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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
戦乱の歴史と言っても、日本の戦国時代、中国の春秋戦国時代、英仏の百年戦争は違う。
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平安時代の菅原道真と江戸時代の徳川幕府が、日本から中国を切り離し遠ざけたのには正当な理由があった。
現代日本人は、中国の本当の歴史を知らない、というより理解しようとはしない。
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2023年8月20日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「40万人の兵士を兵糧攻めにして降伏させ、最期は全員を生き埋めにした…秦国の老将軍・白起の恐ろしい史実
中国の歴史書『史記』には、秦国の老将軍・白起のエピソードが記されている。歴史作家の島崎晋さんは「長平の戦いでは、降伏した40万人の兵士に対して『皆殺しにしておかなければ、反乱をおこす恐れがある』として、すべて生き埋めにしてしまった」という――。
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※本稿は、島崎晋『いっきに読める史記』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。
■噂を広めて敵をあざむく
秦の武王が没すると、異母弟の昭(しょう)王が後を継いだ。昭王の代には、白起(はくき)という武将が活躍した。白起は韓・魏を破って多くの城を奪ったのち、楚に侵攻して都の郢(えい)を落とした。このため楚の王は東へ逃げて、陳に都を遷した。
昭王の34年、白起は魏を攻めて13万人を討ち取り、趙と戦ったときには兵卒2万人を溺死させた。43年には韓に攻め入って5つの城を落とし、5万人を討ち取った。
昭王の47年、秦軍は趙の領内に侵攻し、長平(ちょうへい)で趙軍と対峙(たいじ)した。趙軍を指揮するのは老将の廉頗(れんぱ)だった。廉頗は野戦で敗北を重ねたことから、堅く土城を守って戦わない作戦にでた。持久戦にもちこみ、秦軍の兵糧の尽きるのを待つ作戦である。
秦軍は趙軍が挑発に応じないと見るや、作戦を変えた。間者を放ち、彼らに千金をばらまかせると同時に、噂を広めさせたのである。それは、「秦が何より恐れているのは、今は亡き名将、趙奢(ちょうしや)の息子、趙括(ちょうかつ)が総大将になることだ。廉頗などは相手にもならない。遅かれ早かれ降伏するだろう」というものだった。
趙の王も、廉頗の軍に逃亡兵が多く、敗北も重ね、しかも守るばかりで出撃しないのを不満として、何度も問責の使者を送っていた。その矢先に噂を耳にしたものだから、心が動いた。老臣で、廉頗と刎頸(ふんけい)の交わりを結んでいた藺相如(りんしょうじょ)は、「王様は評判だけで趙括を用いようとしておられますが、あれは使い物になりません。趙括は書生の徒で、臨機応変の措置をとることなどできません」と言って反対したが、趙王は聞き入れず、廉頗に代えて、趙括を総大将に任じた。
■母の恐れ、的中する
趙括は幼少より兵法を学び、天下に自分にかなう者はいないと自負しており、父と軍略について論じあい、言い負かしたことさえあった。しかし、趙奢はわが子を認めていなかった。妻からその理由を問われたとき、趙奢は言った。
「戦いは生きるか死ぬかの瀬戸際だ。それを括めは無造作に論じおる。趙の国がもし括を大将にするようなことがあれば、趙の軍は破滅を免れないにちがいない」
ゆえに趙括が出陣するにあたり、彼女は王に書簡を送り、命令を撤回するように申し入れた。王からその理由を問われると、彼女はこう返答した。
「趙奢には自分で食事や酒肴をすすめる者が何十人もおり、友人のように付き合う者が何百人もいました。王様のご一門からいただきました物は、すべて軍の役人や士、大夫(たいふ)たちに分け与え、自分の懐には一切入れませんでした。しかし、せがれはまったく父の道を歩んでおりません。軍の役人や士、大夫たちに対して、あくまで主人としてふるまい、王様からいただいた物はすべて持ち帰って、しまいこみ、毎日、買えそうな田畑、屋敷はないかと物色しております。父と子で、これほど心の持ちようが違っております。どうか総大将にするのはおやめください。もしどうしてもお遣わしになるのなら、どのような事態になっても、罪をわたくしに及ぼさないようお願い申しあげます」
趙の王は承諾した。
趙括は廉頗と交代したのち、すべての決まりを改め、軍の役人も配置も変えた。
秦ではそれを知ると、白起を総大将とし、そのことを漏らした者は死刑にすると、全軍に布告した。
白起は正面の自軍をわざと敗走させて敵を誘い出し、別動隊を使って趙軍を二つに分断するとともに、糧道を絶ち切った。秦の昭王は趙軍が罠にかかったと聞くや、みずから河内に赴き、そこに住む趙の住民にそれぞれ秦の爵位を与えた。同時に、15歳以上の男子すべてを徴発し、趙の本国からの救援軍と食糧の輸送を阻ませた。
分断包囲されること46日、趙の軍では食糧が底をついたことから、互いに殺しあい、その肉を食べていた。なんとか包囲を破ろうと、兵を4隊に分け、4度、5度と突撃をくり返したが、いずれも失敗に終わった。趙括は精鋭を率いてみずから斬り込んでいったところを射殺された。ここに至り、趙の兵士40万人が白起に降伏した。
このとき、白起は考えた。
「さきに秦は上党(じょうとう)を攻め落としたが、上党の住民は秦の支配を喜ばず、趙に帰服した。趙の兵たちも裏切るにちがいない。皆殺しにしておかなければ、反乱をおこす恐れがある」
そこで白起は彼らをだまし、殺して穴埋めにした。年少の者240人だけは趙へ返してやった。この戦いで死んだ趙兵の数は合わせて45万人に及んだ。趙の王は大きな衝撃を受けたが、さきの約束があるので、趙括の母親を罰することはなかった。
■名将の哀れな最期
昭王の48年10月、秦は再び上党を平定した。そこから軍を2つに分け、皮牢(ひろう)と太原(たいげん)をも攻略したところ、韓と趙は大いに恐れ、蘇代(そだい)を使者にたて、手あつい贈り物持参で、秦の宰相、笵雎(はんしょ)のもとへ説得に赴かせた。蘇代は笵雎に、白起に対する嫉妬と競争心を抱かせ、さらにそれを煽るよう仕向けた。この工作は功を奏し、秦は攻撃の手を休め、韓・趙と和議を結んだ。白起はこの和議に不満で、これより笵雎と不和になった。
やがて趙との和議が破れたが、白起は病気のため出陣することができなかった。
そのあくる年、白起が回復したので、昭王は王陵(おうりょう)に代えて、白起を邯鄲(かんたん)攻めの総大将に任じようとした。ところが、白起はつぎのように言って辞退した。
「邯鄲を攻めるのは、たしかに容易ではございません。諸侯からの援軍も続々とやってくるでしょう。諸侯はわが国を非常に怨んでおります。わが国は長平で大勝利を得たとはいえ、戦死者も多く、国内は手薄の状態です。遠く山河を越えて、人の国の都を争えば、趙の国は城内より応じ、諸侯は外から攻めてきて、秦軍の敗北は必至でしょう。邯鄲を攻めてはなりません」
昭王はじきじきに命令を下したが、白起はそれでも動こうとしなかった。昭王は仕方なく、別の将軍を派遣したが、8、9カ月たっても、邯鄲を落とすことはできなかった。
そうこうするうち、楚の春申君(しゅんしんくん)や魏の信陵君(しんりょうくん)が援軍を率いて到来し、秦軍に攻撃をしかけてきた。そのため秦軍は多くの死傷者を出すこととなった。白起は、「わたしの献策を聞かれなかったばかりに、このざまだ」と言ったが、それを聞いた昭王は無理にでも白起を出陣させようとした。しかし、白起は重病と称し、笵雎が頼んでも、動こうとしなかった。このため白起は職を免ぜられ、一兵卒として、陰密(いんみつ)に流されることになった。
白起への処罰はこれで終わりではなかった。咸陽(かんよう)の都を出立してまもなく、王から使いがきて、剣を賜い、自決せよとの命令を伝えられた。白起は剣を首にあてながら自問した。
「わしはいかなる罪を天に得て、このような最期を遂げるのか」
ややあって、彼は答えを見出した。
「当然のことだった。長平の戦いで、趙の降参した兵数十万を、偽って殺してしまった。それは十分、死に値する」
そう言って、白起は自決した。ときに昭王の50年11月のことだった。
昭王の52年、周に伝わった9つの鼎(かなえ)が秦の手に渡り、周が滅んだ。
54年、昭王は雍(よう)で上帝の祀りをおこなった。
56年、昭王が没して、子の孝文(こうぶん)王が後を継いだ。孝文王が没すると、子の荘襄(そうじょう)王が後を継いだ。荘襄王が没すると、子の政(せい)が後を継いだ。
これが秦の始皇帝である。
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島崎 晋(しまざき・すすむ)
歴史作家
1963年東京生まれ。立教大学文学部史学科卒業。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て、現在、歴史作家として幅広く活躍中。主な著書に、『ウラもオモテもわかる哲学と宗教』(徳間書店)、『眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法』(日本文芸社)、『古事記で読みとく地名の謎』(廣済堂新書)、『ホモ・サピエンスが日本人になるまでの5つの選択』(青春新書プレイブックス)、『仕事に効く! 繰り返す世界史』(総合法令出版)、『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『覇権の歴史を見れば、世界がわかる』(ウェッジ)などがある。
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