☯32〕─1─日本側が8カ月間にわたる朝鮮通信使一行の日本滞在費100万両を全額負担した。~No.84No.85 

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 日本使節の朝鮮訪問は自腹であった。
 朝鮮側は、日本側の国書のみを首都漢城に送り、日本使節一行全員を釜山の草梁倭館に軟禁し一人として自由な行動を認めなかった。
 朝鮮使節団とは、友好の使節ではなかった。
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 諸大名は、幕府の命令で朝鮮通信使を自腹で接待していたが本音は有り難迷惑で、傲慢で、横暴で、礼儀知らずの朝鮮人の素行に辟易し、できるのであれば朝鮮通信使接待などは迷惑千万として辞退したかった。
 幕府にとって、朝鮮通信使一行接待という巨額の浪費は諸大名に対する天下普請であった。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「朝鮮通信使」の解説
 朝鮮通信使 ちょうせんつうしんし
 李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被擄人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
 通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された(殊号事件)。
 [荒野泰典 2018年5月21日]
 2017年(平成29)、日本国内12都府県と韓国に残る江戸時代の朝鮮通信使に関する外交資料が、「朝鮮通信使に関する記録」として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録された(日本・韓国の関係団体による共同申請)。
[編集部 2018年5月21日]
 『宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1966・吉川弘文館)』▽『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 下』(1969・吉川弘文館)』▽『申維幹著、姜在彦訳『海游録――朝鮮通信使日本紀行』(1974・平凡社東洋文庫)』▽『映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社)』
 [参照項目] | 国書 | 殊号事件 | 世界の記憶 | 柳川一件
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 「朝鮮通信使」の歴史が教える「日韓平和」のあり方
 2020年07月21日11時00分
 江戸時代、朝鮮王朝と徳川幕府の間で繰り広げられた壮大な外交があった。釜山から渡海して対馬へ、さらに江戸まで1000キロをこえる行程を1年近くかけて往復する総勢500名ほどの使節が来日した。「朝鮮通信使」と呼ばれる使節団は200年以上にわたり12回日本へやってきたのだ。
  その歴史を日韓双方の研究者たちが検証した「朝鮮通信使に関する記録」が、ユネスコ「世界記憶遺産」に登録されたのは2017年10月31日のことだ。
 2017年3月14日、韓国文化院で開かれた(公財)韓昌祐・哲文化財団の助成証書授与式での記念講演をする仲尾宏氏
 徳川家康が二度と侵略しないと明言
 公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団から助成を得て、朝鮮通信使資料の再検証に携わった京都芸術大学歴史遺産学科客員教授の仲尾宏(なかおひろし)は、歴史的意義をこう語る。
 {「世界史における日本の歴史の位置づけとして、大変大きい前進と考えています。江戸時代には『鎖国』を国是(こくぜ)とし、対外関係は一部を除いて閉鎖されていたという観念が幕末以降に広まった。しかし、『鎖国令』が発動されたことはなく、史実の誤りであることは明白です。日本と朝鮮国との間には正式な外交ルートがあり、200年間も戦争がなかった。朝鮮通信使とは平和の使節でもあったのです」}
 そもそも「朝鮮通信使」の来日はいかにして始まったのか。
 仲尾によれば、その端緒は豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮侵略、「文禄・慶長の役」の戦後処理にあったという。ちなみに韓国では、任辰倭乱(イムジンウェラン)・丁酉再乱(チョンユジェラン)と呼んでいる。
 この侵略戦争が悲惨を極めたのは、無数の民衆を巻き込んだこと。明確な戦意をもてなくなった日本軍将兵によって、放火、略奪、鼻切りなどの残虐行為が行われ、数万人が日本へ連行された。秀吉の病死後、日本軍は全面撤退に終わる。国交が途絶えた日朝関係が再び動き出したのが徳川政権下だった。
 {「徳川家康と朝鮮国王第十四代の宣祖(ソンジョ)の決断が大きかったと思います。日本側は対馬藩が朝鮮との貿易再開を切望し、朝鮮側は徳川政権の真意と国内情勢の探索をすすめることにした。そこで義僧兵として日本軍と戦った経験のある松雲大師惟政(ソンウンデサユジョン)が対馬へ派遣され、国交回復は日本側の態度次第であると述べました。京都の伏見城で家康との会見が行われ、家康は二度と侵略はしないと明言した。松雲大師は日本へ拉致連行された朝鮮人被虜(ひりょ)の人々の送還を要求し、幕府も誠意を尽くすと約束します。その後も対馬藩による国書偽造などの問題はあったものの、最終的に朝鮮国王が日本への使節派遣を決定したのです」}
 1607(慶長12)年3月、最初の朝鮮使節団が日本の土を踏んだ。対馬から大坂(大阪)、京都を経て、江戸へ到着。一行の総人数は504名といわれる。これ以降の通信使も500名近い人数に及んだが、なぜこのような大使節団になったのだろう。
 往時の記録をたどると、正使、副使、従事官には高級官僚にあたる文官が選ばれ、日本側との交渉や漢詩文の応酬、筆談などに備えて学官なども同行。上級の随員には多くの従者がついた。さらに画家、写字官、歌舞音曲(かぶおんぎょく)の名手を揃えた軍楽隊も参加していた。
 {「朝鮮側には、国王の国書を徳川幕府に伝達するという外交上の任務だけでなく、礼儀を尽くした使節団とすること。また自国の優れた文化を披露できる人材を帯同(たいどう)し、文化交流したいという意図もあったようです」(仲尾)}
 ユネスコ「世界記憶遺産」に
 1607(慶長12)年から1811(文化8)年まで12回に及ぶ朝鮮使節の招聘(しょうへい)は、江戸幕府八代吉宗、九代家重、一〇代家治など将軍の襲職(しゅうしょく)祝賀などに際しても行われた。全国の大名を動員する国をあげての行事とし、徳川政権の威光を知らしめることとなった。江戸城の聘礼(へいれい)行事に加えて、日光へ参詣したこともあった。朝鮮通信使の多彩なメンバーは、日本の学者や文人、僧侶、医者、画家らとも盛んに交流し、民衆が異国文化にふれる機会となった。
 こうした日朝関係において、仲尾が着目するのは儒学者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の功績だ。対馬藩に仕官し、朝鮮外交を担当する重い役目を任じられた芳洲は、釜山へ留学して朝鮮語を習得。後に朝鮮語通訳養成所を開設し、後進の育成に尽くした教育者でもある。
 在任中には二度、朝鮮通信使の外交文書を解読・通訳する職務である真文役(しんもんやく)として対馬から江戸までの往復を随行し、朝鮮国と幕府との折衝役を務めた。朝鮮文人たちとの交流を通して、独自の国際感覚を備えていたという。
{「芳洲は朝鮮国を知ろうと徹底的に勉強し、彼なりの朝鮮認識を深めました。豊臣秀吉侵略戦争に対しても、朝鮮兵士らの鼻切りを行うなど『暴悪』(ぼうあく)の証拠であると明確に批判している。日本では近代まで秀吉の朝鮮侵略は偉業と捉えられてきましたが、芳洲の批判は日本人の歴史観を問うていたのです」}
 日朝の国交回復の橋渡しとなった「朝鮮通信使」。戦前から日本にも関心をもつ学者は僅(わず)かながらいたが、戦後に目を向けたのはまず在日コリアンの人たちだった。
 {「貧しい家庭に育つ在日コリアンの子どもたちは、学校へ行っても差別されるような生活の中で荒(すさ)んでいく。同胞の子どもたちに自尊心を持たせ、生きる力を与えたいと考えた学者や教育者が顕彰に取り組んだのです」}
やがて80年代頃から日本の研究者の中でも日朝関係への関心が少しずつ高まり、仲尾も本格的に研究を始めた。朝鮮通信使の軌跡をたどるほどにその偉業に魅せられ、生涯かけて取り組むことを覚悟したという。
 さらに朝鮮通信使資料の調査が進む契機となったのは2012年、韓国の財団法人釜山文化財団からユネスコ「世界記憶遺産」への申請を提案されたことだ。日本のNPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会に打診があり、2014年に日韓双方で学術委員会が発足。仲尾は日本側の委員長に選任された。
 ユネスコ「世界記憶遺産」に登録された著名なものとしては、「アンネの日記」「ベートーベン第9交響曲の自筆楽譜」「マグナ・カルタ」などがあり、日本では藤原道長(ふじわらのみちなが)の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)や「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)などが選ばれている。
 登録基準は厳しく、第一に「真正性」が問われ、写本は対象にならない。また「世界的重要性」「希少性」があり、安全な場所で保存管理されていること。所蔵者の承諾も欠かせない。両国の学術委員会がそれぞれ資料を調査したうえで協議を重ね、選定する。日本では対馬から下関、京都、日光まで広域にわたる実地調査を行い、外交記録、旅程の記録、文化交流の記録を3年がかりでまとめた。
 2016年3月30日、「朝鮮通信使に関する記録」111件(333点)を日韓の民間団体がパリのユネスコ本部へ共同で申請。国際諮問委員会の審査を経て、翌年10月31日未明に「世界記憶遺産」の登録が公表された。その報を受けた仲尾は感無量だったと振り返る。
 {「ユネスコ記憶遺産に登録されたことで朝鮮通信使の事跡は日韓の国内で『市民権』を得ることができ、ゆかりの地では地域住民の理解も一段と進んだ。なにより朝鮮通信使が果たした平和外交の普遍的価値を世界の人々と共有できたことが良かったと思っています」}
 雨森芳洲が示した外交の真髄とは
 日朝外交に尽力した雨森芳洲が61歳のときに著わし、対馬藩主に提言した『交隣提醒』(こうりんていせい)という指南書がある。その最後に〈誠信の交わり〉について述べ、芳洲は〈実意と申す事にて、互に欺(あざむ)かず争わず、真実を以て交わり候(そうろう)を、誠信とは申し候〉と説いている。仲尾はこの言葉にこそ外交の真髄(しんずい)があるという。
 {「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることが大切であると。さらに芳洲は、相手をよく知り、互いの違いや文化をありのまま認め合うことを信条としている。その心はまさに多文化共生の在り方そのものでしょう」}
 公益財団法人韓昌祐・哲文化財団の助成事業で朝鮮通信使資料の再検証に携わった仲尾は、その経緯と意義を共著『ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使』(明石書店)に著した。
 2017年11月の京都大会をはじめ、朝鮮通信使ゆかりの地では全国交流会が行なわれ、また日韓の研究交流も活発化してきた。さらには日韓の間に200年以上にわたる「誠信外交の歴史」があったことを学校教育の中で子どもたちに伝えていくこと。それが多文化共生社会で生きるための礎(いしずえ)になることを願っている。(敬称略)
 (ノンフィクションライター 歌代幸子/写真 菊地健志)
 {公益財団法人韓昌祐・哲文化財団のプロフィール
1990年、日本と韓国の将来を見据え、日韓の友好関係を促進する目的で(株)マルハン代表取締役会長の韓昌祐(ハンチャンウ)氏が前身の(財)韓国文化研究振興財団を設立、理事長に就任した。その後、助成対象分野を広げるために2005年に(財)韓哲(ハンテツ)文化財団に名称を変更。2012年、内閣府から公益財団法人の認定をうけ、公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団に移行した。}」
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 朝鮮通信使の寄港地、呉市蒲刈(しもかまがり)をいつでも楽しめる!
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 朝鮮通信使とは
 江戸時代の朝鮮通信使は、将軍の代がわりや慶事などの時に、朝鮮王朝の使節団が、朝鮮国王からの国書を持って来日したり、将軍の返書を持ち帰ったりした使節団のことを言います。
 慶長12年(1607年)以降、12回にわたり、朝鮮から500人余りの使節団が日本を訪れました。朝鮮の漢陽(ハニャン=現在のソウル)を出発し、江戸(現在の東京)までの2000キロ弱(往復約3000キロ)に及ぶ大変な長旅でした。
 海上では、日本側から迎える船などで大船団となり、陸上では日本側の警護などの人数を合わせると2000人にもなる大行列となりました。
 当時、日本で朝鮮通信使の行列を目見物できることは、一生に1度か2度しか経験できないものであったため、街道にはたいへんな見物客が押し寄せたと言われています。まるで現在の韓流スターのようですね。
 通信使のはじまり
 日本に内乱が続いていた南北朝時代、朝鮮の南部沿海地方や内陸を倭寇が荒らしまわり、その時の政府(高麗政府)は、その対策に苦慮していました。
 そのような中で、1392年に李氏朝鮮が政権を奪還してからは、日本との外交関係樹立に努力しました。
 一方、日本でも足利幕府が国内の内乱を収集し、中央政権を強化するにつれて、朝鮮や中国に対する平和的な外交関係を望むようになり、ようやく、日本・朝鮮の双方から使者の交換が行われるようになりました。
 通信使の「通信」とは、「信」を通わすという意味であり、朝鮮通信使は、信頼関係に基づいた江戸時代の日本と朝鮮との平和交流であることにその意義がありました。
 通信使の歴史
 実は、足利時代から日本と朝鮮の国交が盛んになり、両国からの使者の往来も盛んに行われていましたが、豊臣秀吉の朝鮮出陣により一時中断してしまいます。
 しかし、徳川幕府となってから、明(中国)との国交回復と貿易を目指した家康は、まず朝鮮との復交に力を入れ、通信使が再開しました。主に、この頃(江戸時代)の通信使を、「朝鮮通信使」と呼んでいます。
 この朝鮮通信使は、1607年に通信使が再開してから200年余りに渡って12回、朝鮮から日本へ通信使がやってきました。
 朝鮮通信使の目的
 日本側
 朝鮮国からの通信使の来日に対する国を挙げての歓迎行事を通じて、日本の民に幕府の権威を強く印象づけることに加えて、貿易による物資の交流や朝鮮の進んだ学問や文化を吸収するメリットもあったと考えられます。
 朝鮮側
 秀吉の朝鮮侵略の経緯から、その当時日本に捕虜となった朝鮮人を連れて帰ることと、外交や日本の状況を把握するという目的があったと考えられます。
 通信使使節団のボスは正使(せいし)
 500人余りの通信使一行の長(ボス)は、正使(せいし)で、その他、副使(ふくし)、従事官(じゅうじかん)を含めた3人が通信使の責任者の三使です。
 正使は、朝鮮国王からの国書を江戸幕府の将軍に渡すという大役を担っていました。
 また、通信使の一行には、三使以外にも、書記や通訳、写字官、製述官の他に、楽隊や小童(才能のある子供たちの見聞を広めさせる目的で連れて行った)、そして日本の幕府要請で、医員や馬上材人(大道芸人)も派遣されました。
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朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点 (WAC BUNKO 313)
ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使
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 ウィキペディア
 倭館(わかん)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。江戸時代には対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。
 草梁倭館
 戦前の釜山中心部の地図
 「旧日本居留地」が、かつての草梁倭館の跡地である。
 1678年、現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、10万坪もの面積があった。同時代の長崎の出島は約4000坪であったから、その25倍に相当する。新倭館とも呼ばれた。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋、開市大庁(交易場)、裁判庁、浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。
 倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞(通訳官)などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。当時の朝鮮は伝統中国医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来る者が藩医、町医を問わず多かった。また1727年に雨森芳洲対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。さらに対馬から交易船が到着すれば、倭館滞在者が急増したことは言うまでもない。倭館の安永年の普請に関わったのは、早田万右衛門などである。
 なお、1702年に完成した江戸幕府作成の「元禄日本図」には朝鮮半島の南西端に“草梁項”という地名と“和館”と書かれた建物及び対馬藩との航路が記述されている。
 倭館における交易
 中世の倭館交易では日本側は銅、硫黄、金を輸出したが、南方物産である赤色染料の蘇木、胡椒などのスパイス類も琉球経由などで朝鮮に転売した。朝鮮側輸出品は木綿や綿が中心であった。中世には木綿の本格的栽培はまだ日本では始まっておらず、江戸時代になってようやく木綿の輸入を必要としなくなった。また正式の通交使節との公貿易では、大蔵経など朝鮮の書籍も日本に輸出された。
 近世の倭館交易では日本側は銀、硫黄、金、その他南方物産を朝鮮側に輸出した。朝鮮側は朝鮮人参、トラ皮などの朝鮮産品も輸出したが、江戸時代前期の最大の輸出品は生糸、絹織物などの中国産品であった。当時、日本の絹は品質が劣り、高級衣料として中国絹が好まれたためである。朝鮮はこれら中国産品を、朝貢貿易や国境貿易で入手することができたが、日本は明への入港を拒絶されていたため中国密貿易船の来航を待つしかなかった。対馬藩はこの中国産品の中継貿易によって巨額の利益を上げ、藩の禄高は実質10万石以上とされた。
 しかし18世紀になって日本でも絹生産の技術が向上すると、中国産品の輸入が減少し、釜山交易に打撃を与えた。また朝鮮側が厳禁していた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、日本国内でも朝鮮人参栽培に成功した。一方、日本国内の銀産出量が激減したため、銀輸出が禁止され、銅や金が主要輸出品目に変わった。このため、18世紀以降、倭館交易は衰退するが、断絶することはなかった。
 倭館の終焉
 釜山倭館に来航した対馬藩家老は1867年、明治新政府の成立を大院君政権に通告したが、朝鮮側は日本の新しい主権者が「皇上」と名乗っていることを理由に国書の受け取りを拒否した。1871年、日本で廃藩置県が実施されると、江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を外務省が接収。1872年、外務丞・花房義質が釜山に来航し、草梁倭館を接収して大日本公館と改称した。これに対して大院君政権が強硬に退去を要求したため、日朝間の外交問題に発展し、日本で征韓論が台頭する一因となった。その後、1875年の江華島事件を経て、翌年日朝修好条規が締結され、日本外交使節はソウルに駐在となった。ここにおいて釜山の倭館は200年の歴史を閉じることになった。
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 『日東壮遊歌』(にっとうそうゆうか、イルトンジャンユガ)とは、江戸時代の1763年(宝暦13年)から1764年(明和元年)にかけて来日した第11次朝鮮通信使(目的は徳川家治(在職1760年〜1786年)の将軍襲職祝い)の一員(従事官の書記)として来日した金仁謙(ko:김인겸、キム・インギョム、当時57歳)の著書で旅行記である。
 総勢500人近い人数に上った通信使一行の日本滞在は8ヶ月に及び、全行程に11ヶ月をかける長旅で、同通信使団の記録としてはリーダーであった正使の趙曮(チョ・オム)によって漢文で書かれた『海槎日記』などもあるが、『日東壮遊歌』の特徴的な点は、当時の知識階級男性の著作としては珍しく、全てハングルで書かれ、律文詩(歌辞(カサ)と呼ばれる文学様式)の形式を採用している事にある。
 通信使団の行程と出来事
 一行は1763年9月にソウルを出発し、釜山から対馬の府中(厳原)に至り、そこから壱岐をへて下関に到着。瀬戸内海を海行して大坂に至り、陸路をとって京都、彦根、名古屋、駿府、三島、小田原、藤沢から江戸に到着した。江戸到着は1764年3月18日であった。一か月ほど江戸に滞在したあとで帰路につき、同じコースをとおって1764年8月5日にソウルに帰還した。次回1811年の第十二次朝鮮通信使たちが対馬でとどめられたため、江戸へ往来した最後の通信使となった。
 彼らの旅程は波乱続きであった。出発する直前になって正使の鄭尚淳が王命にさからって解任されたことに始まり、海路での天候不順、船団のうちの一艘の難破、随員の病死や自殺などあり、ついには復路の大阪で随員の崔天宗が宿舎で日本人に刺殺されるという事件が起こった(「唐人殺し」)。犯人は同行していた対馬藩士の鈴木伝蔵であった。犯行におよんだ理由は鏡がなくなったことで崔天宗が伝蔵を犯人呼ばわりし、鞭でうったことに伝蔵が逆上したことであったとされるが、実際は対馬藩と朝鮮側が組んで行っていた密貿易に関するトラブルが原因だったともいう。伝蔵は直後にとらえられて処刑された。
 ちなみに一行は対馬で食べたサツマイモの美味しさに感激し、種芋を乞うてサツマイモを朝鮮半島に持ち帰った。これが朝鮮半島へのサツマイモの初伝来である。また、淀川では水車の機構の見事さに感服し、「見習ってつくりたいぐらいだ」と書く。実は第一回以降、毎回朝鮮通信使たちは毎回日本の水車に感心し、朝鮮に伝えようとしていたがかなわなかったようである。1881年に明治に入って朝鮮から日本に派遣された「紳士遊覧団」の視察コースにも水車製造所が含まれている。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げるが捕まる。
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 668年~780年 新羅朝貢の為の日本に遣新羅使を派遣し、遣日本使が30回以上。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗連合軍による日本侵略。
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 1419年 応永の外寇李氏朝鮮軍による対馬侵略。

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