👪5〕─5─安直に高められた自己肯定感はカルト宗教の信仰と同じ構造。~No.40No.41 

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 2022年12月9日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「カルト宗教の“信仰”と同じ構造になっていることも…“自己肯定感”を高めようとするさまざまなテクニックの危険性
 「勉強ができる」「絵が上手い」「文才がある」ことはほとんど無意味…!? 現代のスクールカーストを決定づける“意外な要素”とは から続く
 失敗やミスをしたときにも前向きな考えを持てる。 前向きな気持ちを持てることで、チャレンジ精神を持って行動できる。チャレンジ精神を持てることで成功に近づく……。自己肯定感を高めることで得られる種々のメリットはネット上で頻繁に喧伝されている。
 しかし、精神科医斎藤環氏は、インスタントに幸福度や自己肯定感を高めることは危険性も孕んでいると指摘する。はたして、その真意とは。同氏の新著である『「自傷的自己愛」の精神分析 』(角川新書)の一部を抜粋。紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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 私が言いたいのは、人間の気分の総和は基本的に一定であり、高い幸福度や自己肯定感は決して永続しない、ということです。ずっと憧れていた仕事に就けた、大好きな人とパートナーになれた、そうした幸福度を高めてくれるイベントに対しても、人はじきに慣れていきます。幸福度と自己肯定感はある程度平行していますから、幸福度が下がれば肯定感も下がる。しかし下がりっぱなしかと思いきや、ふとしたことで幸福度が回復される。結局はその繰り返しではないでしょうか。だとすれば、自己肯定感は自己愛の片側でしかなく、その反対側には自己否定や自己批判がもれなくついてくるのが普通ではないのか。
 カルトの洗脳手法
 私がそう考えるに至ったのは、あるカルト団体を取材したことがきっかけでした。
 「幸福会ヤマギシ会(以下ヤマギシ会)」といえば、1960年代にはカウンター・カルチャー志向の知識人によって高く評価された思想実践集団です。一時期は世界最大規模のコミューンを形成するほどの団体でした。そこで生産される農産物は、かつては全国のデパートなどで扱われ人気を集めていました。ヤマギシ会の基本理念は「我執」から解放され「研鑽」を通じて自他一体の全世界的な繁栄を目指すことです。
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 ヤマギシ会では定期的に「特別講習研鑽会(特講)」を開催しており、一般にも広く参加を呼びかけています。70年代には学生運動に挫折しユートピアを夢見る学生たち、80年代には子育てや生き方に悩む主婦やサラリーマンが多数参加したといいます。本筋からは外れますので詳しい解説は別の著書に譲りますが(『博士の奇妙な思春期』日本評論社、2003年)、この「特講」が一種の洗脳として作用していることから、私はこの団体を「カルト」とみなしています。
 幸福を求めて参画した団体が不幸と死をもたらす
 「特講」はヤマギシ会の基本理念を体得するための講習会です。たとえば「怒り研鑽」と呼ばれる講習では、まず参加者に「一番腹が立ったこと」と、なぜ腹が立ったかを説明させる。ここで腹立ちの理由をどのように説明しても、係りのものは「何故それで腹が立つのか」という問いかけしか返してこない。この問答を何時間でもえんえんと繰り返し、時には受講者を挑発し、なだめ、情緒的にゆさぶりをかける。受講者は最後には「もう腹が立たなくなりました」と涙ながらに訴えるようになります。いろいろ理由付けはあるようですが、これはかなり強引に「解離」と呼ばれる症状を起こすための手法です。解離とは意識野が狭くなって暗示にかかりやすくなった状態のことで、たとえば「催眠術」は、この解離を人工的に起こすためのテクニックです。
 ヤマギシ会は「参画」時に、財産をすべて団体に提供することを求め、脱会時にも返還しないため、一時期は反ヤマギシ会活動が起こりました。私は脱会者の聞き取り調査に関わった経験がありますが、うつ状態に陥ったり、自殺して亡くなった方が多いと聞いて愕然としました。幸福を求めて参画した団体が、その反作用のように、少なからぬ不幸と死をもたらしている。カルト周辺ではよくあることのようです。この調査に関わって以降、私はインスタントに幸福度や自己肯定感を高める手法全般を疑うようになりました。
 安直に高められた自己肯定感による副作用
 ネット上にも「自己肯定感を高める手法」の情報があふれています。
 「ネガティブなことを書き出してみる」「自分を肯定する言葉を繰り返す」「寝る前に、その日にあった良いことを三つ数える」「悲観的な考え方を修正する」「SNSを見ない」「体を大きく見せるような、力強い姿勢を取る」などなど。私自身はためしたことはありませんが、どれもそれなりに有効だろうとは思います。うまくいけば一ヶ月くらいは幸福になれるかもしれません。しかしその後、ずっと幸福感が続くかといえば、いずれ大きな揺り戻しが来る可能性を否定できません。
 私は安直に高められた自己肯定感は、遅かれ早かれ、必ず反作用をともなうと確信しています。もちろん自己肯定感を高める努力を全否定するわけではありません。高められた自己肯定感が、人とのつながりや活動の端緒となって、さらなる自己愛の成熟をもたらす可能性もゼロではないからです。ただ、私自身は、そうした手法を人に薦める気にはなれない、というほどの意味です。
 「優生思想」という陥穽
 ここでちょっと寄り道をしますが、自傷的自己愛に陥っている人に典型的な発想として、「仕事での成功」などによって自分の価値を高め、自分を肯定できるようになりたい、というものがあります。これは、きわめて危険な罠です。その理由は以下の三つです。
(1) 高すぎる目標設定が行動を阻む
(2) 実際に達成できても自己肯定感が意外に高まらない
(3) この発想自体が優生思想的で、セルフスティグマにつながる
 こうした発想の何が問題となるか、順番に説明していきましょう。
 まず(1)ですが、これはわかりやすいでしょう。その目標が「今から勉強し直して東大に入りたい」とか「漫画家になってベストセラーを出して金持ちになりたい」といったものである場合、本人自身がその困難さをよくわかっていて「どうせ無理」という思いが先立つため、行動に移せません。また自信がないので行動が続きません。動けないこと、行動できないことそのものが「やっぱり自分はダメだ」という思いにつながり、悪循環にはまり込んでしまいます。
 (2)については、先述した、表面的には成功しているが自傷的自己愛を克服できない人の例からもあきらかなように、成功が自信の糧にならない場合が意外に多いのです。大変な努力をした割には、思ったほど自信がつかなかったという話はよく聴きます。もちろん例外もあるでしょうが。
 (3)「自分は何ものでもない、何もしてこなかった自分には価値がない。だから死んだ方が良い」ということを言う方は多いのですが、「価値がない人間は死ぬべき」というのは、典型的な優生思想です。自分のことだからいくら罵倒しても良いと考えているなら、それは間違いです。自分自身に無価値の烙印を押すことはセルフスティグマであり、自己愛を萎縮させかねない行為なのでやめるべきです。
 以下、優生思想について少し説明しておきます。
 起源はアメリカの断種法
 2016年におきた「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人である植松聖死刑囚に対して、事件直後、ネット上では驚くほど多くの共感の声が寄せられていました。植松は、意思疎通ができない「心失者」は生きる価値がない、と主張しており、この考えに同調する人々が少なくなかったのです。確認は難しいのですが、植松への賛同者の中には、ごく普通の社会人が多数いたのではないかと私は考えています。彼の「生きる価値がない人間が存在する」という考え方そのものが「優生思想」に含まれます。
 どういうことでしょうか。一般に優生思想とは、優秀な遺伝子を継承すべく人工的な淘汰を肯定する思想、ということとされています。しかし広義には、人間の「生」に対して、「良い生」や「悪い生」があるといった価値判断を下す思想全般がすでに優生思想です。もしあなたが「自分は無価値な人間だから死にたい」と考えているとすれば、そこにもすでに優生思想の萌芽があるのです。
 優生思想の起源はアメリカの断種法ですが、これを徹底して実践したのが、よく知られるようにナチスドイツです。ナチスドイツは「民族衛生」の名のもと、純粋ゲルマン民族を維持するためにさまざまな優生計画を実施しました。中でも有名なものが「T4作戦(障害者などの安楽死)」で、20万人以上がその犠牲となりました。ここで恐ろしいのは、ヒトラーが作戦中止命令を出した後も、民間レベルで「野生化した安楽死(Wild Euthanasia)」が続けられたという事実です。つまり、優生思想的な発想は、多くの人々にとってはごく自然のものなのです。
 価値観の大前提が「生の平等性」
 それでは、優生思想の何が悪いのでしょうか? 良い生と悪い生がある、と考えるのはなぜ問題なのでしょうか? 悪い遺伝子を淘汰して国民全体の健康レベル向上を目指すことの、いったいどこが間違っているのでしょうか?
 簡単には答えにくい問題ですが、哲学的に考えるなら、そもそも「生についての価値判断は不可能」ということになります。なぜなら、あらゆる価値の基盤が生命であるからです。そうであるなら、あらゆる価値の上位概念である生そのものについては、そもそも価値判断の埒外ということになります。逆に、なにかの価値を論じたければ「生の平等性」という前提から始めるしかありません。つまりあらゆる思想と哲学、そして価値観の大前提が「生の平等性」ということになるのです。
 それにもかかわらず「生きる価値」を問おうとすれば、それは確実にあなた自身にも返ってくるでしょう。将来あなたが、あるいはあなたの家族が病気や加齢や障害を負うことで「機能しない人間」になった場合、あなたはただちに死を望むでしょうか。たとえ自傷的自己愛を持っていたとしても、それは難しいのではないでしょうか。もし難しいのであれば、そこにあなたの倫理性の砦があります。役に立つかどうかで人の生を考えるべきではない理由も、まさにそこにあるのです。
 (斎藤 環)
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