🎍47〕─3・A─優雅な上流階級のイメージはウソだらけ。平安貴族のヤバすぎる裏の顔。~No.149 

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 日本は、何時の時代でもブラック社会であった。
 日本人は、悪人であって善人ではなかった。
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 2023年11月21日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「「優雅な上流階級」のイメージはウソだらけ…学校では教えてくれない平安貴族のヤバすぎる「裏の顔」
 ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hannizhong
 平安時代の貴族たちの暮らしぶりはどんなものだったのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「和歌を詠み、文学を好む貴族のイメージは間違っている。平安時代は、殺人や横領に手を染めた貴族が幸せに暮らす『悪徳に満ちた世界』だった」という――。
 【写真】繁田信一氏の著書『わるい平安貴族』(PHP文庫)
 ※本稿は、繁田信一『わるい平安貴族』(PHP文庫)の一部を抜粋したものです。
清少納言の実兄、白昼の平安京で射殺される
 清少納言といえば、王朝時代の宮廷を彩った数多の才媛たちを代表する存在の一人であるが、その清少納言の兄弟の一人が騎馬武者の一団の襲撃を受けて生命を落としたという事実は、どれほど広く知られているだろうか。
 かの御堂関白藤原道長の日記である『御堂関白記』によると、寛仁元年(一〇一七)の三月八日、数騎の騎馬武者たちが白昼の平安京を疾駆するということがあったらしい。
 その後方には十数人の徒歩の随兵たちの姿も見られたが、この一団がまっしぐらに向かっていたのは、六角小路と富小路(福小路)とが交わる辺りに位置する一軒の家宅であったという。
 そして、その家宅に住んでいたのが、清少納言の実兄の前大宰少監(だざいのしょうげん)清原致信(むねのぶ)であった。
 その致信の居宅において起きた出来事を藤原道長に伝えたのは、道長の息子の藤原頼宗(よりむね)であったが、その折の頼宗の言葉は、『御堂関白記』に次のように書き留められている。
 「行幸(ぎょうこう)があった日の申時(さるのとき)頃のことです。六角小路と福小路との辺りの小さな家に住んでおりました清原致信という者は、藤原保昌(やすまさ)の郎等(ろうどう)だったようですが、馬に乗った七人ないし八人の武士たちと十数人の徒歩の随兵たちとによって、その家宅を取り囲まれたうえで殺害されてしまいました」
■血溜まりの中で絶命した
 ここで言及されている行幸は、後一条天皇石清水八幡宮への行幸のことであるから、右の事件があったのは、後一条天皇石清水八幡宮へと行幸した寛仁元年三月八日の申時頃だったのだろう。
 また、申時というのは、おおむね、午後三時から午後五時にかけての時間帯であるが、旧暦が用いられていた王朝時代の三月八日は、われわれ現代日本人の用いる新暦において四月の下旬頃に該当しようから、清原致信襲撃事件は、まさに白昼堂々の凶行であった。
 これ以前に大宰府の三等官である大宰少監を務めていたことの知られる清原致信は、朝廷に仕える中級官人であり、われわれが「王朝貴族」と呼ぶ人々の一人である。しかも、清少納言の兄にあたる彼は、当然のことながら、著名な歌人であり『後撰和歌集』の編纂者の一人としても知られる清原元輔(もとすけ)の息子であった。
 ところが、そんな致信の最期は、「王朝貴族」と呼ばれる人々にはまったく似つかわしくないものであった。騎馬武者に襲撃された致信は、その身体を一本あるいは数本の矢に貫かれて血溜まりの中で絶命したはずなのである。
 しかも、ことによると、騎馬武者の随兵たちの手で首を斬り落とされていたかもしれない。したがって、件の騎馬武者たちが駆け去った後、人々が致信宅で眼にしたものは、致信の首のない遺骸だったかもしれないのである。
■なぜ清少納言の実兄は殺されたのか
 しかし、より驚くべきは、彼が酷たらしく殺された理由についてであろう。実のところ、致信が先に見たような最期を迎えなければならなかったのは、これに先立って、致信自身が他人の生命を奪っていたがゆえのことだったのである。
 このことは、寛仁元年三月十一日の『御堂関白記』の先ほどの続きを見るならば、すぐにも明らかになろう。
 「『そこで、検非違使たちに捜査を命じまして、このような報告書を作らせました。そして、この報告書によりますと、秦氏元(はたのうじもと)という者の息子が致信を殺した騎馬武者たちの中にいたとのことですので、氏元の居場所を調べましたところ、この者は、源頼親(よりちか)に付き従う武士の一人であるようです』と報じた。そこで、頼親に事情を尋ねてみると、先日の致信殺害は、まさに頼親の命じたものであった。この源頼親について、世の多くの人々は、『人を殺すことを得意としている』と評しているが、事実、彼が今回のような事件を起こしたのは、けっして初めてのことではない。そして、致信の殺害を命じた頼親は、以前に殺害された大和国の当麻為頼(たいまのためより)という者の仲間であったらしい」
 源頼親清少納言の実兄の殺害を企図したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。頼親が秦氏元の息子を含む配下の武士たちに命じて清原致信を討たせたのは、それ以前に致信が為頼を殺していたためだったのである。
 とすれば、致信が清少納言の身内には不似合いな凄惨(せいさん)な最期を迎えたことも、その当時の貴族社会の人々からすれば、致信の自業自得でしかなかったのかもしれない。
■殺人を指示する和泉式部の夫
 ただし、源頼親が清原致信を報復の対象としたからといって、必ずしも致信こそが当麻為頼殺害の首謀者であったとは限らない。すなわち、為頼の殺害に致信が深く関わっていたことは疑いないとしても、この殺人は致信によって企図されたものではなかったかもしれないということである。
 このように考えるのは、すでに見た『御堂関白記』において藤原頼宗藤原道長に報じているように、致信が藤原保昌の郎等の一人だったからに他ならない。
 ここに注目する藤原保昌は、おそらく、王朝文学の愛好者の間では、かの和泉式部の夫として知られる人物であろう。保昌は、悪名高い王朝時代の受領(ずりょう)国司たちの一人だった。しかも、丹後守・日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領たちを代表する存在でさえあった。
 長和二年(一〇一三)四月十六日の『小右記』に大和守保昌の左馬権頭兼任の人事が発令されたことが見える如く、保昌が寛仁元年(一〇一七)の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあったことは、まったく疑いようがない。したがって、保昌の郎等であったという致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。
 また、大和国の住人であった為頼は、当然、保昌が大和守であった頃にも大和国に住んでいたはずである。とすれば、為頼が何らかの事情で保昌にとって邪魔な存在になっていたことも、また、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたことも、かなり容易に想像されよう。
■人生を謳歌する殺人者たち
 それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝時代の貴族社会に生きる人々にとっては、いかに身近なものであったことか。
 ただ、三人の殺人者たちのうちの致信の場合、彼自身もまた、殺人事件の被害者となって生命を落としたのであったが、保昌のために殺人を行ったがゆえに頼親に殺害されることになった致信は、かなり酷たらしい最期を遂げたことが想像されるうえ、まったくの殺され損であった。
 実は、清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられてしまう。要するに、殺人事件を起こしたことで、現職解任の処罰を受けたということである。
 とはいえ、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。しかも、その失職さえも、一時的なものにすぎなかった。遅くとも万寿元年(一〇二四)のうちには、新たに伊勢守を拝命していたのである。
 そして、これに続けて大和守と信濃守とを務めた頼親は、その晩年にまたも大和守に任命されたのであった。致信殺害事件の後にも頼親の中級貴族としての人生が順調であったことは、否定すべくもあるまい。
■貴族社会は「悪徳に満ちた世界」だった
 さらに、藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの郎等の一人を失ったという以上には、まったく痛痒を感じることがなかった。寛仁四年あたりに丹後守に任命された保昌は、その後、再度の大和守拝命を経て、摂津守在任中に没するのであった。
 先に見てきたのは、まぎれもなく、王朝時代の貴族社会をめぐる現実の一つの側面であった。われわれが「王朝貴族」と呼ぶ人々の周囲にあったのは、悪事を働いた者が臆面もなく幸せに暮らしているような、悪徳に満ちた世界だったのである。
 致信にしても、もし頼親による復讐(ふくしゅう)をうまくかわすことができていたならば、当麻為頼を殺した凶悪犯であったにもかかわらず、妹の清少納言とともに人生を謳歌(おうか)していたのではないだろうか。

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 繁田 信一(しげた・しんいち)
 歴史学者神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員
 1968年、東京都生まれ。東北大学神奈川大学の大学院を経て、現在、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員、同大学国際日本学部非常勤講師、博士(歴史民俗資料学)。主な著書に『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー)、『陰陽師』(中公新書)、『源氏物語を楽しむための王朝貴族入門』(吉川弘文館)、『下級貴族たちの王朝時代』(新典社)、『知るほど不思議な平安時代 上・下』(教育評論社)などがある。

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