☱13〕─1─尼港事件。日本人を虐殺した朝鮮人パルチザン。大正9(1920)年。〜No.26  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 共産主義者は、結果が良ければ恥も外聞もなく人を騙し、目的実現の為に平然としてウソを吐く。
 その最たる共産主義者中国共産党である。 
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 レーニンは、世界を共産主義化するべく朝鮮人独立派に活動資金を与えて日本を攻撃させた。
 中国共産党は、ソ連コミンテルンの指示に従い、日本と戦争する為に朝鮮人抗日パルチザンや日本人共産主義者を吸収した。
 日本の大陸戦争は、レーニンなど共産主義者が仕組んだ戦争であった。
 共産主義者は平和主義者であったというのはウソで、共産主義者が裏で戦争を引き起こしていたのである。
 共産主義者は、日本を戦争に追い込んだのは陰謀論ではなく、世界を共産主義で平和にしたいという戦略からである。
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 軍国日本は、天皇と日本国を守る為に共産主義を弾圧したが、「主義主張を憎むが人は憎まない」というお人好しから、共産主義者に転向を強要して、転向すれば釈放し、転向しなければ刑務所に送り、死刑は行わなかった。
 だが、暴力革命を目指さないマルクス主義社会主義は弾圧しなかった。
 最高学府・帝国大学マルクス主義を学んだ秀才達は、高得点で卒業して革新官僚やエリート軍人官僚となって政府や軍部を動かした。
 高学歴出身知的エリートの中には、レーニン信奉者が多数いた。 
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 キリスト教朝鮮人テロリストと朝鮮人抗日パルチザンは、日本人共産主義テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストの後ろには、反天皇神道アメリカ・キリスト教会とアメリカ・ユダヤ人がいた。
 朝鮮人抗日パルチザンと日本人共産主義テロリストの後ろには、ソ連コミンテルン中国共産党などの共産主義勢力がいた。
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 軍国日本、民族主義者、軍国主義者、軍部は、侵略してくるマルクス主義共産主義の外国勢力から日本天皇、伝統文化、民族宗教を守る為に孤独な戦争を続けていた。
 日本には、理解してくれる相手も、味方してくれる相手も、共に戦ってくれる相手もなく、一人孤独に寂しく戦うしかなかった。
 日本の周囲には敵しかいなかった。
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 アメリカのキリスト教会とユダヤ人達は、天皇制度国家日本を滅ぼそうとしているソ連共産主義勢力に協力していた。
 赤い牧師達は、アメリカ・ユダヤ人らの寄付を受け、日本・朝鮮・中国で布教活動を行い、中国人・朝鮮人などの反天皇抗日勢力を陰で支えていた。
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 上海の大韓民国臨時政府首脳は、儒教を捨てキリスト教に改宗し、テロ集団として昭和天皇や皇族を殺す為に多数の朝鮮人テロリストを日本国内に送り出していた。
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 李 東輝(イ・ドンフィ、1873年6月20日 - 1935年1月31日)は朝鮮の独立運動家・社会主義者。号は誠斎。
 咸鏡道端川に生まれる。武官学校を出て安昌浩の啓蒙思想に感化、新民会、西北学会などに参加した。若年より開化運動に取り組み、名声を得る。鎮衛隊水原歩兵大隊隷下の江華分遣隊長であった1907年8月9日、日本により韓国軍解散命令が出されると、これに反発した部下の延基羽副校・池弘允副校・劉明奎参校らが蜂起する。李は直接参加してはいなかったものの、以前より反日集会を開いていたため逮捕された。1911年の105人事件にも関与し、その後満州、シベリアへと亡命する。朝鮮独立運動の指導者として活動するも、ウラジオストクにて住民煽動の罪により投獄された。
 ロシア革命で恩赦を受け、共産主義思想に共鳴すると労農ロシアとの連帯を掲げてハバロフスクで韓人社会党を組織した。韓人社会党はその後上海へ拠点を移し、1921年に高麗共産党となっている。1919年の三・一独立運動後は大韓民国臨時政府に参加し、初代軍務総長、上海での合同時では初代国務総理、副大統領などの要職を歴任した。1922年コミンテルンがワシントン軍縮会議に対抗して開催した極東諸民族大会に朝鮮代表の一人として出席するなど、労農ロシアと上海臨時政府をつなぐパイプ役として外交の辣腕を振るっていたがソ連からの独立援助資金をめぐる保守派との対立過程において引責辞任を余儀なくされる。上海臨時政府との関わりを絶った後はシベリア在住朝鮮人社会の長老的存在として、民族集団をまとめあげた。
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 抗日パルチザンとは、かつて日本の支配地域(植民地や準植民地、占領地等)で行われた主に共産党系の非正規軍の闘争、パルチザン活動、中国の東北地方における朝鮮独立運動を指す。朝鮮民主主義人民共和国の建国神話における名目上の正当性の根拠とされた。
 シベリアの抗日パルチザン
 尼港事件でパルチザンの攻撃を受け焼け落ちたニコラエフスク日本領事館
ロシア革命によって混乱に陥ったシベリアへ、連合国の一員として日本軍が出兵中、赤軍に協力して、多数のパルチザン部隊が結成された。

 もともとロシアにおける「パルチザン」という言葉は、本隊に対する別働隊(遊撃隊)を意味する軍事用語だったが、十月革命の主体となったボリシェヴィキが、支持派の非正規軍を好んでパルチザンと称したため、この当時から日本でも、共産主義と結びつけて使われることが多くなった。
 沿海州を中心に、シベリアには多くの高麗人が住んでいて、ロシア国籍を持つものも多かった。彼らの中には、徴兵で独ソ戦を戦った後に帰還し、パルチザン部隊を立ち上げる者もいた。
 また、義兵闘争のころから沿海州に逃れ、独立運動をくりひろげてきた朝鮮人亡命者も多く、その一人である李東輝が上海臨時政府の国務総理になり、レーニンから資金援助を得たこともあって、高麗人パルチザンは抗日独立の旗をかかげていた。中でも朴イリア(エルリアとも)率いるサハリン部隊は、1920年大正9年)、尼港事件の襲撃に加わって有名になった。中国政府の調べでは尼港事件における赤軍パルチザン4,300人のうち、朝鮮人が1,000人を占めていた。
 もっともこの尼港事件により、日本における当時のパルチザンの一般的なイメージは、匪賊と変わらないとする方向へ傾いた。

 満州抗日パルチザン
 中国共産党に吸収されたパルチザン
 1922年(大正11年)の末、日本軍の撤退を受けたシベリアは、ソビエト共産党によって掌握され、日本との関係修復のために、独立をめざす朝鮮人パルチザン武装解除された。それにともない、多くの朝鮮人満州に移動して独立運動の継続を試みたが、シベリアでのロシア革命にともなった経験もあり、共産主義者となった者も多数いた。彼らは、1923年(大正12年)以降、延吉県、磐石県を中心に結集し、共産主義青年組織を立ち上げた。一方、朝鮮半島内でも朝鮮共産党が結成されていたが、第1次朝鮮共産党事件により満州へ亡命するものもあり、取り締まりのゆるやかな満州での活動が活発化した。
 しかし、朝鮮の共産党は内紛が激しく、満州では民族派(右派)独立軍とも競合し、暗殺をまじえた激しい内部抗争のために、抗日活動はさほど盛り上がらなかった。
 1930年(昭和5年)、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、中国共産党に吸収されることとなる。中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。朝鮮族の多い間島では、どれほど熱心にこの指令を実行するかで、朝鮮人中国共産党入党の可否を決める、というような方針があり、間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。
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 尼港事件(露: Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, 英: Nikolayevsk Massacre)は、ロシア内戦中の1920年大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。首謀者はヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィンである。
 港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクを、パルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400 - 500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。
 日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある。

 朝鮮人パルチザン
 シベリアで朝鮮人への朝鮮共産革命を指導した李東輝
 詳細は「抗日パルチザン」を参照
 1919年1月、ニコラエフスクに住む朝鮮人日本国籍)は916人で、日本人の3倍ほどだった。当時、朝鮮人の国籍は日本であり、材木商や牧畜業を営む日本商店に雇われた朝鮮人などもいた。しかし、ロシア国籍を持った高麗人もいて、それを加えるともっと多かったと思われる。
 赤軍パルチザンに占領された後のニコラエフスクにおける朝鮮人過激派(パルチザン)の数には諸説がある。中国政府の調べは1,000名、アメリカ人マキエフも1,000名という数字を挙げるが、参謀本部編『西伯利出兵史』は400-500名としている。朝鮮人過激派は掠奪した軍服を着用していた。
 朝鮮人パルチザンが、中国人のそれと違っていたのは、抗日独立運動の一環としてパルチザン部隊に加わる者が多数いたことである。ウラジオストクにいた朝鮮独立運動指導者李東輝が、ウラジーミル・レーニンから資金援助を受け、赤軍と協力する方針が示されていた。

 グートマンによれば、ニコラエフスク朝鮮人は近郊で農業を営む者が多く、市内では富家の使用人がほとんどで、商人はごく少なかった。「ボルシェヴィキに入ることに無関心」だったが、トリャピーツィンが朝鮮独立への赤軍の援助を確約したことで、市内の韓人会は部隊を組織し、パルチザンの傘下に入ると忠実な手先となり、監獄の監視、死刑執行などを確実に行ったが、軍規は厳格で、徴発、没収、略奪には参加しなかった。原暉之によれば、グートマンが述べている「軍規が厳格な朝鮮人部隊」とは、韓人会書記のワシリー朴を中心として、パルチザン進駐後にニコラエフスク市内で編成された100名ほどの第2中隊である。外部から来た朴イリア率いる第1中隊(サハリン部隊の名で知られる)は、横暴で士気が低かった。

 赤軍支配下の尼港
 ソ連側文献によれば、2月29日、ニコラエフスクにおいて第一回州革命執行委員会が開催され、ロシア人が所有する大企業、銀行、共同組合を国有化し、ロシア人所有の小企業と外国人所有の大企業を監査して、必要な場合は徴発することが決められた。また組合員となった市民の労働に対しては、現物支給を行い、配給制が計画されていた。
 最初の逮捕者は、400人を超えたといわれる。白軍の将校にはじまり、ついで白軍兵士や出入り商人、企業家、資産家、立憲民主党員、公務員、知識人、聖職者、個人的にパルチザンの恨みを買っていた者など、女性も年少の者も区別無く投獄され、拷問にあい、処刑された者も多数にのぼった。
 銀行や企業、産業、商業の国有化が開始され、投獄された人々の資産は没収された。徴発委員会が組織され、個人宅に押し入って金銭、貴金属類などを奪ったが、それに名を借りて、個人的な略奪も横行した。逮捕者の数は増え続け、ニコラエフスクの住人は、パニックに陥っていた。

 大量殺戮と焦土化
 グートマンによれば、トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。

 女性たちは強姦された。朝鮮人部隊の中隊長はある漁業経営者の娘を強姦すると翌日には音楽会で歌うことを強制した。その後、この少女と幼子も含めた家族全員はバージからアムール川に突き落とされた。また、女性教諭も強姦され、多くの少女達は恐怖の下でパルチザンと同棲することを強制された。

 5月24日、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名、合計122名が、アムール河岸に連れ出されて虐殺され、さらには、病院に収容されていた傷病日本兵17名も、ことごとく殺された。日本の救援隊は、生存者の生命の安全を確保するために、交渉する用意はあったが相手がつかまらず、意志を伝えようと、海軍の飛行機を使ってビラをまいた。目的は果たせなかったが、元気づけられた人もいた。父、姉、弟を殺された女子学生V.N.クワソワは、こう語っている。「5月29日、日本軍の飛行機が飛んできて、市民を元気づける内容の、宣伝ビラを散布していきました」
 事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名とされている。民間人については、領事館が消失して書類がなく、後日、政府が全国の町村役場に照会して調査したが、つかみきれず、さらに多いのではないか、とも考えられている。
 この無差別な殺戮から逃れることができた人々の中には、個人的に中国人の家にかくまわれたり、中国の砲艦で脱出させてもらったりした場合が多くあった。日本人も、中国人にかくまわれた16人の子女が、中国の砲艦によってマゴへ逃れ、かろうじて命拾いをした。ニコラエフスク市内にいて助かった邦人は、単身自力で市外へ逃れ出た毛皮商人が一人いたことをのぞいて、これがすべてである。

 南京事件
 1927年の南京事件の際にも日本領事館は襲撃され、領事一家以下、在留邦人、日本軍将兵等が殺傷された。この事件の際には、海軍陸戦隊の荒木亀男大尉は「反抗は徒らに避難民全部を尼港事件同様の虐殺に陥らしむるだけだから、一切手向いせず、暴徒のなすがままにせよ」と命令し、陸戦隊員は中国人の暴行に反抗しなかった。このため領事館内では駐在武官の根本博少佐、領事館警察木村署長を始め多くが重傷を負い、婦女子も丸裸にされ金品・衣服などすべてを奪われ領事館内は木端微塵となったものの邦人虐殺事件に発展しなかったが、荒木大尉は事件後に責任を取り自決を図った。1945年のソ連対日参戦の際には北支那方面軍兼駐蒙軍司令官となった根本博は大本営武装解除命令を拒否し殺到するソ連軍と戦い抜き4万人の在留邦人の脱出を成功させた。
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