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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
大陸の仏教、教養、技術など数多くのモノはヒトの移動と共に百済を通じて日本に伝来し、未開の日本の文化や宗教そして社会と国家の発展・進歩に貢献した。
古代日本は、百済から受けた数多くの恩義に報いる為に、百済王国の滅亡後の亡命者を受け入れ、亡国の民である旧百済人による王国再興戦争への参戦と白村江の戦いへの援軍、百済消滅後の百済人難民を受け入れ、など数多くの事を行っていた。
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日本は、古代朝鮮から受けた恩・恩義を4万2,000人の古代日本人の血と命で完済していている以上、1000年以上経った現代の韓国や朝鮮から感謝や反省・謝罪を強要される「謂れ無い」。
現代の韓国人・朝鮮人は、古代百済人とは別人で、たまたま滅んだ百済王国の土地に住んでいるだけの関係である。
歴史的事実として、日本は半島人に対して被害者であって加害者ではない。
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半島人が日本の神様として祀られている神社。
枚方・百済王神社、主祭神・百濟王。
滋賀・鬼室神社、主祭神・鬼室集斯。
岐阜・新羅神社、祭神・新羅系氏族の祖神。
埼玉・高麗神社、主祭神・高句麗王若光。(後年の高麗王家とは無関係)。
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日本にとって、百済は韓国・朝鮮とは違って友・友人、親友、そして戦友であり、統一新羅は敵であった。
統一新羅以降の諸王国は、日本を侵略し虐殺し強奪し強制連行していた。
親日派・知日派は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国。
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日本と韓国・朝鮮が教えている、日本と朝鮮半島との関係史はウソが多い。
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645年(第35代皇極天皇) 蘇我入鹿は、日本の将来を大きく切り開く為には、「国家の開放」「天皇位の開放」が欠かせないとして律令制度を導入するべく開放派を結集した。
中国型律令制度が正常に機能すれば、皇帝・天皇が誰に代わっても、役人・官僚が政府を運営できる。
つまり、日本の存続の為に血縁重視の閉鎖的日本人の独占から、中国の様に有能な非日本人にも天皇になる事ができる様に開放しようとしたのである。中国の王道を日本に根付かせる為に、易姓革命を起きやすくするべく、儒教の「放伐」と「禅譲」を導入しようとした。
大胆にも、天命による「徳」を所有する者として、君臣の別を越えて天皇の位を狙ったのである。
血筋に関係なく、異姓による王朝の交替である。
律令制による新しい国を建設する為に、難波宮造営を計画していた。
中臣鎌足は、権勢を振るう蘇我氏一族を滅ぼして秩序を回復させる為に、荒ぶる神を認めても悪を排除しない惟神(かむながら)の道では不可能として外国の思想である儒教を学んだ。
中大兄皇子は、日本人天皇による国體を守る為に、律令制導入を目指す入鹿を暗殺した。
中臣鎌足の真の狙いは権力を握る事で、その為ならば、蘇我馬子同様に如何なる手段もいとわなかった。
乙巳の変である。
古人大兄皇子「入鹿が韓人に殺された!胸が張り裂けそうだ!」
後の藤原氏は、蘇我氏の怨霊の祟りを恐れて、聖徳太子の法隆寺に祟る神・鬼として祀った。
日本の将来を真剣に憂いていた入鹿は、なぜ、自分が、皇極天皇(女帝、帰化系氏族尾張氏の血を引く)の前で謀殺されるのかが理解できず、その罪を問い続けながら憤死した。
朝廷内での、渡来系開放派勢力は蘇我本家の滅亡と共に後退し、替わって天皇親政派勢力が帰化系氏族の協力を得て実権を握った。
天皇親政派は、奈良・大和から天皇への忠誠心なき渡来人勢力を追放した。
同和問題となっている部落民は、既得権を剥奪された朝鮮半島系渡来人の子孫として、その遺伝子に天皇に対する拭いきれない憎悪が埋め込まれている。
中大兄皇子と中臣鎌足は、大化改新を行う。
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蘇我氏には、蝦夷ー入鹿系の本宗家以外に倉麻呂系など12の同族氏族があった。
乙巳(いつし)の変で誅殺されたのは蘇我本宗家のみであって、倉麻呂系は天武天皇の御代に「石川」に改姓した。
石川系蘇我氏は、平安時代に「宗岳(そが)」に再び改姓し、平安末期まで生き延びた。
日本民族は、家の姓に対する愛着はなく創氏改名を繰り返していた。
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645年 玄奘三蔵法師は、インドから多くの仏典を持ち帰り漢訳した。
仏教は、インドで誕生し、大乗仏教が中国と朝鮮を経て日本に渡来した。
儒教は、仏教を弾圧した為に、極東アジアでは日本以外の大乗仏教は衰退した。
玄奘は、中国の事を「支那」と読んだ。
儒教では「中国」と表記するが、仏教では「支那」と表記する。
中国は、儒教価値観を大事にするがゆえに、仏教価値観を否定して「支那」と言う名称を拒否する。
日本は、仏教価値観を儒教価値観の上位に置いた為に、「中国」ではなく「支那」と尊敬の念を込めて呼んだ。
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646年 大化改新。
『改新の詔』の第一条で、民衆は全て大御宝として天皇の公民と定めた。
王族や豪族などは、公民を所有する事は許されず、みだりに殺傷する事も禁止された。
土地も、同様に、公地として個人所有を禁止した。
公平に国土を治めるという公地公民制の導入によって、百姓と天皇の直接的絆が強化された。
国體の完成である。
日本民族は、天皇の大御心・御稜威を戴き、天皇の無私の権威に畏敬の念を抱き、天皇中心の国體を子孫に託した。
故に、何時の時代でも、日本民族は天皇を中心とした国體を守る為に戦った。
斉明天皇は、蘇我入鹿の怨霊・鬼に苦しめられ体調を崩した。
この後。天皇の即位は、有力豪族達による合議制ではなく、天皇自ら指名する様になった。
蘇我入鹿の怨霊を、入鹿神社や宗我坐宗我都比古神社(入鹿宮)に祟る神として祀った。
宗教的日本人は、自分を呪い祟る怨霊を神として神社に祀った。
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野心が強い中臣鎌足は、後ろ盾を持たない有能な若者が表舞台に出られる様にするべく、有力古代豪族を排除しようとした。
有力古代豪族は、皇室と同等かそれ以上の血筋と富と武力を持ち、表面的には忠誠を誓って臣下の礼をとっていたが、本心からかどうかは不明であった。
日本天皇を中華皇帝に倣って専制化し、手足として使える官吏を揃える為に科挙を導入しようとした。
有力古代豪族は、天皇を絶対権力を持つ中国皇帝の様な専制君主にする事に抵抗し、官吏登用試験である科挙に反対した。
鎌足の子孫は、日本を中国化する事に反対して、天皇を政治の蚊帳の外に置き、血族を根拠として官吏を独占した。
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中央政権は、飛騨の優れた木工の匠を都の造営に使うかわりに、租庸調の庸調を免ずる制度を作った。
飛騨は、これ以降の平城京や平安京の造営さらに寺社仏閣の建設に多くの職人を送り出していた。
『万葉集』「かにかくに物に思はじ飛騨匠 打つ墨縄の只一道に」
日本は、日本神話の時代から、中国や朝鮮とは違って優れた職人を大事にしていた。
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647年 親唐派の第36代孝徳天皇は、難波に都を遷都し、唐の優れた文物風習を積極的に取り入れて日本の習慣を大陸的に改革しようとした。
遷都は、東アジアの動乱に積極的に関与する為ではなかった。
民族派の中大兄皇子らは、大陸の価値観を無条件に取り入れると唐の属国になると警戒して、都を飛鳥京に戻した。
中臣鎌足と中大兄皇子らは、蘇我倉山田石川麻呂らを意に従わない重臣らを家族諸共に殺害した。
改革派の蘇我氏弾圧を繰り返すうちに蘇我入鹿の祟りお恐れ、怨霊を鎮めるために神として祀った。
孝徳天皇は、難波京に取り残され、命令に従う者もなく、日本の中国化という大改造計画は失敗した。
新羅の貴族会議で、毗曇(ビダム)は善徳女王の廃位を提案したが、金庾信は反対した。
毗曇は、賛成する上級貴族ら糾合して叛乱を起こした。
金庾信は、上流貴族支配に不満を持つ下級貴族を集めて攻撃し、反乱軍を破って毗曇を捕らえた。
善徳女王は、王位を守ったが間もなく死亡した。
真徳女王が、中継ぎとして第28代の新羅王に即位したが、実見は金庾信が持ちその傀儡でしかなかった。
金庾信は、毗曇を処刑して王権の強化に反対する上級貴族をに威圧をかけ、律令制度導入を避けた。
百済は、新羅国内の混乱に付け込んで攻撃した。
金春秋(後の第29武烈王)は、百済を牽制する為に日本と高句麗を歴訪して唐に向かった。
金庾信は、女王ではなく男王を擁立すべく、金春秋に接近した。
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648年 唐は高句麗を征服する為に、新羅は百済を滅ぼす為に、唐と新羅両国は軍事同盟を結んだ。
日本には、唐や百済から帰国した僧侶や留学生によって大陸や半島の戦乱状況がもたらされていた。
東アジア世界を征服しようとしている唐は、逃げ場がない日本にとって脅威であった。
日本は、百済から最先端の技術と高度な文化を安心して輸入できる唯一の友好国であり、大陸からの脅威を阻む事ができる軍事拠点であった。
百済にとっても、唐・新羅連合国から祖国を守る為に、日本は最重要な同盟国であた。
朝鮮半島は、分裂していた。
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649年 高宗は、唐の第三代目皇帝に即位し、領土を拡大する為に軍事力を拡大し、侵略戦争を起こした。従う者は温情持って属領民・奴隷として助けたが、従わない者は女子供に関係なく皆殺しにした。中国が掲げる「徳化」には、「徳」も「道徳」もない。占領地でおこなった「同化・中国化」とは、「民族浄化」の事であった。
東アジア世界は、中国の軍備増強による膨張政策で、悲惨な戦乱に包まれた。中国人の制限のない個人欲で、多くの国が攻め滅ぼされ、多くの人間が猟奇的に大虐殺された。
武照は、先帝の後宮の女として出家するはずであったが、高宗をたぶらかして後宮の5番の地位を得て還俗した。
後宮に入った武照は、世継ぎの男子と女児を産んだが、皇后になる為に女児を殺害しその罪を王皇后に擦る付けて虐殺した。
皇后となった武照は、高宗の寵愛を受けて女官や邪魔になりそうな女官を虐殺した。
武照は、中国史上唯一の女帝となった則天武后である。そして、残虐非道を行った事でも有名である。
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唐゠中国が、アジア全体を征服するのに日本の万世一系の男系天皇(直系長子相続)は目障りであり、世界的華夷秩序を打ち立てる為には万世一系の男系天皇(直系長子相続)は滅ぼさねばならない敵であった。
中華皇帝と万世一系の男系天皇(直系長子相続)は、並び立たない不倶戴天の敵であった。
中華皇帝を受け入れる者は、万世一系の男系天皇(直系長子相続)を滅ぼそうと躍起になっていた。
朝鮮の諸王家は、世界的な中国の中華皇帝か、辺境にある日本の万世一系の男系天皇(直系長子相続)かの、何れかに臣下の礼をとる事でしか存続できなくなっていた。
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654年 金春秋は、新羅の第29代武烈王として即位(〜661年)した。
656年 第37代斉明天皇(女性天皇・皇極天皇の重祚)は、高句麗系帰化人に八坂造の姓と山城国に土地を与えた。
八坂氏は、祖先神・氏神とスサノオ尊と仏教の守護神・牛頭天王を祀る八坂神社を造営した。869年に疫病が流行し、それを鎮める為に御霊会に習って祭礼を行った。今に伝わる、祇園祭である。
658年 ヤマト王権の将軍・阿倍比羅夫は、高句麗hrの新たな道を切り開く為に、船団を率いて日本海を北上し、北海道・東北地方に広がる擦文文化の蝦夷と接触した。彼らは、渡島蝦夷と呼ばれていた。
阿倍比羅夫は、渡島蝦夷と交易する為に、北海道余市に政所を設置した。
659年 斉明天皇は、唐との対等の関係を望んで遣唐使を送った。
唐は、アジアの支配者として朝鮮半島と日本列島の併呑の意思を固めていた。
高句麗征服に手を焼き、新羅と同盟を結んで、日本と同盟関係にある百済征服に戦略方針を転換した。
唐軍の百済出兵情報が、日本側に漏れて軍事介入して来る事を恐れて、遣唐使を2年間軟禁して帰国させなかった。
「来年に海東の政(軍事行動)がある」
唐・中国は、何時の時代でも、日本との対等関係を認めず、日本を属国として支配する強い意志を持っていた。
だが、大和朝廷がもっている軍事力に脅威を抱き、日本軍の百済援軍を警戒した。
高句麗は、唐の侵略を食い止める為の国力を付けるべく、百済と連合して隣接する新羅を攻めた。
新羅は、唐と攻守同盟を結び、唐軍の援軍を得て高句麗・百済連合軍を撃退した。
唐は、新羅に対して、助けた見返りとして高句麗侵攻への参戦を求めた。
高句麗は、唐・新羅連合軍を撃破して国土を守った。
新羅の武烈王は、朝鮮統一の為に唐の軍事力を利用し、百済人内通者の手引きで百済領に攻め込んだ。
百済は、日本の軍事支援がなくとも唐・新羅連合軍を撃破できると過信して油断し、海岸線の守備を怠った。
済州島は、耽羅(タムラ)と呼ばれ百済に属していたが、朝鮮半島から離れていた為に文化度の低い島として化外の地として差別されていた。
耽羅は、独立国として百済と倭国に使節を送っていた。
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中国の伝統的謀略は、「遠国と同盟して近国を攻撃する」と「利を持って敵の内部に内通者・親中国派を作って団結を突き崩す」であった。
660年 唐の左衛将軍蘇定方は、13万人の大軍を率い、大軍船団で黄海を渡海して百済を強襲した。
金海金氏の金庚信は、唐軍の侵略に遭わせて新羅兵5万人を率いて百済に侵攻した。
海は、防衛の為に何ら威力を発揮しなかった。
百済王宮では、唐・新羅連合軍の侵攻にどう防衛するかで意見が分裂して結論が出せず大混乱した。
百済主力軍は、宮廷内の防衛戦略が決まらなかった為に敗走した。
百済の階伯(ケベク)将軍は、妻子を殺害し、5,000人に手勢で、5万人の唐・新羅連合軍に立ち向かうが、10日間の激闘の末に全滅した。
「昔、越の勾践は、5,000の兵で呉の70万大軍を破った。ひるむな、恐れるな。今こそ勝ちを決して、国に報いる時が来た!」
各地の百済軍も防戦するが、統一性を欠き大敗した。
唐・百済連合軍は、勝ちに乗じ、無人の野を進撃するようにして都・泗芡城に攻め込んだ。
百済の義慈王と考王太子は、王族や家臣や領民を見捨てて、僅かな家臣を連れて泗芡城を抜け出して逃亡した。
唐・新羅連合軍は、泗芡城を陥落させ、虐殺を行った。
泰、隆、演ら王子らは降伏した。
百済王族や遺臣は、新羅軍の追求を逃れて日本に逃げた。
3,000人の宮女は、敵兵に陵辱され惨めに生きるよりは死を選び、白馬江に身を投げて死んだ。
唐は、戦勝者の権利として、捕らえた義慈王と考王太子、泰、隆、演ら王子ら王族、大臣・将軍88人、領民1万2,807人を、長安に強制連行した。
蘇定方は、百済を攻め滅ぼした戦勝記念碑として平済塔を立てた。屈辱的な平済塔は、宝物として現在も保存されている。
東アジアでは、攻め滅ぼした相手国の一部の領民を戦利品として強制連行し、男は奴隷とし、女は慰安婦にする事は常識とされた。
占領地で強制連行と虐殺を行わない者は、戦闘に勝っても勝者とは認められなかった。 それが、中国を中心とした東アジア史であった。
ゆえに、「力こそ正義」とする大陸では、住民を守る為に城塞都市が常識であった。
そして、命令一つで都市住民を意のままに動し、外敵を打ち負して都市を守る、強力なリーダーシップを持った指導者を必要とした。
都市住民は、人間性に癖があろうとも指導者の命令に従って、都市防衛の為に一糸乱れずに行動した。自分勝手に命令に従わない者や協力して戦おうとしない者は、都市を危険に晒す恐れがあるとして、殺害するか、追放した。
戦争を嫌う人の良い指導者を選んだ城塞都市は、外敵に侵略されて滅亡し、住民は無慈悲に虐殺され、生き残った者は奴隷として売られた。
侵略者を殺す事を嫌う人の好い者は、侵略者によって殺されて全てを失った。武器を捨てて生き残った気弱な者は、奴隷として売られて、扱き使われた末に薄汚れた小屋の片隅で惨めに死亡した。
百済は、中国人と新羅人によって、虐殺と略奪で阿鼻叫喚の地獄と化した。
日本は、目の前に忽然と姿を現した唐・新羅連合国に危機意識を高め、今にも侵略して来るかもしれない巨大な軍事力に恐怖した。
当時の日本は、646年に発した改新の詔で律令による新たな国家造りを目指す改革派と、唐の真似をした改革に反対する守旧派が激しく対立していた。
劣勢に立たされていた改革派は、国内の分裂を改革で再統一する為に対外的危機感を煽り、百済支援という名目で一か八かの対外戦争に打って出た。
日本は、唐軍による大軍船の渡海奇襲戦法に恐怖した。
高句麗は、唐と新羅に包囲され孤立した為に、残党を集めて抗戦を続ける百済の将軍鬼室福信を支援した。同時に、唐への警戒心を強めた友好国日本に支援を要請した。
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1月6日 斉明天皇は、300年来の友好国である親日派百済王国を再興するべく、新羅・唐連合軍に対して抵抗を続ける遺臣を助けるべく援軍を起こる事を決断した。
朝鮮に於ける親日派勢力を助け半島の権益を守るべく、子供の中大兄皇子や大海人皇子ら皇族・貴族・文武百官を伴い、軍隊を引き連れて九州に出陣した。
斉明女帝は、唐と新羅の容赦なき残虐行為に恐怖し、唐の侵略を食い止める為に高句麗との攻守同盟を受け入れた。
日本は、朝鮮半島での優位性を復活させるという政治的理由以上に、信義を貫く人間として、理と義と情を通す道義心と義侠心から、嘘を付き騙し裏切りを繰り返す新羅に正義の鉄槌をくだす為に軍事介入した。
何時の時代でも、日本の戦争は、小国で無勢であっただけに、自衛戦争であった。
唐は、日本が本格的参戦をする前に高句麗を滅ぼすべく、新羅と共に高句麗の首都・平壌を攻めた。
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日本は、鉄材を倭人が多く住んでいた伽耶(加羅)と同盟国百済から輸入していた。
伽耶に続いて百済を失う事は、農耕道具や武器の生産に必要な鉄が輸入できなくなる事を意味していた。
資源のない日本は、中華帝国・唐の侵略から祖国を守る為には、唯一の鉄資源入手先である朝鮮半島南部を確保する必要があった。
百済出兵は、対唐戦略として、防波堤としての親日国家百済再興と軍備強化に必要な鉄資源の確保という二つの目的があった。
日本は、宿命として、建国以来、生き残る為の選択肢は限られていたし、手を取り合って共に歩いてくれる親日的な友人・同盟国は少なかった。
地理的に、日本は古代から反日的勢力に囲まれた孤独な状態にあった。
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661年 百済の将軍・鬼室福信(鬼室神社)は、ゲリラ戦で新羅軍を苦しめていたが百済王室再興の大義を得る為に、日本に人質として差し出していた豊璋王子の帰還と倭国の軍事支援を懇願した。
斉明天皇の詔「危うきを助け、絶えた者を継ぐべき事は当然のことである。いま百済国が窮して、我に頼って来たのは、本の国が滅んでしまって、依る所も告げる所もないからである。臥薪嘗胆しても必ず救いをと、遠くから申してきている。その志は見捨てられない。将軍達にそれぞれ命じて、八方から共に進むべきである。雲の様に集い雷の様に動いて、共に沙喙(サタク)に集まれば、そのさし迫った苦しみを緩めてやれよう。役人達は王子の為に充分備えを与え、礼をもって送り遣わす様に」
斉明天皇は、日本の人質となっていた百済の豊璋王子(扶余豊璋)に織冠を授け、5,000人の軍隊を与えて帰還させた。
豊璋王子は、長く人質として日本に留まっていた為に、日本語を話せても百済語を話せなかった、そして文人であって政治にも軍事にも興味はなかった。
有名な逸話は、三輪山の麓で日本最初の養蜂を行った事である。
百済残党軍は、日本軍の支援を受けて百済領内から新羅軍を追い出して失地を回復した。
新王である豊璋王子は、百済残党軍を指揮して周流山城に入城したが、不自由な山城を嫌って平地に都を遷した。
新羅軍は、百済の新都を強襲した。
扶余豊王は、破れて周流山城に逃げ込んだ。
百済援軍として朝鮮に渡っていた日本軍も、新羅軍の攻撃で敗走した。
7月24日 斉明天皇は、九州・朝倉宮で崩御した。
中大兄皇子は、斉明天皇の百済王国再興という意志を継ぎ、ヤマトの豪族達の反対を押し切りさらなる派遣を決定した。
反対派の豪族らは、大海人皇子と蘇我氏を中心にしてヤマトを動かなかった。
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662年 中大兄皇子は、豊璋王子を百済王に即位させ、鬼室福信(鬼室神社)に爵位と禄物などを授けた。
百済王国は、日本の対等の友好国から完全なる臣下として保護国となった。
唐は、「夷を以て夷を制す」の伝統戦略から、捕虜とした扶余隆王子に大艦隊と大兵力を与えて討伐を命じた。
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現代の韓国史で、日本軍の悪逆な朝鮮侵略と言われる白村江の戦いである。
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大和朝廷は、総人口約500万人から4万2,000人を百済の救援に派兵した。
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663年 羅唐同盟。唐は、朝鮮半島を領土にするべく新羅と軍事同盟を結んだ。
新羅は、朝鮮半島を武力統一する為に唐の軍事力を利用する為に同盟に賛成した。
新羅・唐連合軍は、百済人を日本に逃がさない為に軍船などの大型船の多くを焼き、逃げ遅れた百済王朝の偉人や賢人を捕らえて連行した。
百済は、大陸的国家として、日本や中国までの遠洋航海に耐える大型船を多く所有せず、大半が近海で漁をする数人乗りの小舟であった。
百済人難民達は、強風で転覆する木の葉の様な小舟で、日本の遣隋使船や遣唐使船が多く難破した荒海を渡って日本に逃げた。
その数は、数十万人と言われている。
日本は、親日派の百済王家の滅亡によって、朝鮮での拠点を失い、唐による日本侵略の恐れに恐怖した。
中大兄皇子は、日本の安全を確保する為に、本格的な軍事介入する事を決定した。
上野毛稚子は、1,000隻の大船団と2万7,000人の軍を率いて半島に上陸し、鬼室福信の百済残党軍と合流した。
日本軍と百済残党軍は、緒戦では新羅・唐連合軍を各地で撃破し、新羅の城二つを攻略した。
百済残党軍は、日本軍の軍事支援で破竹の進撃を続けて百済旧領の回復を目の前にしていた。
鬼室福信は、扶余豊王の無能さに嫌悪し軽んじた。
扶余豊王は、地元で人気があり軍略の才があるある鬼室福信を妬んだ。
日本から帰国した百済人高官は、王国再興よりも権力闘争に走った。
百済は、内紛を繰り返し、滅亡の坂を転げ落ちていった。
扶余豊王は、鬼室福信を「謀反を企てている」という虚偽を利用して謀殺し、その首を塩漬けにして晒し、憎悪ゆえにその肉を食べた。
東アジアには、人の肉を食べる習慣があった。
百済残党軍は、鬼室福信の優れた軍略で善戦していたが、主将を失った敗走し始めた。
百済王族や遺臣は、扶余豊王の横暴さに反発して内紛を起こし、百済残党軍は指揮系統を失って崩壊した。
半島は、古代から、嫉妬深い性格を持ち、自己中的に絶えず内紛を繰り返していた。
白村江の大敗。
頭の艦隊を指揮したのは、元百済王族の扶余輶であった。
日本水軍が「白村江の戦い」で新羅・唐連合軍に大敗して、百済再興の夢は潰えた。
日本艦隊の被害は、『日本書紀』によると170隻、『三国史記』では400隻であった。
多くの日本人兵士達は、親日派百済の為に戦死した。
日本の海外戦における最初の大敗北であった。
扶余豊王は、船で高句麗に逃げ、百済は完全に滅亡した。
百済王家は、内部の権力闘争で崩壊した。
歴史的事実として、如何なる国も内部から滅亡した。
日本は、朝鮮の利権を失い、半島から追放された。
生き残った日本軍敗残部隊は、全羅南道に集結し、日本への亡命を希望する数万人の百済人を護衛して帰国した。
唐の蘇定方将軍は、百済を滅ぼし、百済を平らげた戦勝記念碑として定林寺に平済塔(ピョンチェタプ)を建立した。
日本が助けようとした親日派百済王国の遺跡群は、世界遺産の百済関連遺跡に認定された。
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夜久正雄「7世紀の日本が情誼にもとづいて百済を援けた白村江の戦は、不幸、敗れはしたが、筋を通した義戦だった」「その結果、日本の独立は承認され、新羅も唐と戦って半島の独立をかちとるに至った」(『白村江の戦』)
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朝鮮に於ける親日派勢力は、高句麗のみとなった。
亡国の民となった百済の知識人の多くが、日本の保護を求めて亡命した。
反日勢力は、唐の軍事支援を得て半島を統一した。
新羅は、唐の要請に従って日本征討軍を受け入れ、日本侵攻に参加する為に臨戦態勢に入った。
礼節を知る百済の民は、人を騙し嘘を平気でつき約束を守らない新羅の謀略性を嫌って、大挙して日本へ逃亡した。
中大兄皇子は、新羅とは交戦状態にあるとして、正式に国交を断絶した。
日本は、自己の利益・金儲けの為に中国の走狗と化して陰謀をめぐらす新羅を信用しなかった。だが、国内には、国外の反日勢力に協力する反天皇派勢力が存在していた。
古代日本と友好関係にあったのは、大国唐の属国となった新羅(中国氏名)に滅ぼされた、地方王朝であるの百済(古代朝鮮氏名)と高句麗(ツングース系)であった。
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地域差別及び出身地差別の誕生。
反日の新羅があった半島南東部の慶尚道は、親日の百済があった半島南西端の全羅道を差別した。
慶尚道と全羅道の対立は、現代に於いても続いている。
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百済語は、敗者の言葉として日本に伝えられて朝鮮半島から消えた。
朝鮮語の元となったのは、勝者の言葉である新羅語であった。
村を、日本語では「ムラ」と呼ぶが、百済語では「スク」あるいは「スキ」と呼び、韓国語では「マウル」と呼ぶ。
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2015年 歴史通 3月号増刊「中国問題 丸わかり!
宮脇淳子『少数問題「絶滅」を企む中国の漢化政策』
少数民族問題に限りませんが、日本人は決して中国に手を差し伸べるべきではありません。いかに巻き込まれないようにするかしか考えてはいけません。文化大革命と天安門事件の後始末に中国が困窮しているときだって、日本が援助したから現在のようなありさまになったのです。あのよき見捨てるべきでした。シナ大陸にへたな手出しをしては絶対にいけない。それは663年の『白村江の戦い』後の危機に始まる。日本建国以来の歴史の教訓なのです」
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2016年11月28日 産経ニュース「大宰府防衛の土塁か 7世紀に500メートル以上…「白村江の戦い」に敗れ強化 福岡
発見された土塁(奥)の断面の前で説明する筑紫野市教委の担当者(中央)=28日午前、福岡県筑紫野市
福岡県筑紫野市の前畑遺跡で、古代の大宰府を防衛した外郭線とみられる7世紀ごろの土塁が見つかり、市教育委員会が28日発表した。丘陵の尾根に人工的に盛り土し、南北に500メートル以上続いていたとみられる。日本は西暦663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れたことをきっかけに九州の防衛を強化しており、当時の緊迫した状況がうかがえる。
12月3日から現地説明会
土塁は、大宰府の中核だった政庁跡から南東に約7キロの地点で出土した。上下2段の台形状で、上端は幅約1・5メートル、下端は幅約13・5メートル。盛り土部分は、砂や粘土を層状に突き固めた版築工法を用いて頑丈に造られ、最大で高さ約1・5メートルが現存していた。土塁は東側が急斜面になっていて、東から侵入してくる敵への防備を固めたとみられる。
白村江の戦いで日本は百済を救援するために朝鮮半島に出兵したが、唐・新羅の連合軍に大敗した。これ以降、大陸に対して国防の要所となる大宰府周辺に土塁などを用いた防衛施設「水城」や古代山城「大野城」を築いて侵攻に備えた。今回の土塁もこうした一連の防御施設だったようだ。
市教委は、古代都市を囲んだ城壁「羅城」の可能性もあるとしている。羅城は中国や朝鮮半島に見られ、日本書紀には679年「難波に羅城を築く」との記述があるが、国内では見つかっていない。
大宰府は、古代の律令政府が九州に置いた出先機関で、九州全域の民政や軍事のほか、外交を担った。
一般向けの現地説明会は12月3〜4日の午前10時〜正午、午後2〜4時。小雨決行。」
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664年 唐は、日本侵攻を前にして、日本に軍事威圧・外圧をかけて降伏させるべく使者と兵2,800人を満載した大軍船団を派遣した。
日本は、主兵力を失っていたが、武力を背景とした外圧で屈服させ様とする傲慢さに反発して、使者の入京を拒絶して追い返した。
日本は、唐が日本侵略の為に大部隊を大陸や半島の海岸線に集結させているとの情報をえ、最後の一人になっても徹底抗戦するべく各地に山城を築き、都を大津に移した。
日本は、傲岸不遜で相手を見下して奴隷の如くあしらう中国を信用せず、話し合いによる和平の道を選ばなかった。
当時の日本人は、戦えば負け、多くの犠牲者を出す事は分かっていた。
無益な戦争と分かっていたが、生きる為とはいえ、戦わずして亡国となり、敵を殺さずに奴隷となる事を、古代の日本人は拒絶した。
日本人は、国家と天皇を守る為の戦争を放棄した事はなかった。
列島は、大陸がいつ半島を経由して侵略して来るかに怯え、警戒を強化した。
中国・朝鮮は、対日戦略を軍隊による侵攻作戦から内部から崩壊させる謀略工作に変更した。
反天皇の古代豪族と反日の渡来人勢力は、日本の主権を犠牲にし、日本領土の一部を放棄しても、天皇勢力を滅ぼす為ならば外国勢力と手を組もうとしていた。
何時の時代でも、日本と天皇は国内外に敵を抱えていた為に、国を閉ざし、交流を制限した。
中大兄皇子は、白村江の敗戦にともない唐・新羅連合軍の侵略の危険が増した為に、国内を臨戦態勢で固める必要に迫られて「甲子の宣」を発した。
大陸勢力の侵略を好機として、反ヤマト王権の地方有力豪族が叛乱を起こす事を防ぐ為に氏族統制を強化した。
中大兄皇子は、唐・新羅連合軍の侵略に備えて、半島から逃げてきた百済人技術者の協力を得て各地に山城や水城を築城し、国土防衛の為に九州や対馬に防人を配置した。
侵略軍に備えて、対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し烽火台を増やした。
祖国防衛として、筑紫に水城(大堤)と難波までの各地に山城を築いた。
さらに。筑紫に、高さ13メートル、上部の幅約20メートル・下部の幅約80メートル、長さ1.2キロにわたる大堤を築き、水を蓄えた「水城」を築いた。
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唐軍は、日本侵略の為に軍隊と軍船を用意したが、親日派高句麗の反乱と突厥の侵攻で日本遠征を中止した。
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665年 日本は、唐と和睦したが、けっして唐・中国を信用せず、唐・中国の侵略に備えるべく軍事力強化に力を入れた。そして、国内整備に取り組んだ。古代日本人の国防意識は、現実を正しく見詰めていただけに強烈であった。
歴代の天皇は、日本と皇室を守る為なら、大陸との戦争も辞さなかった。
中大兄皇子は、百済亡命者の協力を得て筑紫の大野に総延長8キロに及ぶ朝鮮式山城を築き、畿内までの各地に同じ山城を築城した。
大和王朝は、大陸及び半島からの侵略に備えるという国防最優先政策で、強権を以て難航の大土木工事を短期間で完成させた。
百済人難民2,000人以上が、帰化人として東国に移住した。
これ以降。朝鮮人避難民が、海を越えて日本に逃げ込んできた。
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冷静な教養ある百済人にとって、日本は唯一の避難場所であった。
日本は、彼らを助けた。
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12月 中臣鎌足の長子定恵は、唐から帰国するが、反唐派百済人によって毒殺された。
日本国内は、反唐派と親唐派に分かれて主導権争いを繰り広げていた。
朝廷内では、建前として徹底抗戦を唱えていたが、本音では唐との和平を望んでいた。
守旧派も、敗戦した事で律令による改革の重要性を認めた。
日本は、唐に対抗する為に独自の冊法体制を打ち立て、中国を隣国とし、国外の新羅、渤海国や国内の隼人、蝦夷などを外蕃・蕃国と呼んで下位国と見下した。
それが、日本版中華思想による日本中心の華夷秩序である。
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百済系高句麗系の両系帰化人の貢献がなければ未開国家日本に文明・文化は生まれなかった。
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百済人難民は、日本に逃げてきても百済語は日本国語に類似していた為に言葉で困る事はなかった、そして百済人が帰化すると百済語も消えた。
日本人が百済人の子孫ではなく、百済人が縄文人の子孫であった。
そして、日本国語が百済語の類似言語ではなく、百済語が日本国語の類似言語であった。
日本への大量移住者は、百済人と高句麗人が最後であった。
日本は、大陸や半島から隔絶し、異民族と直接触れ合う事がなくなった。
それは、異民族がもたらす悲劇・悲惨という運命が避けられたという幸運であった。
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朝鮮人帰化人の増大で、百済・高句麗の半島回帰への怨念が日本列島に染みつく。
日本による半島への侵攻は、古代からの運命である。
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渡来人は、日本を東アジア化する為に、中国の常識である儒教的放伐文化を根付かせようとした。尊皇心なき渡来人の狙いは、血統を絶やし、皇統を断絶させ、国體を破壊する事であった。その為に、非皇族系日本人や朝鮮人や中国人を天皇に即位させ、日本の正統な統治者にしようとした。
渡来人にとって、天皇・皇室は、自分達の利益を得る為の単なる道具に過ぎなかった。
儒教的放伐文化とは、「徳」至上主義の価値観による、屍体の大山を築き、血の大池を造る、地獄の様な虐殺文化である。
神話的天皇制度を否定する日本人は、神道への信仰を持つ日本民族日本人ではなく反宗教無神論の東アジア系日本人であり、「徳」至上主義による儒教的放伐文化の信奉者である。
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半島は、列島への影響力を強める為に、さまざまな破壊工作を続けていた。
日本に渡来した朝鮮人僧侶の中には、間諜を任務とした偽僧侶が多くが潜んでいた。
何時の時代でも、洋の東西を問わず何処の国においても、人の道や神仏の理を説く僧侶が、実は他国において間諜や暗殺などの謀略を働く事は珍しくない。
特に、キリスト教会の宣教師は、世界中で布教活動をすると共に情報活動を行っていた。
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中国の古代からの各王朝は、帝国の版図を広げる為に周辺諸国を侵略し、近い土地は領土に編入し、遠い地は属国として従えた。従う民は中国の領民として徳化し、従わぬ民は中国の敵として女子供全てを根絶やしにした。
中国は、古代から領土を拡大する為に、「未開の野蛮人を教化し正道に導く」を大義として侵略戦争を繰り返していた。
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何故に、唐王朝が日本を攻めて領土もしくは属国にしなかったか、日本が尚武の国で攻めれば甚大な犠牲者を出すからではなく、犠牲者を出してまで手に入れる価値が無いと判断したからである。
つまり、中華帝国にとって倭国・日本は魅力のない土地に過ぎなかった。
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