🗾20〕─3─諏訪は旧石器時代・縄文時代に良質な黒曜石(星糞)の一大産地であった。縄文海進。 ~No.95No.96No.97 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本(日本民族)特殊論。
 日本民族アイヌ民族琉球民族は、同じ縄文人の子孫であって、現代の周辺地域に住む漢族系中国人、韓国人・朝鮮人、東南アジア人とは血筋の縁は薄い。
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 諏訪の縄文人は、良質な黒曜石を採掘し、滋賀から北海道南部まで広い地域にもたらしていた。
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 縄文人は、日本海を越えて大陸沿海・ロシア沿海州と行き来していた。
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 諏訪市
 諏訪市旧石器時代と黒曜石
 記事ID:0002165 更新日:2020年12月2日更新 印刷ページ表示
 市内には旧石器時代の遺跡が多数あります。諏訪地域最古級の遺跡が霧ヶ峰高原南麓にあり、諏訪湖を見おろす丘陵先端のあたりまで、人々の痕跡が発見されています。天然資源である黒曜石を用いた、人類の活発な行動があったことが分かります。
 ジャコッパラ遺跡群(日本遺産構成文化財
 霧ヶ峰高原の南麓、踊場湿原の南に広大に広がる丘陵内には、多くの遺跡が発見されています。旧石器時代の石器製作跡と縄文時代の落し穴が主な遺構で、遺跡中、No.12遺跡では、台形石器(台形様石器)と呼ばれる種類の石器が発掘されており、その年代は大よそ3万年以上前。諏訪地域では、原村の弓振日向遺跡と並んで最も古い遺跡であることが分かっています。
 黒曜石が産出する下諏訪町や長和町の霧ヶ峰外縁部から近く、諏訪市茅野市方向への石器・石材の移動ルート上であると推測されています。
 諏訪地域最古級の石器(No.12遺跡 諏訪市博物館収蔵)
 茶臼山遺跡と諏訪湖東岸遺跡群
 昭和27年(1952)、関東地方以外で初めて発掘された旧石器時代の遺跡。日本における旧石器時代の存在を決定的なものにした重要な遺跡。黒曜石製のナイフ形石器・?器・石刃や、蛇紋岩製の局部磨製石斧などがあります。
 周辺の崖上丘陵端には槍先形尖頭器を中心に出土する北踊場遺跡・上ノ平遺跡・温泉寺横遺跡、ナイフ形石器が主体の手長丘遺跡、細石刃石核が採集された天神山城跡など、旧石器時代の遺跡が密集しています。時代をやや移しながら、多量の黒曜石を用いて石器づくりが盛んに行われていたエリアです。
 黒曜石製石器と蛇紋岩製局部磨製石斧
 (茶臼山遺跡 市指定有形文化財 諏訪市博物館収蔵)
 槍先形尖頭器(北踊場遺跡)
上ノ平遺跡第4次調査下層遺構
 (ローム土層から出土。遺物はビニール袋に入れて出土位置に置く)
 八島遺跡(日本遺産構成文化財
 霧ヶ峰高原八島ヶ原湿原は周囲約4kmの高層湿原です。この湿原の周りには多数の旧石器時代の遺跡が発見されています。そのうち、八島遺跡は湿原南東に位置し、槍先形尖頭器を中心とした石器製作の遺跡です。また、中世の旧御射山遺跡とも重なる複合的な遺跡でもあります。
 黒曜石製槍先形尖頭器など
(市指定有形文化財 諏訪市博物館収蔵)
 お問い合わせ先
 生涯学習文化財
 電話番号:0266-52-4141
 ファックス番号:0266-53-6219
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 諏訪市縄文時代
 記事ID:0002166 更新日:2020年12月2日更新 印刷ページ表示
 霧ヶ峰高原諏訪湖を擁する諏訪市には、縄文時代の遺跡が多数あります。
 出土した土器や石器、集落の様子から、当時の繁栄した生活がわかります。
 最新情報
 日本遺産「星降る中部高地の縄文世界ー数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅ー」公式HPにおいて、3月下旬より譽田亜紀子さんによる諏訪市博物館についてのコラムが掲載されます。公式HPリンク<外部リンク>
 代表的な縄文時代の遺跡
 曽根遺跡(日本遺産構成文化財
 諏訪湖の湖底に広がる縄文時代草創期の遺跡。明治41年(1908年)に発見された、日本最初の水中遺跡として有名です。
 発掘調査は行われていませんが、採集された遺物は多量にあり、黒曜石製の石鏃や爪形文土器など数万点におよびます。
 立石公園から見た諏訪湖(遺跡は手前の湖岸右手、沖合 200mあたり)
 長脚・片脚・三角形の石鏃と爪形文土器(国登録有形文化財 諏訪市博物館収蔵)
 穴場遺跡
 蓼の海から流れる角間川が上諏訪の市街地に至る手前、諏訪二葉高校の北側に所在する、上諏訪地区では最大の縄文遺跡とみられます。
 多くの住居跡が発掘されており、なかでも縄文中期の18号住居跡からは動物装飾付の釣手土器や石棒・石皿などがまとまって出土し、何らかの祭祀行為を行っていた可能性があります。
 18号住居跡の遺物出土状況
 動物装飾付釣手土器(長野県宝 日本遺産構成文化財 諏訪市博物館収蔵)
 大ダッショ遺跡
 諏訪清陵高校の敷地を含む、福沢川の左岸扇状地上に広がる集落遺跡。縄文時代から奈良時代までの各時代の遺構が発見されています。
 1984年に発掘された縄文中期の有孔鍔付土器は、ほかに類例のない特異な形状をしています。また、人面を思わせる文様をもつ有孔鍔付土器も出土しています。
 7号住居跡出土有孔鍔付土器(長野県宝 日本遺産構成文化財 諏訪市博物館収蔵)
 12号住居跡出土有孔鍔付土器(諏訪市博物館収蔵)
 荒神山遺跡(日本遺産構成文化財
 1974年に中央自動車道建設に先立って発掘調査された、市内屈指の縄文集落遺跡。中世の大熊城跡と小田井沢川に挟まれた幅の狭い傾斜地に110軒以上の住居跡が検出され、多量の土器や石器が出土しました。
 93号住居跡では、約40個体分の土器が積み重なって出土しました。縄文中期の大型で装飾が豪華な土器群は、諏訪市を代表する造形美のあるものです。
 93号住居内折り重なる土器群の様子
 93号住居跡から出土した土器の一部(長野県宝 諏訪市博物館収蔵)
 93号住居跡出土顔面装飾把手(諏訪市博物館収蔵)
 福松砥沢遺跡
 湖南地区、諏訪西中学校やその周辺に広がる集落遺跡。縄文・弥生・平安時代の遺構が発掘されています。
 縄文中期後葉の敷石住居跡や一般的な竪穴式住居跡に加え、石器作りの材料となる黒曜石の原石が一ヶ所にまとまって出土するなど、豊富な出土遺物があります。
 敷石住居跡(30号住居跡)
 黒曜石原石の集積
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 文化財
 電話番号:0266-52-4141
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 下諏訪町
 ホーム 観光施設 下諏訪町文化財 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡
 ホーム 観光施設 星ヶ塔遺跡 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡
 国史跡 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡(ほしがとうこくようせきげんさんちいせき)
 最終更新日: 2021年8月20日
 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡は、霧ヶ峰山塊の北西部にある星ヶ塔山の東斜面の標高1500メートルの林内に広がる、縄文時代の黒曜石採掘遺跡です。現在までの調査では、約3万5千平方メートルの範囲に縄文時代の黒曜石採掘跡が193か所分布していることが明らかになりました。発掘調査により縄文時代前期(約5700年前)と晩期(約3000年前)の黒曜石採掘抗が発見され、長期間にわたる黒曜石採掘遺跡であることがわかりました。
 星ヶ塔遺跡の黒曜石は、理化学的産地分析により東北から東海地方までの極めて広い範囲に供給されていることが明らかにされています。
 このように星ヶ塔遺跡は、縄文時代の資源開発と流通を考えるうえで極めて重要な遺跡として、平成27年3月に国史跡に指定されました。
 星ヶ塔の由来
 星ヶ塔遺跡を発見した鳥居龍蔵によれば、星ヶ塔はもともと「ホシノトウゲ」と呼ばれていたようです。星ヶ塔遺跡の東側は、鷲ヶ峰の山裾と星ヶ塔山の間のへこんだ部分であり、山道の峠になっています。この峠に「ホシ」があることからホシノトウゲと呼ばれていたのですが、昔の人々は黒曜石のことを夜空に輝く星のかけらと考え「ホシクソ」と呼んでおり、そのホシクソが峠道にたくさんあることから「ホシノトウゲ」という地名がつけられました。のちにそれがホシノトウ、そして「ホシガトウ」と呼ばれるようになり、その後漢字が当てられ、現在の「星ヶ塔」と表記されるようになりました。
 産業振興課 文化遺産活用係
 下諏訪町4613-8
 電話番号:0266-27-1111
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 長野県諏訪地方は、日本列島の大きな地帯構造をつくっているフォッサマグナ地帯と中央構造線とが交わり、活発な断層活動で誕生した。 
 フォッサマグナ地帯:ラテン語で「大きな溝」の意。日本列島の形成過程で列島を南北に分断するように生じた溝。現在の状態は、古生代中生代の古い地層に形成された溝が、新生代の新しい堆積層に埋積されている構造であり、地層構成は極めて複雑。(詳細は下記リンク先を参照下さい。)
 中央構造線:関東から紀伊半島、四国を経て、九州へと連なり、日本列島を縦断する大断層。上記フォッサマグナとは諏訪湖で交わる。諏訪大社豊川稲荷伊勢神宮神宮が存在する。
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 ウィキペディア
 縄文海進(じょうもんかいしん)は、最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇を指し、日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり(年速1 - 2センチメートル)、ピーク時である約6,500年 - 約6,000年前まで上昇が続いた(日本では縄文時代)。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下した。またピーク時の気候は現在より温暖・湿潤[要出典]で平均気温が1 - 2℃高かった。地質学的には有楽町海進(日本では有楽町で最初に調べられたことから)、完新世海進、後氷期海進(Holocene glacial retreat)などと呼ばれる。
 歴史
 最終氷期の最寒冷期後、約19,000年前から始まった海面上昇は、沖積層の堆積より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで侵食された河谷には海が入り込んだ。関東平野では香取海(現在の鬼怒川)や奥東京湾利根川渡良瀬川、なお当時の利根川・荒川による湾部は「古入間湾」とも呼ばれる)などが形成され、大宮台地などは半島となっていた。その後は沖積層の堆積が追いつき、上記の湾は現在の低地平野となった。
 縄文海進は、貝塚の存在から仮説の提唱が始まった。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部で発見されたことから海進説が唱えられた。当初は、日本で活発に起きている火山噴火や地震による沈降説も唱えられたが、その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられた。
 原因
 この時期は最終氷期終了の後に起きた世界的な温暖化の時期に相当する(完新世の気候最温暖期)。また、北半球の氷床が完新世では最も多く融けていたため、世界的に海水準が高くなった時期に当たる。この温暖化の原因は地球軌道要素の変化による日射量の増大とされている。しかし、日射量のピークは9,000年前であり、7,000年前の海進と異なる。近年の地球温暖化の議論では、過去の温暖化の例として、小説などでもしばしば取り上げられている。
 研究史と低位海面論
 関東地方の貝塚は内陸奥深くに分布することから、旧汀線はその付近にあると考えられる。この学説は関東大震災から3年後に発表されており、当時、房総半島南部や三浦半島の隆起と関東平野の沈降が観測され、房総半島の海岸段丘も過去の巨大地震との関連として注目されており、内陸における貝塚分布は陸地沈降とその後の埋積作用の証拠の一つと考えられた。当時の復興局は多数のボーリング調査を行い、関東平野には後に「有楽町層」と呼ばれる海成粘土層が広範に堆積していることを明らかとしている。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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