🗻4〕─3・B─大和王権の威光を知らしめる本州最西端の古墳。~No.13 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年3月14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「大和王権の威光を知らしめる古墳と出土品 本州最西端の古墳踏査報告
 本州の最西端の山口県で踏査をしました。やはり古墳は、海路と陸路の重要ポイントに堂々とありましたので報告いたします。
■時を越えて巡りあう古代の遺構
 私ごとですが、私は子供の頃に父親の転勤で山口市内に暮らしました。そこで出会ったのが小学校のマラソンコースにあった「白石茶臼山」と呼ばれる小高い丘から出土した石棺墓群でした。
 昭和43年のこと、宅地造成をしたときに石棺のふたにブルドーザーの歯が当たって発見されました。現地説明会に遊び気分で行ったのが、私に歴史の世界を探求させるという展開になるのです。小学生の私は小さな石棺模型を作って埋めては掘り返すという発掘ごっこをしていました(笑)。
 その後しばらくしてまた引っ越しましたので、その後の石棺墓群がどうなったのかは知りませんでしたが、発見当時のまま山口県立博物館の裏手の庭に移設再現されていることを知り、やっと先日、再会することができました。半世紀以上離れていた友に再会したような感激でした。
 正式には「白石茶臼山石棺墓群」と登録された弥生時代後期から古墳時代に移行する時期のもので、箱式石棺9基の史跡です。
 続いて同じく山口市内の中央部、湯田温泉のすぐ南にある「朝田墳墓群」を訪ねました。ここも前から行きたかったところなのですが、整備された新国道9号が走る上下線のトンネルの上にあるのでどこから近付けばいいのかわからず、「朝田墳墓群駐車場」という看板に従って維新百年記念公園に車を止めて古老に教えられた通りテクテク歩くと道が無くなり迷ってしまい、もう一度元に戻って自分の勘を頼りに探すとアプローチの階段にたどり着きました。古墳や史跡を訪ねる時に、こういうことは本当によくあります(笑)。
 こちらも高台に築かれた墳墓群で、国指定の史跡です。ここには弥生時代直葬墓から横穴式の古墳時代中期の小さな古墳まで、様々な墳丘が所狭しと肩を並べて造営されています。まさに弥生墓から古墳への過渡期を示している貴重な遺跡です。
 標高は40mほどだそうですが、東側を見下ろすと、旧国道9号の走る古代から重要な道が見えます。古代から重要な、瀬戸内と日本海を結ぶ幹線道路を支配した歴代の有力者一族がここに埋葬されているのでしょう。中には壺形棺や近畿に多い方形周溝墓など多彩な時代と地域性のある墳墓もあり、この西の端の地域にまで大和王権の勢力が大きくかかわっていることを実感します。
 それもそのはずで、山口県広島県境近くの柳井市には柳井茶臼山古墳という前方後円墳があります。4世紀末から5世紀初頭に築造された全長90mの前方後円墳です。山の尾根を削り出して整形している古いタイプの古墳ですが、ごつごつした葺石で全面を覆われ赤っぽい埴輪が全体をがっちり囲んでいます。
 尾根を削って造るという工法ですので全体の形が少しゆがんでいますが、間違いなく定型化された前方後円墳です。後円部と前方部にかなりの高低差があり、工法とデザインは同時代の畿内古墳に比べるとやや古い感じがしました。また全体を覆うように立てられている埴輪群は、ベンガラを塗っているので赤黒い印象です。埴輪自体は整備をする時に再現したものですから、実際にはもう少し地域性があるのではないかと思いますが、おそらく大和から工人を招いて指導させたはずですので、これも定型化されていたと思われます。
 そして出土した副葬品のなかで興味深いのは銅鏡です。画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)と単頭双胴怪獣鏡(たんとうそうどうかいじゅうきょう)、それに内行花文鏡(ないこうかもんきょう)ですが、このうち径が約45cmという国内最大の単頭双胴怪獣鏡は、大和で製作されたものだと考えられます。
 なぜなら中国で作られた鏡を元にしているので、理解できない漢字を丸い模様にして作っていたり、中国の神獣をよく理解していないと思われる図柄が見られるからです。さらにこの当時は鏡を分配して前方後円墳の築造を許し、その技術を指導することを同盟の証とする謎の4世紀の大和王権の手法と一致するからです。しかも超貴重な最上級の銅鏡なのです。
 この入り組んだ特徴を持つ瀬戸内最西端の良港である柳井周辺は、以前は長い間、熊毛地方と呼ばれています。室津半島も以前は熊毛半島と呼ばれており、そこには山口県最大の120mの前方後円墳白鳥(しらとり)古墳があり、ほかにも海を囲むように古墳が点在しています。
 この海域は、瀬戸内の伊予灘・周防灘に面し、関門海峡を抜ければ響灘から玄界灘、南に行けば豊後水道から日向灘へと抜ける海上交差点の最前線基地でもあります。九州を制圧し、大陸や半島に直接航路を結びたい大和王権にとって、絶対重要な場所であったことは間違いないでしょう。
 そしてこの古墳から見下ろせば美しい海が広がっているのです。そこに住む王の子孫や海上を行き交う船からも、この古墳は鮮やかに光を反射して見えていたことでしょう。古墳はその地域の交通の要衝に見えるように築造されたのだろうという定説を実感した踏査でした。
 柏木 宏之
   ・   ・   ・