☳42〕─1─韓国の役人が持ち出す天皇家朝鮮半島出自説。1965(昭和40)年。〜No.151No.152No.153 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 韓国・朝鮮の歴史書における日本の記述の多くはウソであり、捏造され歪曲され改竄された悪意に満ちた偽りの真実であり、事実ではない。
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 2023年9月28日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「韓国の役人が持ち出した「天皇家朝鮮半島出自説」…日韓基本条約締結の交渉を目の当たりにしたバンカーの告白
 ときは1965年。日本と韓国の国交回復のため「日韓基本条約」の締結を目指して渡韓していたバンカー・玉置修一郎。50年以上たった今だからこそ話せる、条約締結合意に至るまでの裏話を明かした。
 【写真】韓国で「日本製品を捨てろ」、学校でまさかの“反日扇動”がまたまた…!
 改善をみせる日韓関係
 さる3月16日、韓国の尹錫悦大統領が来日し、日本の岸田文雄首相と仲睦まじくいっしょにすき焼き屋と洋食店を梯子して話題になった。国際会議以外で両国の首脳が会ったのは、'11年の李明博大統領の来日以来、実に12年ぶりだ。
 「冷え切っていた日韓関係の雪が解けた」
 政府・自民党は首脳会談をそう絶賛した。周知のように日韓の諍いの原因は、朝鮮半島出身労働者の元徴用工訴訟問題にある。その根っこは、戦後賠償を巡る日韓基本条約に立ち返れるかどうか、そこが日韓双方の課題といえる。
 正式名称「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」は、'65(昭和40)年6月に締結された。南北に分断された朝鮮半島において、日本政府が韓国との国交回復を急ぎ、第二次大戦の戦後賠償をテーマに基本条約を結んだ。実は、この条約のドラフト(草稿)を作成した一人が、日本興業銀行元常務の玉置修一郎(90歳)だったのである。
 本人は'32年9月生まれだから、当時は30歳を少し過ぎたばかりの頃だ。若い興銀のバンカーが、'62年に大阪支店から日本輸出入銀行(輸銀)に出向し、日韓の国交回復という重責を担うことになる。玉置自身が輸銀時代の記憶をたどる。
 韓国政府と交渉せよ
 1961年撮影 左が島津久永
 「興銀から輸銀に出向していたのは、'62年から'65年までの3年間。輸銀で机を並べていたのが、島津久永君でした。昭和天皇のご息女の『おスタちゃん』(第5皇女清宮貴子内親王)のご亭主で、ご夫妻は日本で最初の億ションだった三田のマンションに住んでおられました。私自身もこの輸銀時代に結婚したので、島津君も何度か私の自宅に遊びに来ました。島津君が『ゴルフを教えてほしい』というので、彼をピックアップしてゴルフ場へいっしょに行ったり」
 島津久永薩摩藩主だった島津忠義の孫にあたる。'34年3月生まれの89歳なので、玉置と同世代だ。学習院大学を卒業して輸銀に入行していたという。日韓基本条約の草案づくりは、まさにこの頃のことだ。
 「'56年に興銀に入った私にとっては、入行10年目のことでした。輸銀に出向していた最終年度の'65年、日韓基本条約に漕ぎつけました。ちょうど政府が日韓協定づくりを輸銀に託していて、私もそこに加わったのです。韓国側の交渉相手は韓国銀行、それに韓国政府の財政部でした。韓国銀行は日本の日銀にあたる中央銀行で、日本側は私と輸銀のプロパー担当者、それに大蔵省の役人というメンバーで協定づくりに臨みました」
 と、玉置が振り返った。
 韓国側の「脅し」
 「協定締結間近になると、向こうにひと月ほど滞在して連中と毎日激しくやりあいました。とくに最後の5日間は、今でも忘れられません。戦前から韓国の独立運動をして初代大統領になった李承晩の生誕地へ連れて行かれましてね。たしか果物の柿が名産の地域でした」
 李承晩は韓国の国父と呼ばれる。1875年3月に京畿道開城市近郊の黄海道平山郡馬山面大慶里(現・黄海南道峰泉郡)に生まれ、渡米してジョージ・ワシントン大学ハーバード大学プリンストン大学に学んだ。終戦から3年経た'48年8月15日、大韓民国政府樹立を宣言し、初代大統領に就任。玉置たち日本側の3人は、韓国の英雄の幼少期から独立運動まで詳しく説明を受け、別の地へ移動したという。
 「李承晩の故郷には2日間いたかな。それから日本海に面した古都の慶州市に移動し、仏国寺という有名な寺に宿泊しました。寺で晩さん会が開かれ、ご馳走になりました。そこで、韓国側の人たちが『皆さん、これをご存知ですか』とおもむろに剣や鏡、勾玉を持ち出して見せてくれた。それがナント、三種の神器なんです。『日本の天皇さんは、これを日本に持ち帰り、模倣して作ったんです』と言うではないですか。要するに、日本の天皇は韓国人の子孫なのだから、大人しくわれわれの言う通りにしなさい、と脅しているわけです」
 今もときおり耳にする天皇家朝鮮半島出自説だ。真偽はともあれ、玉置たちはそれを中央銀行の職員や政府の役人が持ち出すことに驚いたという。さらに日本側の3人は、3日目に釜山郊外にある東萊温泉に案内された。次のようにも語る。
 偽りの歴史を讃える韓国
 「韓国にはあまり温泉がないのですが、そこの料亭には東萊妓生という芸者がいて、海外の客をもてなす。彼らは『何を隠そう、あの加藤清正を殺したのは東萊妓生なんですよ』とその勇敢さを讃えるのです」
 繰り返すまでもなく加藤清正は、文禄の役豊臣秀吉に命じられ、朝鮮半島に渡って京城攻めをして名を成した。徳川優勢になると、徳川家に乗り換え、熊本城主となる。
 「だから韓国の芸者に殺された、なんてありえない。なのに、向こうの高級官僚まで信じているのです。しかも歴史の教科書にもそう記されているという。それを伝えるためにわざわざ温泉にまで連れて行くのだから、驚きました」
 日本と韓国が条約を結んだのは、そうして玉置たちが韓国側とやりあってから間もなくのことだ。戦中の日本は朝鮮半島でインフラ整備をおこなってきたことから、施設の債権を主張してきたが、それを放棄。韓国側は植民地時代の賠償を含めた経済援助を求めた。
 肝心の日韓基本条約は'65年6月22日に両国で締結し、同年12月18日にソウルで批准書が交わされた。おかげで両国の国交が回復。日本側は韓国に対し、まず10年間で3億ドルの無償資金協力をし、有償でも2億ドルの資金を提供すると約束。のちにこれが11億ドルにまで膨らんだ。文字通り無償資金協力は返済義務がない援助であり、有償資金協力は返済義務を伴う。
 後編記事「W日韓基本条約の締結に関わった「知る人ぞ知るバンカー」のその後…「興銀のエリート」の回想」に続く。

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 もり・いさお/'61年、福岡県生まれ。『週刊新潮』編集部などを経て、'03年に独立。『悪だくみ「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で'18年に大宅賞を受賞。『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』など著書多数

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 「週刊現代」2023年9月23日号より
 週刊現代講談社
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 9月28日 週刊現代講談社日韓基本条約の締結に関わった「知る人ぞ知るバンカー」のその後…「興銀のエリート」の回想
 ときは1965年。日本と韓国の国交回復のため「日韓基本条約」の締結を目指して渡韓していたバンカー・玉置修一郎。50年以上たった今だからこそ話せる、条約締結合意に至るまでの裏話を明かした。
 前編記事「韓国の役人が持ち出した「天皇家朝鮮半島出自説」…日韓基本条約締結の交渉を目の当たりにしたバンカーの告白」から、続けて報じよう。
 連載記事はこちら
 第一回(前):日本に「世界最大の銀行」が存在した…その「二人の天皇」に仕えた重役が明かした「秘史」
 第一回(後):安倍晋三、「泥酔会見」で失脚した中川昭一にも目をかけた「かつての世界トップバンク」の知られざる歴史
 第二回(前):「鞍馬天狗はどこにいるかな」田中角栄がパーティ会場で指名した「興銀元頭取」の影響力
 第二回(後):「背広5着の仕立て券」を断ると、「菓子箱に現金」が…トップバンクの銀行マンが経験した「黄金時代」
 「15億ドル欲しい」
 「週刊現代」より 韓国の国父・李承晩
 玉置が日韓基本条約締結時の秘話を明かす。
 「現在の金銭価値に換算すれば、日本側の支払額は10倍どころじゃなく、100倍くらいに相当するんじゃないでしょうか。実は最初の段階で韓国側は、無償の資金協力は5億ドルでいいけれど、有償は10億ドル、いや15億ドル欲しいと言ってきました。私は輸銀の若い一介の係員に過ぎませんでしたが、いくらなんでも吹っかけ過ぎではないか、とさすがに頭に来ましたね」
 無償、有償合わせた11億ドルは、当時の為替レートの1ドル=360円換算で3960億円という計算になる。が、実際の価値は、それよりはるかに大きい。韓国の年間国家予算が3億5000万ドル前後だったから、その3倍を超える資金援助である。ちなみに韓国は近年飛躍的に経済発展を遂げ、'23年の予算は638兆7000億ウォン(約66兆4248億円)にのぼる。玉置の言うように、トータル3960億円の資金援助を現在価値で100倍だとすると、約40兆円になる。したがって的外れではない。
 なお、条約締結後は互いに債権債務の請求権を放棄することで合意した。が、元徴用工問題をはじめいまだに火種が燻っているのは周知の通りだ。
 「あの頃私たちは毎日毎日、朝から晩まで角突き合わせていました。韓国銀行や政府財政部の連中が、もっと日本から資金を引き出したがっていたのはたしかでしょう」
 玉置は半世紀以上も前の交渉現場に思いを馳せ、こう続ける。
 「ただ、輸銀は大蔵省から協定づくりを委託されていたので、交渉過程を残さなければなりませんでした。交換公文として一字一句間違いないように。だから、譲れない部分も少なくありませんでした。結果、不可逆的な協定を残すことができたと思っています。実際に協定がまとまったときは、彼らも『これでもう日本と韓国は永遠の友だ』なんてうまいことを言っていました」
 重大ミッションを終えて
 「週刊現代」より 日韓基本条約締結時の様子
 日韓基本条約の話の途中、隣の和室に案内してくれた。
 「これが、あのときの記念の品です」
 そう言って指さした床の間には、青磁の壺が飾られていた。
 「日韓協定は向こうも喜んでいたのでしょうね。協定がまとまり、日本に帰ろうとしたとき、『税関で見つかると大変ですから、トランクのなかに忍ばせておいてください』と言われ、この壺を手渡されました。箱書きもないので、高価なものかどうかわかりませんけれど、高麗壺だと思います」
 そうして日韓基本条約の締結合意という重大ミッションを終えた玉置は、興銀に出戻った。
 「当時、興銀から輸銀に出向する行員は多くいました。なかにはそのまま輸銀に移籍する者もいて、『玉置さんもどうですか』と誘われましたけれど、断りました。そして興銀へ戻ってから、本部の融資三部に異動になりました。融資三部は興銀の融資部のなかでも最先端の化学産業への融資をしていましてね。そこはある意味で、興銀を象徴するような部署でした」
 日韓基本条約が結ばれようとしたまさにその頃、日本の産業界は輸出に沸き、設備投資がさかんにおこなわれるようになる。'65年11月から'70年7月までの4年8ヵ月にわたる好景気は「いざなぎ景気」と呼ばれた。高度経済成長の節目となるこの好景気のけん引役が日本興業銀行頭取の中山素平だったのは、言うまでもない。とりわけこの頃は、重工業とともに日本の基幹産業に成長した石油化学産業が持てはやされた。社史『日本興業銀行百年史』にもこう記されている。
 〈1964(昭和39)年12月、官民による石油化学協調懇談会が設置され、わが国の石油化学工業の発展に一つの転機がもたらされた。(中略)既存コンビナートの増強と並び新たに四つのコンビナートの新設が承認され、1970年までにほぼ完成した〉
 太平洋ベルト地帯のコンビナートが日本の高度経済成長を担い、興銀が資金面でそれを支えた。その石油化学会社に対する融資窓口となったのが、四部制を敷いていた融資部の中の融資三部であり、そこに興銀のエリート行員が送り込まれた。
 日本経済のいまを作ったバンカーたち
 ちなみに大手銀行の営業部門はそれぞれ機構が異なり、特徴がある。たとえば同じく融資部門の住友銀行の融資第三部は、バブル期の融資の焦げ付き処理で有名になった。融資第三部を率いた西川善文は、のちに頭取に昇進し、「ラストバンカー」と異名をとるまでになる。
 玉置は'60年代半ばの興銀融資三部に所属した。こう回想する。
 「東洋曹達(現・東ソー)にしろ、昭和電工(現・レゾナック)にしろ、日産化学にしろ、三菱化成(現・三菱ケミカル)にしろ、日本の化学会社は肥料関係からスタートしているところがほとんどでした。電気分解技術を使い、肥料を製造してきたが、経営的には苦しかった。それらの化学会社は興銀の資金が欠かせなかったんです。たとえば昭和電工のメインバンクはもともと富士銀行だけれども、興銀が融資しなければ成り立たなかった。三菱化成も三菱グループではあるが、三菱銀行より興銀の融資のほうが多かった。高度経済成長期はそういう時代でした」
 玉置が配属された興銀の融資三部が、まさしく石油化学会社を日本の基幹産業に育て上げたといってもいい。
 「われわれは、融資先をおんぼろ化学会社と呼んでいましたけれどね。ただ、実際は、どこも素晴らしい会社に生まれ変わりました。だから、興銀を背負って立つようなバンカーがここに配置されていたわけです。部長でいえば、のちに頭取を長く務めた池浦喜三郎もそうだし、池浦のあとの中村金夫も融資三部の部長でした。おんぼろ会社から優良企業に生まれ変わった最たるところが、東洋曹達で、もとは単なる塩ビの会社で、興銀から社長を送り込んで立て直した。しかし、興銀マンが我が物顔で会社を牛耳っていたので、プロパーの社員からすると、『にっくき興銀』という目で見られていました」
 融資先との緊張関係があった銀行の古き良き時代の逸話だともいえる。その興銀では、中山素平から正宗猪早夫、池浦喜三郎、中村金夫と頭取が受け継がれ、全盛期を迎えていく。
 (敬称略 つづく)
 「週刊現代」2023年9月23日号より
 もり・いさお/'61年、福岡県生まれ。『週刊新潮』編集部などを経て、'03年に独立。『悪だくみ「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で'18年に大宅賞を受賞。『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』など著書多数
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 歴史的事実として、日本民族は被害者であって加害者ではない、半島人朝鮮人は加害者であって被害者ではない。
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 日本民族半島人とは違う。
 天皇家・皇室は、日本列島に住む日本民族の中から生まれたのであって朝鮮半島から渡ってきた下層民の子孫ではない。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 日本人の朝鮮人に対する差別は、見下す偏見ではなく、天皇殺しに対する恐怖であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や嫌悪や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
 肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
 なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年) 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 997(長徳3)年 南蛮の入寇。高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。

 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
 ……
 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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 日本の朝廷は、中国同様に高麗との正式な国交を拒否した。
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 ウィキペディア
 刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
 経緯
 日本沿岸での海賊行為頻発
 9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前、肥後、薩摩の九州沿岸である。

 藤原隆家と九州武士団
 藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病[注釈 3]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。
 九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
 なお、中世の大豪族菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。
 九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。
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 一般社団法人日本戦略研究フォーラム
 1300人拉致事件の顛末
 ―「刀伊の入寇」から学ぶ今日的教訓―
 .顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男
 日本史を勉強した人でも今から約1千年前、1019年に起こった「刀伊(とい)の入寇」を知らない人は多い。しかし、この出来事は日本史上で初めて発生した外国勢力(海賊ではあるが)による大規模な侵攻であり、日本人365人が殺害され、1300人近くが拉致されるという未曽有の大事件であった。
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 長らく続いた平和の中で、多くの公卿たちに「国を守る」という防衛意識が完全に欠落していたとしか思えない。今日、私たちが置かれている状況に照らすとき、何とも教訓に満ちた話ではないか。
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 世界史の窓
 「刀伊の入寇
 刀伊は筑前の国にも上陸し、北九州沿岸一帯を荒らした。太宰権帥であった藤原隆家(関白藤原道隆の子であったが、道長と対立し一時出雲に流されていた。この時は自ら望んで太宰府に赴任していた)は、地方豪族の武士団を率いて撃退することに成功した。刀伊の船は帰路、高麗の水軍によって壊滅させられ、連行された日本人捕虜200余名が救出された。
 (引用)当時の日本では、刀伊が旧渤海の故地に住むツングース系の女真人であることを、だれも知らなかった。政府は、襲来が高麗と無関係であるのを知ったが、高麗への警戒をゆるめなかった。また高麗が、捕虜にされた日本人を送還してくれても、なんら報いることをしなかった。公卿たちは、事件の認識と処理において、まことに鈍感で冷淡であった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.83>
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 世界大百科事典内の刀伊の入寇の言及
 【平安時代】より
 …中国からは高級織物や書籍などが輸入され,日本の貴族の間に珍重されたが,とくに大量に輸入された宋銭は全国に流通し,商業・経済の発達に大きな役割を果たした。 こうして10世紀後半以降,おおむね平穏な対外関係を保っていた間に,突発的に起きたのが,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇である。これは遼の支配下にあった女真族の一部族が壱岐対馬を襲い,北九州にも上陸して寇掠した事件であるが,大宰権帥藤原隆家をはじめ,在地豪族の奮戦によって,短時日の間に撃退することができた。…
 ※「刀伊の入寇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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 1093年 「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行い、相手が弱いと見れば侵略して財宝を強奪した。
 世界の常識では、船団は海賊行為をおこない、敵対国の商船を襲撃していた。
 明国大艦隊は、目の前の日本を無視して東南アジア・中東に向かった。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は700騎を率いて反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人であった。。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
 日本武士団700騎 vs. 朝鮮軍1万7,285人。
 日本の大勝利。
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 ウィキペディア
 応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(朝: 기해동정)と言われる。
 当時足利義持室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。

 対馬再征計画
 7月9日(7月31日)に、対馬へ向けて出港し再攻撃することが提案されたが、兵の士気がすでに落ち、船の装備が破損し、風も強くなっていたことから得策ではないとして、台風が静まることを待ってから軍隊を整えて再遠征しても遅くはないとしたが、結局実現はしなかった
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 凡人は歴史に学ぶ
 応永の外寇
 室町幕府の3代将軍・足利義満は甚だしく公家化しましたが、その子の4代将軍・義持は、わずか9歳で後を継いだものの、長じて将軍として活動するようになると、父とは反対のことをしました。義満が生前に望んでいた「太上法皇」の尊号が、朝廷からわざわざ下されたとき、義持はそれを辞退し、義満夫人の葬式も簡素に行い、義満の自慢だった政務中枢の北山第も、鹿苑寺金閣)を除いてすべて取り壊しました。
 また、義満が開始した明との貿易も、義持は日本にとって屈辱外交だと考え、冊封関係を否定。そのため、1411年(応永18年)にやって来た明の使者を兵庫の港から帰してしまい、入洛させなかったのです。武家の原理に戻ろうとした義持は、父の外交政策も根本的に否定し、保守的・国粋的に徹しようとしたのです。また、勢力を盛り返そうとする守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回り、比較的安定した政権を築き上げました。
 そして1419年(応永26年)6月、「応永の外寇」なる事件が勃発します。朝鮮の将軍・柳廷顕(りゅうていけん)、李従茂(りじゅうも)らが、蒙古兵とともに(蒙古兵は誤認とする説が強い)、兵船1300余艘を率いて対馬に襲来したのです。九州と対馬の諸豪族たちとの間で壮絶な戦闘となりましたが、最後は日本軍が大勝利し、その後、朝鮮は日本襲撃を断念します。
 この知らせを受けて驚愕したのが幕府です。日明関係がよろしくなかった時ですから、すわっ、元寇の再来かと思い慌てふためきました。義持も石清水八幡宮に参籠して無事を祈願しました。このとき、風もないのに八幡若宮の鳥居が倒れ、義持を仰天させたといいます。
 しかし、実際のところは、元寇のような大層なものではありませんでした。朝鮮の太宗が、当時の倭寇による掠奪の激しさに閉口し、倭寇の本拠地と思われる対馬を攻撃したのであって、元寇のときのように日本を征服しようなどという意図は全くなかったのです。
 しかし、そんなことは九州の武士にも足利将軍にも分かりません。明も預かり知らないことですから、事件の2、3週間後に国交を求めて使者を送ってきました。幕府は「ひとの国に攻撃をしかけながら、何という図々しさか」と怒り、明とは国交を断絶する旨を伝え、返事の国書を与えて帰国させたのです。その内容の一部は、次のようなものです。
 「明国の使臣が両国往来の利をしきりに説いているのに、義持がこれに応じないのは、先君義満が病に倒れた時に占ったところ、諸神の祟りであるのが明らかになったからだ。わが国は古来、外国に向かって臣と称したことはないのに、義満は暦と印を受けた。わが過ちを認めた義満は、死に臨んで永く外国との通交を絶つことを誓った。自分は神明の意にしたがい、先君の命を奉ずるのみである。昔、元兵100万が攻め寄せてきたが、神兵の援けによりこれを海の藻屑とした。今わが態度を怒り、攻め寄せるなら、迎え撃って戦わん」
 この返書をもらった明帝は、「いったい何のことやら」とずいぶん怪訝に思ったのではないでしょうか。
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 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
 後期倭寇は中世のバイキングに似たところがあった。
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 豊臣秀吉朝鮮出兵・唐入り。
 1792年文禄の役、1797年~98年慶長の役。 
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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 2023年7月7日 YAHOO!JAPANニュース Book Bang「近寄りすぎても、離れすぎてもいけない――「難しい隣国」の来歴を描く『朝鮮半島の歴史 政争と外患の六百年』の読みどころ(レビュー)
 韓国の歴史といえば、「日韓併合」と「朝鮮戦争」ばかりが注目され、近代以前の歴史はあまり知られていない。その空白を埋めるべく、新城道彦さんが『朝鮮半島の歴史――政争と外患の六百年』(新潮選書)を上梓した。本書の読みどころを、慶應義塾大学名誉教授の小此木政夫さんが紹介する。
 小此木政夫・評「朝鮮独特の「政治の磁場」」
 我々が隣接する朝鮮半島は政治的には「不毛の地」である。域内的にも国際的にも、調和や安定を欠いている。それは何をきっかけに、いつ発火するかわからない。歴史的にも、「近寄りすぎても不可、離れすぎても不可」という独特の「政治の磁場」であった。本書は我々にそのことの再確認を迫っている。
 本書の著者は、六百年に及ぶ朝鮮半島の歴史を「政争」と「外患」の観点から俯瞰したうえで、それを日本による韓国併合第二次世界大戦後の独立と分断の現代史と結び付けて解釈した。朝鮮王朝の「目をそむけたくなる歴史」を直視したうえで、「朝鮮半島が分断している現状はもちろん異例であるが、それと同時に、七〇年以上にわたって〈独立〉を維持していることもまた異例」だと指摘する。王朝史を俯瞰してこそ見えるものがあるようだ。
 ところで、評者はかつて戦後の朝鮮分断を「独立と統一の非両立性ないし相克」と定義したことがある。それは「独立を達成しようとすれば統一が不可能になり、統一を実現しようとすれば戦争が不可避になるという不都合な状態」に着目するものであった(『朝鮮分断の起源』、慶應義塾大学出版会、二〇一八年)。しかし、著者はむしろ二つに分断された韓国と北朝鮮が、それぞれ長期にわたって独立を維持していることに注目した。朝鮮史においては、それこそ例外的だというのである。「分断による抑止」とか「分断による平和」という言葉が頭に浮かぶ。
 一三九二年に太祖(李成桂)が始めた朝鮮王朝が最初に滅亡の危機に瀕したのは、豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に侵攻したとき、すなわち十六世紀末の文禄・慶長の役による。首都である漢城は開戦から二十日間で陥落した。朝鮮が滅亡しなかったのは、明が参戦して日本の軍勢を押し返したからである。しかし、その明が疲弊し、日本が鎖国に向かうなかで、再び朝鮮半島の勢力均衡が失われた。一六三七年、朝鮮は清の皇帝に即位したホンタイジに攻め込まれ、四十日余りの籠城の後に降伏して服属を誓った。
 他方、その間にも朝鮮国内では「党争」が激しく、それが国難への合理的な対処を妨げた。それに対抗するために、国王の側も英祖・正祖の代には「蕩平策」(特定の党派への過度の依存を避け、勢力均衡を図る政策)を採用した。しかし、それに行き詰ると純祖の代には寵臣や外戚の専横を許す「勢道政治」が始まった。王朝政治のためにさまざまな政治技術が開発されたが、党争を収束できなかったのである。政治腐敗と自然災害で民衆の生活は困窮し、民乱が頻発した。
 さらに、やがて宗主国である清自身がアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱など、内憂外患の深刻な状態に陥った。自らが西欧列強に領土を侵食されるなかで、清は富国強兵を進める日本を警戒して朝鮮への干渉を強めた。朝鮮の独立をめぐる日清の対立が深刻化したのである。さらに、日清戦争に勝利した日本が内政改革を通じて朝鮮政治への干渉を拡大すると、朝鮮はロシアに接近した。その先に待ち構えていたのが日露戦争韓国併合であった。
 ところで、著者は朝鮮王朝がすでに破綻の危機にあったことを前提にすれば、日本は「なぜ」自国の負担になりかねない国を併合したのかという興味深い問いを発し、伊藤博文山県有朋が異なるアプローチを採ったことを紹介している。ちなみに、著者は『天皇韓国併合』という研究書をまとめた専門家である。
 伊藤は韓国併合に反対であった。併合のコストが大きすぎたからである。日本が大韓帝国を統治して、その破綻に瀕した国家財政を引き受けるよりも、むしろ韓国を保護国として内政を改革させ、経済を振興して自国を防衛させることが重要であると考えた。将来的には、そのような韓国と同盟して、日本の安全を図るという戦略方針を描いていたのである。そのために、伊藤は韓国の宮中改革に着手し、次代の皇帝と目される皇太子の李垠を東京に留学させた。長期的な計画であった。
 しかし、一九〇九年十月にハルビン駅頭で伊藤が安重根に暗殺されると状況は一変した。伊藤に代わって最高実力者となった山県有朋やその下にあった寺内正毅陸軍大臣などの陸軍閥は、統治コストを顧みることなく、韓国併合に突き進んだのである。それは思慮不足に由来する「小さな失敗」にすぎなかったかもしれないが、満洲事変にまで繋がる後戻りのできない「大きな失敗」の出発点でもあった。大英帝国ヨーロッパ大陸との間の数百年の経験を経て「栄光ある孤立」を維持したことから学ぶべきであった。
 このように、本書は朝鮮王朝史を俯瞰し、朝鮮半島の独特の「政治の磁場」を浮き彫りにすると同時に、日本外交の在り方をも考えさせる内容になっている。
 [レビュアー]小此木政夫慶應義塾大学名誉教授)
 おこのぎ・まさお
 新潮社 波 2023年7月号 掲載
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 日本人、中国人、朝鮮人を薪に例えれば、日本民族日本人は燃え辛い悪質な生乾き薪で、漢族系中国人は燃えやすい良質な本乾き薪で、半島人は発火寸前の最優良な薪であった。
 その違いは、戦争や災害が起きた時に被災地で暴動・騒乱、強奪・略奪、殺人・暴行、強姦が起きるかどうかである。
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 歴史的事実として、漢族系中国人や半島人反日敵日侮日で親日知日ではなかった。
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