🎍29〕─3・A─聖武天皇の汚点。罪なき人々を自害に追い込んだ「残酷な処世術」。 ~No.92 

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 2023年11月14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「聖武天皇の「汚点」 罪なき人々を自害に追い込んだ「残酷な処世術」とは?
 東大寺二月堂のお水取り
 皇位継承争いや貴族社会における権力闘争によって命を落とした人々、その多くは、讒言(ざんげん)という姑息な手段によって陥れられたものであった。藤原氏によって排除された長屋王とその妻・吉備内親王も、同様の被害を被って自害に追い込まれている。聖武天皇はその怨霊を恐れ、懺悔し、それが「お水取り」の行事につながったとも言われるが、どういうことなのだろうか?
■讒言によって不運な末路を辿った人々
 権力の頂点に立つことにどれほどの魅力があるのか筆者には理解できないが、世の中には、血で血を洗うような激しい抗争を繰り広げてでも頂点に上り詰めようとする輩が多くいたようである。戦国時代は武力を用いて力ずくでねじ伏せることもできたが、武力を持たない天皇や貴族たちは、讒言という姑息な手段を用いて敵を排斥していったようだ。
 中傷という程度のものならさしたる問題はなかったが、多くの場合、それが謀反、つまり「為政者に背いて国の転覆を計るという重罪を犯した」と見なされることが多かったから大変。極刑をも免れないものだっただけに、讒言された方の末路は、実に悲惨なものであった。
 讒言という手口が目に余るほど多かったのが、壬申の乱で勝利を勝ち取った40代・天武天皇から50代・桓武天皇に到るまでの百有余年内ではないだろうか。686年、大津皇子が謀反の罪を着せられて自害に追い込まれたことが皮切りであった。
 当時、持統天皇の子・草壁皇子が、皇位継承者として有力視されていたが、母である持統天皇は、不安な気持ちを拭うことができなかった。早々に甥である大津皇子を陥れ(翌日自害)、我が子を強引に皇位に就けたというのが、多くの識者の見るところである。
 また、聖武天皇の皇女・井上内親王も、夫・光仁天皇やその姉・難波内親王を呪詛したとして、子・他戸親王共々幽閉されたことがあった。その後、母子とも同日に亡くなったということから鑑みれば、殺されたか自害したとしか考えられそうもない。
 さらに、桓武天皇の御世には、同母弟の早良親王藤原種継暗殺事件に関与したと見なされて流罪に処せられたものの、憤慨して絶食。とうとう餓死してしまったという悲惨な事件が記憶に残るところである。桓武天皇が、我が子・安殿親王皇位を継がせたいばかりに、弟を陥れたというのも、多くの人が知るところだろう。
 そしてもう一人、讒言によって不運な末路をたどったとある女性についても、語っておきたい。それが、吉備内親王である。ここからは、彼女がどのように悲運の道をたどったのか、見ていくことにしたい。
■夫、子と共に自害させられた吉備内親王の悲運
 吉備内親王といえば、祖父は天武天皇、祖母は持統天皇、母は元明天皇、兄・姉も元正天皇文武天皇というように、血筋の良さに関してはまったく申し分のない女性であった。
 夫は、左大臣となって政界の頂点に君臨した長屋王である。その父は天武天皇の長男・高市皇子とあって、皇親としても嫡流ともいうべき立場であったから、こちらも非のうち所のない家系だったというべきだろう。
 ところが、この長屋王の躍進を快く思わない御仁がいた。それが、藤原不比等の子・藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)であった。四兄弟は、聖武天皇に嫁いだ妹・光明子立后を目論んでいたが、かつて聖武天皇の母・藤原宮子の称号に対して異を唱えていた長屋王が、今回もまた反対することが目に見えていた。
 そこで目論んだのが、長屋王の排斥であった。その手段は讒言である。「左道を学んで国を傾けようとしている」と讒言したのは、下級官僚の漆部造君足と中臣宮処東人である。
 ちなみに左道とは、妖術あるいは邪道、邪教等々、どのようにも解釈できそうな言い回しだ。比の打ち所が見当たらない人物といえども、この罪を着せてしまうことはたやすいことであった。
 この下級官僚の密告に、知ってか知らでか、聖武天皇が過剰に反応。しっかりと調査することもなく、即座に藤原宇合六衛府の兵を率いさせて、長屋王の邸宅を包囲。
 舎人親王に糾問させた後、妻である吉備内親王と4人の子ともども、素早く首をくくらせた(毒薬を使用したとの説も)。反論の余地もなく早々と自害に追い込んだというのも、藤原氏天皇を巻き込んで仕組んだ罠だったとすれば、合点がいきそうである。
聖武天皇にとっても都合が良かった長屋王排除
 聖武天皇は、彼らの自害を見届けた後、すぐさまその罪を許したというが、それは彼らが怨霊となって祟り出ることを恐れたからに他ならない。つまるところこの事件とは、藤原氏による長屋王追い落としの権力闘争というだけでなく、聖武天皇にとっても、我が子の皇位継承への妨げとなる長屋王の息子たちの排除という意味でも、都合の良いものだったのである。
 ともあれ、皇位継承争い及び貴族内における権力闘争の犠牲となった吉備内親王こそ、とんだとばっちりであった。聖武天皇光明子の間に生まれた基皇子が夭逝した際にも、夫あるいは自身が皇子を呪詛して呪い殺したと見なされるなど、とかく攻撃の対象とされることが多かった。
 天皇という権威に取り囲まれた吉備内親王といえども、当時実権を握りつつあった藤原氏を前にしては、その立場は必ずしも、盤石と言えるようなものではなかったのだ。吉備内親王は、夫と子らと共に死に追い込まれた。それが、729年2月12日のことであった。
 ここで2月12日と聞いて、ハッとお気付きになった方もおられるかもしれない。東大寺二月堂で催される「お水取り」、それが開催されてきたのが、旧暦の2月12日(現在は3月12日)だったからである。これは、単なる偶然なのか? それとも、聖武天皇が「懺悔」の思いで執り行ったということなのだろうか?
聖武天皇は、大仏建立で人々を苦しめたことを懺悔していた?
 「お水取り」とは、二月堂で催される修二会(十一面悔過法要、現在は3月1~14日開催)という法会の中の一行事で、奈良における春の風物詩としてよく知られる行事である。
 一般的には、巨大な松明を手にした練行衆なる僧侶が舞台を駆け回る光景がよく知られるところであるが、主となる行事は、ひっそりとしたこの「お香水」の汲み上げ儀式の方である(こちらは非公開)。
 それが催されるのが旧暦の2月12日深夜から13日未明にかけてで、二月堂階段下の閼加井屋(若狭井、福井の若狭と繋がっているとも)なる井戸から水を汲み上げて、本尊である十一面観音に奉納するというもの。「不退の行法」として、752年から一度も欠かさずに行われ続けてきたというから驚くばかりだ。
 この行法の目的は、一言で言えば「懺悔」ということらしい。しかし、誰が何のために懺悔するのかとなると、実のところ明確ではない。練行衆が、人々に代わって過ちを悔い改めて人々に幸運をもたらすと見なされることもあるようだが、果たしてそれだけだろうか?
 気になるのが、懺悔する主体者が一般の人々ではなく、大仏を建立した聖武天皇自身だった、との説である。人々の平安を願って推し進められた大仏建立だが、実際は多くの人々に経済的な負担をかけ、多くの人命を損なった上での建立であった。天皇自身が犠牲者に懺悔するために、大仏開眼に先立って修二会の行を執り行ったとの見方である。
■「自害の直前に水を飲んだ」という逸話とつながっている?
 そしてもう一つ、それ以上に気になるのが、この行事自体が、「長屋王の死の情景を再現したものだった」との説である。
 長屋王は自害するにあたって、最後の水を飲んだと言われる。それを汲み上げたのが邸宅内の井戸で、その最後の情景を復元したのがこの「お水取り」の儀式だったというのだ。長屋王や吉備内親王及びその子らが首を括って自害したのが2月12日丑の刻(深夜1~3時頃)であったところから、「お水取り」の儀式も同日同時刻(正確には2月13日未明)に執り行われていたという。
 となれば、ここでも懺悔の主体者は、長屋王を根拠のない密告を信じて死に追いやった聖武天皇ということになる。長屋王が祟って出たかどうか定かではないが、吉備内親王は吉備聖霊という祟り神として恐れられた(永井路子氏説)というところからしても、天皇にとっては、取り急ぎ懺悔する必要に迫られたのだろう。
 いずれにしても、吉備内親王の悲運の根源は、取り巻く人々の飽くなき欲望にあったことは間違いない。皇位という権力の頂点に上り詰めたい、あるいはその権力を自在に操りたいとする人の心持ちが、彼女をどん底に陥れたのだ。権力への欲望がいかに愚かなもので、かつ人々を不幸に陥れるものであるのかについて、あらためて考えさせらされてしまう話である。
 藤井勝彦
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