🏹16〕─1─アジア諸国は「元寇」にどう立ち向かったのか?~No.47No.48No.49 

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 2021年7月16日 MicrosoftNews JBpress「日本は撃退成功、アジア諸国は「元寇」にどう立ち向かったのか?
 (川島 博之:ベトナム・ビングループ、Martial Research & Management 主席経済顧問)
 © JBpress 提供 モンゴルの高原(Pixabay)
 © JBpress 提供 『中国、朝鮮、ベトナム極東アジア地政学』(川島博之著、育鵬社
 モンゴルは13世紀から14世紀にかけてユーラシア大陸を席巻した。それから800年ほどの年月が流れたが、その驚異的な軍事力とその後の支配は、今でも恐怖の感情とともにユーラシア大陸に住む人々の心の奥底に残っている。それは知ることは現代社会を理解する上で役に立つ。
 日本はユーラシア大陸の周辺に位置する島国だが、モンゴルの襲来は「元寇」と呼ばれて「神風」という言葉を生んだ。「元寇」と「神風」にまつわる記憶は、危機に見舞われた時に、神が日本を助けてくれるという思考につながっている。
 あの戦争の末期に海軍は自爆攻撃隊を組織したが、その名称を「神風特別攻撃隊」とした。それは極めてインパクトのあるネーミングであった。もし「神風」という名称がなかったら、あれほどまでに特攻の悲劇が繰り返されることはなかったのではないだろうか。20世紀になっても日本人の心の中には元寇の記憶が残っていた。
 中国全土を初めて征服した異民族
 モンゴルの侵攻は中国にも大きな影響を与えた。中国はそれまでにも何度も北方に住む遊牧民に国土を荒らされてきた。女真族満州族)が中国の北半分を占領したこともあったが、中国全土を征服したのはモンゴルが初めてだった。
 南宋は首都である臨安が陥落しても、幼帝と一部の臣下が現在の深セン市まで逃げて徹底抗戦した。最後は「崖山の戦い」(1279年)に敗れて滅亡したが、異民族の支配に対して徹底抗戦したという記憶は中国人に残ることになった。
 中国人は約100年間にわたってモンゴル人の支配下で暮らしたが、その支配を「紅巾(こうきん)の乱」という農民反乱によって覆している。農民反乱による王朝の崩壊は中国史の定番であるが、異民族支配に対しても農民反乱は有効であった。この反乱の中で力をつけた朱元璋洪武帝)が明を建国した。
 モンゴルへの降伏で決まった朝鮮半島の「国の形」
 モンゴルは朝鮮半島にも攻め込んだ。朝鮮半島に住む人々は、それまでも唐など中国王朝の脅威にさらされてきたが、なんとかその侵攻を防いでいた。付け根が山岳地帯である朝鮮半島は攻めにくい。モンゴルはそんな朝鮮半島に深く攻め込んできた。
 モンゴルの侵攻に対して高麗王室は「江華島(カンファド)」(ソウルの北西約50キロ、漢江の河口にある島)に逃げ込んで抵抗した。江華島朝鮮半島との距離は1.2kmほどでしかないが、この水道をモンゴル軍は渡ることができなかった。モンゴル軍は海の戦いが苦手だった。
 そのために江華島に逃げ込んだ王室は無事だったが、数度にわたる侵攻によって朝鮮半島に住む人々は甚大な被害を受けた。その結果、王室は江華島に逃げ込んでも食料を確保することが難しくなった。このような状況の中で文官グループは、徹底抗戦を叫ぶ武官グループから政権を簒奪(さんだつ)して、モンゴルに降伏することを選んだ。その時に文官グループが作り上げた降伏文書が朝鮮半島の「国の形」を決めたと言ってもよい。
 文官グループは「文官は事大主義(強いものに従うこと)を実行しようと思ったが、武官がそれを邪魔したために降伏できなかった」と仲間を裏切るような卑怯な降伏文書を作成してモンゴルに降伏した。そのあり方は、徹底抗戦を叫んで滅んだ南宋とも、元寇を撃退した日本とも異なっていた。
 高麗が滅びた後、朝鮮半島李氏朝鮮の時代になるが、李氏朝鮮では文官が武官の上に立って統治する体制が確立された。そんな李氏朝鮮は明や清に徹底的に臣従する政策を採用した。
 李承朝鮮の支配層は明や清に卑屈な態度で接する一方、国内に対しては徹底的に権威主義的な態度で振る舞った。文官は儒教朱子学)を振りかざし、屁理屈をコネ回して民衆を支配した。
 安全保障を隣国に丸投げして、文官が民衆に対して威張り散らす体制を構築した国は李氏朝鮮ぐらいだろう。1897年に大韓帝国と名前を変えたが、李氏朝鮮は実質的には日本に併合される1910年まで500年以上も存続した。そのために、今でも朝鮮半島に住む人々の心の中には李氏朝鮮時代の記憶が鮮明に残っている。現代の韓国の政治や外交政策を理解するには、李氏朝鮮を理解する必要がある。時にヒステリックに相手を攻撃し、前言を翻しても平気でいられる体質は李氏朝鮮時代に培われたと考えられるからだ。
 「米国に勝利」につながるベトナムの戦い方
 ベトナムもモンゴルの侵攻を受けた。ベトナムは中国と陸続きであり元は3度にわたってベトナムに侵攻している。元はハノイを占領した。
 モンゴルが侵攻した時、ベトナムは陳朝であったが、モンゴル軍があまりにも強いので、皇族の中にも元軍に降るものが出た。そのような状況の中で、時の皇帝・仁宗は降伏したいと言い出した。その時、将軍の陳興道は廟議において「降伏するのならこの首を切ってからにしてほしい」と皇帝に強く戦いを迫った。このシーンはベトナム史の名場面として、今もベトナムの人々の間で熱く語り継がれている。
 仁宗は戦いを決意した。陳興道は弱気になりがちな仁宗を励ましながら、森に隠れてゲリラ戦を陣頭指揮した。
 元軍は圧倒的な戦力を誇りながらも、亜熱帯でのゲリラ戦に勝つことができなかった。熱暑に疲弊した元軍は一度撤退して陣営を立て直そうと考えた。その際に、紅河デルタ白藤江(はくとうこう)を下って撤退しようする元軍に対して、陳興道下流域の河床に何本もの杭を打って待ち伏せすることにした。杭は満潮時には見えないが潮が引くと現れる。元軍の船が杭に挟まれて動けなくなったところを小舟に乗ったベトナム兵が襲いかかった。白藤江の戦いで元軍は全滅に近い損害を受けた。
 この民族の物語は、小国であるベトナムがなぜ強大な米国に勝利することができたかを考える上で重要である。
 800年も前の出来事であるが、モンゴルの侵攻は現代になってもユーラシア大陸に住む人々の心の中に生き続けている。それを知ることは、現代社会を理解する上で役に立つ。
 (筆者からのお知らせ)筆者の新刊『中国、朝鮮、ベトナム極東アジア地政学』(育鵬社)にこの辺りの事情を詳しく書いたので、お読みいただければ幸いである。米中対立が激化しているが、極東アジアに住む人々の「心の中の戦争」を知れば、より的確な判断が可能になることだろう。」
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日本人が誤解している東南アジア近現代史 (扶桑社新書)