☰44〕─2─大日本帝国の戦争・植民地支配・軍国主義の煽動者は福澤諭吉であった。皇室論。帝室論。尊王論。~No.116No.117No.118 @ 

平成皇室論 次の御代へむけて

平成皇室論 次の御代へむけて

  • 作者:橋本 明
  • 発売日: 2009/07/07
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 明治維新による大日本帝国樹立と軍国主義による軍事国家建設を目指したのは、江戸時代後期に起きたロシア海軍による北方領土蝦夷地海賊事件と対馬占領及び軍港租借要求事件であった。
 中央集権体制を目指した明治維新への発端は、南から来航したペリー提督の外交的黒船ではなく、北から押し寄せたロシア海軍の戦争的軍艦である。
 徳川幕府地方分権幕藩体制では、ロシアの侵略から祖国日本を守りきれなかった。
 弱小国日本は、北方から侵略してくる大国ロシア・ソ連共産主義者の大軍からいかに祖国日本を守るかを最優先課題としてパニック的暴走を起こしていた。
 そして、清国(中国)と朝鮮が日本を侵略し植民地化しようとしているロシア・ソ連共産主義者に味方したから、共同戦線が完成する前に先制攻撃を加えて両国を粉砕した。
 日本を清国(中国)そしてロシアとの戦争に引きずり込もうとしたのが李氏朝鮮であった為に、日本の安全を守る為に朝鮮は合邦として日本に取り込んだ。
 韓国併合は、日本の対ロシア戦略の一環として実施された。
 日本が目指した近代化の真の目的は、近代教育と殖産興業で西洋的文明国家になり世界的地位と国際貿易で豊になる事ではなく、富国強兵と軍事産業育成で軍事国家になり日本を攻撃し滅ぼそうとする敵国である周辺諸国を国外で撃退する事であった。
 日本民族日本人は、天皇を民族の中心において一致団結する為に近代的天皇制度を国體として採用した。
 それが、日本の国家主義である。
 ロシア・中国などの近隣諸国の侵略から祖国日本を守るには日本民族日本人を一つにまとめる必要があり、その存在として選んだのが日本天皇・皇室・皇族で、その存在を守る為に日本天皇・皇室・皇族を「神聖不可侵」と定め、不敬罪や侮辱罪で保護した。
 日本民族日本人は、天皇・国家・民族・家族・恋人の為に、自己犠牲としてカミカゼ特攻や万歳突撃などで玉砕し屍体の山を築いた。
 それが、日本の情理的民族主義である。
 国家権力は、祖国日本を国外勢力に売り渡そうとする反天皇反日的日本人の裏切り者を取り締まる為に不敬罪・侮辱罪や治安維持法などの悪法で弾圧した。
 国際社会の世界正義という鉄槌が軍国主義国家日本にくだされた、1945年8月15日の破滅は避けられない宿命であった。
 時効なき永遠の戦争犯罪者とされた日本民族日本人には、ロシア海軍北方領土蝦夷地海賊事件を発端とする軍国主義国家建設というこの道しか選択肢がなかった。
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 日本の「死」の美学や「滅び」の美学とは、死中に活を求める、一殺必中、生きる為の不退転の覚悟であって絶望して自殺する事ではなかった。
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 2017年2月17日号 週刊金曜日大日本帝国の侵略と軍国主義の扇動者
 福澤諭吉の1万円札からの追放を   雁屋哲
 福澤こそ、1945年8月15日の破局に到る天皇ファシズムの元凶であり、ヘイトスピーチの元祖に他ならない。それを理解しない限り、日本人は永久に侵略と植民地主義の過去の悪行を克服するのは不可能だ。
 20年程前、福澤諭吉の『帝室論』と『皇室論』を読み、天皇思想そのもので驚きました。以後、福澤に関する多くの著書を読み、福澤全集も完読しました。日本人の大半は、福澤について『学問のすすめ』冒頭の『天は人の上に人を作らず〜』以上の内容を知りません。
 しかも福澤は戦後、東京大学教授の丸山眞男によって『民族主義の先駆者』であるかのように吹聴されました。しかし実際には、誤った虚像にすぎません。
 ただ明治期、『啓蒙思想家』として大きな影響力を持っていたのは間違いないでしょう。当時、唯一のメディアだった新聞で最高の部数を誇る『時事新報』の社主・主筆であったし、慶應義塾の塾長でもありましたから。福澤の著作も、それだけで食べていけるほど多く売れていました。福澤自身、『明治政府のお師匠様』と称していましたが、実際に薩長藩閥政治に自分の政策を取り入れさせるほど、政治家や社会に大きな影響力を有していたのです。
 しかしその影響力とは、極めて否定的な内容でした。大正、昭和(特に敗戦まで)という時代が明治の延長である限り、福澤が基盤を作ったと言える明治という国家の在り方が1945年8月15日の破局帰納させ、それに到る路線を福澤が引いたと見なしていい。つまり、①アジアへの侵略、そして②天皇絶対主義国家化、という路線に他なりません。
 まず①ですが、1881年に出版された『時事小言』で福澤は、『国権を振るい起こす方針政略』こそが、『私の一生涯の目的はただこの一点にある』と述べ、『本編立論の主義は専ら武備を盛んにして国権を皇張するという一点にあり』と強調しています。『福翁自伝』では、この『国権皇張』が自身の『大本願』であるとされている。
 福澤は自説がコロコロ変わり、あるいはお互いの自説が矛盾するような書き方を平気でしています。しかし、『大本願』としての天皇が支配する日本が他国を侵略して領土を拡大する──という『国権皇張』の追求は、福澤において終生変わっていません。
 同時にそれは、当時の日本人として極めて珍しい三度の海外渡航経験のあった福澤が、外国で英国人が中国人やインド人を虐げる姿を目撃した体験に裏付けられています。そこで福澤はアジアの同胞に同情するどころか、『(海外で)大いに国威を輝かす勢いを得たら、支那人などを御することを英国人と同じにするだけでなく、その英国人をも奴隷のように圧制して、その手足を束縛』したり、『圧制もまた愉快なるかな』として『(欧州人)圧制を圧制して、世界中の圧制を独占したい』(『時事新報』1882年3月28日)という『獣心』を抱きます。これこそが、『国権皇張』の原点でした。
 天皇の『効能』?
 福澤が、朝鮮を侵略・支配するため、清帝国(現中国)の影響力を排除するのが目的だった1894年の日清戦争を早くから『まず朝鮮京城支那兵を皆殺しにし』(同1884年12月27日)だの、『人の種の尽きるまでも戦う覚悟をもって清国を降伏させなければならない』(同1884年8月28日)だのと煽動し、国民の協力を説いたのは必然でした。そしてアジアの強国だった清を破った『成功体験』が日露戦争でも続き、日本はそれに酔って満州戦争、日中戦争、太平洋戦争と次々に戦争を引き起こした末に破局を迎えます。それは、福澤が唱道して明治政府が実行した『国権皇張』の帰結でした。
 のみならず、その『国権皇張』の過程で福澤がやったことは、朝鮮人や中国人に対する実にあからさまな蔑視・差別感情の流布でした。朝鮮に対しては、『上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群れ』(同1894年)と侮蔑し、清国人を『チャンチャン』、清国兵を『豚尾兵』と下げすんで『支那という広き山野に押しかけ、豚尾兵と名付ける一種の悪獣を狩りたてる』(同1895年2月3日)といった差別的表現が異様に数多く見られます。福澤が撒き散らしたアジア蔑視・差別感情こそが民族差別意識を深めたのであり、現在の『ヘイトスピーチ』の原形と呼ぶべきです。
 さらに②ですが、倒幕後に実権を握った薩長は明治政府を作ったものの、当初、何の正統性も権威もありませんでした。そこで彼らは自分たちが握り、『玉(ぎょく)』と呼んでいたものの、一般庶民はそれ以前までほとんどその存在を知らなかった天皇を最大限神格化し、自分たちの支配に利用しました。
 福澤は当初、『文明論之概略』(1875年)で、『我が国の人民は数百年の間天子の存在を知らず、ただ、伝説のように言い伝えてきただけである』と正しく認識していました。ところがその一方で、天皇を、『我が国の皇統は国体とともに連綿として、外国には比べるものがない。……これを活用すれば場合によって大きな効能がある』『政治の中心をさだめて、行政の順序を維持するためには大いに便利』と、『効能』を評価しています。
 この『文明論之概略』では『日本には政府はあるが「ネーション」なし』と指摘していますが、その『ネーション』(一つに統合された国民)を形成するのに必要なナショナリズムを植え付けるため、福澤は天皇制を『活用』しようと考えた。『大本願』である『国権皇張』を達成する上で、天皇制の『効用』を見出したのです。
 『教育勅語』に『感泣』 
 そして1882年に出版された『帝室論』になると、『我が帝室は万世無欠の全壁であって、人心収攬(じんしんしゅうらん)の一大中心である』と全面賛美に転じ、『日本の人民はこの玉壁の明光に照らされてこの中心に集中し、内に社会の秩序を維持して外に国権を皇張するべき』と説きました。『万世無欠』などウソ八百で、国民が命を投げ出すまでに天皇を崇める国になれば、『国権皇張』を可能にするんです。その証明が日清戦争でした。福澤はこの戦争で、天皇の海外出陣まで求めました。
 さらに『帝室論』では、『帝室は政治社外』であって、『偏りなく党派に加担せず』としながらも、『軍人は帝室のためだけ行動するべき』で、『軍人の内部の精神を制御し、その心を収攬する引力はただ、帝室の中心にあるもの』とし、軍隊は天皇だけに従うべきだと述べています。天皇だけが軍隊を動かす権利があるという、『統帥権』の思想そのものです。『天皇の軍隊』が『統帥権』を盾に暴走を重ねた歴史を顧みれば、福澤が後の時代に与えた悪影響は重大でしょう。
 その福澤は、『文明論之概略』で『政治と、天皇を尊び祭り上げることを、一つのものとする考えで世間を支配することとなったら、日本の未来はない』と述べているのですから、彼の矛盾ぶりにはただ呆れるしかありません。
 さらに福澤は、天皇を賛美する上で『帝室論』では足りないと思ったのか、6年後の1888年に出版した『尊王論』では、皇室が『長く久しく血統』だから『天下万民が仰ぐ所』であり、『尊厳神聖』なのだとまで述べています。その福澤が『一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ』と命じた1890年発布の『教育勅語』に『感泣』したのは、不思議ではありません。『帝室論』と『尊王論』で主張した自説が、『教育勅語』という国民洗脳の勅語に結実したことに『感泣』したのかもしれませんが、なぜそうした人物が『民主主義の先駆者』なのか。
 丸山の誤った『福澤評価』の罪深さを感じますが、その背景には大半の日本人が真実の近代史を学校で教わる機会がなく、無知であることと関連しています。近代史を理解すれば、福澤がアジア侵略と、『天皇のために死ぬ』のを美徳とするような狂信的ナショナリズムの形成に密接にかかわっていた歴史的事実が浮かび上がるのです。
 ……福澤が『偉人』と見なされている限り、日本は過去を反省せず、清算もできない国だと隣国から見なされ続けるでしょう。」



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皇室論-伊勢神宮式年遷宮に寄せて

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  • 作者:高森明勅
  • 発売日: 2013/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)