🌋6〕─1─日本のいじめは弥生時代から始まった。引き籠もり文化。~No.17No.18No.19 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年1月号 WiLL「野口均の今月この一冊
 『いじめとひきこもりの人類史』 正高信男 著
 猿にもいじめがあるという。だがそれは餌付(えづ)けされたニホンザルの群れに見られるだけで、野生の群れはないそうだ。著者は霊長類学および発達心理学者。いじめの起源は人類が定住生活を始めた頃にまでさかのぼるという。なぜ定住生活になるといじめが始まるのか?
 一定の集団が定住すると、その地域の資源を占有することになる。近年の研究から定住は狩猟採集生活をしていたころにすでに始まっていたとされ、三内丸山遺跡など、食料の備蓄があったことも明らかとなっている。備蓄した食料は自分たちのもの。すなわち『自分たち』と『自分たちでないもの』を明確に区別せざるをえなくなる。こうして定住化は共同体に発展し、その共同体を維持するために共同体意識と排他主義を生む。共同体意識を維持促進するためには『共同体の成員だけが、あることに価値を見出し、それを信奉することを介してまとまる』力が働くとし、その典型が信仰だという。さらに共同体の求心力を一定以上を保っておくためには、常に自分たちの『敵』を想定し、意識しておくことが必要になる。これは、韓国の絶えざる反日運動をみれば明らかだ。
 では、この原理がなぜいじめにまで発展するのか。
 定住生活が軌道に乗ると集団の規模が大きくなる。人数が多い方が採集、漁労、農耕のいずれにしても効率がよく、生活が安定する。だが人間の集団は150名を超えると、軋轢が生じて組織がうまく回らなくなるという。これはロビン・ダンバーという霊長類学者が解明した理論で『ダンバー数』というそうだ。
 共同体内で不和が生じるということは内部に敵ができてしまうということだ。そこで内部の敵を排除するために、古代ギリシャでは年に一度の『陶片追放』のようなシステムが生まれた。そこまで制度化されると、いっそ清々しいような気もするが、要するに大昔からいじめはあったということである。
 そして現代のいじめはもっと精緻(せいち)になっている。以下、著者の分析を簡単に要約するとこうなる。
 ちょうっとした行き違いや誤解が原因でAがBを攻撃したとする。このトラブルが素早く修復されれば問題ないが、そうなる前に攻撃者が仲間を得て『いじめ関係』が集団内で定着したとする。するとこの『いじめ関係』は、当事者間のトラブルから集団内のイベントになり、加担者と傍観者が生まれる。傍観者には面白がっている者や嫌だと思いながら黙っている者などが含まれるが、この傍観者が加害者たちにとってはアピールする観客となる。また加害者同士も積極的に被害者を攻撃することで連帯感が強まり、高揚感が得られる。逆に攻撃を弱めたりすると加害者仲間への裏切りと受け取られかねないので、攻撃はエスカレートしていく。現代社会は、いじめにあうと逃げ場がない。その結果、子供も大人もひきこもりが増える・・・。
 以上、ここまではまるで救いがないようだが、著者はひきこもりの代表として良寛鴨長明吉田兼好をあげ、日本文化はひきこもりとの相性がいいとし、ポストコロナの時代に向け、ひきこもり生活の効用を見直すべきだという。なお、紹介しきれなかったが、餌付けされたニホンザルの群れのいじめのメカニズムの分析も面白い。」
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🚣3〕─1─激流の黒潮は10万年前から台湾、与那国島、沖縄、奄美大島、日本列島ヘと流れていた。〜No.11No.12No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 縄文人の祖先である南方系海洋民は、3万年前に手漕ぎ丸木舟で台湾から沖縄を経て日本列島に渡っていった。
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 2020年12月4日 MicrosoftNews 時事通信社「沖縄目指し台湾から航海か=3万年前の人類―国立科学博物館
 旧石器時代の人類が約3万年前、大陸と地続きだった台湾から沖縄の島々に渡った謎の解明に取り組んでいる国立科学博物館などの研究チームは、偶然漂着した可能性は低く、移住するつもりで舟で航海したと考えられると発表した。論文は3日付の英科学誌サイエンティフィック・リポーツに掲載された。
 同博物館の人類史研究グループ長を務めた海部陽介東京大教授らは、台湾大海洋研究所とともに台湾やフィリピン北部から過去約30年間に流された138個の海洋観測ブイの漂流ルートを解析した。その結果、大半は黒潮に乗って北方へ流され、沖縄や奄美の島々から20キロ圏内まで接近したブイは4個しかなかった。このブイは位置や水温などを衛星通信で送る機能がある。
 黒潮は台湾と与那国島の間を通り、沖縄や奄美の北側を九州南部沖に向かっており、この流れは過去10万年以上変わっていない。研究チームが2016年から昨年まで行った航海実験では、草を束ねた舟や竹のいかだは遅く、黒潮を越えるのは困難だが、速い丸木舟なら越えることができた。
 台湾の高い山からは与那国島が見える。海部教授は「男女10人以上の集団が複数の舟で航海したのではないか」と話している。」 
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🗻10〕11〕─1─日本に仏教やキリスト教が伝来する前の古代人。折口信夫。~No.41No.42No.43No.44No.45No.46 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 高度な文明を持つ教養ある中国人(大陸系漢族)・朝鮮人にとって、縄文系の日本民族アイヌ人・琉球人は教養がない野蛮な土人であった。
 古代では人権も人道も平等も公平もない為に、縄文系の日本民族アイヌ人・琉球人が中国人(大陸系漢族)・朝鮮人から軽蔑され差別され虐待を受けるのは仕方がなかった。 
 中国人(大陸系漢族)・朝鮮人は富と力を持った強者であり、縄文系の日本民族アイヌ人・琉球人は貧しく力のない弱者であった。
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 縄文人は、中国大陸や朝鮮半島の評価や評判を気にせず、他人を羨まず、妬まず、競わずありのままを受け入れ助け合った為に、相手を殺して奪う、殺し合い、戦争はなかった。
 縄文文化は自然のままで、中国文化や朝鮮文化の様な人間中心・欲得追求はなかった。
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 2020年12月4日号 週刊朝日帯津良一のナイス・エイジングのすすめ
 私の信仰心について
 ……
 広辞苑には『信仰』について『宗教活動の意識的側面をいい、神聖なものの(絶対者・神をも含む)に対する畏怖からよりは、新和の情から生ずると考えられ』とあります。まさに私に信仰心も新和の情なのです。それは実は、相手が仏陀(ぶっだ)であろうとイエス・キリストであろうと変わりません。
 民俗学で国文学者の折口信夫博士は、日本に仏教やキリスト教が伝来する前の『古代人』の心を探ろうとした人です。その折口博士の考え方を解説した本で次のような記述を見つけました。
 『人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が「ある」ことを、「古代人」は知っていた。(中略)すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処(すみか)である「あの世」また「他界」もまた、世界を構築する重要な半分であることを、「古代人」たちは信じて疑わなかったのである』(『古代から来た未来人 折口信夫中沢新一著、ちくまプリマー新書
 これは私の虚空に対する思いと同じです。私の信仰心は古代人のレベルなのかもしれません」
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 中沢新一 『古代から来た未来人 折口信夫』 
 ちくまプリマー新書 082 
 筑摩書房
 2008年5月10日 初版第1刷発行
 143p
 新書判 並装 カバー
 定価700円+税
 装幀: クラフト・エヴィング商會
 「古代を実感することを通して、
 日本人の心の奥底を開示した稀有な思想家折口信夫
 若い頃から彼の文章に惹かれてきた著者が、
 その未来的な思想を鮮やかに描き出す。」
 目次:
序文 奇跡のような学問
第一章 「古代人」の心を知る
 「いま」を生きられない人
 「古代」の広がりと深さ
 文字の奥を見通す眼
 姿を変化する「タマ」
 精霊ふゆる「ふゆ」
 文学も宗教も突き抜けた思考
第二章 「まれびと」の発見
 折口と柳田――「神」をめぐる視点
 「まれびと」論の原点
 「南洋」へのノスタルジー
 「あの世=生命の根源」への憬れ
第三章 芸能史という宝物庫
 芸能史を再構成した二人
 芸能者への奇妙な共感
 苛酷な旅からつかんだもの
 芸能とは「不穏」なものである
 不穏だからこそ「芸能」を愛す
〈コラム〉 大阪人折口信夫
第四章 未来で待つ人
 とびきりの新しさ
 死霊は踊る
 「あの世」への扉が開かれるとき
 高野山二上山とを結ぶ線
 「日本」を超え「人類」を見る眼
第五章 大いなる転回
 キリスト教との対話
 未成立の宗教
 「神道の宗教化」という主題
 超宗教としての神道
第六章 心の未来のための設計図
 神道の新しい方向
 ムスビの神
 三位一体の構造
 折口のヴィジョン
あとがき

◆本書より◆
第一章より:
 「いつの時代にも、自分がほんとうに生きるべきなのは今の時代ではなく、今よりもずっと古い時代なのではないか、と考えつづける人たちがいる。今の人たちが考えたり語り合ったりしていることに対しては、どうしてかあまり共感をいだくことができないのに、ずっと昔の人たちの思考やことばのなかには、たいした予備知識もないのにすっと入り込んでいくことができ、(中略)しかも心が打ち震(ふる)えるほど深い共感をおぼえる、というタイプの人たちである。古い時代の記憶(きおく)が、遠く時間を隔(へだ)てた今の人の心に、間歇泉(かんけつせん)のようによみがえってくるのだ。」
 「折口信夫は、自分にあたえられたこの性向を宿命と感じて、この不思議な心的メカニズムを、全人生をかけて一種の巨大(きょだい)な学問にまで成長させた。(中略)彼自身がひとりの「古代人」であったればこそ、奇跡のような学問がつくれたのである。」
 「折口信夫は人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているように見えるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能」であり、折口自身は自分は「類化性能」がとても発達していると語っていた。この言い方をとおして、彼は「古代人」の思考の特徴(とくちょう)をしめそうとしていた。近代人は「別化性能」を異常に発達させた。(中略)ところが、「古代人」たちの精神生活は、「類化性能」を存分に生かしながらかたちづくられていた。「類化性能」とは、いまの言い方をすれば「アナロジー」のことであり、詩のことばなどが活用する「比喩(ひゆ)」の能力が、それにあたる。ひとつのものごとを別のものと重ね合わすことによって、意味を発生させるやりかたである。この能力が発揮されると、音や形や意味やイメージのあいだにある「類似=どこか似ている」という感覚をもとにして、ふつうなら離(はな)れたところに分離(ぶんり)されてあるようなものごと同士が、ひとつに結びあわされて、新しいイメージをつくりだしていくようになる。」
 「折口信夫の考える「古代人」はこのようなアナロジーの思考法を駆使して、神羅万象を「象徴の森」で覆(おお)いつくそうとしたのである。」
 「同時代の西欧(せいおう)で進められていた先端的(せんたんてき)な人類学や宗教学や考古学の研究についても、折口信夫はとてもゆたかな知識を持っていたので、日本人が「タマ」と呼んでいた霊力が、ポリネシアの人たちが森に住む精霊のもつ力をあらわす「マナ」という霊力や、アメリカ先住民が真冬の祭りをとおして増殖(ぞうしょく)させることができると考えていた霊力などとも、同じ「古代人」の考えをしめすものであることに、早くから気がついていた。」
 「冬の期間に「古代人」は、狭(せま)い室(むろ)のような場所にお籠(こ)もりをして、霊をふやすための儀礼をおこなっていた、だからその季節の名称(めいしょう)は「ふゆ」なのである。人々がお籠もりをしている場所に、さまざまなかたちをした精霊がつぎつぎに出現してくる。このとき、精霊は「鬼(おに)」のすがたをとることが多かった。その精霊のあらわれを、折口信夫は長野と愛知と静岡(しずおか)の県境地帯の村々で、「花祭」や「冬祭」「霜月祭」などの名称ではなやかに続けられていた祭りのなかに、はっきりと見いだしたのである。」
第二章より:
 「折口は神観念のおおもとにあるのは、共同体の「外」からやってきて、共同体になにか強烈(きょうれつ)に異質な体験をもたらす精霊の活動であるにちがいない、と考えたのである。柳田国男が共同体に同質な一体感をもたらす霊を求めていたのにたいして、折口信夫は共同体に異質な体験を持ち込(こ)む精霊を、探し出そうとしていた。そこから折口の「まれびと」の思想は、生まれたのだった。
 神についての折口のこういう考え方は、彼(かれ)が研究を展開したすべての領域のおとにおよんでいる。折口の考えでは、文学も宗教も、みんなが同質なことを考え体験しているような共同体の「内」からは、けっして生まれないのである。人の心が共同体の「外」からやってくる、どこか異質な体験に触(ふ)れたとき、はじめて文学や芸能や宗教が発生してくるというのである。」
 「折口信夫が、人間の心の奥で働いている「類化性能」というものを、文学や宗教の発生を考える場合にとても重要なものだと考えていたことは、前章でお話ししたとおりである。」
 「異質なものを重ね合わせると、新鮮(しんせん)なイメージが発生できる。」
 「近年南九州で、きわめて初期の縄文土器がつぎつぎと発見されている。高度な新石器型文化をもった人々が、島づたいの航海をして、この列島にたどりついた。一万数千年前のことである。その頃は、いまのインドネシア海域の島々は、スンダランドという巨大(きょだい)な大陸の一部だった。その大陸は氷河期のあと、大部分が海中に没(ぼっ)してしまったが、そのスンダランドを中心として、南方世界に高度な新石器文化が栄えていた。その地域から、フィリピン諸島と台湾を伝って、いくつものグループが日本列島に渡ってきて、縄文文化の基礎(きそ)を築いたということが知られている。つまり、折口信夫の言う「古代人」は、南方の海洋世界を自分たちの「魂のふるさと」としているのだ。
 折口信夫の考えでは、このような民族的な集合記憶が、なんらかの手段をつうじて、現代のわたしたち日本人の「魂」のうちに貯蔵され、長い休眠(きゅうみん)期間に入っていたのだが、それがふとしたきっかけで、間歇泉(かんけつせん)のように、折口信夫という近代人の心にほとばしり出たのである。しかもそれは「妣が国」と呼ばれているように、母親の系統をつうじて伝えられる、一種の遺伝情報である。(中略)母親の系統は無意識の記憶のなかに貯蔵されて、文化よりもはるかに遠い時代までも、自分を伝えていくことができる。
 「妣が国」はその意味では、「失われた時」の別名でもある。折口信夫は「まれびと」の思想を着想しながら、この「失われた時」を必死で取り戻(もど)そうとしていたのではないか。」
「第三章」より:
 「彼には少年時代から独特の「貴種流離(きしゅりゅうり)」の感覚が強かったという。いまの世ではすっかり落ちぶれてしまっているが、じつはその昔は貴い系譜(けいふ)につながっている人々が、地方を流浪(るろう)していくという物語などに語られた、奇妙な感覚である。後年折口信夫はそこで言われている「貴い」ということばを、古代の精霊と深い交わりをもっていた「古代人」の末裔(まつえい)たちの生き方考え方、という意味で理解しようとした。そして、自分自身もまた、いまの世ではすっかり落ちぶれた「古代人」の一人として、精霊との交わりを保ちながら、どことなく異邦人(いほうじん)のような感受性をもって、近代の日本で生きてやろうと考えていたのである。
 じっさい、芸人や職人たち自身が、自分たちのことを「貴種流離」的な存在だと見なそうとしていた。遠い昔は皇族や貴族の一員であった者が、政争に敗れたり病に冒(おか)されたりして、都を追われて遠い鄙(ひな)に流浪して、その地で芸能や技芸をもって生計を立て、その子孫がじつは自分たちなのである、という内容を書き記した文書を、多くの芸人や職人たちが所持していた。いまの世では零落(れいらく)しているが、本当は自分たちこそがもっとも神聖な領域に近いといころに生きている人なのであるという主張が、そこにはこめられている。」
 「「この世」の現実とはまったく違う構造をした「あの世」の時空との間に、つかの間の通路を開いて、そこからなにものかが出現し、また去っていき、通路は再び閉ざされる。その瞬間(しゅんかん)の出来事を表現したものが「翁」である。「古代人」は自分たちが健やかに生きていけるためには、ときどきこのような通路が開かれ、そこを伝って霊力が「この世」に流れ込んでこなければならないと、考えていた。」
 「芸人はそのような精霊を演じているわけだから、とうぜん一瞬開かれた通路から流れ込んでくる「あの世」からの息吹に、触れていることになる。「あの世」には恐(おそ)るべき力がみなぎっている。現実の世界ではかろうじて抑(おさ)えられていた力が、死によって解放されると、その力は「あの世」に戻(もど)っていく。だから、(中略)ニライカナイという「あの世」には、死者の霊が戻っていこうとするばかりではなく、未来に生まれてくるはずの未発の生命力が蓄(たくわ)えられている、という考えも生まれる。芸能者は、このように死と生命とに直(じか)に触れながら、ふたつの領域を行ったり来たりできる存在なのである。」
 「だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴(しるし)を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性質を持つことになったのだ。」
 「世の中がしだいに合理化されていくと、芸能がよってたっているような「野生の思考」は、どんどん理解されなくなってくるだろう。芸能は生と死を一体のものとして考える「古代人」の思考そのままに生きようとしてきた。芸能者は、病気や死や血や腐敗(ふはい)の領域に触れながらそれを若々しい生命に転換する奇跡(きせき)をおこそうとする芸能というものに、われとわが身を捧(ささ)げてきた。
 芸能史を研究するとは、こういう人々の生き方と感性を、自分の身に引き受けようとする行為(こうい)にほかならない、と折口は感じていたのである。彼は近代の社会のなかで、自らすすんで没落(ぼつらく)していくものと同化しようとしていた、と言えるかも知れない。折口信夫が切り開いた芸能史という新しい学問には、このようにどこか不穏なものがはらまれている。」
 「「ごろつき」や「無頼漢(ぶらいかん)」などということばにも、折口信夫は敏感(びんかん)な反応(はんのう)をしめしている。いまの社会では、とかく負のイメージを負わされている「ごろつき」たちに、彼は共感にみちた眼差(まなざ)しを注ぐのである。(中略)折口によれば彼らは古代的な「まれびと」の思考を生き続けていた、寺社の神人や童子と呼ばれる下級宗教者の末裔として、広い意味での「貴種」に属する人々なのだ。
 彼らはもともと共同体の生き方を好まない。共同体は人々の間に同質性を求める。それによって、共同体の内と外を見分け、微妙(びみょう)なやり方で異質なものを外に押し出してしまおうとしている。しかし、「まれびと」の思想は、そういう共同体に「外」から異質なものを結びつけ、共同体の人間だけでできた世界に、動物や植物や非人間的なものを導き入れようとしてきたのである。神人や童子のような宗教者は、人間と人間ならざるものとの境界を生きようとする人々として、自分自身が異質な力の集合体になってしまおうという、共同体から見たらまことに不穏な生き方を選ぶことが多かった。
 こういう人々は、精霊の息吹に直に触れているからこそ、「ごろつき」のような生き方、「無頼漢」としての生き方をすることになったのだ。」
 「あらゆる芸能が、本質においてはみな怪物(かいぶつ)(モンスター)なのである。折口信夫は怪物としての芸能を誉(ほ)めたたえ、怪物だからこそ好きだと語り続けた。折口の学問の精神をよみがえらせることによって、わたしは日本の芸能をふたたび怪物として生まれ変わらせたいと、願っている。」
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 古代の中国発祥儒教道教、インド発祥仏教、近代の西洋由来キリスト教マルクス主義に毒される前の日本民族は、琉球人やアイヌ人と同じ縄文系で、西方草原の民の子孫である中国人や朝鮮人・韓国人とは異質な人間であった。
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 南方系海洋民の子孫である縄文人は、日本列島を中心に、南は琉球、北は蝦夷地(北海道)・南樺太北方領土4島・千島列島、西は朝鮮半島南半分に広く住み、日本海(縄文の海)を手漕ぎ丸木舟で行き来していた。
 北の縄文人は、海を渡って北米大陸・アラスカにまで行っていた。
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古代から来た未来人 折口信夫 (ちくまプリマー新書)
増補改訂 アースダイバー

🛶6〕─1─アイヌ人は先住民族ではない。外來バイキングと日本人との混血である。~No.14No.15No.16 

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 - 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus
 senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角にしてご使用下さい)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。
 二〇一九年四月二一日
 朝日新聞アイヌ人は先住民族ではない。外來バイキングと日本人との混血である。」
 カテゴリ:時事琉球史 アジア史
 平成末、アイヌ新法が成立した。アイヌでない人が自稱アイヌとなって税金をせしめるとか、色々な噂が飛び交ってゐる。私は專門外であるから、そこまで構ってゐられない。ただ、權威ある朝日新聞(下方に轉載)によれば、「アイヌ人は、外來者と日本人との混血である。先住民族ではない」といふ趣旨のことが、近年の研究で分かったさうだ。
 外來者は、武力を持ってゐたならば侵掠者である。まあ普通は武力を持たぬ筈はなからう。さればアイヌとは、日本を侵掠した人々の末裔である、といふ可能性が朝日の記事から濃厚に讀み取られる。どこからの外來者かと言へば、オホーツク文化圏の民族ださうだ。アイヌ語が日本語と全く繋がらぬ原因が、ここに求められる可能性を誰でも想像できる。
 そもそも前提は、日本の先住民は繩文人である。一萬五千年前に始まる最古の文明である。北海道の擇捉島から沖繩まで繩文遺跡が分布してゐる。北海道にはアイヌよりも先に繩文先住民がゐた。   
 http://senkaku.blog.jp/2019041479579716.html
 その日本に二千數百年前、南方の水田稻作文化とともに彌生人(渡來系)が九州北部に侵入し、近畿地方に廣がった。現代の近畿地方人、お公家さん顔の所謂「彌生顔」の人々につながる可能性が高い。
 南方の水田稻作文化はチャイナではなく、非チャイナの長江文明であるから、渡來系彌生人はチャイナ人ではない。この點は忘れてはならないが、とにかく外來者である。
 渡來系彌生人と繩文人とはかなり混血が進んだため、劃然と分けることは難しくなった。しかし幾分かの繩文顔、彌生顔としては痕跡を留めてゐる。繩文顔彌生顔はNHK教育テレビの科學番組でも使はれてゐる言葉だから、大學教員が使っても何ら問題は無い。
 東北地方も繩文人の地域であり、アイヌとの關聯が話題になるが、その前に南の繩文人について言及して置かねばなるまい。南九州から沖繩、八重山にかけて、繩文顔が多い。ただ沖繩本島には意外に彌生顔も多い。私のよく知る或る琉球士族の末裔はかなりの彌生顔である。
 ともあれその沖繩語、八重山語は全くの日本語であり、單語がほぼ一對一で日本古語に對應する。「めんそうれ」は「ご免候へ」である。遺傳子研究でも沖繩人は繩文血統を中心として、彌生血統を幾分か雜へてゐる。八重山はほぼ全部繩文血統(西日本繩文人)である。
 さて繩文顔の多い沖繩八重山が日本語なのであるから、日本語は繩文語であり、彌生語ではない。渡來系彌生人は日本に侵入したが、言語を奪って置き換へるには至らなかったといふことにならう。
 ところが、アイヌ語は日本語と全然異なる。日本語に繋がらない。繩文遺傳子の濃厚なアイヌ人が日本語に繋がらないのは謎であった。しかしオホーツクからの侵掠者が強烈に言語を奪ったのだと假定すれば、この謎は解ける。假定の話であって、確定するまでにはなほ長い研究の過程を經る必要があらう。
 如上の朝日新聞的假定にもとづけば、先住民繩文の日本に、西から渡來彌生人が移民し、北からオホーツク人が侵入した。挾み撃ちに遭ひながらも生きのこった先住民が繩文人である。
 そして西の彌生人は繩文語を奪はなかったが、北のオホーツク人は繩文語を奪った、と假定することができる。彌生人よりも苛烈な侵入の歴史があったのではないかと想像される。研究が待たれる。
 如上の假定にもとづけば、アイヌ人は先住民ではない。アイヌ人はあたかも侵掠者バイキングである。そもそもアイヌ文化は鎌倉時代に始まった。隨分と晩い歴史である。繩文一萬五千年の先住民の歴史とは較べものにならない新參者がアイヌである。如上の假定にもとづけば、アイヌ新法は誤ってゐる。少なくとも研究結果が確定するまで法的に先住民と認定すべきではない。
 以下參考。 
 http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200902040080.html
http://web.archive.org/web/20121003044539/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200902040080.html
 https://blog.goo.ne.jp/ainunews/e/ce5b14119ea056cc0903be78e906bdfc
 消えた北方民族の謎追う
 古代「オホーツク人」北大が調査
 朝日新聞 2009年2月4日11時2分
 古代の北海道北部に広がった「オホーツク文化」のことは、一般にほとんど知られていない。海岸近くに住居を構え、魚や海獣を捕らえ、犬や豚を飼った人々が、こつぜんと消えた。どんな人たちだったのか。そのナゾに遺伝子から迫る初の研究が、先ごろ北海道大でまとまった。オホーツク海周辺で人間が活発に動いたことを跡付けるもので、歴史書に記録の乏しい北方世界の新しい姿が浮かび上がる。
 オホーツク文化はサハリン起源と考えられ、古墳時代にあたる5世紀ごろ北海道に南下し、まず北部に広がった。次第に東部から千島列島まで展開するが、10世紀ごろ姿を消す。日本書紀に見える北方民族の「粛慎(あしはせ)」では、との見方もあるが、考古学・歴史学民族学などの研究者が解明を試み、サハリンやシベリア、北方の島々の少数民族の名が様々にあがって、決め手はなかった。
 ■人骨の遺伝子分解
 北大総合博物館にある、オホーツク文化の遺跡で見つかった人骨78体を、増田隆一准教授(分子系統学)と大学院生の佐藤丈寛さんが調べ、37体からDNAの抽出に成功。ミトコンドリア遺伝子の塩基配列の特徴を分析し、オホーツク人は、今はサハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフの人たちに最も近く、同川の下流域に住むウリチと祖先を共有するという結論を導いた。ともに人口数千人の少数民族だ。
 オホーツク人が注目されるのは、ミステリアスであるうえに、アイヌ民族形成のヒントが潜むとみられるからだ。
 弥生文化の時期にも稲作が普及しなかった北海道では、縄文→続縄文→擦文(さつもん)と独自の文化が展開した。アイヌはその流れをくむと考えられてきたが、縄文の系統には無い文化の要素も持つ。代表例は熊を使う儀式で、同じような習俗がオホーツク文化にもあったことが確認されている。
 増田准教授らはオホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認した。北大の天野哲也教授(考古学)は「アイヌ縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」と、分析結果を評価する。
 では、オホーツク人に近いというニブフは、どんな民族なのか。札幌学院大の白石英才准教授(言語学)によると、ニブフ語は、近隣に似た構造の言語が見あたらない「孤立語」で、ニブフは系統不明の民族。帆を持つ舟を操り、漁労主体の生活だったようだが、近年はロシア化が進んで文化の独自性があいまいになっているという。
 今回の分析には、また、「弥生人の渡来など、日本列島へは移民の波が何度かあったが、オホーツク人の南下は、その最新のものだとわかる」(国立遺伝学研究所の斎藤成也教授=分子人類学)という意味もある。ただ、彼らが海を渡った理由の解明は、まだこれからのようだ。
 ■温暖化原因で南下か
 その理由について、北海道開拓記念館学芸員の右代啓視さん(考古学)は、気候変動、なかでも温暖化のためだと考える。オホーツク文化が北海道北部に到達した古墳時代末期は、現在より海水面が1メートルも高い温暖期で、この文化が広がった平安時代の初期には、年間の平均気温が現在より2~3度は高かったらしい。
 このころ、ユーラシア大陸の反対側では、バイキングと呼ばれた北方の人々が、温暖化を背景に人口を増やし、海へと乗り出して欧州各地を征服、緑の島だったグリーンランドにまで勢力を拡大した。日本列島の北でも、海を舞台にした同様の物語があったのかもしれない。
 最新の科学技術がもたらした分析結果は、気候変動への関心の高まりと重なって、そんな新しい歴史像を描き出そうとしている。(渡辺延志)

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 參考2:「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」神澤秀明(国立科学博物館
曰く「最近、アイヌの集団の形成には南シベリアのオホーツク文化人(5〜13世紀)が関与していることが、ミトコンドリアDNAの解析などから提唱されている。私たちの結果もそれを示唆しており、日本列島人の成立ちは単純な二重構造ではないこともわかってきた。
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 參考3:「オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー」オホーツク觀光聯盟(北海道新聞か)。
 http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html
 6月18日の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功。オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。謎に包まれたオホーツク文化が解明されることでオホーツク地域の魅力がさらに深まりそうだ。(以下北海道新聞から紹介します)
アイヌ民族と共通性
 大学院理学研究員の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。
  一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
 どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこから受け継がれたのでは」と推測している。同大学院の加藤博文准教授(考古学)は「オホーツク人は、最後は消えたという表現がなされてきたが、アイヌ民族の形成にかかわった集団もいたことが示された。アイヌ民族の形成の多様さを遺伝子から指摘する研究成果だ」とみている。
 ―オホーツク人―
 漁労や海獣猟を主とした海洋民で、5~13世紀にかけて道北・道東・サハリン南部を中心に海岸近くに多くの遺跡を残した。ルーツは明確ではなく、主に①アイヌ民族説②ニブヒ説③アムール下流域民族説④すでに消滅した民族集団説―の4説で論議が交わされてきた。同時期には、縄文人の流れをくむ続縄文人(紀元前3世紀~紀元6世紀)、擦文人(7~13世紀)が道内に暮らしていた。
 參考4:「アイヌ人骨の自然人類学的研究とその課題」
 篠田 謙一
「学術の動向」 16(9), 2011
 曰く、「得られた成果の周知は学問の世界に完結して、当事者であるアイヌの人々に還元されることはなかった。これらのことは研究者として率直に反省すべき点である。
 いくつかの先進国では先住民の遺骨を埋め戻すことで、その責任を果たそうとしている。しかし、実は、これはその地域に成立の歴史を持たない人々が考える解決の方法であって、そのことが先住民の歴史も抹殺していることに注意する必要がある。アイヌの人々も本土の日本人もともに日本列島に成立の基盤を持っているという点で、日本の事情は他の諸国とは大きく異なっている。」
 https://doi.org/10.5363/tits.16.9_83
 「ミトコンドリアDNA からみた北日本の基層集団」
 安達登  2012年 3月31日
 新しいアイヌ史の構築 : 先史編・古代編・中世編 : 「新しいアイヌ史の構築」プロジェクト報告書2012
 http://hdl.handle.net/2115/56120
 「オホーツク文化アイヌ文化の類似した特性」公益社團法人北海道觀光振興機構。
 https://www.visit-hokkaido.jp/info/detail/75
 【武田邦彦】スゴいぞ!あなたが知らないアイヌ民族
 https://www.youtube.com/watch?v=LWog1h77m8U
  チャンネル櫻・アイヌ新法討論、
 田中英道氏 オホーツク文化について。1:01:00-1:09:00 
 https://www.youtube.com/watch?v=g3u-OM97rhU
 ウポポイ朝日新聞アイヌ縄文北海道
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☵28〕─2─国際水路機関での日本海呼称継続はアナログ勝利でデジタル敗北である。~No.235 

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 玉虫色解決ではあるが、日本側の勝ちは時代遅れの勝ちである。
 最終的には、日本は敗北する。
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 日本は、中国・韓国・台湾に比べてデジタル後進国であり、優秀な人材が圧倒的に不足している。
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 日本海は、古代では縄文人が手漕ぎ丸木舟で航行する縄文の海であった。
 縄文人は、南方系海洋民の事で日本民族日本人・アイヌ人・琉球人の祖先であるが、朝鮮人は中国人同様に西方系草原民の子孫で血のつながらない赤の他人である。
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 2020年11月17日11:26 産経新聞「「日本海」の単独呼称を維持 国際機関が暫定承認
 会見に臨む加藤勝信官房長官=17日午前、首相官邸(春名中撮影)
 加藤勝信官房長官は17日午前の記者会見で、16日から開かれていた国際水路機関(IHO)の総会で、韓国が「東海」と併記するよう求めていた「日本海」の呼称について、従来通り「日本海」との単独呼称を維持するとした事務局長案が暫定承認されたことを明らかにした。加藤氏は「わが国としては水路関連業務の利便性を向上されると事務局長報告書を評価の上、支持した」と述べた。
 報告書は月内に最終確定される見通しで、加藤氏は「日本政府として正式に採択されることを期待している」とも語った。IHOは各国が公式の海図を作成する際、海洋の境界を示すガイドラインとなる「大洋と海の境界」を作成する唯一の機関。」
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 11月17日20:50 産経新聞「「日本海」の単独呼称継続 韓国「東海」併記主張も国際機関が暫定承認
 日本海の呼称をめぐり韓国が「東海(トンヘ)」への改称や併記を主張している問題で、国際水路機関(IHO)の総会は17日、従来通り「日本海」との単独呼称を維持するとした事務局長案を暫定承認した。茂木敏充外相は記者会見で「きちんとわが国の主張が通っている」と歓迎した。月内に最終確定される見通しで、加藤勝信官房長官は記者会見で「正式に採択されることを期待している」と語った。
 IHOは各国が公式の海図を作製する際、海洋の境界を示すガイドラインとなる「大洋と海の境界」を作製する唯一の機関。総会では、各海域を特定の名称の代わりに固有の数字で表記するデジタル海図の作製についても各国のコンセンサス(総意)を得た。今月末にも採択される。
 デジタル海図には「日本海」の呼称は使われないが、茂木氏は「基本的には日本海だけでなく、そういう表記(数字)になる」と語った。
 IHOが作った海図の指針「大洋と海の境界」は1928年の初版から「日本海」を単独表記してきた。指針について16日から始まった総会でIHOは「引き続き公に利用可能なものとする」との決議案を提案し、各国の総意を得た。」
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 11月17日21:23 産経新聞「「デジタル時代に合わせ『東海』の表記拡散を」 IHOの「日本海」表記めぐり韓国外務省
 韓国の文在寅大統領(共同)
 【ソウル=名村隆寛】日本海の呼称をめぐり国際水路機関(IHO)の総会が「日本海」との単独呼称を維持するとした事務局長案を暫定承認したことに対し、韓国外務省報道官は17日の定例会見で「確定されたものではない」と述べた。
 韓国は1997年以降、日本海の「東海(トンヘ)」への改称や併記を主張してきた。報道官は総会の結果について、全ての海を名称でなく番号で表記するデジタル版の海図が「新しい標準」になると発言。「日本側が主張する『日本海』の表記は標準としての格が下がった」と強調した。その上で「デジタル時代への転換に合わせ、(韓国が主張する)『東海』の表記拡散の新たな枠組みができた」とも語った。
 一方で、「総会の決定は『東海』の表記を推進してきた韓国政府のこれまでの立場と完全に一致してはいないが、現実の条件下で韓日両国の立場をバランスをとり反映した合理的な案であると評価している」とも述べた。
 デジタル版では今後、全ての海が数字で表記される方向だが、報道官は「デジタル分野の先頭国として韓国が新標準の開発に積極的に加わり、『東海』の表記拡散の基盤を拡大していく。世界を対象に『東海』表記の拡散努力も官民合同で展開していく計画だ」と断言した。
 さらに「特に新型コロナウイルスの状況下で、デジタル外交が展開されている点に着目し、『東海』の表記拡散の努力をデジタル外交事業と積極的に連携していく」と訴えた。
 IHO総会の暫定承認について韓国メディアは「アナログからデジタル時代への歴史的な変遷を示す」などとした韓国外務省関係者の話を引用し、「今後、日本がIHOの表記を根拠に東海を『日本海』だと主張するのは難しくなりそうだ」と韓国側に有利に解釈したような報道を展開している。」
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☵21〕─19─三菱重工の韓国内資産売却 公示送達の効力が10日午前0時に発生 挺身隊訴訟。~No.213No.214 

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 2020年10月31日 産経新聞「【主張】「徴用工」協議 誠意を見せろに耳を疑う
 韓国の文在寅大統領(韓国大統領府提供=共同)
 耳を疑う。解決済みの問題を蒸し返した韓国が、今度は「誠意」を見せろと開き直った。
 いわゆる徴用工訴訟で韓国最高裁新日鉄住金(現・日本製鉄)に賠償を命じた不当な判決から2年がたった。
 だが、韓国を代表して対外関係に当たるべき文在寅政権は何ら有効な解決策を示さない。これは最大級の非難に値する。
 菅義偉政権は、韓国側が日本企業の資産を現金化して奪う不当な措置をとることを防がねばならない。国際法国益の尊重を貫き、文政権に翻意を促すべきだ。
 29日の日韓局長協議で「徴用工」問題が取り上げられた。韓国最高裁の判決を受け、日本企業の韓国内の資産現金化手続きが進んでいることに対し、滝崎成樹外務省アジア大洋州局長は「極めて深刻な状況を招くので絶対に避けねばならない」と要求した。
 だが、韓国の金丁漢アジア太平洋局長は「日本政府と被告企業が問題解決に向け、より誠意ある姿勢を見せる必要がある」と述べたという。誠意を見せろというのは、さらに金を出せということなのか。
 何度も繰り返すが、日韓両国は昭和40年の国交正常化時の請求権協定で、一切の請求権問題は「完全かつ最終的に解決された」と約束した。協定に伴い日本は無償3億ドル、有償2億ドルを韓国側に支払った。無償3億ドルは個人の被害補償の解決金を含んでいた。個人補償に不満があるなら、解決するのは韓国政府の責任である。
 この協定は両国関係の基盤だ。それを破壊する不当判決を放置したままの文政権の態度は、常軌を逸している。法よりも「反日」を優先し、「司法の判断」に責任転嫁するのはおかしい。
 局長協議で「意思疎通の継続では一致した」というが、国同士の約束を反故(ほご)にする国と、どうして信頼関係が築け、意思疎通や交渉ができよう。
 「徴用工」問題は、国際法を無視し、歴史を歪曲(わいきょく)した韓国側による完全な言いがかりで日本側は被害者だ。おかしな妥協は禁物である。反日の成功に味をしめた韓国が不当な対日要求をエスカレートさせるに違いないからだ。
 今年の日中韓首脳会議の議長国である韓国は、菅首相訪韓を望んでいるというが、訪韓できる環境にないことは明らかだ。」
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 11月9日 産経新聞三菱重工の韓国内資産売却 公示送達の効力が10日午前0時に発生 挺身隊訴訟
 元徴用工訴訟の判決を言い渡した韓国最高裁=2018年10月30日、ソウル(共同)
 【ソウル=名村隆寛】韓国人の元女子勤労挺身(ていしん)隊員らによる訴訟で、韓国最高裁が2018年11月に三菱重工業に賠償を命じた確定判決を受け、大田(テジョン)地裁が同社に韓国内資産の売却に関して意見を聞く「審問書」などの「公示送達」の効力が10日午前0時に発生。地裁は売却命令を出すことが可能となる。
 公示送達は裁判所の掲示により書類が通知されたとする手続き。地裁は三菱重工側が売却関連の書類受け取りを拒否していることを理由に、9月7日に審問書をホームページなどに掲載し、書類が届いたとみなす公示送達をした。10日午前0時に審問の内容が伝えられたとみなされる。
 地裁は10月29日にも資産の差し押さえに関する公示送達をしており、こちらの効力は12月30日に発生する。対象となっている三菱重工の資産は特許権6件と商標権2件で、総額8億400万ウォン(約7200万円)相当。地裁は2つの公示送達の効力がそろう年末以降に、資産の売却(現金化)に向けた判断を出すものとみられている。
 いわゆる徴用工訴訟で日本企業に賠償を命じた韓国最高裁判決をめぐっては、大邱(テグ)地裁が日本製鉄に公示送達。効力が発生する12月9日以降に地裁が売却命令を出す可能性がある。
 日本政府は判決が「(請求権問題の完全かつ最終的な解決を定めた)1965年の日韓請求権協定に明らかに反している」とし、韓国政府に「適切な対応」を求めているが、韓国側は三権分立を理由に司法判断を尊重するとしている。」
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🛶4〕─1─オホーツク文化・アイヌ文化。縄文人・オホーツク人・擦紋人そしてアイヌ民族。~No.8 

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 日本民族日本人・アイヌ人・琉球人は、それぞれ相手は違うが、雑多な人種・民族・部族との乱婚を繰り返して独自の発展をとげた混血(ハーフ)の雑種民族である。
 日本列島に住んでいた人間は、血が混じって汚れた穢れた雑種ばかりで、血が混じらない綺麗な純血種・純種は存在しない。
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 アイヌ人は、血筋として日本民族日本人に近いが、朝鮮人・漢族系中国人とは血筋が違いよってなんら縁もゆかりもない別系統の東アジア人である。
 反天皇反日本の人々はアイヌを日本から切り離す為に、アイヌ人は日本民族とは別の先住民族で中国人や朝鮮人に近いとウソを言いふらしている。
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 ウィキペディア
 オホーツク文化は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。
 同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。
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 擦文時代(さつもんじだい)は、北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲とする時代区分。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする(青苗文化も参照)。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)。
 なお、9世紀(平安時代前期)までの北海道では、擦文文化と並行して、異なるオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)までは、その系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部を中心に擦文文化圏と隣接していた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が採り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなったため、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。
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 オホーツク沿岸の古代遺跡群
 網走地域
 エリア一帯が北方古代文化の宝庫
 オホーツク沿岸地域では縄文、続縄文、擦文、オホーツク文化アイヌ文化まで各時代の遺跡が分布し、遠軽町旧白滝村)など内陸部では旧石器時代の遺跡が多く見られる。オホーツク沿岸の遺跡は樺太・シベリアなど大陸諸文化との関係が強く認められ、竪穴住居が連綿と残る常呂遺跡、オホーツク文化遺跡として著名なモヨロ貝塚、縄文後期の朱円周提墓などが代表格。また、2011(平成23)年には、白滝遺跡群の石器資料の一部が国の重要文化財に指定されている。
 見学スポット
 網走市立郷土博物館分館モヨロ貝塚
 斜里町立知床博物館
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 オホーツク人のDNA解読に成功
 ー北大研究グループー
 6月18日の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功。オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。謎に包まれたオホーツク文化が解明されることでオホーツク地域の魅力がさらに深まりそうだ。(以下北海道新聞から紹介します)
 アイヌ民族と共通性
 大学院理学研究員の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。
  一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
 どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこから受け継がれたのでは」と推測している。同大学院の加藤博文准教授(考古学)は「オホーツク人は、最後は消えたという表現がなされてきたが、アイヌ民族の形成にかかわった集団もいたことが示された。アイヌ民族の形成の多様さを遺伝子から指摘する研究成果だ」とみている。
―オホーツク人―
  漁労や海獣猟を主とした海洋民で、5~13世紀にかけて道北・道東・サハリン南部を中心に海岸近くに多くの遺跡を残した。ルーツは明確ではなく、主に①アイヌ民族説②ニブヒ説③アムール下流域民族説④すでに消滅した民族集団説―の4説で論議が交わされてきた。同時期には、縄文人の流れをくむ続縄文人(紀元前3世紀~紀元6世紀)、擦文人(7~13世紀)が道内に暮らしていた。
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 遺伝子分析の結果、推定されるオホーツク人やアイヌ民族の成り立ち
 (北大研究グループ作成)
 カムチャツカ半島 カムチャツカ半島の集団
 ↓
 ↓ サハリンとアムール川下流域の集団
 ↓  ↓
 オホーツク人
 ↓
 ↓ 擦紋人
 ↓ ↓
 縄文人
 ↓ 
 アイヌ民族
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 オホーツク古代文化浪漫
 大正2年、在野の学者であった米村喜男衛氏が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこには貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品はどれもが他に類例を見ないものだった。この「モヨロ貝塚」の発見は世界的にも注目され、作家の司馬遼太郎氏も著書「街道を行く」の中で発見者の米村氏をトロイの遺跡を発見したシュリーマンと並べて書いているほど。
 北海道オホーツク地域に残る多くの古代遺跡。オホーツク人(モヨロ人)はどこから来てどこへ行ったのか。古代人が残した爪跡は、訪れる人を果てしない想像の世界へと駆り立てずにはおかない。
 「オホーツク21世紀を考える会」作成の冊子『春のオホーツク体験紀行』から、オホーツク文化の記述を抜粋し紹介します。
 二万年前から大陸と繋がっていた北海道の古代文化
 全国各地で二万年年程前の人骨が発見されているが、古代日本を語る場合、ここ北海道オホーツク地方を抜きでは語れない。
 北海道に人が住みついたのは旧石器時代(およそ二万数千年前 )とされるが、遠軽町白滝(旧白滝村)の白滝遺跡群は旧石器時代の遺跡としては日本最大規模の遺跡だ。白滝遺跡群からは、赤石山から採取した黒曜石を原料とした様々な石器が大量に発見され、この一帯が石器の製造場だったと思われる。白滝産黒曜石は、南は三内丸山遺跡を含む北東北、北はサハリンやシベリアの遺跡からも発見され、本州・大陸と交易が行われていたことを物語っている。大陸とのつながりといえば、大空町女満別(旧女満別町)の豊里遺跡から、昭和32年に発見された石刃鏃(せきじんぞく)は、日本考古学界でも画期的な発見だった。石刃鏃とは、石を縦に剥いで作った石刃を鏃(やじり)にした鋭利な石器のことである。
 これまでユーラシア大陸北部で広く認められていた石刃鏃が、日本列島では発見されていなかったのであるが、女満別ではじめて本格的発見がされ、これによって大陸と日本列島の石刃鏃文化が繋がったのである。
 オホーツク地域は縄文人にとって豊かな土地
 石刃鏃が発見された女満別豊里遺跡は約七千年前のものとされ、時代は縄文時代早期だろうか。北海道の縄文時代は一万年前から七~八千年間続いた。
 縄文時代は、言うまでもないが縄目の文様がついた土器に由来し、人々は狩猟採集を営みとしていた。
 北見市常呂町(旧常呂町)の常呂川河口周辺には旧石器時代から縄文、擦文・アイヌ文化までの遺跡が数多く発見されていて、竪穴住居跡が二千五百以上も確認されている。これほど各時代にわたる遺跡が遺されている地域も珍しく、各時代の比較およびシベリア、サハリンなどの北方文化の研究において重要な遺跡となっている。 
 縄文時代の後期から晩期の一時期に見られる特徴に、ストーンサークルや集合墓地(周堤墓・環状土豪)があげられる。斜里のオクシベツ川遺跡のストーンサークル、朱円周堤墓がそれで、東北地方の文化が持ち込まれたものだと考えられている。
 オクシベツ川遺跡のストーンサークルは、現在、斜里町立知床博物館の裏に復元されていて実際に見ることができる。
 縄文時代は二千年ほど前に終わりを告げるが、ここから北海道と本州は別の時代をたどることになる。本州では稲作の伝来により弥生時代へと移るが、北海道は続縄文・擦文・アイヌ文化へと時代をたどっていく。極端な言い方をするならば、狩猟採集の縄文的文化が明治の時代まで続くのである。縄文時代は今より気候も温暖だったとされ、食糧も豊富にあり、縄文人にとってこの地は豊かな地であったのだろう。
 流氷とともに現れ消えた幻の民族「モヨロ人」
 続縄文から擦文時代に並行して、日本考古学史上特異なオホーツク文化の時代がある。六~十一世紀のおよそ五百年間、日本では古墳~平安時代に相当する。
 オホーツク文化発見は、大正二年までさかのぼる。在野の学者であった米村喜男衛が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこは貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品は、どれもが他に類例を見ないものだった。
 この「モヨロ貝塚」の発見によって、縄文文化ともアイヌ文化とも違う“オホーツク文化”の存在が明らかになっていったのだ。米村喜男衛が発掘した資料を基に作られたのが、現在の網走市立郷土博物館であり、モヨロ貝塚館である。
 では、オホーツク文化の担い手、ここでは仮にモヨロ人と呼ぶことにするが、モヨロ人はアムール川流域あるいはサハリンから南下してきた海洋狩猟民ではないかと考えられている。が、彼らがどこから来た民族なのかは、未だ明快な結論は出ていない。
 回転式離頭鋸に見られるような発達した漁具。海獣を象ったり波形や魚、漁の光景を施した独自の土器や骨角器。また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い。
 オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれていくことになる。歴史の時間尺で見れば、突然に現れ忽然と消えてしまったオホーツク文化とモヨロ人。
 司馬遼太郎は『オホーツク街道』(街道を行く38・朝日新聞社刊)の中で述べている。「(前略)縄文文化ほど、日本固有の文化はない。この固有性と、オホーツク文化という外来性が入り交じっているところに、北海道、とくにオホーツク沿岸の魅力がある」と。
 北海道だけで発展した続縄文・擦文文化
 紀元前五世紀ころから本州では弥生時代へ移ったが、北海道では鉄器のみが伝来しそれまでの縄文文化を継続しながら六世紀頃まで続く。これを続縄文時代と呼んでいる。
 その後に訪れるのが擦文(さつもん)文化時代である。擦文とは、刷毛で擦(こす)ったような紋様から命名され、いわゆる『縄文』紋様は消滅していった。またこの頃になると本州との関係が深まり、素焼きの土器「土師器(はじき)」や、ロクロで成型し高温で焼いた「須恵器(すえき)」が北海道へも渡ってきた。
 擦文文化の遺跡としては、常呂遺跡をはじめ、紋別のオムサロ遺跡、湧別のシブノツナイ竪穴住居跡などがあり、オムサロ遺跡公園では復元した擦文時代の住居が見られる。
 擦文文化は十二世紀頃まで続くが、その間オホーツク文化は擦文文化へ吸収される形で消え(トビニタイ文化)、擦文文化もまたアイヌ文化へと移った。しかし、文化の流れは決して途切れるのではなく、縄文~擦文、オホーツク文化も、アイヌ文化のDNAとなって脈々と流れていったのである。
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 縄文文化
 ⦿北と南の文化が出会う—オホーツク文化・擦文文化
 続縄文文化のおわりごろ、「オホーツク文化」が、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸、千島列島にひろがりました。また、同じころ「続縄文文化」につづき、本州文化の影響をうけた北海道特有の「擦文(さつもん)文化」が成立します。このころは南北からの人や物の行き来がさかんになり、のちのアイヌ文化につながるものがあらわれてきます。
 「オホーツク文化
 5世紀になると、それまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもった人びとが、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸にやってきました。この人びとの文化を「オホーツク文化」とよんでいます。
 このオホーツク文化日本海沿岸にも広がり、もっとも南では道南の奥尻島にも遺跡が知られています。しかしオホーツク文化の遺跡は、オホーツク海の沿岸部にあり、内陸部からは見つかっていません。また、この文化の人たちは「海洋の民」ともよばれています。
 オホーツク文化の人びとは、漁労を行い、クジラやアザラシなどの海獣をとり、イヌやブタを飼い、大陸や本州との交易を行っていました。また、人びとは海岸近くに集落をつくりました。住居は地面を五角形あるいは六角形に掘りさげた竪穴住居に住み、なかには長さが10mをこす大型のものもあります。こうした大型住居には、15人以上もの人が共同で生活していたと考えられています。
 オホーツク文化の遺跡からは、帯飾り、軟玉、小鐸、鉾などが見つかっています。これらは、アムール川黒龍江)中下流域の靺鞨文化(4~9世紀)、同仁文化(5~10世紀)の遺跡から見つかるものと同じものです。オホーツク文化が、サハリン(樺太)や大陸などと交易や交流をもっていたことがわかります。
▲オホーツク式土器
 オホーツク式土器は口の広い壷形で、細長い粘土紐を使った文様がみられます。この細長い粘土紐は形状が素麺に似ていることから「ソーメン文」や「貼付文」とよばれています(ところ遺跡の森所蔵)
▲トコロチャシ跡遺跡出土 クマの彫刻品
 クマの全身が細部まで表現され、オホーツク文化ではクマが特別な動物だったと考えられています(ところ遺跡の森所蔵)
▲モヨロ貝塚出土 牙製婦人像
 オホーツク文化特有の牙製彫刻は北海道で十体ほど見つかっています(北方民族博物館所蔵)
 「擦文文化」
本州の文化の影響を受け、それまで使われていた縄文のついた土器と石器がみられなくなり、本州の土師器(はじき)に似た土器や鉄器が使われはじめます。
 この文化を「擦文文化」とよび、7~12世紀ごろまでつづきました。擦文文化の人びとは、同じ時期に本州にもみられるようなカマド付きの四角い竪穴住居でくらしました。8世紀になると、人びとは河口近くに集落をつくり、サケやマス、野生植物をとり、アワやキビ、オオムギなどの栽培をしていました。
 このころの北海道は、東北地方とさかんな交流があり、その強い影響を受けていました。交易によってえた鉄製品が急速にひろまり、石器は使われなくなりました。また、鉄を加工する野鍛冶の技術ももたらされました。
 江別市恵庭市では東北地方とよく似た末期古墳が発見され、本州産の鉄器などの副葬品が見つかっています。
▲擦文土器
 擦文文化後期のもので、木のヘラでこすって表面を整えています(北海道博物館所蔵)
▲札幌市K-446遺跡出土 擦文土器
 札幌市北区麻生で発見された「K-446遺跡」からは多くの擦文土器や須恵器が出土しました(札幌市埋蔵文化財センター)
▲鉄製の鋤(すき)先
 外側に刃、内側に溝をもつ鉄製の鋤先。本州からもたらされた鉄器の一つです(北海道博物館所蔵)
▲伊茶仁カリカリウス遺跡の竪穴住居跡(1980年の発掘調査時)
 擦文時代の集落としては最も規模が大きく、現在までに2549軒の住居跡がみつかっています(写真提供:標津町ポー川史跡自然公園)
復元された江別古墳群
▲江別古墳群は東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯 一の現存する遺跡です。1931年に後藤寿一氏によって発見されました(写真提供:江別市郷土資料館)
 北と南の文化が出会い、「アイヌ文化」へ
 オホーツク文化(5~9世紀)と擦文文化(7~12世紀)は、北海道で8~9世紀ごろに出会いました。オホーツク文化がおわり、10世紀になるとオホーツク文化と擦文文化の両方の特徴をもった土器がつくられるようになります。このような土器を「トビニタイ土器」とよんでいます。
 また、住居も両文化の特徴をもつようになります。遺跡は海岸だけでなく、擦文文化と同じように内陸の河川沿いにもみられるようになります。これは、この地域のオホーツク文化の人びとが、擦文文化に近い生活に移り変わっていったことを示しています。その後のアイヌ文化には、このオホーツク文化と擦文文化の両方の要素が受けつがれています。
 一方、南から中央政権が北上し、「エミシ」とよばれた東北の有力豪族が組み込まれていきます。12世紀ころには奥州藤原氏をはじめ東北の豪族が平泉文化を花ひらかせました。
 13・14世紀になると、道南には和人が住み着くようになりました。また陶器や鉄鍋などが北海道にひろがり、土器がつくられなくなります。住居は竪穴住居から平地住居にかわり、またカマドから炉にかわります。擦文文化は、アイヌ文化へと変わっていったのです。
 このように北海道の文化は、北からの人びと、南からの人びとが交流や交流などにより、 文化の影響を受け合っていました。
▲トビニタイ土器
 擦文土器とオホーツク式土器の形や文様など、両方の特徴を備えています。ちなみに、トビニタイとは羅臼町飛仁帯で出土したことから名前づけられました(北海道博物館収蔵)
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 北海道と北九州をつむぐ地域情報と物語
 オホーツク文化
 『海に出たところが、常呂である。
 田園がひろがり、ひろい丘陵が樹林を茂らせ、オホーツクの海がみえる。
 さらに網走側に能取湖をもち、べつの側にサロマ湖をもつといったぐあいで、じつに景色がいい。
 この山水のなかを歩いていれば、たれもが古代感覚をよみがえらせるにちがいない。たべものを採取してまわるくらしのなかでは、常呂ほどの土地はない。
 流氷期には海獣がとれるし、ふだんでも、淡水・海水の魚介がゆたかで、野には小動物がかけまわっている。常呂川には、季節になると、サケやマスがのぼってくる。
 採取のくらしの時代、常呂は世界一のいい場所だったのではないか。』
 これは、司馬遼太郎氏の著書『オホーツク街道』~街道をゆく38(朝日新聞社刊)の一文です。
 この北見市常呂を含めたオホーツク地方の歴史には、未だに多くの謎が残されています。
 およそ6世紀から13世紀頃にかけて、サハリン・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に陸獣や海獣の狩猟、漁労、採集活動を生業とする未明の民族集団が居住していたというのです。
 彼らの形成した北方の文化形態こそが、その謎を秘めた「オホーツク文化」です。
 一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4~10世紀)、女真文化(10~12世紀)の系統をひいて誕生し、やがて本州の土師器文化(7~11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8~13世紀)と融合し、吸収されていったと考えられていますが、彼ら及びその文化は、「突如、忽然として消えてしまった!」という有力説さえあるのですから、ロマンが注がれます。
 また、オホーツク文化と中国大陸を含む他文化との接触や交流は、アイヌ文化の発生に大きく関わり、北回りの文化系統は、後に山丹交易ルートとなっていったとも考えられています。
 現在、見学できる代表的な遺跡としては、網走市の「モヨロ貝塚」があります。
 1913年(大正2年)に網走を訪れたアマチュアの考古学研究者・米村喜男衛さんが発見しました。
 発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った若かりし米村さんは、網走に住むことを決意して理髪店を開業し、その傍らで遺跡の調査と研究へ精力的に携わったのです。
 戦後、本格的なモヨロ貝塚の発掘調査指導に訪れた言語学者金田一京助博士は、米村さんのことを、
 「おほつくのもよろのうらの夕凪にいにしよ志のび君とたつかな」
 と詠み、その歌碑もあります。
 果たしてオホーツク文化の担い手民族は、誰なのか? 
 オホーツク文化のルーツは、どこであるのか?
 オホーツク文化アイヌ文化の関係はどうなのか?
 その真相は、未だに多くの謎に包まれています。
 オホーツク地方は古代のロマンも秘めています。
 網走周辺は考古学上でも、とても興味深い地です。
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 GoodDay北海道 » オホーツク文化
 オホーツク文化
 海を愛した海洋民族の暮らし
 オホーツク海沿岸部を
 中心に分布していた
 文化のはじまりと営み
 オホーツク文化は5~10世紀頃にかけて、サハリン南部から北海道・南千島オホーツク海沿岸部に展開した文化です。オホーツク文化の人びとは、海を生業の場とし、漁撈や海獣狩猟によって生活していました。海での暮らしに特化した海洋民族と考えられており、五角形・六角形をした大きな竪穴式住居を建てるなど独特の文化をもっていたことが知られています。長らく栄えたオホーツク文化は10~12世紀頃に北海道在地の擦文文化と接触・変容し、姿を消していきました。
 オホーツク文化
 アイヌ文化の
 類似した特性
 最近の研究では、オホーツク文化の人々の一部は北海道在地の人々と混血し、アイヌ民族の形成に関わったことが明らかにされつつあります。そのためか、アイヌ文化の中にはオホーツク文化からの影響を受けたと推定される特性が見られます。オホーツク文化では、住居内にクマの頭蓋骨を祀る骨塚が設けられるなど特徴的な動物儀礼の存在が知られていますが、これはアイヌ文化のクマを崇拝する風習につながるものと考えられています。その他、埋葬様式や狩猟技術にも両者の関連性が指摘されています。
 遠い昔、北の海辺に
 生きた、先人たちの
 営みを垣間見る
 オホーツク文化の遺跡は、道内では枝幸町の「目梨泊遺跡」、紋別市の「オムサロ遺跡」の他、最大の遺跡である網走市の「モヨロ貝塚」があります。この遺跡の発見がきっかけとなり、それまで知られていなかった、オホーツク人と呼ばれる人々の存在が判明。道内にもオホーツク文化の存在が認められるようになったのです。隣町の北見市常呂町にある「常呂遺跡」にもその痕跡が残されているので、是非訪れてみてはいかがでしょうか。
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 公益財団法人 アイヌ民族文化財
 The Foundation for Ainu Culture
 アイヌ文化まで
 本州が弥生時代を迎え、その後、古墳時代、奈良・平安時代鎌倉時代と続くころ、北海道は土器を使い、採集・漁狩猟を生業とした時代が続きました。続縄文文化の時代、擦文(さつもん)文化の時代と呼ばれる時代です。地域や研究者によって異なりますが、この擦文文化の時代は7世紀ころに始まって、12~13世紀ころに終わりを遂(と)げるとともに、アイヌ文化が登場しました。
 アイヌ文化につながる擦文文化
 両文化に共通するところとして、一例をあげますと、集落がサケやマスが遡上する河川の流域、あるいは河口につくられるということです。擦文文化を担った人たちもアイヌの人たちと同様に、季節になると大量に遡上してくるサケやマスを主たる食糧としていたのでしょう。
 オホーツク文化もまたアイヌ文化と関連する
 擦文文化にほぼ並行して、北海道のオホーツク沿岸域を中心にオホーツク文化が形成されます。このオホーツク文化を担った人たちは、住居内にクマの頭骨を集積していました。クマに対するなんらかの信仰を持っていたものと思われます。アイヌの人たちもまた、クマの霊送り儀礼を行った後、頭骨を住居の外の祭壇に安置しました。
 このように、精神文化においては、オホーツク文化が大いに影響していると考えられます。
 アイヌ文化の形成
 こうした歴史の流れ、あるいは、現在に伝わるアイヌ文化を見ますと、擦文文化を担った人たちがオホーツク文化の影響を受けながら、アイヌ文化を形成したと考えられますが、その年代などについては、まだはっきりとはしておりません。
 近年、北海道南部の上ノ国(かみのくに)町の遺跡から、16世紀末から17世紀初めごろに使われていたと考えられる、イクパスイと呼ばれるアイヌの人たちの祭具が出土しており、こうした考古学の発掘等により、古い時代のアイヌ文化の様相が次第に明らかになってくると思われます。
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 エンタメ!歴史博士
 謎の北方海洋民族の生活いきいき アイヌ文化に大きな影響
 歴史新発見 北海道羅臼町・松法川北岸遺跡
 2015/9/24
 歴史博士
 5世紀から10世紀にかけ、北海道のオホーツク海沿岸で独自の文化を持った海洋漁猟民族がいた。いわゆる「オホーツク文化」の担い手たちだ。生活実態が長く不明だったが、羅臼町松法(のり)川北岸遺跡の遺物が重要な手掛かりと判明。出土した約10万点の遺物中計260点が今月、国の重要文化財に指定された。アイヌ文化に大きな影響を与えたとみられるオホーツク文化に注目が集まっている。
 不意に現れ、突然消えてしまった民族
 縄文時代以降、北海道は本州とは異なる独自の歴史を歩んだ。今から2500年前ごろ、九州から本州では稲作が生活の中心となる文化が広がった。社会システムが大きく転換した弥生時代だ。
 だが北海道では稲作は技術的に不可能だった。その一方で自然資源が豊富であったため漁労や狩猟が中心の生活が6世紀頃まで続いた。「続縄文時代」と呼ばれる。地域色が濃く道央、網走、釧路などそれぞれ特徴がある土器が出土している。
 本州が飛鳥時代と呼ばれる7世紀頃になると、北海道に本州から鉄や土師(はじ)器が流入するようになる。鉄器が多数手に入るようになったことで石器は激減。住居は正方形か長方形で、それまでの単純な炉だけでなく「かまど」が作られた。土器は土師器によく似た「擦文式土器」を製作。ヒエやアワを栽培し大集落を築いた例があることも分かっている。本州の影響を強く受けながらも独自の発達を見せ、北海道のほぼ全域に広がった。13世紀ごろまで続き、「擦文文化期」と呼ばれる。この文化の流れを担った人々がその後のアイヌ文化を作ったとされている。
 こうした時代の中、オホーツク海沿岸の利尻島礼文島知床半島根室半島など流氷の分布域とほぼ重なる道北・道東の一部地域に在来とはまったく異質の文化が5世紀頃渡来した。「オホーツク文化」と呼ばれている。
 骨角器や石器などを用いてクジラや魚、トドなどを捕獲。鹿角や鯨骨で作った釣り針や、漁網に結びつけた石の重りが多数見つかっている。漁労や海獣狩猟を生計の中心に据え、海岸沿いに五角形や六角形の竪穴住居を建てて住んだ。
 竪穴といっても原始的なものではなく、複数の家族が同居する1辺10メートル超もある大型で、板壁に囲まれ、床には粘土を敷き、木材を多く使う現在のログハウスと大差ないものもあったという。
 中でも特徴的なのは、動物の骨、とりわけヒグマの頭骨を積み重ねる「骨塚」が住居の奥に祭壇として設置されていたことだ。数十頭の頭骨が出土した例もあり、ヒグマを神聖なものとして扱い儀式を行っていたと解釈されている。
 オホーツク文化はサハリンが起源と考えられておりアムール川下流域、南千島、北海道のオホーツク沿岸に広がった。9世紀ごろから一部で擦文文化と融合が始まり、中間的な「トビニタイ文化」に変容、トビニタイ文化も13世紀には擦文文化に完全に吸収されたとされている。
 不意に現れ、突然消えてしまった――。古代のミステリアスな海洋民族とされてきたオホーツク文化人とは誰なのか。人類学や考古学、歴史学など様々な分野から正体を求めてアプローチがなされてきた。
 「遺伝子解析の結果などによると、アムール川下流域からサハリン北部で暮らし、以前はロシア語でギリヤークと呼ばれていた少数民族のニブフ説が近年は有力になっている。擦文文化との融合とともに混血が進んでいった跡もあるようだ」と羅臼町郷土資料館の天方博章学芸員は解説する。
 そのオホーツク文化人の生活実態を解明する上で大きく寄与したのが今月国の重要文化財に指定された松法川北岸遺跡から出土した遺物だ。
 火災のおかげで残された木製品
 7~8世紀ごろの土器や石器、鉄製品、骨角器ほか木製品が見つかった。1982年の発見当時、オホーツク文化期の木製品出土は初めてだったことからとりわけ高い価値があり、30年余りにわたって復元作業が続けられてきた。
 熊頭注口木製槽を完全な形を予想して復元した。上向きにした状態。酒を入れる容器で熊の口部分から注いだとの説がある
 1300年を越える木製品が奇跡的に残ったのは火災に遭ったから、というと逆説めくが、事実その通りなのだ。松法川北岸遺跡で調査した15軒中3軒が火災に遭った竪穴住居跡だったが、屋根にふかれた土が火事で崩れ落ちて蓋となり、ちょうど炭焼き窯のような状態になったのだ。
 木製品は長時間にわたって1000度を超える高温で熱せられたとみられ、炭となった。もし炭化していなければ朽ちて腐敗し、他の遺跡と同様、後世まで残ることはなかった。
 見つかった多数の木製品は盆、碗(わん)、皿、匙(さじ)、樹皮で出来たかごのような容器など。当時の人々の日常生活が立ちのぼってくるような資料ばかりだ。また、櫂(かい)とセットになった船のミニチュア製品もあった。形状から単純な丸木舟ではなく、構造船であったと推測されている。
 特筆すべきは、「熊頭注口木製槽」と名付けられた船の形をした容器だ。端にヒグマの頭部が彫刻され、縁にはシャチの背びれが刻まれている。ヒグマの口が注ぎ口になっている。このほかにも動物をモチーフにした小物のような遺物は多い。骨や角などにアザラシ、シャチ、ラッコなどを刻んだりかたどったりしている。
 出土した遺物の特徴について早稲田大学の菊池徹夫名誉教授(北方考古学)は「動物に対する信仰の念が顕著だ。熊頭注口木製槽はヒグマとシャチが刻まれている。擦文文化ではこうした動物儀礼の例は知られておらず、ヒグマを山の神(キムンカムイ)、シャチを沖の神(レプンカムイ)として敬うアイヌ文化に大きな影響を与えたのではないか」と指摘する。
 松法川北岸遺跡付近の現在の様子。道は国後国道
 発掘以来約30年にわたって木製品の復元にあたってきた羅臼町郷土資料館の涌坂周一元館長は「石器や土器と違って、どの木製品も初めて見るものばかりで、そもそも元がどのような形をしていたか想像することも困難だった。また、見つけた時にはさわるとボロボロに崩れてしまうような状態だった。オホーツク文化人の生活実態を知る手掛かりになってくれればと思う」と振り返る。
 羅臼町がある知床半島ユネスコ世界自然遺産に登録されている。今回は松法川北岸遺跡出土遺物がオホーツク文化を復元、解明する上で貴重な資料という理由から重要文化財の指定を受けたが、オホーツク文化に続くトビニタイ文化は羅臼町飛仁帯(とびにたい)地区で出土した土器が名称の由来となっている。自然的特性だけではなく、歴史的に価値の高い文化遺産にも注目が集まることになりそうだ。
 (本田寛成)
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