🏹44〕─1─明国が、日本人を中国から追放し、日本国との国交回復を拒絶した理由とは。~No.135No.136 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ポルトガル人やスペイン人は、日本人を奴隷として売買し傭兵として戦場に送っていたが、日本や中国などアジア全域で社会の発展に貢献し、いい事もしていた。
 とりわけ、日本にキリスト教や火縄銃・火薬・造船などの最先端技術と西洋の知識をもたらした。
 ポルトガル人・スペイン人らが日本に残した足跡のお陰で、好奇心旺盛な日本人の未知なる西洋の憧れとなり蘭学へと繋がった。
 蘭学によってもたらされた西洋の知識・技術が、江戸時代を中世から近世へと飛躍させ、近代への基礎を築いた。
 つまり、ポルトガル人やスペイン人は、日本人を奴隷として売買した悪い事もしたが、近代国家・技術大国への端緒を開くといういい事もした。
   ・   ・   ・   
 ポルトガルの日本に対する歴史的功罪を比べれば、罪過よりも功績の方がはるかに大きい。
 日本民族日本人は、多様性と柔軟性と寛容を持つがゆえに、ポーランドに対して謝罪を求めず、和解と友好の為に感謝を捧げる。 
   ・   ・   ・   
 ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』
「…… 
 Ⅰ マカオ
 本章から先は、16世紀後半から17世紀にかけて、スペイン・ポルトガル勢力が支配的であった地域での生活の痕跡を残した日本人に関する情報を、1次史料から抽出してしていく。彼らの点在の有り様を、大航海時代のスペイン・ポルトガル両国を出自とする商人たちの交易ネットワークと密接にリンクしている。そしてその中で、『奴隷』的形態にある人々の姿も浮かび上がってくる。
 まず手始めに、日本と一番つながりの深いポルトガル人の港を取り上げる。17世紀初頭には、かなり多くの日本人が居住していたと思われるマカオであるが、その日本人コミュニティの有り様を正確に描き出すことは、実際のところ容易ではない。というのも、明朝当局が、16世紀の寧波(にんぽー)の乱(1513年)による日明貿易の断絶と、その後の後期倭寇の活動により、日本人の入国を厳しく警戒していたため、マカオに日本人が居住していたという事実は、本来ならば許されないことであったから、それについて言及する文献が非常に限られているためである。
 ……
 日本人傭兵
 マカオにいた日本人は、奴隷、自由民といった身分にかかわず、マラッカ、ゴア、マニラ同様に、後述の職業の他、兵隊/傭兵として働くことがあった。マラッカでは1600年から1614年の間、町の警備役として、マレー人兵の他、日本人傭兵はいた。1606年、オランダ人の艦隊長マテリエフがマラッカを攻撃した際のエピソードには、アンドレ・フルタード・デ・メンドンサ隊長の指揮下のポルトガル人、マラッカ生まれの混血、先住民、さらには各地からの奴隷が、マラッカまで商用で来ていた日本人の船の加勢を受けたことが知られている。また、ゴアの市参事会関係の文書でも、島を守備するに日本人の奴隷兵の必要性が述べられている。同じ分脈で、もし日本人奴隷が解放さされば、現地人に加勢して反乱を起こす危険性も危惧されていた。その事実は、ゴア在住の日本人が非常に多かったことを示唆している。
 フィリピンでは、1596年1月18日、日本人傭兵のグループがスペイン軍のカンボジア遠征に参加した。2年後の1598年、別の日本人グループが、スペイン軍に参加し、二度目のカンボジア遠征へ出発した。1603年10月6日、マニラで起きた在住中国人(サングレイ)の大虐殺には、スペイン軍とともに、人数不明の日本人と1,500人のパンパンゴ先住民とタガログ先住民が加わった。1597年4月16日、フェリペ2 (スペイン王。在位、1556〜98。ポルトガル王としてフェリペ1世)は日本人に対し、マカオ市内での武器使用を禁止する法律を布告した。この法律に反した場合、厳しく罰則を科されることとなった。
 マカオでは、兵隊/傭兵には自由民か奴隷の二パターンがあった。日本人で奴隷の場合は、単独行動でも従者として行動している時でも、いかなる大きさの刀剣類も帯同することは禁じられていた。その命令に背いた者は、日本人奴隷であればインドのガレー船での終身漕役刑が科せられた。自由民であれば同じガレー船で10年の同刑となった。
 1592年、マニラでも同様の方策が採られた。総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは、マニラ在住の日本人の兵力を恐れ、同地域の日本人コミュニティの弱体化を図った。そのため、日本人コミュニティはマニラ市中心から離されディラオ地区へ移され、あらゆる武器が没収された。
 とはいえ、マカオでは、この法律に従う人間はいなかった。なぜなら、一般市民も宗教関係者も、これらの傭兵を必要としていたからである。
 マカオではこれらの傭兵の活動に、アフリカ人奴隷も参加していた。うち多くが『カフル』と呼ばれるモザンビーク出身者であり、ポルトガルの貿易商人たちに雇われていた。マカオには多くのモザンビーク人が住んでいた。
 彼らが日本やマカオなどの極東へ至る来歴は、概ね次のようなものであった。インド航路を渡るナウ船は、ほとんどの場合アフリカ東沿岸のモザンビーク港に立ち寄る。そこでは奴隷を安値で仕入れることができ、彼らはゴアで売却された。さらに彼らはアジアのあらゆる地域へ運ばれた。とりわけマカオでは、モザンビーク人奴隷は高値で取引され、裕福な商人たちは彼らを日本への航海に同伴させた。彼らの姿は、1622年長崎でおこなわれた宣教師の大規模な処刑、いわゆる元和(げんわ)の大殉教を描いた絵画(ローマのジェズ教会所蔵)にも、処刑劇の観客として描かれている。
 興味深いことに、アフリカ人奴隷あるいは傭兵の多くは、給料を受け取り、自分のために奴隷を購入することもあった。1598年の記録では、アフリカ人奴隷が長崎で日本人奴隷を買ったというものがある。また、ファン・ビスカイノという名のアフリカ人奴隷が1631年、日本人奴隷ファン・アントンを解放したという記録もメキシコに残っている。ファン・アントンが解放に要した費用は、100ペソであった。
 自ら身売りする人々と奴隷の末路
 16世紀末、マカオ在住の日本人人口は増加傾向にあった。カピタン・モールや私貿易商人の船が毎年のように日本へ渡航し、その乗組員として日本人がマカオへ到来したからである。日本人がポルトガル船の乗組員になる背景は、複雑であった。多くが犯罪者や、借金、貧困などから逃れようとする者たちであった。海外渡航を目指す日本人には、マカオは黄金郷のように見えていたのであろう。中には奴隷の売人が提示する条件を受け入れて、自分で身売りする者もいた。奴隷になるには本人の同意が必要であったが、こうした人々は自分がどういった立場に置かれ、どのような仕事に従事するのかということさえ知らなかった。
 マカオへ着くや否や、日本人は失踪すると言われていたため、ポルトガル人の中には、日本人を乗客として乗せたがらない者もおり、マカオへの渡航を望む日本人の中には逃亡しないことの保証として、売人に自身の身柄を売り渡して、あえて『奴隷』身分に落ちる者さえあった。奴隷の売人は日本人の認識不足と、海外で新しい人生を始めたいという欲求を上手く利用して、容易に奴隷を集めることができた。こうした人々は、マカオからさらにポルトガル人の要塞や駐屯地へと売られていった。
 さらにこのような奴隷の、マカオにおける悲惨な境遇もまた事実であった。たとえば、主人が没し、遺言状により自由の身が約束された日本人奴隷の中には、解放後、犯罪に手を染める者もいた。彼らは集団で、マカオに食料を売りに来る中国人たちを襲うこともあった。
 16世紀末、事態はさらに深刻なものとなった。貧困者たちは強盗集団を結成し、一般市民を襲い始めた。スペイン国王フェリペ2世(=ポルトガル国王フェリペ1世)は、この状況に何度も介入せざるを得ず、度々司法官を派遣したり、地元の当局に対し、こうした罪人の捕縛を指示した。
 フィリピンのスペイン人たちと外交面で問題が生じた際、ポルトガル人は復讐の手段としてアルコール中毒者、強盗、犯罪者など、厄介な奴隷を集め、船に乗せ、マニラへと送った。その中には日本人も含まれていた。マニラで売り出されたこの種の奴隷は、マニラ市内で数ヶ月にわたり混乱を引き起こした。1605年から1608年の記録には、こうしたポルトガル人のやり方に対する多くの不平、不満が記されている。
 マカオでの生活に不慣れなまま、主人から離れ、自由民となった日本人は、女性の場合、生きる術として、売春を選ぶことも多々あった。
 またゴアからマカオに至るポルトガル領では、病気で働くことのできない高齢の奴隷が、しばしば道に捨てられ、誰にも拾われることもなく孤独死する姿も見られた。こうした高齢の奴隷はまったく利益を生まず、養うのは経済的な負担であり、また彼ら自身、生きていく術を持たなかったので、主人は自死を命じた。この状況を目の当たりにした教会当局は、1606年、主人が奴隷の末期の面倒を見ないのであれば、その奴隷は解放されるべきこと、そして誰にも拾われず、治療を受けられない場合は、その地のミゼリコルディア(慈善院または救貧院)の院長と修道士たちが身柄を引き取り、貧困者向けの病院に収容することを決定した。
 日本船のトラブル
 1608年頃、ポルトガル人に仕える日本人傭兵に加え、マカオに到来する日本人奴隷の数が増加した。そのため、マカオポルトガル居留地における日本人の存在に対し、中国当局は黙認し続けることが難しくなってきた。ちょうどその頃、九州の大名有馬晴信が遣わした朱印船に乗ってマカオに到来した日本人の船員と、マカオポルトガル人たちの間に争いが生じた。俗に言う、マカオ事件である。3、40人からなる、武装した日本人集団が我が物顔でマカオの町に逗留していた。そして、この一団がマカオ市民のジャンク船1隻を船ごと盗もうとする事件が発生した。
 以下、事件の詳細と経緯を、大航海時代史の泰斗(たいと)ボクサーが紹介した史料によって流れを追ってみる。その文献によれば、彼らの目的は町を掠奪し、奪ったジャンク船で日本へ帰ることであった。
 その窃盗事件を解決するため、明朝官憲は、当局に渦中の日本人を引き渡すよう伝えた。明朝によるマカオポルトガル居留地行政への干渉を憂慮し、その命令を受け容れ難いマカオポルトガル当局は、日本人に対し、明朝の兵士たちに見つからないよう、変装し武器を隠すこと、もし従わない場合、マカオから生きて出られないであろうと伝えた。その最中、ポルトガル人とマカオにいた別の日本人集団の間で新たな争いが起きて、状況は悪化した。
 ポルトガル当局は、中国当局を過剰に刺激することなく、この争いの鎮静化を図ったが、その試みに日本人の暴徒化により失敗し、致命的な様相へと発展した。オウヴィドールお呼ばれる特別治安院判事が重傷を負わされ、マカオの有力市民の息子が戦闘に巻き込まれて死亡し、ポルトガル人数人とその奴隷たちが負傷した。この争いの最中、日本人の中には戦いを放棄した者もいたが、戦闘を継続した日本人は、一軒の民家に立て籠もり、そこに有馬家の家臣たちも参入した。立て籠もった者たちは、計約40人となった。武器を捨て、当局に身柄を拘束された者たちは、軽い罰を受けた後、解放された。しかし、民家に籠城した日本人たちは、結果としてほとんど全員が殺害された。わずかな生存者は、イエズス会の神父らの仲介もあって、家から出て、処罰を逃れた。
 この事件後におこなわれた調査では、現場にいたとされる日本人から証言が集められた。その後、事件の首謀者と見られた一人の日本人が処刑された。そのエピソードから、その争乱には有馬家の家臣を含む船の乗組員にとどまらず、マカオ在住の日本人コミュニティの者たちも参加していたとわかる。後者の多くがポルトガル人に雇われた傭兵であった。
 明朝当局の日本人に対する警戒
 その争乱の経過と結果は、明朝当局を警戒させることとなった。明朝当局には、マカオに滞在を許可したポルトガル人の社会が、当初とは異なる様相を帯びてきているように感じられたのであろう。それまで、ポルトガル人は単に遠隔地との交易を任された存在であった。黙認してきたマカオにおける日本人の存在は、今回の騒乱によってもはや見過ごしえないものとなり、またポルトガル人に対する信用も揺らいできた。明朝当局の警戒を察知したマカオポルトガル当局は、その状況をできるだけ穏便に収束させようとしたのだが、結果は裏目に出てしまった。
 1614年、実質的にマカオを管理する広東省の両広総督(広東省・広西省の総督)張鳴崗(ちょうめいこう)は、マカオから日本人を追放する命令を下した。またポルトガル人が日本人の居留を認めてきた行為そのものが、明朝当局にとっては、裏切りとして認識された。
 この問題の処置のため、明朝官憲たちがマカオを訪れると、港湾地帯は黒人と日本人奴隷で溢れかえっていた。そこで、明朝官憲は日本人90人以上を追放した。しかし、ポルトガル人が新たに日本人を連れてくるのではないかと懸念して、もし新たにポルトガル人が、マカオに日本人を連れてくるなら、その者を明朝の法に従って断首の刑に処すと脅した。
 明朝からの圧力に対し、ポルトガル人らは、自らの正当性のため、マカオ租借当初からこの地に滞在してきた『古ポルトガル人』の商人らは、中国当局が定めた法律に従っており、広東沿岸を襲う海賊との戦いを通じて、秩序の遵守に貢献した、と主張した。マカオの日本人問題の責任を回避するため、マカオに日本人を連れてきているのは、中国人とアフリカ人傭兵たちであると主張した。
 さらに、マカオ市の代表は、ポルトガル人と日本人の関係の悪化を示すために、マカオ事件に連鎖した1610年に長崎港内で起きた、いわゆるマードレ・デ・デウス号(ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号)事件について説明した。それは、1609年にカピタン・モースとしてマカオから長崎へ渡ったアンドレ・ペッソアが、その年の末、長崎奉行有馬晴信の軍勢に襲われて、船員・船もろともに自爆した事件である。この事件は、1608年にマカオで起きた事件に対する復讐行為であると認識されており、マカオと日本の通商はこれにより中断された。加えてポルトガル人たちは、マカオに日本人が居留するのは、中国人の海寇がその地へ連れてきたためであると主張した。その後も、マカオには日本人のコミュニティが存続したが、1614年の90人の日本人(おそらく傭兵)の追放により、いったん事態は収束したと思われる。
 キリシタンの移住
 ところが同年、今度は日本国内のキリシタン問題により、マカオに多くの日本人が到着した。1614年1月21日、江戸幕府は日本の国土から伴天連(バテレン)、つまり宣教師の追放を命じ、それに主だったキリシタンたちも随行した。宣教師や知行地を失った有力な日本人キリシタンを乗せた3隻の船のうち、1隻はマニラへ、残り2隻はマカオに向かった。各船には約100人のキリシタンと宣教師が分乗したと言われるから、この時出国したのは約300人ほどであったと推測される。その年、マカオ港に到着した日本人の正確な数は不明であるが、1614年12月21日、マニラには、33人の教会関係者と100人の日本人が到着したという記録があるので、おそらくマカオに到着したのは200人前後であったろう。
 この時代、日本人の奴隷取引は、あらゆる方面で禁止されていた。にもかかわず、『モッソ・デ・セルヴィッソ(期限の有無を問わない奉公人)』たちは、イエズス会の宣教師に随行してマカオに渡った。ポルトガル側の文献によれば、長崎奉行所はこれらの日本人の奉公人が出国するのを阻止しようとして、神父から引き離したとある。しかし、中には奉行所の監視を逃れて、乗船した者もいた。
 すでにその時期、諸事情により、日本人奴隷の取引はマカオの商人の収入源ではなくなっていた。当時イエズス会士たちは未だ日本人の奉公人を使用していたが、ヨーロッパやインドのイエズス会、スペイン・ポルトガルを同君統治下に置く国王フェリペ3世(在位、1598〜1621。ポルトガル国王としては、フェリペ2世)、日本の為政者たちはマカオの奴隷商人に圧力をかけ、日本人奴隷の取引をやめさせることに成功したのである。
 多くの日本人がマカオに到着した事実は、現地に大きな混乱をもたらした。そのような難民の受け入れ準備はできていなかったからである。とりわけ、日本から戻ってきた宣教師や彼らが連れてきた日本人のキリシタンが投宿したのは、マカオの聖パウロ寺院であったため、学院はたちまち人で溢れかえり、とても窮屈なものとなった。1616年の時点で、学院には10人の日本人学生がおり、ヨーロッパから来る聖職者に対して、日本語の教習が行われていた。初学者向けの入門レベルに始まり、すでに会話を習得した者が、より流暢かつネイティブのように話せるようになるための上級レベルのものであった。このような日本語教育は、近い将来、宣教師が日本人に扮装して密入国し、潜伏布教活動をおこなうための準備であった。
 1625年の住民台帳
 1625年、マカオの男性住民を対象とした人口調査が実施された。マカオ出生の市民と、他の地で出生し、マカオに定着した市民が調査の対象となった。また外国人の数も調べた。マカオ生まれの市民の大半は、ポルトガル人の父親と日本人、中国人、マレー人、朝鮮人、インド人などの母親の間に生まれた混血者たちであった。彼らはジュルバッサと呼ばれた。ジュルバッサの語源はマレー語で、本来は通訳を意味したが、マカオでは通訳はおおよそ混血者によって担われたため、この単語が別の意味で定着したと言える。
 この調査では、マカオに多数いたはずの他のアジア人の人種・民族別構成は扱われず、子供や女性の実数も不明である。1625年の時点で、マカオにはポルトガル系またはヨーロッパ系の男性が358人、混血の男性は411人、外国人は75人住んでいた。
 ……
 この1625年の史料からは、当時マカオにあったヨーロッパ人の居留社会は、徐々にその中核を、混血の子孫らが占めるようになってきた現象が明確にわかる。有名な探検家や航海者ではない、アジア各地に拡散したポルトガル人たちは、これまで歴史の中ではほとんど語られてこなかった。しかし彼らが歴史上果たした重要な役割は2つある。1つは、ポルトガル人が持っていた造船や操船、火薬製造の技術などを、全アジア地域に広めたことである。2つ目は現地に定住することで、現地社会と緊密なつながりを形成し、その子孫たちもまた、ヨーロッパとアジアの地域社会をつなぐ商業ネットワークを発展させた、ちう点である。
 明朝当局によって日本人のマカオ逗留は違法とされ、厳罰の対象であったことから、マカオの日本人コミュニティに関する情報は多くはない。しかし、これまで述べてきたように、マカオには多くの日本人がおり、社会の重要な構成要素であったことがわかる。これらの日本人の一部は、船員などの季節労働者であり、マカオと長崎の間を常に往来する者たちであったことを指摘しておきたい」
   ・   ・   ・    
 ヨーロッパは、戦闘能力が高い日本人傭兵を、味方に付ける事は心強いが、敵に回すと難敵になると恐れていた。
 明朝(中国)も、乱暴狼藉を働く日本人の入国・上陸を禁止し厳しく取り締まっていた。
 日本人の血に飢えた武勇伝は、アジアはおろかヨーロッパでも轟き怖れられていた。
 信義と名誉を重んじる日本人は、金・利に転び勝者に靡き強者に媚びへつらう中国人とは違って、金・利に転ばず敗者に同情し弱者に肩入れする所があった為に、理解できず不気味がられていた。
 西洋は、当時の日本の動員力と海外派兵の海軍力から帝国の1つと認識し、各地にある海外植民地を侵略するのではないかと警戒していた。
 特に西洋が恐れたのは、日本が植民地の奴隷化された先住民に同情し軍事力で味方する事であった。
   ・   ・   ・   
 ポルトガルやスペインは、日本人を奴隷売買できるうちは日本との友好関係を望んだが、豊臣秀吉徳川家康によって奴隷売買ができなくなると日本との関係を好まなかった。
 そして、日本人傭兵や日本人解放奴隷が徒党を組んで行う犯罪行為が急増するや、スペインやポルトガルは日本との関係が疎ましくなり、両国の植民地住民も日本との国交断絶と日本人の渡航禁止を切望した。
 中世キリスト教会は、日本のキリスト教化を「神聖な使命」として、日本の国禁を無視して宣教師を送り続けた。
   ・   ・   ・   
 明国・清国が、日本人を大陸から追放したのは日本人傭兵や日本人解放奴隷が徒党を組んで乱暴狼藉を働いたからである。
 自国内に他国人が移住して増えると確実に争乱となり、明国は他国人の争乱の中で滅亡し、明王朝関係者は他国人によって虐殺された。


   ・   ・   ・