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2024年2月18日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「藤原道長の年収は3億円超、下級貴族は680万円以下…平安貴族たちの「給与格差」の知られざる実態
山口 博 の意見 • 23 時間
『紫式部日記絵巻』より藤原道長(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
© PRESIDENT Online
NHK大河ドラマ「光る君へ」で描かれる平安貴族たちは、どんな暮らしをしていたのか。古代和歌を研究する国文学者・山口博さんの著書『悩める平安貴族たち』(PHP新書)から、平安貴族たちの出世・給与事情を紹介する――。
30階級の明確な序列があった
男の階級は明確だ。正一位から少初位下まで三十階級に整然と分かれ、律令制度下の官僚はそのどこかに位置付けられる。その下には位を持たないで奉仕する者がいる。衛士や防人なども位を持たない。
三十階級のうち、正一位から従三位までの正・従合わせて六階級が上流貴族、正四位上から従五位下まで、正・従に加えて、上・下に分けられての八階級が中流貴族、正・従六位は法的には貴族ではないが一般には下流貴族、正七位上から下は貴族の名に値しない階級と考えればいい。
ここ迄に登場した人々で、位階または官職の分かる主な人物をこの階級に当てはめてみよう。各人、生前の最高官職である。
男はこの階段を一歩一歩昇る。しかしその努力にも限界があり、家柄が大きく左右することは否定できない。十世紀政界の主要ポストは、藤原北家の関白太政大臣藤原忠平一門で占められていたのだから。
男の生きがいは官位昇進
生きていく上の苦悩は、境遇により様々あり、一概には言えないが、男の悩みは恋と官位昇進にあった。藤原道長は子が出家をすると言い出した時、「どうしてそんなことを思い立ったのか。何か辛いことでもあるのか。私が気に入らないのか。官位が不足なのか。それとも、何とかして手に入れたいと思っている女のことか」と尋ねた。
『宇津保物語』でも、息子が悶死した時、父はもう一人の息子に向かって、「あれはなんでそんなに思い詰めたのだ。官位のことなら限度というものがあるのだが」と言うと、息子は「いやそうではない。男は女のことで思い詰めるものだ」と答えている。
男の生きがいのうち、女のことは章を改めて述べ、この章では官位昇進について話そう。
官位争奪戦が兄弟の争いに発展する
清少納言は『枕草子』で、「位こそなほめでたきものはあれ(位こそ、やはりめでたいものだ)」(『枕草子』「位こそ」段)と書く。女の目から見ても高位高官は、素晴らしいのだ。
上流貴族間においても、高位高官への階段を昇るために、例えば藤原兼通・兼家兄弟の争いがあった。兼家は参議の兄を超えていち早く中納言に昇進していたが、摂政太政大臣藤原伊尹没をきっかけに兄弟の地位は逆転、兄は関白内大臣、弟兼家は相変わらず中納言だ。
この逆転劇が展開された頃、兼家の妻は『蜻蛉日記』に、「正月の人事ということで、夫は例年より少しの暇もなく、バタバタしているようです」と書き、「この月は頻繁に訪れてきて、何だか不思議だわ」と首をかしげる。
思わしくない人事に疲れきり、ストレスを癒すための憩いの場が作者の許だったのだ。傷を負った戦士は、疲れきった体を投げだして美女の熱い胸に眠る。妻はそれを理解していなかった。元気を取り戻すと男は、憩いの場を離れ、戦いの場に出て行き、女は男の夜離れを託つ。
息子の出世のために和歌を代筆する母親
このような中で、日記作者と藤原兼家の間の子の道綱も昇進を謀らねばならない。道綱は大納言にはなったが、昇進競争相手の藤原実資に「一文不通の人(何も知らない奴)」「四十代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めない」と罵倒されたり、一、二カ月でもいいから大臣にしてくれと、異母弟の藤原道長に懇願したりしている。
道綱が大納言になるまで、公私共に母親のバックアップがあったに違いない。例えば花山天皇主催の晴れの内裏歌合に正五位下道綱も列席、歌を出すことになった。その歌の歌題は「山里を眺める女と鳴くほととぎす」を画いた絵で、
都人(みやこびと)寝で待つらめやほととぎす 今ぞ山辺を鳴きて過(す)ぐなる
(都人は寝ないでほととぎすの鳴く声を聞こうとしているだろうが、今、この山辺を飛んで、鳴きながら都の方へ行くようだ)
藤原道綱の母(『拾遺和歌集』夏・『蜻蛉日記』巻末歌集 寛和二年内裏歌合)
と、山里と都を結び付ける絶妙な歌を道綱は提出したが、実は母の代作であった。
上着の色を見れば身分も、給料も分かる
上流貴族より下でも、四位と五位は正式に貴族の範疇に入る。それより下の、律令制度下では貴族ではない六位の人々の昇進をめぐっての哀歓の歌が歌壇を賑わす。
最も分かりやすい例として勅撰和歌集歌人を挙げてみよう。『古今和歌集』撰者の凡河内躬恒、紀貫之、紀友則、壬生忠岑、『後撰和歌集』撰者の源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文の九名だ。
この名誉ある文化功労者は貴族かと尋ねると、皆さんはどう答えるだろうか。多くの人は貴族と答えるだろう。しかしそれは、庶民に比しての広義の貴族だ。法的には貴族ではない。彼らを最終位階順に上着の袍の色を含めて、高位から順に並べてみよう(図表)。 つまり、法的に貴族というのは従五位下以上を言うのだ。五位と六位の間が管理職とヒラの境目のようなもので、当時の律令官僚もサラリーマン生活で、支給される俸給が通貴(貴に準じる)と非貴族の間では倍ほどの差がある。
当時は米・絹・鍬など現物支給で、それらを合算して『延喜式』の禄物価法で米量に直し、現代の米価で換算すると、概算正六位で年収六百八十万円、従五位では千四百万円、正五位では二千六百万円にはねあがる。正四位の大中臣能宣などは四千万円になる(拙著『日本人の給与明細』角川ソフィア文庫、二〇一五年)。ちなみに、最高クラスの道長や道隆などの俸給は年収三億円から四億円に上る。
「緋色の袍を着たい」と嘆く六位の人たち
俸給が幾らなのかは、上着の袍の色で分かる。みじめなのは緑の袍を着なければならない六位の非貴族だ。もう一階級上がって緋色の袍を着たい。切ない願望である。大中臣能宣が六位であった時に、子日に野原で小松を引く行事に掛けて嘆いた歌がある。
松ならば引く人けふはありなまし 袖(そで)の緑ぞかひなかりける
(緑の小松ならば引き抜く人が今日はいるように、誰か緑の衣を着る俺を引き抜いてくれないかなあ。緑の袖の六位では、かいがないよ)
大中臣能宣(『能宣集』)
誰が引き上げてくれたのか、その後、緋の衣の五位、深緋の四位に達している。大中臣氏は政府の執行する祭典を司る神祇官の家であり、代々五位相当の神祇大副を務めているので、彼が緑の袖を脱ぐのは時間の問題であった。
しかし父頼基も達しなかった正四位下に至ったのは、歌人として抜群の才能を有し、天皇や政権実力者と密接であり、数多の引く人があったからだろう。
琵琶湖の底に沈んだ老松が自分に見える…
緑の衣を嘆く人は他にもいた。藤原兼家の弟大納言藤原為光の供をして石山寺を参詣した内記源為憲は、琵琶湖の老松を見て、
老いにける渚(なぎさ)の松の深緑沈める影をよそにやは見る
(渚の老松の深緑の影が琵琶湖の底に沈んで見えるが、それをよそ事として見ていられようか。老いた自分もまた深緑の位に沈んだままだ)
源為憲(『源順集』)
と嘆いた。
為憲は緑の袖すなわち正六位上の大内記だったのだろう。その後、沈んでいた老松の為憲も従五位下になり、従五位上に叙せられている。漢詩人、文人として優れていたことが、沈める影を浮かび上がらせてくれたのだろうか。
為憲の嘆きの歌に応じ、既に五位で浅緋の衣の友人源順は、
深緑松にもあらぬ朝明けの 衣さへなど沈み染めけん
(私は貴方のような深緑の松ではないのですが、深朱(ふかあけ)の色を待っても、どうして明け方の色のような浅い緋色に染まったままなのでしょうか)
源順(『源順集』)
と返した。
上流貴族の息子でも馬鹿にされ、結婚もできない
「松」に「待つ」、「朝明け」に「浅緋」を掛ける。為憲は松のように万年緑かと嘆き、順は待っても待っても色濃い朝明けにならない空を、虚ろな目で眺める。為憲は期待した五位になり緋衣を着ることができたが、順は深緋の衣を着る四位になることなく人生を終えた。
順の歌のように掛詞が多用されて技巧的に作られていると、本当に嘆いているのかと疑いたくなるが、それが事実であることは、悲嘆振りが官位のみならず、官職にもあったことと考え合わせると納得できる。そのことは後で話そう。
上流貴族の息子でも、緑の袍の六位では馬鹿にされて、結婚もできない。『源氏物語』の光源氏の息子夕霧は、上流貴族の子だから四位からスタートするはずなのに、父の教育方針もあって緑の袍の六位に任じられた。恋人雲井雁と密かに愛し合っていたが、女の乳母は「六位風情の男ではね」といちゃもんを付ける。夕霧は、
紅の涙に深き袖の色を 浅緑とや言ひしをるべき
(貴女を思って流す血の涙で、深紅(しんく)に染まった私の袖の色を、六位風情の浅緑よと、言い貶してよいものでしょうか)
夕霧(『源氏物語』第二十一帖「少女」)
と嘆くのであった。「言ひしをる」は言い貶すこと。
正月に行われる「昇進発表」に一喜一憂
昇格するかしないか、特に五位の人の四位への欲望は強烈なものがあった。「貴」は無理でも「通貴」の最高にはなりたいのだ。昇格の発表は正月に行われる。都詰めの官僚には直ちに結果が分かるが、地方官はそうはいかない。小野好古の哀れなエピソードがある。
大宰大弐小野好古は、藤原純友反乱鎮圧のために西国に下っていた。今年こそ四位になるはずと思っていたが、結果は分からない。やがて都にいる友人の源公忠から手紙が来た。
手紙には諸事を書き連ねているが、昇格云々は書かれておらず、月日が書かれ手紙は終わりの体裁をとる。だがその後に、追伸の形で一首の歌が書かれていた。
玉櫛笥(たまぐしげ)二年(ふたとせ)あはぬ君が身を 朱(あけ)ながらやはあはんと思ひし
(二年もお逢いしていない貴方に、五位の緋の衣のままの姿でお逢いするとは思いもよりませんでした) 藤原公忠(『大和物語』四段・『後撰和歌集』雑一・『源公忠朝臣集』)
この歌を見た好古は、この上もなく泣いたという。
泣きながら和歌を詠む小野好古
この歌は実に多くのテクニックを駆使している。「玉櫛笥」は螺鈿などを散りばめ美しく飾ったお化粧道具を入れる函で、「蓋」があるので「ふたとせ」の枕詞であると同時に、「二」に「蓋」を、「君が身」の「み」に、人を表す「身」と道具を入れる函の「身」を、「あけ」は、「朱」と蓋を「開け」を、「あはし」に(蓋と身が)「合う」と「会う」をそれぞれ掛けてある。
「玉櫛笥」「蓋」「身」「開け」は縁語でもある。掛詞や縁語などゴテゴテ飾り立てて品がない歌にも見えるが、言い難いことを何とかソフトに伝えようとした公忠の気遣いがうかがわれるではないか。
『後撰和歌集』のみ好古の返しがある。泣きながら詠んだのか、
あけながら年経(ふ)ることは玉櫛笥 身のいたづらになればなりけり
(新年になっても朱色の衣のままで年を経るとは、私はもうだめになりそうです)
小野好古(『後撰和歌集』雑一)
と返した。「私はもう死にそうだ」と落胆の様子が浮かぶ。
好古よ、そう落ち込むなよ。そなたは武人だろう。その上、昨年正月に正五位下になったばかりではないか。たった一年で四位を望むのは無理というものだ。涙を流した翌年正月には念願の従四位下に昇格している。最終官位は従三位参議であった。
ノンキャリア組は女房に頭を下げる
昇格には何の客観的基準もない。天皇を頂点とする上流貴族たちの思惑一つで決まる。権力者に袖の下を贈るか、おべっかを使うか、哀願するかだ。紫式部の父藤原為時は一編の漢詩で天皇を動かし越前守を勝ち取った。
紫式部が日記に「数にしもあらぬ(物の数ではない)五位」とするその五位以下の人たち。親の七光に浴する家柄ではない彼らがねらう旨味のあるポストは、地方の国守だ。紫式部の伯父で、従四位下摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)守で終わった藤原為頼は、生まれた孫が女子だと聞いて、
后(きさき)がねもししからずはよき国の 若き受領(ずりょう)の妻がねかもし
(天皇の皇后候補か、そうでなければ収入の多い国の若い国守の妻の候補になれよ)
藤原為頼(『為頼朝臣集』)
と祝福した。美しくかわいい子だったので祖父の欲望が丸出しの歌である。しかし、為頼も子供たちも四位あるいは五位で、主として国司の最上席の受領だから、后候補は高嶺の花。せいぜい天皇家や上流貴族のメイド的な女房だ。
受領の妻なら見込みなしとはしないが、高収入で若い男となると難しい。若い受領の多くは権門上流貴族の子弟だからだ。彼らは中央でポストを持ち兼任で受領を務める。『蜻蛉日記』作者に求婚した藤原兼家は兵衛佐だったが、兼任で紀伊権介を務めていたし、藤原時平、藤原兼輔、藤原実頼、藤原道長など、皆このタイプだ。
98人しかなれない人気ポスト
正二位右大臣藤原不比等の子の宇合などは常陸守として実際に赴任している。実入りのいい大和国(奈良県)などの大国や、山城国(京都府)などの上国の「よき国」は、上流貴族の子弟で占められ、中・下流貴族は残りの安房国(千葉県南部)などの中国、壱岐国(長崎県の一部)などの下国の守にしかなれないのだ。
為頼は「若き受領」と「若き」とこだわっているのは、高齢の受領と結婚する例が多かったからだろう。紫式部は二十歳程年上の男と結婚、結婚三年目に夫は死亡してパトロンを失っている。これでは黄落の晩年になる可能性が大きい。
国守という人気職業も、ポストは権守を含めて九十八人分しかなく、激烈な就職レースが展開される。頭も白くなったおじさんが任官申請文書を持って、あちこちの女房の局に寄っては差し出して自己推薦をし、「どうぞ宜しく申し上げてください」などと頼んで回る様子を、清少納言は書いている。
除目の頃など、宮中の辺りは実に愉快だ。任官申請の文書を持って歩く四位五位で若々しく感じの良い人は頼もしく見えるが、老いて頭の白い人が、女房の局に寄っては何やかや自分の置かれている事情を話して、任官の助けを頼み、自分が立派な人物であることをいい気になって話す姿を、若い女房たちが真似をして笑うのを、ご本人は知るはずがない。清少納言(『枕草子』「正月一日は」段)
ノンキャリアたちをあざ笑う清少納言
男の「生きる」姿の哀れさに、胸痛む思いがする。それなのに嘲笑の対象にするとは。自分たちの父親もそうではなかったのか。清少納言の父元輔こそ、頭が白くなりながら頼み込む一人ではないか。元輔は、
年ごとに絶えぬ涙や積もりつつ いとど深くは身を沈むらむ
(任官発表の季節になると、毎年毎年絶えない涙が流れてきて、溜(た)まりに溜まって、涙の淵(ふち)となる。その淵に深く深く身を沈めっぱなしになることよ)
清原元輔(『拾遺和歌集』雑上・『元輔集』)
と涙を流して歌い、右近という女房に訴嘆し、ようやく六十七歳で周防(山口県東部)守、八十歳で肥後(熊本県)守になっている。
人の死が、ポストが空いたという密かな喜びに…
元輔は交際術が下手だったらしい。右大将が続けて子を産ませた時に歌を頼まれ、
年毎(ごと)に祈りしくればおもなれて 珍しげなき千代とこそ思へ
(毎年毎年誕生ごとに千代の幸せを祈ってくると、なれてしまって少しも珍しくないよ)
清原元輔(『元輔集』)
と素っ気なく詠む。生まれた子がかわいそう。親は『元輔集』伝本により、「右大将」「右大将源朝臣」と異なる。元輔の時代に右大将になった源朝臣はいないし、単に右大将では分からないが、誰であれ、「珍しげなき」と言われた親は、渋い顔をしただろう。
右大将といえば上流貴族垂涎の職であり、そのような権力者に依頼されたのに「珍しげなき」とは何たること。それだから高齢になるまで、これは、というポストを得られなかったのだ。
ポストレスの社会では、人の死もポストが空いたという密かな喜びを伴う。「備後(広島県東部)守が死んだ。その後任は是非私めに」と元輔は、
誰(たれ)か又年経(へ)たる身を振り捨てて 吉備(きび)の中山(なかやま)越えんとすらん
(誰がまた己の高齢になったことを顧みず、遠い吉備の中山《岡山市吉備津》を越えて備後守として赴任しようというのか)
清原元輔(『元輔集』)
と歌う。備後国は大国なので、元輔も吉備の中山を越えたい一人だったのか。それとも生きるための醜い欲望を慨嘆したのか。
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