☱19〕─1─河合栄治郎は尹潽善との日本の朝鮮支配正当論争で英国聴衆の賛同を得た。大正11年。~No.40 

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 2021年9月号 Hanada「一比較研究者(コンパラティスト)の自伝  平川祐弘
 日本の政治と世界の政治
 ■黃福時代?
 カザノーヴァの自伝は、桁外れな性的多数主義の記録だが、そんな色男でも、自慢が過ぎると、話がおかしくなる。自我の異常肥大といわれかねない。
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 歴史認識とても同じで、お国自慢が過ぎると、話がおかしくなる。私が少年の頃、昭和初期の日本は世界の三大海軍国の一つを誇りとした。軍国ナショナリズムの読物が横行したが、近年の中国もそれに似て『いまや我々は大国として崛起(くっき)した』という国民的高揚感がひろまった。
 前回もふれた劉明福大佐は、アヘン戦争以来列強に辱められた中国は大国として復活した、世界の重心は北京に移りつつある、と『中国夢』(中国友誼出版、2010年)で述べ、経済的にも軍事的にも中国が米国を抜くのはいまや時間の問題、とすこぶる調子がいい。1933年に出た平田習策の『われ等若し戦はば』は、山中峯太郎の『亜細亜の曙』などと同じく、元軍人の手になる書物だが、日本では青少年向け読物のように扱われた。ところが、現役の劉大佐の『中国夢』は『夢』の語がついているが、習近平の2013年3月の国家主席としての宣言『中国の夢を実現しよう』の教本ともいうべき、軍人イデオローグの手になる一冊で、もっともらしい理由付けが列挙されている。ポスト・アメリカ時代、中国は世界一を目指す、という大中華主義歴史観が明晰に披露される。以前は読みさして肩肘を張った誇大妄想と笑って読み捨てた。だが近頃は中国外交部の楊潔篪(ようけっち)の世界観もこれなのか、とそら恐ろしくなってきた。
 劉明福国防大学教授は言う、世界を通観して、中国に非は無い。中国はかつて新世界を発見して植民地を奪ったこともなければ、アヘンを売ったこともなければ、侵略したこともない。それだから中国は次の世界の指導的地位に立つ重要な道徳的条件を備えている。来るべき世界は『黃福時代』である。米国が進んできた道は覇道だが、中国が進む道は王道だ──。
 読むうちに、戦前の日本で軍やそれに追随する評論家が、満州に王道楽土を建設する、とか、日本が黄色人種の先頭に立つ、とか、威勢のいい歴史認識を述べたことが、思い出された。だがそんな幸福な『黃福時代』は来なかった。
 ■毛を奉る国とは不仲がいい
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 だがスターリンの死後、共産党内部でフルシチョフによるスターリン批判を行ったソ連と違い、中国では毛体制を批判しなかった。そのつけがまわって来たらしい。大躍進や文化大革命の悲惨な記憶が薄れだした今、温存された毛沢東の権威を掲げることで、習近平は一身に権力を集中、汚職を摘発、裏で政敵を陥(おとしい)れ、国民の人気も博した。そして周囲が怯(ひる)む隙に、専制支配体制を確立した。習終身主席とはとりもなおさず習皇帝ということだ。
 ただし皇太子は決められず、安定的な政権移譲は望めない。次は誰が。失政した際、責任をとらされるのは誰か。自分か。内部には疑心暗鬼が、外部には、軍事緊張が高まる。愛国心の昂揚は習レジームに有利に働く。習と軍と公安の依存関係は更に進むだろう。そんな『逆走改革』を嫌う人は、留学帰りをはじめ、中国内にもいるが、いまや大陸は徹底した監視体制の警察国家だ。習批判を述べる自由はない。誰が中国のベリヤとなるのか。最初に処刑されるのは誰か。
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 河合栄治郎の大アジア主義批判 
 東大批判の大学院でも、私は留学生を多く教えた。多くいた韓国出身者の中には『日帝支配』の過去を非難する者もいた。そう主張したい気持ちは当然だろう。しかし自国の教科書で習った通りの歴史認識*2を来日して繰返すだけでは能がない。具体例に即して調べる方が、学ぶ側にも教える側にも有意義だ。双方からするアプローチが生産的だろう。複眼で眺めれば、国際的な視野も自ずと開ける。私は河合栄治郎(1891~1944)の場合を、自分でも調べ、韓国学生にも発表されることにした。私が定年で駒場を去るすこし前、昭和天皇が亡くなられた頃である。
 なぜ河合を選んだか。
 西洋の植民地支配からアジア解放を唱え日本は戦争に突入した。だがその日本は植民地帝国とおして朝鮮を支配していた。その矛盾を指摘した人が河合栄治郎だからである。
 河合は昭和8年11月号の『文藝春秋』で犬養首相を暗殺した少壮軍人の大アジア主義思想を批判し、もし『同等の領土的野心を持たないで、ただアジアに於て日本が外国と平等の通商貿易をなすことを目的とするならば、直截(ちょくせつ)に通商の自由を標榜(ひょうぼう)した方が実効性も多い』と言い、日本がアジア解放をリードするについては『内部に於て同胞に対してさえ』、すなわち自国の植民地の人々に体してさえ、十分の自由を与えていに以上、その日本からアジアの人はどれだけの期待を持ち得るだろうか、おそらく『日本の力を借りることに賛成しまい』と日本人を戒(いまし)めた。
 *2 歴史認識はどうにでも言える。1970年代、韓国からの訪問学者は来日当初は『日本はまた韓国を征服に来る』という脅威認識を大声で唱えたが、滞在するうちにさすがにそんな大袈裟な事は言わなくなった。私は日本人が『米帝支配の7年』などと大袈裟に騒がないことを、結構な事と考える。敗戦国日本が、ロシアや中国や朝鮮に占領されていたなら、それこそ悲惨であったろうから、米国の占領は相対的に良かったのである。
 20世紀初頭、朝鮮半島は中国かロシアか日本か、いずれかの影響圏にはいらざるを得ない状況にあったのではなかったか。Wishful thinking(希望的観測)をすれば、当時の半島には統一近代国家が成立する可能性はあった、と言い張ることもできもしよう。そしてそのような夢物語にすがりたい心情の人々が、21世紀の初頭に南北融和の統一近代国家が成立することを夢見て、失政を重ねるというのが現実ではないのか。20世紀の初頭、中国やロシアの支配よりはまだましとして、次善の策として日本と組むことを選んだ朝鮮半島の人々が絶対的に間違っていた、と断定するのはいかがなものか。台湾にはかつて大陸ではなく日本の影響下にはいったことの幸福を認める人がいる。ただしそのような認識は、言論の自由が認められない空間と時間の内では話題にすることすらできない。
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 ■河合の外国交際
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 1922年、今度は若き東大教授として渡英、名士を歴訪して、臆する風がない。ウッドブルック・コレッジに寄宿中、日本及び極東について2回講演した。そこには日ごろ日本に対する反感を周囲に洩らしていた、6歳若い韓国留学生尹潽善*3({いんふぜん、ユン・ポソン}1897~1990)がいた。河合は明治維新から説き起こし、日清日露の戦争を経、いかに日本が帝国主義的になったか、その因果を語り、日本外交の難(なん)ずべきを難じ、東亜の小国日本をこの方向に赴かせた欧米の政策の責任にも触れた。
 ■尹潽善との論戦
 すると尹が立って『先ほど日清戦争は朝鮮をシナより救うが為に起こったと説かれたが、果たして朝鮮は救われたか。シナより救われた朝鮮は日本の支配の下に落ちた』と述べ、1919年、3・1独立運動の際の日本側の弾圧を非難した。河合の《朝鮮のこと》(昭和2年)にその模様は詳しいが、日本の圧制を訴える尹青年の顔は青ざめ、声は激(げき)した。平和主義のクェーカーの学校だけに、聴衆の顔に弱国朝鮮への同情と強国日本への反感が明らかに読まれた。
 河合は弁明した。自分は日本の朝鮮における政治に詳しくない。尹氏の内容を否定も肯定もできない。
 『ただ敢えて尹氏に聴いて戴かねばならないことは、自力を以て自国を防ぎえない国を隣りに持つことは、日本にとって大きな不幸であった。この不幸をしてあなたの云われるような非暴の誘惑に陥れたのである』
 すると聴衆は、今度は拍手で、河合の見方を受け入れた。河合の英語原稿断片には『一国民が他国民を支配するのは最大の難事で普通の人間にできることではない。相手の心の琴線(きんせん)に触れるような大人物でなければこんな大事業に成功できるはずはない』とある。
 ……1932(昭和7)年、5・15事件の直後、河合が軍人たちの大アジア主義の虚妄(きょもう)をつき、日本は自らが植民地を抱えて、その同胞に対しても充分の自由を与えていない。それなのに、アジアの植民地解放という正義の御旗(みはた)を掲げる資格はあるのか、と冷静な疑義(ぎぎ)を呈した。河合は尹が突きつけた問題の深刻さを感じたからこそ《朝鮮のこと》で、『あらゆる日本の人としての問題の一部であることを感ぜしめた』と言い、『朝鮮の人達がどれほど(統一国家独立維持の)力を持っているかも私の知る所ではない。然し少なくとも朝鮮は朝鮮人のものであり、日本は朝鮮人の為の朝鮮を考えて行くべきことだけは明らかであろう』と結んでいる。
 ■『日本人への黙秘権』
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 ■三島由紀夫に睨まれる
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 ■《5・15事件の批判》と《2・26事件の批判》
 『アジア諸国は独立を回復することを熱望することは確かである。然し日本の力を借りることには賛成しまい。何故ならば英米の宣伝により日本を誤解している点もあろうが、日本の過去の外交史が彼等に疑惑を抱かしめるからである。英米を排して日本を代わりに引き込むならば、彼等は寧(むし)ろ英米の方を選ぶだろう。英米には不徹底なりとも自由主義的思惑が浸潤(しんじゅん)している。異民族を統率するに就いて彼等は日本人よりも妙諦(みょうてい)を解しているからである。アジアの諸国に於ける日本の信用をば、吾々は決して過超評価してはならない』
 昭和初年、プロレタリア独裁を肯定する左翼共産主義が盛んとなるや、河合はそれを批判した。が満州事変以後、青年将校が暴発、右翼国家主義が台頭するや、今度は軍部専横を批判した*4。河合の《5・15事件の批判》《2・26事件の批判》は堂々たる論である。当時の河合は、生命の危険もかえりみず、東大教授の職を賭(と)し、軍部を批判した。そんな河合だったが、1939(昭和14)年、大学当局から休職処分とされ、東大を追われた。しかし河合が企画した『学生と教養』などの著書・叢書は戦争中も広く愛読された。
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 *4 今でもそうだが、真の自由主義者は、左右両面の敵と戦わねばならない。河合研究会で武田清子が『丸山真男が河合の衣鉢を継ぐ学者だ』と言うから、私は真っ向から反論した。右翼には手厳しいが左翼には甘い男が、河合の思想的系譜に連なるはずはない。
 ■自由主義河合栄治郎
 だが私は河合を尊敬する。河合は軍人の直接行動を毅然と否定した。なぜならそれは『国民と外国との軍に対する信用を傷つけ・・・軍人が政治を左右する結果は、国民に中には、戦争が果たして必至の運命によるか、或は一部軍人の何らかの為にする結果かと云う疑惑を生ずるであろう』。
 しかし当時のマスコミは犬養首相を殺害した『純粋な』青年将校を『昭和維新の志士』と称揚した。多くの人が助命嘆願書に署名した。世論に圧され、海軍の高須判士長は軍法会議で死刑判決を下す事ができない。その結果、国家の綱紀(こうき)は弛み、5・15事件に続いて2・26事件も起きた。そうなると、一部軍人の為にする結果というべきだが、大陸における戦線拡大を政府は止められず、日本はついに対米英戦争に突入した。
 そんな時代、大学を追われた河合は、起訴され、自己の思想信条を賭けて裁判に臨んだ。一度は無罪となるが、結局は敗訴、著書発禁、罰金刑に処される。だが日本は一党専制ナチス・ドイツ共産国とは違う。著書発禁というが、戦争中も河合の学生叢書は広く読まれ続けた。日本における言論の自由の幅は存外広かった。その証拠に私の家では、姉は『学生と生活』を昭和14年に、兄は『学生と教養』を昭和19年──兄の書き込みでは皇紀2604年──6月に、古本で求めている。だがその年の2月15日に、河合は満53歳で早世した。私は戦後昭和23年、『学生に与う』を読み、その溌溂とした精気と明るさに驚いた。とても苦境に立たされて人の文章とは思えない。私は河合が説く『友情』や『自我』の言葉に酔いしれた。
 ■国会突入で死んだ人は暴徒か殉教者か
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 さらに問題なのは戦後の『純粋な』学生称揚の言葉と戦前の『純粋な』青年将校称揚の言葉の類似であろう。
 ■戦後のタブーに抗して
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【復刻版】河合栄治郎「ファッシズム批判」ー発禁・追放の契機となった自由主義からの国家社会主義批判 (響林社文庫  )
【復刻版】河合栄治郎「学生に与う(全)」―河合栄治郎全集第14巻所収 (響林社文庫)
【復刻版】河合栄治郎の「マルキシズムとは何か」 (響林社文庫)
【復刻版】河合栄治郎の「学生に与う 第2部―私たちの生き方」 (響林社文庫)
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であって加害者ではなかった。
 人間的事実として、日本人には人道貢献・平和貢献を行ったいい日本人もいれば戦争犯罪を行った悪い日本人もいたが、多くは何もしない傍観者日本人か同調圧力・場の空気で動く無自覚日本人である。
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 自由主義者河合栄治郎は、プロレタリア独裁左翼共産主義と軍部独裁の右翼国家主義を激しく批判した。
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 真のリベラル(自由主義)は現実主義者(リアリスト)として、理想主義(アイデアリズム)、マルクス主義共産主義全体主義ファシズム・ナチズム、過激国家主義国粋主義などを激しく批判する為に、左翼・左派そして右翼・右派を敵にまわす。
 それ故に、ヒトラースターリン毛沢東ら独裁者はリベラル派を弾圧し、虐殺し、焚書を行った。
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 昔の朝鮮、朝鮮人、現代の韓国、韓国人と北朝鮮朝鮮人が、親日を排除して反日となって敵日国家に味方するかどうかは彼らの自由であって、日本がとやかくと干渉する権利はない。
 日韓・日朝における歴史問題とは、国際法が認める朝鮮の国家主権である外交選択権を軍国日本が否定して暴力的に侵害し強奪した事が問題なのである。
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 西洋の植民地であるアジア諸国・諸民族は、白人支配からの独立する為に日本の力を借りたいとは思ってはいなかった。
 日本の軍事力を借りて独立を目指した人々は少数の過激派で、多数の穏健派は自力で時間を掛けても合法的平和的な話し合いでの解決を目指していた。
 つまり、日本は今も昔も信用されていなかったし愛されてもいなかった。
 歴史的事実として、東洋、アジアという共同体意識・同胞意識など存在せず、アジア主義とは日本人が白人に対抗し、日本が西洋列強に代わってアジアの指導者(支配者)になる為に急いで作ったウソで悪のイデオロギーであった。
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 近代天皇制度国家日本は、中国と朝鮮が日本を侵略しようとうる西洋列強に味方・協力するから、民族国家存続危機と判断して積極的自衛戦略から攻撃し粉砕した。
 反日派の朝鮮王国はロシアから巨額の賄賂を得て、日本侵略目的の軍事基地建設の許可を与えて希望する地域の使用自由権を売った。
 日本は、ロシアの大軍団による日本侵略を最大限に警戒し軍事行動を神経を尖らせて注視してきただけに、朝鮮王国内でのロシア軍の動きに恐怖していた。
 朝鮮には、国内の治安を維持する弱小軍隊・警察はあっても、外国から国を自力で守る強力な軍隊を持っていなかった。
 孤独な日本としては、朝鮮半島を日本侵略の軍事基地・最前線基地・出撃基地にする事を許容できなかった。
 日本にとって朝鮮問題の原因は朝鮮国内にあって、日本は被害者であって加害者ではない。
 日本が助かり生き残る為には、朝鮮を日本に都合の良い条件で処分する必要があった。
 これは、日本の朝鮮主権無視の国家エゴである。
 この延長線で、日韓併合3・1独立運動暴力的鎮圧が行われた。
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 日本は、ベルサイユ講和条約で「人種差別撤廃条項」を提案したのは欺瞞であり、もし人種差別撤廃条項を主張するのであれば、まず「隗(かい)より初めよ」的に植民地朝鮮を解放し「虎を野(国際的反日勢力へ)に放つ」べきであった。
 それは、日本と親日諸政権勢力の中間に反日・敵日・侮日で利敵を行う朝鮮国樹立を許す事である。
 当時の日本には援軍を派遣してくれる味方・友好国・同盟国がいなかった為に、日米安保で守られた能天気な現代日本を様な、裏切りを権利として寝首を掻に来る・不意に背後から襲い来る事を甘受するほどの、肝っ玉が座った物事に動じない寛容さはなかった。
 つまり、日本人は猜疑心が強く臆病で度量が狭いのである。
 現代の国際世論は、韓国・朝鮮に味方し日本を批判・非難している。
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 明治新政府が日本の近代化として軍国主義国家へと暴走した理由は、江戸時代後期に北から押し寄せてきた「キリスト教国ロシアの侵略から日本を軍事力で守る」を選択したからである。
 軍国日本の大陸戦争とは、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく「火の粉は自力で払う」という積極的自衛戦争で、ロシアの侵略を国外・海外で阻止・粉砕する為で、その戦場が中国・満州朝鮮半島であった。
 中国(当時は清国)と朝鮮は、ロシアの侵略からアジアを守る為に日本と三国軍事同盟を結んでくれたら問題はなかったが、その逆にロシアの日本侵略に協力していた。
 日本は自国防衛戦略として、利敵行為を行う中国(当時は清国)と日清戦争を行い粉砕し、朝鮮国内にロシア軍基地を提供しようとする反日派・敵日派と親ロシア派を内政干渉で排除して親日政権を樹立し日韓併合を行った。
 が、そこに新たな恐ろしい敵としてソ連コミンテルン中国共産党・国際共産主義勢力が出現し、世界の労働者・人民の正義と権利から日本人共産主義テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストに昭和天皇と皇族の暗殺を命令した。
 共産主義は、反天皇反民族反日本であり、反宗教無神論であり、天皇制度国家日本を根底から破壊するべく大虐殺を行う暴力的人民革命を起こそうとしていた。
 日本国・日本民族は、祖国防衛の対抗策として悪法の治安維持法を制定し、不敬罪・大逆罪で反天皇反民族反日本の思想弾圧と反天皇神道の宗教弾圧を行った。
 天皇中心の国體を護持する為に戦ったのが、軍国日本の近代史・戦前史である。
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 天皇を護った勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民、賤民、部落民、異能の民、異形の民、芸能の民など差別された身分的に賤しい下層民達であった。
 日本民族が、キリスト教を嫌ったのは、戦国時代に中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人奴隷交易で金儲けしていたからである。
 幕末における外国人惨殺事件という攘夷運動は、そうした人を人として認めない奴隷交易を神の御名によって容認するキリスト教の宗教侵略に対する正当防衛から起きた。
 つまり、戦前の軍国日本が掲げた「聖戦」にはそれなりの正当な理由があった。
 軍国日本の聖戦は人権であって宗教やイデオロギーではなく、ましてやイスラム原理主義者、ムスリムテロリスト、宗教的凶悪殺人鬼らが叫ぶ「ジハード=聖戦」とは次元が違う。
 日本の行動原理は、宗教やイデオロギーではなく、日本天皇・日本国・日本民族帰化系日本人も含む)の3者による相互補完共生である。
 外国由来日本人でも、帰化系日本人と渡来系日本人は別人である。
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