⛵9〕─1─折口信夫の「第一尚氏琉球王家、九州渡来説」。熊本編。〜No.26No.27No.28 

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 琉球文化には、中華文化(中国文化)よりも日本文化が色濃く残っている。
 つまり、琉球は中国より日本に近い。
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2024年3月15日18:20 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「沖縄の自衛隊基地内に墓がある「琉球王家」、九州からの渡来説を調べてみた…倭寇となった武士団が背景に
 かつて沖縄には琉球という独立王国があった。複数の王朝が興亡したが、沖縄を初めて統一した王家「第一尚氏」について、民俗学者折口信夫は「九州から沖縄に渡った一族の出身」という説を唱えた。沖縄と熊本の両県にその一族ゆかりの地があるときき、訪ねてみた。
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 大正から昭和にかけて活躍した折口は、国学院大や慶応義塾大で教授を務め、 釈迢空しゃくちょうくう の号で知られる詩人・歌人でもあった。柳田国男の弟子という側面もあり、日本の民俗学の基礎を築いたとも言われている。
 自衛隊の基地内にある琉球王家先祖の墓
航空自衛隊知念分屯基地の敷地内にある「佐敷ようどれ」
 沖縄本島南部にある航空自衛隊知念分屯基地。同基地は地対空ミサイルシステム「パトリオット」を運用している部隊だ。入り口の建物で手続きを終え、隊員の先導で基地内を進む。道路から脇に入ると、石で囲われた古い沖縄の墓があった。「佐敷ようどれ」と呼ばれる墓には、第一尚氏初代の 尚思紹(しょうししょう)王が眠っている。ようどれとは「夕どれ」と書き、夕方の波風が静まる時という意味だ。尚思紹王の息子である 尚しょう巴は志し 王は、15世紀に北山、中山、南山という三つの勢力に分かれていた沖縄を初めて統一した。「佐敷ようどれ」の近くにある佐敷上グスク(城)を拠点とし、次第に周囲を切り従えていったとされる。
 沖縄の城というと、首里城や 中城(なかぐすく)城、勝連城などが有名で、いずれも石垣で築かれた堅固な城だ。一方、佐敷上城は大きく異なる。石垣は見つかっておらず、土を盛り上げて防護壁(土塁)としていた。ほかにも沖縄には土塁で築かれた城はあるが、どちらかというと少数派だ。一方、日本の本土では戦国時代前半までは石垣より、土塁の城が圧倒的に多かった。石垣は主要な武器が弓から鉄砲に代わるとともに、石工などの築城の専門集団が誕生してから普及したためだ。ある意味、佐敷上城は本土の城に近い様相をしている。
 佐敷上城には月代宮(つきしろのみや)が建ち、第一尚氏の歴代王らを祭る
 月代宮の基礎部分に第一尚氏の歴代王や先祖の名前が書かれている
 共通する地名は「佐敷」、熊本県から渡海か
 折口によると、佐敷という地名は熊本県南部、現在の芦北町佐敷に由来するという。後醍醐天皇足利尊氏が対立した南北朝時代、佐敷には南朝の功臣、名和長年の一族がいた。長年その人は1336年、東寺合戦で戦死するが、子孫が肥後(熊本県)に移り住んでいて、八代市の八代城(古麓ふるもと城)を中心に、佐敷など周辺地域に一族が住んでいた。九州の南朝方は徐々に勢力を失い、最終的には名和一族も領地を失うのだが、それまでに九州を離れた者が沖縄本島にたどり着き、佐敷上城を拠点にしたと説いた。
 尚巴志王の父親である尚思紹王は 苗代なわしろ大親うふやー という別名も持ち、折口は 苗なわ は名和に、 代しろ は八代につながるとも推測している。
 ただ、残念ながら、折口の説は考古学的な裏付けがなく、あくまで推測の域を出ず、地元の歴史家からは評価されていない。とはいえ、荒唐無稽な説かというと、そうとも言い切れない側面もあるのだ。
 大里城趾公園から佐敷上城方面を臨む。尚巴志は、この島添大里城を攻略後、浦添などを統治していた中山王国に攻め込んだとされる
 第一尚氏が沖縄を統一したのは1429年だが、その前の時代、沖縄も含め、東アジアは激動の時代にあった。チンギスハーンが打ち建てたモンゴル帝国、このうち中国を領土としていた元が、朱元璋の明により滅んだのが1367年だ。元が衰退する頃から、明が政権を握ってからの時期、中国沿岸を荒らしまわったのが 倭寇わこう と呼ばれる人々だ。
 首里城の「守礼門」。第一尚氏第二尚氏ともに本拠地としたが、現在の姿になったのは第二尚氏の時代だ
 首里城那覇市の街並み。正殿は再建中で、2026年秋の完成を目指している
 九州各地の武士団が活躍、出自不明が多い琉球王家という背景も
 第一尚氏の後を継いだ第二尚氏が明治まで続いた。第一尚氏を滅ぼした第二尚氏の初代、尚円王の御後絵(鎌倉芳太郎撮影、沖縄県立芸術大学付属図書・芸術資料館所蔵)
 当時、九州から沖縄の海を舞台に貿易で活躍したのが、対馬壱岐五島列島や薩摩といった九州地方の武士集団であった。倭寇の中には彼らの姿もあったとされる。元が衰退する頃には、薩摩半島から奄美、沖縄を経由して中国に渡る航路が使われるようになる。事実、沖縄には倭寇関係の遺跡も存在している。九州の武士である名和一族が沖縄に渡った可能性もゼロではないと思われる。
 琉球の歴代王朝はその出自が定かでないものが多い。琉球統一前に浦添市周辺を統治した 舜天しゅんてん 王統は、源為朝の子孫という伝説があるほどだ。沖縄に伝わる記録では、第一尚氏は 伊平屋いへや 島、第二尚氏も 伊是名いぜな 島となぜか離島出身になっていて、やはり伝説の域を出ないこともあり、折口説も完全否定されずに残っている。
 第一尚氏は短命な王が続いたこともあり、最終的には部下であった第二尚氏に滅ぼされた。第二尚氏は江戸時代に島津氏の侵攻を受けるものの、明治維新まで王家として存続することになる。
 次回は、名和一族が統治した熊本を訪ねてみる。(デジタル編集部 松崎恵三)
 【佐敷ようどれ・佐敷上城 データ】
 ◆アクセス
 ◇那覇バスターミナルからバスで、南城市役所もしくは佐敷小学校前で下車。南城市が運行するNバスに乗り換えて「つきしろの街」下車後、佐敷ようどれのある航空自衛隊知念分屯基地まで徒歩約5分。佐敷上城は佐敷小学校前から徒歩約5分。
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 3月15日18:21 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「折口信夫が唱えた琉球王家の先祖の地?熊本・八代の古麓城と佐敷城を訪ねた
 民俗学者折口信夫は、沖縄を初めて統一した王家「第一尚氏」について「熊本県から沖縄県に渡った一族の出身」という説を唱えた。その一族がかつて統治していた熊本県内ゆかりの地を訪ねてみた。
 【動画】折口信夫が唱えた「琉球王家、九州渡来説」~熊本編~
 南朝方の九州主勢力だった名和氏が統治
 当時の八代城(古麓城)のふもとにたたずむ懐良親王墓所
 JR八代駅からタクシーで10分ほど走って低い山に囲まれた谷あいで降りた。小石が敷き詰められた道を進むと、石の柵で囲われた一角がある。後醍醐天皇の皇子、懐良(かねよし)(「かねなが」とも)親王の墓である。懐良親王墓所は九州内に複数あるが、宮内庁が指定しているのはここになる。
 懐良親王の図=菊池容斎(武保)著『前賢故実』巻之10,東陽堂=国立国会図書館デジタルコレクションより
 建武の新政(1333~1335年)の時、後醍醐天皇は国内各地に皇子を派遣し、その地に味方勢力を築こうとした。懐良親王征西大将軍として九州に送られた。肥後(熊本県)の豪族、菊池氏や阿蘇氏を味方にすると、足利尊氏と直義兄弟の対立などで北朝方が混乱する中、いくつかの戦いを経たのち、1361年には九州の拠点である大宰府を制圧。大宰府は1372年まで南朝が支配することになる。
 一時は大宰府を制圧も、懐良親王らは熊本に撤退
 その年に懐良親王らは室町幕府側の今川貞世らに追われ、熊本に撤退する。1391年には、懐良親王の後継者である良成親王、八代城主の名和顕興が降伏している。折口が主張する琉球王家「第一尚氏」につながるのは、この八代の名和氏になる。
 当時の八代城は山城で、懐良親王墓所を見下ろす山の中にある。尾根筋に複数の城(曲輪などで構成)が築かれ、総称として古麓城と呼ばれている。顕興の降伏後も、八代は名和氏が統治したが、室町時代以降は人吉を本拠とする相良氏との間で攻防を繰り返していく。
 八代には当時の城跡のほか、両親王を祭る八代宮も
 古(ふる)麓(もと)城に登ってみた。相良氏が統治した時期に新たに築城した部分もあり、写真の堀切は相良氏時代のものである。高い山ではないが、尾根筋に堀切を作って防御を固めるなど戦国時代の山城の姿を良く残している。
 尾根筋に残る古麓城跡の堀切
 一方、八代の市街地にも近世の八代城がある。こちらは加藤清正の息子が熊本藩主の時代(1622年竣工(しゅんこう))に築かれたもので、城の中には懐良親王と良成親王を祭る八代宮が建てられている。
 「第一尚氏」が沖縄で最初に統治した「佐敷」と同名の佐敷(熊本県芦北町)は、八代から肥薩おれんじ鉄道に乗って40分ほどの位置にある。名和氏が八代を支配していた時代、ここには一族の佐敷氏が統治していた。名和氏は、最終的に相良氏に敗れ、この地を去ることになる。もし、第一尚氏の先祖になるならば、南北朝時代懐良親王が九州で活躍した時期(1300年代)とかだろうか。
 交通の要衝だった佐敷、八代海につながる港も
 近世の佐敷城。一国一城令により石垣が崩された姿で残る
 佐敷には、加藤清正が築城した近世の佐敷城が残っている。この地は薩摩街道と人吉往還が交わる交通の要衝でもあった。豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に攻め込んだ文禄の役の年には、島津氏の家臣であった梅北国兼による反乱「梅北一揆」の舞台にもなっている。
 南の島津氏を抑える城として機能していたが、1615年の一国一城令により、廃城となった。近世の八代城が一国一城令の後も城として残ったのとは対照的であった。石垣が崩された形のまま残っている。島原の乱の影響で、一揆などに使われる可能性がある城は石垣などが崩されたのだ。
 佐敷城の西には八代海が広がり、天草諸島が見渡せた
 佐敷には今も港があり、古くから人吉、熊本や天草をつなぐ港として機能してきた。かつてはオランダの船が立ち寄ったこともあるという。城跡から西の方を望むと、八代海のさきに天草諸島が見渡せた。名和氏の一族は、ここから薩摩半島へ向かう船に乗り、沖縄にたどりついたのだろうか。(デジタル編集部 松崎恵三)
 【八代城 データ】
 ◆アクセス 懐良親王墓、古麓城跡へはJR八代駅からバスで宮地で下車。徒歩約10分で懐良親王墓。そこから古麓城跡へは徒歩約20分。八代城および八代宮は、同駅からバスで八代宮前下車すぐ。
 【佐敷城 データ】
 ◆アクセス 肥薩おれんじ鉄道佐敷駅から芦北町営「ふれあいツクールバス」で新町下車。徒歩約15分。
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