☳29〕─2─済州の韓国人は生きる為に日本に密航していた。済州4・3事件。~No.103 

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 古代から、朝鮮半島を逃げ出した難民にとって日本列島は逃亡地であった。
 百済は日本より豊かだったが、統一新羅・高麗・李氏朝鮮は日本より貧しかった。
 日韓併合後、貧し朝鮮人は豊かな日本への民族大移動が始まった。
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 古代から、朝鮮半島や中国大陸から日本列島へ逃亡・避難・亡命した中国人や朝鮮人は数多くいた。
 明治時代まで、日本列島から朝鮮半島や中国大陸へ逃亡・避難・亡命した日本人はいなかった。
 大正時代からは、日本人のマルクス主義者・共産主義者は日本を逃げ出して中国やソ連に亡命していた。
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 2024年4月3日 YAHOO!JAPANニュース ハンギョレ新聞「生きるために済州を離れたのに、海が墓場になった…済州4・3、密航の実態
 密航を試みて取り締まりで摘発された事例も 「4・3の時期、1万人余りが日本に渡ったもよう」
 連合国最高司令官総司令部GHQ)が作成した韓国から日本への密航ルート。1949年1~6月に密航した韓国人は1327人(282隻)で、このうち済州道民は69人(3隻)となっている。同地図は、米国立公文書記録保管局(NARA)所蔵のGHQの文書を合成したもの
 済州(チェジュ)4・3抗争は済州の人々の人生を根本から覆した。生と死の境に立たされた済州の人々は死を逃れて島を脱出した。親や兄弟を失い、頼れるところもなく、失意と絶望の日々を送っていた人々も島を離れた。命がけで密航船に身を預けた人たちが行き着いたのは、日本の大阪だった。日本国内の4・3遺族は確認されているだけで850人あまり。およそ1千人を超えるものと推定される。慣れない土地で自らを鍛えながら根を下ろした人々は、今も4・3の記憶を胸に抱いて故郷に想いを馳せながら、「在日」として生きている。
 「済州を発って日本に向かっていた密航船が、日本の対馬近くに来て荒波に遭って破船し、乗客約40人のうち20人あまりが死亡したという悲報が届いた」
 4・3抗争当時、済州で発行された「済州新報」(1947年5月24日)は、対馬付近で海難事故に遭い、済州道民20人あまりが死亡した事実をこのように1段の記事で報じた。「密航船遭難で約20人が犠牲」という見出しの記事によると、密航船は5月15日に咸徳(ハムドク)浦口を出港し日本に向かう途中の20日頃、対馬近海で暴風雨により船が壊れ、惨事が起きた。死と貧困から逃れるために旅立った道が、二度と戻ることのできない道となった。
 以前ハンギョレのインタビューに応じたHさん(97、東京在住)は、1947年の3・1事件直後、警察から逃れて隠れ続け、密航船に乗った。ある日の夜、親戚の家に隠れていたHさんを母親が訪ねて来た。「私について来なさい。ここにいたら死ぬ。お前の兄さんが日本にいるから、食べてはいけるだろう」。母親は真夜中、息子を咸徳浦口から密航船に乗せた。それが親子の最後だった。Hさんの兄と甥は4・3抗争の時に犠牲になった。Hさんが密航した時期は、対馬付近で密航船が沈没し、約20人の済州島民が死亡した時期に近い。4・3抗争当時、生と死の狭間に立たされた彼らは、子の命を守るために財産を処分した親の手に引かれ、真夜中に小さな船の船倉に身を預けた。
 日本で暮らし植民地解放前後に韓国に戻った人々は、再び日本に渡った。社会的混乱の中で経済難が深刻な時期だった。米軍政は1945年12月から南海岸の多くの港で頻繁に行われる密航の取り締まりに乗り出し、翌年2月には5トン以上の船舶は全て米軍政に登録するようにしたが、密航を防ぐことはできなかった。
 「解放と独立は言葉だけで、希望はおろかどうやって暮らしていくかも漠然としており、食べ物もなく、職を求めてもままならず、再び祖国を離れ永別した倭国(日本)に戻ろうとする悲劇の現象」(釜山新聞、1946年8月22日付)が後を絶たなかった。「密航で再び日本に渡る同胞が毎日20~30人以上」(朝鮮日報、1946年1月30日付)もいた。
 しかし、密航を試みた多くの人々が取り締まりによって摘発された。日本政府の発表によると、1946年4月から1947年3月の間に、日本に密航して逮捕され送還された韓国人だけで2万6415人(独立新報、1947年4月24日付)にのぼり、逮捕を免れた数はこれよりはるかに多い。
 しかし、生きるための密航は死の道に繋がっていた。密航途中にも溺死者、餓死者が続出し、密航に成功しても取り締まりに摘発され、収容所に入れられた後、コレラなどで死亡した人もいた。朝鮮戦争直前の1950年3月、釜山市の影島(ヨンド)を出港した15人が乗った3トンの密航船が日本に向かう途中、対馬付近の海岸で暴風に遭い沈没し、済州道民など4人が死亡、11人が救助された。1953年3月には済州出身のCさん所有の春光号(47トン)が、1人当り1万6千円を受け取り密航者45人(男15人、女30人)を乗せて釜山港を出港したが、陸軍諜報隊に捕まったことあった。当時、逮捕された人たちの半分は高校生だった。
 連合国最高司令官総司令部GHQ)の文書によると、日本の警察は1949年の1年間に日本に到着した密航者数を、検挙者6630人、未検挙者2807人とし、密航船は520隻だと集計を出した。しかし、知られていない密航者の数を含めると、数はこれよりはるかに多いものと推定される。当時、日本の対馬警察の報告書には「韓国内の政治および思想の影響」、「経済的困窮」、「日本に居住する家族および親戚と一緒に暮らすため」、「密輸で金を稼ぐため」などの理由で韓国人の密航が増えているとの分析が記載された。対馬警察はまた、最近韓国内の密航斡旋(あっせん)業者の助けを借りて団体で密航が行われており、密航に1人当り5千~1万円を払っていると報告した。
 立命館大学のムン・ギョンス名誉教授は「在日韓国人の中には、韓国の国家暴力や戦争の現場を逃れて来た人がかなりいた。4・3の時期にも済州の人々が死と迫害を逃れて日本に渡ってきたが、その数は1万人余りと推定される」と語った。
 ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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