🏹66〕─1─日本人は性善説を誤読して逃げ込んだ。~No.210 

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 日本人は、心卑しい悪人であって心優しい善人ではない、性善説はウソで性悪説が正しい。
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 2023年11月6日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「「性善説」を誤解して日本人が受容してしまった訳 「どんな悪人も同情すべき事情がある」ではない
 大場 一央
 一般的な「性善説」の理解はどうやら間違っているようです(写真:yamahide/PIXTA
© 東洋経済オンライン
 なぜ「無敵の人」が増え続けるのか、保守と革新は争うのか、人間性と能力は比例するのか。このたび上梓された『武器としての「中国思想」』では、私たちの日常で起こっている出来事や、現代社会のホットな話題を切り口に、わかりやすく中国思想を解説している。本稿では、同書の著者である大場一央氏が、誤解されがちな中国思想の言葉を読み解く。
 「すべての人は無条件に善人」は誤解
 「こうも陰惨な事件が続くと、もう性善説では通用しないね」
 そんな言葉を耳にしたことはあるだろうか。これは、性善説という言葉の意味を、「みんな同じように善意で生きている」と捉えた例である。そこから派生して、どんな悪人も同情すべき事情がある、などと言ったりする。
 会社勤めの場合、「性善説でやると在宅勤務の成果があがるか疑わしい」などと言ったりするそうだ。こちらも「みんな同じように誠実に仕事にとりくむ」と言った意味で使っている。
 要するに、現代日本性善説は「すべての人は無条件に善人である」とされることが多いのだが、この使い方は間違っている。
 そして、その間違い方には、いかにも日本人らしい思考が存在する。
 では正しい意味は何で、どうしてそうした間違いになってしまうのか。少し考えてみたい。
 性善説は、古代中国の思想家である孟子(前372?~前289?)によって説かれた。「性」とは「生まれつき」という意味であり、「善」とは「倫理的」という意味である。つまり、「人間は生まれつき倫理的である」というのが性善説の意味になる。
 これだと、何が違うのかわかりにくい。そこで、もう少し深掘りしてみよう。
 まず、性が生まれつきということは、その後の生き方によっては、悪になることがある。
 次に、「倫理的」(善)というのは、孟子によれば身の回りの人間関係において、①思いやり(惻隠)、②羞じ憎む(羞悪)、③譲り合い(辞譲)、④善悪の判断(是非)ができるということである。
 つまり、孟子は「人間は生まれつき身の回りの人間関係に心を配り、正しい言動をとる能力があるものの、それは年齢を重ねるにしたがってダメになる場合がある」と言っているのである。
 ここまで見ると、「すべての人は無条件に善人である」ではないことがわかる。
 「仁」「義」「礼」「智」の四徳
 性善説を説くことにどんな意味があるのか。
 前述の「倫理的」(善)な四つの能力は「四端」と呼ばれる。これは①子供が井戸に落ちそうになっているのを見れば、自分のことのように感じ、タイムラグなく飛び出していく(惻隠)といったように、日常生活で誰もが自然とそのような気持ちを抱く能力であって、特別なことではない。
 同じように②えげつない悪事を見て嫌悪感を持つ(羞悪)、③人の長所や美点を見て素直に尊敬する(辞譲)、④良いことと悪いことをひいき目なく判断する(是非)ことで、人間は社会をお互いに支え合い、つくっているのである。
 そして、「端」とは端緒(とっかかり)という意味であるから、日常生活で四端を育てると、それが成熟してその人の人間性となり、「四徳」(四つの徳)へと成長する。
 四徳は①家族から職場、地域、そして国家へと親身な思いをかけていく徳(仁)、②悪を排除し、正しさを実現する徳(義)、③立場や役割になりきって社会関係をつくる徳(礼)、④物事の意味や是非善悪が判断できる徳(智)である。
 したがって、我々は日常生活でこの四端を育てながら、人間性を高めつつ、社会を少しずつより良いものにしなければならない。生活の中で四端を育てることを「拡充」という。
 つまり、性善説を説くことで強調されるのは拡充であり、一人一人の生活にフォーカスして社会を良くすること、これが性善説の論旨である。
 思想ではなく庶民感情
 問題はここからである。
 誰しもが生まれつき倫理的な素質を持ち、それを拡充によって育てなければならないなら、他者を思いやれず、悪事を平気でやり、自己主張ばかりで、善悪の判断がつかないような人間はどうなるか。
 これは生まれ持った素質があるにもかかわらず、怠慢によって堕落した結果だから、問答無用で人間失格の烙印を押される。
 すなわち、本来の性善説にもとづけば、凶悪犯は人間ではないとされ、極刑に処せられるし、人の目を盗んで仕事を怠ける社員はクビになるだけだ。そこには同情心のかけらもない。
 本当は性善説ほど恐いものはないのである。
 これに対比すると、性善説の間違い方にも一つの特徴があることがわかる。
 「すべての人間は無条件に善人である」というのは、それこそ落語や講談に登場する人情の世界であり、いろんな悪事をはたらく人や、怠けてばかりで使い物にならない人であっても、どこかに優しさや愛嬌があり、またそうなってしまう事情があるという考え方である。
 これは思想というよりも、むしろ庶民感情である。
 江戸時代は武士が『孟子』をはじめとする儒教で倫理を学び、庶民は落語や講談で人情を学んでいた。両者がすみ分けることで、性善説と人情の混同は起こらず、互いに日本社会を維持していた。しかし、近代にはそうした区分がないから、あっという間に人情一色になってしまった。これが性善説を誤用する理由だろう。
 したがって、冒頭のせりふを正しく言い直すと、「こうも陰惨な事件が続くと、もう人情では通用しないね」「人情でやると在宅勤務の成果があがるか疑わしい」としたほうがしっくりくる。
 人情の世界が通用しなくなったのは、安心してよりかかれる共通の倫理がなくなったためである。言い換えればお互いの信頼が低くなったということだ。したがって、人情の世界を回復するには、もう一方の倫理を回復する必要があり、そのためにはむしろ今こそ性善説が必要なのである。
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