🏹60〕─2─壬辰・丁酉倭乱。李舜臣。奴婢や白丁は、叛乱を起こして日本軍に協力した。1592年~No.189No.190No.191 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 朝鮮人は、強い方に味方して得られる利益や金を奪っていった。
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 日本人は、逃げる朝鮮禅を捕らえて、職人は本国に連行し武士の身分を与え、それ以外は中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人に奴隷として売った。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、奴隷交易で大金を稼いでいた。
 豊臣秀吉は、朝鮮人庶民を味方に付ける為に、出兵した諸大名に対し奴隷交易を禁止していた。
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 徳富蘇峰支那人朝鮮人は、約束を破る事を、何とも思わぬ癖がある」
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 川上参次「従来明はわれを蕃国をもって遇せり。秀吉封王の事もって見るべし。しかるに八道を蹂躙し明廷を震駭(しんがい)せしめしは、わが国の威を振い、相宗・先代将軍の恥を雪(そそ)ぎ得たりというべし。青山延光はこれをもって清朝元寇のごとき事をふたたびせざりしならんといえり。されどこれは明朝の時われを不征国の中に入れし事あるにも由るならん。跡を神功皇后に接し、よく天智の時、元寇の国辱を雪ぎ得たり、快なるかな」(『江戸時代史(上)』) 
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 朝鮮半島は、北部から日本海沿岸の東側は山岳地帯で、南部から渤海沿岸の西側は幾筋かの河川が流れる平野であった。
 朝鮮の城塞は、忍び返しを持つ石垣に守られた堅固な日本の城とは違って、石が崖の様に垂直に立った中国の城塞都市を忠実に再現したものであった。
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 豊臣秀吉は、朝鮮に渡る将兵に対して、朝鮮は命に従わず唐入りを邪魔立てするからには容赦せず、武将であろうと庶民であろうと全てなで切りにするように命じた。
 元寇の折りに、高麗軍と蒙古軍が対馬などで行った虐殺と同じ行為をする事を許した。
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 「壬辰倭乱」「丁酉倭乱」という呼称は、教養なき野蛮な倭人が中華皇帝に認められた正統な朝鮮に対して起こした反乱・謀反という事である。
 中華思想において「乱」とは、下位者が上位者に起こす叛逆行為である。
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 1592年4月12日 文禄の役。 日本軍16万人。日本軍は、朝鮮に上陸した。
 朝鮮王宮は、明国に救援を要請するかどうかで紛糾した。
 下層身分として虐げられ続けていた民衆は、横暴を極めていた両班への怒りから、各地で日本軍が来る前に役所や両班宅を襲撃して略奪と放火を繰り返し、逃げ遅れた女性を襲って強姦した。
 朝鮮人職人等は、職人を大事にする日本軍が来た事を喜んで日本軍の道案内を買って出た。
 日本軍兵士の多くが百姓であった為に、天水で水田に種籾を蒔く非効率な伝統的朝鮮式農法を見かねて、より多くの収穫を上げる為に計画的灌漑用水の日本式農法を教えた。
 そして、多少痛んだ食材でも食べられるようにと唐辛子を伝えた。
 キムチは、こうして生まれた。
 奴婢や白丁など下層民は、日本軍が到着する前に各地で叛乱を起こし、役所を襲い、役人を殺害して、全ての公式文書と自分達の記録を焼却した。そして、金銀財宝を奪った。
 半島各地で、同様な暴動が起きていた。
 両班によって人間以下の扱いを受けていた朝鮮人職人の多くが、職人を大事にする日本軍の庇護を受けるべく日本軍営に逃げ込んだ。
 張靖『壬辰日記』「総じて倭乱の輩らの中で、我が国の人々が半分ほど混ざっていて、顔なじみな者等は紙で仮面を作って使用し、倭賊を先導した」
 紙の仮面は、朝鮮人の全人格を否定する為に日本軍が行った非人道的行為と非難されている。
 4月30日 首都ソウル守備隊の金命元と李陽元の両将軍は、日本軍の猛進撃に恐怖し、日本軍がまだ見えないにも関わらずソウルに火を掛けて逃走した。
 朝鮮兵や民衆は、暴徒となって、燃えさかる王宮や貴族の館を襲って高価な物を略奪した。
 下層民等は、身分の記録を保管している掌隷院と刑曹を襲撃して公文書を全て燃やした。
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 新羅朝鮮半島を統一してから、新羅・高麗・李氏朝鮮は自力で侵略軍を撃退した事はなく、領民を見捨てて逃げ回った。
 たとえ。侵略軍が領民を虐殺しても、朝鮮の指導者は助けなかった。
 侵略軍が撤退するのは、朝鮮が屈辱を受け入れて臣下の礼を取るか、奪う物がなくて引き上げるか、朝鮮が中華帝国に泣きついて大軍を派遣してきた、その3つであった。
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 5月 朝鮮国王は、戦う事なく国民を見捨てて平壌に逃げ込み、明国に独力では日本軍を撃退できないとして援軍の派遣を求める事を決めた。
 明国軍の兵糧を賄う為に国庫を開いたが、官吏による横流しで殆ど残っていなかった。
 朝鮮の国庫にあるはずの食糧がなかった事は、食べ物を現地で調達しようとした日本軍も明国軍も誤算であった。
 李氏朝鮮は、宗主国・明国の兵隊を「天兵」と呼び、日本軍兵士以上に乱暴狼藉を行う事を知っていたがゆえに恐れていた。
 正統派儒教価値観を持つ明国兵士は、大国にペコペコと媚び諂う朝鮮人を軽蔑し、見下して差別していた。
 李氏朝鮮は、明国軍兵士の乱暴狼藉を恐れる余り、明国に救援を求めるのが遅れた。
 5月2日 加藤清正軍は、漢江を渡り灰燼と化したソウルに入城したが、やむなく南山の南麓を野営地とした。
 逃亡した住民は、5月中旬までにソウルに安心して戻った。
 身分差別と重税と搾取に苦しめられた常民や奴卑らは、日本軍の兵站輸送などで協力した。
 日本軍は占領直後の為に、武器を持って抵抗しない限り生命財産を保障した。
 朝鮮人は、略奪品を高値で日本軍武将等に売りつけて大金をせしめていた。
 朝鮮の官吏や儒学者等は、階級差別で虐げられた庶民を当てにせず、敗残兵を集めて義兵軍を組織し、ゲリラ戦で日本軍の兵站部隊を襲撃した。
 『軍功冊』 義兵86名中、軍出身者69名、奴卑12名、常民6名。 
 5月末 明国は、朝鮮は実は日本軍の明国侵略を手引きしているという偽情報を確かめる為に、日本軍の情報を収集すると言う名目で朝鮮に使者を派遣した。
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 豊臣秀吉は、首都漢城を攻略した知らせを受けるや、朝鮮を明国への侵攻基地とするべく小西行長加藤清正ら諸将に9ヶ条の占領政策を指示した。
 逃亡した朝鮮国王を捕縛する事。
 朝鮮民衆に日本軍に逆らわず従う為の法度を徹底させる事。
 朝鮮民衆の反感や敵意をかわない様に日本兵士の狼藉を厳しく取り締まる事。
 秀吉の出陣に備えて漢城に御座所を造営する事。
 戦乱で四散した朝鮮民衆を元の家に呼び戻して、以前の様に生活させる事。
 その他。
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 李舜臣が率いる朝鮮水軍は、緒戦に於いて日本水軍を破って補給船を襲って戦果を上げたが、日本水軍が対抗策を講じてからはゲリラ的戦法で何とか抵抗を続けていた。
 李舜臣の閑山島海戦や鳴梁海戦など幾つかの局地的勝利は、半島全体の戦局に影響を与えるほどのものではなかった。 
 李舜臣の亀甲船による奇襲攻撃は最初は成功したが、出撃回数を重ねるうちに日本船団の反撃で戦果が出なくなった。
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 6月15日 日本軍は、平壌を占領して進軍を止めた。
 予想以上の快進撃によって、兵站線が伸びきって食糧や弾薬の供給が滞った。
 朝鮮半島の現地で食糧等を調達しようにも、李氏朝鮮は貧しく思ったほどの蓄えがなかった。
 加藤清正等は、占領地で、役人から重税を搾り取られて食うや食わずの極貧状態にあった朝鮮人貧民を救済し、日本軍への支援を期待して国庫に蓄えられていた穀物を放出した。
 だが。その恩恵にありつけたのは、役所周囲に生活する朝鮮人のみであった。
 自己中心の彼等は、貰った食べ物を隠匿し、生活に困窮する他の同胞に分けようとはしなかった。
 為に。はるかに多くの朝鮮人が、占領される前以上に困窮して飢餓に襲われた。
 朝鮮人は、正統派儒教教養で超えてはならない上下関係を絶対し、中国人同様に人間不信で、自分が生き残る為には集団や仲間さえ見捨てた。
 よって。中国人同様に、手に入れた食糧を公平に分け合うという事はしなかった。
 貰えなかった朝鮮人貧民は、日本人の依怙贔屓と逆恨みし、目の前を少数の護衛で輸送される日本軍の荷駄隊を襲って食糧を奪った。
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 7月 明国は、鴨緑江沿いの義州まで逃げてきた宣祖からの出兵要請を受けて、軍隊を派遣する事を決定した。
 明国は、日本軍が国境に迫った事で危機感を感じて援軍を派遣したが、依然として朝鮮が日本に内通しているのではないかと疑っていた。
 明国軍は、日本軍を侮り油断した為に、平壌で日本軍の猛攻を受けて甚大な被害を出した。
 戦国時代を戦ってきたサムライの強さは、明国軍の大軍を圧倒していた。
 明国軍は、数千丁の鉄砲を使用する少数の日本軍に度肝を抜かれた。
 明国軍兵士は、大国としての面子を潰され、その責任を朝鮮軍に向け、その腹いせに朝鮮人の民家を襲撃して食糧を奪い女性を強姦した。
 『乱中雑記』「天兵、各々我が国女人を娶る……是の如き者、幾んど数万に至る」
 その乱暴狼藉に恐怖した朝鮮人は、明国軍が進軍して来るや、食糧を持って山の中へ逃げ込んだ。
 明国軍は、朝鮮を救う為に援軍に来たのに、食べ物を提供して歓迎するどころか食糧を持って逃げだした事に対して、朝鮮の不誠実さに憤慨した。
 明国軍兵士は、日本軍兵士の首を持ち帰れば褒美が貰える為に、朝鮮人の首を切り取り偽装して手柄とした。
 明国軍は、日本人や朝鮮人の首数万個を山と積んで宴会を開き、朝鮮人女性を凌辱した。
 日本軍と明国・朝鮮軍の攻防は、一進一退を繰り返して硬直状態となった。
明国軍は、日本人の首に報奨金を出した。
 中国軍兵士や朝鮮人は、日本軍兵士の首を切り取って恩賞にありつき、なければ朝鮮人の首を日本人の首と偽って差し出して恩賞金を得た。
 朝鮮人は、金が貰えるのなら日本人の首であろうが朝鮮人の首であろうが気にはしなかった。
 中国人は、奮戦報告をする為に生首の数を必要としていて、その首が日本人であろうが朝鮮人であろうがどうでも良かった。
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 日本人の情は、朝鮮や中国では通用しない。
 日本人の島国的情と朝鮮人や中国人の大陸的情とは、まったく異質な情である。
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 日本軍が荷駄隊を守る為に護衛を増やすや、朝鮮人も集団となってゲリラ活動を繰り返した。
 日本軍は、兵站線を確保し荷駄隊を守る為に、多くの兵士を割かざるをえなかった。
 明軍は、朝鮮救援に到着し、朝鮮軍と協力して平壌を奪還するべく攻撃した。
 小西行長らは、明・朝鮮連合軍を撃退したが、殲滅する為の逆襲を行わなかった。
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 朝鮮人ゲリラは、李氏朝鮮に忠誠を誓ったわけでもなく、愛国心から日本軍の侵略から祖国を守ろうとしたわけでもない。単に。重税で食べ物を役人と両班らに獲られていた為に、日本軍の兵糧を奪って生き延びようとしただけである。
 日本軍の中から、明・朝鮮連合軍の反撃の上に、兵糧が滞って空腹に襲われ始めるや、帰国する為に脱走して帰国しようとする不忠者が出始めた。
 加藤清正軍の武将「沙也可」(一説に雑賀孫市郎)は、主君を裏切って朝鮮軍に走り、金忠善として朝鮮軍に鉄砲を持たせて兵糧不足にある日本軍を攻撃した。
 豊臣秀吉の天下統一で滅ぼされた戦国大名の家臣の一部は、秀吉が支配する日本への愛着心はなかった。その為に東南アジアに新天地を求めて移住していた。日本に留まっていたサムライも、意趣返し的に朝鮮人に味方して日本軍に損害を出させた。
 加藤清正は、満州の大草原を前にして、攻めるべき城塞がない事に茫然と立ち尽くした。
 島国の日本人にとって、人気のない満州は理解できないどころか、足を踏み入れる事を躊躇わせるほどの恐怖の大地であった。
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 小西行長等は、明国軍の襲来を理由にして予備講和を結んで撤兵したが、本心では負けてはいないという思いが強かった。
 皮肉にも朝鮮人貧民の襲撃が日本軍を悩ませ、結果的に日本軍を撃退して半島から追い出した。
 布教活動は、安定した幸福な状況下では成功しない。いつ治まるともわからない混乱と、何処にも救いのない絶望のどん底でこそ、心弱い人間は、神にすがり、神に救いを求める。それは、前向きな希望や夢を伴わない。単なる、自分一人の苦しみからの救済であり、自分一人の死後の世界での安寧にすぎない。
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 両軍は和平交渉を開始し、日本軍は帰国の途に就いた。
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 豊臣秀吉は、1419年の応永の外寇で朝鮮に軍事占領されていた対馬を日本に奪い返し、対馬を日本領に復帰させた。これが悪名高い、「壬辰・丁酉倭乱」の始まるである。
 身分低く虐げられていた下層民は、朝鮮軍が逃亡していなくなった町で役所や両班宅を襲って略奪を行った。
 卑しい身分とされた多くの職人は、日本に保護を求めて日本軍支配地に逃げ込み、職人に敬意を払い大事にする日本への渡航を願い出た。そうした日本に移住した職人の多くは、職人を最下層民として差別する朝鮮への帰国を拒否した。
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 対馬壱岐や北九州の漁民らは、1000年以上の長きに渡って受けて来た恨みをはらすべく朝鮮出兵に協力した。彼らは、悪鬼の様に戦い、抵抗する朝鮮人を殺害した。この報復行為が、日本人は血に飢えた残忍な野蛮人という印象を生んだ。
 もし、秀吉の朝鮮出兵がなければ対馬は永久に朝鮮の領土に留まり、対馬住民は日本人ではなく朝鮮人とされた。
 だが。大半の日本人は、奪われた土地を取り戻したいという意識はなく、ただ武威を示したかっただけである。
 我が父祖伝来の土地しか興味がないサムライにとって、対馬が、朝鮮領であろうが日本領であろうがどうでも良かった。
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 東アジア史は、日本を侵略国家と認定し、天皇を中国・朝鮮の侵略を命ずる極悪な戦争犯罪者と告発している。
 現代日本は、秀吉の朝鮮出兵は犯罪行為であったと謝罪し、日本に持ち帰った文化財の返還に前向きに検討している。日本の歴史も、日本は犯罪行為を行ったと子供達に教えている。
 朝鮮出兵に反対する日本人は、案外、竹島はおろか対馬さえも朝鮮・韓国の領土である事を認めているのかもしれない。彼等に大事なのは、国家の命運や国民の将来よりも、自分一人の信念を守る事であるからである。よって同じ日本人でありながら、国権が侵害され、領土が略奪され、同胞の命が奪われようとも意に介さない。国際派日本人は、日本民族としての「心」や「志」、そして「絆」を持っていないのかもしれない。
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 日本軍(約16万人)は、朝鮮人の頑強な抵抗に遭い苦戦を強いられていた。翌63年 小西行長は、秀吉に嘘の報告をして和議を成立させた。
 朝鮮国王は、徹底抗戦を命じながら、戦いで死ぬことは愚かなこととして領民を見捨てて真っ先に逃げた。
 朝鮮の民衆は、自分の安全のみを第一として逃亡した薄情な国王に激怒し、景福宮を襲撃して、略奪し、放火した。そして、逃亡していた王子を捕まえて日本軍に差し出した。
 民衆は、宣祖王ら高官に対して石を投げ罵声を浴びせ、王宮や役所を襲撃して掠奪し、逃げ遅れた女性を強姦した。
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 1597年 慶長の役
 李氏朝鮮は、武官の反乱を恐れるあまり、朝鮮水軍の将李舜臣を罷免し左遷した。
 豊臣秀吉は、再度、朝鮮出兵を命じた。
 明国軍は、日本軍の再侵略に備えていた。
 朝鮮は、先の戦いで民乱を起こした貧民達の懐柔を行い、俄兵士として義民軍を組織した。
 日本軍(約14万人)は、またしても明国・朝鮮軍連合軍の反撃で苦戦し敗走を続けた。
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 多くの貧しい朝鮮の職人は、職人を軽蔑し差別する朝鮮に絶望して日本に移住し、身分制度の厳しい朝鮮に帰国する事はなかった。
 朝鮮は、日本とは違って、身分の低い職人には生きずらい世界であった。
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 明軍は、属国朝鮮に救援に来てやったという傲慢から、朝鮮人を人間以下の虫けらと見なして顎であしらった。
 明国軍兵士は、貴族や両班の家を襲って金目になりそうなめぼしい物を物色したが、その大半が中国から下げ渡された物でたいした物ではなかった。
 その為、給金の少ない下級兵士は落胆し、諂い媚びを売る朝鮮人に憎悪を?き立て奴隷の如く扱き使った。
 高級軍官は、朝鮮人に対して美人の従軍慰安婦を要求した。
 属国の朝鮮は、命じられるままに美女を選んで慰安婦として差し出した。
 朝鮮とは、みっともない国であった。
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 韓国の重臣・柳成竜(リュソンリョウ)ら主戦派は、徹底抗戦を主張し、停戦交渉に猛反対した。
 何時の時代でも。中華帝国は、朝鮮の負け犬の倒吠えに近い半狂乱の騒ぎに呆れ果てながら眺め、そして無視した。
 李氏朝鮮は、自分達が軍事力がない小国であり、明国が自分達の意見を採用しない事を十分に知りながら、あえて存在を示す為に停戦反対を騒いでいただけであった。
 それは。妾が、正妻をもつ金持ちの旦那にごねてすねて気を引き、金品をねだるの行為に似ている。 
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 文禄の役の時のように、日本軍に協力する朝鮮人は少なかった。
 明国軍が日本人への投降を促した為に、日本軍中から投降する者が少なからずいた。
 彼らの事を「降倭」という。
 朝鮮は、降倭を使用しなかった。
 明国は、投倭から鉄砲の使い方を教わり、彼らを自軍の兵士に組み込んだ。
 後年。後金との攻防戦で、降倭兵部隊を投入した。
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 明軍は、手柄の目安として、日本人の首を山の様に積んだ。
 そして、日本兵の首の山の前で勝利の宴会を開いた。
 日本人は、敵兵の耳や鼻を切り取って武勲とし、後に供養の為に塚を造った。
 中国人と朝鮮人は、日本人の首を山と積んで辱め、後にゴミの様に捨て、供養など一切しなかった。
 神道・仏教の日本と儒教の中国・朝鮮とでは、全ての価値観が正反対に近いほど違っていた。
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 慶長3年10月 泗川新寨(しんさい)の攻防戦。島津勢約5,000人対明・朝鮮連合軍約5万人。
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 朝鮮の唐辛子は、日本から入ったものである。
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 1598年 豊臣秀吉が死亡した。
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 釜山近郊の村では、加藤清正を呪う「ケジナ・チンジン(清正の韓国読み)ナーレ」という祭りが受け継がれている。
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 李氏朝鮮は、援軍として南下してきた明国軍が碧蹄館(へきていかん)で大敗するや、明国に断りもなく勝手に日本側と和議を結んだ。
 明国軍としては、裏切り行為であったが、助けても得る所のない李氏朝鮮に援軍を派遣する事に辟易としていた為に、李氏朝鮮国王が卑屈を臣下の誓い、日本軍が撤退した事を幸いとして兵を引いた。
 危険が去った朝鮮では、何もなかった様に以前と同じような、不毛な派閥抗争を再開した。
 歴代の中華帝国は、朝鮮に於ける権力をめぐる内紛を辟易として眺めて口を出して鎮める気力をなくし、社会の混乱を正して人民を救うとい意欲をも奪い、呆れ果てて近付かない様に放置した。
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 第14代宣宗は、大陸風の垂直的城壁では日本軍の攻撃を防ぎきれないとして、日本風の曲線的石垣を導入する事を決定した。
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 『明史』「秀吉は前後7年にわたって朝鮮半島を侵したが、明・朝鮮軍は数十万の部隊を壊滅させ、数百万にも及ぶ兵糧を費やしたが、日本軍に勝てる勝算はなかった。秀吉が死ぬ事で、戦争は終焉し、諸侯も退いて元の任務に帰る事ができ、枕を高くして休めるときが来たのである」
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 8月 李舜臣は、水軍の将に復帰し、停戦協定が成立して帰国しようとする日本の軍船を追撃している最中に、流れ弾に当たって死亡した。
 もし生きていても、李氏朝鮮王朝内の政争に巻き込まれて、王族や両班らの嫉妬で暗殺されていたであろう。
 朝鮮は、「武」よりも「文」を優先して、何時の時代でも英雄豪傑・名将・智将を嫌って謀殺した。
 朝鮮史には、文官の名は数多くあっても、武官の名は極僅かである。
 『明史』「秀吉は前後7年にわたって朝鮮半島を侵したが、明・朝鮮軍は数十万の部隊を壊滅させ、数百万に及ぶ兵糧を費やしたが、日本軍には勝算はなかった。秀吉が死ぬ事で、戦争は終焉し、諸侯も退いて元の任務に帰る事ができ、枕を高くして休めるときが来たのである」
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 朝鮮人民は、明国の大軍と共に敗走する日本軍を襲い、逃げ遅れた日本人兵士を虐殺して身包み剥いだ。
 朝鮮人は、日本人とは違って、強い者に味方してそのおこぼれを頂戴した。
 日本軍が攻めてきて朝鮮軍を撃退すれば日本軍に、明国軍が日本軍を撃退すれば明国軍に。
 それが、古代からの朝鮮における処世術である。
 ゆえに。朝鮮人は、日本人に感謝しないし、日本に友好も感じない。
 朝鮮の貧しい庶民は、朝鮮国王の帰還を喜び、両班が村に戻ってた事に安心し、役人に先を争って租税を差し出した。
 朝鮮人は、日本人とは全く違う。
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 1599年 島津義弘は、朝鮮から帰国するや、高野山金剛峯寺に敵味方の戦没者を弔う供養碑を建てて法要会を行った。
 「慶長2年8月、全羅道・南原の戦いで明兵数千のうち、島津が討ち取ったのは428人。同年10月、泗川の戦いでは明兵8万余を斃した。ここに味方の戦死者三千余を含めて供養する」
 1905年 イギリス大使マクドナルド「これこそ日本固有の赤十字なり」


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