🎌3〕─1─日本の天皇は男系。世界の皇帝・国王は男系女系の両系。〜No.11No.12No.13 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・  
 日本天皇は、神話である。
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 日本は男系天皇、世界は男系女系の両系皇帝・国王。
 世界は、女系を排除し男系のみが即位する世襲天皇が理解できない。
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 日本国憲法は、国民の総意として天皇の存在を認めている。
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 日本天皇とは、祀り・祭りで祈りながら、対立と争いを鎮めて平和もたらし、敵意・憎悪・嫌悪・嫉妬などを祓い清めて安寧を与える存在である。
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 日本の皇室は、同民族和合・融合王朝で、なるべく武力を使わなず、話し合いや姻戚による穏健・穏便な統合で、全ての住民を臣下・臣民として受け入れ、人々を職業別の階層で区別した。
 世界の王家・帝室は、異民族征服・統一王朝で、武力で暴力的に建国し、征服地の住民に超えられない階級を押し付け、差別で社会秩序を維持し、下層階級を奴隷として使役した。
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 神道と仏教は、血と死を穢れとして恐れた。
 キリスト教ユダヤ教イスラム教と儒教は、聖の正統と俗の正当を貫く為ならば血と死を忌避するどころか奨励した。
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 古代日本で発展した地域は、朝鮮半島との交易ができる日本沿海の北九州と出雲であった。
 ヤマト王権は、困り果てた豪族達が談合してつくった寄り合い政権であって、強い意識を持った強力な連合政権ではなった。
 縄文人の子孫である倭人(古日本民族)は、弥生系渡来人によって引き起こされた弥生の大乱に辟易し、大乱を鎮め、殺し合う事止めようとした。
 ヤマト(奈良)を中心とした畿内地方の有力豪族達は、平和を取り戻し、安寧な世の中にするべく、寄り集まり、話し合いで、唯一人の統治者を決め、その人物に大王位を授けた。
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 黎明期は混乱し、安定して落ち着くまでには長い年月がかかる。
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 大王位を新設した初期は、野心的な有力豪族達は自分こそが大王に相応しいとして争いを起こし、幾人かの大王が生まれては消えた。
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 有力豪族達は大王位を巡る争いを封じ込める為に、合議して大王位を選挙制や能力制ではなく世襲制で繋ぐ事にした。
 選挙制(共和制)では、多数決で決める為に、多数派と複数の少数派とに四分五裂となり、大王位を巡る派閥闘争が生まれる危険がり、決まってからも遺恨が凝りとなって残る恐れがあり、それを避ける為には反対派・敵対派は根絶やしにする必要があった。
 例えば、共産主義マルクス主義)・ファシズム・ナチズムなどの全体主義体制。全体主義体制で女性の指導者はいない。
 ローマ・カトリック教会は、選挙制で教皇を選んでいる。教皇は男性のみで女性はいないし、枢機卿大司教・大司祭などにも女性はいない。
 能力制(独裁制専制君主制)では、弱肉強食の実力主義となり、猿山の老いたボスザルに対して2番手・3番手の若いオスザルが挑戦して争いが絶えなくなる恐れがあったた。その為に、挑戦しそうな相手は根絶やしにした。
 例えば、中華帝国。中華皇帝は、則天武后以外は全て男性であった。
 世襲制封建制)は、特殊な血統・血筋を正統とする特定の家系・一族・家が大王位を独占の為に争いは起きづらい、と考えた。
 選挙制も能力制も、男性優先で、女性は如何なる権利も与えられず男性の所有物とされた。
 ヤマト大王家以外の如何なる勢力から簒奪者を出さない事、
 争い・戦いの原因になる、赤の他人の僭主・ニセ大王・自称大王を認めない事である。
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 宗教や哲学・思想・主義主張の世界では、男性上位・女性下位、男尊女卑が常識であった。
 女性蔑視の最たるのが儒教であった。
 宗教における主神は男性神が大半で、女性神は男性神の下に置かれた。
 哲学・思想・主義主張が説く人間とは、男性であって女性ではない。
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 大王世襲家は、有力豪族の中でも野心を抱くことがなさそうな領地が狭く領民が少ない弱小豪族から選ばれ、俗世な政治権力を弱め神聖な宗教権威をたかめ、神聖不可侵な中立な存在として政治や争いの場から遠ざけた。
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 政治権力を独占したい有力豪族達にとって、積極的に自己主張する強いリーダーの大王は扱いづらいとして嫌い、消極的で自己主張しない大人しく真面目な大王を好み擁立した。
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 大王に祭り上げられた家系・一族・家には、宗教的神秘的な霊力があるとされた。
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 政治・軍事・外交は、有力豪族達が合議で決め、最後に大王が裁可した。 
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 有力豪族達は、大王家の私有財産を認めたが私兵・軍隊を持つ事を認めなかった。
 神輿の住人は、ただ担がれて生きていればよく、自分で歩く事はない、と言う事で。
 贅沢を与えたが、それ以外の人権や自由など一切合切を認めなかった。
 その為、大王家は自分の身を守る難攻不落の城壁で囲まれ、手勢が守る堅牢な宮殿・御殿を造る事ができなかった。
 それが、無防備な京都御所である。
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中華思想を渡来し、同時に中華帝国や半島諸王朝からの侵略を恐れたヤマト王権倭国の独立を守るべく、半島諸王の上に立ち中華皇帝と並び立つ存在として天皇位と日本国名を宣言し、日本独自の暦(元号)を宣布した。
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 神聖不可侵の根拠とされたのが、長江文明の流れを汲む高天原神話・天孫降臨神話・日本中心神話であった。
 天皇の正統性は、最高神である女性神天照大神伊勢神宮)からの特殊な血筋を受け継ぐ特別な家系・一族・家とされた。
 祖先神である天皇霊を祀れるのは、正統な血筋を引いた子孫だけである。
 子孫は世襲制であって、選挙制や能力制で選ばれた他人ではない。
 日本の八百万の神々の正統性は、ただ一つの天皇神話に由来し、現天皇・皇室があってこそ存在する。
 現天皇・皇室がなくなったら、日本民族が信仰してきた八百万の神々は消えてなくなる。
 つまり、反宗教無神論共産主義マルクス主義)が使命とする「神殺し」である。
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 天皇世襲制の正統性とは、皇統と血統は天照大神に繋がる血筋であった。
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 血統には、男系と女系がある。
 女系では、皇女の、嫁ぎ先の豪族が女系を根拠に継承権を要求すれば争いの元になり、婿になった有力豪族が自分の子供を大王に即位さ外戚として政治権力を持つ他の有力豪族や危険性があった。
 赤の他人の血を、神聖不可侵の血筋に混入させる事は混乱・争い・戦いの原因になる為に避けねばならなかった。
 もし、女系継承権を認めれば、外戚となった他の豪族が同じように女系を根拠に継承権を要求して争いを起こす危険性があった。
 ゆえに、外戚の力を抑える為に女系は継承権から排除され、皇室を出て有力豪族に嫁いだ皇女から継承権と皇籍を剥奪して臣下とした。
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 継承権を持つ皇族は、男系だけであった。
 が、男系でも皇族家・宮家が複数存在し、それら全ての皇子・皇女に継承権を認めれば争いの元になる。
 そこで、継承権を持つ少数の親王内親王と持たない多数の皇子・皇女に分けた。
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 男系親王家でも兄弟が生まれる以上、骨肉の争いとして親王内親王による継承権問題で争いが起きる可能性があった。
 天皇継承は、兄弟継承から実子継承に代わっていった。
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 皇位継承権問題が最終的に解決したのは、南北朝の争乱を鎮めた室町幕府になってからである。
 万世一系男系天皇(直系長子相続)制度が定まるまでに、約1000年もの気が遠くなるような長い時間が必要であった。
 祖先達は、民族と国に平和と安寧をもたらす為には天皇を残す事が最優先として、血を流し、命を犠牲にした。
 故に、生きた伝統文化=古代文明・古代文化なのである。
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 祖先達は、皇位継承を単純に簡潔に一本化する事が争いを起こさない秘訣だと自分達の経験から、叡智の結晶として神聖不可侵の万世一系男系天皇(直系長子相続)制度を生み出した。
 ゆえに、天皇位とは、政治制度や宗教制度ではなく家族制度として守られてきた。
 その根拠は、祖先神・氏神の人神崇拝である。
 祖先神・氏神の人神崇拝は、ローカルな家族内宗教であって、民族宗教や国家宗教ではなく普遍宗教でもない。
 最高神である女性神天照大神を祀れるには、正統な直系家族のみであり、それは男系でって女系ではない。
 祖先神・氏神の人神崇拝とは、血縁内信仰であって、血縁外信仰ではない。
 故に、日本神道には神への崇拝はあっても神への信仰はない。
 日本民族日本人は、天皇を神の裔として崇拝したのであって、神として信仰したわけではない。
 現人神とは、民族固有の伝統文化である。
 これは日本独自の象徴君主制度で、他に類例はない。
 だが、近代的天皇制度への変更の為に、明治天皇ドイツ帝国皇帝を、昭和天皇はイギリス国王を手本として見習った。
 日本のグローバル化の始まりである。
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 皇室か更なる開かれた皇室になる為に、は西洋の王族のように外国人との結婚を考える必要がある。
 天皇の実母は、民間人はもちろん外国人がなった先例がある。
 桓武天皇の母親は、百済帰化人の子孫である髙野新笠である。
 将来、内親王や皇女が外国人男性と結婚してもおかしくはない。
 戦前に、宮家の皇女が満州国皇帝の弟殿下や朝鮮国王と結婚した先例がある。
 もし、女系相続を認めれば外国人男性との間に生まれた子供が天皇に即位するかもしれない。
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 日本の近代化は、北から侵略してくるロシアから如何にして日本国を防衛するかが緊急課題であった。
 いつの時代でも、日本の変化は周辺諸国の日本侵略という東アジア情勢・国際情勢が原因で起きていた。
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 日本の幸運は、中華帝国や朝鮮諸王朝が、皇位継承や渡来人反乱などに軍事介入してこなかった事である。
 何故か、日本民族が一丸となって日本天皇と日本国を守り、日本天皇と日本国を敵国に売るような裏切り・利敵行為をしなかったからである。
 ただし、古代・奈良時代までは、自分が日本を統治者になる為に日本天皇と日本国を中華帝国や朝鮮諸王朝に売り渡して反乱を起こした反天皇反日的日本人が幾人もいた。
 日本が最も恐れたのは、そうした内部・国内に潜んで暗躍する反天皇反日的日本人であった。
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 何故、日本が和合・融合王朝=天皇制度を築いたのか。
 それは、中国や朝鮮を外敵として認識し、外敵の侵略という危機意識を持ったからである。
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 天皇世襲制において、私有資産は女性相続であった。
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 日本には、俗世の私欲強欲な政治権力、宗教権威、神聖な無私無欲な天皇の御威光が三竦(すく)みとして存在していた。
 天皇の御威光とは、貧しき庶民、差別された芸能の民・部落民、虐げられた賤民など下層民達の心の支え、精神の拠り所であった。
 それ故に、命も要らぬ・金も要らぬ・地位も要らぬ、名誉だけ授けてくれればそれだけで本望・本懐として、天皇・皇族・皇室を命を捨てて守ってきたのが下層民達であった。
 下層民達にとって天皇・皇室は、心であり志であり気概であった。
 差別され迫害されていたとはいえ、昔の賤民・部落民と現代の部落民・同和・部落解放同盟とは別の日本人である。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺しようとつけ狙っていた。
 事実、日本を歴史には昭和天皇殺害失敗事件や皇族殺害未遂事件が数多く存在する。
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 数百万人、数千万人、それ以上の日本民族日本人が、現在の万世一系男系天皇制度を安定させる為に命を捧げた。
 それは戦前まで約2000年間受け継がれ、命を捧げた祖先達の念の象徴が靖国神社である。
 だから、祖先の念いを知る日本民族日本人は戦場で「天皇陛下バンザイ!」と叫んで死んでいった。
 現代日本現代日本人から、そうした祖先の念い・心・志・気概が急速に消えうせつつある。
 その証拠が、靖国神社問題である。
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 昭和天皇は、平和主義者であり人道主義者として、数々の歴史的人道貢献に関与した。
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 日本国憲法の隠れた意図は、天皇制度の廃絶、天皇・皇室の消滅である。
 その為に、皇室典範日本国憲法の下に置き、直系宮家以外の皇族から皇籍を剥奪して皇室から追放し、皇室の私有財産を没収して皇室を国家予算の一部に組み込んだ。
 護憲派はその為に活動している。
 戦後教育は、隠された意図を実現させる為に、日本民族日本人から天皇への好意的意識を消し去り、むしろ憎悪と敵意あるいは無関心を子供達に植え付ける為に行われてきた。
 それが、有りもしない天皇の戦争責任や戦争犯罪であり、日本民族日本人は生まれながらにして好戦的で人殺しを好む邪悪で凶暴な重犯罪人間だ、である。
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 万世一系男系天皇を倒そうとする善意の仮面かぶった悪意の勢力は国内外に存在し、現代ではジェンダー平等・男女同権・女性権利向上・人権擁護などである。
 そうした反天皇勢力が目指しているのが、女系天皇女性天皇の擁立と女系宮家の創設である。
 ジェンダー平等・男女同権・女性権利向上・人権擁護に対して、日本・天皇・皇室は鈍感であり、世界・王家は敏感である。
 レディー・ファーストやウーマンリブは、世界では関心が高いが、日本では無関心である。
 日本は、男尊女卑・家父長・男性絶対で女性の地位は低く、社会や会社で男性に比べて差別され冷遇されている。
 日本人女性は、日本人男性よりもはるかに賢くて優れている。
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 現代日本で70%以上の世論・民意は、多分歴史を知った上で女系相続を認め、女系天皇の即位と女系宮家の創設を支持している。
 現代日本人が求める天皇像は、小綺麗に飾られた人形であり、自分が思い描く理想像であって、伝統的天皇の存続を本心から望んでいるわけではない。
 それが分かるのが、SNSやLINEなどの呟きである。
 そして、昭和天皇肖像画御真影を燃やしその灰を踏めつける行為を芸術表現と容認している。
 この傾向は、高得点を取った優秀な高学歴出身知的エリート達に多い。
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 国際的反天皇反日勢力は、国連など国際機関の場で天皇を窮地に追い込む活動を活発化させている。
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 人間や生物に寿命があるように、国家や民族にも寿命がある。
 今、日本天皇家・日本国・日本民族の寿命が尽きようとしているのかもしらい。
 その寿命を終わらせようとしているのが、日本国民日本人であるといえるのかもしれない。
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 悪人は甘い言葉を囁き、善人は厳しい忠告をする。
 悪人は、自分は悪人ではなく、善人であり友人だとにこやかに微笑みながら優しく語りかけてくる。
 その意味で、日本には悪人が増えている。
 その証拠が、オレオレ詐欺、あおり運転、イジメ・意地悪・嫌がらせ、虐待などの急増である。
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 2019年11月1日号 週刊朝日「令和時代の新しい象徴天皇とは?
 キーワードは多様性と国際性
 世界が注目する、新天皇が即位を内外に宣言する。『即位礼正殿の儀』。令和時代の新しい『象徴天皇』の姿?待ったなしの皇位継承権問題と皇室典範改正の行方、靖国神社との距離は?米国の天皇制研究第一人者のケネス・ルオフ氏が特別寄稿した。
 多様性の進展と国家の統一
 ……
 信頼できる統計学者によると、控えめに見積もっても、日本の人口はこれから数十年のあいだに33%減少しそうだ。
 ……
 だが、すべからく日本人は次の現実に直面することになるだろう。まず、日本の出生率が突然劇的に上向きになって、人口減少問題が解決されることは絶対にあり得ない。人口減少はすでに生じており、その度合いはまさに年を追うごとに大きくなっている。したがって、劇的に人口減少と、そのもたらす結果を緩和するには移民を受けいれるるほかないだろう。
 日本社会の多様性はエキサイティングで、さまざまな人に利益をもたらしうる。たとえば日本では、障がい者が公共施設にアクセスできるようインフラが整備されたりして、全般的になにもかも便利になろうとしている。日本がより住みやすい場所になりつつあるのは、たしかではないだろうか。
 同時に、多様性のなかから統一性を築くには、さらなる努力やこれまでとは異なる戦略が求められる。日本の象徴天皇制は日本独特のものと思われがちだが、世界の象徴君主制(イギリスやスペイン、オランダ、その他)とさほど変わらない。だいじなのは皇室をグローバルな脈絡でとらえることだ。象徴王室をもつどの国民国家でも、王室の最大の役割は国家の統一を維持するよう努めることとされる。徳仁天皇は日本の多様性に応じて国家の統一を維持していくには新たなアプローチが必要だと指摘している。な根記入れる外国人を含め、次第に多様化する人びとのなかで統一性を構築するために、天皇と皇后は新たな象徴的行動を追求するとみてようだろう」
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  WEB歴史街道
 日本史において、天皇はいかなる存在だったか【古代~応仁の乱編】
 2019年05月23日 公開
 河合敦(歴史研究家)
 天皇という存在を読み解く鍵は、激動の時代にこそあるのでは?
 現在発売中の月刊誌『歴史街道』6月号では、『「天皇と日本史」の謎』という特集を組み、天皇が戦乱といかに向き合ったかを探っている。しかし、「天皇と日本史というと、少し難しそう…」という方のために、これだけは押さえておきたい天皇と日本史の関係について、歴史研究家の河合敦氏に解説していただこう。まずは、古代から応仁の乱ごろまでをご紹介します。
 河合敦 Kawai Atsushi
 歴史研究家。昭和40年(1965)、東京都生まれ。第17回郷土史研究賞優秀賞、 第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。高校の日本史教師を経て、現在、多摩大学客員教授。 著書に『読めばすっきり! よくわかる天皇家の歴史』など、近著に『旅する歴史家』 『テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史』がある。
 「大王」から「天皇」へ
 災害等の被災地をお見舞いする皇族の方々の姿を見て、天皇という存在を身近に感じる方も多いでしょう。
 また、「令和」という新たな時代を迎え、天皇について考える人もいることでしょう。
しかし、「日本人にとって天皇という存在がいかなるものなのか」と問われると、答えに窮してしまう人は少なくないはずです。
 ある面で、日本史は天皇の歴史と言ってもいいかもしれません。天皇は政治的な実権を握り続けたわけではありませんが、天皇なくして、日本の為政者は権力を維持できなかったからです。
 ここでは、天皇という存在を考えるヒントとして、「天皇と日本史」の流れを解説していきましょう。
 まず3世紀後半あたりに、現在の奈良県にあたる大和地方を中心とする畿内政治勢力によって、ヤマト政権(大和朝廷倭王権)が成立し、四世紀中頃までには東北地方中部まで、勢力を広げたと考えられます。
 ヤマト政権は近畿地方を中心とする豪族たちの連合政権で、そのリーダーが「大王(おおきみ)」、のちの天皇となります。大王については様々な説があり、呪術を掌る司祭者的存在として豪族に擁立されたとも、当初は複数の豪族が交代で大王を務めたともいわれます。
 やがて、全国を平定していく中で、天皇は司祭者から、武人的な性格へと変化していきました。古墳の副葬品から、それが窺えるのです。
 現在の歴史学の世界では、『日本書紀』『古事記』の記述をすべて史実とするのは難しいとされ、神武天皇から始まる歴代天皇も、どこからが実在の人物とするかは、様々な議論があり、定まっていません。
 いずれにしても、古代において天皇が強大な権力を持っていたかというと、そうではありません。七世紀前半頃までは、地方を平定していきつつも、そのまま地方豪族に民の支配を任せているからです。豪族を強力に支配するというより、豪族の上に立つ象徴的な存在だったといえるかもしれません。
 しかし大化元年(645)の大化改新を機に、天皇の権力は徐々に強まっていきます。
中国に隋・唐という強大な中央集権国家が成立したことで、「侵略され支配を受けるのでは」という危機感が国内に高まり、唐のように天皇を中心とした中央集権化を進めようという動きが出てくるのです。
 その中で特筆すべきは、天武元年(672)の壬申の乱でしょう。大海人皇子(のちの天武天皇)が武力によって近江朝を倒し、強大な権力を手にしたことで、中央集権化が急に進んでいくこととなるのです。
 皇族を上位とする新たな氏姓制度である八色の姓の制定、豪族の私有民を禁じ所有地の一部を公収する公地公民、富本銭という貨幣の鋳造、国史の編纂事業も開始されました。
天皇」の称号や「日本」の国号も、天武の時代に用いられるようになったといわれます。
様々な見方がありますが、この天武の時代に、日本は大きく動き出したと位置づけられるのではないでしょうか。
 天武の後は、天皇の権力が比較的強い時代が続きます。とくに桓武天皇平城天皇嵯峨天皇など、平安初期の天皇は、強い権限をもって、親政を行ないました。
 一方で、奈良時代から藤原氏(北家)の力が強まり、平安中期になると、天皇外戚(母方の親戚)の地位を独占するようになります。
 その結果、9世紀後半から、藤原氏の当主が外戚として摂政や関白となり、天皇を奉じて政治を主宰する摂関政治を始めます。これは、平安時代の通い婚という結婚制度が関係しています。貴族の夫婦は同居せず、天皇の皇子らも母方の家で育てられました。
 これによって、天皇摂関家の影響下に置かれ、あまり表に出なくなり、朝廷の象徴的な存在となっていくのです。
 武士の台頭と皇統の分裂
 摂関政治は、11世紀後半、転機を迎えます。治暦4年(1068)、170年ぶりに摂関家外戚としない後三条天皇が即位。後三条摂関家に遠慮なく政治を行なったため、事実上、摂関政治は終焉しました。
 後三条が在位わずか五年で世を去ると、その第一皇子・白河天皇が即位します。
すると白河は、応徳3年(1086)、僅か8歳の我が子・堀河天皇に譲位。ところが慣例を破り、白河は上皇となっても権力を手放しませんでした。
 自らの御所に財産を管理する院庁を開き、朝廷の太政官国司などに院宣上皇の命令文)をくだし、有能な近臣を集めて政務に大きく関与するようになったのです。
 これが院政で、以降、鳥羽、後白河、後鳥羽にいたるまで、約百年間続くことになります。
 白河は、異母弟の輔仁親王に皇統を渡したくなかったために、この異例の政治形態で権力を握り続けたと考えられます。
 また白河は、武勇にすぐれた武士を引き立てて、北面の武士という親衛隊を組織しました。このような軍事力を持ったことも、院政を可能にした一因ではないでしょうか。
 北面の武士の中には、平清盛の祖父・平正盛もいて、やがて院政下で力を蓄えた平家が、台頭することとなります。
 そして、保元の乱平治の乱を経ることで、武士の世となり、平家を倒した源氏によって、初の武家政権である鎌倉幕府が樹立されるのです。ただし、幕府の支配は当初、西国にまで及んでおらず、朝廷と幕府で権力を二分するかたちでした。
 この関係を大きく変えたのが、承久3年(1221)の承久の乱です。この戦いに敗れた後鳥羽上皇は配流され、以後、朝廷は幕府の介入を受けるようになり、実質的に天皇も幕府の意向で決まる状態になりました。ここに、天皇は政治的な権力を失うことになります。
 もっとも、権力は失っても、天皇の権威は失われたわけではありません。幕府は政権維持のために、源氏の血統が3代で途絶えてしまうと、摂関家、そして天皇の血筋に連なる 人物を、将軍に祀り上げ続けました。
 鎌倉中期、天皇家を二分する出来事が起きます。文永9年(1272)、後嵯峨法皇が亡くなった後、天皇家持明院統大覚寺統に分裂して、皇位をめぐって争うようになります。これが後に、南北朝の争乱にも関わっていくのです。
 簒奪の危機、そして財政逼迫へ
 文保2年(1318)、大覚寺統後醍醐天皇が即位します。やがて親政を始めた後醍醐は、倒幕を目指すようになりました。これは当時、朱子学が日本に入ってきたことが影響したとの説もあります。
 朱子学には「君臣の名分を正して、絶対王権を確立する」、「覇者ではなく王者が政治をとるべき」という考えがあります。これを突き詰めると、「天皇が直接、国政を見るべき」との結論にいたります。
 実際にそのように思ったかはわかりませんが、ともかく後醍醐は執念で幕府を崩壊にいたらしめ、元弘3年(1333)、建武の新政を始めました。
 ところが、政権は僅か2年で、足利尊氏の離反を招きます。あまりに独裁的な手法により、武家だけでなく公家からも反発され、尊氏による室町幕府樹立へと繫がっていくのです。
 尊氏が京都を占領し、持明院統光明天皇を擁立すると、後醍醐は吉野に逃れて南朝を開きました。こうして南北朝時代を迎えますが、元中9年(1392)、室町幕府の3代将軍・足利義満の手によって、合一されます。
 これは天皇家にとって大きな出来事ですが、新たな危機が迫っていました。
 足利義満は長男の義持を将軍とし、さらに次男の義嗣を天皇にして、自身は公武の上に君臨し、天皇家を簒奪しようとしたとの説があるからです。
 しかし応永15年(1408)、義満が急死。後を継いだ四代将軍・義持にはまったく簒奪の意志はなく、しかも、朝廷の政務を後小松天皇と公家たちに一任しました。
 こうして危機を脱したかに見える天皇家ですが、応仁元年(1467)に応仁の乱が起きると、京都の市街地が焦土となり、大変なことになりました。
 当時の朝廷は、幕府の保護をうけているような状況でしたが、乱によって幕府は衰退し、貴族も地方に避難してしまいます。
 これによって朝廷の財政は逼迫し、明応9年(1500)に後土御門天皇が亡くなった際には、43日後に、ようやく葬儀が執り行なわれるほどでした。
 さらに言えば、その後の後柏原天皇即位式を挙行できたのは、何と、天皇になってから22年目のこと。この頃が、天皇家にとって、一番大変な時期だったといえるかもしれません。
 ※本稿は、歴史街道2019年6月号特集『「天皇と日本史」の謎』より、一部を抜粋、編集したものです。

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 日本人は歴史が好きである、はウソである。
 現代日本人は歴史が嫌いである、は本当である。
 その傾向は、グローバルを志向する高学歴出身知的エリートに多い。
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 グローバルは、世界を単一化・画一化・同一化する為に、多種多様なローカルを消滅させていく。
 人類史・世界史・大陸史において、数多くのローカルが滅亡に追い込まれた。
 日本は、ローカルであってグローバルではない。
 アジアのグローバルには、中華=中国とインドの2つが存在し、アジアはその2つにの何れかに属する事で存在していた。
 日本は、その2つのグローバルから距離を置き、2つのグローバルから利用できるものは取り入れ、利用できないものは敬して遠ざけて排除してきた。
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 日本天皇は、有りと有らゆる争いを止め、対立やいがみ合いを解消させ、憎しみを鎮める為に生まれた存在である。
   ・   ・   ・   
 天皇とは、天皇家の世帯主であり、皇室の家長であり、皇族に繋がる一族の族長であり、祖先神・氏神の祭祀を執り行うである。
 つまり、身内であって他人ではない。
 それが、男系と女系に違いである。
 女系とは、他家に嫁いだ者であって、真の身内ではない。
 女系天皇を認めるという事は、身内でもない者を世帯主・家長・族長・総神主・氏子代表にする事である。
 そこに、制度としての正当性はあっても、家族・身内としての正統性はない。
   ・   ・   ・   
 国民世論の過半数以上が、理(ことわり)を理解した上で、天皇の存在を認め、女系天皇即位・女系宮家新設を認めている。
 男系派は少数派で、女系派は多数派である。
 日本国憲法は、国民の総意として天皇の存在を認めている。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、家・家庭・家族に何らの価値を持たない。
 家族であっても他人として、祖父母・父母・私・夫婦・子供・孫は細切れとなって、助け合わず・依存せず・頼らず、自分以外を切り捨て、個々銘々で自分勝手に生きようとしている。
   ・   ・   ・   
 世界史において、宗教は異端者や異教徒に対する殺戮を繰り返したが、それ以上に共産主義者マルクス主義)は宗教や民族、女性や子供に関係なく大虐殺を行っていた。
 日本における、キリスト教徒は1%であるが、共産主義マルクス主義に同調する日本人が数百万人存在する。
   ・   ・   ・   
 日本文明は、揚子江流域で栄えた長江文明少数民族)の後継であって、黄河流域で興り中華世界を征服した黄河文明(漢族系中国人・朝鮮人)とは違う。
 日本文明は、日本天皇を生み出し、独自の元号と度量衡を定めた。
 中華文明は、中華皇帝を即位させ、世界共通の元号と度量衡を定めそして広めた。
 朝鮮は、中華帝国内国家としてを、無条件で中華文明を受け入れた。
   ・   ・   ・   
 日本列島は、中国大陸や朝鮮半島で弱肉強食の生存競争に負けた弱者や政争・戦争などで敗れた敗北者が難民として逃げ込んできていた逃避地であった。
 日本天皇大和朝廷・日本国は、そうした避難者や難民を大量に受け入れていた。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人・琉球人・アイヌ人の祖先は縄文人である。
 縄文人は、南方系海洋民(釣り針・素潜り文化)、揚子江流域民(長江文明水田稲作文化)、北方系山野民(縫い針文化)、西方遊牧民黄河文明・麦作・遊牧)が日本列島に流れ着き・漂着して、乱婚を繰り返してきた混血の雑種民族である。
 縄文人は、日本列島を中心として、南は琉球(沖縄)、北は北方領土四島・千島列島・カムチャツカ半島樺太、西は朝鮮半島南部に広く住み、日本海を主要航路として舟で移動していた。
   ・   ・   ・   
 日本が朝鮮半島で戦争をしたのは、領土拡大の侵略戦争ではなく、半島南部に住んでいた同胞・倭族を北からの侵略から守る為の自衛戦争であった。
   ・   ・   ・   
 日本の朝鮮半島・中国大陸における戦争は、遺伝子・DNAに組み込まれた生存競争の戦いである。
 つまり、古代に繰り広げられた、北の黄河文明・麦作遊牧文化の侵略に対する南の長江文明水田稲作文化の防衛戦争であった。
 中国文明である黄河文明・麦作遊牧文化は、領土拡大の強欲さを持っていたし、現代においてもその傾向を強く持っている。
   ・   ・   ・   
 世界は、世襲制ではなく、多様性で開放的である。
 世界の皇帝や王侯に即位できるのは、血の繋がった自国民だけではなく血の繋がらない他国民でも可能である。
 国を動かすリーダーとして人格や才能に優れた人が求められ、血筋や家柄が良くても無能な人間は排除された。
 その意味で、民衆はリーダーを国内外から選んだ。
 現イギリス王家の祖先は、ドイツ人である。
 他国民が皇帝や王侯に即位できる正当な根拠は、武力で征服するか、女系相続として婿養子に入る事である。
 スペイン国王には、ドイツ人が即位した。
 ロシア帝国の女帝は、ドイツ人であった。
 現スウェーデン国王の祖先は、フランス人である。
 多神教国家インドの初代皇帝は、一神教プロテスタントイギリス国教会)のイギリス王国ヴィクトリア女王であった。
 メキシコ帝国皇帝は、スペイン人からフランス人に代わった。
 歴代中国帝国で、秦、漢、宋、明は黄河流域漢族が樹立した中国王朝であったが、それ以外の王朝は西方系か北方系の異民族族が侵略し樹立した征服王朝である。
   ・   ・   ・   
 日本は、世襲制で、一様性で閉鎖的である。
 日本の天皇が世界の非常識である理由は、皇室は征服者ではなかった事、女系相続を廃除し万世一系男系天皇(長子相続)を死守してきたからである。
 万世一系男系天皇の正統性は、特殊な血統・血筋を正統な相続とする特別な家系に限定したからである。
 特殊な血統・血筋の正統とは、高天原神話・天孫降臨神話・日本中心神話に基づく、最高神である天照大神伊勢神宮)の正しく血を引く事である。
   ・   ・   ・   
 日本天皇家・皇室は、外国から侵略してきた征服王朝ではない。
 日本天皇家・皇室のルーツは、弥生時代より古い縄文時代に遡る。
 日本民族日本人のルーツは、琉球人やアイヌ人同様に縄文人である。
 日本民族日本人・琉球人・アイヌ人の宗教は、縄文人の宗教から受け継がれている。
 その代表的な祭祀が、皇室祭祀である。
   ・   ・   ・   
 世界の皇帝や王侯は、絶対神・神からの王権神授説・帝王神権説あるいは契約説を正統性としている。
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 宗教を持った国の元首である大統領、首相、総統は、例外なく神に誓って就任している。
 宗教を持たない反宗教無神論共産主義マルクス主義)の共和国は、権力闘争・政治闘争に勝ち上がって元首の座に就任し、神を抹殺した。
 それ故に、共産主義マルクス主義)共和国では大虐殺が絶えない。
   ・   ・   ・   
 日本では天皇が神聖不可侵として不動不変の存在であったお陰で、世界で起きていた宗教や哲学・思想・主義主張による陰惨で地獄の様な大虐殺は起きなかった。
 天皇の下で、民族・国民は臣民として平等であり、国土(領土・領海・領空)は一つであった。
 日本民族・日本国民は他国の奴隷ではなく、国土は他国の所有物ではなかった。
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 日本天皇位には、政治・武力・経済力・宗教力を排除し、特殊な血統・血筋を正統な相続とする特別な家系である以上、同じ日本人であっても他国の人間であっても即位できない。
 天皇を嫌う日本人や反天皇反日的日本人は、誰でも天皇に即位できないのは、法の前の平等に違反し、人権を無視する行為であると訴え。
 即位の条件を、閉ざされた血統・血筋という正統性から、万民に開かれた皇統を正当性に変更を求めている。
 日本国憲法が目指す最終的天皇像とは、神話に基ずく血筋・血統の正統性ではなく生物科学的な皇統を正当性とする事である。
 それが、「国民の総意」である。
 国民が天皇はいらないと言えば、天皇は消えてなくなる。
 天皇は要らないと言う日本人は、日本民族固有の歴史・伝統・文化・宗教・習慣・慣習・風習そして日本国語に一切価値を見出さない人間である。
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☯7〕─1─東アジアは、儒学や道教ではなく韓非子(かんぴし)や孫子で動いている。〜No.12No.13No.14 ② 

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 戦後教育を受けた現代日本人は、儒教は理解できるが道教は理解できないし、ましてや韓非子孫子は理解不能である。
 つまり、今の日本人は昔の日本人に比べて全ての面で底が浅い「良い子のお利口さん」である。
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 韓非子「遠い国との交際とその援助を頼りにして、近隣の国をなおざりにし、強大な国の援助に期待して、近接した国を侮るという場合は、その国は滅びるであろう」
 「力も弱いのに強国をはばからず、無礼な態度で隣の大国を侮り、貪欲のへそ曲がりで外交もまずいという場合は、その国は滅びるであろう」
 「君主が好んでかってな知恵をふるって法をゆがめ、時には公法のなかに私情をすりこませ、法律禁制がよく変わって、政令がたびたび出されるという場合は、その国は滅びるであろう」
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🏹12〕─1─日本の近代化・遵法精神への端緒は御成敗式目である。〜No.32No.33 

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 武士とは、御恩とご奉公である。
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 日本は、性善説として騙す人間が悪い。
 中国や朝鮮は、性悪説として騙される人間が悪い。
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 日本人の遵法精神は、鎌倉武士の御成敗式目から始まり、徳川家康武家諸法度禁中並公家諸法度・法度宮公家諸法度・寺院法度・その他によって定着した。
 日本は数多くの法律・法度・掟・定めなどで雁字搦めに支配された、閉塞した、閉鎖された、息苦しい社会であった。
 それに比べて、中国や朝鮮には個の自由があり個人の解釈や個人の裁量が許されていた。
 日本は公・世間に支配され、中国や朝鮮は公がなく私・個が支配していた。
 その結果として、戦争・内戦、暴動・強奪、虐殺、人さらい、人身売買など有りと有らゆる悪・犯罪が、日本では起きづらかったが、中国や朝鮮では日常茶飯事的に起きていた。
 この為に、日本と中国や朝鮮は幾ら話し合っても、分かり合えないし、理解し合えず、打ち解ける事ができない。
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 2019年11月号 WiLL「香港デモは『文明の衝突』だ 石平/北村稔
 中国の権力者は、いつの時代も『無法無天』──拘束される法も、天(道徳倫理)もない。それでも中国人は『支配されること』に幸せを感じる
 ……
 裁判官に賄賂(わいろ)は当たり前
 石平 それにしても、なぜ日本は近代化することができ、中国や朝鮮はそれに続くことができなかったのか。今日の中国共産党北朝鮮、韓国を見るうえでも重要なテーマです。
 北村 ヨーロッパとおなじように、日本が封建制を経験したことが大きいでしょう。日本にはもともと近代化できる素地(そじ)があったのです。明治に近代、言うならば『西欧』を取り込んだとはいえ、それを止揚(しよう)させ、近代化を成し遂げた。
 石平 まさに『アジアのリーダー』でした。
 北村 中国の政治体制の特徴は、異質なものを認めず、個人に権力を集中させることです。秦の始皇帝から習近平まで、辛亥革命から中華人民共和国建国までの38年間を除いてずっとそう。
 石平 辛亥革命の意味は本来、始皇帝以来、2000年以上続いた皇帝制度を打ち破ったことにありました。
 北村 ただ革命後も、外国勢力が入り込んだ内乱状態でした。そして皇帝制度に逆戻りした。
 石平 清王朝よりも恐ろしい、毛沢東という皇帝が生まれてしまった。とはいえ、いまも昔も中国人は自分たちの上に皇帝を欲します。
 北村 中国人のある研究者は、『一人の人間に権力が集中していないと不安』と言っていました。日本人は権力を分散させ、それをうまく運用しようと考えます。でも中国で権力を分散させると『乱』が起きてしまう。
 石平 中国人は自分が一番賢いと思っているので、自己主張が強い。だから決めごとをするとき、西欧のような多数決も、日本人のように根回しをすることもできない。さらに相手の話を聞こうともしないので、意見がまとまるわけがない。意見がまとまらないから、誰かが独裁で決めるしかない。『和を以(もっ)て貴(とうと)しとなす』の対極にある人たちです。
 そんな中国人の民族性を表すたとえとして、こんなものがあります。
 あるお寺で『お水』がなくなったとき、お坊さんが一人で生活していれば、天秤棒を一人で担(かつ)いで水を汲みにいく。二人なら、天秤棒の両端を持つ。でも三人いると、誰も担ごうとしないので水がなくなってしまう。『個』が強い中国人は集団では生きていけないというわけです。
 北村 民族性の違いは社会制度にも表れっています。
 鎌倉時代の『御成敗式目』を読み直してみたんですが、裁判ではウソをついても、相手を罵(ののし)ってダメ。事細かにルールが定められていて、公平に裁判を行っていたことがよくわかります。これは中国の『律』にはないもの。日本は中国から律令制度お輸入しても、日本的なものに止揚させていたんです。
 日本や西欧で根付いている法治主義は『多数の意見を法律としてまとめ、それに皆が従う』という原理です。しかし中国の場合、社会の実体から帰納的に法律が生まれるものではなく、善悪は権力者の独断によって乱暴に決められてしまう。
 石平 かつて科挙で合格した人が裁判官を務めていましたが、科挙に法律の問題は出てきません。四書五経に法律の話はありませんから。でも彼らの一声で裁判は決してしまう。
 判断の決め手は『お金』です。科挙に合格するような人は、一族の繁栄を背負っている人が多い。でも給料では食べていくことができないので、賄賂を集めるというわけです。
 北村 留学生に『中国はいまでも裁判官に賄賂を渡しているか』と聞いたら、『そうだ』と答えていました。知人が中国で裁判を起こしてきたときも、弁護士に『裁判官にお金を渡して下さい』と言われたとか。
 石平 そんなことは日常茶飯事ですよ。
 北村 日本では御成敗式目の時代から〝アウト〟です。
 石平 中国では有力者にお金を渡さなかったら〝アウト〟なんです。
 北村 海を隔(へだ)てただけで、ここまで国柄が違うとは・・・。
 無法無天(むほうむてん)の権力者
 石平 中国の政治制度の悪いところは、権力を制約するものがないことです。
 たとえば、西欧は政治権力と教会が牽制(けんせい)し合っていたし、日本は幕府の上に天皇が存在した。幕府がいくら権力を握ったとしても、外形的には天皇の家来にすぎませんでした。
 しかし中国も朝鮮も、最後にはトップがすべてを決めることができる。権力にできないものは何もない。これは『無法無天』──拘束される法もなく、天(道徳倫理)もない──と言われます。
 北村 それは国民生活にも表れているかもしれません。台湾の友人によると、大学教授が学部長になった途端、強権を振るい出すそうです。日本では、学部長になっても上から仕事が降ってきて、そんな余裕はありません。
 石平 中国のように権力が無制限だと、権力側は無限に権力を行使し、支配される側も権力にモノを言われなく悪循環に陥ります。それだけでなく、だんだんと独裁者に支配されることに幸せを感じるようになる。
 ある中国人が日本のテレビで、習近平による監視社会を『犯罪が減るので、安心する』と言っていましたが、その典型です。習近平の無法無天ぶりに恐怖を感じていないです。
 北村 日本人には理解できません。
 石平 そんな中国人が最後に求めるのは、心優しい支配者です。悪いヤツが出てきたら、あきらめるしかない。我慢ならなくなったら易姓革命を起こす。
 北村 農民反乱から皇帝が殺され、新たな皇帝が生まれる。税制など、社会制度を整備し直してしばらく安定しますが、また農民反乱が起こる。一向に進歩せず、ただ歴史を繰り返しているだけ。『中華人民共和国は、アジアで最初の共和国だ』と言っていますが、実質的に皇帝制度じゃないですか。『古代国家』のままなんです。
 石平 国力をつけ、世界制覇を狙う古代国家・中国に対し、香港、そしてトランプ政権のアメリカは自由と民主主義を守るべく立ち上がりました。日本も足並みをそろえて、人類の未来のために戦ってほしい。
 北村 今日の香港は『明日の台湾、明後日の沖縄』ですからね」
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 法に基ずく封建制度は、日本や西洋に存在し、中国や朝鮮に存在しなかった。
 西洋の法とは、キリスト教であった。憲法十七条
 日本の法とは、聖徳太子憲法十七条(604年)と鎌倉武士の御成敗式目(貞永1{1232})年であった。
 中国にも法はあったが、王朝ごとに違っていて、王朝が滅亡すると法は廃棄され、新しい王朝が新しい法り、法理の精神は受け継がれる事はなかった。
 何故か、中国を支配した王朝が、漢民族だったり諸異民族だったりと価値観が違う人間だったからである。
 その意味でも、連続した中国4000年の歴史など存在しない。
   ・   ・   ・   
 世襲は、日本と西洋では効力があり、中国や朝鮮では余り役に立たなかった。
 中国や朝鮮で威力を発揮したのは、科挙(高等官吏登用試験・キャリア官僚試験)であった。
   ・   ・   ・   
 困窮する武士は、賄賂を貰う事は恥とされた為に、現金収入を得る為に庶民(百姓や町人)から内職仕事をもらって生活していた、あるいは庭を畑として野良仕事を行った。
 
 儒教社会では、賄賂や横領し、不正や横流しが、当然の如く行われていた。
   ・   ・   ・   
 中国は広大な為に、黄河流域系農耕民族、揚子江流域系農耕民、北方系遊牧民、西方系遊牧民とでは言葉も考え方が違う、その為に利用されたのが統一文字としての儒学である。
 各王朝は、儒学を中国を一つにまとめる方便して利用したのであって、儒教の道徳倫理を広め平和と発展をもたらそうとしたわけではない。
 読み方が違っていても文字が統一されていれば、誰が公文書・命令書・指示書を見ても理解できるからである。
 中華世界での儒教とは、その程度の常識であって、教養でもなんでもない。
   ・   ・   ・   
 儒教四書五経を読むには、高度な漢学の素養が必要で、優れた読解力や理解力のない無教養な愚者ではできなかった。
 聖人と小人の差別化はそこにあり、権力者や富裕者ではなかった。
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 聖人は徳があり、小人は徳がない。
 皇帝であっても、国王であっても、金持ちであっても、徳がなくなれば虫けら以下の小人とかわりはない。
 放伐禅譲易姓革命論は、ここから生まれてきた。
 例えば、王莽の儒教制度国家新王朝である。
 中国には、儒教はもちろん道教も存在しない。
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 聖徳太子は、儒教を教養の格差と理解し、より平等性公平性のある仏教を重んじた。
 憲法十七条の、精神としては儒教が主で仏教が従であったが、目指す方向は儒教ではなく仏教であった。
 日本・聖徳太子は、儒学を敬して遠ざけた。
   ・   ・   ・  
 朝鮮は、仏教より儒教を重んじ、中華王朝の法を無条件で受け入れた。
 朝鮮は、中国同様に、賄賂文化が根付き、腐敗・不正が蔓延した。
   ・   ・   ・   
 中華=中国では、天・天帝から統治権を授かった人徳者が皇帝となり全ての権力と権威を手中に収め、全世界を徳で教化するのではなく武力で暴力的に支配する。
 儒教は、その為の理論的道具である。
 日本の儒学者は、そうした世界を理想世界とし日本を下等下劣な野蛮世界と嫌い、劣等な日本民族日本人を棄て高等な中華人=中国人になる事に憧れていた。
   ・   ・   ・   
 日本と中国・朝鮮とは、根本的に違う。
 日本は、日常価値観に基づく御上・幕府の法を優先した。
 中国や朝鮮は、儒教価値観に基ずく天・天帝の道徳を優先した。
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☴19〕─2─韓国と東日本大震災。約20億円の義援金が消えた。〜No.87No.88No.89 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
 韓国や中国で深刻な原発事故が発生するや、放射能の被害を受けるのは日本であり、、最悪、日本は人が住めなくなる危険性がある。
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 韓国人は、日本人とは違い、中国人と同様に、義捐金はもちろん公金さえも横領する事に罪悪感をもいないばかりか、むしろ賄賂や流用は当然の権利として行っている。
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 2019年11月号 正論「韓国が敵になる日 
 卑怯な『放射能カード』を許すな 豊田有恒
 このところ、韓国の反日が常軌を逸したものに変わっている。いわゆる『慰安婦カード』『いわゆる徴用工カード』など、次々に繰り出し、日本への憎悪を剥き出しにした文在寅(ムンジェイン)政権だが、その次に狙うのが『放射能ガード』である。
 東日本大震災に際しては、世界各国から義援金、救済金が寄せられたが、韓国は日本に対して、最も冷酷非情に振る舞った国である。義援金、救済金は、個人規模、赤十字イスラム圏は赤新月社)扱いのものなど、統計を取り方で異同があるものの、1位アメリカ、2位台湾が拮抗し、なかには最貧国とされた30ヵ国も、乏しい財布から善意を送ってきているのだが、上位各国のあいだに、大韓民国の名はない。
 当時、さるニュースサイトでは、韓国の新聞記者の発言が伝えられている。いわく『日本は、もう一度、天罰を受けよ。どの国も日本を助けない』。
 もちろん、韓国でも、善意の協力を申し出る人がいないわけではなかった。官辺にいる人々は、日本への悪意、憎悪を抱いていたろうが、隣国で起こった未曽有の災難に同情を寄せる人も少なくなかった。しかし、折から、日本が竹島を日本領土と、教科書に明記したことに対する根拠のない反発から、集まった義援金をそのまま日本に渡すべきでないという意見が大勢を占めるようになり、なんと義援金の70パーセントを『独島の守備活動を支援』する目的に供することが決定した。主義主張が先に立つと、まったく論理的でなくなるのが、あの民族である。そもそも、竹島領有宣言と東日本大震災とは何の関係もない。もし竹島に関して、なんらかの予算が必要なら、別途に募金すると考えるのが万国共通の常識だろうが、韓国では通用しない理屈である。
 実際に集まった義援金は、四十数億円というが、そのうち20億ほどしか日本側に送られてこなかった。ちなみに台湾からの義援金は、250億円にも上った。
 風評被害を煽った韓国
 韓国は、最も親しくしてきた隣国の大災害に対して、素早く手を打った。日本に寄港した船舶の放射能検査を厳格にし、バラスト水すらもチェックするように命令したのである。そればかりでなく、津波とも原発とも関係のない内陸の群馬県を含む8県の農水産物に対しても、禁輸措置を取る始末だった。日本全土が、いかにも放射能に汚染されているかのように、印象操作を図ったのである。
 当時、韓国のマスコミでは、津波の被害を受けた福島第一のような沸騰水炉(ビトゥンスロ)は、韓国には一基も存在しないという事実を強調されていた。韓国は、面積ほぼ10万平方キロ、日本の4分の1強の国土に5,000万人が居住する、人口密度の高い国である。その狭小な国土に二十数基の原発がひしめき、原発依存度は50パーセントに近いという、地球上でも有数の原発過密地域なのである。日本の惨事による反対運動が、飛び火しないため、防衛線を張ったとも考えられるのだが、それにしても、友好的な隣国の大災害に対して、これほど冷酷、非道な行為を、よくできたものである。」
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 因果応報。善い事をすれば何時か善い事がおとずれ、悪い事をすれば何時かはしっぺ返しを食らって災いに襲われる。
 日本は、財政赤字であっても、野党や反政府団体が反対しても、生活苦にある国民があっても、世界中の貧しい国々に支援金を送っている。
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 日本から見ると、韓国も中国共産党北朝鮮と同じ、油断も好きもない警戒すべき同じ穴のムジナである。
 所詮、日本にとって韓国も中国共産党北朝鮮もその程度の隣国でしかない。
 それは、古代から一貫して変わる事がない隣国であった。
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 「困った時に助けてくれるのが真の友だち」と言うのなら、台湾とアメリカは頼りになる友人であるが、韓国と中国共産党はあてにできない悪友であり、ロシアは分けが分からない友人である。
 それでも、韓国や中国共産党大親友で、台湾とアメリカを毛嫌いする日本人がいる。
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 当時の日本政府は、韓国や中国共産党からの支援に謝意を述べたが、台湾は無視した。
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 韓国・北朝鮮は、朝鮮の時代から進歩せず変わった所が少ない。
 関東大震災でも同じであった。
 そして、彼らに同調する反天皇反日的日本人がいるのも事実である。
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🎍36〕─1─王土王民思想は、独立国家の統治理論であり国防思想である。〜No.114No.115No.116 

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 王土王民思想は、天皇制度、天皇の日本統治を正当化する思想である。
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 当時の危機的状況では正当でも、現代の愚昧的安穏では犯罪である。
   ・   ・   ・   
 日本国憲法では、戦争論地政学そして日本中心の国防思想、国防論は違憲である。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 王土王民思想(おうどおうみんしそう)とは、地上にある全ての土地は天命を受けた帝王のものであり、そこに住む全ての人民は帝王の支配物であるという思想のこと。
 概要
 『詩経』小雅・北山之什にある「溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣(“溥天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し”。この空の下に王のものでない土地はなく、地の果て(浜辺)まで王の臣でない人間はいない)」という詩句に代表されるように、中国では早くから中央集権が進むとともに四海・天下の概念が発達して、帝王の一元的・排他的な世界支配を象徴する考え方として説かれ、儒教律令などにも反映されてきた。
 日本の古代国家もこうした中国の思想を受容して、公地公民制とともに王土王民理念が説かれてきたが、天の概念が希薄でかつ天皇家が唯一の王権として確立されていた日本では、天照大神の末裔による万世一系思想とこれを支える君臣共治思想を理念とする朝廷が存在していたため、帝王の一元的・排他的支配を前提としたこうした考え方は表面的にしか受容されなかった。また、仏教の興隆とともに王法と仏法の関係について問題となったが、王法仏法両輪・王法仏法相依と呼ばれた相互依存関係理念や神仏習合理念の確立によって問題を回避することに成功した。
 ところが、院政期から鎌倉時代にかけて治天の君や公家など朝廷運営の主体を担う勢力が、寺社や幕府などの他の権門に対して自己の優位性を唱えるために王土王民思想が唱えられるようになった。それはこれら新興の権門が国政において重要な役割を与えるだけの勢力を持ったことに対して、伝統的な権威を背景として国政の主導的地位を引き続き確保しようとする意図の反映でもあった。こうした考え方は『平家物語』(巻二・教訓状)や『徒然草』(207段)などの当時の文学作品にも登場している。やがて、王土王民思想の日本化として、神国思想が登場するようになる。
   ・   ・   ・   
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 王土思想
 国土全体を天皇の領土とみなす古代・中世の政治思想。その起源は『詩経小雅』の「溥天(ふてん)の下(もと)、王土に非(あら)ざるは莫(な)し」や、『孟子(もうし)萬章』の「普天(ふてん)の下、王土に非ざるは莫く、率土(そっと)の浜、王臣に非ざるは莫し」などの古代中国思想にあり、日本古代国家の成立とともにその国家的理念として導入され、律令(りつりょう)体制の基盤である公地公民制を支えるイデオロギーとなった。
 律令制が解体して中世社会への転換が進むなかで、王朝貴族政権は国家の危機にあたって、それに対処するために王土思想を宣揚した。承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(936~941)に際し、東海・東山両道の国司平将門(まさかど)の追討を促した940年(天慶3)の太政官符(だいじょうかんぷ)(『本朝文粋(もんずい)』)において、「抑(そもそ)も一天の下、寧(いずくん)ぞ王土に非ざらん。九州の内、誰(たれ)か公民に非ざらん」と、王土王民の理念を強調して軍功を募ったことは、その顕著な例である。
 また王土の思想は、公田を蚕食する荘園(しょうえん)の乱立に対して、その抑制に努める公家(くげ)政権の「新制」(荘園整理令)の基本理念であった。1156年(保元1)、保元(ほうげん)の乱に勝利した後白河(ごしらかわ)天皇は、その発布した「保元新制」の太政官符(『書陵部所蔵壬生(みぶ)家古文書』)の第1条において、神社仏寺院宮諸家の新立荘園の停止を命じたが、その冒頭に「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を宣言し、それが中世王権としての天皇権力の基本理念であることを内外に表明したのである。[戸田芳実]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 何故、日本が朝鮮をケガレた地として嫌悪し、日本人が朝鮮人を見下したのか、それにはそれなりの正当な理由があった。
 が、現代日本人の歴史力では理解できない。
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 日本にとって、朝鮮は敵国であり、中国はいつ侵略してくるか油断できない軍事大国であった。
 日本の周辺諸国は、反日派敵日派国家で、親日派知日派国家は存在しなかった。
 強いて親日派知日派国家と言えるのは、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海である。
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 古代、日本は朝鮮の避難地として、戦乱や災害で被災した朝鮮難民を無条件で受け入れ、生活できるように土地を与え土着させ、彼らの祖先を神として祀る事を許した。
 帰化人は、天皇に感謝し、日本国に忠誠を誓い、天皇と日本国の為に自己犠牲的に働いた。
 渡来人は、天皇や日本国を見下し、天皇や日本国に弓を引いて暴動を起こしていた。
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 現代日本人は、事実の歴史を嫌い、自分に都合の良い時代小説を作りそれを正しい歴史と信じている。
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 新羅の入寇は、新羅から流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。
 新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。
 概要
 新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者たちが、8世紀以降かなり頻繁に対馬や北九州を襲った。しかしその中には組織的な大集団も多く、国家または強大な豪族の関与が疑われるものも多い。
 なお平安中期まで日本では「高麗」といえば渤海国東丹国)を指したため、朝鮮半島の高麗成立以後も11世紀半ば過ぎまでこれを区分するために「新羅(の賊)」という称も用いられた。
 新羅の賊が発生した理由としては、『三国史記新羅本紀の記述から、745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していたことが指摘されている。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。このときに、九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。
 しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇太宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人131人を武蔵国に送還した。
 また当時新羅新羅下代から後三国時代につながる混乱期であって、慶州を中心とする王権は地方まで十分に及ばず、民衆は重なる政治混乱にも苦しんでいた。唐とは友好関係であったが、それ以外の周辺国である日本や渤海などとは断交していた。一方日本は、渤海とは友好的であったが新羅との仲は険悪であった。
 日本では、白村江以来、唐・新羅合従連衡による日本侵略を恐れていたため、新羅の行動はきわめて挑発的にみなされた。ただし、これらの海寇は全面戦争に波及せず、唐は中立を守ったものの、日本側は大きな自制を強いられていた。

 前史
 大化の新羅の賊
 ……
 遣新羅使新羅による日本への朝貢
 ……
 帰化
 日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣された。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。
 「東国#開発」を参照
 持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。
 「王城国」改称問題
 ……
 阿倍継麻呂と疫病
 ……
 金泰廉による日本への朝貢
 ……
 長安での席次争い
 ……
 藤原仲麻呂新羅征討計画
 ……
 御調朝貢
 ……
 遣新羅使停止
 しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。有名な新羅商人に張宝高がいる。

 弘仁新羅の賊
 弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。……

 弘仁新羅の乱
 弘仁11年(820年)2月13日、遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。………

 山春永らの対馬侵攻計画
 貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している。

 貞観の入寇
 貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。……

 藤原元利万侶の反乱計画
 また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶(ふじわらのげんりまろ)が新羅国王と内応して反乱を企ていたことが発覚する。
 国防体制
 870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備[28]する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した[34]。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった。……

 寛平の韓寇
 『日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐対馬にかけての入寇とその征伐の記録。……

 延喜の新羅の賊
 天健金草神社の社伝には、延喜六年(906年)七月十三日、隠岐国の坤方から猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。……

 長徳の入寇
長徳三年(997年)、高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。……

 その他
 貞観五年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。また1093年には「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。

 影響
 すでに貞観の韓寇にたいする奉幣祈願の文に「我が日本の朝は所謂 神明之国なり」という思想がみえ、神風による非戦の解決が唱えられているのが注目される。延喜3年7月には隠岐国に託宣があり、神風が賊船を漂没させたという風聞が行われている。また「?爾(サイジ)たる新羅、凶毒狼戻なり」「新羅人、奸を挟(いだ)くこと年久しく、凶毒未だ悛(やま)ず」など、韓寇を非難するさまざまな言辞がみられる。
 被害地では新羅人への反感も高まり、承和元年(834年)には「百姓、之を悪(にく)み彎弓で射て傷つく」などと在留者への暴力まで発生した。これに対し朝廷では「新羅人の来航を全面的に禁止すべき(藤原衛)」などの少数意見もあったが、徳を慕って来日する者に「仁恕」を示すべきとの意見が多数を占め、賊虜を放還するなど中途半端な対応を重ねた。
 大宰府の府官による討伐は、封建武士の成長が遅れた九州において、健児クラスの武人を極端に成長させることはなかったが、後世少弐氏など府官の名目を持ち外交権の一部を管掌する特異な武士の成長を促した。
 朝鮮側の諸史料は後世に再編されたものではあるが、新羅寇の記録はまったくなく、逆に新羅倭寇に苦しんだとか日本に人質をもとめられた等の被害記事が多い。しかしいずれにせよ、朝鮮半島で後三国時代の混乱が高麗国の成立によって一旦治まると新羅寇の記録は日本側の史書で見えなくなる。
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🎍16〕─2─聖徳太子は、神道価値観に仏教の行動的規範と儒教の道徳的慣習を加えた。法華経。~No.47 

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 中国・朝鮮は儒教国家であったが、日本は儒教国家ではなかった。
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 聖徳太子が学んだ仏教は法華経であった。
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 反天皇反日的日本人は、聖徳太子が嫌いである。
 共産主義者マルクス主義者)は、反宗教無神論儒教を許容しても仏教や神道を否定している。
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 (本記事は『Voice』2018年3月号、石平氏の「儒教ではなく仏教を選んだ聖徳太子の思想戦略」を一部、抜粋したものです。全文は2月10日発売の3月号をご覧ください)
 石平 聖徳太子の思想戦略
 2018年02月07日 公開
 石平(評論家)
 「関ケ原合戦」は戦争とは呼べない
 ――本書『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』には、中華思想の背景には、儒教特有の「天命思想」や「徳治主義」があると指摘されています。
 石 天命思想とは、日本語でいえば皇帝への箔付けです。皇帝は人間社会の支配権を「天」から任されており、民衆は誰もが「天」の子である皇帝に服従しなくてはならない、という理屈になっている。
 この天命思想とセットとなるのが、徳治主義です。「天」はどういう基準で皇帝を選ぶのか。儒教においては「徳」とされます。天下万民のなかで、最も「徳」がある者が天下の支配を委ねられるとされるのです。
 ――為政者に「徳」が求められるのは当然で、西郷隆盛のいう「敬天愛人」と本質的には近い気もしますが。
 石 まったく異なります。「天命思想」にしても「徳治主義」にしても、皇帝が自身の政治支配を担保するための欺瞞にほかなりません。実際の中国史を見れば、そのことがよくわかります。漢の高祖である劉邦からして、典型的なならず者でしょう(笑)。そもそも皇帝になる条件が「徳のある人格者」であったら、古代から中国であんなに戦乱ばかりが続くわけがない。
 たとえば、私が天下分け目の戦いが行なわれたという関ケ原岐阜県関ケ原町)に行って驚いたのは、そのあまりに狭いこと。しかも戦いは1日で決着した。中国の基準ではこれは戦争とは呼びません(笑)。  
 ――関ケ原に集まった武将の多くが戦闘には参加していません。これを悪くいえば、自己保身。よくいえば無駄な血は流したくなかったといえる。西郷さんにしても、勝海舟との「話し合い」で江戸無血開城を実現しています。江戸が戦火になれば、多くの民衆が苦難に陥るという考えがあった。まさに「敬天愛人」の「愛人」の実践です。
 石 それこそ日本の「徳治主義」、すなわち「武士道」の姿でしょう。中国にはそうした発想はありませんから、ひとたび戦乱期、革命期に入ると、何百万人の民衆の血が流れる。どちらかの勢力が倒れるまで、戦い続ける。しかし、そのぶん中国の歴史は波乱続きで面白いといえます。日本の歴史は平和な期間が長すぎて、ちょっと退屈です(笑)。

儒教」=「論語」という誤解
 ――不思議なのは、儒教中華思想を支えるのに利用されたという一方で、孔子の教えをまとめた『論語』に代表されるように、日本では道徳面を説いた「良い教え」という印象が強いことです。中国の権力者が『論語』に書いてあることを守っていれば、あんなに戦乱が続くはずもないと思うのですが。
 石 そこが、日本人が陥りがちな典型的な誤解なのかもしれません。たしかに孔子は「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という言葉に代表されるように、「人としてのあるべき姿」を説きました。そのような孔子が説く教えのうち、弟子たちが覚えていたものをまとめたのが『論語』なわけです。もとより体系化されたものではなく、論理性に乏しい。たとえば、「仁」が大事といっても、肝心の「仁」の定義が『論語』には書かれていない。
 間違いなくいえるのは、『論語』とのちの儒教とはあまり関係がないことです。そもそも、儒教を「国家的宗教」にまつり上げたのは、漢の武帝です。彼は、中国史において最も戦争を行なった人物として知られています。このときから、「天命思想」や「徳治主義」の考え方が用いられ、政権の後ろ盾として儒教が利用され始めた。しかしこのような国家的イデオロギーとしての儒教は、孔子の『論語』の世界からすでに遠く離れています。
 その過程で、「孔子の教え」は中国から忘れ去られていきました。私から見れば、いまの日本人のほうがよほど『論語』の世界に生きています。それこそ『論語』を読んだことがない大阪のおばちゃんですら、自然とその教えを守っている(笑)。
 ――日本で『論語』が長く親しまれてきたのも、自分たちの感性に フィットする読み方ができるような、普遍的な人生訓だったからかもしれません。いずれにせよ、『論語』が儒教とは関係ないとすれば、日本人は儒教、ひいては中華思想とどのように付き合ってきたのでしょうか。
 石 日本には古代に儒教と仏教がほぼ同じ時期に入ってきたのですが、当時の人びとは儒教に対してきわめて冷淡な態度で接していました。
 たしかに聖徳太子が制定した十七条憲法には、儒教の用語や儒教経典からの引用が見られます。それから約1世紀後の大宝律令養老律令においても、朝廷の高級官僚の養成機関である大学寮が整備された際には、儒教経典が必修科目に定められています。しかし、古代において儒教の受容はある意味で「この程度」であり、社会全体に広がる思想ではありませんでした。
 これが仏教となると、大きく事情が異なります。聖徳太子は摂政になると、国家プロジェクトとして仏教の振興に力を注ぎ、難波に四天王寺を、大和朝廷の中心地である飛鳥には法隆寺を建立し、仏教普及の拠点としました。あの時代、日本は驚くほどの短期間で、アジアでも有数の仏教国家へと変貌を遂げました。
 ――儒教と仏教の受容の違いは、どんな理由から生まれたのでしょうか。
 石 聖徳太子を中心とする大和朝廷は、大きな政治的課題として「中国からいかに日本の自立を守るか」を掲げていました。その考えを汲めば、儒教ではなく仏教を選んだ理由はわかります。
 もしも中国を頂点、中心とする儒教を全面的に取り入れれば、それは日本が中華秩序の一員となり、中華帝国のいわば子分となることを意味します。実際、朝鮮は中国一の子分に自ら望んでなりました。しかし、「世界宗教」である仏教の世界では、日本も中国も対等です。だからこそ、大和朝廷は仏教を選んだのです。これはきわめて高度な思想戦略というべきものです。
 ――それだけの国際感覚を当時の日本人は抱いていたのですね。
 石 そうです。そして聖徳太子らの決断により、以降も日本は中華秩序にのみ込まれることなく、独立を保ち続けることに成功しました。これは、東アジア諸国のなかではほぼ唯一のことです。日本ははるか昔に「脱中華」をスタートさせていたことになります。
 ――大増刷が決定した『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』でも解説されていますが、江戸時代に入ると、徳川幕府儒教儒学)を社会の中心に定めます。これはなぜでしょうか。
 石 戦国時代に織田信長一向一揆で苦しめられた史実は、よくご存じでしょう。時代が下るにつれ、仏教は大衆化することで、民衆を広範囲に結集する力をもちました。その最たる例が一向一揆であり、その恐ろしさを肌で理解していたのが徳川家康でした。家康は、仏教に取って代わる新しいイデオロギーが必要だと思案します。そこで目を向けたのが、儒教でした。つまり、儒教を利用して仏教を抑え付けようとしたわけです。なお江戸時代で儒教といえば朱子学が盛んであり、幕府も官学にしました。
 ただし、重要なのは、日本では朱子学を学んだほぼ直後から、その内容に疑問を感じて乗り越えようとした思想家が現れたということです。荻生徂徠伊藤仁斎がその代表です。
 ――彼らが疑問に感じたのは、朱子学のどの部分だったのでしょうか。
 石 私にいわせれば、朱子学が日本人の精神に合うはずがないのです。というのも、朱子学は究極の原理主義で、人間の欲を極端に抑え付ける思想だからです。かつての明、清や李氏朝鮮は、朱子学に基づいた社会をつくりましたが、「三従四徳」という考え方があります。これは、女性は生まれてからは父親、結婚したら夫、夫が亡くなったら息子に従うという教え。それでは夫も息子もいなくなったら、どうするのか。驚くべきことに、殉死するほかないのです。ある史料によれば、明では毎年、1万人ほどの殉死者がいたとされています。
 同じころ、日本は戦国時代から江戸時代でしたが、2代将軍・徳川秀忠正室であるお江(崇源院)にとって、秀忠はなんと3人目の夫です。「昨日の敵は今日の友」「惻隠の情」という言葉に代表されるように、恩讐を超えて、目の前の人間を大切にする。それが日本人の気質なのであり、そうであればこそ、朱子学は日本人にとっては「論外」の教えだった。
 ――荻生徂徠伊藤仁斎は、そのことを見抜いていたわけですね。
 石 そうでしょう。彼らが朱子学からの脱却を唱えたのちに登場したのが、賀茂真淵本居宣長です。かくして日本で国学が誕生した。ここで詳述はしませんが、このとき日本人は儒教、さらにいえば中華思想を完全に切り捨て、『古事記』や『日本書紀』、『源氏物語』などに代表される、日本人の本来の心に立ち返ったのです。
 そもそもの始まりは、儒教ではなく仏教を選んだ聖徳太子の英断にあったといえますが、そうした先達の懸命かつ賢明な判断があればこそ、日本は東アジアにおいて、中華秩序の呪縛にとらわれずに済んだのです。」
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 儒教と言っても一つではない。
 中国や朝鮮では権力が認める官学儒教(正統派儒教)のみか存在しないが、日本では私学の諸派儒教が複数存在していた。
 聖徳太子儒教と、足利学校儒教と、江戸時代の儒教と、明治時代の儒教と、現代日本儒教と、では別の儒教である。
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 聖徳太子は、儒教の真義から「和」のみを日本に定着させたが、それ以外の硬直した不寛容・排他的な教義を敬して遠ざけた。
 聖徳太子のお蔭で、日本では儒教原理主義による宗教・諸学弾圧は起きなかった。
 聖徳太子は、儒教原理主義的教義を日本から排除した。
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 江戸時代の官学儒教朱子学)が行った弾圧は、学問では蛮社の獄であり、宗教ではキリシタン弾圧と徳川光圀廃仏毀釈であった。
 それでも、西洋・中世キリスト教会の宗教裁判・異端審問・魔女狩り、中国や朝鮮の宗教弾圧ほど残虐性はなかった。
 日本の宗教や学問に対する弾圧は、世界的に見れば小規模で、徹底性が乏しかった。
 日本の弾圧は限定的で、煽動者や同調幹部など少人数を処罰したが、その他は命を取る事なく軽い罰にとどめて放免とした。
 つまり、性善説的に「罪を憎んでも、人を憎まず」で、正しさを諭して悔悛させることである。
 中国・朝鮮や西洋での弾圧は殲滅で、一切容赦せず、問答無用で、女子供に関係なく根こそぎ虐殺した。
 つまり、性悪説的に「毒虫の子は毒虫」で、善人か悪人かは殺した後に絶対神が審判を下し、善人の魂は天国に召され、悪人の魂は地獄に堕としてくれる。よって、絶対神の御名によって実行される殺人は善行であって悪行ではない。
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 中国や朝鮮では、儒教は国家を一つにまとめ王朝を守る為に幾度も仏教や諸学派を弾圧した。
 弾圧されていた革命宗教の仏教と諸学派は、貧困層を味方に付けて反乱を繰り返していた。
 儒教は、祖先を聖人・賢者として奉る祖先崇拝から、神・仏・鬼を否定し、宗教を拒絶した。
 宗教系反乱軍は、大虐殺をおこない、死体の山や血の湖を築いて儒教王朝を滅ぼした。
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 死臭や血生臭さは、中国・朝鮮で嘔吐したくなるほどひどかったが、日本はそれほどきつくなかった。
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 日本で儒教原理主義的な宗教弾圧が発生したのが明治初期で、仏教に対しては廃仏毀釈で、神道に対しては神社合祀令と国家神道であった。
 国家神道は、儒教による宗教弾圧の産物である、つまり江戸時代までの皇室の宮中祭祀や鎮守の神社神道にはなかった参拝形式であった。
 武士道による教育勅語軍人勅諭は、中国思想の儒教で、日本の神道でもインドの仏教でもない。
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 武士道は、明治に新しく作られた新しい精神で、江戸時代にはなかった。
 武士の覚悟とは、表面は儒教であったが、内面は仏教特に禅宗の座禅であった。
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 聖徳教育の原点
 聖徳太子が十七条憲法を制定したのは、当時の政治家や官僚に守るべき心得を示唆するためでした。その第一条で「和の精神」こそが智を啓き、道徳心を養う根本であるとしましたが、香順先生はここに教育の普遍的で根源的な姿をみたのです。
 この「和の精神」は、太子が帰依していた仏教と、中国から伝来していた儒教の融合から生まれた思想ですが、もともとは「礼の用は和を貴しと為す」という論語の一節が原点でした。
 その論語の中で孔子は特に「礼」を重視し、上に立つ人間が、下の人間に対して礼をもって接すれば、自ずと下の人間にも礼の大切さが身についていくと説いています。ただ、それだけでは人間関係が円満にならないので、「和」を心がけようとも説いたわけです。「和」とは、なごみであり、親しみであり、穏やかさであり、助け合うことであり、他人を思いやることです。
 www.seitoku.jp/gakuen/wa0801/contents05/main06.html
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 一条真也 『第五講 仏教と儒教
 また、ひろさちや氏は、三つの宗教の関係について『仏教と儒教』にこう書いている。
 「仏教は最初から、道家儒教の思想や術語をうまく摂りこんできました。翻訳経典の訳語なども、伝統的な中国語が多く使われています。そうすることによって、仏教の外来性を薄めてきました。それも、儒教と仏教のあいだに大きな文化摩擦の生じなかった原因でしょう」
 そして、中国における儒・道・仏の三教一致は、日本においては神・儒・仏の三教一致となった。仏教と儒教は日本における二大外来思想だが、外来思想同士であるという点においては、大きな対立が生じようがない。しかも、仏教はいち早く神道と習合し、日本化した。神道と混ざり合うことによって、仏教は「日本人の宗教」になったのである。それに対して、儒教は本来の宗教性を薄めることによって日本文化の中に浸透した。宗教としてではなく、学問や制度や道徳倫理として、儒教は日本人の中に定着したのである。江戸の儒者が仏教攻撃を展開したように、もちろん理論上や学問上の対立はあった。しかし、仏教と儒教が宗教として対立し、日本で宗教戦争を起こすことなど絶対にありえないことだったのである。
 日本に入ってきた仏教と儒教にとって、最初にして最大の理解者はやはり聖徳太子であった。日本の神々を尊重する廃仏派から迫害された仏教を蘇我氏とともに日本に定着させ、日本仏教の道を開いたともいえる太子は、『勝蔓経』『維摩経』『法華経』の三経を重んじ、その註釈書としての『三経義疏』を自ら著した。太子がこの三経を選択したことについて、陽明学者の安岡正篤などは、その見識に感嘆せざるを得ないと高く評価している。安岡は著書『日本精神通義』において、次のように述べる。
 「三経ともに大乗仏教の根本経典でありまして、これをインド仏教が仏成道三七日後、鹿野苑(ろくやおん)において劣機鈍根の者にこんこんと説かれたという阿含(あごん)に発し、中国仏教が着実卑近な四十二章経から起こっているのに較べると、日本仏教の高邁な起こりに感服せざるを得ません」
 また安岡は、維摩詰を形容した「心の大なること海の如し」というにふさわしい聖徳太子は、その註釈にまた『論語』も『孝経』も『左伝』も、さらには『老子』も自由に引用しているということも見過ごすことができないと述べている。太子の儒教理解の深さは、「冠位十二階」や「憲法十七条」にも十分に発揮されていることはよく知られる。
 このように仏教にも儒教にも深い理解を示した太子であったが、やはり最大の功績は日本仏教の道を開いたことだろう。太子がファウンダーの役割を果たした日本の仏教は後世、大きな花を咲かせ、日本は世界に冠たる仏教王国となっていったのである。
 そのせいか、江戸時代の儒者国学者は盛んに太子を攻撃している。林羅山などは「八耳(やつみみ)、天皇を弑(し)す」とまで極限している。「八耳」とは太子の呼称であり、「弑す」とは「殺す」の意味だろうから、聖徳太子が崇峻(すしゅん)天皇を殺したということである。しかし崇峻天皇の暗殺は、蘇我馬子推古天皇に相談して計画・実行されたとされており、太子を犯人扱いにするのは言いがかりもはなはだしい。おそらく、羅山は太子が仏教に肩入れしたことが憎くてたまらなかったのだろう。
 また、太子は「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という言葉を残しているが、これも江戸の儒者の攻撃の的になった。摂政とは政治家であり、宗教家ではない。その政治家が、世間はバーチャルであって、ただ彼岸の世界の存在である仏だけがリアルだなどというのは間違っている。それでは、政治家としての責任を果たしておらず、そもそも政治家になるべきではない。このような批判を荻生徂徠などが展開した。
 しかし、太子は仏教のみを公式イデオロギーにしたわけではなく、儒教を用いて「冠位十二階」や「憲法十七条」を制定し、現実の政治において多大な業績を残したのだから、この批判も的はずれである。太子には、すぐれたバランス感覚があったのである。
 聖徳太子の後、日本の仏教界と中国の仏教界との交流が行われた。最澄空海らは入唐(にっとう)したが、栄西道元らは入宋(にっそう)した。その間には約四〇〇年が経過しているが、儒教の歴史において革命的事件が起きている。いわゆる新儒教の誕生である。
 北宋に周濂渓(しゅうれんけい)や程明道(ていめいどう)・程伊川(ていいせん)の兄弟、邵康節(しょうこうせつ)や張横渠(ちょうおうきょ)などが出るとともに、儒教も面目を一新し、実践的な儒教に深い思索を加え、精神生活あるいは人格生活の学とでもいうべきものを、それぞれ樹立した。南宋朱子はこれらの儒教説を集大成し、孔子以来の儒教を再解釈して、宇宙・社会・人間を首尾一貫した論理でとらえようとしたのである。彼の朱子学は、宋学とも呼ばれた。
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 聖徳太子敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))または厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女

 ゆかりの神社
 敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。
四天王寺七宮 - 聖徳太子創建。 小儀神社(四天王寺東門前)、土塔神社(同南門前)、河堀稲生神社天王寺区大道)、久保神社(同勝山)、大江神社(同夕陽丘町)、堀越神社(同茶臼山町)、上之宮神社(同上之宮町)
玉造稲荷神社大阪市中央区玉造) - 聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
龍田神社奈良県生駒郡斑鳩町龍田) - 聖徳太子法隆寺の建設地を探していたとき、白髪の老人の姿をした龍田大明神が「斑鳩の里が仏法興隆の地である。私はその守護神となる」と託宣したので、その地を選び、鎮守社とした。
・御影の綱敷天満宮(神戸市東灘区御影) - 四天王寺創建の際、六甲山の御影石を切り出し、その際、蒼稲魂神を合せ祠る。その御神体と、聖徳太子の所持していた笏と駒角が現存する。
竜王宮(滋賀県竜王町鏡山) - 山頂付近に聖徳太子26歳の時、自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。 雨の神・水の神ともいわれる八大竜王龍王宮として祀られ、寺院の守護をした。
・飽波神社(生駒郡安堵町) - 聖徳太子牛頭天王を祀ったのが創建と伝えられ、飽波宮のあった場所と比定する説もある。主祭神素戔嗚尊
・森之宮神社(鵲森宮〈かささぎもりみや〉、大阪市中央区森之宮) - 用明天皇と間人皇后を祀る。聖徳太子創建。
・福王神社(三重県三重郡菰野町田口) - 聖徳太子の命により毘沙門天が安置され、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたと伝わる。
・御沢神社(おさわじんじゃ、滋賀県東近江市上平木町) - 主祭神は市杵嶋姫命、弁財天女、聖徳太子、八大龍王聖徳太子蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾されたとき、用水の溜め池として清水(きよみず)池・白水(はくすい)池・泥水(にごり)池をつくり、神社を創建したと伝わる。
・白龍大神天宮塚(宝塚市) - 円錐形の山容をした天宮塚は中山連山の一つで、聖徳太子御修行遺跡。聖徳太子創建の中山寺[要曖昧さ回避]と関わる。

 『勝鬘経義疏
・『勝鬘経』の注釈書である『勝鬘経義疏』について藤枝晃は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので、大山はこれが筆写されたものとしている。
・『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。
安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。
・王勇[要曖昧さ回避]は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[38]。また花山信勝は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。
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 『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。
日本書紀』に推古天皇14年(606年)聖徳太子が『勝鬘経』・『法華経』を講じたという記事があることもあり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。
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 『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。

 日本での法華経の流布
 日本では正倉院法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが伺える。
 天台宗日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。
 なお、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ。
 606年(推古14年)に聖徳太子法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
 「皇太子、亦法華経岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)
 615年には聖徳太子法華経の注釈書『法華義疏』を著した (「三経義疏」参照)。
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。
 聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
 最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
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 世界大百科事典 第2版の解説
 法華義疏(ほっけぎしょ)
 聖徳太子の作とされ,《法華経》についての注釈を集めるとともに,みずからの注釈を施したもので,日本仏教の根元として注目をひく。全4巻。《勝鬘経義疏》《維摩経義疏》とあわせて《三経義疏(さんぎようぎしよ)》と称する。法隆寺に伝えられた太子の稿本があり,明治初年皇室に献納され,現在は御物とされている。六朝風の書体で記され,同筆で添削が施されており,日本最古の墨跡としても貴重である。三経義疏【栗原 治夫】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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🗾31〕─1─素潜りの南方系海人。鵜飼と稲作の倭人。太平洋沿岸の根明な黒潮文化。日本海沿岸の根暗な対馬暖流文化。~No.140No.141No.142 * 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 太平洋沿岸の根明な黒潮文化。
 日本海沿岸の根暗な対馬暖流文化。
 縄文人は丸木舟で、多様な文化を広めていった。
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 日本の釣り針・素潜り・鵜飼いは、揚子江流域の長江文明の名残であって、中国や朝鮮などの黄河流域の黄河文明とは無関係である。
 つまり、「朝鮮が日本に文明や文化をもたらした」とはウソである。
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 2016年6月18日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 神社編
 古層Ⅱ 倭人
 アズミの神道(20)
 アースダイバーと旅して(1)
 熊野から伊勢湾にかけて、海岸や島々をたどっていくにつれて、太陽神の表情は変形につぐ変形をとべていき、かつてそこで、神話的思考の爆発的展開のおこったことを、如実に示している。ところがその爆発的展開も、伊勢湾と三河湾を過ぎたあたりで、急速に収束に向かう。
 あれほどに強烈だった海人たちの太陽神への信仰が鎮静していき、かわってオーソドックスな海神信仰が、ふたたび表にあらわれてくるようになる。駿河湾、房総半島、鹿島・香取、塩釜と、その後も倭人系海人たちは北上を続けていったが、紀州から伊勢湾にかけての地帯でおこったような、創造的爆発はもう二度と見られない。
 しかも、古層に属する倭人的な海神信仰は、その後しばらくして、『八幡信仰』の中に吸収・同化されていくようになるから(この過程はしばらくして始まる『アースダイバー 神社』の『新層』の部で、詳しく描かれる)、海神(わだつみ)の名も、豊玉姫(とよたまひめ)や磯良(いそら)の活躍も、表面からは見えにくくなる。
 そこで私たちは、倭人系海人が列島の各地を移動していった跡を、別の方法で追跡することにしよう。それは『島』に頼むやり方である。日本列島を北部九州から東北まで旅して、海岸部のいたるところにコロニーを形成していった海人たちには、すぐれた『旅の友』がいた。柴犬系の小型犬もその一員であるが、潜水(かずき)に巧みであった倭人にまさるとも劣らない旅の友である。倭人たちはこのアースダイバー鳥を携えて、日本列島にやって来たのだった。
 鵜(う)と倭人
 鵜はアビ(アビ目アビ科の鳥)と並んで、北米大陸や東北シベリアで伝えられているアースダイバー神話の中で大活躍をする、潜水鳥である。アースダイバー鳥は、水中に潜って、大地をつくる材料となる土を採ってきた。どうやらこれらの潜水鳥は、神に捧げる神饌(しんせん)を水中で採ってくる役目をになった、神聖な鳥でもあったらしい、インドネシアから中米のマヤ文明にいたるまで、環太平洋圏の広い範囲で、特別な鳥としての扱いを受けてきた。
 この鵜の首に紐を結んで漁をさせる『鵜飼』が、もっとも古くから発達していたのが、揚子江下流域であった。このあたりでは、苗(キャオ)族など非漢民族の手によって、数千年前から水田による稲作りが開発されていた。その地帯では、稲作と並行して、川での漁が盛んだった。その環境の中で、鵜飼が発達し、その風俗は今日に及んでいる。
 潜水鳥の鵜を捕獲して魚を採らせる鵜飼は、もともと稲を栽培する農民のもとで発達したと思われる。いちばん古風な鵜飼のやり方では、鵜の使い手は岸辺や浅瀬に立って、手にもった綱で鵜を操った。このやり方だと船を操る必要がないので、農民でも手軽に漁をすることができた。揚子江下流域のクリーク地帯では、岸から鵜を使うそういう鵜飼が発達していたが、おの鵜飼地帯のごく近いに、倭人の祖先の生活していたことが、推定されている。
 倭人の祖先はもともとが海洋性の生活をしていた人々であったが、揚子江下流の海岸部を生活場所としている間に、水田による稲作をおこなう非漢民族たちとの交流をつうじて、水田稲作の技術を取り入れた『半農半漁』の生活形態に、変わっていった。その頃、水田技術といっしょに、鵜飼の技術も習得されたはずである。
 海人としての倭人は、水田稲作をおこなう『百姓』となってからも、漁師の習性を忘れることがなかった。そこで水を張った水田にフナやコイやドジョウなどを放って、『水田養魚』に励んだ。この習性は、倭人が日本列島に移住したのちも変わらなかった。倭人の百姓は、急流の多いこの列島の河川を利用して、さまざまな形態の漁に打ち込んだものだが、その中でも鵜飼は『聖なる鳥』とともにおこなう格別な漁として尊重された。
 川のあるところ、内陸部でも、鵜飼は盛んにおこなわていた。
 稲と鵜飼のセット
 今では限られた地帯にしか見られない鵜飼も、かつては日本列島のいたるところでおこなわれていた。『鵜飼』とか『鵜川とか『鵜沢』とか『鵜島』とか、『鵜』のつく地名を拾ってみるだけでも、かつてこの漁が広くおこなわれていたかが、推察される。いったいそれを誰がおこなっていたのか。中世には専門の職人的鵜匠による鵜飼が主流になっていたが、それよりも古い時代になればなるほど、普通の倭人の百姓が農作業の暇を見つけては、鵜を使った漁をおこなっていた。鵜飼は倭人系海人によって、日本列島に持ち込まれた技術の重要な目録の一つであり、百姓の暮らしをするようになっても、鵜飼は彼らにとって重要な生活の技術だった。稲作と鵜飼はセットなのです。
 鵜飼は列島の全域に、その痕跡が見出される。北部九州では筑後川のクリーク地帯(いまの柳川あたり)、四国の四万十川、岡山近辺、若狭から琵琶湖にかけての諸河川、伊勢湾奥の長良川流域、同じく犬山、天竜川を遡行して諏訪湖にいたる谷筋、静岡、相模川多摩川(ここではごく最近まで古い『立ち鵜飼』のやり方が伝承されていた)、東北では角館近辺など、全国で150ヶ所以上の場所で、かつて鵜飼のおこなわれていたことが、報告されている。
 鵜がもっとも得意としたのは、鮎の漁である。鮎は傷みやすい魚で、ちょっとでも傷がつくと、すぐに悪くなってしまう。そのため、鮎を食するのを好んだ貴族たちは、鮎の体をきれいなまま捕獲できる、鵜飼による鮎を求めた。そこで神饌のかたちで、長良川などで鵜のとった鮎を、天皇への献上品とした。
 食品衛生学的な理由だけで、鵜飼による鮎を尊ばれたのではない。そこには、倭人弥生人以来の、神話的思考が大きな働きをして居る。アースダイバー神話の主人公である鵜やアビは、環太平洋圏の最古の神話層に属する鳥であり、その鵜が捕獲して吐き出した、繊細きわまりない魚にたいして、倭人の末裔たちが敏感に反応しないわけがない」
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 日本の権力者・支配者は、黄河沿岸や朝鮮半島から渡来した新層の北方系であった。
 日本の反逆者・抵抗者は、揚子江沿岸や沖縄から帰化した古層の南方系であった。
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 司馬遼太郎「山河を惜しむ心こそ、人間が地上に生棲する基本的な文化というるのではないか」
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 山折哲郎「司馬さんの晩年の大きな仕事は、『街道をゆく』と『この国のかたち』です。『この国のかたち』の最初の文章が非常に印象的です。『日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている』。これは重大なメッセージです。日本列島には自生的な思想は育たなかった。この国のかたちを考えるとき、どうしても外からの思想に頼ってきた。それが仏教であったり儒教であったり、キリスト教などであった。にもかかわず、これだけの文化文明を発達させたのはなぜか。
 『この国のかたち』で神仏習合の問題が出てくる。その起点をどこに置くか。奈良東大寺です。仏教の華厳経という経典を論じ、儀礼を調べられたり、文明論を発展されたりしている。仏教は外からやってきた外来宗教です。それを受け止めた土着の神道が重要な役割を果たしている。この問題が最晩年の司馬さんの考えのなかで重要な位置を占めていた。
 外からやってくる思想のかわりに、日本列島固有の文化があるにちがいない。それはなにか。これを探すために司馬さんは、街道を歩きはじめたのではないのか。その起点となったのが1000年の歴史がある近江王朝だったかもしれない。それで『近江』に着目された。
 晩年の『街道をゆく』と『この国のかたち』はそこで合致する。近江王朝は2代でついえます。奈良ではじめて国のかたちがつくられる。そのときに神仏習合というテーマにとりかかれたという気がします。
 ……
 司馬文学の代表的な主人公は、南方系、黒潮文化で運ばれてきた文化の基盤で活躍した人間が多い。西郷隆盛坂本龍馬、それから高田屋嘉兵衛空海もそうだと思います。
 黒潮の流れにのって日本にやってきた文化のなかから日本の中央権力というものを批判する勢力が生まれます。反権力的なキャラクターは、司馬文学に効果的でした。
 ところが依然として日本列島の権力を握って中国文明律令文化を植えつけたのは、中国大陸、北方系の文化です。その対立のなかで日本の歴史が発展していくという考え方があったと思います」
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 日本人の祖先は、黄河流域で中華文明を生みだした漢族ではなく、揚子江流域に住んでいた土着民で、現代の中国南部の山岳地帯で生活している少数民族に近い。
 揚子江流域に住んでいた土着民は、台湾に移住し、黒潮に乗って琉球(沖縄)に渡り、そして日本列島に流れ着き、倭人となった。
 倭人は居住空間を広げながら、日本列島に移り住み、一部が朝鮮半島に渡って倭族となった。
 黄河流域の果てし無い戦乱で負けた漢族は、逃げるように南下して揚子江流域に住みつき、戦闘になれていない揚子江人を征服して奴隷とした。
 自由を守ろうとした揚子江人は、凶暴な漢族の暴力・横暴から逃れるように南の山岳地帯に逃げ込んだ。
 台湾は、中華帝国流刑地にされた。
 犯罪を起こした凶悪な漢族は、台湾に移り住み台湾人から土地を奪い山岳地帯へと追いやった。
 台湾の山岳地帯に生きるパイワン族などの先住民族は、漢族から逃げた子孫である。
 中華帝国は、大陸国家として海には興味がなく、沿岸線を南下しても海上に乗り出して琉球(沖縄)に向かう事はなかった。
 琉球(沖縄)と日本は、大陸から切り離され造船技術と航海技術を駆使して行き来していた。
 新しい人の流れとして、黄河流域や山東半島に住んでいた漢族の一部が朝鮮半島に移り住み、半島南部に住んでいた倭族と雑婚して混血化し、その混血倭族が日本列島に渡った。
 もう一つ別の流れが北から、樺太カムチャッカ半島・千島列島から南下して日本列島に移り住んだ。
 日本は、揚子江人と混血倭族と北方人が雑居し、雑婚し、そして混血濃度を濃くしながら、平和的に大和民族日本民族を生み出していった。
 日本の日本国語や文化・風習そして宗教・信仰も混血によって大きく変わったが、その原初的なモノは琉球(沖縄)に残った。
 日本民族琉球人(沖縄県民)とは同根であり、日本民族の祖先が琉球人である。
 ゆえに、日本民族琉球人は同じ日本人であり、琉球民族などは存在しなかった。
 一時期、琉球王国は独立国として日本とは切り離されていたが、同じ日本である事に変わりはない。
 漢族と日本民族琉球人(沖縄県民)は、同じではない。
 日本民族琉球人に近い存在が、中国の南部山岳地帯にすむ少数民族少数民族の血をひく台湾人達である。
 当然、日本民族琉球人(沖縄県民)・先住台湾人は、朝鮮人・韓国人とも違う。
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 漢族が支配する地域では、戦乱による虐殺と略奪が絶えなかった。
 日本民族琉球人が住む地域では、隣近所の些細な諍いによる死傷事件はあっても、中華世界のような陰惨にして悲惨な惨事は皆無に近かった。
 日本民族琉球人は、中型船の船乗りである。
 中型船で、船乗り同士がいがみ合い対立し殺し合ったら、船は先に進めないどころか難破して全員が溺れ死ぬ。
 運良く流れ着いた島で水や食料を手に入れなければならないが、島民と殺し合い犠牲者を手に入れても乗組員を減らしては航海が続けられなくなる。
 中華世界の漢族は、砂漠を行く大キャラバン隊である。
 大キャラバン隊は、秩序を保つ為に反抗する者は見せしめに殺し、人手が足りなければ途中で立ち寄ったオアシスを襲い、捕らえた者を奴隷とすれば事は足りる。
 船は、船員達の情緒的な何となくという曖昧な「空気」で支配される。
 大キャラバン隊は、隊商長の命令一下で行動する。
 船長と隊商長の役割は自ずから異なり、リーダーの性格も異なる。
 船乗りは、匠の技を持つ純朴なモノ作りの職人集団である。
 大キャラバン隊は、抜け目のない狡賢い商人である。
 日本民族琉球人の日本人は職人であり、漢族の中国人は商人である。
 朝鮮は中華帝国の属国であり、朝鮮人は漢族の流れを汲む大陸人である。
 朝鮮人が日本人とは違って、漢族同様に煩わしいほどにうるさく騒々しいのは当然である。


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