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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
韓国の歴史教育を学ぶ日本人達。
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韓国の歴史教育は、中国の歴史教育と同じ反天皇反日であり、地政学的科学的客観的合理的な事実に基づいた現実の歴史ではなく、情緒・理想・願望・空想の有り得ない歴史である。
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キリスト教系朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者・無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
日本人共産主義者テロリストを支援したのが、ソ連・中国共産党・国際的共産主義勢力であった。
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日本国籍を持つ韓国人・朝鮮人、中国人には、帰化人系、渡来人系、第3系の3種類の外国系日本人がいる。
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歴史的事実として、日本は被害者であって朝鮮と中国は加害者であった。
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2023年8月22日 MicrosoftStartニュース 集英社オンライン「テストによく出る時代は「韓国併合前後」…徹底的な反日と距離を置く韓国のZ世代たち
日本からは見えにくい韓国社会の根底と新しいステージに入った「日韓関係2・0」の構造の中で、韓国社会の中で存在感を高める10代、20代の知られざる素顔とは。『日韓の決断』(日経プレミアシリーズ)より、一部抜粋・再構成してお届けする。
試験に出る反日教育
韓国には若者を指す様々な呼称がある。10~20代の「1020世代」。1990年代後半から2010年代初めに生まれた「Z世代」または「MZ世代」。特に20代は男子が「イデナム」、女性は「イデニョ」とそれぞれ頭文字をつなぎ合わせて呼ばれることは先に説明した。
19年9月、公益財団法人「日韓文化交流基金」による青少年交流事業(外務省招へい)で来日した韓国人大学生30人と懇談する機会をもった。最近の日韓関係について説明を終えると、待ってましたとばかりに手を次々に挙げた学生からの猛烈な質問攻めにあった。
日韓の歴史問題が多かったのは予想通りだが、1951年に署名されたサンフランシスコ平和条約から元慰安婦・元徴用工問題まで、その知識量と問題意識に感心した。同時に、テーマによっては「韓国史観」とも言える韓国側の主張に偏った考え方に危うさも抱いた。
それはある意味で仕方ないかもしれない。幼い頃から教育などによってそのように刷りこまれてきたのだから。
「日本との歴史になぜそれほど熱心なの?」とあえて聞いてみた。すると、ある学生は「日本との歴史は義務的に覚えなければならない。(韓国が併合された)1910年前後の歴史は特に試験によく出るから」と答えた。
テストによく出る時代は「韓国併合前後」…徹底的な反日と距離を置く韓国のZ世代たち
© 集英社オンライン 提供
テストによく出る時代は「韓国併合前後」
超学歴社会の韓国は日本以上の激烈な受験戦争で知られる。出題の答えは当然1つしかないので、子どもたちは授業で教わった「正答」を必死になって覚える。
別の韓国人学生によると「小学校から高校まで歴史教育を受ける。学校の外でも日本との歴史に接したり、学んだりする機会がたくさんある」という。
元慰安婦支援団体が毎週水曜日にソウルの日本大使館前で開く日本政府への抗議集会には高校生も参加する。韓国の大学入試には授業以外の自発的な活動実績が加算点になる試験方式があり、文在寅政権時代には「反日運動」への参加をアピールする志願者が増えたという。
「日帝」(日本帝国主義)時代の日本の「悪行」が子どもたちにインプットされる場は歴史教育にとどまらない。国語や道徳、音楽など他の科目でも授業を通して徹底的に教え込まれる。ある韓国人大学生は「教科書に日本を非難する直接的な記述がなくても、日本が悪かったように授業の中で先生が誘導していた」と打ち明ける。
ソウルには、日本統治時代に独立運動家が投獄された西大門刑務所跡地など当時の建築物が残存している。同国で「義士」と呼ばれる独立運動家の銅像もあちこちで目に入る。
右手に手りゅう弾を握りしめ、まさに投げようとしている人物は、32年に昭和天皇の暗殺を試みて処刑された李奉昌(イ・ポンチャン)だ。伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)も日本ではテロリストだが、韓国人からすれば英雄で、彼らの行為は「支配された被害者側の民族感情」となる。
九州に近い韓国南部の地域を旅すると、16世紀の文禄・慶長の役(韓国では壬申倭乱)で豊臣秀吉軍によって破壊されたり消失したりしたという史跡に出くわすはずだ。文禄・慶長の役は朝鮮半島南半分の住民にとって朝鮮戦争以前の最後の戦争だった。その惨禍、怨恨、抵抗の説話は韓国の民衆の間で語り継がれ、対日感情の土台となっているという。
竹島や慰安婦は「異論の余地なし」
「自尊心」という言葉を好んで使う韓国人は、とりわけプライドの高い民族だと感じる。日本統治によって国が消滅し、自尊心を奪われた。第2次世界大戦後の独立も自らの手で勝ち取ったものではなく、外国の手を借りて解放されたものだ。
そんな複雑な思い=「恨(ハン)」が、48年の韓国建国以降、国民に国家プライドと自尊心を植えつける教育に反映されているようだ。
テストによく出る時代は「韓国併合前後」…徹底的な反日と距離を置く韓国のZ世代たち
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東京都内の高校で教鞭をとる女性は高校時代に悲しい体験をした。欧州の留学先である日、仲の良かった韓国人のクラスメート全員から突然、無視されたのだ。島根県の竹島(韓国名・独島)についてどう思うかを聞かれ、「日本固有の領土」と素直に答えたためだった。
韓国の思想に詳しい小倉紀蔵京都大学教授は著書『韓国の行動原理』(PHP新書)に次のように記している。
「竹島(独島)問題や慰安婦問題に関して、韓国のなかで『異論の余地なく』日本が悪い、という意見が全面的に共有されている。歴史的な事実を真摯に分析してみれば多様な『異論』が並立されるべきである問題に関して、『異論の余地なく』特定の勢力に非がある、と考えることは、客観的にいって思考が停止していることを意味している」
冒頭の韓国人学生を日本に引率した政府関係者から「韓国の大学生は慰安婦や徴用工問題を歴史問題というよりも人権問題としてとらえている」と教わった。生まれた頃には同国の高度成長期はすでに終わっていた。競争と格差社会でずっと生きてきた若者たちは自分たちを社会と教育制度の「被害者」と位置づける。社会正義や人権には特に敏感だ。
日本統治時代を体験し今も存命中の人々が残る韓国で日本の植民地支配はけっして「過去」ではなく、今なお続く現代史としてとらえられる。
日本が韓国を侵略・併合した重い事実は否定できない。朝鮮半島出身者に対する日本人の差別的な言動も歴史的事実だ。
一方で、戦前、戦中の日本人はすべて悪人で残忍だったという教えも誤っている。2004年に筆者が韓国中部の忠清道で出会い、困っているところを助けてくれた高齢男性の2人は筆者の前で小学校時代の日本人恩師を懐かしみ、日本の童謡を口ずさんだ。当時、終戦から60年近くたってもさびない日本語に心が痛んだが、「加害者日本、被害者韓国」であらゆる史実を規定してしまえば、そんなワンシーンも消されてしまう。
若者は歴史と文化消費を切り離す
韓国人は植民地時代に苦しめられた「日帝」への憎しみと、現代の日本人と日本文化に深い親しみを併せ持つ「ツートラック」(2路線)だ。若者にはその傾向が特に強い。
日本との協力を重視する尹錫悦が大統領選で当選し、日韓関係が改善に向かうと、22年から23年にかけて韓国人観光客がどっと日本に押し寄せるようになり、訪日客の国・地域別でトップを独走した。けん引役は若者たちだ。
23年2月の聯合ニュース(日本語版)は「不買運動の勢いどこへ? 訪日韓国人が急増=『政治と文化は別』との認識が定着」との見出しをつけた記事を配信した。
そのなかで大衆文化評論家は「上の世代になるほど歴史・政治問題をより敏感に受け止める傾向があるが、世代交代によってそのような面がかなり薄れた」とし「過去の歴史と文化の消費を切り離して考えることが一般化した」と分析した。
筆者がソウル出張でお世話になった政府傘下機関の30代女性は日本語をまったく話せないが、「『カベジン』(キャベジン)や『オータイサン』(太田胃散)は韓国でも人気があります」と日本の薬の名前を次々と挙げ、日本で訪れた観光地の写真も得意気に見せてくれた。
集団主義といわれてきた韓国で「個」を重んじる若者たちの存在は、上下関係が厳格な組織の秩序も揺さぶる。
文在寅政権時代にベストセラーになった『90年代生まれが来る』。本の帯には「文在寅大統領が青瓦台の全職員にプレゼントした本」と書かれている。若者の生態を分析した本で、企業の管理職らが競って買い求めた。
「鉄板」といわれた韓国の酒文化にも若者の波が押し寄せている。「MZ世代」の間では、自分に合う酒、楽しめる酒など自分の好みの酒を見つけて飲むのが当然との文化が定着した。酔うよりも吟味する時代になっている。隔世の感がある。
テストによく出る時代は「韓国併合前後」…徹底的な反日と距離を置く韓国のZ世代たち
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3時に解散の韓国の飲み会文化に変化が
近年、韓国で「119」という数字の並びを耳にするようになった。日本と同じく救急車を呼びだす番号だが、宴席では「1次会で終える。お酒は1種類にとどめる。午後9時前にはお開きにする」という戒めの言葉になる。
15年のことだ。8年ぶり2度目の駐在となった韓国でまず驚いたのが、酒文化の大きな変わりようだった。
2000年代だった前回駐在時の韓国スタイルは「333」(=3次会まで、3種類の酒、午前3時)が当たり前という風潮で、午前3時ごろのお開きの後に、サウナとわずかな仮眠だけで早朝から平然と働くのが「できる男」の証しだった。
当時30代で体力に自信があった筆者も韓国人と仲良くなるための通過儀礼として、「日韓戦」と称して明け方近くまでウイスキーをビールで割る韓国流カクテル「爆弾酒」の杯を重ねた。
その頃、韓国社会では「抑えた飲み方をするのはサムスンの社員ぐらい」といわれていた。
ところが2度目の赴任ではほとんどの会食は1次会だけで、2次会があっても近くのワインバーで軽く1、2杯程度。景気の悪化により、時々飲む爆弾酒もウイスキーから低価格の焼酎に主流が移っていた。韓国文化に親しむ日本人駐在員が一抹の寂しさを感じるほど韓国の酒文化は変容した。当然、酒席で上司が後輩に酒を無理強いするようなパワハラの光景もほとんどみなくなった。
韓国国民の視線は変わってきている
情報のグローバル化で韓国人の認識が多様化してきた。日韓関係の行方も次代を担う若者がカギを握ると感じる。韓国の若者はリアリストであり、日本を眺める目も「複眼」が特徴だ。
「日本のアニメや漫画に親しむいまの若い世代が社会の中心になる頃には反日はなくなるのか?」。講演などでよく聞かれるとても難しい質問だ。「なくなることはありません。でも、今よりは薄まるでしょう」。このように答えるようにしている。
日韓関係はこのまま好転していくか。過去をことさら重んじてきた韓国にも近年になって「2つの変化」が生じている。
1つ目の変化は、国会議員で元慰安婦支援団体の前代表、尹美香(ユン・ミヒャン)が慰安婦問題の解決を目的とする財団への支援金を私的に流用したとして検察から在宅起訴された事件だ。
「尹美香事件が転機となって市民団体への国民の視線が変わった」(韓国ベテラン記者)という。反日団体は「聖域」であり、その主張は批判できないといった韓国での長年の不文律が破られたのだ。
日韓首脳会談がソウルで開かれた2023年5月7日、日本大使館前の慰安婦少女像は撤去されないように市民団体の手によって栅で覆われていた。毎週水曜日にこの場所で日本に謝罪と賠償を求める左派系市民団体と、これに反発する保守系団体が同時に集会を開き、にらみ合うようになってからだという。
テストによく出る時代は「韓国併合前後」…徹底的な反日と距離を置く韓国のZ世代たち
© 集英社オンライン 提供
韓国の若い人たちは、過去にとらわれていると疲れる
2つ目の変化は、韓国社会の対日観だ。韓国内で20代と30代を対象にした23年2月のアンケート結果では、日本への好感度が否定的な見解に比べて2.4倍も高かった。
新型コロナウイルス禍後に急速な回復をみせる韓国人の訪日客がどんどん増えていくことで、教科書には載っていない等身大の日本を肌で感じる人々が増えるのは日本や日本人の理解につながる。
韓国の若者はすでに同国が経済先進国入りした時代に生まれ育ったので、年配者が感じるような日本や中国への劣等感がない。学校で反日教育を受けつつ、市民団体や労働組合が主導するアジテーションなどの手法に古くさい、ダサいという認識をもつ若者も増えている。
韓国で現地の学生と交流する機会が多い日本人男性は次のように教えてくれた。
「韓国の若い人たちは過去のしがらみよりも自分の生活を充実させることに意識を向けている。日本がどうこうというよりも、楽しめるもの、消費できるもの、つまり生活を豊かにできるものの1つに日本が入っている。小中高生は日本のアニメを見て育っており、この子たちと交流しようと思えばアニメの話題は鉄板だ。『いい物はいい』という意識が強く、そこはドライだ。8月15日の西大門刑務所跡には家族連れがたくさん並んでいたが、ある女の子は『今はロシアの方が悪いんじゃないか』と話していた」。
私から将来の日韓関係はこれまでと変わっていくかどうかを聞いてみた。
すると「変わっていくし、変わらざるを得ない。韓国の若い人たちは、過去にとらわれていると疲れる、乗り越えないといけないと感じ取っており、私は日韓関係の将来を心配していない。むしろ邪魔をしているのは大人だ」とのことだった。
対日政策をめぐる尹大統領の様々な決断の背後で、韓国社会の静かなる地殻変動が進んでいる。
文/峯岸 博 写真/shutterstock
#1『なぜ韓国政治家はすぐ土下座するのか。土下座、丸刈り、断食…喜怒哀楽の感情を可視化させる韓国「動の政治」とは』はこちらから
#3『極右政治家の象徴として韓国が忌み嫌った「アベ」が亡くなったことに、韓国人はなぜ困惑しているのか』はこちらから
『日韓の決断 』(日経プレミアシリーズ)
峯岸博
なぜ韓国政治家はすぐ土下座するのか。土下座、丸刈り、断食…喜怒哀楽の感情を可視化させる韓国「動の政治」とは
© 集英社オンライン 提供
2023/7/8
1,100円
280ページ
ISBN:
978-4296117451
【内容紹介】
《変容する日韓の深層に迫る》
2022年5月に韓国大統領に就任した尹錫悦氏は、文在寅前政権の対日政策を刷新し、「国交樹立以降で最悪の状態」を改善するため大きく舵を切った。2023年3月には、「日本はすでに数十回にわたり、私たちに歴史問題について反省と謝罪を表明している」と明言。過去に縛られる日韓関係を根本的に変える強い決意を示した。日本はどう応えるべきか。『日韓の断層』で両国の亀裂の深みに迫った日経のベテラン記者が、双方の社会で静かに進む変化を捉え、両国の今後を探る。
●経済成長の続いた韓国では、1人当たりGDPが日本を追い抜き、先進国入りを実現した。政権交代を後押しした新しい世代が台頭する一方、歴史・伝統に固執する「民心」が存在感を誇示しており、社会の二面性に特徴がある。本書は、この韓国社会の特性と見え隠れする変化の底流を対日関係と絡めて読み解く。とくに尹政権を誕生させたイデナム(20代男性)・イデニョ(20代女性)の実像、成熟しない政治やメディア、成長する経済と豊かさを実感できない民衆の姿などを取り上げる。
●日韓最大の懸案である徴用工問題では、尹錫悦大統領が大きく踏み込んだ決断を表明した。「反日の政治利用」を韓国大統領自らが言及したことは、日本人を驚かせた。従来の韓国の政権とは大きく異なる尹大統領の決断は、どのような背景のもとで行われたのか、今後はどうなるのか、鋭く分析する。
●企業の海外展開が加速し、ビジネスの面では日本以上に世界を意識している韓国。一方、安全保障の面では中露、北朝鮮に対峙し、緊張の度を増している。2022年11月には、韓国が避けてきた「インド太平洋」戦略を発表して日米と歩調を合わせる姿勢を見せた。中国に対する複雑な国民感情、米国との関係改善、強硬な北朝鮮。日韓が置かれた厳しい状況についても、わかりやすく解説した。
関連するビデオ: 日韓の大学生30人が寝食共にし英語で議論 ファッションから政治・外交問題まで (テレ朝news)
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8月22日16:40 YAHOO!JAPANニュース RKB毎日放送 RKBラジオ「
「戦犯」として処刑された朝鮮人の日本陸軍中将がいた 歴史に翻弄された人生
「朝鮮系」日本陸軍中将の悲運
日本の特攻隊員として死んだ朝鮮人がいた。また、朝鮮人でありながら帝国陸軍の中将まで上りつめ、戦犯として処刑された人もいた。「歴史に翻弄された人生」を、RKB毎日放送の神戸金史(かんべ・かねぶみ)解説委員長がRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で語った。
戦後の時代を区分してみると
オイルショック後の狂乱物価(1973年)
僕(神戸)が生まれたのは1967(昭和42)年1月。「戦争ははるか昔のこと」と思って育ったのですが、振り返ってみると終戦からたった22年後です。31年続いた「平成」より短いのです。
昭和以降を大くくりに、僕の考えで区切ってみます。
(1)「戦争期」~昭和20年(1945年)敗戦まで=19年間
(2)「成長期」~昭和45年(1970年)大阪万博まで=25年間
(3)「爛熟期」~平成2年(1990年)バブル崩壊まで=20年間
(4)「停滞期」~平成23年(2011年)東日本大震災まで=21年間
(5)「??期」大震災以降
バブルが崩壊するまでの「爛熟期」に、私は青春時代を過ごしています。大震災以降をどう名付けていくか、は今後決まってくると思います。「新たな飛躍期」となるのか、あるいは「新しい戦前」となるのでしょうか。
世代で違う歴史観
安保反対闘争(1960年)
赤ちゃんから成人を迎えるくらいの時間が、「世代の区切り」に当たっている感じがします。これは、歴史観に大きな違いを生みます。例えば「平和」という言葉は「戦争期」には、武力で制覇してなるもの、目指すものでした。「戦争をしない」という意味の「平和」ではないということです。
ところが、敗戦=大日本帝国の滅亡を迎えた昭和20年以降、戦争をしない「平和」が「何よりも大事な価値観」と捉える方が多かったはずです。私が育った高度経済成長以降の「爛熟期」には「当たり前のこと」として捉えられていました。
しかし、その後は「平和、平和と言うなんて、頭の中が“お花畑”だね」なんて言う人も出てきました。「その世代みんながみんな同じだ」というわけではなく、偏った「世代論」になってしまうといけませんが「そういう風潮が一定数いた」という意味です。
日本に併合された朝鮮で育った人々
戦時下の軍事教練
ここで考えてみたいのが、朝鮮のことです。1910年に日本に併合され、大日本帝国が滅亡する1945年までの36年間は「日帝三六年」と呼ばれています。ひと世代を超えるくらいの長さがあるのです。
日露戦争が終わった1905年に生まれた人がいたとします。1910年に日本に併合されるので、5歳に「日本人」になり、その後は日本語教育で育っていきます。青春期を「日本人」として過ごした後、ちょうど40歳で日本統治が終わる。すごく長い時間です。家庭も、子供も持っているでしょう。
このあと朝鮮半島は独立を回復するわけですが、もちろん、みんながみんな抗日レジスタンスとなって独立を勝ち取ったわけではなく、多くの人はその体制の下でどうやって生きるかを考えていました。時には日本軍に協力してでも「お金をちゃんと稼いでいきたい」と考えるのは普通ですよね。
当時の日本だって、戦争に反対する人はいたけれど、多くの人は何も言わずに世の中を見て、時流に合わせていたのでしょう。
特攻隊員となって死んだ朝鮮人
戦後になって、「戦争前」をどう考えるかが大きな問題になっていきます。日本に併合された当時の朝鮮の人たちは、日本の軍隊に徴用されたり、志願したりしました。軍人・軍属などを合わせると、26万人以上いたと言われています。中には、特攻隊で死んだ人もいます。
朝鮮人なのに、なぜ特攻隊で死ぬのか――。書き残された記録を見てみると、兄から「特攻に行くな」と説得された弟は、「自分は、朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が嘲われる。多くの同胞が、一層、屈辱に耐えねばならなくなる」(金尚弼、日本名「結城尚弼=しょうひつ」中尉)。
またある人は「朝鮮人の、肝っ玉をみせてやる」と言って特攻隊に行って突っ込んでいったという記録が残っています(朴東薫、日本名「大河正明」)。
こういった方々は戦後、「裏切り者扱い」されていきました。その時代に生き、一生懸命に選択をした人たちを、次の時代が簡単に断罪してしまう。これが「歴史の残酷さ」だと思っています。
その時はわからなくても、後から分かってくるということもあります。私たちも、後世からどんなふうに言われるのか、予想することは非常に難しいでしょう。だから、「よかった」「悪かった」という話ではなくて、そういう状況の中で生きた人々がいた、ということに思いを馳せてみたいと思います。
日本陸軍に“取り残された”朝鮮留学生
山本七平著『洪思翊中将の処刑』上巻(ちくま文庫、2006年)
あえて“朝鮮系日本人”と言いましょう。彼らに日本の陸軍士官学校が門戸を開いたのは、日韓併合から18年後でした(李王家や特別な王族を除く)。つまり、「生まれた時から法的に日本国民だった人たち」です。
その世代に、評論家の山本七平さん(1921年~1991年)が、インタビューしています。「日本人を見返してやろう」という意識がすごく強かったと言います。
ところで、その人たちの前の世代――。朝鮮がまだ独立を保っていた時代に、日本陸軍は朝鮮の陸軍武官学校から留学生を迎えていました。その中に、洪思翊(日本語読みは「こう・しよく」)という方がいます。
1889年に朝鮮に生まれていて、日清戦争(1894年)を経て、日露戦争(1904年)では満15歳。18歳で大韓帝国の陸軍武官学校に入学しました。朝鮮人として育ち、20歳で日本陸軍中央幼年学校への留学を命じられました。
「当時の日本は、一貫して韓国を独立国であると主張し、日清戦争の後は韓国を軍事的に強化して自己の同盟国にするつもりがあったらしく、1896年(明治29、11期) から急に留学生を受け入れ、1909年(明治42)までに合計63名が来日しているが、その翌年には日韓併合を強行してこれを打ち切っている」(山本七平著『洪思翊中将の処刑』上巻76ページ、ちくま文庫、絶版)
ところが、翌1910年に韓国が併合され、朝鮮人は“朝鮮系日本人”となるわけです。当然ですが、留学制度は消滅。その後18年間は、朝鮮人が陸軍士官学校に入ることはなくなりました。独立国としての最後の世代、日本陸軍の中に朝鮮系の兵隊が取り残された形です。
日本陸軍でただ一人の“朝鮮系”中将に
『洪思翊中将の処刑』(ちくま文庫)は現在絶版
洪思翊さんは非常に温和で、人間的な魅力にあふれていたことは、当時の日本の軍人が口をそろえて言っています。陸軍士官学校に進み、参謀を養成する陸軍大学校を卒業しました。
陸大に入学すると、将来は「閣下」と呼ばれる立場になります。軍人を希望する全ての少年たちが熱烈に志望する「超エリートコース」に乗り、“朝鮮系日本人”としては唯一の中将となりました。
しかし、朝鮮人の誇りはずっと持ち続けていたそうです。「創氏改名」といって、朝鮮現地では日本名に変えさせていましたが、洪さんは変えませんでした。朝鮮名のまま、中将になっていったのです。武官として立派な態度を取っていたことから、誰もそのことについて口を出せなかった、という証言があります(洪中将の発音は韓国式で、言葉を聞けば誰でも朝鮮人だとわかったそうです)。
「公的に(神戸注:差別は)全然なかったと言いうるだろうか。必ずしもそうは言えない。というのは韓国系将校の連隊長は一人もいないからである。(中略)終戦までに大佐・中佐以上まで行った者が、二十六、二十七期合わせて十名いるのに、一人の連隊長も出ていない。国善氏によると洪中将も一度は連隊長を経験しておきたいと強く希望し、その希望を申し出たはずなのに、ついに連隊長は経験しなかった。理由は明らかでない。が、天皇の象徴である軍旗を韓国系将校にわたすことに、何らかの抵抗感があったのではないかと私は推定している」(上巻52ページ)
長男(洪国善氏)が「差別を受けることに納得がいかない。なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか」と言った時に、洪中将はこう語ったと言います。
「アイルランド人はイギリスで、どのような扱いをうけても、決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして、どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言い、決してこの『朝鮮人の』を略してはいけない」(上巻24ページ)
※創氏改名について「ほら、強制ではなかった」という趣旨のコメントがありましたが、曲解です。差別も強制も、普通の人には公然と向けられていたことから、目を背けてはいけません。
日本陸軍士官学校の同期生に、池大亨(チ・デヒョン)という人がいました。脱走して、中国で日本軍と戦うレジスタンス部隊を組織して、独立運動を戦いました。洪さんはこっそりと、この親友の家族の困窮を救うためにカンパを送っていました。
魂としての朝鮮人の誇りを持ちつつも、現実社会で自分が選んだ「日本陸軍の最高幹部」という立場で暮らしていたわけです。日本で暮らす朝鮮人の人たち、軍で働く人たちのことを考えながら、リーダーとしての自分が何かを背負うべきだと考えていたのではなかろうか、と周囲は言っています。
「自らの決断」への忠誠
1944年には、東南アジア全体を管轄する「南方総軍」の兵站(へいたん)監、つまり補給・輸送・管理を担当するトップに就任し、中将に任じられましたが、翌45年に敗戦、捕虜となります。そして46年9月、フィリピンで絞首刑になりました。
洪中将は、兵站部門のトップでした。陸軍病院などを管轄しているのですが、その中の一つに捕虜収容所もありました。収容所で日本軍が捕虜を虐待したり、殺害したり、いろいろなケースがあってBC級戦犯が処罰されましたが、形式上とは言え総括責任者であるということで、絞首刑になっています。何という人生なのでしょう。
戦争が終わった時に、部下の日本軍人が「これで韓国は独立する。洪中将も帰国されて、活躍されることでしょう」と祝いの言葉をかけたそうです。その時、洪中将は威儀を正してこう言っています。
「自分はまだ制服(ユニフォーム)を着ている、この制服を着ている限り、私はこの制服に忠誠でありたい。従って、これを着ている限り、そういうことは一切考えていない」(上巻95ページ)
戦犯を裁く法廷で洪中将は一切弁明せず、無言を貫いています。
絞首刑となる日、キリスト教の教誨師だった片山牧師に、「片山君、何も心配するな。私は悪いことは何もしなかった。死んだら真っ直ぐ神さまのところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな」と言って、絞首台に上りました。
戦争後の世界では、洪さんは「裏切り者」とされています。親友だった池大亨さんは、「建国の英雄」として、大臣になりました。こっそりと日本から支援をしていた洪思翊中将は、絞首刑を受けて人生を終わりました。
次の世代は、「裏切り者」と断罪してしまうかもしれないけど、その前に生きた人々の深い思いがある。もう少し想像力を働かせないといけないのではないか。歴史を見る時に大事なのはそういうことかな、といつも思うのです。
神戸金史(かんべ・かねぶみ)
1967年生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。
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2023年8月4日 YAHOO!JAPANニュース RKBオンライン「28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか あるBC級戦犯の遺書 #2
深掘り!特集
福岡県嘉麻市の碓井平和祈念館に収蔵されている藤中松雄さんの遺書。学芸員の青山英子さんは、収蔵庫で遺書を手にした時点では、BC級戦犯についてはほとんど知識がなかったと言う。
目次
1.BC級戦犯のことはほとんど語られてこなかった
2.「戦犯」とはなにか
3.BC級戦犯が問われたのは「通例の戦争犯罪」
4.5700人が罪に問われ920人が処刑された
5.文書は燃やされ多くが口を閉ざした
BC級戦犯のことはほとんど語られてこなかった
碓井平和祈念館 学芸員 青山英子さん
「A級戦犯については知識として人並みに知ってはいましたが、BC級戦犯は、キーワードだけ。『私は貝になりたい』のドラマで聞いたくらいでした。」
降伏文書 署名(国立公文書館所蔵)
BC級戦犯と聞いて、1958年に制作されたテレビドラマ「私は貝になりたい」を思い浮かべる人は多いようだ。フランキー堺演ずる理髪店主が上官の命令で捕虜を刺殺し、スガモプリズンで処刑されるまでが描かれている。翌年映画化され、2008年には中居正広主演でリメイクされている。実際にBC級戦犯としてスガモプリズンに収監されていた加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」をもとに橋本忍が脚本を書いた。そもそも遺書は加藤による創作であり、BC級戦犯のエピソードを組み合わせたストーリーになっている。林博史「BC級戦犯裁判」(岩波新書、2005年)によると、BC級戦犯で二等兵に死刑が宣告された例はあるが、執行はされていないという。
「戦犯」とはなにか
そもそも日本における戦争犯罪人、「戦犯」とは、どういう人たちなのか。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。この中に「戦争犯罪人の処罰」が含まれていた。
東京裁判(米国立公文書館所蔵)
(ポツダム宣言第10項)
「我等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも我等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」
BC級戦犯が問われたのは「通例の戦争犯罪」
戦犯裁判に詳しい恵泉女学園大学の内海愛子名誉教授によると、戦争犯罪は、a平和に対する罪、b通例の戦争犯罪、c人道に対する罪、に分けられているが、日本の戦争犯罪は、A級とBC級の二つに分類されている。A級戦犯が問われて確定したのは、平和に対する罪と通例の戦争犯罪。そしてBC級戦犯はすべて通例の戦争犯罪だという。
5700人が罪に問われ920人が処刑された
戦争犯罪裁判概史要(国立公文書館所蔵)
東京都千代田区にある国立公文書館には、法務大臣官房司法法制調査部が1973年にまとめた「戦争犯罪裁判概史要」がある。この資料によるとA級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判では28人の被告のうち7人が死刑となった。一方、BC級戦犯は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス、フィリピン、中国の7カ国によって合わせて49法廷で裁かれ、罪に問われたのは5700人。死刑が宣告されたのは984人だ。注釈で実際に執行されたのは920人と記されている。
文書は燃やされ多くが口を閉ざした
水兵姿の藤中松雄
A級戦犯については、元首相の東條英機をはじめ日本の指導者の立場であった人たちが罪に問われたため、よく知られていると思う。裁判資料も残され、研究している人たちも多く検証もされている。一方でBC級戦犯については、一部の研究者やジャーナリストが発信しているが、その数はA級戦犯に比べて圧倒的に少ない。920人もの命が奪われているにも関わらず、情報がないのだ。裁判記録はそれぞれ裁いた国に持ち帰られ、日本にはない。戦犯に問われることを恐れて軍が所有していた多くの文書が燃やされ、戦犯に問われた事件についても分からない。釈放され故郷に戻ることができた元戦犯の人たちも、多くが口を固く閉ざした。
戦後70年以上が過ぎても、BC級戦犯については、語られていないことが多く残されている。
筆者 大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。
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