🎍42〕─1─菅原道真と遣唐使廃止。寛平の韓寇。高麗建国。平将門。契丹族の高麗侵略。渤海国滅亡。亀州大捷。894年~No.132 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 平安貴族は、朝から晩まで、国内外の政務と古記録に基ずく儀式の手順の話し合いで激務であった。
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 日本は、軍事力のみを絶対正義とする血生臭い中華世界に恐怖し、中華皇帝が掲げる徳という理想と正義の胡散臭さに猜疑心を深め、その不寛容さを嫌い、経済的豊かさよりも貧しくても穏やかな生活を求めて大陸から逃げ出した。
 自分が絶対に正しいと思い込んでいる中華皇帝に、幾ら日本の立場を説明した所で威圧的な態度を弛めてくれない事を、歴史書漢籍から分かっていた。
 生真面目で気弱な日本人が、悪辣ともいうべき陰湿な方法を取っても自己の願望を成し遂げようとする攻撃的な中国人と深く接する事は、心身を擦る減らして廃人になる恐れがあった。
 ゆえに、中華大陸・中華世界から逃げ出して日本列島に閉じ籠もった。
 静的日本人と動的中国人とは、正反対の性格をしている。
 他人に配慮する日本人が、他人に配慮しない中国人と個人的に親しく付き合わない事は正しい。
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 司馬光資治通鑑』。「安禄山が顔果卿(がんこうけい)の末っ子である顔季明の首に刃をあて、降参しろと脅した。顔果卿が脅しを無視したので、安禄山は顔果卿の甥である顔盧逖(がんろてき)と合わせて二人の子どもを殺した。それでも屈しなかったので、顔果卿は関節を外され、肉を削がれながらも声を限りに安禄山を罵り続けた。頭にきた安禄山は、ついには、その舌をペンチで引き出して切ってしまった」
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遣唐使廃止により東アジア世界での孤立を選ぶ。
 日本と唐との交易港は、筑前の博多津、薩摩の坊津、伊勢の安濃津の「日本三津」であった。
 寛平の治(890〜898年)
 正統派儒教を基にした半島の価値観は、列島民を中国文明から遠い教養なき下等民族と差別し見下していた。絶対不変の上下関係を常識とする彼らは、劣等者が優秀者を攻める事は犯罪行為であるが、上位者が下位者を懲らしめるのは当然の権利とされた。
 正統派儒教は、対等な関係は秩序を破壊する悪として否定するがゆえに、人民の平等と公平と自由は認めなかった。それは、国家間でも当てはまる事であった。
 中国の儒教文化は、日本を東夷と差別し、友人とは認めず蛮族と軽蔑していた。
 日本は、華夷秩序の中国を恐怖して眺め、小中華主義の朝鮮とともに敬遠した。
 そして、不正腐敗の温床ともういえる官吏登用試験である科挙を決して採用しなかった。
 朝鮮は、科挙を採用し、悪政や失政を行って、社会は堕落して、庶民は塗炭の苦しみを死ぬまで味わった。
 日本は、中国文明の優れた部分は日本文明に転換して取り入れたが、そぐわないものは排除して拒否した。
 朝鮮文化の大半は、日本に害があるとして拒絶した。
 日本にとって、中国と朝鮮はもはや友好国ではなかった。
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 日本の国家事業であった遣唐使は、約20年に一回の割合で、仮想敵国・新羅を避けた危険な航路で派遣されてた使節団でそれほど盛んな交流ではなかった。
 むしろ、民間の交易船の方が、安全な朝鮮半島経由で唐と盛んに行き来して、中国製陶磁器や漢書籍や漢方薬品など多くの商品と共に大量の貨幣を運んでいた。
 朝鮮には購入すべきめぼしい商品がなかった為に、朝鮮製品はほとんど無かった。
 唐に比べて新羅は、日本にとって魅力が何もなかった。
 893年 菅原道真は、民間交易で大量の海外の産物が輸入されている以上、多額の国費を使い優秀な人材を命の危険に晒してまで遣唐使を送る必要性が薄れているとの建白書を出した。
 だが、建白書の趣旨は派遣の延期であって遣唐使の廃止ではなかった。
 事実。民間交易は益々盛んとなり、平安末期から鎌倉時代の日宋交易、室町時代から戦国時代までの日元・日明交易は、日本に貨幣金融経済をもたらし、宋・元の文物や仏教が日本文化に新たな価値観をもたらした。
 唐銭、宋銭、明銭などは、そのまま日本の通貨として流通していた。
 日本の権力者や商人らは、中国の貨幣を日本の貨幣として受け取り、他人にも価値があるモノとして手渡してモノの売り買いで使っていた。
 日本には、産業の発達とともに、貨幣の自己循環論法が生まれていた。
 明朝後期と清朝時代の日本は西洋の南蛮文化を取り入れていた為に、明・清との文化的交流は宋・元に比べて日本文化に与えた影響は乏しかった。
 朝鮮の文化は、中華文化の完全なる物真似であった為に、ほんのわずかを除いて見向きもしなかった。
 日本の国風文化は、唐文化の次に宋文化に強い影響を受けている。
 鎌倉仏教以降の仏教思想も、宋時代の禅宗価値観に触発されて独自に発展した。
 元時代以降で、日本仏教に影響をもたらした中国仏教はあまりない。
 日本仏教には、中国仏教の受け売りのみで発展しなかった朝鮮仏教の痕跡はほとんど無い。
 日本が中国の影響を受けたのは、宋・元までで明・清にはない。
 日本は、現代中国が声高に主張するほどに中国から恩恵を受けてはいない以上、中国人に卑屈となって遜って感謝する必要はない。
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 日本は、大陸に対して門戸を完全に閉じたのではなく、国家使節派遣を取り止めただけである。
 商人の船は頻繁に大陸と日本を行き来し、数多くの巡礼僧達を送り届けていた。
 文化的に栄えている地域や仏教国との間で交易や交流を続け、国風文化を生み出していった。
 中国から、末法思想と共に新しい「来世往生」の浄土教が伝来し、大衆仏教として広まっていった。
 禅宗は、知識層に広まっていった。
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 894年 第59代宇多天皇
 菅原道真は、神代から続く血統皇室を守るべく、血統否定と大虐殺を伴う易姓革命の正当性を説く硬直した儒教が浸透する事を避ける為に、遣唐使廃止を建白した。
 史書など漢書を熟読する知識人達は、人を人と見ない中国人の凶暴さに恐怖して、仏教を弾圧する中国人を天魔と嫌った。
 だが。釈迦の生まれたインドに対しては極楽往生として憧れ、インド人を仏の道を歩む理想の人として尊敬した。
 インドに行けない日本人は、儒教社会の中国で細々と仏教信仰を守る郄僧が住む山間僻地に赴き、師事し尊い教えを授かった。
 中国や朝鮮の仏教寺院が町の中ではなく辺鄙な土地に立っているのは、僧侶の厳しい修業の為ではなく、儒教による弾圧を逃れる為であった。
 つまり。日本は伝来以来変わる事なく仏教を貴んできたが、中国と朝鮮は儒教を優先して仏教を弾圧していた。
 日本は、内向き思想で国家鎮護の祈祷を仏教に依存した為に、外向き思想の儒教を国家基盤とする中国と朝鮮との国交を拒絶した。
 中国は、完全鎖国状態の硬直した朝鮮とは違って、周辺異民族との国際的交流から柔軟な対応をし、日本から私的な留学僧を受け入れていた。
 新興仏教として、禅宗と喫茶が日本にもたらされた。
 日本は、中国から色んなものを学んだが、朝鮮からは学ぶ事が少なかった。
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 日本独自文化としての国風文化は、日本語表記に漢字・漢文に平仮名や片仮名が混じる事で発展した。
 多様な表現が出来る豊かな日本語による和歌や物語で、日本独自の国文学も発達した。
 菅原道真は、漢字の読み方に混乱が生じていた為に、仏教関係の書物を呉音、漢籍関係の書籍を漢音と定めた。
 昔の日本において、病的な外圧恐怖症と共に盲目的な外国礼賛や外国文化崇拝はなく、信じる我が道を行くという独立心が強かった。
 さりとて、夜郎自他的に自己優位の排他意識も希薄だった。
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 菅原道真ら知識人達は、万葉集などの和歌による大和心と漢詩による漢意と漢訳仏典による慈悲という三元論的高度な教養を持っていた。
 日本が中国から好んで学んだのは、儒教道教など諸子百家の論理で理屈をこねる観念的思想・哲学ではなく、杜甫や白楽天陶淵明などの漢詩と書道、そして医学、法学、農学、土木学などの実生活で役に立つ実学のみであった。
 仏教は、中国ではなくインドが発祥である。
 日本の指導者が持つべき教養とは、大和心・漢意・慈悲の三元とされた。
 持つべき教養は庶民にも行き渡り、身分卑しい者でも和歌を詠み、時には漢詩や仏典を読んだ。
 和歌を詠むのは、立身出世が目的ではなく、利益や金儲けでもなく、単に個人的な趣味であった。
 故に。庶民は、菅原道真を学問の神様と崇めた。
 知識に対する考え方は、日本と中国・朝鮮では油と水の如く正反対であった。
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 日本文化は、初期において、陰陽五行説中華文化を真似して中国式の整然とした左右対称を美しいとした。
 遣唐使を廃止して日本列島に閉じ籠もってからは、災害と恩恵を授ける自然は安定していないという日本の価値観から、左右非対称を最も美しいと愛でた。
 笹岡輶甫(華道・未生流笹岡)「最初期の生け花の伝書には、しんに添える下草の入れ方について、左右のうち一本を長くすれば他方を短くせよ、と書かれています。人間は不完全な存在。だからこそ愛おしく、お互いに労り、助け合って生きていかなければならないという日本人の考え方が、反映されているのだと思います」
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 5月 寛平の韓寇。
 新羅水軍の兵力2,500人以上が軍船100隻以上に乗って、奴隷(特に女性)と戦利品目的で対馬を襲撃した。
 対馬守文屋善友は、500人の手勢と島民の協力をえて侵略軍を撃退し、敵将を含む302人を討ち取り撃退した。
 捕虜となった新羅人兵士は、「半島は不作続きで人民は飢えに苦しみ、治安が悪化した為、王命に従って襲撃した」と自白した。
 朝廷には、反天皇派渡来人の策謀による暴動や反乱が各地で多発して、援軍を派遣するゆとりがなかった。
 島民は、復讐心から「倭寇」となって半島を襲撃して荒らした。
 朝鮮人は、「倭寇」を血に飢えた悪鬼として、野蛮な日本人への憎悪を掻き立てた。
 宇多天皇は、中国・唐にはまだ多くを学ぶ必要があると感じていたが、菅原道真の献策を入れて、崩壊し始めた中国の唐王朝と正式に国交を断絶した。
 宇多天皇は、日本を朝鮮の侵略から守る為に二回目の鎖国を宣言した。
 中国を深く研究していた菅原道真天満宮)は、「神州日本を、中国の様な血に塗られた人間不信で犯罪多発地帯にしてはいけない」という考えから、「今よりも豊かな経済的発展を遂げる」と言う目先の利益を犠牲にしても日本の中国化を拒否した。
 日本は、破滅的な中国の唐様を捨て独自の国風文化への道を選び、中国文明から独立して日本文明を形成していった。
 日本は、万世一系男系天皇制度(直系長子相続)を守ったというより、神代から続く血筋によって外敵から守られ、無益な殺戮が回避された。ゆえに、日本民族の「心」を持つ日本人は国體(万世一系男系天皇)を反天皇から守ろうとした。
 遣唐使が廃止されたが、民間レベルでの交流は続けられ、日本商人は利益を求め、日本人僧侶は選りすぐれた教えを求めて大陸に渡っていた。
 後年。儒教の大家である朱子王陽明と交友を持った者もいたし、最新技術を日本に伝えた者もいた。
 中国商人と互角に商いをし、中華王朝を相手に恫喝して筋を通した者もいた。
 当時の日本人は、現代の日本人とは違って堂々として一歩も退く事はなかった。
 だが。儒教中華思想では、如何に日本が努力しても格下の蛮族と軽蔑していた。
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 小野小町(825〜900?)
 河合敦「高貴な人物の妻になるため、来る縁談来る縁談を断り続けていたが、そうこうしているうちに美貌が衰えて誰にも相手にされなくなってしまった。結局、庶民の妻になったものの、夫と子供に先立たれ、最後は家も失って野たれ死に同然の最後を迎えたとされます。没年も不明です」 
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 901年 菅原道真天満宮)は、藤原時平の陰謀で太宰権帥に左遷され、絶望し失意の内に死亡した。
 この後、誰も唐以降の各王朝との国交正常化を求めなかった。
 延喜の治(909〜930年)は、菅原道真の改革であったという。
 藤原時平らは、完成した正史『日本三代実録』を奉じた。
 菅原道真は、国内で発生した大地震や大津波などの災害と被害を後世に残す為に、役所に命じて詳細な記録を集めさせ『日本三代実録』に書き加えていた。
 言霊を信じていた平安時代の人々は、言葉にした事は起きる恐れがあると恐れながら、災害が起きない事を言霊で祈りつつ、起きた後は必ず立ち直って復興できると言霊を信じて記録した。
 言霊を正しく信奉した平安時代の人々は、言霊にも和魂と荒魂の二面性がある事を知っていた。
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 日本神道は、非業の死を遂げた人間を神として祀った。
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*高麗建国
 900年 日本の総人口、644万人。
 新羅は、異常気象による大凶作で食糧をなくし、被災者救済をせず腐敗堕落で悪政を行って、人民の支持を失って急速に弱体化していた。
 甄萱は、892年に後百済を建国した。
 901年に、新羅王族弓裔が後高句麗を建国した。
 新たな後三国時代の始まりで、半島全体が動乱に突入した。
 905年 片仮名や平仮名で、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を成立させた。
 日本では、貴族や知識人以外の身分低い庶民でも、文字は読めたし、詩も詠めた。
 こうした知識の広さは、日本だけの事である。
 大陸の人民は、文字が読めなかったし、詩など創作できなかった。
 907年 宇多法皇が初めて熊野詣でを行った。
 これ以降。天皇家の熊野詣でが流行し、街道筋は賑やかとなり、住民の生活が豊かとなった。
 唐王朝は、滅亡した。五代十国による動乱時代は、979年に宋王朝が武力統一するまで続いた。戦乱の中で、殺戮と略奪が繰り返されていた。
 914年 三善清行は、『意見12箇条』で、出家者の半分は邪濫(邪悪で乱れた)の輩で、民草の3分の2は租税逃れの為に偽坊主になっていると告発した。
仏教界は乱れていて、立派な位のある高僧でも、女性に恋文や和歌を送るのは序の口で、肉食禁や女犯の罪を破る者がいたし、密通して子を生ませる者もいた。
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 918年(〜1392年) 後高句麗の将軍・王建は、叛乱を起こして主君の弓裔を追放し、高麗を建国した。仏教を国教と定めた。
 925年 『延喜式』は、日本には皇祖・天照大神以外にも多数の太陽神が存在し、各地の神社に祀られていると書き記している。
 その代表が、出雲系の猿田彦である。
 天孫系の太陽神・天照大神以外の異種系太陽神は、かって大和王権に屈服した地方王建の祖先神とされている。
 天皇家は、大王家と言われていた頃は他の地方王家同様に出雲系の大国主神を崇拝していた。
 天武天皇と持統女帝は、大和朝廷として全国を統一した時、諸豪族との格を付け差別化を図る為に、天照大神を祖先神とした。
 926年 白頭山(ペキトサン)の大噴火が原因で渤海国は衰退して。
 契丹族の遼は、親日派国家であった渤海国を滅ぼした。
 渤海国支配下にあった女真族は、独立して支配地域を拡大した。
 927年 王建は、半島での権威を確立し優位に立つべく、日本との対等な関係での国交回復を望んだ。
 日本は、筋目を通すべく、主君を追放して王位を簒奪した逆臣・王建を信用せず、裏切り者高麗からの国交回復要請を却下した。
 ただし。本音と建前から、私貿易は認め、高麗の漂流者は保護して帰国させた。
 935年11月 新羅の敬順王は、高麗に帰順して新羅王国は消滅した。
 936年 太祖王建は、後百済を滅ぼして半島を統一し、宋王朝に対して臣下の礼をとる為に、朝貢使を派遣した。
 王建は、抵抗する者は一族全て容赦なく虐殺し、王位を狙いそうな者も家族諸共に抹殺した。
 高麗は、国内を宗主国宋に倣って中国風に整備した。
 朝鮮でも、新羅の残党狩りが行われ、徹底した殺戮が起きていた。
 ただし、主家を裏切って、味方に付いた者は助けた。
 太祖・王建は、天皇と縁の深い旧百済地域である全羅道地域からの人材登用を禁止ずる『訓要十条』を定めた。
 倭国と敵対した新羅慶尚道地域出身者は、支配階級として出世した。
 今日まで続く全羅道済州島の地域差別は、この時から始まる。 
 女真族は、朝鮮半島との関係を強化する為に、王建の朝鮮統一を手助けした。
 高麗は、念願の朝鮮半島統一を成し遂げたが、中華思想における華夷秩序から女真族を野蛮人として差別した為に、両者の関係は徐々に悪化した。
 日本は、朝鮮の動乱を逃れた多くの新羅人難民が日本海沿岸に上陸する事を認めた。
 そのまま定住する者もいれば、戦乱が治まって帰国する者もいた。
 日本人百姓の迫害を受けた新羅系渡来人は、日本人支配を嫌って山間部の僻地に避難して朝鮮人部落を作り、朝鮮文化を日本文化から守った。
 高僧道?(トソン)は、病んでいる国土を鎮め安んじる為に各地に寺院や仏塔を建てる事を、王建に勧めた。
 歴代の国王は、信仰の証しと民衆の幸福を祈って各地に寺院を建設し土地を寄進した。
 仏教偏重の宗教立国政策が、高麗の滅亡につながった。
 仏教寺院は、荘園を増やし租税を払わず莫大な蓄財をなし、僧侶は特権を笠に着て堕落していった。
 一部の王族や高官は、特権を持つ仏教寺院と結託して私腹を肥やした。
 租税対象の農地の減少によって国庫は空となり、高麗王朝は慢性的財政難となり衰退していった。
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*反逆者平将門(相馬小次郎将門。神田明神の祭神)
 第61代朱雀天皇の御代。承平の乱(635〜941年)海賊・藤原純友の乱天慶の乱(835〜940年)平将門の乱
 第50代桓武天皇の血を引く貴種・平将門が東国で叛乱を起こし、武力で関東の大半を支配下に置いた。
 神託を受け、京の天皇に対抗して新皇を僭称した。
 東国武士は、宮中と都の警備や皇室と公家の警護をする用心棒的な隷属する存在ではなく、独自の領地と領民を持っ自立した存在である事を主張した。そして、天皇と同格の新皇の下で東国は日本から独立すると宣言した。
 真の支配者は、得体の知れない血筋やわけの分からない道徳ではなく、個人の能力や実力でなるものと定めた。
 将門は、勅命で攻めて来た官軍に対して、天皇や朝廷に不満を抱く東国武士団を鳩合して撃退した。だが、味方であった武士団の裏切りによって、官軍の前に破れて戦死した。
 東国の庶民は、将門を天皇・京に逆らった反権力の英雄として神田明神に祀り、関東の鎮守様として守った。
 反権力の英雄伝説や説話が各地に生まれ、庶民は官軍と戦った将門の武勇伝を愛して語り継いだ。
 将門の首塚では、毎年9月22日に盛大な供養の儀式が執り行われた。
 全国に残る神社神道とは、こうした庶民の反骨的鎮守様信仰であり、天皇による国家的皇室神道とは異質な神道であった。
 平将門「勝った者が主君である。もし、関東八ヵ国を占領している間に官軍が攻めて来たら、足柄と碓氷の二関を固めて関東を防禦する」
 943年 菅原道真の孫である菅原文時(899〜981)は、祖父道真の血を引いて漢書を読み、和漢の文章に通じ、和歌にも優れていたが、政争に敗れて左遷された一族として44歳になるまで官職に就く事ができなかった。従三位文章博士
 朝廷は、全国6,000以上の神社に祀られている神の乱れが天変地異の原因であるとして、神社を正し、神の座を安んじ、世の乱れを鎮めるよう菅原文時に命じた。
 701年の神祇令(じんぎれい)で、原則的に1社1座として、神社・祠(ほこら)は一つの祭神のみを祀り、別の祭神を加えてはならないとされた。
 947年 朱雀上皇は、朝廷に叛乱を起こした朝敵・平将門藤原純友とその一味を慰霊するべく、比叡山延暦寺に僧侶1,000人を集めて供養した。
 願文「官軍であろうが、逆賊であろうが、亡くなればみな同じ国民である。恩讐を超えて平等に慰霊するべきである」
 日本の宗教観から、敵味方に関係なく、死亡した人々の魂を別け隔てせず平等に弔った。
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 神道は、反逆者でも日本の神として祀った。
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 北宋王朝。960〜1127年
 節度使趙匡胤は、武力で宋王朝を建国した経緯から、武力による帝位簒奪者を出さない為に、文治政策を作用して科挙(官吏登用制度)を改良した。
 科挙制度は、過酷な狭き門となって新たな地獄を中国にもたらし、その地獄は科挙を採用した朝鮮にも広がった。
 硬直した儒教価値観で出世した高官は、現実を知らないだけに悪政や失政を行って庶民に塗炭の苦しみを与えた。
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 空也(903〜972)上人は、戒律に従い経典を読み修行をして悟りを開き伽藍を守る事が僧侶の仕事ではなく、民衆の中に入り民衆と共に苦楽して生きる事こそ大事であるとして、乞食僧の如く草鞋を履きボロを着て、首から鉦(かね)を下げ、鉦を撞木(しゅもく)を叩きながら諸国を遍歴した。
 市聖(しひじり)、阿弥陀聖として口称(くしょう)念仏を布教しながら、各地で道路・橋梁・灌漑などの社会事業を行った。
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 969年 第64代円融天皇安和の変左大臣源高明は、第60代醍醐天皇の子として要職にあった。
 北家の藤原氏は、天皇外戚として政権を独占する為に、皇族出身の賜姓源氏を要職から追放するべく陰謀を巡らした。
 藤原氏に仕えていた清和源氏源満仲は、源高明が陰謀をめぐらしていると密告した。
 藤原実頼は、皇族出身を考慮して源高明太宰府に左遷し、藤原氏以外の氏族を政治から完全排除して独占した。
 皇子や皇族も政治への関与が禁止され、生き残る為に藤原氏の顔色を伺い媚びへつらった。
 979年 女真族は、遼に対抗する為に、宋国との軍事的同盟を希望して中南部統一に寄与するべく大量の軍馬を売却した。
 遼は、女真族と宋国が同盟を結ぶ事を恐れて、女真と宋国の交易路を遮断する為に鴨緑江から山東半島を攻撃した。
 984年 宋の太宗(趙匡義)は、謁見した東大寺の僧侶に日本の国情に関する感想を述べた。
 「日本はたかが島国に過ぎない。しかし天地開闢以来、万世一系であり、その臣下も子々孫々とその位を継承しており、途絶える事がない。これは本物の聖人の道であろう。中国は国家か統一されても易姓革命が多発し、直ぐに国家が崩壊してしまうので、子供達まで位を継承する事が非常に難しい。私の徳は聖人に及ぶべくものではないが、つねに自分の身を正し、国を治める方法を研究し、今まで怠けたりした事はない。日本の万世一系こそが私の理想である」
 986年 藤原兼家は、第65代花山天皇を出家させ、娘が生んだ懐仁親王一条天皇に即位させて実権を握った。
 天皇の即位と引退、皇太子の立太子廃太子も、外戚である藤原氏の意向で決まった。
 988年12月 権中納言藤原道長は、中級貴族の式部少輔橘淑信を拉致して暴行した。
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 993年 円珍派の僧・余慶が天台座主に就くや、円仁派は猛反対した。
 両派はそれぞれ僧兵を繰り出して武力衝突した為に、比叡山は大混乱に陥った。
 円珍派の多くが、山を下って三井寺に入った。これ以降、寺門派と呼ばれた。
 円仁派は、比叡山に残って、山門派と呼ばれた。
 両派は、神の裔・歴代天皇の宗教権威を憚って武力衝突による流血事態を避けたが、それでも300年以上にわたって罵りあって対立した。
 比叡山延暦寺は、真言密教高野山金剛峰寺が南山と呼ばれたのに対して、北嶺・北山よ呼ばれた。
 後の鎌倉仏教諸宗派の大半が、延暦寺から誕生した。
 仏教は、政治的な国家鎮護の他に個人的な諸祈願や死後の極楽往生をも取り仕切るに及んで、日本の精神世界を支配した。
 日本は、仏教立国となった。
 996年1月16日 藤原伊周の従者は、花山法皇の従者を殺害してその首を切り取って持ち帰った。
 998年 藤原道長は、左大臣源重信から宇治にある別荘・宇治殿を購入した。
 道長の子、関白藤原頼道は、宇治殿を仏寺として「平等院」と号し、鳳凰堂を建立した。
 999年 遼は、宋国への侵略を開始し、後方の憂いを取り除く為に高麗を屈服させた。
 高麗は、遼に従うと見せながら蛮族と軽蔑し、密かに宋国と情報交換していた。
 10月 道要弥刀ら20戸が、日本から高麗に移住した。
 これ以降、日本から半島へ移住する者が徐々に増えた。
 1004年 宋国は、遼の南下を止められず、屈辱的な「?淵の盟」を取り交わした。
 1014年6月16日 敦明親王は、政敵藤原道長の取り巻きである中級貴族の加賀守藤原政職を拉致し、屋敷内で袋叩くにした。
 同様の事件として、1021年11月8日の紀伊守高階成章拉致暴行事件と    1023年4月17日の前長門守高階業敏拉致暴行事件がある。
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 高麗軍は弱く、逃げ回っていた。
 契丹族は、993年、1010年、1018年の3回、高麗を侵略し、二回目は首都を占領して殺戮と略奪を行った。
 高麗国王顕宗は、侵略軍を撃退せず、抵抗もそこそこに国民を見捨て、いち早く半島南端の羅州に避難した。
 朝鮮の支配者は、何時の時代でも、民衆の命など虫けら以下の価値にしか認識せず、自分を犠牲にしてまで救済せず見捨てた。
 民衆は、他に頼る権力者がいない為に、薄情で無責任な国王であっても従わざるおえなかった。そうした状況は、現代の北朝鮮に似ている。
 何時の時代でも、歴代王朝の国王達は、遊牧民である蛮族は定住する事なく絶えず移動する事を知っていた為に、無駄な抵抗をせず逃げ回り、逃げられないと分かるや恥も外聞もなく服従を誓った。
 漢族の中華帝国は領土を拡大し奴隷を取ったが、遊牧民中華帝国は支配地を拡大したが奴隷を取らなかった。
 歴代の中華帝国は、北方蛮族の侵略に備える為の前哨基地として朝鮮半島を重視したが、地形的に防衛には不向きとして軍隊を駐留させなかった。
 その代わり、国境近くに大軍を派遣しては恫喝して、臣下として服従する事を強要していた。
 中国の地政学に於いて、朝鮮半島は如何なる犠牲を払っても守らねばならない戦略基地であったが、朝鮮人を中国人の一員にする価値がないと割り切っていた。
 朝鮮半島に軍隊を派遣したのは唐と明の両王朝だけで、唐軍は領土とする為の侵略として、明軍は日本軍から朝鮮を救う為の援軍として。
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993年 契丹は、宋(北宋)と高麗の友好関係を断ち切る為に、80万人の大軍で高麗に侵攻して首都・開京を陥落した。
 高麗王・顕宗(けんそう)は、使節を直接敵陣に送り込み、直談判で高麗が契丹朝貢することを条件に軍を撤退させる事に成功した。
 その後、たのを機に1010年、結局、契丹の二度目の侵入は双方に大きな痛手を残すだけの戦いに終わった。
 1010年 契丹皇帝は、高麗に内紛が生じて、40万人を率いて高麗に侵入し、首都開京を陥落させた。
 契丹軍は、皇帝の拝謁を条件に高麗から兵を引いたが、その途中で高麗軍の奇襲を受けて大打撃を受けた。
 1018年 契丹は、10万人の軍勢で再び高麗に侵攻した。
 高麗は、契丹への入朝を拒絶する為に宋と結び、契丹の侵略に備えて20万人を動員した。
 1019年2月 亀州(グイジュ)大捷。高麗軍は、侵略してきた契丹軍を興化鎮で撃退した。
 契丹軍の一部は、開京に向けて進撃すると、契丹軍の後方を囲んでいた蕭排押は退却を決めた。
 姜邯賛(きょう かんさん、カン・ガムチャン)が率いる高麗軍は、亀州に着いた契丹軍に総攻撃し、数千名の兵を失い命からがら撤退した。






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