブールに侵入した直後、いったんカタールに撤収している。しかし、今回の現地職員らの移送支援のため、外交官ら4人が22日に再びカブールに戻った。現地職員らとの連絡やバスの手配など、韓国政府は彼らの早期投入が「何より重要だった」と評価している。
 「必ず助ける」との約束通りカブールに戻り、同僚の現地職員と抱き合って涙するキム・イルウン公使参事官の姿は韓国メディアに大々的に伝えられた。キム公使参事官は帰国後のインタビューで「空港に行く途中でタリバンにバスを止められ、14~15時間、閉じ込められた」「全員を連れて帰ることができ、国家の品格と責任を示せた」などと振り返った。
 一方で、現地の大使館員が国外退避した状態の日本のオペレーションが、より困難なものになったことは想像に難くない。
■有事対応 浮かび上がる課題
 危険性の切迫度や邦人の人数規模もアフガニスタンとは異なるが、ほんの数年前まで朝鮮半島では北朝鮮弾道ミサイル発射をくり返し、軍事的な衝突があり得るのではと緊張が高まっていた。朝鮮半島有事の際に、韓国からどのように邦人を救出するかは当時、大きな問題になった。
 在韓国日本大使館などが作成した『安全マニュアル』を改めて開くと、化学兵器核兵器による攻撃時の行動要領などに加え、国外退避についても書かれている。ただ、記載がある移動の支援はチャーター機の手配など“空港から先”のものが主で、“空港まで”の移動手段は自力が前提となっていることに改めて気づかされる。
 今回、在外邦人や長年日本に貢献してきた現地職員らをスムーズに退避させられていないという現実はあまりに重く、浮かび上がった問題点を再考する機会にしなければならないと感じる。日本政府関係者によると、自衛隊アフガニスタンからパキスタンに撤収した上で残された希望者の退避に向けた努力を続けるという。
 1人でも多くの希望者が退避できることを願ってやまない。
 写真:韓国外務省提供」
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 8月29日06:42 MicrosoftNews FNNプライムオンライン「自衛隊機でアフガン人14人退避 外国人の輸送は初
 © FNNプライムオンライン
 アフガニスタンからの退避をめぐり、自衛隊が、27日に退避した日本人1人とは別に、アフガニスタン人14人を国外に退避させていたことがわかった。
 自衛隊は27日、輸送機で、アフガニスタンに残っていた日本人女性1人を隣国パキスタンに退避させた。
 複数の政府関係者によると、これに先立つ26日には、アフガニスタン人14人をパキスタンに退避させたという。
 自衛隊法84条の4に基づく「在外邦人等の輸送」で外国人を運んだのは初めて。
 ただ、現地の治安は悪化しており、さらなる日本人などの退避ができるかは、不透明な情勢となっている。」
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🗾20〕─3─諏訪は旧石器時代・縄文時代に良質な黒曜石(星糞)の一大産地であった。縄文海進。 ~No.95No.96No.97 

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 日本(日本民族)特殊論。
 日本民族アイヌ民族琉球民族は、同じ縄文人の子孫であって、現代の周辺地域に住む漢族系中国人、韓国人・朝鮮人、東南アジア人とは血筋の縁は薄い。
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 諏訪の縄文人は、良質な黒曜石を採掘し、滋賀から北海道南部まで広い地域にもたらしていた。
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 縄文人は、日本海を越えて大陸沿海・ロシア沿海州と行き来していた。
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 諏訪市
 諏訪市旧石器時代と黒曜石
 記事ID:0002165 更新日:2020年12月2日更新 印刷ページ表示
 市内には旧石器時代の遺跡が多数あります。諏訪地域最古級の遺跡が霧ヶ峰高原南麓にあり、諏訪湖を見おろす丘陵先端のあたりまで、人々の痕跡が発見されています。天然資源である黒曜石を用いた、人類の活発な行動があったことが分かります。
 ジャコッパラ遺跡群(日本遺産構成文化財
 霧ヶ峰高原の南麓、踊場湿原の南に広大に広がる丘陵内には、多くの遺跡が発見されています。旧石器時代の石器製作跡と縄文時代の落し穴が主な遺構で、遺跡中、No.12遺跡では、台形石器(台形様石器)と呼ばれる種類の石器が発掘されており、その年代は大よそ3万年以上前。諏訪地域では、原村の弓振日向遺跡と並んで最も古い遺跡であることが分かっています。
 黒曜石が産出する下諏訪町や長和町の霧ヶ峰外縁部から近く、諏訪市茅野市方向への石器・石材の移動ルート上であると推測されています。
 諏訪地域最古級の石器(No.12遺跡 諏訪市博物館収蔵)
 茶臼山遺跡と諏訪湖東岸遺跡群
 昭和27年(1952)、関東地方以外で初めて発掘された旧石器時代の遺跡。日本における旧石器時代の存在を決定的なものにした重要な遺跡。黒曜石製のナイフ形石器・?器・石刃や、蛇紋岩製の局部磨製石斧などがあります。
 周辺の崖上丘陵端には槍先形尖頭器を中心に出土する北踊場遺跡・上ノ平遺跡・温泉寺横遺跡、ナイフ形石器が主体の手長丘遺跡、細石刃石核が採集された天神山城跡など、旧石器時代の遺跡が密集しています。時代をやや移しながら、多量の黒曜石を用いて石器づくりが盛んに行われていたエリアです。
 黒曜石製石器と蛇紋岩製局部磨製石斧
 (茶臼山遺跡 市指定有形文化財 諏訪市博物館収蔵)
 槍先形尖頭器(北踊場遺跡)
上ノ平遺跡第4次調査下層遺構
 (ローム土層から出土。遺物はビニール袋に入れて出土位置に置く)
 八島遺跡(日本遺産構成文化財
 霧ヶ峰高原八島ヶ原湿原は周囲約4kmの高層湿原です。この湿原の周りには多数の旧石器時代の遺跡が発見されています。そのうち、八島遺跡は湿原南東に位置し、槍先形尖頭器を中心とした石器製作の遺跡です。また、中世の旧御射山遺跡とも重なる複合的な遺跡でもあります。
 黒曜石製槍先形尖頭器など
(市指定有形文化財 諏訪市博物館収蔵)
 お問い合わせ先
 生涯学習文化財
 電話番号:0266-52-4141
 ファックス番号:0266-53-6219
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 諏訪市縄文時代
 記事ID:0002166 更新日:2020年12月2日更新 印刷ページ表示
 霧ヶ峰高原諏訪湖を擁する諏訪市には、縄文時代の遺跡が多数あります。
 出土した土器や石器、集落の様子から、当時の繁栄した生活がわかります。
 最新情報
 日本遺産「星降る中部高地の縄文世界ー数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅ー」公式HPにおいて、3月下旬より譽田亜紀子さんによる諏訪市博物館についてのコラムが掲載されます。公式HPリンク<外部リンク>
 代表的な縄文時代の遺跡
 曽根遺跡(日本遺産構成文化財
 諏訪湖の湖底に広がる縄文時代草創期の遺跡。明治41年(1908年)に発見された、日本最初の水中遺跡として有名です。
 発掘調査は行われていませんが、採集された遺物は多量にあり、黒曜石製の石鏃や爪形文土器など数万点におよびます。
 立石公園から見た諏訪湖(遺跡は手前の湖岸右手、沖合 200mあたり)
 長脚・片脚・三角形の石鏃と爪形文土器(国登録有形文化財 諏訪市博物館収蔵)
 穴場遺跡
 蓼の海から流れる角間川が上諏訪の市街地に至る手前、諏訪二葉高校の北側に所在する、上諏訪地区では最大の縄文遺跡とみられます。
 多くの住居跡が発掘されており、なかでも縄文中期の18号住居跡からは動物装飾付の釣手土器や石棒・石皿などがまとまって出土し、何らかの祭祀行為を行っていた可能性があります。
 18号住居跡の遺物出土状況
 動物装飾付釣手土器(長野県宝 日本遺産構成文化財 諏訪市博物館収蔵)
 大ダッショ遺跡
 諏訪清陵高校の敷地を含む、福沢川の左岸扇状地上に広がる集落遺跡。縄文時代から奈良時代までの各時代の遺構が発見されています。
 1984年に発掘された縄文中期の有孔鍔付土器は、ほかに類例のない特異な形状をしています。また、人面を思わせる文様をもつ有孔鍔付土器も出土しています。
 7号住居跡出土有孔鍔付土器(長野県宝 日本遺産構成文化財 諏訪市博物館収蔵)
 12号住居跡出土有孔鍔付土器(諏訪市博物館収蔵)
 荒神山遺跡(日本遺産構成文化財
 1974年に中央自動車道建設に先立って発掘調査された、市内屈指の縄文集落遺跡。中世の大熊城跡と小田井沢川に挟まれた幅の狭い傾斜地に110軒以上の住居跡が検出され、多量の土器や石器が出土しました。
 93号住居跡では、約40個体分の土器が積み重なって出土しました。縄文中期の大型で装飾が豪華な土器群は、諏訪市を代表する造形美のあるものです。
 93号住居内折り重なる土器群の様子
 93号住居跡から出土した土器の一部(長野県宝 諏訪市博物館収蔵)
 93号住居跡出土顔面装飾把手(諏訪市博物館収蔵)
 福松砥沢遺跡
 湖南地区、諏訪西中学校やその周辺に広がる集落遺跡。縄文・弥生・平安時代の遺構が発掘されています。
 縄文中期後葉の敷石住居跡や一般的な竪穴式住居跡に加え、石器作りの材料となる黒曜石の原石が一ヶ所にまとまって出土するなど、豊富な出土遺物があります。
 敷石住居跡(30号住居跡)
 黒曜石原石の集積
 お問い合わせ先
 文化財
 電話番号:0266-52-4141
 ファックス番号:0266-53-6219
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 下諏訪町
 ホーム 観光施設 下諏訪町文化財 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡
 ホーム 観光施設 星ヶ塔遺跡 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡
 国史跡 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡(ほしがとうこくようせきげんさんちいせき)
 最終更新日: 2021年8月20日
 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡は、霧ヶ峰山塊の北西部にある星ヶ塔山の東斜面の標高1500メートルの林内に広がる、縄文時代の黒曜石採掘遺跡です。現在までの調査では、約3万5千平方メートルの範囲に縄文時代の黒曜石採掘跡が193か所分布していることが明らかになりました。発掘調査により縄文時代前期(約5700年前)と晩期(約3000年前)の黒曜石採掘抗が発見され、長期間にわたる黒曜石採掘遺跡であることがわかりました。
 星ヶ塔遺跡の黒曜石は、理化学的産地分析により東北から東海地方までの極めて広い範囲に供給されていることが明らかにされています。
 このように星ヶ塔遺跡は、縄文時代の資源開発と流通を考えるうえで極めて重要な遺跡として、平成27年3月に国史跡に指定されました。
 星ヶ塔の由来
 星ヶ塔遺跡を発見した鳥居龍蔵によれば、星ヶ塔はもともと「ホシノトウゲ」と呼ばれていたようです。星ヶ塔遺跡の東側は、鷲ヶ峰の山裾と星ヶ塔山の間のへこんだ部分であり、山道の峠になっています。この峠に「ホシ」があることからホシノトウゲと呼ばれていたのですが、昔の人々は黒曜石のことを夜空に輝く星のかけらと考え「ホシクソ」と呼んでおり、そのホシクソが峠道にたくさんあることから「ホシノトウゲ」という地名がつけられました。のちにそれがホシノトウ、そして「ホシガトウ」と呼ばれるようになり、その後漢字が当てられ、現在の「星ヶ塔」と表記されるようになりました。
 産業振興課 文化遺産活用係
 下諏訪町4613-8
 電話番号:0266-27-1111
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 長野県諏訪地方は、日本列島の大きな地帯構造をつくっているフォッサマグナ地帯と中央構造線とが交わり、活発な断層活動で誕生した。 
 フォッサマグナ地帯:ラテン語で「大きな溝」の意。日本列島の形成過程で列島を南北に分断するように生じた溝。現在の状態は、古生代中生代の古い地層に形成された溝が、新生代の新しい堆積層に埋積されている構造であり、地層構成は極めて複雑。(詳細は下記リンク先を参照下さい。)
 中央構造線:関東から紀伊半島、四国を経て、九州へと連なり、日本列島を縦断する大断層。上記フォッサマグナとは諏訪湖で交わる。諏訪大社豊川稲荷伊勢神宮神宮が存在する。
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 ウィキペディア
 縄文海進(じょうもんかいしん)は、最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇を指し、日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり(年速1 - 2センチメートル)、ピーク時である約6,500年 - 約6,000年前まで上昇が続いた(日本では縄文時代)。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下した。またピーク時の気候は現在より温暖・湿潤[要出典]で平均気温が1 - 2℃高かった。地質学的には有楽町海進(日本では有楽町で最初に調べられたことから)、完新世海進、後氷期海進(Holocene glacial retreat)などと呼ばれる。
 歴史
 最終氷期の最寒冷期後、約19,000年前から始まった海面上昇は、沖積層の堆積より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで侵食された河谷には海が入り込んだ。関東平野では香取海(現在の鬼怒川)や奥東京湾利根川渡良瀬川、なお当時の利根川・荒川による湾部は「古入間湾」とも呼ばれる)などが形成され、大宮台地などは半島となっていた。その後は沖積層の堆積が追いつき、上記の湾は現在の低地平野となった。
 縄文海進は、貝塚の存在から仮説の提唱が始まった。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部で発見されたことから海進説が唱えられた。当初は、日本で活発に起きている火山噴火や地震による沈降説も唱えられたが、その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられた。
 原因
 この時期は最終氷期終了の後に起きた世界的な温暖化の時期に相当する(完新世の気候最温暖期)。また、北半球の氷床が完新世では最も多く融けていたため、世界的に海水準が高くなった時期に当たる。この温暖化の原因は地球軌道要素の変化による日射量の増大とされている。しかし、日射量のピークは9,000年前であり、7,000年前の海進と異なる。近年の地球温暖化の議論では、過去の温暖化の例として、小説などでもしばしば取り上げられている。
 研究史と低位海面論
 関東地方の貝塚は内陸奥深くに分布することから、旧汀線はその付近にあると考えられる。この学説は関東大震災から3年後に発表されており、当時、房総半島南部や三浦半島の隆起と関東平野の沈降が観測され、房総半島の海岸段丘も過去の巨大地震との関連として注目されており、内陸における貝塚分布は陸地沈降とその後の埋積作用の証拠の一つと考えられた。当時の復興局は多数のボーリング調査を行い、関東平野には後に「有楽町層」と呼ばれる海成粘土層が広範に堆積していることを明らかとしている。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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🌋14〕─2─埴輪作りと古墳造営は民の奴隷労働や強制苦役ではなかった。~No.56No.57No.58 

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 2021年8月12日・19日号 週刊文春「文春図書館 著者は語る
 埴輪群像が教えてくれる古墳時代
 『埴輪は語る』  若狭徹  ちくま新書
 素朴な顔立ちに、ゆるく曲げられた手足。思わず『かわいい』と口にしてしまう人は少なくないだろう。そんな不思議な魅力を放ち続ける埴輪が、いつ、どもように作られ、いかなる意味を付与されていたかを解説したのが『埴輪は語る』だ。
 著者の若狭徹さんは、群馬県群馬町(現・高崎市教育委員会に所属していた1988年、古墳の調査中に埴輪を掘り当てた。以来研究を重ね、現在は明治大学で教鞭をとる。
 埴輪と言えば思い浮かぶのが、人の形をしたタイプ。だが、埴輪の歴史の中では最も後出(こうしゅつ)なのだという。
 『弥生時代、ムラの儀式に用いたために、壺とそれを高く掲げるための器台が作られ始めました。器台は時が経つにつれて王のお葬式の道具となり、文様や美しさに重きが置かれます。やがて巨大化した筒状のものになりかすが、3世紀中頃に前方後円墳が登場すると、この〝円筒埴輪〟が多く並べられ、墳丘を飾り、邪霊から守っていました。
 それから100年後、家や王の道具をかたどった〝形象(けいしょう)埴輪〟が現れます。古墳上に「王の館」を埴輪で表し、埋葬された人物の存在を強くイメージさせたのです』
 人物埴輪が出現するのは5世紀。その後200年にわたって作り続けられた。王の葬列や、王の死を確認する殯(もがり)をあらわしているという説があったが、研究の結果、こんなことがみえてきた。
 『埴輪が面白いのは、彼ら一体一体が役者の役割を演じていることです。出土現場で、埴輪の位置関係や、どの埴輪が対面しているのかを仔細(しさい)に研究すると、埴輪たちは複数場面を演じている、ということが分かりました。猪を狩る様子や、巫女が捧げる聖水を受けるシーンなど、王が生前にしていた儀式が再現されているのです。私が調査を行っていた東国エリアでは、甲冑をまとい武装した、〝武人埴輪〟の出土例が多く、これは東国の王の軍事的役割の高さを示しています。王は死後、古墳に飾られた埴輪を民に見せ「王は我々のためにこんなことをしていた」と偲ぶための劇場の役割を果たしていたのです』
 埴輪は、中央のヤマト王権と諸地域との結びつきについても教えてくれる。
 『人物埴輪は、次第に東国エリアで独自の存在感を放つようになります。古墳文化はヤマトにルーツがありますが、当時東国の諸王は、倭王と個別に結びつきながら、軍事的、経済的支援を行っていました。その見返りとして、ヤマトは彼らに前方後円墳の築造を認めたのです。実際、東国で造られた古墳は、同じ時期に造られたヤマトの古墳と同じ設計で、縮尺だけが違う。同盟を結ぶことに、そのときの最新の設計図をもらっていたのです。東国の王は、地域内の勢力争いで優位にたてるよう古墳を大型化させ、それに伴って埴輪も多様化していった。ヤマトの埴輪文化はすたれた後も、東国では作り続けられ、発展を遂げています』
 さらに、埴輪はその時代の王と民の関係を物語っているという。
 『古墳造りは、共同体を結びつける集団イベントでした。王は生前から、地域の開発拠点に自らの墓を造営して人と技術を結集させ、参加者には食物を再配分する機能も担わさていました。民は、自分たちに富をもたらす王のために、古墳造りに進んで参加していたでしょう。当時の王は祭祀から経済・軍事まで統べる能力を持ち、人々に信頼され王位に就いていた。その生前の業績が埴輪に表されたのです。民からの信託とその統治能力は現代政治の範ともなるものでしょう』」
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埴輪は語る (ちくま新書)
古墳時代東国の地域経営
東国から読み解く古墳時代 (歴史文化ライブラリー)
もっと知りたいはにわの世界―古代社会からのメッセージ (アート・ビギナーズ・コレクションプラス)
ビジュアル版 古墳時代ガイドブック (シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊04)
前方後円墳と東国社会: 古墳時代 (古代の東国)
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 日本の歴史には、キリスト教史観、マルクス主義史観・共産主義史観、儒教史観は役に立たない。
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 日本民族は、中国大陸や朝鮮半島での熾烈な政争や地獄のような戦争に負けた敗北者・弱者である弥生系渡来人達が日本列島に命からがら逃げ込んできて、石器時代縄文時代から住んでいた先住民の縄文人と雑婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族、つまり弥生人である。
 弥生人は、中国や朝鮮などの東アジア人と異なる所が数多い。
 弥生人達は殺し合いを始め、1万年以上続いていた縄文の平和は消滅し弥生の大乱時代へと突入した。
 日本文明は、揚子江下流域にあった長江文明の後継文明であって、黄河中流域の中原文明の亜流文明ではなかった。
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☱19〕─1─河合栄治郎は尹潽善との日本の朝鮮支配正当論争で英国聴衆の賛同を得た。大正11年。~No.40 

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 2021年9月号 Hanada「一比較研究者(コンパラティスト)の自伝  平川祐弘
 日本の政治と世界の政治
 ■黃福時代?
 カザノーヴァの自伝は、桁外れな性的多数主義の記録だが、そんな色男でも、自慢が過ぎると、話がおかしくなる。自我の異常肥大といわれかねない。
 ……
 歴史認識とても同じで、お国自慢が過ぎると、話がおかしくなる。私が少年の頃、昭和初期の日本は世界の三大海軍国の一つを誇りとした。軍国ナショナリズムの読物が横行したが、近年の中国もそれに似て『いまや我々は大国として崛起(くっき)した』という国民的高揚感がひろまった。
 前回もふれた劉明福大佐は、アヘン戦争以来列強に辱められた中国は大国として復活した、世界の重心は北京に移りつつある、と『中国夢』(中国友誼出版、2010年)で述べ、経済的にも軍事的にも中国が米国を抜くのはいまや時間の問題、とすこぶる調子がいい。1933年に出た平田習策の『われ等若し戦はば』は、山中峯太郎の『亜細亜の曙』などと同じく、元軍人の手になる書物だが、日本では青少年向け読物のように扱われた。ところが、現役の劉大佐の『中国夢』は『夢』の語がついているが、習近平の2013年3月の国家主席としての宣言『中国の夢を実現しよう』の教本ともいうべき、軍人イデオローグの手になる一冊で、もっともらしい理由付けが列挙されている。ポスト・アメリカ時代、中国は世界一を目指す、という大中華主義歴史観が明晰に披露される。以前は読みさして肩肘を張った誇大妄想と笑って読み捨てた。だが近頃は中国外交部の楊潔篪(ようけっち)の世界観もこれなのか、とそら恐ろしくなってきた。
 劉明福国防大学教授は言う、世界を通観して、中国に非は無い。中国はかつて新世界を発見して植民地を奪ったこともなければ、アヘンを売ったこともなければ、侵略したこともない。それだから中国は次の世界の指導的地位に立つ重要な道徳的条件を備えている。来るべき世界は『黃福時代』である。米国が進んできた道は覇道だが、中国が進む道は王道だ──。
 読むうちに、戦前の日本で軍やそれに追随する評論家が、満州に王道楽土を建設する、とか、日本が黄色人種の先頭に立つ、とか、威勢のいい歴史認識を述べたことが、思い出された。だがそんな幸福な『黃福時代』は来なかった。
 ■毛を奉る国とは不仲がいい
 ……
 だがスターリンの死後、共産党内部でフルシチョフによるスターリン批判を行ったソ連と違い、中国では毛体制を批判しなかった。そのつけがまわって来たらしい。大躍進や文化大革命の悲惨な記憶が薄れだした今、温存された毛沢東の権威を掲げることで、習近平は一身に権力を集中、汚職を摘発、裏で政敵を陥(おとしい)れ、国民の人気も博した。そして周囲が怯(ひる)む隙に、専制支配体制を確立した。習終身主席とはとりもなおさず習皇帝ということだ。
 ただし皇太子は決められず、安定的な政権移譲は望めない。次は誰が。失政した際、責任をとらされるのは誰か。自分か。内部には疑心暗鬼が、外部には、軍事緊張が高まる。愛国心の昂揚は習レジームに有利に働く。習と軍と公安の依存関係は更に進むだろう。そんな『逆走改革』を嫌う人は、留学帰りをはじめ、中国内にもいるが、いまや大陸は徹底した監視体制の警察国家だ。習批判を述べる自由はない。誰が中国のベリヤとなるのか。最初に処刑されるのは誰か。
 ……
 河合栄治郎の大アジア主義批判 
 東大批判の大学院でも、私は留学生を多く教えた。多くいた韓国出身者の中には『日帝支配』の過去を非難する者もいた。そう主張したい気持ちは当然だろう。しかし自国の教科書で習った通りの歴史認識*2を来日して繰返すだけでは能がない。具体例に即して調べる方が、学ぶ側にも教える側にも有意義だ。双方からするアプローチが生産的だろう。複眼で眺めれば、国際的な視野も自ずと開ける。私は河合栄治郎(1891~1944)の場合を、自分でも調べ、韓国学生にも発表されることにした。私が定年で駒場を去るすこし前、昭和天皇が亡くなられた頃である。
 なぜ河合を選んだか。
 西洋の植民地支配からアジア解放を唱え日本は戦争に突入した。だがその日本は植民地帝国とおして朝鮮を支配していた。その矛盾を指摘した人が河合栄治郎だからである。
 河合は昭和8年11月号の『文藝春秋』で犬養首相を暗殺した少壮軍人の大アジア主義思想を批判し、もし『同等の領土的野心を持たないで、ただアジアに於て日本が外国と平等の通商貿易をなすことを目的とするならば、直截(ちょくせつ)に通商の自由を標榜(ひょうぼう)した方が実効性も多い』と言い、日本がアジア解放をリードするについては『内部に於て同胞に対してさえ』、すなわち自国の植民地の人々に体してさえ、十分の自由を与えていに以上、その日本からアジアの人はどれだけの期待を持ち得るだろうか、おそらく『日本の力を借りることに賛成しまい』と日本人を戒(いまし)めた。
 *2 歴史認識はどうにでも言える。1970年代、韓国からの訪問学者は来日当初は『日本はまた韓国を征服に来る』という脅威認識を大声で唱えたが、滞在するうちにさすがにそんな大袈裟な事は言わなくなった。私は日本人が『米帝支配の7年』などと大袈裟に騒がないことを、結構な事と考える。敗戦国日本が、ロシアや中国や朝鮮に占領されていたなら、それこそ悲惨であったろうから、米国の占領は相対的に良かったのである。
 20世紀初頭、朝鮮半島は中国かロシアか日本か、いずれかの影響圏にはいらざるを得ない状況にあったのではなかったか。Wishful thinking(希望的観測)をすれば、当時の半島には統一近代国家が成立する可能性はあった、と言い張ることもできもしよう。そしてそのような夢物語にすがりたい心情の人々が、21世紀の初頭に南北融和の統一近代国家が成立することを夢見て、失政を重ねるというのが現実ではないのか。20世紀の初頭、中国やロシアの支配よりはまだましとして、次善の策として日本と組むことを選んだ朝鮮半島の人々が絶対的に間違っていた、と断定するのはいかがなものか。台湾にはかつて大陸ではなく日本の影響下にはいったことの幸福を認める人がいる。ただしそのような認識は、言論の自由が認められない空間と時間の内では話題にすることすらできない。
 ……
 ■河合の外国交際
 ……
 1922年、今度は若き東大教授として渡英、名士を歴訪して、臆する風がない。ウッドブルック・コレッジに寄宿中、日本及び極東について2回講演した。そこには日ごろ日本に対する反感を周囲に洩らしていた、6歳若い韓国留学生尹潽善*3({いんふぜん、ユン・ポソン}1897~1990)がいた。河合は明治維新から説き起こし、日清日露の戦争を経、いかに日本が帝国主義的になったか、その因果を語り、日本外交の難(なん)ずべきを難じ、東亜の小国日本をこの方向に赴かせた欧米の政策の責任にも触れた。
 ■尹潽善との論戦
 すると尹が立って『先ほど日清戦争は朝鮮をシナより救うが為に起こったと説かれたが、果たして朝鮮は救われたか。シナより救われた朝鮮は日本の支配の下に落ちた』と述べ、1919年、3・1独立運動の際の日本側の弾圧を非難した。河合の《朝鮮のこと》(昭和2年)にその模様は詳しいが、日本の圧制を訴える尹青年の顔は青ざめ、声は激(げき)した。平和主義のクェーカーの学校だけに、聴衆の顔に弱国朝鮮への同情と強国日本への反感が明らかに読まれた。
 河合は弁明した。自分は日本の朝鮮における政治に詳しくない。尹氏の内容を否定も肯定もできない。
 『ただ敢えて尹氏に聴いて戴かねばならないことは、自力を以て自国を防ぎえない国を隣りに持つことは、日本にとって大きな不幸であった。この不幸をしてあなたの云われるような非暴の誘惑に陥れたのである』
 すると聴衆は、今度は拍手で、河合の見方を受け入れた。河合の英語原稿断片には『一国民が他国民を支配するのは最大の難事で普通の人間にできることではない。相手の心の琴線(きんせん)に触れるような大人物でなければこんな大事業に成功できるはずはない』とある。
 ……1932(昭和7)年、5・15事件の直後、河合が軍人たちの大アジア主義の虚妄(きょもう)をつき、日本は自らが植民地を抱えて、その同胞に対しても充分の自由を与えていない。それなのに、アジアの植民地解放という正義の御旗(みはた)を掲げる資格はあるのか、と冷静な疑義(ぎぎ)を呈した。河合は尹が突きつけた問題の深刻さを感じたからこそ《朝鮮のこと》で、『あらゆる日本の人としての問題の一部であることを感ぜしめた』と言い、『朝鮮の人達がどれほど(統一国家独立維持の)力を持っているかも私の知る所ではない。然し少なくとも朝鮮は朝鮮人のものであり、日本は朝鮮人の為の朝鮮を考えて行くべきことだけは明らかであろう』と結んでいる。
 ■『日本人への黙秘権』
 ……
 ■三島由紀夫に睨まれる
 ……
 ■《5・15事件の批判》と《2・26事件の批判》
 『アジア諸国は独立を回復することを熱望することは確かである。然し日本の力を借りることには賛成しまい。何故ならば英米の宣伝により日本を誤解している点もあろうが、日本の過去の外交史が彼等に疑惑を抱かしめるからである。英米を排して日本を代わりに引き込むならば、彼等は寧(むし)ろ英米の方を選ぶだろう。英米には不徹底なりとも自由主義的思惑が浸潤(しんじゅん)している。異民族を統率するに就いて彼等は日本人よりも妙諦(みょうてい)を解しているからである。アジアの諸国に於ける日本の信用をば、吾々は決して過超評価してはならない』
 昭和初年、プロレタリア独裁を肯定する左翼共産主義が盛んとなるや、河合はそれを批判した。が満州事変以後、青年将校が暴発、右翼国家主義が台頭するや、今度は軍部専横を批判した*4。河合の《5・15事件の批判》《2・26事件の批判》は堂々たる論である。当時の河合は、生命の危険もかえりみず、東大教授の職を賭(と)し、軍部を批判した。そんな河合だったが、1939(昭和14)年、大学当局から休職処分とされ、東大を追われた。しかし河合が企画した『学生と教養』などの著書・叢書は戦争中も広く愛読された。
 ……
 *4 今でもそうだが、真の自由主義者は、左右両面の敵と戦わねばならない。河合研究会で武田清子が『丸山真男が河合の衣鉢を継ぐ学者だ』と言うから、私は真っ向から反論した。右翼には手厳しいが左翼には甘い男が、河合の思想的系譜に連なるはずはない。
 ■自由主義河合栄治郎
 だが私は河合を尊敬する。河合は軍人の直接行動を毅然と否定した。なぜならそれは『国民と外国との軍に対する信用を傷つけ・・・軍人が政治を左右する結果は、国民に中には、戦争が果たして必至の運命によるか、或は一部軍人の何らかの為にする結果かと云う疑惑を生ずるであろう』。
 しかし当時のマスコミは犬養首相を殺害した『純粋な』青年将校を『昭和維新の志士』と称揚した。多くの人が助命嘆願書に署名した。世論に圧され、海軍の高須判士長は軍法会議で死刑判決を下す事ができない。その結果、国家の綱紀(こうき)は弛み、5・15事件に続いて2・26事件も起きた。そうなると、一部軍人の為にする結果というべきだが、大陸における戦線拡大を政府は止められず、日本はついに対米英戦争に突入した。
 そんな時代、大学を追われた河合は、起訴され、自己の思想信条を賭けて裁判に臨んだ。一度は無罪となるが、結局は敗訴、著書発禁、罰金刑に処される。だが日本は一党専制ナチス・ドイツ共産国とは違う。著書発禁というが、戦争中も河合の学生叢書は広く読まれ続けた。日本における言論の自由の幅は存外広かった。その証拠に私の家では、姉は『学生と生活』を昭和14年に、兄は『学生と教養』を昭和19年──兄の書き込みでは皇紀2604年──6月に、古本で求めている。だがその年の2月15日に、河合は満53歳で早世した。私は戦後昭和23年、『学生に与う』を読み、その溌溂とした精気と明るさに驚いた。とても苦境に立たされて人の文章とは思えない。私は河合が説く『友情』や『自我』の言葉に酔いしれた。
 ■国会突入で死んだ人は暴徒か殉教者か
 ……
 さらに問題なのは戦後の『純粋な』学生称揚の言葉と戦前の『純粋な』青年将校称揚の言葉の類似であろう。
 ■戦後のタブーに抗して
 ……」
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【復刻版】河合栄治郎「ファッシズム批判」ー発禁・追放の契機となった自由主義からの国家社会主義批判 (響林社文庫  )
【復刻版】河合栄治郎「学生に与う(全)」―河合栄治郎全集第14巻所収 (響林社文庫)
【復刻版】河合栄治郎の「マルキシズムとは何か」 (響林社文庫)
【復刻版】河合栄治郎の「学生に与う 第2部―私たちの生き方」 (響林社文庫)
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であって加害者ではなかった。
 人間的事実として、日本人には人道貢献・平和貢献を行ったいい日本人もいれば戦争犯罪を行った悪い日本人もいたが、多くは何もしない傍観者日本人か同調圧力・場の空気で動く無自覚日本人である。
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 自由主義者河合栄治郎は、プロレタリア独裁左翼共産主義と軍部独裁の右翼国家主義を激しく批判した。
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 真のリベラル(自由主義)は現実主義者(リアリスト)として、理想主義(アイデアリズム)、マルクス主義共産主義全体主義ファシズム・ナチズム、過激国家主義国粋主義などを激しく批判する為に、左翼・左派そして右翼・右派を敵にまわす。
 それ故に、ヒトラースターリン毛沢東ら独裁者はリベラル派を弾圧し、虐殺し、焚書を行った。
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 昔の朝鮮、朝鮮人、現代の韓国、韓国人と北朝鮮朝鮮人が、親日を排除して反日となって敵日国家に味方するかどうかは彼らの自由であって、日本がとやかくと干渉する権利はない。
 日韓・日朝における歴史問題とは、国際法が認める朝鮮の国家主権である外交選択権を軍国日本が否定して暴力的に侵害し強奪した事が問題なのである。
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 西洋の植民地であるアジア諸国・諸民族は、白人支配からの独立する為に日本の力を借りたいとは思ってはいなかった。
 日本の軍事力を借りて独立を目指した人々は少数の過激派で、多数の穏健派は自力で時間を掛けても合法的平和的な話し合いでの解決を目指していた。
 つまり、日本は今も昔も信用されていなかったし愛されてもいなかった。
 歴史的事実として、東洋、アジアという共同体意識・同胞意識など存在せず、アジア主義とは日本人が白人に対抗し、日本が西洋列強に代わってアジアの指導者(支配者)になる為に急いで作ったウソで悪のイデオロギーであった。
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 近代天皇制度国家日本は、中国と朝鮮が日本を侵略しようとうる西洋列強に味方・協力するから、民族国家存続危機と判断して積極的自衛戦略から攻撃し粉砕した。
 反日派の朝鮮王国はロシアから巨額の賄賂を得て、日本侵略目的の軍事基地建設の許可を与えて希望する地域の使用自由権を売った。
 日本は、ロシアの大軍団による日本侵略を最大限に警戒し軍事行動を神経を尖らせて注視してきただけに、朝鮮王国内でのロシア軍の動きに恐怖していた。
 朝鮮には、国内の治安を維持する弱小軍隊・警察はあっても、外国から国を自力で守る強力な軍隊を持っていなかった。
 孤独な日本としては、朝鮮半島を日本侵略の軍事基地・最前線基地・出撃基地にする事を許容できなかった。
 日本にとって朝鮮問題の原因は朝鮮国内にあって、日本は被害者であって加害者ではない。
 日本が助かり生き残る為には、朝鮮を日本に都合の良い条件で処分する必要があった。
 これは、日本の朝鮮主権無視の国家エゴである。
 この延長線で、日韓併合3・1独立運動暴力的鎮圧が行われた。
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 日本は、ベルサイユ講和条約で「人種差別撤廃条項」を提案したのは欺瞞であり、もし人種差別撤廃条項を主張するのであれば、まず「隗(かい)より初めよ」的に植民地朝鮮を解放し「虎を野(国際的反日勢力へ)に放つ」べきであった。
 それは、日本と親日諸政権勢力の中間に反日・敵日・侮日で利敵を行う朝鮮国樹立を許す事である。
 当時の日本には援軍を派遣してくれる味方・友好国・同盟国がいなかった為に、日米安保で守られた能天気な現代日本を様な、裏切りを権利として寝首を掻に来る・不意に背後から襲い来る事を甘受するほどの、肝っ玉が座った物事に動じない寛容さはなかった。
 つまり、日本人は猜疑心が強く臆病で度量が狭いのである。
 現代の国際世論は、韓国・朝鮮に味方し日本を批判・非難している。
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 明治新政府が日本の近代化として軍国主義国家へと暴走した理由は、江戸時代後期に北から押し寄せてきた「キリスト教国ロシアの侵略から日本を軍事力で守る」を選択したからである。
 軍国日本の大陸戦争とは、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく「火の粉は自力で払う」という積極的自衛戦争で、ロシアの侵略を国外・海外で阻止・粉砕する為で、その戦場が中国・満州朝鮮半島であった。
 中国(当時は清国)と朝鮮は、ロシアの侵略からアジアを守る為に日本と三国軍事同盟を結んでくれたら問題はなかったが、その逆にロシアの日本侵略に協力していた。
 日本は自国防衛戦略として、利敵行為を行う中国(当時は清国)と日清戦争を行い粉砕し、朝鮮国内にロシア軍基地を提供しようとする反日派・敵日派と親ロシア派を内政干渉で排除して親日政権を樹立し日韓併合を行った。
 が、そこに新たな恐ろしい敵としてソ連コミンテルン中国共産党・国際共産主義勢力が出現し、世界の労働者・人民の正義と権利から日本人共産主義テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストに昭和天皇と皇族の暗殺を命令した。
 共産主義は、反天皇反民族反日本であり、反宗教無神論であり、天皇制度国家日本を根底から破壊するべく大虐殺を行う暴力的人民革命を起こそうとしていた。
 日本国・日本民族は、祖国防衛の対抗策として悪法の治安維持法を制定し、不敬罪・大逆罪で反天皇反民族反日本の思想弾圧と反天皇神道の宗教弾圧を行った。
 天皇中心の国體を護持する為に戦ったのが、軍国日本の近代史・戦前史である。
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 天皇を護った勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民、賤民、部落民、異能の民、異形の民、芸能の民など差別された身分的に賤しい下層民達であった。
 日本民族が、キリスト教を嫌ったのは、戦国時代に中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人奴隷交易で金儲けしていたからである。
 幕末における外国人惨殺事件という攘夷運動は、そうした人を人として認めない奴隷交易を神の御名によって容認するキリスト教の宗教侵略に対する正当防衛から起きた。
 つまり、戦前の軍国日本が掲げた「聖戦」にはそれなりの正当な理由があった。
 軍国日本の聖戦は人権であって宗教やイデオロギーではなく、ましてやイスラム原理主義者、ムスリムテロリスト、宗教的凶悪殺人鬼らが叫ぶ「ジハード=聖戦」とは次元が違う。
 日本の行動原理は、宗教やイデオロギーではなく、日本天皇・日本国・日本民族帰化系日本人も含む)の3者による相互補完共生である。
 外国由来日本人でも、帰化系日本人と渡来系日本人は別人である。
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 韓国では、昭和天皇、皇族、伊藤博文ら元老・元勲・重臣を暗殺しようとしたキリスト教朝鮮人テロリストや朝鮮人共産主義テロリストを国家の英雄と讃えている。
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 2021年8月11日18:00 MicrosoftNews 聯合ニュース安重根の生涯がバレエに
 韓国・ソウル市の複合芸術施設「芸術の殿堂」で、創作バレエ「安重根、天国での舞」(原題)の公開舞台稽古が行われた。独立運動家の安重根(アン・ジュングン)役を演じるダンサーのイ・ドンタク(中央)=11日、ソウル(聯合ニュース)」
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