🎍33〕─2─新羅仏教は弥勒菩薩。弥勒信仰は救世主(メシア)信仰で革命宗教。~No.105No.106No.107 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 仏教はインドで生まれた宗教であった。
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 新羅花郎と日本の武士・サムライは無関係である。
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 親日派知日派の王朝は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海であった。
 反日派・敵日派の王朝は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国であった。
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 倭人(古日本人)は、百済と古新羅の建国に重要な役割を果たしていた。
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 花郎ファラン、かろう)は、新羅で10世紀まで続いた軍事的訓練や文化的教育機関としての青年組織制度またはそのリーダーを指す。花郎制度は原始社会によく見られる男子集会所(メンズハウス)の性質を特徴としている。新羅の貴族時代には仏教の影響もあり、花郎徒は、道義、歌楽、山川渉猟を学び、宮廷に臣下や兵士として仕えたことが伝えられている。 
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 弥勒菩薩信仰による反乱、515年・大乗の乱、1351年・紅巾の乱、1796年・白蓮教の乱、1813年・天理教徒の乱(日本の天理教とは無関係)、1899年・義和団の乱
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 2020年8月号 月刊誌ムー「文=古銀剛 
 『日本書紀』成立1300年
 謎の渡来人『秦氏』と光明神ミトラの暗号を解く!!
 神道最高神天照大神』は仏教のメシア『弥勒菩薩』だった!!
 日本人ならだれでも知っている天照大神の天岩屋(あまのいわや)神話が、じつは、仏教伝来後に成立したものだった!?
 『日本書紀』に残された謎の言葉を手がかりとして、日本史上最大のタブーを暴き、秘められた弥勒(みろく)=メシア信仰の系譜を浮き彫りにする!
 ……
 第参章 朝鮮半島弥勒信仰と新羅花郎
 56億7000万年後に下生する弥勒菩薩
 ところで、弥勒とはいったいどんな仏尊なのだろうか。
 ここで弥勒信仰の歴史についてざっと触れておきたい。
 弥勒サンスクリットでは『マイトレーヤ』という。ミロクはその音写だが、マイトレーヤには『友愛・慈(いつく)しみ』という語義があることから、中国では『慈氏(じし)』『慈尊』とも呼ばれた。
 弥勒は釈迦(しゃか)の弟子のひとり弥勒(メッテイヤ)がモデルともいわれるが、はっきりとはわかっていない。インド古来の神ミトラやイランの太陽神ミトラ(ミスラ)などが習合して形成されたと考える立場もある。
 経典によれば、弥勒は、釈迦から自分が将来ブッダ(仏、如来)になるという予言(授記{じゅき})を受けたという。つまり、現在は如来になることをめざす修行者である『菩薩』という状態にあるが、遠い将来には『如来(仏)』になることが約束されているということだ。したがって、弥勒とは、菩薩でもあり、如来でもあるわけで、仏像としては菩薩像が一般的だが、如来形に造像(ぞうぞう)されたものも少数ながら存在する。
 この信仰が発展すると、『弥勒菩薩は現在ははるか天上に広がる兜率天({とそつてん}如来となるべき菩薩が地上に下るまで最後に過ごす世界)にいて神々に対して説法をしているが、釈迦の入滅から56億7000万年後には再びこの世に降臨し、竜華樹({りゅげじゅ}龍が花を吐くような枝をつけた巨木な木)の下で悟りを得て弥勒菩薩弥勒仏)となり、人々に説法して悟りへと導いてくれるのだ』と信じられるようになった。
 これを『弥勒下生(げしょう)信仰』といい、その典拠になっているのが『弥勒下生経』という経典だ。より詳しく説明すると、まずインドで『弥勒への約束』というサンスクリット経典が成立し、それが4世紀以降に中国へ伝えられ、『弥勒下生経』あるいは『弥勒下生経成仏経』として漢訳されたと考えられている。
 『第2の釈迦』として人気を集めた弥勒
 また5世紀ごろには、中国で『弥勒上生(じょうしょう)経』も漢訳された。こちらは、『弥勒菩薩を信じる者は死後、弥勒が常住している兜率天に昇ることができる。そして弥勒の下で56億7000万年を過ごし、弥勒とともにこの世に降り、だれよりも先に真理に目覚めた弥勒の教えに触れることができる』という内容になっている。
 つまり、死んだら一気に弥勒の側に昇って悟りをめざそうという信仰で、弥勒がこの世に降りてくることをひたすら待つ下生信仰に対して、『弥勒上生経』と呼ぶ。上生信仰は、本人だけでなく亡くなった親族が弥勒のいる兜率天弥勒浄土)へ昇ることを願うという追善供養(ついぜんくよう)のスタイルもとった。
 このようなプロセスをたどりながら、弥勒信仰は中国で隆盛し、弥勒像が盛んに造像されるようになった。たとえば、北魏が都・洛陽の南郊に5世紀末から造営をはじめた龍門石窟の石窟寺院には、弥勒菩薩像が数多くつくられている。
 なぜ、弥勒信仰が隆盛したのか。それはひとつには、遠い将来に仏になることを釈迦に約束された弥勒が、当時の人々には釈迦の後継者、いわば『第2の釈迦』として理解されたからだろう。釈迦そのものは紀元前500年ごろにインドで滅して涅槃(ねはん)に入ってしまったわけだが、しかし弥勒は、信仰上では、兜率天という天上彼方の世界においてとはいえ、現在している 〝ほとけ〟なのだ。そういう点で、人々は、釈迦より弥勒に親近感、リアリティをおぼえ、釈迦に代わる真の救済者として信仰したのである。
 朝鮮半島に伝わった弥勒信仰と半跏菩薩像
 弥勒信仰はさらに東へ、朝鮮半島へと伝播(でんぱ)していった。
 朝鮮半島には4世紀までには中国から仏教が伝わっていたが、早い段階で弥勒信仰も受容されていたようだ。
 当時(4~7世紀)の朝鮮半島をみると、北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅があり、この3国が覇を競っていたが、このうちとくに弥勒信仰を積極的に受け入れたのは百済新羅である。そして両国では6世紀以降、銅像、石像あるいは磨崖仏(まがいぶつ)というかたいで弥勒仏がさかんにつくられるようになった。
 百済新羅弥勒像には、様式の点で大きな特色があった。多くが『半跏思惟(はんかしい)像』という姿をとったのである。台座に腰掛け、片足をもう片方の膝の上にのせ、頬杖(ほほづえ)をついて考えこんでいると言う姿である。
 日本の広隆寺にある弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)を思い浮かべる読者も多いだろうが、この弥勒像は朝鮮産のアカマツを材としており、飛鳥時代朝鮮半島から将来されたものと推測されている。
 半跏思惟像はインドやガンダーラ、中国でもはやくからつくられていたが、じつはそれらは弥勒を表現したものではなかった。では何の像だったのかというと、出家する以前の思惟し苦悩する釈迦すなわち悉達太子({しつたたいし}シッダールタ)を表現したものだった。弥勒自体は、インドや中国では立像や倚像(いぞう)、交脚(こうきゃく)像、坐像、あるいは大仏によって表現されていた。
 ところが朝鮮半島では、どういうわけか、弥勒が半跏思惟像の姿で造形されるようになったのだ。悉達太子としての半跏思惟像が、未来の釈迦としての弥勒菩薩の姿と重ねられたからだというのが、よくみられる解釈である。
 弥勒の化身とされた新羅花郎
 朝鮮の3国のなかでもっとも成立の遅れた新羅では、弥勒信仰が非常にユニークなかたちをとって隆盛している。
 政治的には有力貴族の合議制というかたちをとった新羅では、有力貴族の子弟が集まって結社をつくり、ともに肉体を鍛錬したり、詩を吟じたり、歌舞に興じたり、あるいは酒を酌み交わしたりしながら、絆を深め、成長してゆくという伝統があった。このような結社は新羅各地に点在したが、各集団の首領はとくに『花郎ファラン)』と呼ばれて、強いカリスマ性をもった。『花』とは、『美しい』というような意味であり、花郎に奉戴(ほうたい)されるのは15、16歳の眉目秀麗な美青年で、それぞれの花郎は数百人から1,000人の若者を束ねた。
 花郎を中心とする若者集団は新羅のエリート青年たちによる勇敢な戦士団であり、精神修養団であり、同時にまた国政を担う有為な人材の育成機関でもあった。
 花郎の起源は、朝鮮半島最古の史書である『三国史記』(1145年成立)に書かれているが、それによると花郎の役はもとは若い女性が務め、『源花(ウォンファ)』と呼ばれていた。ところが、西暦567年、源花に選び出されていた娘が、もうひとりの源花を無理矢理酒に酔わせたあげく、河に投げ込んで殺してしまった。原因は嫉妬であった。事件が発覚すると、殺害した娘は誅殺(ちゅうさつ)され、若者たちの集団はもろくも崩壊してしまった。
 そのため、これを機に、女子ではなく美貌の男子が若者集団のリーダーに選出されることになり、花郎が誕生した。花郎は白粉をつけて化粧し、美しく着飾り、そんなリーダーのもとに多くの若者たちが集まって心身の鍛練にはげみ、あるいは遊楽に興じた。そして、彼らの中から 優秀な者が廟堂に推薦され、国家の柱石となっていった。
 このように『三国史記』にもとづけば、花郎制度は6世紀なかばにはじまったことになっているが、ただしこれはあくまで起源説話であって、実際には6世紀初頭にはすでに花郎は存在していたとみられている。
 こうしたなかで、いつしか、こんなこともいわれるようになっていた。
 『花郎弥勒の化身(けしん)である』
 花郎は岩崫で弥勒と一体化する修行に励んだ
 花郎弥勒とむすびつけられたのは、前途を嘱望(しょくぼう)される花郎としての優美な若い男性の姿が、青年の姿でイメージされてきた未来仏・救世主としての弥勒菩薩に重ね合わせられたからだろうか。『三国史記』とならんで重視される朝鮮の史書『三国遺事(いじ)』(13世紀成立)には、こんな話がある。
 6世紀後半のこと、新羅の真慈(しんじ)という僧侶が寺の弥勒像に『どうか花郎となってこの世に現れてください』と祈ると、後日、彼は山から降りてきた天涯孤独のりりしい少年に出会う。少年の名を未尸(ミリ)といったが、『未尸』とは古代朝鮮語弥勒を意味する。この少年こそがまさしく弥勒の化身であった。
 真慈が未尸を王のもとに連れてゆくと、王はこれを喜び、未尸を花郎として敬った。未尸の名声はしだいに知れわたり、彼のもとに多くの若者が集まった。だが7年後、突然行方をくらまし、姿を消してしまった──。
 この話では弥勒の化身としての花郎は山から降りてきたことになっているが、実際、花郎になるには山中での厳しい修行も必要とされたらしい。
 前出の三品彰英によれば、花郎とその仲間には山林でしばしば遊興に及んだと伝えられているが、現実には、神霊が降臨すると信じられた聖地に集まって、宗教的な修行や儀礼を行っていたと考えられるという。
 とくに花郎は、そうした神聖視された山の洞窟の中に忌み籠(こ)もったのだろうとも三品は指摘する。3国統一に貢献した新羅の英雄的将軍・金庾信({きんゆしん}595~673)は15歳のときに花郎となったが、花郎時代には山中の石窟に籠もって斎戒(さいかい)修行したと『三国史記』に伝えられていることは、その証左のひとつであるという。韓国の慶州(けいしゅう)南部にある断石山(タンソッサン)は金庾信が修行した山と伝えられているが、頂上近くにある神仙寺はかつては石窟寺院の形態をとり、岩壁には巨大な弥勒像のレリーフが残られている。
 かた、新羅では花郎の籠もる洞窟は『弥勒堂』とも呼ばれたという。洞窟に籠もる花郎弥勒の化身、あるいは生まれ変わりとされたからだろう。そしてその洞窟には、弥勒像──おそらく弥勒半跏思惟像──が奉安されたに違いない。
 すなわち新羅では、絶世の美青年である花郎が山中の洞窟に忌み籠もるという習俗があった。そしてそこには弥勒像が安置され、岩屋で修行中の花郎弥勒と一体化することを願って修行にはげんだのである。『弥勒成仏経』には『仏弟子の大迦葉(だいかしょう)は、釈迦から託された法衣(ほうえ)を弥勒に渡すべく、山の中で深く禅定(ぜんじょう)に入って弥勒下生の時を待っている』といったことが書かれているが、花郎の修行は大迦葉のひそみにならったものでもあったのだろうか。
 そして、弥勒の化身、生まれ変わりとされた花郎の活躍とともに、後進国であった新羅はめざましい発展をとげ、7世紀には朝鮮半島の統一を成し遂げている。
 まとめると、新羅花郎の隆盛には岩窟修行と弥勒信仰が重要な役割を果たしたことになるわけでが、ここから読者は何かを連想しないだろか?
 そう、日本の九州北部の岩窟信仰と弥勒信仰である。
 九州の岩窟信仰と弥勒信仰の融合は、新羅花郎がルーツだったのだ!」
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 大乗の乱は、中国北魏の宗教反乱である。人を殺せば殺すほど、教団内での位が上がるという教説に従った殺人集団であり、その背景には弥勒下生信仰があるとされる。また、同時期に中国に伝来していたとされるマニ教によるとする説もある。北魏の正史である『魏書』が、その顛末を伝える一次資料である。
 515年(延昌4年)6月、沙門の法慶が冀州で反乱を起こし、渤海郡を破り、阜城県の県令と官吏を殺害した。法慶は自らを「大乗」と称した。それより先に、法慶は幻術をよくし、渤海郡の人であった李帰伯の一族を信徒とし、法慶が李帰伯に対して「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」という称号を与えた。その教えでは、一人を殺すものは一住菩薩、十人を殺すものは十住菩薩であるという。また狂薬を調合し、肉親も認知できない状態にして、ただ殺害のみに当たるようにさせた。
 冀州刺史の蕭宝寅が征討を図ったが敗れた。凶徒は5万余人に及び、至る所で寺舎を破壊し、僧尼を惨殺し、経像を焼き捨てた。そのスローガンは「新仏が世に出んとす、旧魔を除き去れ」というものであったという。
 7月、征北大将軍に任じられた元遥が討伐に向かった。元遥は、反乱の徒を撃破して鎮圧し、法慶と妻で尼の恵暉ら数百人を斬り、その首を都に送った。李帰伯も後に捕らえられ斬殺された。
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 世界史の窓
 浄土教/浄土宗
 宋代に形成された、仏教の浄土信仰から生まれた宗派。
 中国仏教の初期の南北朝時代に始まった末法思想の中から、苦難に満ちた現世から離れて極楽浄土に往生しようという浄土思想が起こった。このような仏教の一派を浄土教といい、宗派としては浄土宗という。浄土教の思想は東晋の慧遠に始まり、6~7世紀の曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)をへて、唐時代の善導によってその信仰は深められ、唐の仏教の中で発展した。同時期に成立した禅宗の難行に対して、一切を阿弥陀仏によって救済されることを信じる他力本願であり、誰でもできる易行を説いて民衆に広がった。特に宋代にはいると民間の仏教として浄土宗が主流となった。 → 宋代の文化
 浄土宗の系統は、蓮教とか白蓮教といわれ、南宋末には弥勒仏信仰と結びついて民間教団を作っていく。
 日本の浄土教
 また日本では平安時代源信の往生要集などによって始まり、法然が専従念仏を説いて浄土宗の開祖となった。さらに鎌倉時代親鸞悪人正機説などを体系化して浄土真宗一向宗)を開き、鎌倉仏教の一つとして広がった。日本でも浄土教系の宗派は度々弾圧され、また一向一揆のように民衆蜂起の精神的紐帯となったが、中国においても、元の紅巾の乱にとどまらず、清代にも白蓮教徒の乱が起こっている。
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 白蓮教
 民間の浄土教系の仏教教団。元末に反乱を起こした。
 白蓮教は仏教の一派で、起源は東晋の僧慧遠が402年に廬山の東林寺で門弟たちと結成した白蓮社にさかのぼる。唐代に善導によって大成され浄土宗として宗派となり、禅宗とともに盛んになった。宋代には読書人(士大夫などの知識人層)のなかの念仏結社が白蓮社と言われるようになった。南宋の頃から民衆に広がって有力な宗教結社となり、元のモンゴル人支配への不満のなかでさらに大きな勢力となった。元朝の末期にはその勢力は黄河淮河の流域を中心に、各地に拡大し、1351年に紅巾の乱に発展した。清朝の1796年には白蓮教徒の乱を起こしている。その後、たびたび弾圧を受けながらも、中華民国時代の近年まで続いた。
 白蓮教の教え
 本来、念仏を唱えて阿弥陀仏の浄土へ往生を願うのがその信仰であったが、やがて弥勒仏による救済を求める弥勒信仰を加え、唐代にはイランから伝わったマニ教(イランで起こり、中国に伝わり摩尼教、または明教と言われた)と混合して、世界は明と暗の二宗(根源)あって、明は善、暗は悪であり、弥勒仏が下生(現世に現れること)して明王が支配するようになれば明宗が暗宗にうち勝って極楽浄土が出現すると説くようになった。このような現世否定、来世願望の考え方は、現状に不満な民衆を引きつけ、大きな勢力となったので、南宋も元も危険な邪宗として取り締まりの対象となった。
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 紅巾の乱
 1351年 元朝の末期に白蓮教徒の起こした民衆反乱から広がった反乱で、元朝が倒れ、反乱の指導者から現れた朱元璋が、1368年に明を建国することとなる。
 1351年、元の支配のもとで起こった白蓮教信徒を中心とした農民反乱。「白蓮教徒の乱」ともいう。直接的な原因は、元朝政府が黄河で大氾濫が起こったため農民に無償で修復を命じたことに反発した河南省などの農民が、白蓮教のリーダー韓山童を押し立てて反乱を起こしたことに始まる。反乱軍は紅色の頭巾をつけて目印にしたので「紅巾の賊」といわれた。首謀者の韓山童はまもなく捕らえられ殺されたが、その子韓林児が引き継ぎ、反乱はかえって全国に拡がって大勢力となり、各地に呼応する反乱が各地に起こった。紅巾の乱を含む一連の大反乱を、「元末の反乱」と総称する場合もある。
 元末の反乱のいくつかの勢力のなかから登場した朱元璋は、はじめは白蓮教の反乱に加わっていたが、農民だけでなく次第に地主層にその支持を広げるなかで、白蓮教徒への攻撃に転じて反乱を鎮圧する側に廻り、1366年までに反乱を鎮定し、1368年に自ら皇帝となって「明王朝」を開いた。
 なお、清末にも白蓮教徒は反乱を起こしており、そちらは一般に白蓮教徒の乱といわれている。また、コウキンという音が同じだが、後漢末に起こった黄巾の乱と混同しないこと。
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 白蓮教徒の乱
 清朝の1796年に起こった仏教系秘密結社に率いられた農民反乱。鎮圧されたが清朝の衰退が明らかとなった。
 清の嘉慶帝即位の年、1796年に起こった白蓮教徒に指導された農民叛乱。清朝の郷勇の力によって1804年に鎮圧されたが、清朝の衰退の始まりとなった反乱事件であった。元末の紅巾の乱も白蓮教徒が最初に起こした反乱なので、白蓮教徒の乱という場合もあるので注意しよう。
 白蓮教
 白蓮教は12世紀の南宋に始まる仏教の一派。呪術を取り入れて布教し民衆に広がるが、正統な仏教からは邪宗とされ、社会不安と結びつくのを恐れた権力側からきびしく取り締まられた。元末には、貧民を弥勒菩薩が救済してくれるという弥勒信仰と結びつき、たびたび農民反乱が起きた。元末に白蓮教徒が起こしたのが紅巾の乱で、1351年の韓山童とその子韓林児が指導して反乱を拡大させた。明を建国した朱元璋ははじめ紅巾の乱に参加したが、後に韓林児を殺して反乱を鎮定、権力を握り、その後は白蓮教を弾圧した。
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 天理教徒の乱
 清朝の1813年、白蓮教徒の一部が天理教と名を変えて起こした反乱。
 仏教系の民間宗教団体の白蓮教徒が起こした白蓮教徒の乱が、郷勇の手によって1804年に鎮圧された後、その信者の一部は逃れて天理教と改称し、なおも団結をつづけていた。1813年、指導者の大工李文成と薬局局員の林清は反乱を計画、李文成が山東省で挙兵、林清は紫禁城の宦官の不満分子と連絡し、200名の反乱部隊を城内に侵入させた。反乱は結局鎮圧されたが、清朝の心臓部である紫禁城に反乱軍が侵入したことは清朝の衰退の始まりを示していた。
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 義和団(読み)ギワダン。
 百科事典マイペディアの解説
 1899年中国,山東省で起こった反キリスト教(仇教)暴動をきっかけに,華北一帯に広がった反帝国主義運動の主体。義和団(義和拳)は白蓮(びゃくれん)教の一派ともいわれる宗教的秘密結社で,当時の社会矛盾,キリスト教布教,ドイツの進出などへの反感から,〈扶清滅洋〉を唱え,武力的排外運動を行った。太平天国のような統一指導部は持たず,各地の義和団の集合体であった。山東袁世凱に退けられるや,北上し1900年6月には北京および天津に進出。河北,山西,河南,満州の各地に波及し,教会襲撃,宣教師・外国人の迫害を行った。清朝義和団を支持し対外宣戦を布告したため,暴動は一層激しくなった。このため日本を含む8ヵ国(英,米,独,仏,ロシア,イタリア,オーストリア)連合軍の出兵となり,8月には鎮圧された。1901年清は列国と辛丑(しんちゅう)条約(北京議定書)を締結,外国軍隊の駐留を認めるなど半植民地化が進展した。日本では義和団の京・津進出から連合軍の鎮圧にいたる戦争を〈北清事変〉と呼んだ。
 →関連項目頤和園|永楽大典|黄禍論|黒旗軍|サトー|粛親王|清|清華大学西太后東亜同文会日露戦争|ハート|ブラゴベシチェンスク|ペリオ|山県有朋内閣|レイ
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 百済と古新羅は、一時、ヤマト大王ヤマト王権の臣下となって王子を人質として差し出していた。
 その逆に、ヤマト大王ヤマト王権百済新羅に臣下となって皇族を人質に差し出した事がない。
 日本民族日本人が、朝鮮を格下と見なすのはこの為である。
 朝鮮が、観念的に、小中華主義や事大主義から日本を格下と見下すのとは本質が違う。
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奈良時代ごろの日本は、インド・中国・中央アジアさらにはペルシャ・ローマの文化・宗教・技術・芸能・演芸など多くのモノを朝鮮半島経由で輸入していたが、平安時代初期に統一新羅鮮との国交を断絶し、朝鮮半島との人的交流を明治まで遮断した。
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 高麗までの朝鮮半島は仏教国家であった。
 李氏朝鮮は、中華皇帝の臣下ととなり、国学を中華儒教朱子学)として、中華帝国に倣って仏教を革命宗教とみなして弾圧した。
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 古新羅は、自主独立国として主体性を持って行動していた。
 統一新羅は、大中華帝国の唐の軍事支援を得て百済高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一し、初期はヤマト王権に臣下を誓って唐帝国と敵対したが、ヤマト王権からの軍事支援を受けられないと知るや、唐皇帝の臣下となり、唐帝国の属国となり、独立国としての主体性を捨てた。
 古新羅時代は、百済高句麗と対抗する為に中華から最新の学問・宗教・技術を積極的に受け入れ極東アジアでは栄えていた。 
 統一新羅時代は、対抗する相手がいなくなった為に急速に国力を衰退させ、日本に対する海賊行為を繰り返し、虐殺・強奪・拉致を行っていた。
 日本民族日本人の統一新羅朝鮮人への憎悪は、こうして生まれ激しくなっていった。
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魅惑の仏像 弥勒菩薩―京都・広隆寺 (めだかの本)