🗾25〕─1・A─アイアンロード。鉄器の古代文明の道。トルコ・ヒッタイト人から倭国・弥生人まで。~No.113No.114No.115 

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 古代鉄器製造法は、中央アジアの草原地帯から中国の揚子江流域へ、東シナ海沿岸を北上し朝鮮半島南部を経て日本に伝えられた。
 黄河流域から朝鮮半島北部は、アイアンロードに入っていない。
 日本へのアイアンロードは、縄文人に関連があり、黄河系漢族や古朝鮮人には関係なく、弥生系帰化人による日本への移民の道である。
 弥生系帰化人と弥生系渡来人は違う。
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 最新の発見で、古代の中国、日本、韓国・北朝鮮の歴史が新しく書き換えられていく。
 一番変わりやすいのは日本の歴史で、次に変わるのが中国の歴史で、一番変わりづらいのが韓国・北朝鮮の歴史である。
 古代史に魅力を抱き興味があるのが日本人で、魅力も興味も少ないのが中国人で、魅力も興味もなく拒否すのが韓国人と朝鮮人である。
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 日立金属トップページ > たたらの話 > 製鉄の始まり
 たたらの歴史
 製鉄の始まり
 日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?
 弥生時代に製鉄はなかった?
 弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
 今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
 弥生時代に製鉄はあった?
 一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
 1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
 2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
 3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
 4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。
 最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。
 弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
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 NHKスペシャル「アイアンロード~知られざる古代文明の道~
 2020年1月13日(月) 午後9時00分~9時59分
 歴史・紀行
 「いま、あのシルクロードより古い「文明の道」が姿を現し始めている。それは、現代社会に欠かせない「鉄」を伝えた道。西アジアから日本列島にいたるその道は、「アイアンロード」と名づけられた。このルートに沿うようにユーラシア各地の大草原や山岳地帯などで進む発掘調査からは、謎にみちていた古代国家の実像が次々と明らかになり、エジプトやギリシャなど、いわばメインストリームの古代文明とは異なる“未知の世界史”が浮かび上がっている。
 また、これまで武器を中心に考えられてきた古代の鉄の役割が、時代が進むなかで次々と広がっていった事実も分かってきた。鉄は和平を促す“交渉品”となり、異文明を結ぶ“交易品”となり、馬具を生んで“移動革命”をもたらし、工具として“芸術革命”を導き、農具となって“生産革命”を起こしていた。鉄は、武器による「征服と破壊」の一方で、「融和と建設」の主役でもあったのだ。
 番組は、俳優の江口洋介さんをナビゲーターに迎え、アイアンロード研究の最前線を追いながら、知られざる古代世界のダイナミズムを壮大なストーリーで描く。」
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 NHKスペシャル「アイアンロード~知られざる古代文明の道~」
 [総合]
 2020年1月13日(月) 午後9:00~午後10:00(60分)
 ジャンル
 ドキュメンタリー/教養>歴史・紀行
 ドキュメンタリー/教養>カルチャー・伝統文化
 ニュース/報道>特集・ドキュメント
 番組内容
 シルクロードより古い「文明の道」が姿を現した。人類に「鉄」を伝えたこの道をたどると、「未知の世界史」が見えてくる。江口洋介さんをナビゲーターに、壮大な物語を描く
 詳細
 あのシルクロードより古い「文明の道」が、姿を現している。西アジアから日本列島まで、各地に「鉄」を伝えたこの道は、研究者によって「アイアンロード」と名づけられた。舞台となるのは、ユーラシア大陸の大草原や山岳地帯など、人影もまばらな、辺境の地。発掘調査から、エジプトやギリシャなどメインストリームの古代文明とは異なる、「未知の世界史」が浮かび上がっている。江口洋介さんをナビゲーターに、壮大な物語を描く。
 出演者ほか
 【司会】江口洋介,【語り】守本奈実
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 AIメタデータ登録商標 JCC株式会社
 【最新のTV情報】
 2020/01/13 NHK総合 【NHKスペシャル】
 アイアンロード・スキタイ・謎の古代文明
 新たな研究によってスキタイの人々は西のビルスヒルフォートから東のアルタイ地域に及ぶ広大な国を築いていたことが分かった。
 「鉄の遺跡」。
 それらを並べていくとユーラシアの西から東へと延びる長い道が浮かび上がる。
 人類は長い間馬を乗りこなすことができず長距離の移動は不可能だった。
 これを実現したのがスキタイが生み出した鉄のはみ。
 これによって人類は初めて馬を思いどおりに操り長時間長い距離を行き来することができるようになった。
 いわば「移動革命」が起きた。
 前代未聞の軍事組織「騎馬軍団」も生み出していた。
 スキタイが繁栄した時代、人類が使っていた金属の中心は「青銅」だった。
 古くからの大国だったギリシャも武器をはじめさまざまな青銅器にあふれていた。
 しかし多くの物が青銅で作られ人々が満足していたがゆえにかえって鉄器の普及が遅れたとも考えられている。
 新興国だったスキタイは新たな素材である「鉄」をあらゆる物に利用。
 愛媛大学・村上恭通教授らの研究による。
 語り・江口洋介
 2020/01/13 NHK総合 【NHKスペシャル】
 アイアンロード・鉄の起源を探して
 人類は長い間鉄を作り出すことができなかった。
 人類が最初に出会った鉄は空から降ってきた隕鉄
 最新の調査によって人が作ったと考えられる世界最古の鉄が発見された。
 スキタイの時代よりはるかに古い紀元前24世紀から23世紀のもの。
 トルコ中央アナトリア地方はアイアンロードの出発点だと考えられている。
 ヒッタイトの人々がアナトリアの荒野に国を築いたのは紀元前17世紀のこと。
 遺跡から出土したヒッタイトの鉄器。
 ヒッタイトの人々は世界に先駆けてさまざまな鉄器の量産に成功していたと考えられ る。
 語り・江口洋介
 デミリの映像。
 中近東文化センターアナトリア考古学研究所長・大村幸弘、京都造形美術大学専任講師・増渕麻里耶、鍛冶屋・キョカンパクラ、治金考古学者・ウルサンヤルチュンのコメント。
 2020/01/13 NHK総合 【NHKスペシャル】
 アイアンロード・鉄の先駆者
 中近東文化センターアナトリア考古学研究所長・大村幸弘はヒッタイトの鉄づくりのカ ギになったのは厳しい自然環境だと考えている。
 強い風の力を利用して製鉄炉を高温に保ち鉄の量産に成功した。
 鉄を手にしたヒッタイトの人々はこれまでは主に武器に使っていたと語られてきたがところが意外な方法で鉄を利用していたことが明らかになってきた。
 紀元前18世紀。
 地の王族がつづった一通の書簡には貴重な鉄を贈ることでほかの国と結び付こうとする様子が記録されていた。
 鉄は当時銀の40倍金の8倍もの価値があった。
 この貴重な鉄をヒッタイトは外交の切り札に利用していたことが分かってきた。
 当時ヒッタイトの周囲では超大国エジプトに加えアッシリアという新興国が大きな脅威となっていた。
 しかし領土拡大をもくろむ超大国エジプトが攻め込んできたがヒッタイトは同盟国から援軍を得ることに成功。
 エジプトを撃退し領土を守り抜いた。
 ドイツ考古学研究所・アンドレアスシャハナー、中近東文化センターアナトリア考古学研究所長・大村幸弘のコメント。
 2020/01/13 NHK総合 【NHKスペシャル】
 アイアンロード・ヒッタイトからスキタイへ
 鉄を武器だけではなく外交の道具に使うことで大国エジプトに対抗できるほど発展していった。
 ヒッタイトの滅亡が紀元前12世紀。
 コーカサス山脈を越えるのが紀元前10世紀。
 スキタイが鉄を本格的に利用するのは紀元前8世紀。
 スキタイは瞬く間に製鉄技術を勢力圏の東側へと伝えた。
 「アイアンロード」はシルクロードの北側を通っている。
 理由はユーラシアの「自然条件」によるものだと考えられている。
 鉄を作るには燃料となる木材が必要。
 人々は森林地帯の麓の草原に暮らしながら鉄の生産技術を伝えていったと考えられている。
 語り・江口洋介
 2020/01/13 NHK総合 【NHKスペシャル】
 アイアンロード・匈奴vs漢・イノベーション戦争
 世界最大の建造物、万里の長城の壁を隔てた2つの国が世界史上まれに見る長い期間、壮絶な戦いを繰り広げた北の匈奴と南の漢。
 紀元前3世紀から続いたこの争いの中で鉄はスキタイの時代とは次元の異なる進化を遂げていく。
 匈奴の遺跡から進化を重ねた鉄の武器が見つかっている。
 一つが「鉄の矢じり」。
 紀元前200年、両国の間に大規模な戦争が勃発。
 漢を率いるのは初代皇帝劉邦
 対するは国王の「冒頓」に率いられた匈奴
 匈奴は漢に圧勝。
 匈奴の強さを支えた鉄はアイアンロードによってもたらされていたことが最新の調査で分かってきた。
 去年驚くべき事実が明らかになった。
 草原の中から見つかった巨大な「王の宮殿」の近くから鉄の武器を作り出す大規模な「軍需工場」が姿を現した。
 モンゴル科学アカデミー・歴史考古学研究所部局長・ツァガーントゥルバト、愛媛大学准教授・笹田朋孝のコメント。
 2020/01/13 NHK総合 【NHKスペシャル】
 アイアンロード・匈奴vs漢・イノベーション戦争
 一方、匈奴に圧倒され続けてきた漢。
 最先端の武器を生み出すため鉄のイノベーションに挑んでいた。
 漢には匈奴より早く西から製鉄技術が伝わっていた。
 高炉でできる鉄は脆いため武器には適していなかった。
 漢の人々は「強い鉄」を手に入れるため弱点を克服。
 高炉で生産した鉄から炭素を抜く技術は現代にも受け継がれる驚くべき発明だった。
 戦争を激化させた鉄のイノベーション
 その一方でかつてない豊かさを生み出していた。
 強靭な鉄が作れるようになったことで犂カの性能は飛躍的に高まった。
 大量に作られた鉄の犂カは堅い土地を素早く深く掘り起こすことができ、農地に恵まれなかった人々の生活を一変させた。
 鉄の犂カが農業革命を導いた。
 愛媛大学・アジア古代産業考古学研究センター長・村上恭通のコメント。
 鉄牛村、甘粛省ヨウハ村の映像。
 2020/01/13 NHK総合 【NHKスペシャル】
 アイアンロード・人類が手にした鉄の恵み
 アイアンロードをたどる中で感じた古代の人々の「挑戦」の歴史。
 荒野の地で鉄づくりに成功したヒッタイト、鉄の馬具で未開の地を切り開いたスキタイ、鉄のイノベーションを成し遂げた匈奴と漢。
 ユーラシアを横断したアイアンロードは日本列島に到達する。
 日本は弥生時代
 鉄は日本人の暮らしや社会も一変させていく。
 大型船によって長距離の航海が可能になり日本各地が結ばれ日本人は海を渡り朝鮮半島や中国の人々と交易を始める。
 鉄の力が日本と世界をつなげていった。
 語り・江口洋介
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 鉄と星の物語「たたらと羽衣伝説」
 2017/09/02
 宮崎駿監督のアニメ『もののけ姫』には「たたら場」が、物語のカギを握る重要な場所として登場します。たたら場とは砂鉄から鉄を取りだす作業を行う場所で、いわば昔の製鉄所です。
 たたら場は古代より日本各地に存在し、長く日本の鉄需要を賄ってきましたが、明治になって西洋式の近代的製鉄法に押され、徐々に姿を消していきます。現存するのは島根県雲南市吉田町にある「菅谷(すがや)たたら」のみで、『もののけ姫』に登場するたたら場のモデルも、この菅谷たたらと言われています。
 一般に女性は製鉄作業に従事しない。彼らが祀る金屋子神(かなやごかみ)が女性神で嫉妬深く、たたら場に女性が入ると祟りがあると言われたからです。
 『もののけ姫』で宮崎駿がタブーとされる女性を製鉄作業に従事させたのは、祟りを恐れないエボシ御前の近代的な精神をセリフで説明するのではなく一目で表現してみせた秀逸な演出なのです。
 「ヤマタノオロチ伝説とたたら製鉄
 「たたら場」で使用される砂鉄は、含まれる不純物が少ないほど良質とされました。上質な砂鉄は中国山地の中でも、特に出雲地方でのみ採れました。
 出雲と言えば国譲りの物語に代表される日本神話に多く登場する重要な地域ですが、スサノオノミコトヤマタノオロチを討伐したのも出雲になります。
 ヤマタノオロチ伝説は日本書紀古事記において、「目はホオズキのように真っ赤でその腹は血にただれ、頭が八つ」「尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった。「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である。スサノオノミコトはこの剣をアマテラスオオミカミに献上する。」とあります。
 ヤマタノオロチは出雲を流れる斐伊川流域とその支流を表すとする説があり、斐伊川流域は古来より製鉄文化の盛んな地域でした。ホオズキのように赤い目はタタラ製鉄に関わる人たちの炎を凝視する目を現し、血にただれた腹の記述は製鉄で燃え盛る炉のなかの溶けた鉄を現している。すなわち古代出雲の製鉄を示しているとする説です。
 スサノオノミコトとは当時の中央集権国家であったヤマト政権のことであり、スサノオ草薙剣をアマテラスに捧げる行為は、出雲のヤマト政権への屈伏を意味し、しかもそれが今日に到るまで皇室の三種の神器の一つなっていることからも、当時の日本で最新テクノロジーであった出雲たたらの製鉄技術を征するということは日本を征することに繋がったことが伺えます。
 その証拠にヤマト政権はスサノオオオクニヌシヤマトタケルと三度も出雲を攻めています。
 ヤマトタケルもまたヤマト政権を象徴する日本神話の登場人物。西の熊襲(くまそ)、出雲、それから東の蝦夷(えみし)を征伐した英雄として描かれていますが、このヤマトタケルが征服した地には2つの共通点がありました。一つは「鉄の産地であったこと」もう一つは「羽衣伝説が語り継がれている」ことです。
 「羽衣伝説とそのルーツ」
 羽衣伝説とは、天から舞い下りた天女が松の枝にかけていた羽衣を通りすがりの漁師が隠したので、天女はやむなくその漁師と結婚するが、のちに羽衣を取り戻して天に帰っていくという話。
 この羽衣伝説に似た寓話は世界中に見られるのですが、元々は中央アジアで広まっていた「白鳥処女説話」が中国や朝鮮から日本に伝わり形を変えて定着していったようです。
 中央アジアに伝わる「白鳥処女説話」は、
 森の泉に七羽の白鳥が舞い降り、そこで羽衣を脱ぎ捨てると美しい娘たちに変身し、水浴びをはじめました。 それを森の中から見ていた若い猟師は、娘たちの美しさに惹かれ一枚の羽衣を隠してしまいます。 六人の娘は再び白鳥に化身して天空に飛び去り、裸で取り残された娘は仕方なく猟師と結婚して地上にとどまることになりました。というもの。
 さらに、この白鳥伝説のそもそもの起源は古代ギリシャのオリオンとプレアデスの神話だという。
 「プレアデスとは美しい七人の姉妹の名だった。いつも森の中で遊んでいたが、ある日猟師のオリオンに襲われた。シリウスという犬を連れて迫るオリオンにプレアデス七姉妹は逃げ惑い神々に助けを求めた。神々は姉妹を鳥に変えて空に逃がしてやった。そしてそのまま天に昇らせて七つの星にしたのだという。その後、七つの星は六つの星になった。それは姉妹の一人が人間に恋して姿を隠したとも、あるいは流れ星となって飛び去ったためとも言われる。」
 プレアデスとはプレアデス星団のことで日本では昴(すばる)星団と言われています。古くは枕草子にもその記述があり、肉眼で六つの星が見えることから「六連星(むつらぼし)」と呼ばれれていました。
 プレアデスと言えば六つの星なのですが、奇妙なことに古代では七つの星が見えていたらしいのです。
 アッシリア帝国の粘土板にははっきりと七つの星が刻まれており、古代中国でも「昴宿七星(ぼうしゅくしちせい)」と呼ばれていたのです。
 何故、一つの星が忽然と消え去ったのだろうか。
 星の寿命が終わり、超新星爆発で消滅してしまったとする説が有力ですが、いずれにしても星の一つが失われるのを目撃した古代の人々によって生み出されたのがプレアデスの神話でした。
 「星から鉄を生み出した民族」
 このプレアデス神話から白鳥伝説を作り出したのがヒッタイトという民族です。
ヒッタイトといえば、青銅器しか持たなかった人類に最初に鉄器文明をもたらした民族。
彼らが作った最初の鉄剣は隕鉄が原料でした。隕鉄とはすなわち、宇宙からやって来た隕石に含まれる鉄です。
 空から降ってきた隕石を目撃したヒッタイトの人々は、そこに流れ星となって消えたプレアデスの星の一つを連想したのかもしれません。
 やがてヒッタイトの民族も他の民族に滅ぼされ世界中に散らばっていきます。
 ヒッタイト人は世界の鉄の産地を求めて移動していくのですが、その歩んだ道のりは不思議なことに白鳥の生息地と一致しているのです。
 鉄鉱石や砂鉄は磁性を帯びていることが多い。白鳥などの渡り鳥は一説によると、地磁気から方角を知るという。鉄あるところに白鳥あり…とすれば、白鳥の姿を目印として追い求めた人々がいたかもしれない。
 そして彼らヒッタイト人は隕鉄を授けてくれたプレアデスの神話から、鉄の産地へと誘ってくれる白鳥伝説へと昇華させていったのではないだろうか。
 やがてヒッタイト人はタタール人と呼称を変え、製鉄技術と伝説を伝えながら白鳥を追って世界を旅していきます。
 プレアデス星団超新星爆発から始まった神話は白鳥の翼に乗って海を渡り、やがて羽衣伝説となり、タタール人の伝えた製鉄方法は「たたら製鉄」と呼ばれるようになったのではないだろうか。
 進士 素丸
 たたら製鉄タタールとの関係研究へ タタルスタンから視察団
 http://www.sankei.com/region/news/150123/rgn1501230056-n1.html
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 文化
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 紀元前23世紀から紀元前24世紀、トルコで最古の人工鉄が作られた。
 カマン・カレホイック遺跡。
 紀元前17世紀前 ヒッタイト人は、トルコで荒野の厳しい自然環境を利用して鉄鉱石から鉄を生産して鉄器を作り帝国を建設して栄えていた。
 ヒッタイト人は、貴重な良質な鉄を大国に対抗する外交道具として利用し、古代エジプト敵対していた。
 鉄は、金銀よりも貴重であった。
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 中央アジアの森林地帯と砂漠地帯の間の草原地帯が、鉄の道となった。
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 紀元前7世紀 アルタイ山脈に文明と王国が繁栄していた。
 紀元前5世紀の王家の古墳から、金髪のミイラが発見された。
 ウクライナの遺跡からスキタイ人の短剣が発見され、その短剣がアルタイ遺跡から発見された。
 古代ギリシャや古代ペルシャは青銅器を用いていた。
 スキタイ人は、高度の技術で鉄器を作り、鉄製武器で強大な軍事力を持ち中央アジアを支配していた。
 スキタイ人は、馬の口にくわえさせる「鉄のはみ」を作って馬を移動手段と軍馬に利用した。
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 匈奴に鉄が伝えられ、匈奴は大規模な製鉄工場を建設し大量の鉄製武器を大量生産した。
 匈奴は、青銅製武器の漢帝国と激しい攻防戦を繰り返していた。
 紀元前200年 匈奴劉邦の漢軍を撃退した。
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 漢には匈奴より早く製鉄技術が伝わっていたが、匈奴の鉄より脆かった。
 漢は、製鉄の強度を増す技術革新を行った。
 紀元前133年 漢の武帝は、匈奴を撃退した。
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 鉄製農具によって農業革命が行われ、農作物の大量生産を可能にした。
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🎌7〕─9─日本の世襲制度と役職制度は、成長と共に名を代える出世魚に似ている。〜No.59No.60No.61 

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 2020年1月16日号 週刊新潮「読書万巻
 日本社会のあちこちに残る『世襲』の美点と欠点
 『世襲の日本史 「階級社会」はいかに生まれたか』 著者 本郷和人
 評者・山口真由
 小泉進次郎の子どもが国会議員となれば『5世議員』になるらしい。日本はどうしてこれほど世襲が多いのだろうか。この疑問に見事に答えてくれるのが、本郷和人世襲の日本史』である。本書を読めば、世襲の根深さが分かる。むしろ、世襲批判のほうが新しい。それほどに、社会の基本的な秩序となっているのである。
 世襲を支える日本社会の基本的なシステムは、本書によれば、『家』制度である。冒頭の『小泉家』を例にとると、政界に最初に進出したのは又次郎、そこから純也、純一郎、そして慎次郎へと、『当主』は代れど『家』は維持される。こう述べると、『家』は血統を守るための制度にも思える。が、そうではない。血統は家の正統性を担保するための要素に過ぎない。これを『「家」の超血縁性』という言葉で、本書は表現する。実際、純一郎の父・純也は、実の息子ではなく、婿養子である。血縁を超えて『家』が守ろうとしたのは、『家』それ自体。つまり、世代を超えて家を存続させること自体が、制度の目的なのである。
 この制度の下では、家の格によって出世の幅が決まる。ゆえに、社会の幅が小さい。例えば、一口に世襲議員といえど、決して同格ではない。総理大臣経験者の子孫は『サラブレッド』と呼ばれ、人より早く出世街道を進む。個人の能力による純粋な競争ではないのだ。
 思えば、家をもしたこの仕組みは、政治家のような特殊なお家のみならず、日本社会のあちこちに残る。私がかつて所属した財務省はⅠ種、Ⅱ種、Ⅲ種と採用試験によって出世の上限が決まっていた。『大蔵一家』と呼ばれ、個人よりも組織の論理を優先しがちな傾向もあったのだろう。
 著者は、家制度の美点と欠点を両方指摘する。安定した時代には秩序維持に優れた制度である。個人主義的な競争社会に比べて、伝統的な美風を残すことができるか。だが、自己保存を目的とする家制度は、変化を嫌い、旧弊を温存するとの逆の見方も成り立つ。現に、明治という激動の時代には、日本の有史以来初めて世襲を廃止し、個人を純粋に能力で登用したからこそ、一つの奇跡を成し遂げることができたのだ。
 安定期には世襲、激動の時代には個人主義という、この示唆は興味深い。日本では、安定成長期の後に『失われた30年』という長い低迷期が訪れている。固定的な社会システムに、その原因を求める声もある。一旦は能力主義を取り入れ、社会が活力を取り戻したら、安定期に適したシステムに戻す選択もあるのだろうか。年初から様々なことを考えさせられる本である」
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 商人の老舗は世襲で受け継がれ、息子の男系父系Y染色体ではなく娘(こいさん)の女系母系X染色体で成り立っている。
 歌舞伎や能、茶道や華道など古典文化芸能、伝統業職人の世界も、全て家伝秘伝一子相伝世襲である。
 歴史に残る名人・巨匠は、世襲の中からしか生まれない。
 一世を風靡する匠は、世襲でなければ一代限りで消え去る。
 後継ぎのいない家は、才能ある赤の他人を芸養子・技能養子として迎えて家の存続を図った。
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 日本で改革・変革・革新・改造があっても、根底から崩壊・破壊させる革命が起きないのは世襲制度が邪魔をしているからである。
 つまり、世界規模の大虐殺を防いでいたのは世襲制度である。
 日本を代表する世襲制度は、男系父系Y染色体に基づく天皇家・皇室である。
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 世襲制度とは、正統制度、家元制度、本家分家制度、本系傍系制度である。
 日本の世襲制度は、血筋・血統相続ではなく家・家名・家系相続である。
 世襲制度を温存できたのは、先達の伝統芸と当世風・今風の新作芸が両輪としてあったからである。
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 世襲制度のない国には、数百年、1000年以上続く老舗や生きた伝統文化芸能はない。
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 少子高齢化による人口激減と外国人移民(主に中国人移民)が急増すれば、民族特有の伝統的世襲制度は消滅していく。
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 江戸時代、金で武士になった庶民(百姓や町人)がいた。
 彼らは、金上侍、ニセ武士と呼ばれていた。
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 ブラック社会であった武士社会は、実力で成り上がってきた金上侍に対するイジメや意地悪は陰湿であったが、世襲家の養子に入った成り上がり武士には手出ししなかった。
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 下賤の身から天下人になった豊臣秀吉は、幼少は日吉丸と呼ばれていたが、下男・小者になってからは藤吉郎と名乗り、足軽・下級武士になると木下藤吉郎と名乗り、武将になってから羽柴秀吉と名乗り、関白になるために藤原家に養子に入り九条秀吉と名乗り、太政大臣・太閤の時代には天皇から姓を賜って豊臣秀吉と名乗った。
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 日本の世襲制度とは、親から子供・兄から弟・本家から分家へという血筋の継承ではなく、娘婿・他人の養子といった家・家名・家系の継承であった。
 役職は、個人の才能で就任するのではなく、役職家という世襲で就任する。
 その為、江戸時代、野心的な庶民(百姓や町人)は大金を払って御家人株を買って下級武士になり、役職に就く為には、才能を発揮して役職に相応しい世襲家の養子となった。
 自分が世襲家の養子になれなければ、子供を養子として送り込んだ。
 その代表が、勝海舟であり、川路聖謨であった。
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 大名家は、後継ぎを絶やさぬ為に他家から養子を取っていた。
 大名が養子を取る時は、将軍家か、若しくは自分より格下の小藩であった。
 将軍家から養子を向ける時は、多額の持参金を得られるからである。
 格下の小藩から養子を迎えるのは、大藩から養子を向けると実家に乗っ取られる恐れがあるが、小藩ではその危険がないからである。
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 家臣は、大名家・藩を存続させ為に主君・殿様を強制隠居させて取り換えた。
 家臣が命を賭け行った諌言や忠告は、主君思いの忠誠心からではなく、家族を家禄のない貧困浪人にさせない為であった。
 甲斐性のない浪人の妻や娘は悲惨で、金で商家の妾になるか、最悪は芸者か女郎に売られた。
 家臣にとって、主君の血筋・血統より主家・大名家・藩という家系の方が重要であった。
 家臣にとっての理想的主君とは、諸改革を行う名君ではなく政治に興味がない暗君である。
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🎌7〕─8─日本式世襲制度の正統性は男系父系Y染色体神話。〜No.56No.57No.58 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・  
 日本は、中国大陸や朝鮮半島から侵略され占領された事がない。
 つまり、日本には侵略王朝は存在しない。
   ・   ・   ・   
 男系父系Y染色体神話とは、大地母神崇拝文化であり、永年の命信仰つまり生まれ変わり・生き変わりの蘇り信仰である。
 女系母系X染色体神話にはそれが稀薄である。
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 男系父系Y染色体神話とは、縄文時代の地域で生活していた種族・部族→弥生時代の地域王、古代豪族→奈良時代の大王・天皇→平安の帝→鎌倉・室町・戦国・安土桃山・江戸→明治・大正・昭和初期の皇帝→昭和中期・平成の象徴→令和へと続く万世一系男系天皇の正統神話である。
 高天原神話、天孫降臨神話、天皇神話、日本民族心神話は、全て男系父系Y染色体神話である。
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 男系父系Y染色体神話には、唯一絶対の正統性はあっても複数の正当性は存在しない。
 唯一無二にして神聖不可侵の正統性とは、最高神である女性神天照大神を源泉とする特殊な血統・血筋による特別な一家系を皇統とする現天皇家・皇室である。
 複数の正当性には、特殊な血統・血筋による特別な一家系を皇統としない女系天皇即位・女系宮家創設が含まれる。
 つまり、複数の正当性とは男系父系Y染色体神話を否定したX染色体による新たな女系母系神話である。
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 男系父系Y染色体神話の縄文人とは、見境のない乱婚を繰り返してきた混血の雑種民族である。
 縄文人には、女系母系X染色体神話はない。
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 日本国憲法は、天皇即位と天皇家・皇室の法律的合法的正当性を規定しているが、天皇即位と天皇家・皇室の伝統・文化・宗教・家族・慣習の正統性は認定していない。
 つまり、男系母系Y染色体神話を消滅させて女系母系X染色体神話に変える事を目指している。
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 男系父系Y染色体神話は、男性中心主義、女性差別・性差別、男尊女卑、男性優位女性劣位とは無関係である。
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 縄文時代に作られた埴輪では、女性像とくに妊婦像が多く、男性像は少なかった。
 弥生時代に作られた埴輪では、男性像が多く、女性像は少なかった。 
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 ウィキペディア
 Y染色体(ワイせんしょくたい、英語: Y chromosome)は性染色体の一つ。正常な雄個体ではX染色体と同時に存在し、正常な雌個体には存在しない性染色体をY染色体という。
 X染色体とY染色体が同時に関与する性決定様式を、雄がX染色体とY染色体との組を持つヘテロ型であるため、雄ヘテロ型、さらに限定してXY型と呼ぶ。雄ヘテロ型性決定にはY染色体が関与しないXO型もあり、他に雌ヘテロ型の性染色体・性決定様式(ZW型・ZO型)も存在する。
 ヒトのY染色体
 Y染色体の消失
 Y染色体が男性のみに1本単独で存在するため、突然変異などで遺伝情報を失い、形態的にも小型化する傾向にあるのはヒトも例外ではないが、Y染色体自体を失っても雌雄の性別が保たれている種も存在しており、Y染色体の消失が即ち性別や種の存続に関わるかは別の問題である。現在、Y染色体の遺伝情報を修復するためにサイトカイニン水溶液などの薬物を精子に添加する(種無し植物の要領)など、方法がいくつか検討されているが、「失敗した時のリスクが大きすぎる。」という意見と、「人類の存続には犠牲はやむを得ない。」という意見とが対立している状況にある。
 Y染色体ハプログループ
 詳細は「Y染色体ハプログループ」を参照
 父系で遺伝するY染色体のハプログループ(=ハプロタイプの集団)をY染色体ハプログループという。Y染色体ハプログループを人類全体について調べることで、世界各地の民族の由来を調べることができる。
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 Y染色体論の破綻 - 小林よしのり 
 ゴー宣ネット道場 2019.5.15 11:30日々の出来事
 Y染色体論の破綻
 産経新聞竹内久美子が、男系Y染色体説を唱えている。
 これを言い出したのは八木秀次で、評判が悪いので隠すようになったが、実は男系血統絶対説の根拠はY染色体に帰結するしかないのだ。
 染色体も遺伝学もない時代に、Y染色体を守ろうという意識などないのに、日本人は本能でこれを守ってきたように書いているが、そんなものではない。
 単に支那儒教に影響された男系思想のマネをしていただけだろう。
 しかも民間から血を入れられない身分制があるから、非常に狭い一族の中で婚姻しなければならず、血統を遡ればどうしても天皇に行きついてしまう。
 Y染色体なんて合理主義を持ち出して来て、結局は肝心なところの合理を説明できない。
男系がY染色体なら、遡れば神武天皇では終わらない。
 ラミダス猿人のアルディの夫に行きついてしまう。
 神武天皇からの伝承を史実あつかいしているからこうなるのだ。
 天皇の起源を神話に求めなければ、Y染色体で説明せざるを得なくなり、皇祖神は天照大神ではなく、アルディになってしまうというわけだ。
 男系Y染色体カルトの理論は完全に破たんしている。
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 高森明勅
 2019年6月18日
 「神武天皇Y染色体」という妄想
 皇統問題を巡って、時に奇妙な“雑音”も混ざる。それらにまで一々丁寧にかまってはいられない。そうした雑音の1つが「神武天皇Y染色体」論。
 その染色体を受け継ぐ事こそが皇位継承の正統性の証(あかし)だ、と。安倍首相のブレーンと称する八木秀次氏あたりが発信源で、ご本人は「合理的」な説明と得意げだった。
 かなり前に、あるノンポリ編集者が「素朴な疑問なんですが、皇統を染色体で語っても不敬に当たらないんですか?」と尋ねたのを思い出す。彼はまさに健全な庶民の感覚を身に付けていたのだ。「勿論、不敬ですよ」と私は答えた。それで終わる話。
 なのに、ネット上では一頃、随分と流行ったらしい。恐らく、「何故、今後も男系限定を維持しなければならないのか」他に説明のしようが無かったせいだろう。ところが、これまで126代の天皇のうち、言うまでもなく10代は女性。だから、「神武天皇Y染色体」なるものは、受け継いでおられない。
 もしそれが本当に皇位継承を正当化する根拠なら、歴史上、10代の女性天皇がおられた事実を、どう説明するのか。一方、「どんなに直系から血が遠くなっても男系の男子には必ず継承されている」(八木氏)なら、平将門足利尊氏等々も皆、「神武天皇Y染色体」を受け継いでいる。であれば、将門も尊氏等々も(更にその子孫の多数の国民男性も)、それぞれ皇位継承資格を十分に持つはずだ。もう無茶苦茶。
 本人の意図はともあれ、論理必然的に、推古天皇をはじめとする過去の女性天皇のご即位を否定し、代わりに臣下(しんか)による皇位の簒奪(さんだつ=奪い取ること)を正当化する結論に行き着く。だから、この論を振り回している人物は、もし皇室の尊厳を決定的に傷付けたいのでなければ、論理的思考力の徹底的な欠如を自ら暴露している事になる。
 しかも、「染色体」という自然科学的概念なら当然、(神話には繋がらないので)神武天皇で“行き止まり”になる客観的根拠はどこにも無い。当たり前ながら、それより更に前に、染色体の連鎖が続く限り、どこまでも遡らねばならない。それがどこに辿り着くにせよ、縁もゆかりも無い正体不明の「初代の男性」(八木氏)のY染色体が何故、わが国の神聖なる皇位継承を正当化し得るのか。そんな事は無論、全くあり得ない。
 前にも紹介した、「皇統」の概念規定を巡る、「生物学的事実による」のではなく、「一定の名分(めいぶん=身分・立場などに応じて守るべき道義的な分限〔ぶんげん〕)によって限界づけられていなければならぬ」という、里見岸雄博士の指摘(『天皇法の研究』)をもう一度思い起こす必要がある。
 …という「国体論」的な批判“以前”に、「理系」的にもとっくに否定されていたようだ。私も先頃、ある医師から「最近の研究では、Y染色体というのは世代を経ると、どんどん崩れちゃうんですよ」という話を聴いていた。その「最近の研究」の出典が気になっていたものの、改めて自力で探し出してはいなかった。
 どうやら、国立成育医療研究センター平成27年にプレスリリースした「日本人男性のY染色体構造変化と精子形成障害の関連を解明(無精子症・乏精子症による男性不妊の診療に役立つ可能性)」(又はその根拠になった「Jaurnal of Human Genetics」掲載論文)らしい。作家の泉美木蘭氏のブログで初めて知った(6月15日13時55分アップロード「Y染色体はそのまま遺伝しないみたいだよ」)。やはり「泉美探偵事務所」は侮れない。
 同リリースによると、Y染色体は意外と“変化”が激しいようだ。「ヒトのY染色体には、欠失(染色体の一部が欠けること)や重複(染色体の一部が増えること)などの構造変化が生じやすい部分があることが知られています。今回、私たちは新たな方法で遺伝子解析を行い、Y染色体の構造変化が従来想定されているよりも多様かつ高頻度であることを明らかとしました」と。
 神武天皇以来、そのまま殆ど同じものを純粋に受け継いで来た故に、「『天皇の御印(みしるし)』として意味がある」(八木氏)というのは、自然科学的にもとんだ妄想だった訳だ。
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 ウィキペディア
 Y染色体アダム(Yせんしょくたいアダム)とは、Y染色体の系譜を遡った場合に、人類共通の男系祖先とみなせる概念上の人物である。
 ヒトのY染色体は男性から男性へと遺伝する。通常、Y染色体は男性の細胞核中に1本単独で存在し、相同染色体対を作らず、擬似常染色体領域と呼ばれる一部の領域を除いて、染色体の乗換えは起きない。このことから、Y染色体の特異的な領域(MSY, male specific region of Y chromosome)に生じている突然変異を特定することで、「人類共通の男系祖先」が一人に収斂する年代が推定されている。
 「人類共通の男系祖先」であるY染色体アダムは、20-30万年前の一人だと推定される。これはミトコンドリア・イブの年代とおおむね一致している。これは、それ以前にY染色体がなかったということを意味するのではなく、Y染色体は何十万年も前から存在していたが、そのほとんどは、途中で絶えてしまい、今もなお存在しているもののなかで一番古いものは20-30万年前のものだ(このアダムと同世代の他の男性は、いずれも男系子孫を残していない)、というだけのことである。現時点のY染色体は、数万年もたてば、すべて滅びてしまう。そして未来における何らかのY染色体をもつ誰かが、数万年後の世界にとってY染色体アダムとなる。
 現生人類で確認されている最も古い系統であるハプログループA00が27万年前に遡るとされていることは、Y染色体アダムの年代と合致する結果である。
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 ミトコンドリア・イブ(Mitochondrial Eve)とは、人類の進化に関する学説において、現生人類の最も近い共通女系祖先(the matrilineal most recent common ancestor)に対し名付けられた愛称。約16±4万年前にアフリカに生存していたと推定され、アフリカ単一起源説を支持する有力な証拠の一つである。
 しばしば誤解を受けるが、彼女は「同世代で唯一、現生人類に対し子孫を残すことができた女性」ではない。母方以外の系図を辿れば、彼女以外の同世代の女性に行き着くことも可能である(後段の「よくある誤解」を参照)。人類の出アフリカの時期を求める手掛かりのうち、年代特定が比較的容易なサンプルの一つであるという以外には、彼女は人類史に特別な意味や興味を占める人物ではない。
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 農耕漁労民であり日本民族日本人にとって太陽とは、最高神である女性神天照大神天皇家・皇室の祖先神)である。
 太陽は神という宗教観は、縄文時代から色々に形を変えながら、古事記日本書紀が編纂された奈良時代に定まった。
 天照大神を太陽の化身として、高天原神話、天孫降臨神話、天皇神話、日本民族心神話、皇室祭祀・宮中祭祀天皇祭祀が生まれた。
 世界の宗教からすれば、わりかしと新しい宗教観である。
 太陽神・天照大神に対する祭祀は、天皇家・皇室における一子相伝の秘儀として、万世一系の男系子孫のみに継承されていた。
 伝統文化において継承者には女系天皇及び女系宮家は存在しないし、一子相伝の秘儀は執り行う事は不可能とされた。
 ただし、男系女子は特殊な血統・血筋を正統として執り行う事は可能であった。
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 日本列島に流れ着いたホモサ・ピエンスは、釣り針・素潜り・海舟文化の南方系海洋民、長江文明水稲・雑穀・川舟文化の揚子江流域民、狩猟採取・縫い針・毛皮文化の北方系山野民、黄河文明の麦・陸稲・牧畜・騎馬文化の西方系草原民など雑多であった。
 そうした人の流れに乗って数多くの宗教や思想が日本に伝来し、あるものは受け入れられて土着化し、あるものは排除された。
 土着しても都合が良いように恣意的に作り変えられ、残るもの残り、消えるものは消えた。
 漢族系中国人や朝鮮人は、黄河文明の麦・陸稲・牧畜・騎馬文化の西方系草原民の子孫である。
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 日本文明は、多種多様多元で寛容・受容・開放な長江文明の後継文明であって、一種一様一元で不寛容・排他・閉鎖な黄河文明の亜流文明ではない。
 日本文化は、日本列島で土着民族=日本民族日本人の生活の中から生まれ出たものが多く、中国文化や朝鮮文化から渡来したものはほんの僅かでしかない。
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 原始的日本民族日本人が持つていたポジティブなラテン的性格とは、大陸の陽気ではなく海洋の呑気である。
 同じ日本人といっても、原始的日本民族日本人と現代日本国民日本人とは違い、現代日本国民日本人には原始的日本民族日本人から受け継いだ素養は少ない。
 同様の事が、琉球人=沖縄県民やアイヌ人でも言える。
 だが、もっと歪に醜悪的に変貌したのが現代日本人である。
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☶51〕─3─北朝鮮の「大和堆」違法操業が深刻化。~No.439No.440No.441 

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 2020年1月8日11:27 産経新聞尖閣周辺に中国船 8日連続
 日本固有の領土である尖閣諸島
 沖縄県尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で8日、中国海警局の船3隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは8日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。
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 1月8日19:05 産経新聞大和堆」取り締まり 北朝鮮漁船への退去警告1300件超 投石10件も
 日本海大和堆周辺で北朝鮮漁船に退去警告をする海上保安庁の巡視船(奥)=2019年6月中旬(同庁提供)
 日本海の日本の排他的経済水域EEZ)にある好漁場「大和堆(やまとたい)」周辺での北朝鮮漁船による違法操業問題で、海上保安庁は8日、スルメイカの漁期にあたる昨年5~12月の取り締まり結果を公表した。EEZに侵入するなどした漁船への退去警告は1300件超に上り、海保の巡視船への投石が10件発生。平成30年の漁期に続き大和堆入域を阻止したとしているが、北朝鮮側の威嚇や抵抗は止まず、警戒を強めている。
 海保によると、EEZに侵入するなどした延べ1308隻の北朝鮮漁船に拡声器や電光表示で退去するよう警告。応じなかった延べ252隻に放水を行った。
 投石は、巡視船が接近し、退去警告を始めた後に発生していた。けが人はなかった。大和堆周辺では昨年10月、水産庁漁業取締船に北朝鮮漁船が衝突し沈没する事故が起きたが、これ以外に衝突事案はなかった。一方、昨年1年間で日本海側の沿岸への木造船の漂着、漂流は前年比67件減の158件だった。
 北朝鮮漁船への退去警告の総数も30年の延べ1624隻に比べると316隻減少しており、「北朝鮮側が日本側の厳しい姿勢を認識した可能性もある」(海保関係者)という。ただ、日本の周辺海域で深刻な不漁が続き、そもそも現れる北朝鮮漁船も少なかったとの見方もあり、海保は警戒を続ける。
 大和堆周辺では12月以降、北朝鮮漁船はほぼ確認されず、海保は今期の漁を終えたとみている。
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 2020年1月8日21:03 産経新聞北朝鮮の「大和堆」違法操業が深刻化 日本の漁業者苦境
 北朝鮮漁船(木造船)に放水をする巡視船=平成31年11月上旬(海上保安庁提供)
 「大和堆(やまとたい)」では平成28年秋から、北朝鮮漁船の違法操業が深刻化。海上保安庁水産庁の取り締まりに対する銃での威嚇や、投石などの抵抗も後を絶たない。一方、海域は過去にない不漁に見舞われており、日本の漁業者は深刻な状況に直面している。
 大和堆周辺では昨年、北朝鮮側のあからさまな行動が複数あった。8月、海保の巡視船を北朝鮮公船とみられる船舶が小銃で威嚇。水産庁の漁業取締船も北朝鮮海軍のような旗を掲げた小型高速艇に接近された。
 この前後、北朝鮮側は、日本側に対して、英語で領海を意味する「territorial?water(テリトリアル・ウオーター)」という用語を使い、無線で「即時退去せよ」と要求。10月には取締船の退去警告・放水を受けた北朝鮮漁船が取締船に衝突し沈没する事故も起きている。
 北朝鮮水産業を国家防衛の「戦闘」に位置付け推進している。国民は小型の木造船で危険な遠洋操業に駆り出されている。
 秋田県男鹿半島から西へ約400キロの日本海にある大和堆は元々、スルメイカなどの好漁場として知られ、日本各地から漁船が出漁してきた。だが、平成28年秋、多数の北朝鮮漁船の侵入が確認され、夜間に日本漁船の灯火を頼りに接近したり、漁具を破損したりして日本漁船が退避するケースも頻発した。
 その後、日本側が取り締まりを強化したものの、日本の漁業者は苦境に直面する。「全国いか釣り漁業協会」によると、昨年のイカの水揚げは11月現在で2079トン(速報値)。前年比で8割も減った。乱獲による資源量減少が原因かは分からないが、同協会は「未曾有の深刻な不漁。『このままでは、廃業になりかねない』という厳しい声があがっている」と強調する。
 日本沿岸への木造船の漂着も続く。昨年12月には新潟県佐渡島にハングルが書かれた木造船が漂着。7体とみられる遺体が見つかった。こうした漂着船は、環境省の全額補助で処分は市町村が請け負う。30年度の補助額は7781万円。同省は「少なくない支出だ」と話す。
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🌪5〕─1・B─ホモ・サピエンスのアフリカ起源説など。人類史の常識が次々と覆されている。〜No.109 * 

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 今、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説など
 人類史の常識が次々と覆されている
 [橘玲の世界投資見聞録]
 2018年10月19日
 30億ドル(約3300億円)の予算をかけたヒトゲノム計画が完了してわずか十数年で、全ゲノム解析のテクノロジーは驚くべき進歩をとげ、いまでは誰でもわずか数万円で自分のDNAを調べられるようになった。
 さらに近年、遺跡などから発掘された遺骨からDNAを解析する技術が急速に進歩し、歴史時代はもちろん、サピエンスが他の人類と分岐する以前の古代人の骨の欠片からDNAを読み取ることもできるようになった。この「古代DNA革命」によって、従来の遺跡調査からはわからなかった人類の移動や交雑の様子が明らかになり、古代史・歴史の常識が次々と覆されている。
 デイヴィッド・ライク『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版)は、サピエンスとネアンデルタール人の交雑を証明したマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボとともに、この「古代DNA革命」を牽引する現役の遺伝学者が学問の最先端を一般向けに紹介した刺激的な本だ。
 詳細は本を読んでいただくとして、ここではそのなかから興味深い知見をいくつか紹介したい。とはいえ、その前に用語について若干断っておく必要がある。
 日常的に「人類」と「ヒト」を区別することはないが、人類学では両者は異なる意味で使われる。「ヒト」は現生人類(ホモ・サピエンス)のことで、「人類」はヒト族のみならず化石人類(アウストラロピクテス属など)を含むより広義の分類だ(専門用語ではホモ属=ホミニンhomininという)。ここでは、ユヴァル・ノア・ハラリに倣って現生人類を「サピエンス」とし、ネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅した古代人を含むホモ属の集合を「人類」とする。
 本書でいう「交雑」とは、人類のなかの異なる集団(サピエンスとネアンデルタール人)や、サピエンスのなかの異なる集団(アフリカ系とヨーロッパ系)のDNAが混じりあうことだ。これは一般に「混血」とされるが、血が混じり合うわけではないから、科学的には明らかに誤っている。そのため「交配」が使われたりしたが、これはもともと品種改良のことで優生学的な含みがあるため、消去法で「交雑」に落ち着いたのだろう。
 そうはいっても、「交雑」には「純血種をかけあわせたら雑種になる」というニュアンスがあり、「彼らは混血だ」というのと、「彼らは交雑だ」というのではどちらがPC(政治的に正しい)かというやっかいな問題は避けられないだろう。しかし私に代案があるわけでもなく、将来、よりPCな用語が定着するまで、本稿でもサピエンス内の集団の性的交わりを含め「交雑」とする。
 これまで何度か書いたが、「原住民」と「先住民」では漢語として明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、現在も生活している集団」で、「先住民」は「かつて住んでいて、現在は絶滅している集団」のことだ。日本では「原住民」が一部で差別語と見なされているが、ここでは漢語本来に意味にのっとり、「アメリカ原住民」「オーストラリア原住民」として「(絶滅した)先住民」と区別する。
 全ゲノム解析によりホモ・サピエンスのアフリカ起源説が揺らいできた
 進化の歴史のなかでは、ホモ・サピエンス(現生人類)にはさまざまな祖先や同類がいた。ラミダス猿人やホモ・ハビルス北京原人ネアンデルタール人などの化石人類を含めた人類(ホモ族)は、700万~600万年前にアフリカのどこかでチンパンジーとの共通祖先から分かれた。
 これについては大きな異論はない(あまりに遠い過去で証明のしようがない)が、その後の人類の歴史については、多地域進化説とアフリカ起源説が対立した。
 多地域進化説では、180万年ほど前にユーラシアに拡散したホモ・エレクトス(原人)が各地で進化し、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの異なる地域で並行的にサピエンスに進化したとする。それに対してアフリカ起源説では、サピエンスの祖先はアフリカで誕生し、その後、ユーラリア大陸に広がっていった。
 1980年代後半、遺伝学者が多様な民族のミトコンドリアDNAを解析して母系を辿り、すべてのサンプルがアフリカにいた1人の女性から分岐していることを明らかにした。これがミトコンドリア・イブで、約16万年(±4万年)に生存したとされる。この発見によってアフリカ起源説に軍配が上がったのだが、これはサピエンスが10~20万年前のアフリカで誕生したということではない。
 ライクによれば、この誤解はミトコンドリアのDNAしか解析できなかった技術的な制約によるもので、全ゲノム解析によると、ネアンデルタール人の系統とサピエンスの系統が分岐したのは約77万~55万年前へと大きく遡る。サピエンスの起源は、従来の説より50万年も古くなったのだ。
 そうなると、(最長)77万年前からミトコンドリア・イブがいた16万年前までの約60万年が空白になる。これまでの通説では、その間もサピエンスはずっとアフリカで暮らしていたということになるだろう。
 ところがその後、サピエンスの解剖学的特徴をもつ最古の化石が発見され、その年代が約33万~30万年前とされたことで、従来のアフリカ起源説は大きく動揺することになる。“最古のサピエンス”はジェベル・イルード遺跡で見つかったのだが、その場所は北アフリカのモロッコだったのだ(正確には石器や頭蓋の破片が発見されたのは1960年代で、近年の再鑑定で約30万年前のものと評価された)。
 アフリカ起源説では、サピエンスはサハラ以南のアフリカのサバンナで誕生し、約5万年前に東アフリカの大地溝帯から紅海を渡って「出アフリカ」を果たしたとされていた。だが30万年前に北アフリカにサピエンスが暮らしていたとなると、この通説は覆されてしまうのだ。
 遺伝学的には「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」がある
 遺伝学的には、サピエンスは「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」の大きく2つの系統に分かれる。ユーラシア系統は5万年ほど前にアフリカを出て世界じゅうに広がっていき、アフリカ系統はそのまま元の大陸に残った。
 この2つの系統は、ネアンデルタール人のDNAを保有しているかどうかで明確に分かれる。ネアンデルタール人はユーラシアにしかいなかったため、アフリカにいるサピエンスとは交雑せず、そのためアフリカ系統の現代人にネアンデルタール人のDNAの痕跡はない。
 従来の説では、ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多く発見されたため、出アフリカ後に北に向かったサピエンスが交雑したとされていた。だが現代人のDNAを解析すると、非アフリカ系(ユーラシア系)はゲノムの1.5~2.1%ほどがネアンデルタール人に由来するが、東アジア系(私たち)の割合はヨーロッパ系より若干高いことが明らかになったのだ。
 その後も、単純な「出アフリカ説」では説明の難しい人類学上の重要な発見が相次いだ。
 2008年、ロシア・アルタイ地方のデ二ソワ地方の洞窟で、約4万1000年前に住んでいたとされるヒト族の骨の断片が見つかった。サピエンスともネアンデルタール人とも異なるこの人類は「デニソワ人」と名づけられたが、DNA解析でニューギニアメラネシアでデニソワ人との交雑が行なわれたいたことがわかった。――ライクは、これをシベリア(北方)のデニソワ人とは別系統としてアウストラロ(南方)デニソワ人と呼んでいる。
 さらに、アフリカ系と非アフリカ系のDNAを比較すると、ネアンデルタール人、デニソワ人とは別系統のDNAをもつ集団がいたと考えないと整合性がとれないこともわかった。
 ライクはこの幻の古代人を「超旧人類」と名づけ、サピエンス、ネアンデルタール人、デ二ソワ人の共通祖先(約77万~55万年前)よりもさらに古い140万~90万年前に分岐したと推定した。超旧人類はデニソワ人と交雑し、その後、絶滅したと考えられる。
 約5万年前にサピエンスが「出アフリカ」を遂げたとき、ユーラシアにはすくなくともネアンデルタール人とデニソワ人(アウストラロ・デニソワ人)という人類がおり、サピエンスは彼らと各地で遭遇した。交雑というのは性交によって子どもをつくることで、動物の交配(品種改良)を見ればわかるように、きわめて近い血統でなければこうしたことは起こらない。
 分類学では、子をつくらなくなった時点で別の「種」になったとみなす。ということは、サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人は(あるいは超旧人類も)「同種」ということだ。ネアンデルタール人とデニソワ人は同じユーラシアに住み、47万~38万年前に分岐したとされるから「同種」なのもわかるが、それより前の77万~55万年前に分岐し、地理的に隔絶したアフリカ大陸で(最長)70万年も独自の進化をとげてきたはずのサピエンスがとつぜんユーラシアに現われ、彼らと交雑できるのだろうか。
 ここでライクは、きわめて大胆な説を唱える。サピエンスもユーラシアで誕生したというのだ。
 サピエンスはなぜ他の人類を絶滅させるまでになったのか
 従来の人類学では、人類はアフリカで誕生し、約180万年前にホモ・エレクトス(原人)がユーラシア大陸に進出した後も、ネアンデルタール人の祖先やサピエンスなど、さまざまな人類がアフリカで誕生しては繰り返し「出アフリカ」したことになっている。だがなぜ、新しい人類はアフリカでしか生まれないのか? ユーラシア大陸にも180万年前から多くの人類が暮らしていたのだから、そこで進化したと考えることもできるのではないか。
 ライクは古代人のDNA解析にもとづいて、ユーラシアに進出したホモ・エレクトスから超旧人類が分岐し、さらにサピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人と分岐していったのではないかと考える。デニソワ人は東ユーラシアから南ユーラシアに広がり、ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に西ユーラシアに分布した。だとしたら、サピエンスはどこにいたのか。
 ライクの説によると、サピエンスは脆弱な人類で、ネアンデルタール人に圧迫されて中東の一部に押し込められていた。その後、ネアンデルタール人がさらに中東まで進出したことで、約30万年前には北アフリカや東アフリカまで撤退せざるを得なくなった。これが、モロッコでサピエンスの痕跡が発見された理由だ。
 ところが5万年ほど前に、そのサピエンスが「出アフリカ」を敢行し、こんどはネアンデルタール人やデニソワ人などを「絶滅」させながらユーラシアじゅうに広がっていく。このときネアンデルタール人は中東におり、サピエンスと交雑した。このように考えると、アフリカ系にネアンデルタール人のDNAがなく、東アジア系がヨーロッパ系と同程度にネアンデルタール人と交雑していることが説明できる。ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多数見つかるのは、サピエンスと遭遇したのち、彼らがユーラシア大陸の西の端に追い詰められていったからだろう。
 中東でネアンデルタール人と交雑したサピエンスの一部は東に向かい、北ユーラシアでデニソワ人と、南ユーラシアでアウストラロ・デニソワ人と遭遇して交雑した。その後、彼らはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ、海を越えてオーストラリア大陸へ、そして千島列島から北海道、本州へと渡り縄文人の先祖になった。
 ところで、ネアンデルタール人に圧迫されて逃げまどっていた脆弱なサピエンスは、なぜ5万年前には、他の人類を絶滅させるまでになったか。これについては遺伝学者のライクはなにも述べていないが、ひとつの仮説として、アフリカに逃げ延びた30万年前から「出アフリカ」の5万年前までのあいだに、共同で狩りをするのに必要な高度なコミュニケーション能力を進化させたことが考えられる。これによってサピエンスは、マンモスなどの大型動物だけでなく、ネアンデルタール人やデニソワ人など他の人類を容赦なく狩り、男を皆殺しにし女を犯して交雑していったのかもしれない。
 馬を手にしたヤムナヤの遊牧民がヨーロッパに移動した
 ライクは『交雑する人類』で、DNA分析からヨーロッパ、南アジア、東アジア、アメリカ原住民、オーストラリア原住民、アフリカなどでどのようにサピエンスが移動し、交雑していったのかを説明している。ここではそのなかで、ヨーロッパとインドについて紹介しよう。
 1万年前、中東の肥沃な三日月地帯で農耕が始まると、新たなテクノロジーを手にしたひとびとは農耕可能な土地を求めて東西に移住していった。しかしなかには農耕に適さない森林地帯や草原地帯(ステップ)もあり、そこには依然として狩猟採集民がいた。農耕民と狩猟採集民は、時に交易し、時に殺し合いながら暮らしていた。そうした集団のなかには、今日、DNAにしか痕跡を残さない者もおり、ライクはそれを「ゴースト集団」と呼ぶ。
 遺伝学的には、8000年前頃の西ユーラシアの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という、いまでは珍しい組み合わせの風貌だったと推定されている。ヨーロッパの最初の農耕民のほとんどは、肌の色は明るかったが髪は暗い色で茶色の目をしていた。典型的なヨーロッパ人の金髪をもたらした変異の最古の例として知られているのは、シベリア東部のバイカル湖地帯でみつかった1万7000年前の古代北ユーラシア人(ゴースト集団)だ。
 ヨーロッパの東には中央ヨーロッパから中国へと約8000キロにわたって延びる広大なステップ地帯があったが、5000年ほど前にそこで馬と車輪というイノベーションが起きた。この最初の遊牧民の文化を「ヤムナヤ」と呼ぶ。
 馬という高速移動手段を手にしたヤムナヤの遊牧民は、新たな土地を求めて移動を繰り返した。このうち西に向かった遊牧民が現在のヨーロッパ人の祖先だ。
 ここでライクが強調するのは、遊牧民がヨーロッパの農耕民と交雑したわけではないということだ。DNA解析によれば、彼らは定住民とほぼかんぜんに置き換わってしまったのだ。
 遊牧民が定住民の村を襲ったのだとすれば、男を殺して女を犯して交雑が起きるはずだ。その痕跡がないということは、遊牧民がやってきたときには定住民はいなかった、ということになる。そんなことがあるのだろうか。
 ここでの大胆な仮説は病原菌だ。ペストはもとはステップ地帯の風土病とされているが、遊牧民が移住とともにこの病原菌を運んできたとしたら、免疫のない定住民はたちまち死に絶えてしまったはずだ。こうして交雑なしに集団が入れ替わったのではないだろうか。
 15世紀にヨーロッパ人はアメリカ大陸を「発見」し、銃だけでなく病原菌によってアメリカ原住民は甚大な被害を受けた。興味深いことに、それとまったく同じことが5000年前のヨーロッパでも起き、「原ヨーロッパ人」は絶滅していたかもしれないのだ。
 西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じ起源を持つ同祖集団
 馬と車輪を手にしたステップの遊牧民のうち、ヨーロッパ系とは別の集団は南へと向かい、現在のイランや北インドに移住した。彼らはその後「アーリア」と呼ばれるようになる。
 独立後のインドでは、「インド人とは何者か?」が大きな問題になってきた。
 ひとつの有力な説は、ヴェーダ神話にあるように、北からやってきたアーリアがドラヴィダ系の原住民を征服したというもの。この歴史観によると、バラモンなどの高位カーストは侵略者の末裔で、低位カーストや不可触民は征服された原住民の子孫ということになる。
 だがこれが事実だとすると、インドはアメリカの黒人問題と同様の深刻な人種問題を抱えることになり、国が分裂してしまう。そこでヒンドゥー原理主義者などは、アーリアももとからインドに住んでおり、神話にあるような集団同士の争いはあったかもしれないが、それは外部世界からの侵略ではないと主張するようになった。
 現代インド人のDNA解析は、この論争に決着をつけた。
 インド人のDNAを調べると、アーリアに由来する北インド系と、インド亜大陸の内部に隔離されていた南インド系にはっきり分かれ、バラモンなど高位カースト北インド系で、低位カーストや不可触民は南インド系だ。インダス文明が滅び『リグ・ヴェーダ』が編纂された4000年~3000年前に大規模な交雑があり、Y染色体(父系)とミトコンドリア染色体(母系)の解析から、北インド系の少数の男が南インド系の多くの女と子をつくっていることもわかった。
 近年のヒンドゥー原理主義は、カーストが現在のような差別的な制度になったのはイギリスの植民地政策(分断して統治せよ)の罪で、古代インドではカーストはゆるやかな職業共同体で極端な族内婚は行なわれていなかったとも主張している。この仮説もDNA解析で検証されたが、それによると、ヴァイシャ(商人/庶民)階級では、2000~3000年のあいだ族内婚を厳格に守って、自分たちのグループに他のグループの遺伝子を一切受け入れていないことが示された。ジャーティと呼ばれるカースト内の職業集団にもはっきりした遺伝的なちがいがあり、インドは多数の小さな集団で構成された「多人種国家」であることが明らかになった。
 西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じステップ地方の遊牧民「ヤムナヤ」に起源をもつ同祖集団で、だからこそ同系統のインド=ヨーロッパ語を話す。それに加えてライクは、バラモンによって何千年も保持されてきた宗教もヤムナヤ由来で、ヨーロッパ文化の基層にはヒンドゥー(インド)的なものがあることを示唆している。
 ゲノム解析では「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」はグループ分けできる
 『交雑する人類』にはこれ以外にも興味深い仮説がたくさん出てくるのだが、それは本を読んでいただくとして、最後に人種問題との関係についてライクの見解を紹介しておきたい。
 ここまでの説明でわかるように、DNA解析は歴史を再現するきわめて強力な手段だ。それがサピエンスとネアンデルタール人の交雑であれば科学的な興味で済むだろうが、現代人の異なる集団の交雑を検証する場合、北インド人と南インド人のケースでみたように、きわめてセンシティブな領域に踏み込むことになる。一歩まちがえば「人種主義(レイシズム)」として批判されかねないのだ。
 ライクはリベラルな遺伝学者で、この重い問いに誠実にこたえようとする。その一方で、科学者として耳触りのいい「きれいごと」でお茶を濁すこともできない。
 リベラル(左派)の知識人は、「人種は社会的な構築物だ」とか、「人種などというものはない」と好んでいいたがる。だが2002年、遺伝学者のグループがゲノム解析によって世界中の集団サンプルを分析し、それが一般的な人種カテゴリー、すなわち「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」と強い関係のあるクラスターにグループ分けできることを立証した。これはもちろん、「人種によってひとを区別(差別)できる」ということではないが、人種(遺伝人類学では「系統」という用語が使われる)のちがいに遺伝的な根拠があることをもはや否定することはできない。
 このことは、もっとも論争の的となる人種と知能の問題でも同じだ。
 ヨーロッパ人系統の40万人以上のゲノムをさまざまな病気との関連で調査した結果から、遺伝学者のグループが就学年数に関する情報だけを抽出した。その後、家庭の経済状況などのさまざまなちがいを調整したうえで、ゲノム解析によって、就学年数の少ない個人より多い個人の方に圧倒的によく見られる74の遺伝的変異が特定された。
 これも遺伝によって頭のよさ(就学年数の長さ)が決まっているということではないが、「遺伝学には就学年数を予測する力があり、それはけっして些細なものではない」とライクはいう。予測値がもっとも高いほうから5%のひとが12年の教育機関を完了する見込みは96%なのに対して、もっとも低いほうから5%のひとは37%なのだ。
 こうした(リベラル派にとって)不都合な研究結果を紹介したうえで、ライクは、「実質的な差異の可能性を否定する人々が、弁明の余地のない立場に自らを追い込んでいる」のではないかと危惧する。私なりに翻案すれば、「扉の陰にいるのは黒いネコであるべきだし、黒いネコに間違いないし、いっさい異論は許さない」と頑強に主張しているときに、白いネコが出てきたらいったいどうなるのか、ということだ。「そうした立場は、科学の猛攻撃に遭えばひとたまりもないだろう」とライクはいう。
 これは「古代DNA革命」の第一線の研究者として、新しいテクノロジーのとてつもないパワーを知り尽くしている者だけがいうことができるきわめて重い発言だ。門外漢の私はこれについて論評する立場にないので、最後にライクの警告を引用しておきたい。
「認知や行動の特性の大半については、まだ説得力のある研究ができるだけの試料数が得られていないが、研究のためのテクノロジーはある。好むと好まざるとにかかわらず、世界のどこかで、質のよい研究が実施される日が来るだろうし、いったん実施されれば、発見される遺伝学的なつながりを否定することはできないだろう。そうした研究が発表されたとき、わたしたちは正面から向き合い、責任を持って対処しなければならない。きっと驚くような結果も含まれているだろう」
 橘 玲(たちばな あきら)
 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。
橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
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🗾29〕─2─人類は男系父系Y染色体集団で世界へ移動して行った。〜No.131No.132No.133 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 集団・組織の絆・繋がりといっても、男系父系Y染色体と女系母系X染色体では事なる。
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 ジェンダーフェミニスト、男女平等とは、原始時代から受け継いだきた男系父系Y染色体の人類神話を破壊し、愛欲・色欲に基ずく女系母系X染色体を新たな人間物語にしようという宗教革命である。
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 男系父系Y染色体は、団結の求心力として集団・組織を形成し、人種・民族・部族を生み出し、人類・民族・部族という人の歴史を作り出した。
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 Y染色体は有限な為に、区切り、区分け、範囲、境界、境目、限定などの線引き・ケジメがハッキリと定めやすいが、X染色体は無限の為にそれらができない。
 何故なら、Y染色体は子供を産ませるオスであり、X染色体は子供を産むメスだからである。
 繁殖相手を決めるのは、オスではなくメスである。
 遺伝子・染色体の滅亡と存続を決める決定権は、メスが持っている。
 メスは、オスの知らないところで別のより優れた遺伝子を持ったオスの子を宿し産み、遺伝子が異なる他人の子をオスに自分の事して育てさせる。
 愛という幻想でY染色体・オスは、X染色体・メスの企みで滅びる脅威に晒されている。
   ・   ・   ・   
 日本で、世界の常識的な数十万人・数百万人を殺す悲惨な大虐殺がなかったのは、男系父系Y染色体天皇制度が神聖不可侵として存在していたからである。
 男系父系Y染色体皇帝制度といっても、日本の天皇制度と中華(中国や朝鮮)の天子制度とは根本から違う異質な制度である。
 現代日本の高学歴出身知的エリートは、歴史力がなく生理的に歴史が嫌いな為に歴史的事実が理解できないし、男系父系Y染色体と女系母系X染色体の違いも理解できない、と言うより理解する事を拒絶している。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア  
 人の移動(Human migration)とは、人間がある場所から別の場所へ、永続的にあるいは一時的に動くことである。本記事では人類誕生以来、現代に至るまでの、人の移動の歴史(History of human migration)について扱う。

 旧石器時代
 出アフリカと世界への拡散
 ハプログループAの移動
 現生人類の最も古い化石は、エチオピアのオモ遺跡から発見されたおよそ19万5,000年前のものとされてきたが、2004年にモロッコのJebel Irhoudの地層で発見された、頭蓋骨及びその同年代のもの思われる複数の石器がおよそ30万年前のものであると結論づけられた。アフリカ人の遺伝的多様性に関する広範な研究から、南西アフリカのナミビアアンゴラの沿岸境界近くが現生人類の移動の起点だとされている。父系最古の遺伝子であるハプログループA (Y染色体)の分布もそれを示唆している。
 現在広範に支持されているのはアフリカ単一起源説である。ホモ・サピエンスは7万前にアフリカから外へ移住し始め(出アフリカ)、そのルートはアフリカ東部の突端であるいわゆるアフリカの角からアラビア半島を経由したものだと考えられている。
 Y染色体ハプログループの拡散と人種。褐色がネグロイド、青色がオーストラロイド、黄色がモンゴロイド、桃色がコーカソイド
 アフリカを出た現生人類はアラビア半島沿岸部を伝って現在のイラン付近に至り、そこを起点に、インドから東南アジア、オセアニア方面にむかう「南ルート」、中央アジアを経由してアルタイ山脈、東アジア、北アジア方面に向かう「北ルート」、中東、ヨーロッパに向かう「西ルート」の3方向に分かれた拡散した。人類のY染色体ハプログループ、ミトコンドリアDNAハプログループ、ピロリ菌および形質人類学的特徴もこの流れに対応しており、南ルートをとった集団がオーストラロイド、北ルートがモンゴロイド、西ルートがコーカソイド、非出アフリカがネグロイドということになる。

 Y染色体ハプログループの拡散と人種
 非出アフリカ(ネグロイド)…A(カポイド)、B(ネグリロ)、E(コンゴイド) 
 南ルート(オーストラロイド)…C1b3、F*、K*、MS、H、L  
 北ルート(モンゴロイド)…D1、C1a1、C2、N、O、Q 
 西ルート(コーカソイド)…C1a2、I、J、G、R、T

 日本列島旧石器時代人・縄文人のルーツ
 ハプログループDの移動想定経路
 形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている北東アジアと日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。一般に縄文人は寒冷適応する前の古モンゴロイドに属すと考えられている。
Y染色体の分析から、日本人は主にY染色体ハプログループD1a2の縄文系とハプログループO1b2の弥生系を起源とすることが明らかになった。ハプログループD系統は、現代アジアにおいて支配的なO系統やC2系統とは分岐から7万年以上、最も近縁であり同じYAP型であるE系統とも分岐から6.5万年前以上経った系統であり、日本列島外で高頻度で観察されるのはチベット人(D1a1)、アンダマン人(D1a3)くらいである。日本列島に固有にみられるハプログループD1a2はアイヌ人・沖縄人・本土日本人の3集団に多く見られるタイプであり、 アイヌ人の88%に見られることから、縄文人(古モンゴロイド)のタイプであると考えられている。(但し縄文人のハプログループがD1a2だけだった訳ではなくハプログループC1a1もあったことが知られているが、多数派として現在まで伝わったハプログループがD1a2だといえる)。日本固有のD1a2系統はその発生から3.5-3.7万年ほどたっているとされ、考古学から求められる日本列島に最初に現生人類集団が到来した時期と一致している。
 長らく縄文人の人骨よりY染色体ハプログループは分析されてこなかったが、北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800~3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2b1(D-CTS220)であることが判明した。これにより「ハプログループD1a2は縄文系である」という従来よりの仮説が完全に実証されたことになる。
 一方母系を辿ることができるミトコンドリアDNAハプログループの分析によっても縄文人のルーツの一角が解明され、日本固有のハプログループM7aや南方系と共通の遺伝子を持つハプログループBやFを持つことが知られている。また北海道の縄文人はハプログループN9bが最多でM7aは少なく、東北地方の縄文人も似た傾向を示している。このことから縄文人のルーツは一つではなく複数あったと考えられる。
 また、縄文人に関連する遺伝子として、ATLのレトロウイルス (HTVL-I) がある。日本人にはこのウイルスキャリアが多数存在することは知られていたが、東アジアの周辺諸国ではまったく見出されていない。いっぽうアメリカ先住民やアフリカ、ニューギニア先住民などでキャリアが多いという特徴をもつ。日本国内では、九州南部、長崎県、沖縄やアイヌに特に高頻度で見られ、四国南部、紀伊半島の南部、東北地方の太平洋側、隠岐五島列島などの僻地や離島に多い。九州、四国、東北の各地方におけるATLの好発地域を詳細に検討すると、周囲から隔絶され交通の不便だった小集落でキャリアは高率に温存されていることから、このウイルスのキャリア好発地域は、縄文系の人々が高密度で残存していることを示していると考えられる。

 新石器時代
 ウラル系民族の大移動
 ウラル語族、ユカギール語の分布
 サモエード語派 - SN:北部サモエード語群、SS:南部サモエード語群
 フィン・ウゴル語派 - FU:ウゴル諸語、FP:ペルム諸語、FW:ボルガ・フィン諸語、FS:サーミ語、FO:バルト・フィン諸語
 (J:ユカギール語)
 ウラル語族を話す民族は大きくサモエード系とフィン・ウゴル系に大別される。言語学的知見からは、サモエド祖語とフィン・ウゴル祖語の分岐年代はおよそ紀元前4000年ごろと考えられているが、分子人類学的知見からは、ウラル語族話者に関連する遺伝子としてY染色体ハプログループNがあげられる。ハプログループNは東アジア発祥と考えられ、ほとんどのウラル系民族で高頻度に観察される。中国北東部の遼河文明時代の人骨からY染色体ハプログループNが60%以上の高頻度で検出されており、フィン・ウゴル系民族と関連する櫛目文土器の最古のものが遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されていることを併せて考えれば、ウラル系民族の発祥の地は遼河文明であったことが示唆される。またmtDNAハプログループZは極北地域を中心にサーミ人、フィン人、シベリア、北東アジア、中央アジア、朝鮮、日本などで観察されており、Y染色体ハプログループNと同じような流れが想定され、ウラル語族の拡散との関連を示唆するものと考えられる。
 朝鮮半島では紀元前4000年から紀元前1500年にかけて櫛目文土器が発見される。さらにウラル語族に広く見られる中舌母音[ɨ]が古代朝鮮語に存在したと考えられることから、朝鮮民族の基層がウラル系民族である可能性がある。また日本の日本海側や東北地方に観察される中舌母音の[ɨ](いわゆるズーズー弁)についてもウラル語族の音声特徴に由来する可能性がある。
 なお、ウラル語族はユカギール語との間でウラル・ユカギール語族を形成するという説が有力である。両者は人称代名詞等が明らかに同源であり、否定動詞が存在するなど類型的特徴も類似している。ユカギール人はかつては西はバイカル湖まで分布していたといわれており、遼河・モンゴル付近でウラル語族と分岐し東方へ向かったと考えられる。ハプログループN (Y染色体)がユカギール人でも31%観察されることから遺伝子の面からも両者の同源性が示唆される。
 また、マイケル・ホーテスキューによって1998年に最初に提案されたウラル・シベリア語族も存在する。これはウラル語族、ユカギール語、チュクチ・カムチャツカ語族、エスキモー・アレウト語族が含まれるが、現段階では定説には至っていない。ただし、上記諸語族の話者にハプログループN (Y染色体)が高頻度で含まれていることから、ハプログループNに属す集団の流れを反映している可能性がある。
 金平譲司は、ウラル語-日本語同系説を提唱しており、ウラル語族の語彙が、日本語などの東アジア北部の言語に多く影響を及ぼしたとしている。

 オーストロネシアの展開
 オーストロネシア系民族の拡散。台湾からフィリピン、インドネシア、太平洋へと拡散した
 オーストロネシア祖族は東アジアのモンゴロイドで、約6000年前に中国南部、現在の福建省付近から台湾へ渡ったとされる。
 この時に一部のグループは黒潮対馬海流に乗って日本列島にも渡っており、特に沖縄県、鹿児島県、宮崎県や和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などに彼らの末裔が多いと言われている(隼人や南島系海人族)。HLAハプロタイプはB54-DR4がこの流れを示している。ちなみに日本語は文法がアルタイ諸語のものであるが、音韻体系はポリネシア語の属するオーストロネシア語族と共通している部分がある。
 いっぽうで台湾からは5000年前以降に一部がフィリピンやインドネシア方面へ拡散し、紀元前2000年頃にインドネシアスラウェシ島ボルネオ島に到達した。
 ボルネオ島の集団の一部はスンダ海峡を横断し、遠くマダガスカルへ達した。彼らは直接マダガスカル島まで航海した可能性が強く、この2つの島の間は4,500海里(8,300km)も離れているが、常に貿易風が追い風となる航海であるため、当時の東南アジア島嶼部の海民の技術レベルならば充分に現実的な航海である。
 スラウェシ島のグループはここからニューギニア島海岸部、メラネシアと東進し、その間にオーストラロイドの先住民(パプア人、メラネシア人)と混血し、ポリネシア人ミクロネシア人の始祖となる。彼らは紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。
現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。
 サモアに到達した時点 でポリネシア人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、紀元1世紀頃から再び移動を開始し、ポリネシア人たちはエリス諸島やマルキーズ諸島、ソシエテ諸島にまず移住した。その後、ソシエテ諸島を中心に300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島ニュージーランドに到達した。ポリネシア人の移住の動きはこれ以降は確認されていないのだが、ポリネシア人の主食のひとつであるサツマイモは南米原産であり、西洋人の来航前に既にポリネシア域内では広くサツマイモが栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている。
 オーストロネシア系諸族の祖先は元々モンゴロイドであったが、移住先の東南アジアにおいて先住民のオーストラロイドを多分に混血している。特にメラネシアにおいては、オーストラロイド系メラネシア先住民が、後からやってきたオーストロネシア語族に言語交替を引き起こしたというほうが正確である。またマダガスカル人はアフリカ人(ネグロイド)と混血している。
 オーストロネシア系諸族に高頻度に見られる遺伝子として、Y染色体ハプログループO1aがあげられる。O1a系統は台湾先住民に66.3%[47]-89.6%[48]、ニアス島で100%など、東南アジアの半島、島嶼部、オセアニアにも高頻度であり、オーストロネシア語族との関連が想定される。またO2a2*系統(xO2a2b-M7, O2a2c1-M134) もオーストロネシア語族と関連しており、スマトラ島のトバ人に55.3%, トンガに41.7%, フィリピンに25.0%観察される。ポリネシア人などにはパプア・メラネシア先住民由来のC1b3、MS、K*なども観察される。
 mtDNAハプログループはハプログループB4a1aが関連している。

 稲作の伝播と人の移動
 稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている。長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。 中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。
 日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。水田稲作に関しては約2600年前の菜畑遺跡の水田跡がある。水田稲作の伝来経路としては『朝鮮半島経由説』『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説があり、現在も議論が続いている。朝鮮半島では遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。
 無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器の担い手であった可能性が考えられる。崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている 。このことから、朝鮮に無文土器をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20~40%ほど観察されている。
 東南アジア、南アジアへは稲作は紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる。
 倭人(O1b2)はオーストロアジア語族(O1b1)と姉妹関係であり、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙類似性が高いとするデータとも符合する。また大野晋が唱える日本語タミル語起源説についても、タミル語の基層言語にオーストロアジア語族ムンダ語派が存在しており、O1b系統の集団が持っていた同源語彙が日本語や朝鮮語(O1b2)とタミル語(O1b1)に引き継がれたと考えられる。

 弥生人のルーツ
 弥生人に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動
 一般には、弥生人は中国から朝鮮半島山東半島を経て水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。O1b2系統は、オーストロアジア語族の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、満州朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷はO1b系統(O1b1/O1b2)はかつては長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている。『翰苑』の『魏略』逸文などは、倭人は江南地方の呉の太伯(文王の伯父、紀元前12世紀頃の人とされる)の末裔を称したとしている。 しかしながら、長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視する見方や、上記の説より遥か早期に北上したという見方もある。  土井ヶ浜遺跡の弥生人が北部モンゴロイドの特徴を持つことや、日本人にみられるミトコンドリアDNAハプログループやGm遺伝子が北方型であることなどから、弥生人の起源地を沿海州南部に求める見方もある。岡正雄の日本人起源説の「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」、鳥居龍蔵説の「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」がこれに対応すると思われる。東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認され、弥生時代に広くみられる刻目突帯文土器と似たタイプの土器が沿海州南西部のシニ・ガイ文化にもみられることから、近年ではこちらの説を推す声も多くなっている。
 また、日本人の約20%に見られるO2系統も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。O2はその後のヤマト王権の成立に前後する渡来人によるものだとする見方も強い。
 なお、渡来した弥生人単一民族ではなく複数の系統が存在するという説も主流である。
 「日本人#民族学」、「日本人#HLAハプロタイプの流れ」、および「騎馬民族征服王朝説」も参照
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 日本民族日本人は、男系父系Y染色体天皇神話を護ってきた。
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 日本列島に流れ着いた、漂着したY染色体集団は、日本神話、民族中心神話、天孫降臨神話、高天原神話として定着した。
 日本民族日本人の正統なY染色体は、一系統のみが神聖不可侵とされ、万世一系男系天皇家・皇室の中で大切に受け継がれ保護されてきた。
 混ざりけのない純粋なY染色体は、特殊な血統・血筋を正統とする特別な家系の皇統によって数万年あるいは数千年間、唯一無二の皇室として継承されてきた。
 そこには、混じりけをもたらすX染色体の女性天皇女系天皇、女系宮家は存在しない。
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 天皇家・皇室のY染色体は、弥生時代中頃から始まり、弥生時代後期に大王制度として確立し、奈良時代天皇制度として定まった。
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 男系父系Y染色体天皇制度とは、国内の如何なる争いを鎮め統一を守り維持し、中国や朝鮮のような混乱、戦乱そして大虐殺を起こさないようにする安全弁であった。
 地獄の様な中華(中国や朝鮮)の歴史を知る、蘇我氏藤原氏、源氏、足利氏、織田信長豊臣秀吉徳川家康ら強力な軍隊と莫大な富を持った政治権力者ら、空海最澄法然親鸞日蓮道元などカリスマ性の強い霊力を持ち大量の信徒を抱える強大な教団を持つ宗教権威者らは、その力で天皇に即位できたにもかかわず天皇に即位しなかった。
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 世界で日常茶飯事的に起きていた悲惨な大虐殺が日本で起きなかったのは、男系父系Y染色体天皇制度が神聖不可侵として存在していたからである。
 その意味で、日本民族日本人は万世一系男系天皇によって守られていたのである。
 それ故に、日本民族日本人は万世一系男系天皇を必要としてきた。
 何故か、日本民族日本人は日本人を信用していなかった。
 日本人とは、善人でもなく悪人であり、愚かで、浅はかで、醜く、悍ましい人間、嘘をつき、騙す、心穢れた卑しい人間である事を知っていた。
 2割の日本人は良い人間で、3割の日本人は悪い人間で、5割の日本人は良くもなければ悪くもないどうでもいいような人間である。
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 現代日本では、古臭い男系父系Y染色体文化神話を消滅させ、新たな女系母系X染色体人間物語を広めようとする動きが広まっている。
 日本国民の8割近くが、女性天皇女系天皇即位、女系宮家新設による女系母系X染色体人間物語への移行に賛成している。
 現代日本人は昔の日本人とは違う日本人である。
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🗾11〕─1─約6万1000年前からの針文化。日本の針供養。~No.50No.51No.52 

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 針(はり)は、先端の尖った円錐形の道具。人間にはかなり多くの用途で使用されているが、全て刺すという点で類似している。英語ではNeedleあるいはPinであり、日本語でもそのままピンと呼ぶ例もある。突き刺すことその物を目的とする場合、突き刺すことで何かをするのに使う場合があり、またその先が細いことから細かいところを探るような用途に使われることもある。
 歴史
 古代中国では武器のひとつ、暗器として針が使われた、袖の下などに隠し持ち、咄嗟の時に相手に投げつける。暗殺などに用いられることは少なく、あくまで自衛用の武器であった。
 南アフリカの遺跡で約6万1000年前とされる針が出土した。
 持ち運びしやすく安価に販売できることから、日本の中世において「針売り」は身体障害者や下層民が手軽にできる職業とされ、被差別対象だった。豊臣秀吉も武士になる以前は針売りをしていた。
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 針供養(はりくよう)とは、折れ、曲がり、錆びなどによって、使えなくなった縫い針を供養し、近くの神社に納める行事。各地の社寺で行われているが、主に淡島神社粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われる。
 由来
 起源(中国に「社日(土地神の祭日)に針線(針と糸、針仕事)を止む」という古い慣わしがあったとされ、それが日本に伝わったとされる)は不明であるが、平安時代清和天皇によって針供養の堂が法輪寺に建立されたとされているので、9世紀後半には日本(のごく一部に)に針供養の風習があったことは確実と考えられる。
 鉄の針が大量生産されるようになったのは室町時代のことであり、和歌山の淡島信仰と結びついた針供養の風習が淡島願人を通じて日本全国に広まったのは江戸時代中期以降のことである。
 2月8日、または12月8日に行われる。2月8日は「事始め」の日であり、農作業や裁縫も休みそれから一年の作業が始まるからである。一方西日本では事始めと事納めの考え方が違っている。一般的には2月8日であるが、関西地方や九州地方では12月8日が一般的である。しかし大阪天満宮では2月8日、加太の淡嶋神社針祭でも2月8日、嵯峨の法輪寺では12月8日と2月8日の双方に行われるなど、必ずしも地域によって日時が固定されているというわけではない。関東地方や東北地方の一部では両方という地域もあるが、ほとんどはどちらか一方の日に行われる。
 内容
 かつて、12月8日と2月8日は事八日と呼ばれていた。12月8日を事納め、2月8日を事始めとよび、事納めには農耕を終え事始めには始めるとされていた。この両日はつつしみをもって過ごす日とされ、この日は針仕事を休むべきと考えられていた。そして使えなくなった針を神社に納める、あるいは豆腐や蒟蒻のように柔らかいものに刺したりすることで供養し、裁縫の上達を祈った。また、かつては土の中に埋めたり、針を刺した豆腐や蒟蒻を川や海に流して供養するという型式で執り行われる地域もあった。
 針に触れないようにするという風習が残る富山県や石川県では針歳暮とも呼ばれ、饅頭や大福を食べたり知人に贈ったりすることが行われている。富山県などでは針歳暮は12月8日に行われるが嵐になることが多い特異日で「針歳暮荒れ」と呼ばれている。
 長野県佐久地域では、2月8日に針を豆腐に差し込み、集落によっては神棚に上げて拝んだり、縁の下へ投げ入れたりする。
 現在では家庭で針仕事を行うことが少なくなり、家事作業における感謝や祈願の意で行われる事は少なくなったが、服飾に関わる分野においては未だ根付いており、和裁や洋裁の教育機関や企業では現在も行われている。
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 針(読み)はり
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
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 日本における針の起源は、石器時代に骨、角でつくったくくり針があるが、石器時代末には、めどをつけた針が出現する。一般には竹や木の針も使われたと思われるが遺物はない。中国では3000年前から養蚕の技術がおこり、漢代には繊細な織物によるりっぱな衣服がつくられていた。この衣服の縫製には鉄製の細い針、現在の絹針の四の一、四の二ぐらいの短針が用いられていたと思われる。文献に初見されるのは『古事記崇神(すじん)天皇の条で、「衣の襴(すそ)に針を刺し通した」とある。活玉依毘売(いけたまよりひめ)に通う男を知るために、衣の裾(すそ)に麻糸をつけた針を通して、その行き先を尋ねたという。このことから縫い針の存在を知ることができる。古墳時代になると、北方系の衣服が大陸や朝鮮半島から伝えられ、その裁縫技術とともに縫い針も、また製法も導入されたと思われる。飛鳥(あすか)・奈良時代には、隋(ずい)・唐の服制を取り入れ、正倉院に数多く残る薄地の絹織物や麻布の衣服の仕立てには、漢代の衣服にみた精緻(せいち)な技術が伝わっているのがうかがわれる。これらは当時の朝廷を中心とする貴族、官吏や、地方の豪族の間で行われたものである。
 正倉院には聖徳太子所用の撥鏤針筒(ばちるはりづつ)が伝えられ、針も現存する。鉄、銅、銀製の大針が1本ずつと、鉄製と銀製の小針が2本ずつ、計7本ある。
 平安時代には市(いち)で針が商われており、庶民はこれを求めて衣服を縫製した。当時の庶民衣服は麻、藤布など、太い糸でつくられた厚地であったから、針もいまの木綿針程度の太さで、つかみ針に便利な長針であったと思われる。『うつほ物語』の俊蔭(としかげ)の段には、「いとうつくしげに、つややかに、なめらかなるくけ針」「いと使いよきてづくりの針の耳いと明らかなる」とあって、裁縫する立場から、良質の針を求めていたことが知られる。室町時代のものとしては熊野速玉(くまのはやたま)大社(和歌山県)に7本の銀針が残されている。比較的長いものが多いことから、当時は公家(くげ)装束が強(こわ)装束になっていたため、縫い目は粗く、したがって縫い針も長針を用いるようになったと考えられる。
 針の産地としては、11世紀後半の『新猿楽(さるがく)記』に播磨(はりま)針の名がみえ、14世紀の『庭訓(ていきん)往来』には京都の姉小路(あねこうじ)の針とあり、江戸時代中期になると『雍州(ようしゅう)府志』(1684年刊)には同じ京都の池川針、翠簾屋(みすや)の名があがっている。これら京都のほかに但馬(たじま)国(兵庫県)、大坂、越中(えっちゅう)国(富山県)などが知られていた。『七十一番職人歌合(うたあわせ)』に筑紫(つくし)針の名が出ているのをみると、筑紫(九州)がそのころ産地であったことがわかる。なお、現在は広島県が第一の生産地となっている。[岡野和子]
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 針(読み)はり
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 縫い針の歴史は古く旧石器時代の骨角製のものから始って,時代とともに黄金針,青銅針,鉄針,鋼針へと進展してきた。鉄針は中国が起源で,各国へ普及した。鉤針は先端に鉤があり,使用する糸の太さによって大きさが異なる。材質も鋼とプラスチックがある。編物針は,棒針ともいい,まっすぐの棒状で,2~4本を一組とし,材質もさまざまである。
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 百科事典マイペディアの解説
 針【はり】
 布や皮革を縫い,留めるための器具。旧石器時代後期,マドレーヌ文化に骨角器のめどのある針が見られるほか,古くから各地に骨製,象牙製,青銅製などの針が見られる。現在使われている針は鋼製で,裁縫用には和針,洋針,ミシン針,特殊針がある。和針は針穴が丸く,絹針,紬(つむぎ)針,木綿針などの別があり,それぞれに縫針,くけ針,しつけ針や穴のない待針などがある。洋針は俗にメリケン針ともいい,明治以後輸入されたもので針穴が細長い。留針には安全ピン,虫ピンなどのほかアクセサリーとしてのピンも各種ある。
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 世界大百科事典 第2版の解説
 はり【針】
 皮や布を糸(ひも)で縫い合わせて衣服などを作るための道具。また,物を留めるための留針(ピンpin)もいうが,ここではおもに縫針needleを中心に述べる。
 [沿革]
 縫針は,旧石器時代後期には出現しており,洪積世最後のウルム氷期の寒冷な環境のもと,北部ユーラシア各地で狩猟生活を営んでいたホモ・サピエンスたちが,防寒具としての皮製の衣服を改良するなかでくふうされていったものと思われる。最初は剝片石器の一部を尖らせた錐で毛皮に孔を開け,そこに動物の腱や皮を細長くさいて作ったひもなどを通してとじ合わせていたのであろうが,やがて後期旧石器時代前葉のオーリニャック文化にいたって骨や角を細かく自由に加工できるようになると,硬く丈夫なばかりでなく弾性に富みしかも滑らかな骨角製の針様の尖頭器(穿孔具)が作られるようになった。
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