🏹19〕 ─1─高麗王は、フビライに日本征討を懇願し、蒙古軍の軍船建造を願い出た。三別抄。1270年~No.55No56No.57 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
現代日本
 国際派日本人は、屈辱を絶えても、モンゴルとの国交を開いて日本を国際化して、国際社会との貿易を行って豊かにするべきであったと主張している。
 反戦平和主義者は、如何なる戦争にも反対する立場から、日本人の死者を出さない為にもモンゴルの要求に従って臣下の礼をとるべきであったと教育している。
 非暴力無抵抗主義者は、モンゴル・高麗連合軍が日本上陸したら、戦わず武器を捨て、彼等を新たな支配者として受け入れるべきであったと子供達に教えている。
 反天皇主義者は、理由の如何に関わらず全ての戦争を否定し、モンゴル・高麗連合軍に協力し、日本を東アジアの一員にすべきであったとしている。天皇中心の民族主義を排除する為に、「神風」など民族国家日本を守った物語を陰険な謀略と否定している。
 左翼・左派の過激なマルクス主義者は、人民の幸福の為に、万世一系男系天皇制度(直系長子相続)を廃止すべく、天皇とその家族を暗殺するテロリストを養成した。
 過激派テロリストは、自分の主義主張を最優先し、自分の信念を実現させる為なら、自分以外の全てを犠牲にする覚悟があった。
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 高麗人は、現代の韓国・朝鮮人の祖先である。
 モンゴル人は、隋や唐のトルコ系遊牧民族鮮卑人同様に漢族・中国人ではない。
 現代中国は、野蛮なモンゴル民族を消滅させる為に、中国化を推し進めている。
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 現代中国は、元王朝はモンゴル人の帝国であり、中国人の王朝ではないと主張している。
 よって。日本を侵略した元寇は、中国人とは無関係であると。
 同様に。五胡十六国南北朝北朝、隋、唐、清国などの諸王朝も中国人の王朝ではないと主要している。
 中国人の王朝は、殷、周、秦、漢、三国、宋、明国のみである。
 日本が恩義を感じる中華王朝は、騎馬民族の異民族が建国した隋と唐のみである。
 日本人は、中国人王朝と国交を樹立した事がない以上、中国人に恩義を感じる所は少ない。
 仏教は、インドが発祥である。
 朝鮮発祥のモノで、日本に伝わったものは数えられないほど少ない。
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 中国に従属する事を拒絶して全滅覚悟の戦争を選んだ好戦的な猪サムライ。サムライは死を恐れない。
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 ヨーロッパは、モンゴルを「地獄の使者」と恐怖した。
 モンゴル軍は、ロシアのリャザンを陥落した後に虐殺を行い、強姦を繰り返して混血児を残した。
 大寺院に逃げ込んでいた、大公妃や公妃達を犯した後に殺害し、主教や司祭らを生きたまま焼き殺し、男は子供や老人でも容赦なく斬り殺し、修道女は犯して殺した。
 モンゴル軍は、抵抗した者は容赦なく皆殺しにした。
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 「高麗は元の附馬国」
 附馬国とは、モンゴル皇帝の女婿の国という事である。
 1231年から59年 高麗は、30年間で6度もモンゴル軍の侵略を受け撃退するどころか惨敗している。
 朝鮮半島は、米や布などを細々と輸出する極東アジア切っての極貧国であり、その先は海で行き止まりであった。
 遊牧騎馬民族モンゴル帝国にとって、海は理解不能であり、海の向こうで交流がない日本など興味も関心もなかった。
 世界帝国として版図を拡大させていたモンゴルにとって、キャラバンを組んで遠方と交易する為には西域を攻略する必要があった。
 モンゴルが、6度も高麗を侵略したのは、モンゴル帝室や貴族に仕える侍女や下僕の獲得、遠征軍の為の兵員と兵糧の補充、満州の遼陽と瀋陽の開墾の為であった。
 高麗王家の存続を許されたのは、高麗王が聡明で仁義に厚く有徳な君主だからではなく、モンゴル皇帝の娘を王妃として迎え、その間に生まれた王子を国王にしたからである。
 モンゴル語公用語とし、公文書はモンゴル文字で記載した。
 王族や高官は、モンゴル姓を名乗り、姿形も中華風からモンゴル風に改めた。
 庶民にもモンゴル風の弁髪を強要し、従わなかったり逆らえば地獄の様な拷問と非人道的極刑で望んだ。
 高麗王は、モンゴル姓で呼ばれていた。
 モンゴル帝国南宋遠征の度に兵員と兵糧を供出していた為に、半島は慢性的な食糧不足にあって絶えず飢餓に襲われていた。
 高麗は、どんなに苦しく夥しい餓死者を出しても、モンゴルに逆らえなかった。
 フビライは、満州開発の為に遼陽に新たな行政府・遼陽等処行尚書省を設置し、北緯39度線以北の地を高麗王国から切り離して担当させた。
 帰属高麗人を瀋陽王として、遼陽行省を支配させた。
 後に、瀋陽王は昇格し、高麗王の上位者として瀋王と呼ばれた。
 瀋王になる帰属高麗人がいな時は、下位者の高麗王が兼ねた。
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*高麗は、モンゴルの属国となる。
 高麗は、好んで、モンゴルの奴隷の様な立場になった。
 そして、多くの美女を慰安婦として献上した。
 朝鮮は、中国を利用して日本を滅ぼそうとした。
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 1270年 高麗は、首都を江華島からもとの開城に遷都した。
 モンゴルへの帰属を明らかにする為に、モンゴルの皇族から公主(王女)を王妃(国母)に迎えた。
 全てにモンゴル式を取り入れ、姓をモンゴル姓に創氏改名し、モンゴル語公用語に定めた。
 貴族や高官は、モンゴル人と姻戚関係になる事を望んだ。
 モンゴル人が、高麗を完全支配し、政府高官の任命や罷免を決定していた。
 王位もまた、モンゴル人の恣意のままに決定され、逆らう事は死を意味していた。
 人種差別・性差別・身分差別を神聖視する儒教を信奉する朝鮮人は、モンゴル人女性が国母として王国と王家を支配している事に、虫酸が走るほどの嫌悪に襲われた。
 侵略された朝鮮は、生き残る為に大国に対して「事大」に徹し、異民族支配者に対して家臣の様にかしずいた。
 この時代、女系相続が認められていれば、高麗王朝は紛れもなくモンゴル人の王国といえた。
 正規軍でない義兵集団である三別抄は、もとは崔氏の私兵であり、賃金の得当てもなく解散させられる事を不服として、独自の国王を立てて反乱を起こした。
 反乱軍である三別抄は、国王が派遣した討伐軍と戦いながら、各地を荒らし、略奪を重ねて、済州島に逃げ込んだ。
 高麗軍の軍事力では三別抄を討伐できなかった為に、蒙古軍に泣き付いて鎮圧を懇願した。
 蒙古軍は、不甲斐ない弱兵ぶりを晒す高麗軍を馬鹿にした。
 追い詰められた三別抄は日本に救援を要請したが、鎌倉幕府は王命に逆らう賊軍を支援して内乱に介入する気はなかった。
 体面を重んじ筋を通すサムライは、主君を裏切った三別抄を救う事は、まずありえなかった。
 死んでも信義を重んずるサムライは、主命に逆らって裏切る事を最も嫌っていた。
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 忠烈王は、フビライに命令されたわけでもなのに、モンゴル帝国への忠誠の証しとして、公用語モンゴル語とし高麗語を禁じ、国中に蒙古弁髪をさせ高麗服を禁じた。
 高麗人は、事大主義で新たな支配者に媚び諂い、先を争って蛮族のモンゴル人になろうとした。
 朝鮮半島のモンゴル化は、抵抗もなく、嬉々として進められた。
 『高麗史』(忠烈王4年甲申条)「フビライ『人々は朕が高麗服を禁じたとう事だろう。そんな事があって良いものか。汝の国の礼儀はどこに捨ててしまったのか』」
 朝鮮半島は、地形的に、大陸の侵略から国土を防衛するには適さない地形をしており、侵略されたら抵抗するより逃げ回るしか方法がなかった。
 何時の時代でも。朝鮮の偽善者は、己の無力無能を隠す為に傲慢で威張り散らしていたが、いざとなったら民衆を守らずに見捨てて逃げ出すのが常識であった。
 戦って国土が守れない以上、武芸や武道は軽視され、武士や侍は生まれず、武闘家は最下級の身分として役立たずの穀潰しとして軽蔑された。
 役職として、文官は上級職で、武官は下級職とされた。
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 高麗の武臣勢力は、抗戦派と恭順派で分裂して崩壊した。
 一部の抗戦派武臣は、モンゴルの属国となる事を潔いとせず、地方に散って反モンゴルの叛乱を繰り返した。
 高麗王は、元の忠実な臣下の証しとして名前に「忠」のお一字を加え、王妃をモンゴル人から娶った。この関係を、「親子の様な間柄」という。
 高麗は、元から貢女(性奴隷)の命令を受けるや、両班から美人で処女の娘を集めて人身御供として元の王族や高官に差し出した。
 同時に。面子を捨て去り、恥も外聞も無く、卑屈となって、賄賂を送り媚びへつらった。
 高麗王朝内は、モンゴル姓名とモンゴル語モンゴル文字が氾濫して、モンゴル一色となった。
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*高麗は、生き残るべく日本征討に全面協力した。
 1271年 フビライは、都を大都(北京)に定めて、大元を樹立した。元帝国(〜1368年)の誕生である。
元は中国の正統王朝として、各地の反モンゴル勢力を殲滅し、高麗王の要請に従って半島に軍隊を派遣した。
 フビライは、高麗王の進言に従って日本を属国にするべく、朝貢を求める国使をを送った。
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 草原の民である騎馬民族のモンゴルにとって、海の彼方の小国日本が「ジパング」として大量の金銀財宝を持っていても、西方の莫大な富に較べれば微々たる量であり関心はなかった。
 ゆえに、不慣れな軍船に乗って征服するよりは、交易をするだけでそれ以上の望みがなかった。
 日本が、南宋や反モンゴル勢力に味方して攻めて来たとしても、不敗神話を持つモンゴル軍にとって恐れるほどの事はなかった。事実、大陸において、モンゴル軍の進軍を遮る敵はいなかったのである。
 それに、日本の民間商船は中国沿岸の諸港に入港して取引を行い、高僧や知識人の多くを日本に避難させていたが、敵対行動はとっていなかった。
 つまり、島国日本はモンゴルの敵ではなかったのである。
 高麗は、軍事大国元王朝の不信の目を、隣国日本にそらす為の謀略を開始した。
 朝鮮は、日本と中国を敵対させ、戦わせ、殺し合いをさせる事で、存在意義を中国に認めさせる事で生き残ろうとしたのである。
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 服部英雄「クビライハーンの目的は、日本の鉱物資源のうち、火薬の材料となる硫黄の確保にあった。……火山の多い日本は硫黄産出国だったが、その硫黄を元(蒙古)の敵国である宋にのみ、輸出をしており、利敵国だった」(『蒙古襲来』)
 中国には火山が少なく硫黄が採れなかった為に、宋は硫黄の一大生産地であった日本から硫黄を輸入していた。
 フビライは、他のハン国に対して優位に立つ為に大量の火薬を手入れなければならず、火薬の重要な原料である硫黄を独占する為に日本征服を計画・実行した。
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 聡明なフビライは、恥も外聞もなく卑屈なまで忠誠を誓う高麗王の口車に乗せられて日本征服を計画したわけではない。
 高麗王の陰湿な誘いに騙されるほど、フビライは馬鹿でも無能でもなかった。
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 3月 三別抄は、徹底抗戦を行う為に済州島に抵抗拠点を置き、日本に援軍を要請する使者を送った。
 鎌倉幕府は、高麗と国交を開いていなかったし、高麗国王ではなく国王の命令を聞かない不忠な叛乱人の援軍要請である事に訝り、高麗を利用したモンゴルの謀略の可能性があると判断し、静観と決めて援軍要請を断った。
 日本は、古代から幾度となく朝鮮に煮え湯を呑まされ、度々朝鮮人海賊によって虐殺され拉致されてきた苦い経験から、仮想敵国・高麗をまともには信用しなかった。
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 9月 女真人趙良弼は、モンゴルの使者として日本に渡って信書を手渡し、一旦高麗に戻ってフビライに報告した。
 フビライは、モンゴル人以外の高麗人や女真人を使者として使って、日本人に大陸の実情を知らせようとした。
 だが。国際情勢に疎い当時の日本は、他国は他国、日本は日本として、戦争になろうとも臣下の礼をとり属国になる事を頑なに拒否した。
 趙良弼一行は、再度、九州今津に上陸して、約1年間滞在して日本側からの返事が届くの待った。
 同行したモンゴルの軍人は、日本との戦争に備えて、日本の政治・軍事・経済などの情報収拾を行った。
 高麗は、フビライの命に従って日本との戦争に備えて体制強化が図られ、日本を侵略する為の軍船建造を始めた。この大建造事業により、半島の森林は大量に乱伐されて荒廃し、急速に緑をなくしていった。
 忠烈王「日本は、今だ聖化を受けておりません。戦艦、兵糧は充分にあります。もしこれを臣に委ねて頂ければ、臣は力を尽くしてこれを撃ちましょう」
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 9月13日 鎌倉は、協議の結果、返事を出さない事に決め、同時に全国の大名に警戒を呼びかけ、九州に領地を持つ全ての御家人に防備を固める様に命じた。
 日本は、外国の侵略に備える臨戦態勢に移行し始めたが、博多の異国警固番役として詰めたのは九州の御家人だけであった。
 中国や朝鮮は、法律や定めに関係なく、皇帝や国王の鶴の一声で全てが決定した。
 日本は、数人の有力者が定め・法に従って談合し、全員が納得して全会一致で物事を決めていた。
 朝廷内部では、国際感覚として返書の必要を説く者がいたが、国内分裂をさらけ出す事は国の滅亡につながるとして取り止めた。
 日本国内には、大陸の情勢を知る者がいなかっし、モンゴルの軍事力に恐怖し自分一人でも助かりたいという裏切り行為に走る者がいなかった。
 内通者を作るという、モンゴルの得意戦術は失敗した。
 裏切り者を作れなかったモンゴルの次なる策は、「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす」という三光戦術である。
 一つの都市で大虐殺を行い廃墟とする事で、その他の都市を救うという非常な戦法である。
 モンゴル帝国は、三光政策で世界帝国を築き、そして帝国支配を行った。
 朝廷も鎌倉も、全国の神社仏閣に対して異国降伏の加持祈祷を命じた。
 日本は、成る可くなら戦いたくない為に、神仏に祈る事で国難を乗り切ろうとしていた。
 現代日本であれば戦争を回避する為に慌てて使節団を中国に送ったかもしれないが、サムライ日本は犠牲を覚悟して戦争を選んだ。
 戦争を決断できない者には、政治を行う資格は無い。
 戦争などの最悪の状況を想定しその仮定の下で政策を行えない者も、政治家になる資格は無い。
 つまり。彼らは、未来を予測できないし、将来像を想像できない無能力者であるからである。
 そうした手合いの政治家や官僚や学者が、現代日本には多く、我が物顔で闊歩している。
 9月19日 蒙古の使者約100人が日本に来し、平和的交易を求める国書を提出した。
 国書の文言として、「以て兵を用うるに至りては、誰か楽しみて為す所ならんや」が問題となった。
 朝廷は、如何なる外圧も受け入れないとして、使者の上京を拒否して返答にかえただが、返事は送るべきであろうと決した。
 鎌倉は、返書の必要はないとして握りつぶし、すみやかに帰国させるように命じた。
 蒙古の使者は、返答が来るまで、日本国内の情報を集めて帰国した。
 蒙古は日本侵略の為に日本の国情を調べていたが、日本側には蒙古はおろか高麗の情報もなかった。
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 1272年 高麗が生き残るには、元の関心を朝鮮から日本に向ける事であり、そして元軍と同時出兵して先陣を切って日本を攻める事であった。
 間違っても、日本の肩を持ち、戦争を起こさない様に両国の間を取り持つ事ではなかった。
 つまり、日本侵略・東征は、高麗の主導で始まったといえる。
 高麗王元宗は、元王朝への臣下の礼を取らない蛮族日本への懲罰として、皇帝フビライに武力による日本征討を重ねて要請した。
 「日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておらず」
 高麗の褜王子(後の忠烈王)は、元朝にご機嫌を取り超大国としての驕りを誘い、小国の分際で元朝の威光に逆らう不忠者日本を征討し懲らしめるべきであると懇願した。
 高麗が、中国の属国として傀儡となっても国として生き残る為には、海の向こうに元に逆らう敵を作る必要があった。
 必至に日本討伐をフビライに焚き付けたのは、高麗が存続する為の自衛行為・安全保障であった。
 同時に。国内にいる反対派や不満分子などの抵抗勢力を、蒙古軍によって根絶やしにさせるという計略でもあった。それが、三別抄の反乱である。三別抄は、対抗する為に日本に軍事支援を要請した。 
 朝鮮は、古代から、自国の国内問題を日本と中国の力を悪用して解決しようと謀略を重ねていた。
 二月騒動。北条時輔は、有力御家人名越氏と組んで、異母弟の執権北条時宗に対して謀反を起こした
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 1271年と1273年にも、 世界帝国モンゴルは、戦争を避ける為に、六度の平和使節団を派遣した。だが、全てが失敗して送り返された。
 臣下の礼を拒否する弱小国日本に手を焼き、支配地域の諸国民の手前、征討しなければ「面子」が立たない所まで、窮地に追い込まれていた。
 大国中国に「面子」があるように、小国日本にも「体面」があった。
 日本は、小なりといえども独立国の意地から、超大国の恫喝や脅迫や威嚇を勇気を持って跳ね返した。
 両国の意地の張り合いが戦争を呼び、夥しい犠牲を出した。
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 1273年 元・高麗連合軍は、済州島を占領して、三別抄を皆殺しにした。
 同時に。国内の属国反対派も、モンゴル軍の手を借りて一掃して親モンゴル派で統一した。
 蒙古は、日本侵略の前線拠点とする為に済州島を高麗から取り上げて直轄領とし、モンゴル馬を放牧した。
 高麗は、属国として蒙古の要求を平身低頭して受け入れ、日本侵略に積極的に協力した。
 高麗、朝鮮は、国内を支配する為に、自分に手を汚さず、大国の軍事力を利用する事が多かった。
 三別抄の活躍によって蒙古の日本侵略が遅れたから日本は感謝すべきと言うが、それは真っ赤な嘘で、歴史の歪曲であり改竄あり捏造である。
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 高麗は、日本を自国と同じ様な奴隷国家にしようとしていた。
 朝鮮人は、古代から日本人を憎み、友好関係を持とうとした事はない。
 それは、中国人でも同じであった。
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 亀山上皇は、石清水八幡宮に御親拝し、蒙古・高麗連合軍の侵略から神国日本が守られる様に金銀奉幣した。
 伊勢神宮など全国の主要な神社22社に奉幣使を遣わし、「自らの命に代えて御国を守ってくれるよう」にと国家鎮護の祈願をさせた。
 延暦寺や東寺などにも、夷敵降伏を祈祷させた。
 祭祀王・歴代天皇は、その神の血筋を根拠として、祖先神・天皇霊に祈りを捧げていた。
 祖先神・天皇霊に祈りを捧げられるのは、神の裔・天皇のみで、それ以外の日本人では出来ない。
 それが、祖先神・氏神信仰の民族宗教神道に於ける不磨の大典である。
 万世一系男系天皇(直系長子相続)が消滅すれば、同時に、祖先神・氏神崇拝も消えてなくなる。
 万世一系男系天皇(直系長子相続)と民族宗教の祖先神・氏神信仰は、一心同体であり、不可分の関係にある。
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 日本が、蒙古・元の恫喝に屈して臣下の礼をとれば、高麗と同じ悲惨な境遇に追いやられる恐れがあった。




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 日本と朝鮮・韓国には、共通の歴史は存在しない。
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 2013年11月14日 msn産経ニュース「朴槿恵大統領 日中韓で「北東アジア共同の歴史教科書」提案 [歴史認識
 【ソウル=加藤達也】韓国の朴槿恵大統領は14日、ソウル市内で演説し、日本と中国、韓国の3カ国を念頭に「北東アジア共同の歴史教科書」作りを提案した。最近の日韓、日中の対立とその解消へ向け努力している姿勢を示そうとしたものとみられるが今後、日中両国に具体案を持ち掛けるかは不透明だ。
 朴氏は演説でドイツとフランス、ポーランドの各国が共同で歴史教科書を編纂(へんさん)したことを例に挙げ、「北東アジア共同の歴史教科書を発刊することで、東西欧州がそうしたように協力と対話の慣行を積み重ねることもできる。歴史問題の壁を崩す日が来るかもしれない」と主張した。
 また朴氏は北東アジアの現状について、日本が起こす歴史や領土問題が原因で域内の協力が経済から政治安保へと広がらないとする従来の持論を展開した。
 日韓はこれまで2次にわたって政府支援の歴史共同研究を実施している。しかし、韓国側は日本側に研究成果に基づく歴史認識の共有を求めたほか、学校用教科書への記載も主張。国内世論を意識して政治性を前面に出した経緯があり、認識の共有には至っていない。国内には「南北の歴史認識の共有化が先ではないか」との批判もある。
 一方、菅義偉官房長官は14日の記者会見で、「北東アジア共同の歴史教科書」の提案について、「過去の問題に対しては、韓国に累次に渡り日本の立場を説明している。そうした努力も含め、しっかりと受け止めてほしい」と述べ、歴史教科書作りに否定的な考えを示した。」

  


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