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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
朝鮮王国は、朝貢国としては中華世界の中では地位か低く、他の王国の朝貢使は駕籠や馬で王門を通ったが、朝鮮の王族はは歩いて門を通った。
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朝鮮は、無責任で、呼吸する様に嘘を吐く。
朝鮮人で、個の自立心や自制心がない者は嘘を付く事を恥とも罪ともの思わない為に、悪気もなく嘘を付く。
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朝鮮には、自慢できる様なウリジナルは極僅かで、文化の大半が中華帝国から授かったもので猿真似でしかない。
日本は、朝鮮から学ぶべきものは何もく、学ぶべき中国の知識を朝鮮経由で取り入れただけである。
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ルサンチマンとは、能力もない弱者が強者に嫉妬して抱く醜い怨念である。
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日本の歌舞伎は、安土桃山時代の出雲阿国が始めた「女かぶき踊り」が始まりで、朝鮮とは縁もゆかりもなかった。
サムライは、日本独自のモノであり、朝鮮にはない。
武士道も、日本独自のモノで、朝鮮にはない。
日本の独自のモノは、日本のモノであって、朝鮮ゆかりのモノは少ない。
むしろ、朝鮮独自のモノは少ない。
朝鮮のモノは、その大半が中国ゆかりのモノである。
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朝鮮の歴史は、正史は中国史であり、朝鮮史は外史であった。
朝鮮の官吏は、儒教を中国語で勉強し、中国史のみを学んだ。
朝鮮人は、中国史を尊び、朝鮮史を蔑ろにしていた。
朝鮮国王や高官は、臣下として、中国特使を土下座して迎えた。
儒教学者や漢籍学者は、朝鮮語を捨てて、中国語を広めようとした。
国際語は中国語であり、朝鮮語は地域語にすぎない。
朝鮮は、中国皇帝と同列を主張する日本天皇を否定している。
朝鮮人は、古代から、反天皇である。
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中華帝国は、朝鮮を「東方礼儀之国」と礼節を知り信義に厚い国と褒めた。
だが。本来の意味は、大国の無理難題を逆らう事のなく唯々諾々と従い、平身低頭して媚び諂う独立心なき国家、自立心なき人間という不名誉な蔑称に過ぎなかった。
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コックス(長崎平戸イギリス商館長)「或る人々〔それは庶民であるが〕は、彼等(朝鮮通信使)が来たのは、臣従の礼を表わし且つ貢物を献上する為で、もしそうしないと皇帝(将軍)は再び彼等の国に対して戦争を仕掛けたであろう、と噂している」(『日本関係海外史料。イギリス商館長日記。1617年8月30日』)
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江戸幕府は、鎖国政策をとって、中国や朝鮮とは正式な国交を結ばなかったが、許可した商人による限定した交易は認めた。
中国や朝鮮から絹織物や陶器や漢方薬を輸入したが、それ以上に数多くに漢籍や仏典・経典などを購入した。
購入された漢籍の中には、聖書などの西洋や中東の知識を漢訳した書籍もあったという。
本居宣長(本居神社)は、国学者にして、神道本来の姿である古事記の神話の世界に立ち戻るように主張し、古学神道を唱えた。宣長は、聖書を読んでいたと言われている。
平田篤胤は、漢籍から得た知識で、キリスト教的要素を神道に取り入れて古学神道を唱えた。
幕府は、日本が朝鮮のように「中国化」して腐敗堕落し社会崩壊しない為に、人を獣として見下し虐げる中華思想への理解を深めていた。
中国を深く理解するにつれて儒教への関心は薄れ、林羅山などの政治に影響を与える優れた儒学者がいなくなるや、実生活に役に立たない空理空論を弄ぶ朱子学系儒学者の社会的地位は低くなった。
儒教の政治はもちろん社会全般にわたる影響力を削いで日陰に追いやったのは、仏教勢力であった。
仏教勢力は、本地垂迹思想で神道を支配し、各地の神社を管理していた。
李氏朝鮮は、正統派儒教を国是とした、王族と両班が支配する絶対不変の厳しい階級社会であった。
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徳川幕府(日本)は、清国(中国)と朝鮮(韓国)との国交を断絶し、貿易をしても人の自由な往来を禁止していた。
大陸や半島から高僧や学者が半島に渡来しなくなった為に、日本は此れまでに購入した古典をもとに独自の文化、学問、芸能を生み出した。
日本は、儒学や道教などの思想、仏教などの宗教、漢方などの医学、その他全ての面で、蘭学など西洋的な知識を加え日本独自の学問・宗教・医学・思想に変えた。
だが。東洋礼賛主義者(アジア主義者)である儒学者や漢学者は、愚かにも中国に感動し実体なき幻影に憧れ日本を軽蔑し、日本人を捨て中国人になる事を夢みた。
中国・朝鮮が東洋の正統派というのなら、日本は東洋の異端派である。
日本の教養と中国及び韓国・朝鮮の教養とは、似て非なるものである。
日本が作り出した孔孟や老荘や仏教の理想像は、中国・韓国には微塵もない。
中華の仁・礼・徳に基づいた王道は、言葉の上のアヤに絵空事で、現実として存在した事はなかった。
お人好しで真実が見えない盲目的な日本人は、さも存在すると確信して恋い焦がれていた。
そうした日本人は現代にも数多く存在し、大半が高学歴の教養人である。
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支配階級は、同じ民族でありながら、常民以下の奴隷階級を人と認めず物のように売り買いし、生殺与奪の権利を持って好き勝手に虐殺していた。
正統派儒教は、身分の高い貴族を敬い、身分低く働く庶民を軽蔑していた。
朝鮮人は、汗水垂らして働くサムライを軽蔑していた。
将軍や大名は働かない貴族の一員と認めていたが、その家臣は仕事をする召使いとして軽蔑していた。
よって。正統派儒教価値観による病的貴種信仰から、身分低い下賤出身者が成り上がって高位高官となっているの明治新政府を、盗賊まがいの無法集団と毛嫌いしていた。
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李退渓(1501〜70)「朝鮮には、歴史というものがない。あるならば、司馬遷の『史記』がそれだ」
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朝鮮通信使は、宗主国・明に対して、敵国日本の国状を逐一報告し、徳川将軍を倭酋と蔑称で呼び捨てていた。
そこには、善隣友好など存在せず、お互いの腹の探り合いであった。
朝鮮は、古代から、日本を文明なき未開な国で、日本人は教養なき野蛮人と軽蔑し蔑視し差別していた。
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朝鮮では、陰惨な権力闘争が繰り返され、敗れた派閥に組みした官僚や両班は虐殺された。
朝鮮の朱子学は、悲惨の一言につきた。
中央の官僚や両班に対して地方の官吏や両班が、派閥争いを行い、告げ口や裏切りや足を引っ張って激論を戦わせていた。
地方では、さらに幾つの派閥が命を賭けて激論を交わしていた。
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旧悪の勢力が滅び去るや、新悪が新たな勢力を付けてくる。
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朝鮮通信使は日韓友好の親善使節ではなく、通信使やその一行が残した記録や日記は華夷秩序で日本人を島夷或いは倭奴と呼び捨て侮蔑する記述が多かった。
朝鮮人の儒学者や漢学者は、日本は儒教で教化・徳化できない化外の地と忌み嫌った。
1545年7月27日 李滉(リコウ、李栗谷)は、明宗に華夷観に基づいた対日策を上奏した。「臣が考える所、人々は常に夷狄(日本人)は禽獣であるといいます。夷狄も人ではありますが、これを禽獣に比喩する事は決しておかしな話ではありません。彼等は礼義をわきまえず、君臣としての上下の区別がなく、その生き様が愚鈍で無知で頑迷で意識がなく、ほとんど禽獣と異なるところがないので、獣と共通点が多く、禽獣扱いするのです。従って禽獣を禽獣として育てれば、万物がその本来の生まれ付きの性格どおりになり、その本性どおりに振る舞うのです。故に王者は夷狄を治めないのです」
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1600年頃 日本から伝来した唐辛子による漬けが、キムチの最初ではある。
秀吉の朝鮮出兵によって、南方産の香辛料である唐辛子が朝鮮にもたらされた。
白菜漬けは19世紀頃から始まり、赤み白菜漬けが商品化されたのは20世紀の終わり頃からである。
1614年 李晬光は,唐辛子の事を『芝峰類説』に「倭国を通じて伝来したので俗に倭芥子と呼ぶ」と記した。
日本に辛子を伝えたのは、ポルトガル人であった。
ルイス・フロイスは、1585年に書いた『日本覚書』で「日本人は麺類に芥子や唐辛を入れて食べる」と記している。
2013年に、ユネスコはキムチを無形文化遺産に登録した。
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1600年 第二回上田合戦。上田城に籠もる真田勢は約2,000人。攻撃する徳川勢約3万8,000人。
真面に戦えば真田勢の敗北は明らかであったが、真田昌幸と信繁(幸村)親子は徳川勢を破った。
真田徹「真田家というのは、小さいくせにちょっと意地っ張りなところがありましてね。この辺りが今の人にちょっとうけたのかな。『やめればいいのに』ということをやっちゃう」
徳川家康は、朝鮮との関係を修復する為に、対馬藩を通じて、捕虜として強制連行した朝鮮人の送還を申し込んだ。
朝鮮は、文化度の低い日本の侵略を受けたという屈辱から、日本側から謝罪と修交をする正式な国書を送ってくるべきだとして、徳川家康の申し込みを拒否した。侵略という罪を犯した日本側が先に土下座をして交渉を懇願し、上位者である朝鮮が罪を許して話し合いに応じる、という手順にしなければ朝鮮の面子が立たなかった。
対馬潘は、両者の間を取り持ち、詭弁を弄して説得に努めた。
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1602年 朝鮮国王宣祖は、周囲の反対を押し切って継室・仁穆王后を迎え、06年に正室筋の男子である永昌大君が生まれた。
宮廷内で、側室の子である次男・光海君を推す大北派と長男・臨海君や正室の子・永昌大君を推す小北派とに別れて激しい党争が起きる。
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1607年 朝鮮は、正使を派遣するに当たり、日本側から使節派遣を要請する公式国書を求めた。
徳川幕府は、身分低い土豪出身のサムライらしく体面よりも実を取って、柔軟性を以て、要求されるままに先に国書を出す事に同意した。
朝鮮の対日外交の勝利である。
朝鮮は、礼を重視する儒教から実よりも面子を最優先し、硬直的に、全てに於いて順序・手順に拘った。
だが。その病的な妥協なき頑迷な手続き論が、大流血の政争を引き起こし、庶民に塗炭の苦しみをもたらし、社会発展を阻害させていた。
朝鮮には、庶民文化もなければ、地域ごとの郷土文化も生まれなかった。
日本には、郷土特産品による郷土料理や郷土玩具などおらが国を自慢する郷土文化が数多くあるが、朝鮮にはない。
日本文化は「多」であるが、朝鮮文化は「少」である。
徳川家康は、将軍職を秀忠に譲って大御所となり、徳川将軍家の権威を強める為に朝鮮通信使を利用した。
朝鮮通信使は、江戸城で秀忠将軍と謁見して、帰路に駿府で家康に謁見した。
通信使を接待した林羅山は、家康の問いに対して、「彼等の教養は、儒者が日頃語っている事であり、特段優れたという程のものではない」と報告した。
李?光「(タバコについて)草の名、また南霊草と号づく。近歳始めて倭国より出づ」『芝峰類説』
ポルトガル商人が日本にタバコの種がもたらしたのは、1544年に豊後の大友宗麟に献上したときである。
タバコが日本に普及したのは1605年頃からとされ、タバコを吸うのは男と遊女だけであった。
女性は、タバコを吸わなかった。
朝鮮では、両班のみがタバコを吸っていた。
両班は、動く事、働く事を下等な行為と軽視した為に、家卑が火を付け差し出す煙管を口に咥えて喫煙した。
朝鮮は、両班によって衰退し、庶民は地獄の様な生活を強要され、社会は悲惨を究めた。
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朝鮮の汚さは、宗主国清の掠奪から身を守る為のもであり、悲惨な境遇は中国人に優越感を持たせる為のものであった。
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1608年 宣祖が世子を決めずに亡くなった。
光海君は、直ちに即位し、兄の臨海君を反逆罪で追放し、8歳の永昌大君を流刑地で蒸し焼きにして殺害し、仁穆大妃を廃し幽閉した。
大北派は、西人派を粛清した。
朝鮮は、党派抗争による流血が絶えなかった。
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1609年 光海君は、壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄・慶長の役)と続いた戦争で国土が疲弊した為に、国内を立て直すべく大同法を導入して改革を行った。
己酉約条。日本との戦争状態を解消する為に、江戸幕府と和議を結んだ。
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1615年 大坂夏の陣で、豊臣家は滅んだ。
1616年 満州族(女真族)のヌルハチは、全女真族を統一して後金(後の清)を建国して、南下を始めた。
1617年 徳川家康と秀忠は、豊臣家を滅ぼして日本を事実上支配した事を誇示する為に、朝鮮通信使を伏見で謁見した。
林羅山は、第二回朝鮮通信使に関する記録を『朝鮮信使来貢記』として残した。そして、朝鮮はしょせん中国の属国に過ぎぬ為に、朝鮮史や文化風習で日本が見習うべき優れた所はないと言い切っている。つまり、文学・教養でも朝鮮は日本には及ばないと。
『文集』(第68)「彼等のレベルは、儒者が常々語っている事であり、特別なものではない」
幕府は、朝鮮を中国の属国で日本より格下の国と見なし、通信使を友好の使節ではなく朝貢使として扱った。通信使を厚遇に扱ったのは、儒教の国として敬意を持ってではなく、日本の優位性を見せ付ける為であった。
日本人の庶民も、通信使を敬愛を持って眺める者は極僅かで、大半が単なる興行目的の見世物としてし見て楽しんでいた。つまりは、馬鹿にしていたのである。そうした名残が、各地に存在している。
だが、そうした事情は朝鮮でも同様の事で、日本だけが悪いわけではない。
日本と朝鮮の間には、敵国意識のあって、友好関係がなかったからである。
朝鮮通信使は、秀吉や各大名に連れ去られた朝鮮人の返還を求めた。
朝鮮通信使とともに帰国した朝鮮人は、約7万人中4,000人で、工匠や職人の多くは帰国を拒絶したと言われている。
両班出身の儒学者は、小人が支配する教養なきに日本に強制連行された屈辱から、喜び勇んで帰国した。
陶工などの職人階級は、儒教価値観で力仕事をする工匠を教養なき愚者と軽蔑する朝鮮より、神道価値観で重労働を神聖として職人に敬意を払う日本に残留する事を希望した。
日本にいた朝鮮人は、儒学者よりも職人層が多かった為に、結果として帰国した者はほんの僅かであった。
朝鮮人は、全ての朝鮮人が帰国する者と思っていたがそれほどでもなかった。
職人の意識が、最新技術重視の先進国日本と古典的訓詁学重視の後進国朝鮮という違いとなって表れた。
林羅山など日本側の儒学者は、朝鮮通信使を朝貢使と見下していた。
羅山の子供は、「新羅国の大王は、日本の王家の犬」という故事に従い、犬を朝鮮人と見立てて追い回して遊んでいた。
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1618年 朝鮮は、宗主国明国の命令に従って、ヌルハチの後金(後の清国)征伐に軍隊を派遣したが大敗をきした。
徳川幕府は、朝鮮との紛争を避ける為に竹島(当時、松島)への渡航を禁じていたが、米子商人の大谷・村川両家に鬱陵島(当時、竹島)での漁業を許可した。
大谷と前川両家は、一年交代で鬱陵島でのアワビやワカメの採取を行う事を取り決めた。
両家の漁師は、朝鮮漁師の数が少なかった為に出会う事なく、揉め事も起きず平穏に漁を続けた。
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朝鮮は、事大主義として、生きる為に、人間としての礼節も信義も恩義もかなぐり捨てて強い者になびき、裏切っても欺しても良心の呵責にさいなまれる事ははない。
朝鮮人は、日本人と正反対で、中国人に近い。
日本人は、中国人や朝鮮人に欺されやすい。
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1619年 サルフの戦い。
明国は、遼東を侵略してきたの満州・女真族の後金軍を撃退する為に大軍を派遣し、後金討伐の為に朝鮮に援軍を求めた。
光海君は、文化度の低い夷狄である後金の実力を恐れて出兵を渋った。
王宮内では、明から援軍を受けてた恩(「再造の恩」)を重視する名分論が優勢とった。 光海君の本心は、漁夫の利として明と後金が戦って疲弊した所で軍を出して領土を拡大する考えではあったが、一先ず明への義理立てとして姜弘立を将軍として軍を送り出した。
光海君は、出陣する姜弘立(きょうこうりつ)元帥に密命を与えた。「ヌルハチに伝えよ。此の度の出兵は、明からの要請を断れず、不本意ながら行ったもの。敵対の意思ない、と。戦いが不利となれば、降伏せよ」と。
後金軍と明国・朝鮮連合軍は、遼寧省撫順市の東方にああるサルフ山で激突した。
後金軍は、明の大軍を撃破して朝鮮軍に迫った。
朝鮮軍は、後金軍の勢いに怖じ気づき、明国軍には勝ち目がないと見るや、恭順を示す為に陣地にいた明国軍兵士を殺害して捨てた。
明国軍の将軍は、朝鮮の裏切りを呪い首をくくって自殺した。
朝鮮軍は、その将軍の遺体さえも後金軍に差し出し、恥も外聞もなく卑屈に詫びて臣下を誓った。
ヌルハチは、朝鮮などは攻める価値もなく、領土にする利点もないとして、国境に軍隊を派遣して威圧するだけで引き上げた。
満州族は、朝鮮人の強者に対して取る卑屈な態度に嫌悪して留まる事を嫌がり、長居をせずに引き上げた。
後金軍は、朝鮮軍が鉄や革の鎧ではなく紙の鎧を付けていることに呆れた。
『満文老蟷』(太祖第8巻、天命4年3月)「ニカン(明国)の兵士達は革(牛皮)の鎧を着ているが、ソルボ(朝鮮)の兵士達は紙の鎧を着ている」
明国は、李氏朝鮮の裏切りにあって遼東の領地を失った。
光海君は、後金と互いに国書を交わし、明と後金の双方との外交関係を維持する中立外交政策を採った。
中華にとって、満州との廻廊である遼東半島は是が非でも死守すべき要衝であったが、行き止まりの朝鮮半島はその背後を守る地に過ぎず領土にするべき程の戦略度は低くかった。
中華帝国にとって、海外領土拡大という野心を持たない無欲な倭国に比べて、絶えず侵略して掠奪と虐殺を繰り返すモンゴル族や満州族などの北方遊牧民こそ警戒すべき敵であった。
地政学的に。中国にとって、朝鮮半島は軍事占領せず脅かして支配維持にとどめるだけの利用価値の乏しい僻地であった。
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朝鮮半島の歴史に於いて、信義も礼儀も存在しなかった。
朝鮮人は、強い相手に媚びへつらい、臣下としての忠誠を誓って生きていた。
朝鮮史は、見窄らしくて見る所はあまりない。
朝鮮は、中国の一部ではなかったが、惨めな属国であった。
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朝鮮は、儒教で商工業を身分卑しい奴婢がやる賤業と軽蔑し、武より文を上に置いていた為に真面な鎧が製造できなかった。
特産や名産が乏しい為に材料となる鉱物などを宗主国に献上し、それでも足りない為に宦官や官妓(宮廷慰安婦)を献上していた。
朝鮮は、国土が貧しく、産業らしい産業がなかった。
朝鮮の貧困の原因は、儒教であった。
豊臣秀吉の壬辰倭乱で日本に連行された陶工などの職人達は、自分の意思で、労働を美徳とすし技術を持った職人が尊敬される日本にとどまり、労働が蔑視され汗水垂らして働く人間が馬鹿にされる朝鮮への帰還を拒絶した。
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中華帝国は、弱小国・朝鮮が強者・勝利者に媚び諂って裏切るのはいつもの事である為に、つまらぬ思慮分別なき小人と軽蔑して呆れ果てるが、戦略的に守らねばならに地理的位置にある為に裏切りを許し、決して恨まず、報復を行わなかった。
朝鮮人は、中華帝国の裏切っても許してくれるという寛大さを良い事に、相手を殺そうが、不利益を与えようが、如何なる迷惑を掛けてもかなわず許されると自惚れていた。
韓国人・朝鮮人の子供染みた礼儀知らずの悪ガキ的悪態は、こうして民族性となった。
大人になりきれず、満たされない乳幼児的心の渇望を、「恨」という。
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1622年8月30日 リチャード・コックス『イギリス商館長日記』「或る人は[それは庶民であるが]、彼等が来たのは、臣従の礼を表し且つ貢ぎ物を献上する為で、もしそうしないと皇帝は再び彼等[の国]に対して戦争を仕掛けたであろう、と噂している」
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1623年 親明派は、明国の密命を受けて宮廷クーデタを起こし、親満州外交をおこなう光海君を廃位し、甥の仁祖(じんそ)を擁立して、明軍の朝鮮進駐を認めた。
光海君派の多くが処刑もしくは流罪として粛清された。
明軍(明将・毛文龍)は、鴨緑江の朝鮮側を拠点として満州を攻撃した。
ヌルハチの跡を継いだホンタイジンは、「王位簒奪者の仁祖を討伐する」との名目で満州軍(3万人)を率いて出陣した。
満州軍は、明軍を撃破して朝鮮領に侵入し、各地を攻略して首都・漢城を攻略した。
仁祖は、国民を見捨てて江華島に逃げたが、満州軍に攻められて降伏し、ホンタイジンと「兄弟の盟約」を交わした。
親明派は、蛮族の満州人を兄とし仁祖が弟として隷従した事に不満を抱き、復讐する為に、満州の目を逃れて明国への内通を続けた。
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1624年 徳川秀忠は、将軍職を家光に譲っても大御所として健在である事を示す為に、朝鮮通信使を江戸城西の丸で謁見した。
1625年 丁字屋喜左衛門は、陶器用の粒の細かい陶土を研磨剤とした日本独自の歯磨き粉を製造して販売した。高価な物では、口臭予防もあった。
町人百姓は、こぞって購入し、指歯ブラシか木作りのブラシなどで歯を磨いた。
中国や朝鮮では、王侯貴族が贅沢として砂や灰を使って歯を磨いたが、一般庶民には歯を磨く習慣がなかった。
日本は高温多湿の風土ゆえに、日本人はさっぱりした爽快感と疲労回復の為に風呂に入る事を好む。
朝鮮は寒冷乾燥の風土ゆえに、朝鮮人は汗を掻いても直ぐ乾く為に中国人同様に風呂に入る習慣がなかった。
生活習慣はもちろん衛生観念までも、日本と中国・朝鮮とは正反対に近いほど異なる。
日本人は、神道価値観から、氏神・祖先神の新たな神気を呼び込む為にこまめに掃除をした。潔癖なほどに清潔を好み、チリ一つ・ゴミ一つ落ちていない様に神経質なほど隅から隅まで掃き清めた。
中国人や朝鮮人は、儒教価値観から、祖先が生活していたままに残す事を礼節とした。祖先の陰徳が逃げる事を嫌い、たとえ糞尿・汚物やゴミが目の前に山のように放置され悪臭を放っていても、片付けもせず祖先から受け継いだ伝統的生活を続けていた。
掃除好きであるが、中国人や朝鮮人は概して掃除が嫌いである。
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